2021年5月27日

ふたりのフランク:トム・ドゥーリー物語

Frank Proffitt
アンとフランク・ワーナーのために歌うフランク・プロフィット(1938年)

ノースカロライナ州ワタウガ郡の寒さが忍び寄る小屋で、少年はビスケットや炒めた肉の匂いと、父親が手作りのバンジョーを弾きながら歌う「トム・ドゥーリー」で目を覚ました。この殺人バラードは、ノースカロライナ州の山間部で広く歌われていたが、数十年後、サンフランシスコ湾岸出身の3人のクリーンな若者、キングストントリオのレパートリーになった。彼らはこの曲の粗削りな部分を修正し、バターのようなハーモニーと余裕のある伴奏を加えて、陰惨な殺人、絞首刑、グレイソンという謎の人物の冷酷な物語を表現したのである。若いリスナーたちは、この曲に熱狂し、全米で何百万もの売り上げを記録するとともに、キングストントリオは音楽界で最もホットなグループになったのである。この曲はポピュラー音楽の風景に地震のような変化をもたらし、長い間、労働組合や左翼、コーヒーハウスと結びついていたフォークミュージックに商業的な可能性をもたらした。音楽史家の間では、キングストントリオの「トム・ドゥーリー」が、フォークミュージックをコーヒーハウスからラジオに移行させたというのが定説になっている。ボブ・ディランやエルヴィス・プレスリー、そして文化的な力としてのロックミュージックについて幅広く執筆してきた長年の音楽評論家であるグレイル・マーカスによれば、この曲の影響はもっと深いものだという。マーカスは「コーヒーハウスには以前よりも多くの歌手が集まり、フォークフェスティバルも以前より多く開催されるようになった。ジョーン・バエズが1959年に登場する頃には、この種の音楽を求める多くの聴衆が集まるようになったが『トム・ドゥーリー』がその準備を整えていたのです」という。1868年にウィルクス郡出身のトム・デュラが絞首刑になった事件を題材にした「トム・ドゥーリー」には、他の伝統的な民謡と同様、何十ものバリエーションが存在する。キングストントリオがポップ・ミュージックの大ヒット曲にしたバージョンは、ワタウガ郡の寒い小屋と、歌と物語の才能を持ち、勤勉だが永遠に貧しい農民に成長した少年、フランク・プロフィットに由来する。

ノースカロライナ州の民謡を蒐集したアンとフランク・ワーナー(1940年)

フランク・ワーナーがいなければ、彼の家族が歌っていた「トム・ドゥーリー」はピック・ブリッチ・バレー周辺の山で死んでいたかもしれない。デューク大学で学んだワーナーはニューヨークのグランド・セントラル YMCA の幹部であり、1930年代に妻のアンとグリニッチヴィレッジに居を構え、カール・カーマーをはじめとする芸術家や知識人たちに囲まれていた。大恐慌時代の写真家、ウォーカー・エヴァンスやドロシア・ラングが小作人や移民、鉱山労働者などを彼らの尊厳を反映した形で撮影していた時代である。フランク・ワーナーはグリニッチヴィレッジのボヘミアンではなく、ウディ・ガスリーのような労働者の服ではなく、スーツにネクタイを締めて歌を披露していた。彼にとって伝統的な歌は、政治的な道具ではなく、文化的な宝であった。1938年2月、ニューヨークで開かれたある晩のパーティーで、ワーナーはエイブリー郡のコミュニティであるビーチマウンテンから帰ってきたばかりの男性のダルシマーに見とれていた。その人の説明によると、そのダルシマーは、音楽家であり、語り部であり、職人でもある大家族の家長、ネイサン・ヒックスが手作りしたものだという。1938年6月、二車線の高速道路や石ころだらけの馬車道を通って、子供たちの服やおもちゃを積んだ車で、ヒックスの家に向かって長旅をした。アン・ワーナーは、家の中には何人かで座る大きなベッドや「座面が抜け落ちたおんぼろの椅子」などがあり、貧しさを感じたという。ギター、バンジョー、ダルシマー、フィドルなどを手にした人々が、ワーナーを取り囲んだ。フランク・ワーナーは本領を発揮し、オーバーオールにネクタイ姿の男性や、日曜大工姿の女性や子供たちに囲まれて、楽しそうに歌い、叩き、歌を交換した。秘書であるアンは、速記で歌詞を書き留めた。フランクの耳には、角ばった顔で後ろ髪を束ね、髪の生え際がかすかに後退している、ひょろひょろの青年の歌声とギター演奏が聞こえてきた。

