2023年7月30日

ヒロシマは終わらない:被爆7年後に発掘された被爆者の遺骨

発掘された遺骨
広島県安芸郡坂町小屋浦地区で発掘された遺骨

写真はちょうど71年前の1952年7月30日、広島県安芸郡坂町小屋浦地区で発掘された約150体の遺骨である。爆心地から10キロ以上離れた小屋浦地区には原爆投下後、軍の臨時救護所ができ、広島市内から負傷者たちが次々と船で搬送された。息絶えた人々は埋葬され、地元住民たちは木の墓標を建てた。広島原爆戦災誌によると1952年に現場から、約150体の遺骨が発掘されたという。地域で守られてきた原爆犠牲者の慰霊碑は、広島市中心部だけでなく各地にある。

原爆慰霊碑
慰霊碑を掃除した小屋浦の住民たち(2018年12月15日・朝日新聞広島県版)

小屋浦地区の被爆者らが守り、法要を続けてきた木の墓標を「半永久的な墓碑」とするため、1987年に慰霊碑が建立された。1987年には被爆の惨状を永久に伝えるために、木製の墓標から石碑に建て替えられた。慰霊碑碑には確認できた93名の名前が刻まれている。ところが2018年、西日本豪雨で慰霊碑は土砂と倒木に埋まってしまった。取り除いたものの。危険な土砂崩れの予測を判断するのが困難なため、2019年7月、現在の同地区小屋浦公園に移設されたという。

PDF_BK  帰れぬ遺骨 家族はどこに | 中國新聞2020年2月3日号 | ヒロシマ平和メディアセンター | 1.90MB

2023年7月28日

あなたの呼ぶ声  忘れはせぬが  出るに出られぬ  籠の鳥

New Twitter Logo
Twitter rebrands to 'X' as Elon Musk loses iconic bird logo

標題は大正末期から昭和にかけて一世を風靡した大ヒット歌謡『籠の鳥』の一節である。作曲者は天才的演歌師と呼ばれた鳥取春陽。彼はヴァイオリンの弾き語りをしながら全国を回る街頭演歌師だったが、この作品がレコード会社の目にとまり、1922(大正11)年にレコードに吹き込んだ。1924(大正13)年に大阪の映画会社・帝国キネマ演芸が悲恋物語『籠の鳥』として映画化すると、爆発的な流行となった。籠の鳥といえば旧 Twitter の青い小鳥。イーロン・マスクに買収されて以来、その囚われの身となったが、さぞかし辛い思いをしたに違いない。それがリブランディングによりロゴが X となって籠から解放、というより追い出されたのである。インプレス社のインターネットウオッチ電子版によると、ネットでは見慣れた青い小鳥のアイコンがなくなったことを悲しむ声があふれ、元に戻すためのブラウザー拡張機能やツールが続々と登場しているという。しかし遺影を眺めても、亡き鳥は戻って来ないので虚しい行為だと私は思う。それよりも小鳥ならぬ X を籠の中に収めたイーロン・マスクの今後の動静が気になる。

blue bird in cage

災害時などの情報発信ツールに活用している自治体もあるし、単なる囀りの場ではなく、情報プラットフォーム。政治家を含め、多くの人々が言論の場として発言している。そもそもイーロン・マスクはドナルド・トランプ前大統領のアカウント凍結を解除したし、共和党の支持者である。そして昨今は人種差別などの発言が目立つという。政治的に色が染まった人物であり、今後の X 社がいかなる方針を打ち出すか不透明である。これは私の邪推に過ぎないのだが、他の事業と紐づけしながら、単なるソーシャルメディアの範疇を超えた、収益企業に育て上げたいのではないだろうか。イーロン・マスクはインタビューで、正しく実行すれば X は銀行業務、支払いなどの計画を含む世界の金融システムの半分を包含する可能性があると述べたという。いくつかの意見では X アプリの可能性は中国の WeChat に似ているとの見方が示されているようだ。いずれにせよ青い小鳥を追い出したイーロン・マスクの性急なりブランディングはユーザーの反感を買っている。言論プラットフォームの透明性も雲行きが怪しく、発言に影響力がある政治家は X から手を引いたほうが良さそうである。

Forbes Elon Musk Changes X Logo—And Then Changes It Back Again—As Twitter Rebrand Evolves

