2011年12月31日

黒白写真のハイブリッド処理研究は年を越してから


段差堰 桂川(京都市右京区嵯峨天龍寺造路町)Harman Titan 4x5 Pinhole + Ilford Delta 100

JOBO Rotary Tank #2521 and #2529n
10日ほど前に届いたイルフォードのピンホール写真キットのテスト撮影をしてみた。ハーマンテクノロジー社のカメラは前回紹介したように、焦点距離:72mm(2.8in) 針孔口径:0.35mm(0.0138in) F値:206 画角:97°である。長時間露光であることが分かるように、嵐山の桂川を撮影した。天候は薄曇りで、オレンジフィルターを付けていたので2絞り分暗く、露光は約30秒だった。JOBOの回転式タンクを使い、現像液は1:1に希釈したD-76で、液温20℃、時間は15分だった。ネガをエプソンのF-3200でスキャン、ややセピア色がかった、ちょっと面白い画像だったのでそのままセーブ。続いてカラー情報を破棄してセーブした。彩度をゼロにしてカラー情報を残したほうがいいのか、これは今後の課題である。旧ブログでも何回か触れた記憶があるが、カラー情報を破棄した写真を一般にモノクロームと呼んでいる。確かに単色だから、そうに違いないが、銀塩のそれはちょっと違うと感じてきた。つまり真の黒白写真の黒は銀粒子のそれであって、染料の色素ではない。だから元がフィルムであれデジタルカメラのそれであれ、銀粒子なしの写真は黒白写真と呼びたくなかったのである。フィルムで撮ったものは、銀塩ペーパーに焼く、それが当然と考えてきた。しかしアナログ→デジタル変換、つまりハイブリッド処理によるエンハンスもあっていいのでは、と最近感ずるようになった。フィルム現像はともかく、プリント暗室を持ってないという事情もあるが、ひとつの方法論として来年は進めようと思う。さて大晦日、今度こそこれが今年最後の投稿です。それでは良いお年を。

2011年12月29日

まるで時計の振り子のようだが


玩具 モニカ(京都市上京区御前通今出川下る) Sony NEX-5 + Zoneplate

年内のブログ更新はお終いにするつもりで前回「良いお年を」と書いたけど、まだ積み残しがあるようだ。昨日、年の瀬の風景を撮ろうと北野天満宮に出かけたが、余りにも風が冷たく、早々に切り上げて、御前通を今出川通から南に下がったところにあるケーキ&喫茶店「モニカ」に飛び込んだ。コーヒーを啜りながら水上勉の「一休を歩く」を紐解いた。一休宗純のゆかりの地を訪ねた紀行文学である。ものすごく良い本だけど、集英社文庫版は絶版である。しかし何とアマゾンのマーケットプレイスでは1円の値がついている。なぜ1円なのか、それを書こうとすると大幅に脱線しそうなので、その不思議はいずれ触れることにする。会計を済ませて店を出ようとしたら、玩具のクラシックカーが眼に飛び込んできた。上掲の写真がそれである。そして外に出て振り返り、また一枚、素敵なネオンを。いずれもゾーンプレート写真である。


黄昏 モニカ(京都市上京区御前通今出川下る) Sony NEX-5 + Zoneplate

半年前まではゾーンプレート写真をニコンのデジタル一眼レフD80で撮っていたが、8月からソニーのミラーレス一眼NEX-5に切り替えた。これに関してはその一ヶ月強前に「フランジバックが短いミラーレス一眼カメラへの憧憬」という一文を投稿した。導入して気づいたのだが、ゾーンプレートを付けるとD80では自動露出ができなかったのに、NEX-5では可能。感度の変更も自動で、しかも背面液晶モニターでライブビューができる。まさにイージーショットの極みである。というわけで、このカメラで五ヶ月間撮り続けてきたわけだが、4月下旬に導入した富士フイルムのX-100も手放すことはなかった。ご存知、ゾーンプレート写真はソフトフォーカスで、やや非現実的な画像を得ることができる。従ってX-100で捉えたストレーと写真とは矛盾する作品作りをしてきたことになる。まるで時計の振り子のようだが、双子座生まれゆえの所業かもしれない。

2011年12月28日

花と散り玉と見えつつあざむけば雪降る里ぞ夢に見えける


辰の絵馬 北野天満宮(京都市上京区馬喰町) Fujifilm Finepix X100

年の瀬、北野天満宮では大鳥居や楼門などの注連縄(しめなわ)が取り替えられた。楼門に掲げられた辰の大絵馬は日展評議員の三輪晃久氏の筆になるもので、元日から授与される絵馬と同じ図柄だという。看板に「花と散り玉と見えつつあざむけば雪降る里ぞ夢に見えける」という菅原道真の歌が見える。梅の名所。境内あちこちの枝に、蕾が傷むのでお神籤(みくじ)を結ばないようにという、初詣客への注意書きの短冊が下がっている。大晦日から元日もかけてこの天満宮と平野神社を参詣するのが習慣になってしまったが、今年も出かけることになると思う。夕方、火之御子社鑽火祭(ひのみこしゃきりびさい)で新しい火がきりだされ、中庭のかがり火に移される。八坂神社の「おけら詣り」が有名だが、天満宮も古来からの習わしに従っているという。2日からは「天満書」つまり神前の書初めが行われる。それではみなさま良いお年を。

