2021年11月25日

児童労働の惨状を訴えた写真家ルイス・ハインの偉業

Child spinner
Child spinner in Whitnel Cotton Manufacturing Co. North Carolina. December 1908
Lewis Hine (1874–1940)

ルイス・ハインは、1874年9月26日、ウィスコンシン州オシュコッシュで、南北戦争の退役軍人ダグラス・ハル・ハインと、教育者のサラ・ヘイズ・ハインの間に生まれた。ハインはユニークな人生観を持つ運命にあった。1892年に父親が事故で亡くなり、ハインは一家を経済的に支えなければならなくなった。彼の最初の仕事は、家具の椅子張り工場で、1日13時間、週6日働いて、週4ドルの収入を得た。その後、銀行の清掃員などの仕事に就いたが、数年後には清掃員の監督をするまでになったと語っている。若い労働者が搾取されていることを身をもって体験したハインは、このような生活から抜け出したいと考えた。大学のエクステンションコースに通い社会学を学んだが、ウィスコンシン州オシュコッシュの師範学校の校長であった、フランク・マニー(1868-1954)と出会った。そして当時、最も著名なリベラル教育者だったジョン・デューイ(1859-1952)とエラ・フラッグ・ヤング(1845–1918)のふたりに師事した。1901年、ニューヨークの倫理文化学校の校長に就任したマニーは、ハインを自然研究と地理教育の担当者に任命した。またマニーはハインに学校の写真家になることを依頼した。

Seaconnet Mill
Young doffer and spinner boys in Seaconnet Mill, Fall River, Massachusetts. January 1912

写真家としてのハインの主な仕事は、学校の社会的学問的側面を記録することだった。写真には真実と現実を明らかにする力があることに気づき、それは彼に永遠の影響を与えた。写真が教育ツールとしての可能性を秘めていると考えたのである。カメラを購入したハインは、自分の撮った写真を授業に使い、ドキュメンタリー写真と呼ぶジャンルを確立した。またニューヨークで目にした貧しい人たちを撮影した。その中には、アメリカへ入国したエリス島の移民の写真も含まれていた。1908年、ハインは住み込みで働かされている労働者の屋や、低賃金で社会的に容認しがたい違法の搾取工場を撮影した写真集 "Charities and the Commons"(慈善活動と社会進出)を出版した。これらの写真を使って社会の改革に貢献したいと考えていたのである。ある会合で、自分の写真が「過ちを正す力を人々に与える」と信じていると語っている。学校の教師であったハインは、この国の児童労働法に特に批判的であった。いくつかの州では若い労働者を保護するための法律が制定されていたが、この問題を扱う国の法律はなかったのだ。1908年、全米児童労働委員会はハインを調査員兼写真家として採用した。その結果 "Child Labour in the Carolinas"(カロライナの児童労働)と "Day Labors Before Their Time"(日雇い労働者の歴史)という2冊の本が出版された。

Small Newsboy
Some of Newark's Small Newsboys, Afternoon. Newark, New Jersey, December 1909

工場で働く子どもたちの写真を撮るために旅行、1年の間に1万2,000キロ以上を走破した。トーマス・バルナルド(1845–1905)の下で働いていた写真家たちとは異なり、ハインはこれらの若者たちの貧困を誇張しようとはしなかった。彼の写真は「ショッキングさが足りない」と批判された。しかしハインは写真が現実を正確に捉えていると感じられれば、人々は児童労働反対運動に参加する可能性が高くなると主張した。工場の経営者たちは、ハインに写真が撮ることを拒否したり、彼を「密告者」と非難したりした。時にはカメラを隠したり、消防署員のふりをしたりして工場に潜入した。ハインは全国児童労働委員会に8年間勤務する。ある聴衆に「あなた方は児童労働の写真にうんざりしているかもしれません。しかし私たちが提案するのは、あなた方や国中の人々がこのビジネス全体にうんざりして、行動を起こす時が来たときに、児童労働の写真が過去の記録となるようにすることです」と説明した。1916年、米国議会は子どもたちを保護するための法律を制定することに合意した。キーティング・オーウェン児童労働法制定の結果、14歳未満の子どもの工場や商店での雇用が制限されることになった。全国児童労働委員会のオーウェン・ラブジョイ(1866-1961)は「この改革のためにハインが行った仕事は、その必要性を世間に知らしめた他のすべての努力よりも大きい」と書いている。

mechanic working
Power house mechanic working on steam pump, 1920-21

児童労働反対運動を成功させた後、ハインは第一次世界大戦中に赤十字社のために働き始めた。そのためにヨーロッパを訪れ、戦争の影響で苦しむフランスやベルギーの市民の生活状況を撮影した。休戦後、バルカン半島に行き "The Children's Burden in the Balkans"(バルカン半島の子どもたちの苦しみ)を1919年に出版した。 1920年代、ハインは労働者のためのより良い安全法を確立するためのキャンペーンに参加する。 曰く「私は何かポジティブなことをしたかった。そこで私は自分自身に言いました。仕事をしている人を撮らないか? 当時、彼は工場の子供たちと同じように恵まれていませんでした」云々。1930~31年には、ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングの建設を記録し、1932年に書籍 "Men at Work"(働く男たち)として出版された。その後、赤十字社からアーカンソー州とケンタッキー州の干ばつの様子を撮影する仕事を引き受ける。また、テネシー・バレー・オーソリティ(TVA)に雇われ、ダム建設の様子を記録した。しかしハインは、写真で十分な収入を得ることができなかった。1940年1月には、ホーム・オーナーズ・ローン・コーポレーションへの返済が滞り、家を失う。それから11ヵ月後の1940年11月3日、極貧の中で亡くなった。

The Library of Congress   Lewis Hine | National Child Labor Committee Collection (NCLC) | The Library of Congress

2021年11月21日

情報検索は SNS が主流になった

SNS
影響力が増す世界のソーシャルメディア

検索といえば Google、Yahoo!、Bing などが頭に浮かぶが、最近では SNS(ソーシャルメディア)が情報収集ツールとして存在感を高めている。ハッシュタグやリコメンド機能で情報を取得する人が増え、ゼネラルリサーチ(東京・渋谷)が10~50代の男女1,000人に実施した調査では、半数以上が情報収集などで SNS の検索機能を使うと答えた。私は何か知りたいことがあれば Google で検索するのが慣わしになっている。しかし昨今では、特に若年層を中心に「調べようとしない」利用者が増えているようだ。かつて自分で時間をかけて探していた情報も、媒体側が履歴情報などから各個人に合わせて「お勧め」するようになっていることが背景にあげられる。つまり「自分で探す」のではなく「お勧めを見て出会う」ようになったようだ。情報収集スタイルの変容は Instagram の認知率が70%を超えた2015年末ごろには本格的に始まっていたという。

10~50代の半数以上が SNS の検索機能利用(クリックで拡大表示)