2023年7月26日

青い小鳥のロゴをドブに捨てたイーロン・マスクの前途多難

Muskifixion

旧 Twitter のロゴ、青い小鳥が消えた。小鳥の囀りをデザイン化したもので、一目で分かる優れものだった。アップルやナイキなどの有名企業は、そのロゴも有名で、広く浸透している。喩えが飛躍するが、小鳥で思い出したのが環境保護団体オーデュボン協会。世界的に有名だが、そのロゴはほとんど知られていない。そういう意味でも旧 Twitter のロゴは価値が高いものだった。ブルームバーグ電子版によると、イーロン・マスクが Twitter のブランド名を X に変更し、ロゴとツイートを含む関連用語を全て廃止したが、この行動によって40億-200億ドル(約5700億-2兆8300億円)の価値が吹き飛んだという。そして、テネシー州のヴァンダービルト大学のジョシュア・ホワイト准教授(金融学)は、ツイートやリツイートといった動詞が現代文化の一部となり、著名人や政治家が市民といかに意思疎通を図るかを説明するのに使われていると語った。

Black Bird

同大はツイッターのブランド価値を150億-200億ドルと見積もり、スナップチャットに匹敵するとみているそうだ。マスク自身はその価値を十分知っていただろうけど X を浸透するには青い小鳥をドブに捨てざるを得ないと判断したのだろう。X は現在ロゴが代わっただけで、仕様はそのままである。しかし同社のロゴを青い小鳥から X に変えた自身の決定について、コミュニケーションと金融取引の広範なプラットフォームに作り変えるためだとマスクは説明した。従って単なるソーシャルメディアからの脱皮を図ろうとしているようだ。リンダ・ヤッカリーノ最高経営責任者(CEO)も機能刷新について X はオーディオ、ビデオ、メッセージ、決済/銀行業務を中心」とし、人工知能(AI)を搭載したものになると述べているようだ。ロゴとブランド名の変更は大きな注目を集めたが、メディアの専門家やアナリストらによれば、ブランド価値喪失で失われた巨額の損失を穴埋めできる可能性は低いという。前途多難のマスクだが X のロゴが輝く日がくるだろうか。

magazine_bk  Why Elon Musk killed the Blue Bird with an X by Chong Jinn Xiung | Tatler Asia Limited

2023年7月25日

翼を失った青い小鳥追悼風刺画集

Rahma Cartoons
Morad Kotko
Naser Jafari
Amorim
Marian Kamensky

アメリカの実業家イーロン・マスクは去年、買収したツイッターのロゴを青い小鳥から「X」に変更する考えを表明した。経営環境の厳しさが背景にあるようだ。マスクは今月22日「まもなくツイッターブランドとすべての鳥に別れを告げるだろう」と投稿、2012年から使われてきたツイッターのシンボル、青い小鳥のロゴを「X」に変更した。これを受けて「ツイッター消滅」「XJAPAN」などの関連ワードが日本でもトレンド入りし、ロゴ変更を惜しむコメントも出ている。風刺漫画共有サイト Cartoon Movement から小鳥を悼む5点を転載します。

cartoon movement  A global platform for editorial cartoons and comics journalism | Cartoon Movement

2023年7月24日

ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク

Female Profiler
Female Profiler, New York City, 2007
Larry Fink

ラリー・フィンクは、パーティーやその他の社交の場での人々を撮影したモノクロ写真で知られるアメリカの写真家。フィンクは1941年3月11日、ニューヨークのブルックリン生まれた。父のバーナード・フィンクは弁護士で、母のシルヴィア・キャプラン・フィンクは反核兵器活動家であり、グレイ・パンサーズの高齢者権利活動家でもあった。妹は著名な弁護士のエリザベス・フィンク(1945-2015)である。政治意識の高い家庭で育ち、自らを「ロングアイランド出身のマルクス主義者」と表現している。ニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで学び、1960年代にリゼット・モデルに師事し、プロの写真家になることを勧められた。1986年よりバード大学で教鞭をとる。それ以前は、イェール大学美術学校(1977-1978)クーパー・ユニオン美術建築学校(1978-1983)パーソンズ・スクール・オブ・デザイン、ニューヨーク大学などで教鞭をとる。2012年5月23日、ラリー・フィンクは長年在籍した写真エージェンシー、ビル・チャールズ・リプレゼンツを退社した。