フランク・プロフィットの演奏をを録音するアン・ワーナー(1959年)

彼はニューヨークからの訪問者のために、ピックブリッチバレーの自宅から8マイル歩いてきたのだ。彼の名はフランク・プロフィット、生来のシャイな性格にもかかわらず、勇気を出して家に伝わる曲を数曲演奏した。そのひとつが「トム・ドゥーリー」だった。アン・ワーナーは「私たちと彼の人生を変えた一日だった」と書いている。プロフィットは「トム・ドゥーリー」の物語の登場人物であるデュラ本人と、彼がナイフで刺した女性ローラ・フォスターの2人を知る音楽一家に生まれた。デュラは南軍の兵士で、南北戦争から帰還後、恋人のフォスターを殺した罪で有罪判決を受け、絞首刑となった。デュラは無実であるが、真犯人であるアン・メルトンの罪をかぶったという説もある。プロフィットと妻のベッシー(ネイサン・ヒックスの娘)、そして子供たちはテネシー州の境界線からほど近い、丘の中腹にある小さな小屋に住んでいた。タバコが主な作物だったが、土地の開墾、溝掘り、オハイオ州トレドのスパークプラグ工場、テネシー州オークリッジのテネシー川流域公社での作業など、次々と仕事を受けていた。6人の子供がいる家族を養うことに疲れたのか、フランク・プロフィットはいつしか、少なくとも家の中では音楽を演奏しなくなっていた。息子のエド・プロフィットは、父親が楽器を演奏していたことすら知らなかった。1958年、音楽界は「トム・ドゥーリー」という新曲で沸き立っていた。1938年にビーチマウンテンに行った後、ワーナーズ夫妻は何度もこの地を訪れ、1941年にはプロフィットが歌う「トム・ドゥーリー」などを、彼らのために特別に作られた電池式の新しいレコーダーで録音した。、ワーナーはこの音楽を多くの人に聴いてもらいたいと考えていた。特に、ドラマチックな歌詞、口ずさみやすいメロディー、歌いやすいリフレインを持つ「トム・ドゥーリー」がお気に入りのようで、講演会で話したり、コンサートで演奏したり、ニューヨークのカーネギーホールで4,000人の観客を前にしたこともある。

Kingston Trio
キングストントリオ(左から)デイブ・ガード、ボブ・シェーン、ニック・レイノルズ(1959年)