それこそ Google 検索して知ったのだが、2016年3月3日付け TechCrunch 日本語版に「Google は使わない SEO 対策しているから」という興味深い記事が掲載されている。残念ながら私は全く知らないタレントだが Instagram でフォロワー84万人を誇るというマルチクリエーター&モデルの GENKING によると「僕の友だちは雑誌を買わなくなっている。雑誌は作られていてリアルじゃないんですよ。Instagram は好きなモデルの私服を見られたり、すごくリアル。それ(モデルなどのアカウント)を見ることで『このブランドの新作の鞄がかわいい』と発見できたり、レストランだって新しい情報がケータイで見られる。好きな子をフォローすると、好きな子の情報が全部入る。若い子、間違いなく10代はかわいい子や格好いい子のアカウントを探して Instagram で欲しい洋服を探している」そうだ。私見によれば、著名タレントなどの Instagram は「意図的な過剰演出写真」が散見するし、なにがリアルかは再定義の必要がある。しかし「調べようとしない」利用者には、確かに検索ツール Google などは無用の長物かもしれない。余談ながら Facebook は Instagram について、批判が集まっていた13歳未満の子ども向けバージョンの開発を中断すると発表した。ウォールストリートジャーナル紙が Facebook が実施した独自調査により Instagram が少女の心の健康に悪影響を及ぼす恐れが判明していたと報道。この件でマーク・ザッカーバーグが批判され、窮地に立たされている。

PDF  2021年最新 SNS に関する動向調査の表示とダウンロード | ゼネラルリサーチ(PDF 2.21MB)

2021年11月19日

世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパ

 Mothers of Naples
The Mothers of Naples Lament Their Sons' Death, Italy, 1943
Gerda Taro and Robert Capa

アンドレ・フリードマンは1913年10月22日にハンガリーのブダペストで生まれた。その誕生には3つの特徴的で珍しい出来事があった。頭をおくるみで包んだまま生まれ、おくるみを外すと頭髪が生えていた。最終的には手術で取り除いたが、片手に指が1本余っている状態で生まれてきた。母親はこれを不吉な予兆とは考えず、息子がいつか有名になるだろうと予兆を読み取った。その通り息子は「世界で最も偉大な戦争写真家」ロバート・キャパになったのである。ブダペストのペスト側の彼の家庭は、リベラルなユダヤ人の中流階級に属していた。母親のユリアンナは、強くて聡明な女性で、自分のファッションショップを経営して成功していた。父親のデジェーはユリアンナの店で仕立て屋をしていたが「小柄で小洒落た男で、無責任で明るく、仕事を早く切り上げたり、遅くまでカード遊びをしたりする言い訳を考えるのが得意」という特徴があった。ユリアンナのおかげでサロンは大成功を収めたが、彼女が息子たちと過ごす時間はほとんどなかったようだ。1919年、ルーマニア軍が国を占領し始めてから、恐怖とパニックの暴力につながった。

air-raid alarm
People running for shelter when the air-raid alarm sounded, Spain, 1937

多くのユダヤ人家庭が「白い恐怖」と呼ばれるものを恐れていた。暴力が収まると、普通の生活が戻った。アンドレは優秀な学生だったが、非常に独立心が強かった。友達と一緒に街を歩き回ったとき、カメラを持っていたエヴァ・ペニョ(1910-2003)という女の子がとても気になった。彼女のカメラを追いかけているうちに、2人は仲良くなった。彼女の影響は計り知れない。彼女はアンドレについて「彼はいい人だった。気に入られれば何でもしてくれる。彼は温厚だが、皮肉も効いていた。非常に頭が良く、学ぶことに熱心で、頭が切れるが、といっても頑固すぎない、少し皮肉屋だった」と述懐している。また彼の人生に大きな影響を与えたのが、作家のラヨシュ・カシャーク(1887–1967)である。キャパの伝記を書いた作家のリチャード・ウィーラン(1946-2007)は「カシャークは、民主主義、平等主義、平和主義、半集団主義、親労働者、反権威主義、反ファシストで、人間の尊厳と社会における個人の権利を重視した政治哲学を打ち立てた」と書いている。バンディ(アンドレの愛称)は、このリベラルで教義にとらわれない哲学を取り入れ、それを生涯にわたって維持することになった。この二人の影響を受けて、アンドレはジャーナリストになることを決意したのである。

Omaha Beach
Landing of the American troops on Omaha Beach, France, 1944

1931年7月12日、政治的な理由と、残りの人生がそこにないことを知っていたので、ハンガリーを離れた。ベルリンに到着した彼は、雑誌社で暗室のアシスタントとして働いた。暗室以外での彼の最初の仕事は、政治集会の取材だった。カメラは禁止されていたが、彼は35mmカメラを隠しながら、目立たないように撮影することができた。その写真が出版され、彼のキャリアがスタートした。その後アドルフ・ヒトラー(1889–1945)の台頭により再び亡命するまで、ベルリンで仕事と政治学の勉強を続けた。1933年から1939年にかけて、彼はパリでフリーランスの写真家として活動した。同じくフォトジャーナリストだったゲルダ・タロー(1910–1937)と知り合う。二人は写真を架空のアメリカ人名「ロバート・キャパ」の名で売ることにした。ゲルダの本名はゲルタ・ポホリレだが、親交があった岡本太郎(1911–1996)の名を借用したようだ。ロバート・キャパと名付けたのは、アメリカの著名な写真家のほうが高価販売できると考えたからだった。驚いたことにこれが功を奏して、キャパの写真は1枚150フランで売れた。しかし『ヴュー』誌の編集者によって、この欺瞞はすぐに暴露された。しかしこのことはキャパの名を高めるだけでなく、内戦を取材するためにスペインに派遣されることになったのである。ゲルダと一緒に従軍したが、ゲルダは撤退する共和国軍の混乱に巻き込まれ、戦車に轢かれて死亡した。キャパは彼の最も有名な写真のひとつである「崩れ落ちる兵士」を撮影した。

liberation of Paris
Crowds celebrating the liberation of Paris, France, 1944

史上初めて、銃弾を受けて死の瞬間を迎えた男の姿がフィルムに収められたのである。この写真は、歴史上のどの戦争写真よりも人々に衝撃を与えた。1938年12月3日、英国の『ピクチャーフォト』誌はスペイン戦争の写真を掲載し、ロバート・キャパを「世界で最も偉大な戦争写真家」と宣言した。キャパはその短い人生の中で、5つの戦争、そしてイスラエルの正式な建国を記録した。第二次世界大戦では、ノルマンディー上陸作戦でオマハ・ビーチに向かう兵士の第一陣に同行した。弾丸が飛び交い、兵士たちが死んでいく中、彼は何本ものフィルムを露光することができた。「弾丸は私の周りの水に穴を開け、私は最も近い鉄の障害物に向かった。まだ時間が浅く、良い写真を撮るには非常に灰色だったが、灰色の水と灰色の空のおかげで、ヒトラーの反侵攻主義の頭脳集団の超現実的なデザインの下で身をかわしている、小人たちが非常に効果的だった」と語っている。しかしネガのうち11枚しか残っていない。興奮した『ライフ』誌の暗室担当者が乾燥機の熱を上げてしまい、ネガのほとんどが溶けてしまったのである。普段はパリのホテル・ランカスターの一室で暮らしていた。

riding motorcycles
Soldiers of the French convoy riding motorcycles, Indochina, 1954

パリではアーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)パブロ・ピカソ(1881–1973)ジョン・スタインベック(1902–1968)アーウィン・ショー(1913–1984)アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908–2004)などと友人になった。ブレッソンは「私にとってキャパは、まばゆいばかりのマタドールの衣装を身にまとっていたが、決して殺しに行くことはなかった。偉大なプレーヤーとして、自分のためにも他人のためにも、渦中で惜しみなく戦った。運命は、彼が栄光の絶頂で打ちのめされることを決定づけていた」と書いている。キャパはブレッソンおよびデビッド・シーモア(1911–1956)ジョージ・ロジャー(1908–1995)とともに「マグナムフォト」の創立メンバーのひとりであり、1948年から1954年まで代表を務めた。マグナムは写真家の権利を守るための国際写真家集団として設立された組織で、現在も運営されている。1954年5月25日、インドシナ戦線の取材中に地雷を踏んだキャパは、カメラを握りしめたまま即死した。ロバート・キャパは戦争を憎んでいた。かつて「戦争写真家の最も切実な願いは失業だ。周りの苦しみを記録する以外に何もできず、傍観することは必ずしも容易ではない」と語っている。多くの本の題材となり、他の人のために文章を書いたり写真を撮ったりしており、数多くの個展も開催された。1976年には国際写真殿堂入りを果たしている。

magnum  Robert Capa (1913–1954) Biography and Selected Photographs | Magnum Photos

2021年11月16日

写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグ異聞

Grand Prix de l'ACF
Grand Prix de l'ACF, automobile Delage, Dieppe, 1912

ジャック=アンリ・ラルティーグは1894年6月13日、フランス中央部のクールブヴォワの裕福な家庭に生まれた。1963年に69歳でニューヨーク近代美術館で個展を開催するまでは、写真家としては無名だった。

Jacques Henri Lartigue (1894–1986)

父親のアンリ・ラルティーグ(1859-1953)は、銀行、鉄道、新聞社など、さまざまな分野で経営者として活躍した。祖父のシャルルはモノレール鉄道システムを発明していた。父親は写真が趣味で、幼い頃から息子にカメラを触らせていた。ジャックが初めて写真を撮ったのは、1900年、6歳のときだった。1902年、父親から初めてのカメラをプレゼントされた。ジャック=アンリ・ラルティーグは20世紀を代表する写真家になるという運命を背負っていたようだ。家族や休暇、車での旅行などが、最初の被写体だった。またスポーツカーや飛行機も、ジャックと、ジズーの愛称で親しまれている弟のモーリスを魅了した。兄のジソウがジャックを連れて、最初の飛行機がテストされている飛行場に行った。1907年から1908年にかけて、彼は航空機の黎明を撮影することができたのである。1911年以降、ラルティーグは自分の写真を新聞社に売るようになる。しかし父親からパテの家庭用映画撮影機を与えられていた彼は、スポーツを撮影してこれも売っていた。

ZYX 24
Décollage du ZYX 24, Rouzat, Puy-de-Dôme, 1910

映像は一瞬の儚さを切り取ることができるが、文章は感情を分析することができる。だからこそ、子供の頃から日記の必要性を感じていたラルティーグは、生涯を通じてそれを書き続けたのである。写真の芸術的な側面は20世紀初頭には認識されていなかった。逆に絵画は、芸術として認められていた。そこでラルティーグは、これを自分のプロとして活動することにし、ロドルフェ・ジュリアン(1839–1907)がパサージュ・デ・パノラマに開いた絵画と彫刻の個人学校、アカデミー・ジュリアンに入学した。1919年、ビビの愛称で親しまれまれていた、作曲家アンドレ・メサジェの娘、マドレーヌ(1896-1988)と結婚する。二人は1917年に両家が休暇で訪れたアヌシーでと出会った。1921年に第一子のダニーが生まれ、1924年にはヴェロニクが生まれたが、彼女は幼くして亡くなった。1920年代、ラルティーグは、パリや南フランスで絵画を展示した。ジャック=ビビ夫妻は、毎晩のように外出し、芸術関係のサークルに出入りするなど、社交的な生活を送っていた。映画監督のアベル・ガンス(1889-1981)からはに一緒に仕事しないかと誘われた。女優でオペラ歌手のイヴォンヌ・プランタン(1894-1977)とその夫サシャ・ギトリ(1885-1957)は、娘ヴェロニクの名付け親だった。

Jean Haguet
Jean Haguet, Piscine du Château de Rouzat, 1910

1930年、ルーマニア出身のモデル、ルネ・ペルル(1904-1977)と出会い、彼女の魅力に取り憑かれた。彼女は2年間、彼の伴侶でありモデルとなった。マドレーヌ・メサジェとは1931年に離婚している。家の財産のおかげで、ビビと ラルティーグは1920年代に豪華な生活を送ることができた。しかし1930年以降、この幸運は損なわれてゆく。自由を得るために、仕事をせず、絵を描いて慎ましく暮らしていた。画家として一定の評価を得た彼は、1935年にマルセイユのジュヴェーヌ画廊でヴァン・ドンゲン(1877–1968)サシャ・ギトリ(1885-1957)マレーネ・ディートリヒ(1901-1992)ジョルジュ・カルパンチェ(1894–1975)ジョーン・クロフォード(1907–1977)の肖像画を展示し、大成功を収める。また、ローザンヌやラボール、カンヌのカジノなどの内装も手がけた。ココの愛称で親しまれていたマルセル・パオルッチ(1934-?)と出会ったのは、カンヌのカジノだった。彼女の父親は、この施設の電気主任技師だった。1934年3月12日にココと結婚した。1939年に戦争が始まると、すでにココを離れていた彼は、パリのエリートたちの多くが避難していたコート・ダジュールに移った。さらに彼は1942年にモンテカルロでフロレット・オルメア(1921-2000)と出会い、1945年に結婚した。彼女はその後40年間、彼の妻であり続けた。