Civil Rights March
Civil Rights March, Washington, D.C., 1963

フィンクの最も有名な作品は、1970年代に制作された写真シリーズ "Social Graces"(社会的品位)で、ファッショナブルなクラブや社交イベントに参加する裕福なマンハッタンっ子と、高校の卒業式などのイベントに参加したペンシルベニア州の田舎町の労働者階級の人々を対比的に撮影したものである。"Social Graces" は1979年にニューヨーク近代美術館で個展が開催され、1984年には写真集として出版された。 ニューヨークタイムズ紙は、このシリーズを「根本的に異なる2つの世界を比較することによって社会階級を探求している」と評した。

Studio 54 New York
Studio 54 New York, New York, 1977

その一方で「ストレートな写真が最も得意とすることのひとつである、実在の人物とその余りにも危うい人間らしい生活を、耐え難いほど親密に垣間見ることができる」と述べている。2001年、フィンクはニューヨークタイムズ神からの依頼で、ワイマール時代の画家マックス・ベックマン、オットー・ディックス、ジョージ・グロスの絵画をモデルにした、退廃的なお祭り騒ぎの場面で登場するジョージ・W・ブッシュ大統領とその閣僚(代役が描いた)の風刺的なカラー画像シリーズを制作した。

Pat Sabatine's Eighth Birthday Party, Martins Creek, Pennsylvania, 1977

2004年夏、ニューヨークのパワーハウス・ギャラリーで「禁じられた絵:政治的なタブロー」と題された展覧会が開催された。1976年と1979年にグッゲンハイム・フェローシップ、1978年と1986年に全米芸術基金個人写真フェローシップを受賞。2002年にはデトロイトのクリエイティブ・スタディーズ・カレッジから名誉博士号を授与された。ニューヨークの国際写真センターほか、パリ国立図書館、メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館、サンフランシスコ美術館などに作品が収蔵されている。

ICP  Larry Fink (born 1941) | Biography | Art Works | International Center of Photography

2023年7月22日

メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能

Frida Kahlo and Mexican Singer Chavela Vargas
Frida Kahlo and Mexican Singer Chavela Vargas, 1928
Tina Modotti

多才な女性であり、写真のエキスパートでもあったティナ・モドッティは、1897年8月16日、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州のウディネに生まれた。モデルであり、政治活動家であり、女優であり、写真家でもあった。マルチな才能と勇気を持ち、人生のさまざまな局面で3つの世界に多くのものを提供した女性だった。1913年、16歳の母アッスンタは裁縫師、父ジュゼッペは石工であった。両親が出稼ぎ労働者であったオーストリアで過ごした後、一家はウディネに戻り、幼いモドッティは織物工場で働いていた。1913年6月24日にルトケ号でジェノヴァを出発した彼女は、7月8日にエリス島に到着した。彼女は100ドルと、父親と妹のメルセデスが住むサンフランシスコ行きの列車の切符を持っていて、父親と再会した。彼女のドキュメンタリー写真とファインアートのキャリアは、1920年代にメキシコでエドワード・ウェストンと仕事をしたときに始まった。正式な教育を受けていないにもかかわらず、モドッティは知的思考を必要とする事柄に強い関心を持っていた。ウェストンはティナ・モドッティと公私供にパートナーだった。1925年、アニタ・ブレナーの依頼で、彼女の著書 "Idols Behind Altars"(祭壇の向こうの偶像)の挿絵を挿絵を担当する。

>Family with Corn
Family with Corn, State of Veracruz, Mexico, 1927

この間、ドロシア・ラング、コンスエロ・カナガ、イモージェン・カニンガムなど多くの写真家がモドッティを励ました。自分のジャーナリスティックな写真を撮るため、グラフレックスのカメラを持ってメキシコに戻った。1926年、ブレナーの仕事を再開したモドッティは、政治問題と革命に時間を捧げ、この時期にモドッティとウェストンは別れることになった。ウェストンは普通のものを美しいものに変えることを好み、モドッティにとって写真は社会変革を記録するためのアプローチだった。1年後、彼女は入党した共産党に無料で写真を提供した。その写真の一部は "El Machéte"(エル・マチェーテ)紙に掲載された。他にも、メキシコの工芸品や壁画家の写真を出版用に記録するなどのプロジェクトを行った。