2011年12月25日

腹立ちまぎれに現代を生きているのだ


山之口貘さんの詩を読みたくなって、講談社から出ている文庫版の詩文集を購入した。私は写真のような古ぼけたハードカバー版を所有しているが、持ち歩くにはやはり文庫版がよい。上掲の詩集は昭和33(1958)年、昭和39(1964)年に原書房から初版が出たものだが、いずれも昨年の暮れに復刻版が出た。貘さん(面識はなかったけ「さん」付けしたくなる)沖縄県立図書館では「山之口貘文庫」が開設されるなど、再評価されて人気が高まってるという。『鮪に鰯』の巻末には娘さんの泉さんが「後記にかえて」という一文を寄せている。「パパ、あなたの詩集です。子供のように眼を輝かせ毎日きょうを見つめていたあなたの新しい詩集です」云々。獏さんの詩集を手にしていたら、今度は高田渡さん(面識があったので「さん」付けしたくなる)の歌を聴きたくなった。渡さんの『生活の柄』『鮪に鰯』は獏さんの詩である。後者は「鮪は原爆を憎み 水爆にはまた脅かされて 腹立ちまぎれに 現代を生きているのだ」という下りで分かるように、ビキニ島の核実験を題材にした作品である。

2011年12月21日

帰ってきた木製暗箱デアドルフ


シカゴ時代の広告
ちょっと調べたいことがあり「Deardorff & Sons」をキーワード検索したら、上掲のようなページが目に飛び込んできた。なんとそこには大判木製暗箱デアドルフが、20年ぶりに帰ってきたという意味のことが書いてある。最初は中古販売サイトかと思ったが、どうやら限定注文生産を始めたようだ。4x5と8x10、それぞれ15台ずつ製造したようで、画面下部に前者は3台残っているが、後者は売り切れとある。デアドルフについては Deardorff Historical Web Site に詳しいので、興味ある方はアクセスすることをお勧めする。簡単に一瞥すると、1923年にカメラの修理工であったラバーン・F・デアドルフがシカゴで木製暗箱の製造販売を始め、やがてそれはアメリカを代表する名機となる。しかし時代の波に逆らえず、1988年に製造中止になってしまった。その後日本の銀一と駒村商会の支援受けて1992年テネシー州で再開した。大きな変更点はニッケルメッキした真鍮の代わりにステンレス鋼を使用したことだったが、やはり売れなかったようで、1996年に幕を閉じた。実は私の記憶もここで終わっている。だからこのサイトに出会い、ただただ驚いている次第である。シカゴ製の8x10を持っているので新たに食指を動かすことはないが、このデジタル時代に大判フィルムカメラ、その行方がどうなるか興味津々である。

2011年12月20日

イルフォードのピンホール写真キットが届いた


Harman Titan 4x5 and Zero 4x5 Pinhole Camera

©ILFORD PHOTO
米国のネット通販B&H社に発注したイルフォードのピンホール写真キットが届いた。ニューヨークからわずか5日、早いものである。かかった費用はB&Hには送料込みで262.41ドル、そして個人輸入の関税と消費税をあわせて500円だった。合計およそ2万円強ということになるが、ピンホールカメラとしてはちょっと高価という感じがする。ただし4x5のフィルム、ポジ印画紙、多階調印画紙、それぞれ10枚ずつ付属している。今のところカメラだけ売ってくれない。というよりイルフォードは感材メーカー、フィルムと印画紙を売るためにピンホール写真キットを発案したのかもしれない。写真右は傷だらけになってしまったゼロイメージ社の4x5ピンホールカメラだが、厚さ25ミリの木枠を重箱のように重ねる仕組みになっている。3個で焦点距離75ミリ、ハーマン・チタンは72ミリだから、だいたい同じ厚さになる。ただしピラミッド型の蛇腹もどきで、筐体は小さく軽い。とりあえずIlford Delta 100を使ってテスト撮影するつもりだ。ピンホールカメラは長時間露光になるので相反則不軌特性を知る必要がある。初めて使うフィルムなのでデーターシートがあればダウンロードしようと思っている。

Harman Titan 4x5 Pinhole 焦点距離:72mm(2.8in) 針孔口径:0.35mm(0.0138in) F値:206 画角:97°

見仏者たちは野の仏を見逃してはいないだろうか


童形地蔵 誓願寺(京都市中京区新京極通三条下る)Sony NEX-5 + Zoneplate

長岡和慶「石仏を彫る」
和泉式部と一遍上人が主な役となって縁起と霊験を物語る、世阿弥作の謡曲で知られる誓願寺は、京都の繁華街、三条通りから新京極を南に下がったところにある。山門には新選組隊士と舞妓の図柄をデザインした、記念撮影用の顔出しパネルが置いてある。石段を登り、本堂に入ると、丈六の本尊の阿弥陀如来座像を拝することができる。丈六といのは釈迦如来の身長が1丈6尺(約4.85メートル)あったというところから、このサイズの像を表す言葉である。かなり大きいので、至近から見る感じがする。狭い境内の片隅に童形の地蔵が安置されている。かなり新しいものと一目で分かる。それもそのはずで、作者は愛知県岡崎市に工房を持つ長岡和慶師。滋賀県三井寺、京都三千院から大仏師の称号を受けている現役の石仏彫刻家である。これまで何回か石仏について触れたが、石仏は野の仏、風雪にさらされる彫刻である。多くは無名の石工によって彫られてきたものだが、大仏師の称号を受けた作家が現存することは実に頼もしい。寺院の堂内に安置された仏像は、信仰の対象であると共に、文化財という側面も持っている。だから古いものほど、そして国宝などの文化財指定を受けたものほど注目されるようだ。ここ数年の仏像ブームの追従者にそれを伺うことができる。京の街角にはたくさんの地蔵の祠があり、人々は仏花を絶やさない。しかし果たして「見仏者」たちはいかがなものだろうか、野の石仏を見逃してはいないだろうか。新しいものだったら尚更ではないだろうかと思うのだが。