Denise Grey et Bibi
Denise Grey et Bibi à bord du Dahu II, Royan, 1926

夫妻はパリから15キロほど離れたヴァルドワーズの小さな町、ピスコップに住んだ。絵画の売り上げだけで生活しなければならないため、生活は厳しいものだった。ラルティーグの写真家としてのキャリアは、1950年代に本格化した。この分野では、雑誌や新聞の需要が重要であるため、モノクロを放棄することなく、カラーも使用している。パブロ・ピカソ(1881–1973)のポートレートを撮ったり、1953年にはアメリカの若き上院議員ジョン・F・ケネディ(1917–1963)や実業家アンドレ・デュボネ(1897-1980)などと会ったりしている。1955年にはパリのオルセー画廊で、ブラッサイ(1899–1984)ロベール・ドアノー(1912–1994)マン・レイ(1890–1976)ラルティーグの写真展が開催された。1960年、フランスの南東部、グラース近郊のオピオに家を買い、そこに居を構えたが、ここが終の棲家となった。世界的に認められたのはその後、1963年のことである。1962年に妻とアメリカを訪れた際、ラルティーグはニューヨーク近代美術館(MoMA)の写真部門のディレクターであるジョン・シャーカフスキー(1925-2007)と出会った。美術館の学芸員としての仕事に加え、写真家としても活躍していたシャーカフスキーは、ラルティーグの写真に熱中した。

Flore Ormea
Flore Ormea, La femme de Lartigue, Vence, 1954

1963年の秋に「ジャック・アンリ・ラルティーグの写真」という展覧会を開催することを決める。そして『ライフ』誌にポートフォリオが掲載されることになった。幸運なことに、このポートフォリオは、1963年11月22日にジョン・F・ケネディが暗殺された際に発行された『ライフ』誌に掲載された。この号の印刷部数は膨大なもので、ラルティーグの写真の名声が世界的に確立した。この時、彼は自分の名前に父親のファーストネームを加えて、ジャック・アンリ・ラルティーグと名乗ることにした。この頃リチャード・アヴェドン(1923-2004)がラルティーグの写真を集めた数冊のアルバムを制作する。ラルティーグは、その後も定期的に雑誌に作品を提供している。写真を撮ることをやめなかった。1979年には、写真、プレート、ネガ、アルバム、ダイアリーなど、すべての作品をフランス政府に寄贈する証書に署名した。これらはは自宅に保管されていたが、偉大な芸術家の国際的な名声がリスクを増大させていた。「空き巣が怖かったし、自分の死後、このコレクションが散逸してしまうのも怖かった」からである。1986年9月12日、ニースで他界、92歳だった。

library  Jacques Henri Lartigue (1894–1986) | Médiathèque de l'architecture et du patrimoine

2021年11月13日

ウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった

Roadside stand near Birmingham
Roadside stand near Birmingham, Alabama, 1936

ウォーカー・エヴァンスは、20世紀で最も影響力のあるアーティストの一人である。エレガントで透明感のある、写真と明瞭な出版物は、ヘレン・レヴィット(1913–2009)ロバート・フランク(1924-2019)ダイアン・アーバス(1923–1971)リー・フリードランダー(1934-)など、何世代にもわたって芸術家たちに影響を与えてきた。アメリカのドキュメンタリー写真の先駆者であるエヴァンスは、現在がすでに過去であるかのように見ることができ、その知識と歴史的に反映されたビジョンを永続的な芸術に変換することができる非凡な能力を持っていた。主な被写体は、道端のスタンド、安っぽいカフェ、広告、簡素なベッドルーム、小さな町の大通りなどに見られる人々の固有の表現であるヴァナキュラー(その土地固有の様式)だった。

Walker Evans (1903-1975)

1920年代後半から1970年代前半までの50年間、エヴァンスは詩人のようなニュアンスと、外科医のような正確さでアメリカの風景を記録し、百科事典のようなビジュアルカタログを作成した。1903年11月3日、ミズーリ州セントルイスに生まれたエヴァンスは、子供の頃から絵を描いたり、絵葉書を集めたり、コダックの小型カメラで家族や友人のスナップ写真を撮ったりしていた。カレッジで1年間学んだ後、学校を辞めてニューヨークに移り、書店やニューヨーク公共図書館で仕事をしながら、T.S.エリオット、D.H.ロレンス、ジェームズ・ジョイス、E.E.カミングス、さらにはシャルル・ボードレールやギュスターヴ・フローベールなどを読破した。1927年、パリで1年間フランス語を磨き、短編小説やノンフィクション・エッセイを書いた後、ニューヨークに戻り、作家になることを目指した。しかし、カメラを手にしたエヴァンスは、文学の戦略であるリリシズム、アイロニー、鋭い描写、物語の構造を写真という媒体に取り入れるために、自分の美的衝動を徐々に方向転換してゆく。初期の写真の多くは、ヨーロッパのモダニズムの影響を受けており、特に形式主義やダイナミックなグラフィック構造を強調している。しかし彼は次第にこの高度に美化されたスタイルから離れ、普通の被写体の詩的な響きなどについて、喚起的でありながらも控えめな独自の概念を発展させていった。

Truck and Sign
Truck and Sign, West Eleventh Street, New York, 1928-30

1935年から36年にかけての大恐慌の時代は、目覚ましい生産性と成果のあった年であった。1935年6月、米国内務省の仕事を引き受け、ウェストバージニア州にある政府が建設した、失業中の炭鉱労働者の再定住コミュニティを撮影した。そしてこの一時的な仕事をきっかけに、農務省のニューディール機関である FSA(農業安定局)の「情報専門家」としてフルタイムで働くことになったのである。ロイ・ストライカー(1893-1975)の指揮のもと、FSA のドロシア・ラング(1895-1965)アーサー・ロススタイン(1915-1986)ラッセル・リー(1903-1986)などは、小さな町の生活を記録することで、連邦政府が大恐慌の中で農村地域の生活を改善しようとしていることを示す任務を負っていた。しかしエヴァンズは、イデオロギー的な課題や提案された旅程を気にすることなく、シンプルでありふれたものからアメリカの生活のエッセンスを抽出したいという、個人的な欲求に応えて活動した。道路沿いの建築物、田舎の教会、小さな町の床屋、墓地などを撮影した写真には、見過ごされてきた庶民の伝統に対する深い敬意が表れており、アメリカで最も優れたドキュメンタリストとしての評価が確立される。1930年代後半に雑誌や書籍に初めて掲載されて以来、これらの直接的で象徴的なイメージは人々の集団意識に浸透し、現在では大恐慌の視覚的遺産として人々に深く浸透している。