Sombrero
Sombrero with Hammer and Sickle, Mexico City, 1927

この頃、彼女の作品が前衛芸術の雑誌 "Transition"(遷移)に掲載された。政治写真の任務の一環として、彼女は1929年のメーデーの日、共産党員の抗議グループを撮影した。事態が緊迫する中、彼女は行事の開始から終了までを取材した。ティナ・モドッティは写真が政治的変化をもたらす道具であるという考えに疑問を抱き、共産党活動家として時間とエネルギーを費やした。メキシコ政府による反共キャンペーンの結果、モドッティは1930年にメキシコから追放された。最初にベルリンで数ヶ月を過ごし、その後モスクワで数年を過ごした。イタリア政府は、彼女を破壊主義者として送還しようと総力を挙げたが、国際赤十字社の活動家の援助により、彼女はファシスト警察による拘束を逃れた。

Diego Rivera and Frida Kahlo
Diego Rivera and Frida Kahlo in the May Day Parade, Mexico City, 1929

彼女はどうやらイタリアに入り、反ファシストのレジスタンスに参加するつもりだったようだ。1931年以降、モドッティは写真を撮らなくなった。。1942年1月5日、モドッティはメキシコシティのハンネス・メイヤーの家で夕食をとった後、タクシーで帰宅する途中、心臓発作で亡くなった。解剖の結果、彼女の死因は自然死、つまりうっ血性心不全であった。45歳だった。彼女の死後かなり経った1996年、フィラデルフィア美術館がティナ・モドッティのヴィンテージ写真90点を展示したことで、アメリカはこの並外れた女性の作品を再発見した。マーサ・チャールディをキュレーターに迎えた展覧会の資金を捻出するため、マドンナは1963年にベンツをオークションにかけた。

The Tiger's Coat
Tina Modotti as Maria de la Guarda in the film "Tiger's Coat" 1920
Photo by Galerie Bilderwel

別の展覧会では、2010年にクンストハウス・ウィーンで貴重な250点の写真コレクションが展示された。彼女の作品はポーランド、オーストリア、イタリア、ドイツでも展示された。写真や政治の分野でも素晴らしかったが、彼女は畏敬の念を抱かせる美貌の持ち主だった。そのため、短期間ではあったが、女優やモデルといった職業に就いた。女優やモデルといった職業に就いた。彼女が出演した映画の最も印象的な役柄は "The Tiger's Coat"(虎のコート)のそれだった。美しいイタリアの少女が多くの男心を揺さぶったのである。彼女は無声映画も含めて数本の映画に出演し、その精巧さとカリスマ性から "Femme Fatale"(宿命の女)と称された。

MoMA  Tina Modotti (Italian, 1896–1942) | Biography | Works | Exhibitions | Audio | Publications

2023年7月21日

カナダ先住民ブラッド族の羽根冠を着けたカナダ総督ジョン・バカン

John Buchan as Chief Eagle Head
John Buchan as Chief Eagle Head, Ottawa. Photo by Yousuf Karsh 1937

ユーサフ・カーシュが1937年に撮影したジョン・バカンのポートレイトである。着けている羽根冠はカナダの平原で先住民ブラッド族の首長が使っていたもので、1936年、カナダの総督で、スコットランドの小説家、歴史家、政治家だったジョン・バカンに贈られた。この時のブラッド族の首長はショット・ボス・サイドで、この羽根冠は彼が所有していた。ポニービーズ、フェルト、赤いウールストラウド、模様の入ったダマスクなどの交易品と、未成熟の鷲の羽、アーミンの皮、革などの動物製品で構成されている。貿易資材のほとんどはヨーロッパからもたらされたもので、例えば、赤いウールストラウドはグロスターのストラウドから、ポニービーズはヴェネツィアからもたらされた。ポニービーズの色とデザインは、ブラッド部族が属するブラックフット族の典型的なものである。ブラッド族は幾何学模様のリーダーで、黄色、青、赤、白のビーズを好んだ。羽根冠は戦士の武勇を象徴する神聖で尊いもの、あるいは部族が得た栄誉を表している。