2011年12月19日

やっぱり年賀状はやめられない


迎春絵馬 松尾大社(京都市西京区嵐山宮町) Fujifilm Finepix X100

昨年の確か今頃だったと思う、ある方から「年賀状を出しません」という意味のハガキが着いた。意地悪く解釈すれば交換したくない人だけに出したのではと勘ぐれないわけではない。しかし真っ正直な性格を知ってる私は、余程困ってのことだろうと想像したものである。ある大きな団体の役員さんで、会ったこともない会員から年賀状がたくさん届き辟易としているのだろうか。私なら黙ったまま出さないかもしれない。そうすれば自然と減るのにと想像するからだ。いっそ、そうするなら同じ趣旨のことを年賀状に書けば良いのに、とも思った。しかし受け取る前に出す、やはり正直な人なのである。ところで今年は例年になく早くから印刷し、私製ハガキなので年賀切手も購入した。印刷だけでは味気ないので、宛名だけは万年筆で書くことにしている。今年もあと十日余りでお終い。そろそろ書かねばと思うのだが、正直言ってちょぴり億劫である。電子メールだけで済めば本当はいいのだが、という横着が脳裡をかすめる。しかし、元日。ポストから年賀状の束を取り出し、ああみんな元気だな、と一年一回の音信に安堵する。あの瞬間を思うと、やっぱり年賀状はやめられない。

2011年12月18日

次のステップの生命を担う落ち葉


落ち葉 京都府立植物園(京都市左京区下鴨半木町)Fujifilm Finepix X100

今年の京都の紅葉は綺麗ではなかったという意味のことを数回にわたって書いた。人それぞれ主観があるし、すべての名刹を訪ねたわけではないから、ちょっぴり反省している。ただ地球温暖化によって、植物に微妙な変化が起きている、そんなことが脳裡に走っているのかもしれない。ところで紅葉した葉はやがて落ちる。なぜ落葉するのだろうか。落葉樹が秋になり、気温が下がってきても緑の葉をつけたままだと、光合成能力が落ちて植物体を維持できなくなってしまうという。だから葉を落として休眠するというのだ。そして散った葉は昆虫や微生物の糧となる。彼等によって分解された落ち葉は腐葉土となり再び栄養として森の木々に吸収される。見事な自然の仕組みではある。枯れて落ちたは葉は一見悲しいけど、次のステップの生命を担っていると思うと、何故かほっとする。

2011年12月17日

新登場 Facebook タイムラインをデザインする


ソーシャルメディアFacebookが新しいプロフィールページ「タイムライン」を一昨日の15日に一般公開した。タイムラインは、9月に米国で開催されたFacebookの開発者向けカンファレンスで発表された新プロフィールページ。旧来のプロフィールページに比べてビジュアルを多用。近況やアップロードした写真、チェックインしたスポット、ライフイベントなどをひとつのページに集約。さまざまな情報をユーザーの好みに合わせて編集し、時系列で表示できる。そこで私もとりあえずプロフィール用の背景画像を用意、アップロードしてみた。この背景画像は850x315ピクセルで表示されるが、実際には必ずしもこの大きさで作る必要はない。横幅は規定値にリサイズされるし、縦方向の位置はアップロード後にオンライン設定できる。急いで作った拙作を公開するが(無論Facebook上では公開済み)もう少し工夫したデザインに塗り替えたいと思っている。

2011年12月16日

イルフォードのピンホール写真キットを発注


一ヶ月前、当ブログで英国のハーマンテクノロジー社が10月24日に「イルフォード・ピンホール写真キット」を発売したと紹介した。日本ではハーマンテクノロジー社の国内正規輸入元であるサイバーグラフィックス社が来年第一四半期に発売できるよう準備を進めているようだとも。日本の企業の会計年度は4月から始まるので、第一四半期にというと随分先になる。写真共有サイトのFlickにはすでにグループ「Harman Titan 4x5 Pinhole Camera」も立ち上がってるし、久しぶりに「物欲」が湧いてきた。そこでアマゾンなどの通販サイトを当たってみたが、国内ではまだ入手ができないようだ。もしかしたら輸入元となるサイバーグラフィックス社がキット内容の構成を検討しているのかもしれない。米国の通販サイトB&Hを覗いたところ、$219.95で売りだされていた。送料込みで$262.41だが、換算すると約2万円となる。正規輸入された場合の価格は無論不明だが、日本語の解説書その他が付くだろうから、これより高くなる可能性もある。3種類のフィルムと印画紙がセットになっているので、というよりイルフォードは感材を売りたいためにキットにしたのだろうから、ピンホールカメラとしては高価な感じがする。カメラ本体だけ売ってくれるとありがたいのだが。ちょっと躊躇ったが、発注した。1週間くらいで着くと思われるので、テストしたらまた報告したい。

2011年12月10日

次はMacに決めた

マックとウィンドウズ 2011「共存・共有・共栄」 (MYCOMムック 別冊Mac Fan VOL. 7) 毎日コミュニケーションズ

Apple PowerBook 2400c/240
3台のパソコンを所有している。据え置き型はWindowsXP、そして2台のノート型はWindows7で動いている。パソコンはハードディスクのクラッシュなどで、ある時期が来れば必ず壊れる。もしメインに使ってるXPマシンの寿命が尽きたら、Windows7を導入する気分になれない。Macに乗り換えようと思っている。これまでWindowsマシンを使ってきた理由にテキストエディタの問題があった。詳細は省くが、使用しているMIFESはホームページのHTML記述に優れてると思う。特に複数の文字列の連続置換機能はウェブの手直しに便利だ。しかしその必要性が薄らいできた。そこで気になり始めたのがマシンである。かつて私はMacユーザーであった。コメットで知られるPowerBook2400cを使っていた頃だから、90年代末のことである。日本IBMとの共同開発で、日本人向けに作られたものだが、米アップル社がデザインしたにも関わらず、後にCEOに返り咲いたスティーブ・ジョブス氏はこれを嫌っていたフシがある。事実、以降Mac互換機が他社から出ることはなかった。多くのメーカーが参入したほうが優れたマシンができると思っていた私は、いわばその閉鎖性に疑問を持ったものだ。ところがiPod以降の製品を見てジョブス氏の思想が垣間見えたような気がする。頑ななデザイン思想を貫くには、他社に任されない、自分たちだけで作る。そういう姿勢がアップルをしてソニーを凌駕したパワーになったのだろう。稀有な例だが、認めないわけにはゆかない。はっきり言ってWindowsマシンはどれを見てもダサい。これに尽きる。次はMacに決めたが、正確に記述すれば乗り換えではなく、回帰、あるいは復縁である。