Barber's shop
Barber's shop, Vicksburg, Mississippi, 1936

1936年の夏、エヴァンスは FSA を休職して、友人の作家ジェームズ・エイジ(1909–1955)とともに南部を訪れた。エイジは『フォーチュン』誌から小作人に関する記事を執筆することになっていて、エヴァンスは写真家として参加することになっていた。アラバマ州の3つの家族について書いたエイジの長い文章は最終的には雑誌から却下されたが、やがてこの共同作業から生まれたのが『今こそ有名な人物を讃えよう(Let Us Now Praise Famous Men)』(1941年)であり、直接観察の限界への叙情的な旅であった。500ページに及んだ文章と写真は、記録的な記述と強烈な主観的、自伝的な文章が入り混じった不安定なもので、20世紀アメリカ文学の重要な成果の一つとして語り継がれている。アラバマ州グリーンズボロの北17マイルにある乾いた丘の中腹に住む農民たちの顔、寝室、衣服を驚くほど実直に表現している。 一連の作品としては、大恐慌の悲劇全体を解明したかのようだが、個々の作品は、親密で、超越的で、謎めいたものとなっている。これらの作品はエヴァンスの写真家としてのキャリアの頂点をなすものである。 1938年9月、ニューヨークの近代美術館はエヴァンスの最初の10年間の写真作品を集めた回顧展「アメリカの写真」を開催した。

Floyd Burroughs Family
Floyd Burroughs Family, Hale County, Alabama, 1936

同時に出版された写真集は、今でも多くのアーティストにとって、すべての写真モノグラフを判断する基準となっている。綿花農家、アパラチアの鉱山労働者、戦争の退役軍人といった個人や、ファーストフード、床屋、自動車文化といった社会制度を通してアメリカ社会を描くことから始まる。最後に、工場の町、手描きの看板、田舎の教会、素朴な家など、アメリカ人の欲望、絶望、伝統を具体的に表現している場所や遺物を調査することで締めくくっている。1938年から1941年にかけて、エヴァンスはニューヨークの地下鉄の中で、注目すべきポートレートシリーズを制作した。35mmのコンタックスカメラを胸に装着し、冬用コートの2つのボタンの間からレンズを覗かせて、乗客を密かに、しかも至近距離で撮影した。公共の場であるにもかかわらず、ポーズをとらず、自分の考えに没頭している被写体は、好奇心、退屈、楽しみ、落胆、夢想、消化不良など、さまざまな雰囲気や表情を絶えず変化させていることに気づいた。「鏡がある孤独な寝室以上に、地下鉄の中では人々の顔は赤裸々に鎮座している」と述懐している。1934年から1965年にかけて『フォーチュン』誌に掲載された45の記事に400枚以上の写真を提供した。

Subway Passengers
Subway Passengers in Conversation, New York, 1941

1945年から1965年まで特別写真編集者として勤務したエヴァンスは、ポートフォリオの構想、写真の撮影、ページレイアウトのデザインだけでなく、付随するテキストも執筆した。 テーマは、鉄道会社の記章、一般的な道具、古い避暑地のホテル、車窓から見たアメリカの風景などで、モノクロとカラーの両方の素材を使っている。ジャーナリスティックな絵物語のスタンダードな形式を用いて、は言葉と絵への興味を融合させ、異例の高品質な物語を生み出した。1973年、革新的なカメラ「ポラロイドSX-70」と、そのメーカーから無制限に供給されたフィルムを使って作品を作り始める。このカメラの長所は、簡潔で詩的な世界観を追求する彼の姿勢にぴったり合っていた。70歳の病弱な写真家にとって、そのインスタントプリントは、年老いたマティスにとってのハサミと切り紙のようなものだったのである。このユニークなプリントは、半世紀にわたる写真制作の集大成ともいえる、エヴァンスの最後の写真だった。新しいカメラを手に入れたエヴァンスは、サイン、ポスター、そしてその究極の還元物である文字の形そのものなど、彼の永遠のテーマに立ち返ったのである。1975年4月10日、エヴァンスはコネチカット州ニューヘイブンのアパートで死去、71歳だった。

MoMA  Walker Evans (1903–1975) Biography, Works and Exhibitions | The Museum of Modern Art

2021年11月10日

社会に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス

The Tetons and the Snake River
The Tetons and the Snake River, 1942
Ansel Adams

アンセル・アダムスは、カリフォルニア州ヨセミテ国立公園を中心としたアメリカ西部の写真家として有名になり、その作品を通じて原生林地域の保護を推進した。彼の象徴的なモノクロ写真は、写真を芸術の域にまで高めた。1902年2月20日、サンフランシスコの金門橋近くで生まれ。アダムスの家族は、1700年代初頭にアイルランドからニューイングランドに移住し、カリフォルニアにやってきた。祖父は製材業を興しており、父親は保険代理店と化学工場を経営する実業家で、アマチュア天文学者だった。アダムスは後年、レッドウッドの森を枯渇させたこの業界を非難することになる。多動で病弱な子供で、友達も少なかった。悪さをしていくつかの学校を退学になった彼は、12歳の頃から家庭教師や家族に教育を受けた。独学でピアノを学び、これが彼の初期の情熱となった。1916年、ヨセミテ国立公園への旅行をきっかけに、写真の実験も始めた。暗室技術を学び、写真雑誌を読み、カメラクラブの会合に参加し、写真展や美術展にも足を運んだ。初期の写真は、ヨセミテ渓谷の商業施設「ベストスタジオ」で現像販売していた。

Hernandez
Moonrise, Hernandez, New Mexico, 1941

1928年、アダムスはベストスタジオの経営者の娘で、歌手を目指していたバージニア・ベスト(1904-2000)と結婚した。1935年に父親のハリー・キャシー・ベスト(1863-1936)が亡くなると、バージニアがスタジオを相続し、アダムス夫妻は1971年までスタジオの運営を続けた 。現在「アンセル・アダムス・ギャラリー」として知られるこの施設は、アダムス家が受け継いでいる。アダムスは、ヨセミテ国立公園内にある、巨大な半球形の花崗岩の写真「ハーフドームの顔モノリス」を含む最初のポートフォリオ『ハイシエラのパルメリアンプリント』を出版したことで、職業写真家としてブレイクする。パルメリアン(Parmelian)という言葉は編集者のジャン・チェンバース・ムーアが発明した無意味な言葉で、作品を「写真プリント」と呼ぶことは、芸術として真剣に受け止められることを許さないと信じていたからだった。この作品集は成功を収め、多くの商業的な仕事が舞い込んでくるようになった。

Old Faithful Geyser
Old Faithful, Yellowstone National Park, Wyoming, 1940

この作品をきっかけに、山や工場などの大規模なものだけでなく、詳細なクローズアップにも取り組むようになった。1932年、エドワード(1886–1958)ウィラード・ヴァン・ダイク(1906–1986)イモージェン・カニンガム(1883-1976)ソニア・ノスコゥヤック(1900–1975)らとともに、純粋主義の写真家たちによるグループ「f/64」の創設メンバーとなった。このグループは、前景と遠景の両方の画像のシャープさを最大限に確保するために、習慣的にレンズをその絞りを最小に設定することから、この光学用語を選んだ。この時期、アダムスは農業安定局 (FSA) の写真記録プロジェクトに加わった、写真家のドロシア・ラング(1895–1965)やウォーカー・エヴァンス(1903–1975)とともに、芸術を通じて社会や政治に影響を与えることを目指すようになった。アダムスが最初に取り組んだのは、ヨセミテ渓谷をはじめとする原生林地域の保護だった。