BTDH

ジョン・バカンは、その一挙手一投足が広く注目された。文学的であり公的な総督というユニークな立場から、先住民に対する20世紀半ばの文学的態度だけでなく、カナダ総督の先住民に対する態度についても一般論を導き出す機会を歴史家に与えている。その書簡や新聞報道によるさまざまな先住民族による彼の認識、そして先住民を登場人物としてを取り上げたブキャンの主な著作 "Sick Heart River"(病めるハート川)と"The Long Traverse"(長い縦走)による解釈などである。これらは彼のカナダにおける先住民に対する考えや感情の一端を明らかにするとともに、カナダと英連邦を多様性を謳歌する空間としてとらえた彼の先例となる見解を明らかにしているのである。バカンの施策ゆえに、先住民への確執といった事案はなく、両者は極めて友好的だったようだ。もしかしたらユーサフ・カーシュの提案だったかもしれないが、贈られた羽根冠を着けて写真を撮ったことが、何よりもその証拠と言えるだろう。

Native American  History of Kainai Nation (Blood Tribe) by Hugh A. Dempsey | The Canadian Encyclopedia

2023年7月20日

20世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ

John H. Garo
John H. Garo, My Master, Boston, Massachusetts, 1931
Yousuf Karsh

アルメニア系カナダ人の著名な写真家の一人であるユーサフ・カーシュは、ポートレイト写真で有名である。1908年12月23日、オスマン帝国(トルコ)東部の都市マルディンで生まれた。アルメニア人虐殺の時代に育ち、16歳のときに両親の勧めで、同じく写真家であった叔父のゲオルク・ナカシュとともにカナダのケベック州シャーブルックで暮らし始める。カルシュは短期間学校に通い、叔父のスタジオでの仕事をサポートすることに忙殺された。ナカシュは甥の写真家としての才能を見抜き、1928年、ボストンに住む偉大なポートレイト写真家ジョン・ガロのもとで研修することにした。1931年、ユーサフ・カーシュは自分の名前を売るためにカナダに戻り、ジョン・ポールのスタジオで働き始めた。数年後にポールが引退すると、彼はスタジオを引き継いだ。1936年、オタワのシャトー・ローリエ・ホテルのドローイング・ルームでデビュー展を開催。その後、アトリエをこのホテルに移し、1992年までそこで制作を続けた。彼の作品は注目を集め始めたが、転機となったのはカナダのウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング首相に紹介され、イギリスのウィンストン・チャーチルを撮影したことだった。

Winston Churchill
Winston Churchill, Ottawa, 1941

1941年12月30日、ウィンストン・チャーチルがカナダの国会議員を前に第二次世界大戦に関する演説を行った後、オタワにあるカナダ議会の下院議長の会議室で撮影された。チャーチルの姿勢と表情は、英国に蔓延していた戦時中の感情、すなわち、すべてを征服する敵を前にしたときの粘り強さと比較されている。写真撮影は短時間で終わり、露光の直前、カーシュはチャーチルに近づき、口にくわえていた葉巻を取り落とした。チャーチルはムッとしてに不快感を示した。

John Buchan
John Buchan, Governor-General of Canada, Ottawa, 1937

インターナショナル・フーズ・フー誌(2000年)の「今世紀最も著名な100人」に選ばれた一人であり、彼自身、このリストに挙げられた51人を撮影している。カーシュは、スタジオライトの卓越した技術を持っていた。彼のユニークな仕事は、被写体の手を別々に照らすことであった。彼の写真のほとんどが大判8×10インチの蛇腹カルメットカメラで撮影された。彼は当時の様々な著名人の写真を撮影した。「著名人が不老不死を考え始めると、オタワのカーシュを呼ぶ」とサンデイタイムズ紙に書かれた。

Albert Einstein
Albert Einstein, Princeton, New Jersey, 1948

モハメド・アリ、ズルフィカール・アリー・ブットー、アレクサンダー・カルダー、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョージ・バーナード・ショー、アンディ・ウォーホル、ジョージア・オキーフ、フランク・ロイド・ライト、パブロ・カザルス、ジョーン・クロフォード、ルース・ドレイパー、アルバート・アインシュタイン、エリザベス王女、インディラ・ガンジー、グレイ・オウル、オードリー・ヘプバーン、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世、カール・ユング、フランク・ロイド・ライトなど、当時の著名人を撮影する機会に恵まれた。ポートレイト写真の中に被写体の精神を明らかにする自分の能力を信じていると1967年にポートフォリオに記載した。