この曲はアメリカの著名な音楽学者であるアラン・ロマックスにも歌われ、彼は1947年に出版された『フォークソングUSA』に収録した。ワーナーはプロフィットから聞いたバージョンに、歌詞を減らし、テンポを遅くするなどの変更を加えた。この曲は、全米の音楽サークルでゆっくりと流通し始め、さらに多くの曲集やレコードに収録され、1953年にはエレクトラ社のアルバム『フランク・ワーナー、アメリカのフォークソングとバラッドを歌う』にも収録された。キングストントリオがこの曲を初めて聴いたのは、様々な説がある。最も一般的な説は、1957年のある日、キングストントリオがよく演奏していたサンフランシスコのクラブ「パープル・オニオン」でオーディションを受けていた男性がこの曲を歌っているのを耳にしたというものだ。彼らはこの曲を気に入り、歌詞を見つけて、翌年のセルフタイトルのデビューアルバムに収録した。キングストン・トリオのメンバーであるボブ・シェーンは、2015年にイギリスの音楽ジャーナリストであるポール・スレイドに、自分とバンドの仲間がローマックスの本から歌詞とメロディを手に入れた可能性が高いと語っている。1965年11月22日、プロフィットは52歳の若さで、かつての山小屋からほど近い場所に建てた新しい家で眠りについた。彼の死は『ニューヨーク・タイムズ』紙に2段の追悼記事として掲載された。プロフィットは、ムーンシャイン、失恋、苦難、そしてグラウンドホッグ・グレイビーを歌った曲を生んだ山奥の、クリスマスツリー農場に隣接する小高い丘に埋葬されている。ワーナーは、プロフィットの音楽を特集したテレビ番組の中で、フォーク音楽の伝説的存在であるピート・シーガーに「俺たちは血のつながった兄弟のような関係になったんだ」と語っていたという。キングストントリオが録音した「トム・ドゥーリー」は600万枚の売り上げを記録し、1959年にはグラミー賞の最優秀カントリー&ウェスタン・パフォーマンス賞を受賞した。1998年にはグラミー賞の殿堂入りを果たし、2008年には米国議会図書館の「ナショナル・レコーディングス・レジストリ」に登録された。フランク・プロフィットは、世界中のコレクターが大切にしているバンジョーやダルシマーを作り、温かみのある声で歌い、複数の楽器に精通していた。しかし、彼の最大の才能は、小屋のストーブで松ぼっくりを焼いていたときに覚えた歌を、積極的に共有したことかもしれない。

YouTube  Frank Proffitt sings "Tom Dooely" Recorded by Anne and Frank Warner in 1940

2021年5月24日

トランプ前大統領の新たなブログ戦略の前途多難

Trump Cartoon
Facebook Ban Trump ©2021 Bart van Leeuwen

ドナルド・トランプ前大統領は、選挙結果に対する根拠のない陰謀論を振り撒き、1月6日の連邦議会議事堂で暴動を煽った結果、Twitter、Facebook、YouTube などのソーシャルメディアから追放された。いわば拡声器を失ったため、その動静がなかなか伝わって来なかった。5月上旬、Facebook の監視委員会は Facebook と Instagram の禁止措置を支持すると発表したが、同サイトには6カ月以内に決定を見直すよう求めた。同じころ Twitter は、トランプのチームが彼のブログやウェブページに関連して作成したアカウント "@DJTDesk" を停止した。この新しいアカウントを「停止されたアカウントに関連するコンテンツを置き換えたり、宣伝したりすることが明らかな意図である」と突き放した。そこでトランプは "From the Desk of Donald J. Trump" というブログを立ち上げたのである。ワシントンポスト紙によると、トランプのブログは初日に159,000件のソーシャル・メディア・インタラクションを獲得した。同紙がオンライン分析会社のデータを調査した結果によると、翌日には30,000件にまで減少し、それ以降は1日15,000件を超えていないという。つまり「オンラインでの無用の長物化」と呼ぶ兆候となっているというのだ。

From the Desk of Donald J. Trump

昨年までは Facebook ページが毎週数千万件のコメントやシェア、リアクションを受けていたことと比べると、大きな変化だといえる。トランプに関するインターネット上での反応はほとんど見られず、ホワイトハウスの叱咤激励の場も、従来のソーシャルメディアへのアクセスもない状態で、この5年間で最低となっているそうだ。ブログは Twitter の文字数に制約されたタイトなツイートに比べて、はるかに長文になる傾向がある。しかも応援や批判をするには、ハートマークをクリックするか、Twitter や Facebook にシェアする以外に方法がないインターフェースになっている。このような一方通行の会話は、ソーシャルメディアに慣れ親しんだ人たちにとっては歯痒いかもしれない。右翼のオンライン組織を研究しているノース・カロライナ州エロン大学のメーガン・スクワイア情報工学教授は「彼は風の中で口笛を吹いている」とポスト紙に語っている。曰く「人々は彼の小さな机上のプラットフォームにはついてこないし、そのことは数字を見ればわかる。彼にはもう、以前のように自分のコンテンツを人々の目の前に常に置いておくような能力はありません」云々。

news  Trump is sliding toward online irrelevance. His new blog isn't helping | Washington Post