Manzanar
Harry Matsumoto with several orphans, Manzanar, California, 1943

特筆すべきは、第二次世界大戦中のアメリカ政府による日系人の不法監禁を訴えるため、カリフォルニア州マンザナー強制収容所での生活を撮影し、フォトエッセイを発表したことである。アダムスといえば風景写真と思いいがちな日本人には意外かもしれない。1941年の真珠湾攻撃の数週間前、アダムスは村の上に昇る月のシーンを撮影した。『ニューメキシコ州ヘルナンデスの月の出』と題されたこの写真を、アダムスは40年近くかけて再解釈し、1,000枚以上のユニークなプリントを制作し、これによって経済的な安定を手に入れた。1960年代に入ると、写真が芸術として認められるようになり、大きなギャラリーや美術館でアダムスの写真が展示されるようになった。1974年には、ニューヨークのメトロポリタン美術館で回顧展が開催された。1970年代の大半をネガのプリントに費やし、象徴的な作品の需要に応えていた。1984年4月22日、心臓発作を起こし、カリフォルニア州モントレー半島のコミュニティ・ホスピタルで82歳の生涯を閉じた。

LFCamera  Official Website of the Ansel Adams Gallery | Yosemite National Park, California

2021年11月9日

閲覧者が 5,500 人に達した Facebook ページ

FSA V
Russell Lee (1903–1986) Farmer, his wife, and brother in close harmony, New Mexico, 1940

ソーシャルメディア Facebook で私が管理しているページ「アメリカンルーツ音楽」の閲覧者が今日5,500人を超えた。なぜ日本人がアメリカ音楽のページを、と不思議に思う人が多いかもしれない。同サイトには外国人が作っている日本の浮世絵やヲタク文化のページもあるし、そういう意味では別に不思議ではないと思っている。ページを「いいね!」した人の性別と年齢の集計データを見てみよう。ユーザーのプロフィールに記載されている情報に基づいて集計された推定値でである。男女とも65歳以上の高齢者が一番多い。ソーシャルメディアは若者というイメージなので意外だ。利用者が Facebook プロフィールに入力した年齢や性別などのさまざまな要素に基づいて集計されたものだそうである。

国別利用者数

管理人が日本人と知った人から「日本語で」というメッセージが届いたこともあるが、外国人のほうが多いので、と返信した。国別閲覧者数のベストテンは次の通りである。( ) 内は人数。( ) 内は人数。

  1. アメリカ合衆国(3,667)
  2. 日本(302)
  3. イギリス(250)
  4. カナダ(146)
  5. オーストラリア(104)
  6. フランス(81)
  7. イタリア(76)
  8. ドイツ(54)
  9. スウェーデン(49)
  10. ブラジル(49)

アメリカからのアクセスが圧倒的に多いが、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏、そして英語を解する人が多いヨーロッパからと続くのがお分かりいただけると思う。今回はポルトガル語が公用語であるブラジルが「殿堂入り」した。日本が2番目だが、これは私の Facebook フレンドが含まれているからだと思う。閲覧者が数万を超えるページがざらにあるので、5,500人はまだまだひよっこページと言えそうだ。しかし現在の Facebook フレンドは1,352人だし、それなりのファンを得たと言えるかもれない。これまで1,000人単位でマイルストーンと表現してきたが、半マイルストーンは存在しない。次のマイルストーンは6,000人、日本流にいえば六里塚だが、さて、いつになることやら。

Facebook  ソーシャルメディア Faceboo のページ「アメリカンルーツ音楽」を閲覧する

2021年11月8日

近代ストレート写真を先導したエドワード・ウェストン

Dunes, Oceano, California
Dunes, Oceano, California, 1936
Edward Weston 

エドワード・ウェストンは、20世紀の写真界の巨匠の一人として広く知られている。自然の風景やアーティチョーク、貝、岩などの造形物を、8x10インチの大判カメラを使い順光で撮影した。ウェストンの感覚的に精密な写真は、まるで詩のようである。繊細な色調と彫刻的なフォルムは、後世の写真家たちの評価基準となった。アンセル・アダムス(1902–1984)はこう書いている。「ウェストンは、本当の意味で、数少ない創造的な芸術家の一人である。彼は自然の物質形態と力を再現し、これらの形態に世界の基本的な統一性を雄弁に語っている。彼の作品は、精神の完成を目指す人間の内なる旅を照らし出している」云々。エドワード・ヘンリー・ウェストンは、1886年3月24日、イリノイ州ハイランド・パークに生まれた。父親のエドワード・バーバンク・ウェストン博士(1846–1918)は産科医で、母親のアリス・ジャネット・ブルット(1851-1892)はシェイクスピア女優だった。16歳の誕生日に父親から最初のカメラをプレゼントされたが、それはコダックのブルズアイNo.2というシンプルなボックスカメラだった。1911年から1922年にかけて、カリフォルニア州トロピコで自身のポートレートスタジオを経営する。

Flora Chandler Weston
Flora Chandler Weston, 1909

ソフトフォーカスのピクトリアリスム作品で成功を収め、多くのサロンやプロの賞を受賞した。1915年、サンフランシスコ万国博覧会で開催されたモダンアートの展覧会を見たウェストンは、自分の作品に不満を抱くようになる。1920年には、スタジオのパートナーであるマーガレット・メイザー(1886–1952)とともに、半抽象画を中心とした硬派な作風を試みていた。1922年、ウェストンはニューヨークに行き、アルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)ポール・ストランド(1890–1976)チャールズ・シーラー(1883–1965)らと知り合った。そしてこの頃、オハイオ州のアームコ製鉄所を撮影したことが、ウェストンのキャリアの転機となった。これらの産業写真は、気取らず、目の前の現実に忠実な「ストレート」な写真であった。ウェストンは後に「カメラは人生の記録のために使われるべきであり、それが磨かれた鉄であろうと動揺した肉であろうと、そのもの自体の本質と真髄を描き出すために使われるべきである」と書いている。1923年、ウェストンはメキシコシティに移り、弟子であり恋人でもあるティナ・モドッティ(1896–1942)とスタジオを開いた。

Nude, 1936
Nude, Santa Monica, 1936

そして数年にわたってモドッティのポートレートやヌードを撮影した。モドッティを介して、メキシコ・ルネッサンスの芸術家、ディエゴ・リベラ(1886-1957)デヴィッド・アルファロ・シケイロス(1896-1974)ホセ・クレメンテ・オロスコ(1883–1949)などと親交を深めたが、彼らがウェストンの新しい方向性を後押ししたのである。1924年、ウェストンはソフトフォーカスの技術を完全に放棄し、自然の形を精密に研究し始めた。1926年にカリフォルニアに戻ったウェストンは、幼い息子のブレット(1911–1993)と共同で展覧会を開き、自然の形を写したクローズアップやヌード、風景など、代表的な作品を発表していく。 1926年にカリフォルニアに戻ったウェストンは、自然の形、クローズアップ、ヌード、風景など、彼の代表的な作品を造り始めた。1927年から1930年にかけて、ウェストンは貝殻、ピーマン、半分に切ったキャベツなどを記念碑的にクローズアップし、彫刻のようなフォルムの豊かな質感を引き出している。