Mother Teresa
Mother Teresa, Ottawa, 1988

その偉大な作品は、数々の著名な美術館やギャラリーにパーマネント・コレクションとして展示されている。ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館、フランス国立図書館、ジョージ・イーストマン・ハウス国際美術館、カナダ国立美術館などがその例である。カナダでは、さまざまな図書館やさまざまな記録が、ネガや資料とともにコレクション全体を管理している。カーシュの写真用具は、オタワのカナダ技術科学博物館に寄贈された。1990年末にはボストンに移り住み、2002年7月13日、ウィメンズ・ホスピタルに入院中に93歳で亡くなり、オタワのノートルダム墓地に埋葬された。93歳だった。

National Portrait Gallery  Photographs by Yousuf Karsh (1908–2002) | 90 Portraits in set |National Portrait Gallery

2023年7月17日

夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ

Avenue de l'Observatoire
Avenue de l'Observatoire dans le brouillard, Paris, 1934
Brassaï (Gyula Halász)

ブラッサイ(本名ギジュラ・ハラース)はオーストリア=ハンガリー帝国出身で、パリで活躍した写真家である。ハンガリーおよびフランス国籍。彫刻家、作家、映画監督でもあり、20世紀にフランスで国際的な名声を得た。第二次世界大戦の間からパリで活躍した数多くのハンガリー人芸術家の一人である。21世紀初頭、1940年から1984年までの200通を超える手紙と数百点の図面などが発見され、学者たちは彼のその後の人生とキャリアを理解するための材料を得た。ハラースは1899年9月9日、アルメニア人の母とハンガリー人の父のもと、ハンガリー王国、現ルーマニアのブラショヴで生まれた。ハンガリー語とルーマニア語を話しながら育つ。フランス文学の教授であった父はソルボンヌ大学で教鞭をとっていた。ハラースはブダペストのハンガリー美術アカデミーで絵画と彫刻を学んだ。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックに影響を受けたという。オーストリア=ハンガリー軍の騎兵連隊に入隊し、第一次世界大戦の終わりまで従軍した。第一次世界大戦後、トリアノン条約により、彼の故郷ブラッソを含むトランシルヴァニア地方はハンガリー王国からルーマニアに移された。

Masked Women
La Parade d'un Spectaclee, Boulevard Saint-Jacques, 1931

ハラースは1920年にベルリンに渡り、ハンガリーの新聞 "Keleti"(ケレティ)と "Napkelet"(ナプケレト)でジャーナリストとして働く。そこで画家のラヨシュ・ティハニやベルタラン・ポール、作家のギョルジ・ベローニなど、ハンガリーの芸術家や作家と親しくなり、それぞれ後にパリに移住してハンガリー・サークルの一員となる。ベルリン・シャルロッテンブルク美術アカデミー(現在のベルリン芸術大学)で学び始める。そこで、画家のラヨシュ・ティハーニやベルタラン・ポール、作家のギョルジ・ベローニなど、ハンガリーの年配の芸術家や作家と親しくなり、彼らはそれぞれ後にパリに移り、ハンガリー・サークルの一員となった。1924年にハラースはパリに移り住んだ。マルセル・プルーストの作品を読み、独学でフランス語を学び始めた。

La Colonne Morris
La Colonne Morris dans le brouillard, Paris, 1932

モンパルナス地区に集まる若い芸術家たちに混じって暮らしながら、ジャーナリストの仕事に就いた。すぐにアメリカの作家ヘンリー・ミラーやフランスの作家レオン=ポール・ファルグ、ジャック・プレヴェールと親しくなった。1920年代後半には、ティハニと同じホテルに住んでいた。ハラースは夜遅くまで歩き回る街への愛着によって写真を撮るようになった。彼は最初、多くのお金を得るために記事の一部を補足するために写真を使ったが、同じハンガリー人であるアンドレ・ケルテスの手ほどきを受けながら、写真を通して街を探求するようになった。後に彼は「雨や霧の中の通りや庭園の美しさを撮るため、そして夜のパリを撮るため」に写真を使ったと書いている。生まれ故郷の「ブラッソ出身」を意味する「ブラッサイ」というペンネームで活動していた。