2011年12月8日

寒さ抱き枝にすがる冬モミジ

モミジ 京都府立植物園(京都市左京区下鴨半木町)Fujifilm Finepix X100

小雨の中、京都府立植物園に出かけた。北門から入り、西に歩くと、高木メタセコイアが視界に飛び込んできたが、意外にもまだ枝にたくさん葉が残っている。目的の半木(なからぎ)の森に辿り着いてカエデを観察すると、かなり落葉しているものの、十分モミジを楽しめる状態になっている。ダウンジャケット着こんできたが、雨も降っているし、空気は冷たい。すっかり冬の気配なのに、晩秋の風情なのだ。園内の人影はごく少なく、体を温めるために入ったレストハウスを独り占めすることになった。改築されたばかりのカフェでコーヒーをすすった後、今度は植物生態園を散策することにした。日本各地の山野に自生する植物や、古来より栽培されてきた園芸植物などを自然に近い状態で植栽しているゾーンだ。半木の森の池から流れ出たせせらぎを覆うように、ここでもカエデの葉が枝に残っている。今年は11月に入っても暖かく、木々の葉が染まり始めるが遅かったが、その名残だろうか。それにしても師走に入って一週間が過ぎた。秋の名残の冬モミジが粘っている。

2011年12月3日

生まれては死ぬるなり釈迦も達磨も猫も杓子も

酬恩庵一休寺(京田辺市薪里ノ内)

紙本淡彩一休和尚像(東京国立博物館蔵)
京都市営地下鉄から近鉄電車に乗り継ぎ、新田辺駅で降りた。一瞬歩こうかと思ったが、今年の一月に骨折した足首が未だに痛むので、酬恩庵、通称一休寺までタクシーに乗った。これまで何度か参詣しているが、いずれもサツキが咲くころで、初夏だったと記憶している。新緑の見事さから紅葉を想像、秋に一度訪ねようと考えていた。今年は京都の紅葉が惨憺たる有様なので、市外に出れば違うかもという思惑もあった。期待通りの色づきとは言い難いが、部分的に美しい木があったという表現に留めておこう。酬恩庵は一休宗純が晩年を過ごした寺で、盲目の女性、森女(しんじょ)とのことを旧ブログに「盲森夜々伴吟身被底鴛鴦私語新」と題して二年半前に書いた。一休の『狂雲集』にある漢詩で「盲目の森伴者は毎夜詩を吟ずる私に寄り添い、夜具の中でオシドリのごとく、睦まじく囁き合う」という意味である。その時もも触れたことだが、日本人に刷りこまれた「一休さん」のイメージは、江戸時代の『一休咄』などに遡るそうだが、決定的になったのはテレビ朝日系で放映されたアニメだと思う。しかし重文「紙本淡彩一休和尚像」を見ると、そのイメージはガラガラと崩れ落ちるに違いない。つるつる頭の「トンチの一休さん」は虚像であり、無精髭、ボサボサ頭の宗純が実像なのだ。森女は旅芸人だった。身分の低い女性であったが、10年にわたり死ぬまで愛し続けた。臨終の際に「死にとうない」と残したと余りにも有名な言い伝えがあるが「朦々淡々として六十年、末期の糞をさらして梵天に捧ぐ。借用申す昨日昨日、返済申す今日今日。借りおきし五つのものを四つ返し、本来空に、いまぞもとづく」が辞世の言葉だった。地水火風空の五大のうち、地水火風はお返しするが、残りの空だけは本来のところに帰るまでのこと、という意味であろう。いかにも一休である。

2011年12月1日

羽子板の重きが嬉し突かで立つ

羽子板 田中彌(京都市下京区四条通柳馬場東入る)Fujifilm Finepix X100

天神さんで見つけた羽子板(北野天満宮) Fujifilm Finepix X100
なぜか今年は時の流れが早いような気がする。遅々として復興が進まない東北、不安的なままの福島原子力発電所の原子炉。進まない故に、待つが故に時間の労費を感ずるのかもしれない。師走。四条通の人形店を覗いたら羽子板が飾ってあった。羽子板は羽突きの道具、だから当初は簡単な絵が描いてあるだけの素朴なものだったが、やがて内裏羽子板が現れた。その後押絵が流行り、江戸後期から当たり狂言を取った役者の羽子板が喜ばれるようになったという。標題は角川書店編『俳句歳時記』に収録されてる長谷川かな女の句だが、中村吉衛門の句にこんな句がある。
        看板の大羽子板の歌右衛門
押絵羽子板は、明治初期から刺繍縫い取りなど凝ったものが登場し、大正末期に羽子板に使用する金襴、友禅等が織り染められ、上絵の技法が出るに及んで、一段と豪華さを加えるようになったという。無論これは遊戯用ではなく、床飾りあるいは女の子への贈り物である。写真の羽子板は押絵ではないが、手描き本金箔の豪華なもので、やはり鑑賞用である。題材は平安貴族の左義長祭の様子である。ところで先月25日、北野天満宮の縁日「天神さん」で素朴な、決して豪華ではないが懐かしい羽子板を見つけた。見入っていたら、子ども時代の正月風景が突然フラッシュバックした。

2011年11月28日

真宗大谷派信徒1173人の親鸞聖人像

安城の御影(西本願寺蔵)
報恩講のポスター(部分) 東本願寺(京都市下京区烏丸通七条上る)