2021年5月22日

ウェブブラウザ IE がついに終焉を迎える

Web browser
老兵ブラウザ IE はただ消ゆくのみ

マイクロソフトの公式ブログによるとウェブブラウザ IE(Internet Explorer)はマイクロソフト Edge へシフト、そして Windows 10 の Internet Explorer 11 デスクトップアプリは 2022年6月15日にサポート終了するという。レガシーアプリを IE で使っている企業ユーザーに対し、後継ウェブブラウザ Microsoft Edge の「IEモード」を使うよう勧めている。IEモードは少なくとも2029年まではサポートするとしている。はサポート終了の理由として、Edge が古い ActiveX コントロールやレガシーウェブサイトもサポートするIEモードを備えていることや、Edge のセキュリティが強固であることなどを挙げている。IE は1995年から提供しているウェブブラウザだが、動作の重さやセキュリティ、技術の面での問題が生じるようになった。しかし今でもシェア率は高いようだ。日本で IE がメインのブラウザだったころに社内の基幹システムをIEと連携して作ってしまった結果、IE 以外のブラウザを使うのが難しくなってしまいブラウザを変更できないまま現在に至ってしまったということが大きな理由としてあげられる。そのため「ブラウザといえばIE」と考える方も一定数いるほど、日本の企業とIEは切っても切れない関係となってしまっているのである。

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日本国内ウェブブラウザシェアランキング(2021年1月)

しかし IE11 以前のバージョンのサポートが終了してること、また最新の HTML のタグにも対応していないものもあり、私も体験しているが、ウェブサイト制作においてはレイアウトが崩れやすいことから、他のブラウザに比べて注意すべき点が多いブラウザである。長く続いた IE の時代もついに終わりを迎えることになった。クラウドが普及し始めた2005年前後から、クラウド用のクライアントとしてのブラウザが見直され「W3C の標準規格に準拠した」ブラウザが次々にリリースされた。NetScape から生まれ育った Firefox のシェアが次第に伸び、グーグルからは Chrome がリリースされ、iPhone の普及とともにアップルの Safari のシェアも高まった。このような流れに押され、当初は HTML5 への取り組みに消極的だったマイクロソフトも、徐々に独自規格から標準規格に移行した。そしてついに IE をディスコンにし、Edge という全く新しい HTML5 対応ブラウザを Windows 10 に標準搭載したのである。

Microsoft  Windows 10 の Internet Explorer 11 デスクトップアプリは 2022年6月15日 にサポート終了

2021年5月21日

続:ブログプラットフォーム Blogger から警告メールが来た

Blogger
ブログ作成ツールに落とし穴?

前エントリーで詳述したように、ブログ記事の一部が削除された。その理由は「投稿のコンテンツが、マルウェアとウイルスに関する Blogger のポリシーに違反していることが判明いたしました」ということだった。何よりも「ブログが停止されることもございます」という警告が怖い。そこで「なぜガイドラインに抵触しているかお教えいただければ幸いです」と担当者に返信した。すると翌日「コミュニティガイドラインに照らして再評価いたしました。再審査の結果、当該の投稿を復元いたしました」というメールが届いた。一見落着したようだが、再考することにした。遅きに失した感が否めないが「マルウェアを最も多くホストするのは Blogspot.com とソフォスが報告」というの記事が目に止まった。Blogspot.com とは Google が提供しているブログプラットフォーム Blogger のことである。ソフォスによると、特に Google が提供する Blogger には問題があり、同ブログサイトだけで全マルウェアホストの2%近くを占めるという。