Haute Couture Soirée
Haute Couture Soirée, Paris, 1935

彼は最初、より多くのお金を得るために記事の一部を補足するために写真を使ったが、同じハンガリー人であるアンドレ・ケルテスの手ほどきを受けながら、このメディアを通して急速に街を探求するようになった。 後に彼は、「雨や霧の中の通りや庭園の美しさをとらえ、夜のパリをとらえるために」写真を使ったと書いている。 ブラッサイは街のエッセンスを写真に収め、1933年に最初の写真集 "Paris de nuit"(夜のパリ)を出版した。この写真集は大きな成功を収め、ヘンリー・ミラーはエッセイで「パリの目」と呼んだ。パリの下町の写真に加え、ブラッサイはパリの上流社会、知識人、バレエ、大オペラの生活風景を描いた。フランス人一家と親交があり、上流階級との交流の機会を与えられていた。

Pablo Picasso
Pablo Picasso, Rue des Grands-Augustins, 1939–40

サルバドール・ダリ、パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、アルベルト・ジャコメッティやアンリ・ミショーといった当時の著名な作家たちなど、多くの芸術家の友人たちを撮影した。ハンガリーの若い芸術家たちは1930年代までパリに集まり続け、ハンガリー・サークルは彼らのほとんどを吸収した。ケルテスは1936年にニューヨークに移住した。ブラッサイは、1920年以来の友人であったティハニの甥、エルヴィン・マルトンを含む多くの新入生と親交を深めた。マルトンは1940年代から1950年代にかけてストリート写真で名声を高めた。ブラッサイは商業的な仕事で生計を立て続け、アメリカの雑誌『ハーパーズ・バザー』の写真も撮影した。ブラッサイの写真は国際的な名声をもたらした。1948年にはニューヨーク近代美術館で個展を開催し、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス、イリノイ州シカゴ美術館にも巡回した。1979年、ブラッサイは国際写真殿堂入りを果たした。1984年7月8日、ニース近郊コート・ダジュールの自宅にて死去した。84歳だった。

MoMA  Brassaï (Gyula Halász; 1899–1984) | Art Works | Exhibitions | The Museum of Modern Art

2023年7月15日

祇園祭「蘇民將來子孫也」の謂れ

横山崋山 (1781-1837)《祗園祭礼図巻》下巻(部分)1835-37年

祇園祭山鉾巡行を17日に控え、各山鉾で粽(ちまき)の授与がおこなわれているが、長刀鉾(京都市下京区四条通烏丸東入る)の粽の人気が高いようだ。粽というと植物の葉で包んだもち米を連想、童謡『背くらべ』の「ちまき食べ食べ兄さんが計ってくれた背のたけ」と口ずさむ人がいるかもしれない。古くは茅(ちがや)の葉で巻いたことから、茅巻き(ちまき)と呼ばれるようになったという。祇園祭の粽は食べ物ではなく、笹の葉で作られた厄病災難除けのお守りである。小さな護符がついていて、見落としがちだが「蘇民將來子孫也」と書いてある。祇園祭は八坂神社の祭礼行事だが、次のように説明している。

長刀鉾の粽(ちまき)の護符

八坂神社御祭神スサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与いたします。このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。

つまり「私は蘇民将来の子孫です。ですからで病気や災いから護って下さい」という願いを込めて書いた護符を身に着けた蘇民の一族は、後に疫病が流行った際も、逃れることができたという。ところで本題の祇園祭だが、紀元 869(貞観11)年に疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神、スサノオノミコトらを迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。その後、疫神を鎮め、退散させるために花笠や山車を出して市中を練り歩く夜須礼(やすらい)の祭祀となった。悪霊や疫鬼は祭りの際の踊りによって、追い立てられて八坂神社に集められるが、そこには蘇民将来がいる。そしてスサノオノミコトの霊威によって悪霊や疫鬼の鎮圧、退散が祈願されたのである。各山鉾で授与される「蘇民將來子孫也」と記した護符をつけた粽は、このような故事にちなんだものなのである。