東本願寺に寄ったところ風変わりなポスターを見つけた。遠目には確かに親鸞の肖像画なのだが、近寄ってみ見ると、小さな顔写真の集合画像だった。宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌「御正当法報恩講」の案内ポスターで、催事そのものは今日11月28日でお仕舞いのものだった。「このポスターは親鸞聖人安城御影をモチーフにし、御遠忌法要に参拝された方々の顔写真(1,173人)で作成しています」という説明がついている。この手の手法の画像をよく見かけるが、合成作業もさることながら、参拝した真宗信徒1000人以上も撮り集めるのもタイヘンだったと想像する。帰宅してから東本願寺のホームページでポスターの画像を探したが、見つからなかったので、手持ちのカメラで撮影したものを紹介することにした。安城の御影というのは、親鸞聖人83歳(1255年)の肖像と伝えられるもので、三河国、安城3年に伝来したのでこの名があるという。法眼朝円筆、原本は西本願寺が所蔵している。

2011年11月26日

やがて紅葉がなくなる日が来るかもしれない

2011年11月25日 平野屋(京都市右京区嵯峨鳥居本)Fujifilm Finepix X100

2010年11月18日 平野屋(京都市右京区嵯峨鳥居本)Nikon D700
奥嵯峨の鳥居本には何度か行ったことがあるが、これまでは京都バスで愛宕(おたぎ)念仏寺前で降り、嵐山のほうへ徒歩で戻って来るのが常だった。ところが昨日は逆で、京福電鉄(嵐電)嵐山で電車を降りて歩き始めた。ウィークデイにも関わらず、野々宮神社辺りは大勢の人々が狭い道に溢れていた。それでも常寂光寺を過ぎると人影がややまばらになったが、今日土曜と明日の日曜には物凄い人になるに違いない。紅葉狩りに落柿舎や祇王寺に入るつもりだったが、思いとどまった。道中の様相から「今年の紅葉は駄目だ」と観念したからだ。京都市内は今月に入っても暖かい気候が続き、紅葉の色づきが遅い。昨年は見事な紅葉を見せてくれた嵯峨鳥居本の鮎茶屋「平野屋」界隈の樹木は、案の定お世辞にも綺麗と言える状態ではなかった。温暖化によって紅葉のピークが年々遅れてるそうだが、私が見たところでは「汚い」という印象である。無論、印象は主観に過ぎないし、第一、市内のほんの一部しか訪ねていないので、絶対的なものではない。紅葉の見ごろは洛東、洛中、洛南と移って行くのだが、私の羅針盤が狂うことは大いに考えられる。しかしそれが狂わず、こもまま市内全域に渡って悲惨な結果に終わる可能性もないわけではない。ひとつ危惧していることがある。それはやがて紅葉が見られなくなってしまわないかということである。紅葉が遅れているのはやはり夜間に厳しい冷え込みがないからだが、地球温暖化が進めば紅葉する前に樹木が葉を落とすことになりかねないからだ。

2011年11月24日

第15回写真家達によるチャリティー写真展


期間:2011年12月16日(金)~18日(日)
時間:10:00~19:00(入館は18:50まで/最終日は16:00まで)
場所富士フイルムフォトサロン東京(東京ミッドタウン)
          東京都港区赤坂9-7-3 電話:03(6271)3350
企画フォトボランティアジャパン基金

フォトボランティアジャパン基金主催の「写真家達によるチャリティー写真展」はおかげさまで多くの方々のご協力、ご支援により15回目を迎えることができました。過去14年間開催してきたチャリティー写真展の収益金は、アジアの恵まれない子ども達の教育等に僅かながらでも、お役に立てたと思っています。225名のプロ写真家の作品を一堂に展示即売する、今年のチャリティー写真展の収益金は、東日本大震災で被災した子ども達のために寄贈します。

2011年11月22日

琵琶湖坂本慈眼堂の石造阿弥陀如来像

阿弥陀如来座像 慈眼堂(大津市坂本)Fujifilm Finepix X100

本家鶴喜蕎麦(大津市坂本)Fujifilm Finepix X100
所用があって琵琶湖の浜大津に出かけたが、ついでに比叡山延暦寺の門前町、坂本まで足を伸ばした。最大の目的は実は「本家鶴喜蕎麦」のそばを無性に食べたくなったからである。店の前に大勢の客が行列を作って待っている。久しぶりの再訪だったが、この店もずいぶん有名になったものだと感心する。食べるために行列というのは苦手だが、折角だし、待つことにした。有形文化財指定の建物などにレンズを向けたりしているうちに順番が回ってきた。新そばの大ざるを馳走になり店を辞した。南に下り、西に曲がって坂道を登ると延暦寺の本坊滋賀院門跡に出た。境内を抜け、再び西に向かって石段を登ると、色づき始めた楓の向こうに慈眼堂(じげんどう)の瓦屋根が見えてきた。織田信長の山門(延暦寺)焼き打ちの後、その復興に尽力した天海僧正(慈眼大師)の廟所である。堂の西側にある墓所に進み、さらに石垣の上段に出ると念願の石仏に対面することができた。駒札に「桃山時代に、近江国観音寺城主六角承禎が母の菩提のために、母の郷里近江鵜川の地に弥陀の本願に基き弥陀の石仏四十八体を奉安し、そのうち十三体を江戸の初期に天海大僧が当地に移したものである」とある。要するに十三体すべてが花崗岩製一石造りの阿弥陀如来像である。像高はおおむね1.5メートル、大きな丸彫りで、それぞれの表情が異なるのが印象的だ。これまで京都の石仏を巡ってきたが、来年は近江の石仏、あるいは大和路のいずれかを巡礼したいと思っている。どちらを先ににするか悩ましい。