Lily and Glass
Lily and Glass, Santa Monica, 1939

1929年にはカリフォルニア州カーメルに移り住み、カリフォルニア州のポイント・ロボス自然保護区で岩や木の写真を数多く撮影した。二人のウェストンは、1928年に一緒にサンフランシスコのスタジオを開設する。翌年にはカーメルに移り、ポイント・ロボス周辺での撮影を開始した。エドワード・スタイケン(1879–1973)とともに、1929年、ドイツのシュトゥットガルトで開催された「フィルムとフォト」展のアメリカ部門を組織したのもこの頃である。1932年、アンセル・アダムス(1902–1984)ウィラード・ヴァン・ダイク(1906–1986)イモージェン・カニンガム(1883-1976)ソニア・ノスコゥヤック(1900–1975)らとともに、純粋主義の写真家たちによるグループ「f/64」の創設メンバーとなった。このグループは、前景と遠景の両方の画像のシャープさを最大限に確保するために、習慣的にレンズをその絞りに設定することから、この光学用語を選んだ。1936年、写真家として初めてグッゲンハイムフェローシップを受賞する。

Civilian Defense
Civilian Defense, Carmel, 1942

そしてカリフォルニア州サンタモニカで撮影アシスタントであり、後に妻となるカリス・ウィルソン(1914–2009)をモデルに、ヌードと砂丘を撮影したシリーズを開始し、これは彼の最高傑作の一つとされている。同年末、約40点の写真を収録した『エドワード・ウェストンの芸術』がマール・アーミテージ社から出版された。1946年には、ニューヨーク近代美術館で300点のプリントによる大回顧展が開催された。翌年からカラー写真の実験を始めたウェストンは、ウィラード・ヴァン・ダイク監督(1906–1986)の映画『写真家』の題材にもなった。パーキンソン病を患い、1948年にポイント・ロボスで撮影したのが最後の写真となった。徐々に体調を崩していった最後の10年間、ウェストンは自分の生涯の作品を息子のブレットがプリントするのを監督した。1952年には「50周年記念ポートフォリオ」が出版された。その3年後には、1,000枚のウェストンのネガから8セットのプリントが制作された。1958年1月1日、カーメルで死去、71歳だった。

aperture_bk Edward Weston (1886–1958) Biography and Portfolio | Website of the Weston Family

2021年11月6日

マーク・ザッカーバーグのメタバースは危険なアイデア

Mark Zuckerberg's Metaverse
Mark Zuckerberg's Metaverse is a Dangerous Idea ©Kyoto Photo Press

マーク・ザッカーバーグは Facebook の現在のビジョンと、ソーシャルメディアの巨人が、インターネットの未来をどのように形成していくかについて、Connect 2021 でライブストリーミングを行った。ザッカーバーグは、そのビジョンを「メタバース」と呼んでいる。メタバースとは仮想現実のような世界で、私たちがお互いに交流したり、ゲームをしたり、ビジネスをしたり、現在オンラインで行っているあらゆることを行うことができる場所のことである。この方向性に対しいかに熱心に取り組んでいるかは、Facebook などのブランドを所有する親会社の名前を「Meta」に変更したことで分かる。ザッカーバーグはこれが未来だと考えており、メタバースの開発に数十億ドルを投資するという。それが最も合理的な方法であることは間違いないようだ。スクリーンやキーボードは、それほど直感的なものではない。3D 環境でのインタラクションは、次のステップなのだろう。Meta のような企業は何年も前からこのことを知っており、エコシステムを構築する者がゲームの次のリーダーになることを理解している。彼らは私たちが仮想世界に留まり、そこであたかも「現実世界」でほぼ同じことをしているかのようなデジタル環境を構築したいと考えている。現実世界での経験では得られない技術的な強化も加えてである。ザッカーバーグはライブストリームで、この試み全体についてとても熱心に語っていたようだ。しかしこのプロジェクトが向かう先の暗い側面については語る人は決して多くはない。

Horizon Workrooms - Remote Collaboration Reimagined

まず第一に、私たちは現在のバージョンのソーシャルメディアにすでに依存しており、次のバージョンではさらに依存度が高まる可能性が高いと言える。Facebook や Instagram をはじめとする運営者たちは、私たちが自分たちのプラットフォームを、できる限り利用するような体験を生み出すために、何十億ドルもの費用を費やしている。デザイン面から、アルゴリズムが私たちの目に映るものをコントロールする方法まで、あらゆる細部に渡ってである。それらはすべて、私たちをプラットフォームに夢中にさせようとするものだ。これには、多くのマイナスの副作用がある。例えば、人々の議論を呼ぶようなコンテンツは、そのようなコンテンツの方がエンゲージメントが高いため、アルゴリズムによって自然に促進されてしまう。このようなコンテンツに関わってしまうと、意見が二極化し、怒りや落ち込みを感じてしまう。ソーシャルメディアには良い面も多々あるが、非常に有害な面もある。例えば多くの若い女性は、自分の外見が Instagram の華やかなインフルエンサーの外見と一致していないと、自分のことを卑下しまう。しかしインフルエンサーたちが提示する画像は現実ではない。その多くは完璧に選択され、フィルタリングされている。すべてが現実よりも何倍も良く見えるように仕組まれている。ソーシャルメディアには多くの悪影響があることはわかっているが、メタバースがさらに中毒性を増すことを想像してみると良い。否定的な側面の数も増え、人々は偽物の世界でさらに多くの時間を浪費することになるだろう。10代の若者の中には、毎日何時間もソーシャルメディアを利用している人もいる。

Great Conquerors

メタバースではますます中毒性が増すだろう。私たちは、現実の世界よりもバーチャルな世界で交流するようになるに違いない。もうひとつの危険は、Meta のような企業が、私たちに関するデータをさらに多く取得することである。現段階では Facebook を別のタブで開きながらインターネットを閲覧したりしたときの行動は、すでに記録されている。しかし、ウェアラブルや、メタバースでのインタラクションを可能にするデバイスは、これを次の段階に進めるだろう。バイオメトリックデータも、プライバシーに関する大きな問題である。私たちの体がさまざまな刺激にどのように反応するかに基づいて、私たちの行動に関するデータがどんどん集まってくる。何十億人もの人々のデータを持っている会社があります。彼らは誰よりもあなたの行動を予測することができるのである。彼らは、私たちの体がさまざまな刺激にどう反応するかに基づいて、私たちの行動に関するデータをどんどん集めていくだろう。彼らは人々の行動に影響を与えることができる。潜在的に特定の感情を呼び起こすこともできる。このような力は簡単に悪用される可能性があり、これまでの数え切れないほどの例から、個人情報の取り扱いに関しては最も信頼できる企業ではないことがわかっている。ウェアラブルの次はマイクロチップ、そして次の明らかな方向性は、私たちの心の中と対話することであり、宇宙開発企業スペースXの創設者、イーロン・マスクはこれに取り組んでいる。これらの分野は最も危険な領域である。