祗園提灯 蘇民将来|日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典 | 事典サイト・ジャパンナレッジ

2023年7月14日

祇園祭長刀鉾天王人形の謎

上掲左は竹原春朝斎『都名所図会』1780(安栄9)年、右は二代目歌川広重『諸国名所百景』1859(安政6)年に描かれた祇園祭長刀鉾巡行である。竹原春朝斎の絵は比較のため右半分を省いたが、左上に「鉾に乗る人の競ひも都哉」という榎本其角の句が見える。二代目歌川広重の絵はおよそ80年後に描かれたのだが、大胆な構図になっている。仔細に観察すると、両者には共通点がたくさんある。町家一階の格子、提灯、二階から鉾を見守る人々、いずれも非常によく似ている。記録によれば、巡行は現在と違い四条通から寺町通を南下している。背景に鴨川が描かれているが、寺町通から離れているし、このアングルで本当に見えたか怪しい。漠然と疑いを持つようになったのはこの点からだった。私は浮世絵あるいは錦絵の研究家でないし、この二つの絵を比較検討した文献が存在するのか不明だが、二代目歌川広重は、竹原春朝斎の絵を模倣した可能性がある。つまり都名所図会は、当時、それほどポピュラーだったと言えるのではないだろうか。

長刀鉾天王人形(和泉小次郎親衡像)の部分拡大図

さらに注目すべきは、鉾頭の下にある天王台の人形である。これは鉾の守護神、和泉小次郎親衡(ちかひら)像である。小舟を操り、三条小鍛冶宗近作の大長刀を振るい、山河を縦横無尽に駆け巡ったといわれる、強力無双の源氏の武将である。小屋根の下に結いつけられているが、舟も真木に括られている。現在この人形は僅か23センチの木彫り、路上からは双眼鏡あるいは野鳥観察用望遠鏡などを使わないと観察できない。竹原春朝斎は鉾建て前にスケッチしたのだろうか。二代目歌川広重の絵は若干描き込んでいるものの、これまた両者は酷似している。ただ小屋根や台座はそっくりだが、長刀の刃の向きの上下が逆なのが気になる。武道に関しては不案内だが、太刀や長刀は突くか、振り下ろす武器だから、後者の構え方のほうが自然ではないだろうか。とすれば、気になる部分を修正したのではないか、というのが私の推論である。明後日から鉾建てが始まる。何年か前に見物したが、天王人形の写真を撮ることができなかった。最後に取り付けるのだが、作業の邪魔になるので近づけなかったからである。

松本元『祇園祭細見』より

天王人形は1986(昭和61)年に作り直された。京都新聞2009年7月12日の記事によると、人形を制作した有職御人形司十二世の伊東久重氏は、その祖父が新調した人形を参考に復原制作したという。祖先である桝屋庄五郎が1726(享保11)年に作ったものが元になっているという。侍烏帽子(えぼし)に直垂姿で、右手に大長刀を持ち、左肩に小舟を担いだ勇壮な姿をしてると語っているが、伊東久重氏の長男、建一氏が写真をウェブサイト「伊東建一御所人形の世界」に掲載している。これを見ると1977(昭和52)年に発刊された松本元『祇園祭細見』のさし絵の通りである。確かに肩に小舟を担いでいるが、都名所図会とは大きく異なる。実際に古い人形を手にし、復原した伊東氏の証言が間違いとは言い難い。桝屋庄五郎作の人形が意匠変更されず、そっくり継承されたのなら、竹原春朝斎や二代目歌川広重が描いた絵が間違いとなってしまう。新聞を読んだ当時、この点が気になって、天王人形を制作した伊東久重氏に直接電話でお訊ねしたことがある。「1726(享保11)年に作られた人形の傷みが酷く1954(昭和29)年に祖父が制作し直した。1985(昭和60)年の鉾建ての際に損傷、翌年に作り直すことになった。人形の目や口の筆跡がはっきり残り、装束も崩れていなかったので、これを参考に復原した」そうである。するとやはり竹原春朝斎や二代目歌川広重が描写した天王人形の絵は正確なものではないということになるのだろうか。いや、違う。実際に見た竹原春朝斎がわざと違う像を捏造したとは考え難い。遥かなる時間の波に漂い、歴史が混沌と化してしまったようだ。

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