2011年11月21日

ピンホール写真芸術学会(PPAS)関西支部展2011


会期:2011年11月22日(火)~27日(日)
           12:00~19:00 (最終日は17:00まで)
会場Gallery i
           京都市東山区祇園町南側「陶器いわさき」2階
電話:075-525-3203
出展;青木隆幸 オカダミツヨ 黒川武彦 F.ゴーツ 後藤健 佐藤司 篠原幹尚 庄治政 杉浦義紹 杉本康雄 関本恵子 瀬野里美 榮爾(EIJI) 徳永隆之 東谷一矢 兵庫一嘉 星野倫 前田英子 YOKOMAKI 萬久美子 

2011年11月19日

イルフォードのピンホール写真キット


HARMAN TiTAN Pinhole Camera
英国のハーマンテクノロジー社が先月24日に「イルフォード・ピンホール写真キット」を発売した。キットの内容は、ハーマン・チタン・ピンホールカメラ本体にハーマン・ダイレクト・ポジ印画紙、イルフォード・デルタ100プロフェッショナルフィルム、イルフォード多諧調RC印画紙(いずれもサイズは4x5インチ10枚セット)がついている。そしてイルフォード露光計算尺が付属。注目のボディだが、射出成形ABS樹脂製で、滑りどめのコーティングされているという。4x5インチフィルムホルダーが装填でき、キットモデルでは焦点距離72mmの広角コーンがついている。交換可能で110と150mmも計画されているという。写真では蛇腹式に見えるが、樹脂成型なので残念ながら折り畳めないことがビデオで分かる。日本ではハーマンテクノロジー社国内正規輸入元であるサイバーグラフィックス社が来年第一四半期に発売できるよう準備を進めているようだ。フィルムを売るためにはカメラを、という伏線があるのだろう。ピンホールカメラ商品化では香港のZERO社の成功例があるが、何故今ごろという違和感を抱く人がいるかもしれないが、私は大いに期待を寄せている。余談ながら、英国では銀塩フィルムで撮影、自家処理をするアマチュア写真家が多い、という背景があることを付け加えておきたい。

2011年11月8日

疾風の70年代を共有した伊藤君とQ-BLICKの思い出

Untitled by Keiichi Itō 1972

故・伊藤敬一君:1974年9月 Q-BLICK(新宿区早稲田鶴巻町)
やや旧聞気味だが、今月1日、東中野で催された「伊藤敬一さんを送る会」に出かけた。すぐにブログに書こうかと思ったが、何故か気が重く、手がつかなかった。かつて親しく遊んだ友を語るのはちょっと辛いからだ。でも書くことにしよう。伊藤君と会ったのは確か1973年の初頭だった。早稲田大学在学中だったが、英国に遊学、帰国したばかりだという。ダッフルコートを着た颯爽たる姿は、まさしく英国帰りそのものだった。ロンドンの「フォトグラファーズ・ギャラリー」で個展を開いたという。しばらく会わなかったが、その年の暮れ、彼が新宿区早稲田鶴巻町に「ギャラリーQ-BLICK」をオープンさせたことを知った。ビルの2階のフロア全体を占拠したかたちのギャラリーはゆったりとした、贅沢な空間だった。英国での個展、そしてギャラリー開設、そこに何らかの野望を感じないわけではないが、今思えばそれは自然の成り行きだったのだろう。野心という言葉を打ち消す、極めておおらかな性格を彼は持っていたからだ。翌1974年夏、私はQ-BLICKで個展「写真ですよ」を開いた。写真を生業にしてから初めての個展だったが、その後開催した写真展はいずれもこれを超えてないような気がする。内容に関しては、機会を改めて書きたいと思う。その年の秋、2回目の個展ではフォークシンガーの友部正人君のコンサートを計画した。単なるギャラリーではなく、多目的自由空間と化していたといって良いだろう。翌年の1975年にかけて都合3回の個展を開いたのだが、自分の作品を発表する場というより、音楽友だちとの交流の場という色合いが増していったように思う。豊田勇造君のコンサートを開いたが、もしかしたら最初に伊藤君を彼に紹介したのはこの時だったかもしれない。Q-BLICKがいつ閉じられたかは記憶にない。1977年東京・晴海で開催された「ローリング・ココナッツ・レビュー・コンサート」の写真記録のため「フィッシュアイ'77」というグループを結成したが、伊藤君に手伝って貰ったことを憶えている。送る会では豊田君が「いとうくん」という歌を歌った。二人の付き合いはずっと続いたようだが、私とは疾風の70年代を共有しただけだった。でも忘れられない日々、楽しかったよ伊藤君、ありがとう。

2011年10月28日

銀塩ピンホール写真への回帰

石仏撮影 清涼寺(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)Fujifilm Finepix X100

FBピンホール写真グループ
このところずっとデジタルカメラによるゾーンプレート写真を手がけてきた。ピンホールを含め、レンズレスカメラに関してはもうフィルムに戻らないだろうと思っていたが、最近再び香港製の木製針孔暗箱ZERO45を持ち出すようになった。そのひとつはソーシャルネットワークキングサービスのFacebookにピンホール写真のグループを創設したからだ。英文のグループはあるものの、日本語グループを探したががない。ないなら自分で作ってしまえとと思ったわけだが、やはり管理人になった以上ピンホール写真も撮らねばと感じたからだ。もうひとつの理由として、英国のイルフォードフォトが4x5のピンホール写真キットを発売するというニュースに接し、新たな刺激を受けたこともある。ああやはり銀塩アナログ写真を捨てては駄目だと自戒したわけである。ZERO45による撮影は、元々は京都の寺院巡りに遡るが、途中気付いた石仏撮影が中途半端なままになっている。今年のJPS展に5枚組の石仏作品を出展したが、できれば撮り足していつか個展にこぎつけたいと思うに至った次第である。とはいえデジタルゾーンプレート写真をやめたわけではない。別の魅力があるからだ。