 Metaverse  Social media Facebook is now Meta: A Social Technology Company | Connect 2021

2021年11月4日

砂嵐の避難民と強制収容された日系人を記録した写真家ドロシア・ラング

Members of the Mochida family awaiting evacuation bus, Hayward, California, 1942
Members of the Mochida family awaiting evacuation bus, Hayward, California, 1942
Dorothea Lange (1895–1965)

ドロシア・ラングは、彼女の言葉を借りれば「視覚的な生活」を送っていたので、本当の意味で自然な写真家だったと言えるだろう。風になびく洗濯物や、しわだらけで働きづめの老いた手、パンの施しを受ける失業者の列、バスターミナルの人々の群れなど、何かを見て、それを美しいと感じることができた。その目はカメラのレンズであり、カメラは彼女の言葉を借りれば「身体の付属品」であった。晩年の病気のとき、友人がベッドのそばに座っていると、突然「あなたを撮影したわ」と言ったという。少女時代から数十年にわたって、このカメラを使わない写真撮影に取り組んでおり、それは彼女の美術教育の基礎であり、最初の修行の場でもあったのである。学校に幻滅した彼女は、よく授業をサボって近所のニューヨークのローワーイーストサイドを散歩していた。なるべく目立たないようにして、物や人を見ていた。バワリーの浮浪者たち、賑やかな市場、シェヒテルや黒髪のカツラをつけたユダヤ人女性たち、などなどだった。ポリオの痕跡は消えなかったが、父親の記憶をほとんど捨ててしまった。

Ola self-help sawmill
Five members of Ola self-help sawmill co-op. Gem County, Idaho, 1939

母の旧姓であるラングを自分の姓とし、自分の子供にさえも父のことを語ろうとしなかった。「見知らぬ道、見知らぬ人の中に無理やり入る。とても暑いかもしれない。痛いほど寒いかもしれない。砂嵐の中で私はここで何をしているのだろう? 何が私をこの困難なことに駆り立てるのか?」… 後に、政府に雇われて大恐慌の影響を記録することになったとき、彼女は周囲で目にした困窮と絶望への同情を深めた。ホームレスの豆拾い労働者や、オクラホマの砂嵐の避難民が、飢え死にしそうになりながら生活しているキャンプに入り、彼らが安心して写真を撮れるようになるまで話しかけた。足を引きずることで、被写体との間に一瞬のうちに信頼関係が生まれると考えた。貧しさや不安を前にしても、彼女が「完全で安全な存在」に見えないからこそ、人々は彼女をより信頼したのだと語っている。1895年5月26日、ニュージャージー州ホーボーケンに生まれたラングは、この地で辛い出来事に遭遇し、人生に大きな傷を負った。7歳の時にポリオに感染し、足が不自由になった。近所の子供たちは彼女を馬鹿にし、母親のジョーンも足の不自由な娘を恥ずかしいと思っていた。

Family originally
Family originally FSA migratory labor camp, Imperial Valley, Oklahoma, 1939

1907年、彼女が12歳の時、父親が家を出て行ってしまった。それ以来、父とは連絡を取っていない。子供たちは、母方の祖母であるソフィー・ラングと大叔母のキャロラインの家に移ったのである。ジョーンはマンハッタンで図書館員の仕事に就いた。ドロシアは放課後、母親に会うためにマンハッタンのダウンタウンを長い時間かけて歩いている間に、視覚的イメージの豊かさを発見し、写真を撮りたいと思うようになったのである。ドロシアは独立心が強かった。母が望んだ教師になることはせず、アップタウンにあった有名な肖像写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)のスタジオに行き、雇用の依頼した。採用され、彼女のライフワークが始まった。カメラや照明のセッティングを学び、多くのお金持ちや有名人と出会い、ジェンスの人物描写の芸術性を学ぶ。ただ写真を撮るのではなく、カメラに人間を理解させるような表現をする。被写体を理解した上で肖像写真を作るという感覚は、まさに写真の芸術的な部分であり、この感覚を生涯持ち続けることになる。

Migrant Mother
Migrant Mother, a pea picker in Nipomo, California, 1936

裕福な人々の肖像写真を撮ることでスタートし、お金を稼いでいたが、現実の人間の状態を撮影するという、より深い挑戦を好んでいた。社会的な動乱や静かな苦しみがあるところでは、思いやりのある目で記録し、レポートした。大恐慌の中、政府は作家や学者、芸術家のために様々なドキュメンタリーの仕事を作っていたが、幸運にも農業安定局(FSA)の写真記録プロジェクトに雇われた。パートナーであり夫でもあった農業経済学者のポール・テイラー(1935-1965)と一緒に南部の奥地に赴き、仕事のない小作人とその家族を撮影した。オクラホマでは砂嵐からの避難民を撮影し、カリフォルニアでは仕事を求めてやってきた、テント暮らしのホームレスの家族に会い、写真を撮った。この時に撮影した7人の子供を抱えた、32歳の「出稼ぎ労働者の母」が彼女の最も有名な、アイコニックな写真となった。真珠湾攻撃の後、彼女は居住していた家から強制収容所に送られ日系日本人家族の悲痛な写真を撮り始めた。彼女は、日本人の血が流れているという理由だけで、何かしたわけでもないのに政府が人を監禁することに嫌悪感を抱いていた。

Pledge of Allegiance
Pledge of Allegiance, Raphael Weill Elementary School, San Francisco, 1942

またサンフランシスコの造船所の労働者を記録し、戦争と造船所の必要性を利用して、恐慌が始まって以来の実質的な賃金を稼いでいた。1960年代になるまでに、ラングは全米で有名な写真家となり、家族や友人との幅広いネットワークに囲まれていた。彼女はまた、感謝祭ディナーでも有名だった。感謝祭の宣言文を読み上げることから始まる大規模な集会で最高潮に達したのである。晩年の1965年には、ニューヨーク近代美術館でドロシア・ラングの回顧展が開催され、その栄誉が称えられた。写真家ロンダル・パートリッジ(1917–2015)の娘で、長年にわたってラングのアシスタントを務め、ラングがその家族を引き取った作家のエリザベス・パートリッジ(1951-)は、伝記『休むことのない熱情:ドロシア・ラングの生涯と作品』の中で、この驚くべき芸術家について書いている。ドロシア・ラングは1965年10月11日に他界、70歳だった。

aperture_bk  Dorothea Lange's Censored Photographs of FDR's Japanese Concentration Camps