2011年10月26日

時代祭のゾーンプレート写真

巴御前 京都御所(京都市上京区京都御苑)Sony NEX-5 + Zoneplate

実は先日の時代祭での最大目的はゾーンプレートカメラで撮ることだった。狙いは平安時代の女性の装束で、顔を外して衣裳そのものをターゲットにした。ただ人物が分かるコマもある。その一枚がこの巴御前の写真で、前回アップした普通の写真と同じシチュエーションである。使用したプレートは焦点距離25mmで絞りはおよそF47である。ピンホールよりはるかに明るいし、デジタルカメラなので感度を上げることができる。だから手持ち撮影が可能だ。絞り優先オート、しかもライブビュー撮影できるので、キャンディッド写真がものにできる。どうだろう、平安女性の雅が表現できてるだろうか。

2011年10月23日

時代祭:たかが仮装行列とあなどるなかれ

巴御前 京都御所(京都市上京区京都御苑)Fujifilm Finepix X100

日本製二眼レフを構えるフランス人女性
雨で順延となった時代祭が今日開催された。初めてこの祭を見た時は、若かったせいもあるだろうけど、だらだら続く仮装行列だと落胆したものだ。しかしその後、次第に意識が変化、時代装束に興味を持つようになった。特に平安時代の女性、十二単衣に代表される色重ねに強く惹かれるようになったのは、やはり歳を重ねたせいだろうか。だから勢い、この祭では「平安時代婦人列」に注目してしまう。この列および江戸時代婦人列、中世婦人列は、京都の五花街の芸妓舞妓が輪番で奉仕出演するが、この点も興味深い。今年の平安時代婦人列は祇園甲部の番だった。行列は京都御所から平安神宮までのコースだが、早くから大勢の出演者が御所に集まる。そしてその光景を写真に納めるため、大勢の写真愛好家や観光客が集まる。正午過ぎに祇園から装束をつけた芸妓さんたちが到着したが、巴御前役の芸妓さんに訊いたところ、化粧は女紅場でしたという。平安時代の役どころとしては、清少納言、紫式部、小野小町などが並ぶが、やはり鎧で身を固めた武者姿の巴御前が目立つ。凛々しくも艶めかしく、時代祭のヒロインと言っても差し障りはないだろう。巴御前といえば、来年のNHK大河ドラマは『平家物語』だそうだ。史実との矛盾をどのように表現するのだろうか、ちょっと楽しみで、久しぶりにチャンネルを合わせてみようと思っている。いずれにしても、歴史を視覚的に具現化した時代祭の装束見物は楽しい。まさにあなどるなかれである。

2011年10月19日

寺紋に潜む貴族と仏教寺院の関係

御影堂向拝幕 東本願寺(京都市下京区烏丸通七条上る)Fujifilm Finepix X100

立ち牡丹
京都駅前のヨドバシカメラでフィルムを購入した帰り道、爽やかな秋晴れに誘われ、東本願寺(浄土真宗大谷派)に足を伸ばしてみた。同寺大谷婦人会の「親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」が行われていて、御影堂は大勢の女性信徒で一杯だった。向拝、すなわち御影堂正面から張り出した庇(ひさし)の下に、大きな幕が掛かっている。蓮如上人五百回御遠忌の際に寄進されたものらしい。青紫の布地に大きな寺紋が染め抜かれている。通り掛かった寺務所の人に訊くと、真ん中の花は牡丹で、近衛家の家紋に由来するという。播磨屋.comの「名字と家紋」によると、牡丹紋は菊紋、葵紋につぐ権威ある紋章なんだそうである。そして仏教寺院に関しては「藤原氏の氏寺である興福寺、摂関家の子弟が入る大乗寺、近衛家の子女が相ついで嫁した東本願寺などが、牡丹紋を用いている」と解説している。築地本願寺(本願寺築地別院)輪番の職にあった豊原大成氏のブログ記事「輪番独語」には、東本願寺の寺紋が牡丹であることに対し、第20世達如上人(1780~1865)が近衛経熈の娘熈子姫を妃として迎え、近衛家の「抱き牡丹」がもたらされたであろうとの説があるが、もっと早くから用いられていたのではと推測している。しかし米原仏具店の「家紋帳」を見ると、東本願寺の寺紋が「立ち牡丹」であることが分かる。これで間違いないなら、豊原大成氏は「抱き牡丹」を寺紋としているが、どうやらそうではないということになる。しかしいずれにしても、日本の古代から近世までの貴族と寺院の関係が、寺紋に潜んでるいることが興味深い。

2011年10月15日

人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか知らねども

人形たち  宝鏡寺(京都市上京区寺之内通堀川東入る)  Fujifilm Finepix X100

昨日、人形供養祭があったので宝鏡寺に出かけた。同寺のホームページには「中世京洛に栄えていました尼五山第一位の景愛寺の法灯を今に受け継ぐ宝鏡寺です」とある。尼五山とは室町時代に五山の制に倣って尼寺に導入された臨済宗の寺格で、景愛寺、檀林寺、護念寺、恵林寺、通玄寺のことだそうだ。京都市上京区西五辻東町にあった景愛寺は建治3(1277)年に開山、二百年後の明応7(1498)年に焼失したが再建されなかった。宝鏡寺はその景愛寺の第六世で、厳天皇の皇女華林宮惠厳禅尼が応安(1368~1375)年間に開山したと伝えられている。門跡寺院ゆえ皇女たちが尼僧となって寺に入り、御所から人形が贈られたが、宝鏡寺はその多くを保存しているようだ。戦後その人形を一般公開することになり、併せて秋に人形供養祭が営まれるようになったという。供養祭は御所人形の彫像を祀った人形塚で行われた。台座には武者小路実篤が詠んだ歌が刻まれている。
人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか知らねども愛された事実こそ汝が成仏の誠なれ
献茶、献花の後、尼僧が「観音経」を読経する中、関係者や一般の人々による焼香が行われた。京人形商工業協同組合のホームページには「持ち寄られたお人形がお火上げされ、その灰が境内の人形塚に納められます」とあるが、人形たちは境内の一角に敷かれた茣蓙に並べられたままで、紙のひとがたを燃やした灰の一部が人形塚の中に納められただけだった。かつて私は上野寛永寺清水観音堂で行われた人形供養で実際に荼毘(だび)にふされるシーンを見たことがある。炎に包またその姿は、いかに人形とは言え、目を逸らしたくなったことを憶えている。だから宝鏡寺では一般の目前では火葬をしないのだろう。人形は文字通り「ひとがた」なのだから。

2011年10月5日

第37回2012年JPS展(日本写真家協会展)作品募集


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公益社団法人日本写真家協会(JPS)は、1950年に創立され、昨年60周年を迎えた我が国有数のプロ写真家の団体です。現在約1750名の会員を擁し、2011年には公益社団法人として移行認定され、写真展をはじめ写真教育、講演会やセミナーな ど各種の公益性の高い事業を行っています。当協会の事業の核として毎年開催しているJPS展は1976年にスタートし、おかげさまで今回37回を数えることができました。歴代の入賞・入選者からはプロ写真家を輩出し、写真愛好家にも人気の高い歴史ある公募展です。昨年応募された方は4歳から92歳と大変幅広く、一般公募部門の他に20歳以下部門を設け、若い方の育成、奨励に努めています。入賞、入選された作品は、5月の東京展を皮切りに、名古屋、京都での巡回展を予定しています。作品のテーマは自由です。自然の姿、風景、都市の貌、人間とその暮し、動物、海外の風物、心象的な表現など、ご自身の作品の中で、これは是非多くの人に見て欲しいと思う作品をお寄せください。新鮮で想像力豊かな、オリジナリティに溢れた作品を期待しています。みなさまのたくさんのご応募を お待ちしています。

公益社団法人日本写真家協会 JPS展 担当理事 島田 聡
主         催: 公益社団法人日本写真家協会
共         催: 東京都写真美術館
後         援: 文化庁
応募要項: http://www.jps.gr.jp/events/jps/2012/application.php

2011年10月4日

ずいき祭還幸祭と花街上七軒の思い出

舞妓芸妓と八乙女 上七軒(京都市上京区真盛町)Sony NEX-5 E18-55mm F3.5-5.6

北野をどり(上七軒歌舞練場)1995年ごろ
今日は北野天満宮のずいき祭の四日目、還幸祭があった。中京区西ノ京御輿岡町の御旅所から、鳳輦(ほうれん)や八乙女(やおとめ)、稚児などの列が北野天満宮に戻る行事である。最後は天満宮の東門に入るので、途中、花街上七軒を通ることになる。かつて私はこの花街に通い詰めたことがある。お茶屋「吉田家」の片隅で遊ばせて貰ったわけだが、ここでシンガーソングライター&医師の藤村直樹氏と再会したことは忘れられない。カウンターで彼がつま弾くギターに合わせ、高田渡サンの「生活の柄」(原詩は山之口貘)を何度も歌ったものだ。記憶はやや曖昧だが、確か2001年の春ごろ「吉田家」は店仕舞いをした。女将さんである泰子(ひろこ)さんの健康状態が悪化したためと聞いた。案の定「おっきなおかあはん」である吉田悦子さんから泰子さんが10月に他界したという訃報を聞いたのである。その悦子さんも数年後他界するが、最期をみとったのは藤村氏だ。しかし氏もまた今やこの世にいない。だから私は「吉田家」と供に上七軒から足が遠のいてしまったことになる。そういえば「京都では秋一番の祭」と泰子さんがよく話していたなぁ、ふと思い出した私は、午後上七軒に出かけてみた。お茶屋「中里」の前に舞妓芸妓が並び、還幸祭列を迎えるのだが、あれだけ通ったにも関わらず、このシーンを見るのは初めてだった。明日はずいき祭の最終日、北野天満宮で八乙女田舞が奉納されるが、天気予報が雨なのがちょっと心配だ。

2011年9月30日

御土居の上に祀られた市五郎大明神

本殿 市五郎大明神社(京都市中京区西ノ京原町) Sony NEX-5 + Zoneplate

拝殿の石碑 市五郎大明神社 Sony NEX-5 + Zoneplate
京都市バスを西大路御池で降りて東に歩き、一筋目を北に折れてしばらく行くと鳥居が視界に入る。手前にふたつの石造、その奥は朱塗りの木製で、間隔が狭いので伏見稲荷大社の千本鳥居のように、参道がトンネルになっている。扁額に「正一位市五郎大明神」とある。参道を進むと、鬱蒼とした木々に囲まれてるせいだろう、辺りは一気に暗くなる。拝殿の片隅には三つの石碑があり、真ん中のそれにも大明神と刻まれている。石段の手前に「史跡御土居」の石標が建っている。要するに神社自体が御土居の上にあるのだ。岡崎に住んでいた北村利幾子という女性が、神託を受けて御土居の上に小祠を創建し「市五郎大明神」を祀ったという。明治23(1890)年のことである。ご存知、御土居は豊臣秀吉が洛中と洛外を分けるために造営したもので、軍事的防衛と洪水対策を目的としたものだ。現在九ケ所が国指定史跡に指定されているが、そのひとつであるこの御土居を市五郎大明が守ったと言えそうである。本殿から石段をさらに上ると、別の鳥居があり、扁額には「市五郎大明神」の両脇に「国司大明神」「三徳大明神」の名が見える。国を司り、三つの徳を積むという意味だろうか。そ参道入り口の石造の鳥居は昭和2(1927)年に建立寄進されたようだが、西陣織をはじめ、京都の染織業者の名が連なって刻まれている。この辺りは市内中心部からは西に外れたところで、洛中の西陣織や友禅染め生産者や販売業者が寄進したか不思議である。京都には膨大の両の歴史遺産が残されている。その断層を見つける探検は尽きることがない。それにしても市五郎とは何者なのだろうか。