coronavirus

Blogger サイトは悪意のあるコードをホスティングしている可能性があるだけでなく、犯罪的な攻撃者がブログのコメント欄に悪質なサイトへのリンクを挿入するという危険性もあるというのだ。そこで改めてブログのコメントを調べてみた。すると表示設定を OFF にしていので気づかなかったが、怪しげなコメンをがずらりと並んでいるのを発見した。明らかに特定サイトに誘導しようとするコメントなのである。そこでコメントをすべて削除、さらにコメント欄を撤去した。警告通りマルウェアに汚染されていたとすればコメントしか考えられないからだ。この措置の効果を期待したい。Blogger サイトは悪意のあるコードをホスティングしている可能性があるだけでなく、犯罪的な攻撃者がブログのコメント欄に悪質なサイトへのリンクを挿入するという危険性もあるというのだ。そこで改めてブログのコメントを調べてみた。すると表示設定を OFF にしていので気づかなかったが、怪しげなコメンをがずらりと並んでいるのを発見した。ブログは私にとって残された自己表現手段であり、かけがえのない人生の記録帳でもある。これが万が一無くなると想像するのは余りにも辛い。蛇足ながらウェブ上で最も多くマルウェアをホスティングしているのは Blogger で、ウェブでホスティングされている世界のマルウェア全体の2%を占めてるそうである。

Blogger  マルウェアを最も多くホストするのは Blogspot.com | ソフォス調査 | CNET Japan

2021年5月16日

ブログプラットフォーム Blogger から警告メールが来た

Blogger
魅力あふれるブログプラットフォームだが

この「写真少年漂流記」のほかに「American Roots Music」というブログを持っている。いずれもグーグルのブログプラットフォーム Blogger で運営しているが、最近、後者のブログのエントリーを削除したという警告メールが続いて届いた。メールの要旨は次の通りである。

Blogger をご利用いただきありがとうございます。ご存知のこととは存じますが、Blogger のコミュニティガイドラインでは、Blogger で許可されるコンテンツと禁止されているコンテンツについて概説されています。Blogger では、お客様の「The Golden Eagle String Band: Grand Canal Ballads - History of the Erie Canal」というタイトルの投稿について審査の必要があるとの報告を受けました。審査の結果、当該の投稿は Blogger のガイドラインに違反していると判断し、削除いたしました。

この投稿のコンテンツが、マルウェアとウイルスに関する Blogger のポリシーに違反していることが判明いたしました。本メールに記載されているリンクからコミュニティガイドラインのページにアクセスし、詳細をご確認ください。これ以外にも違反が判明した場合、お客様のブログが停止されることもございますので、お客様のブログのすべての投稿が Blogger の基準に準拠していることを確認されることをおすすめいたします。

削除理由として「マルウェアとウイルスに関する Blogger のポリシーに違反している」とあるが、音楽ディスクのカバー写真と曲目などを紹介しているに過ぎない。もし指摘の通りだったら他のエントリーも軒並み同じということになる。すべての投稿を調べるようにと言われても、すでに投稿数は1,600を超えているので無理な話である。そして何よりも「ブログが停止されることもございます」という警告が怖い。そこで「なぜガイドラインに抵触しているかお教えいただければ幸いです」と担当者に返信した。すると翌日「コミュニティガイドラインに照らして再評価いたしました。再審査の結果、当該の投稿を復元いたしました」というメールが届いた。要するにガイドラインに抵触しているという疑義が晴れたのだが、プロセス全体が不明な点が気になる。悪意のあるマルウェアが含まれていたという嫌疑は、何ををきっかけにしたか分からないからだ。ブログ閲覧者の通報なのか、それとも監視ロボットの誤審なのだろうか、どうも腑に落ちない。しかし押し付けの広告がなく、カスタマイズがフレキシブルな Blogger は依然魅力に溢れているし、乗り換えるつもりは毛頭ない。

google Google 検索セントラル | ドキュメント | マルウェアなどの望ましくないソフトウェア

2021年5月15日

切手になった第二次世界大戦に従軍した日系アメリカ人兵士

USPS Stamp

アメリカ郵政公社は2021年6月3日、第二次世界大戦中にアメリカ軍に従軍した日系人兵士をデザインした記念切手を発売する。従軍した日系人兵士は約33,000人だった。日系人や日本人移民に対する収監政策が、1942年から終戦後の1949年に亘って実施された。アメリカ国民でありながら生まれ育った国ではなく、親の国に忠誠を誓っているという理由で、強制的に収容所に入れられたのである。旧日本海軍による真珠湾奇襲攻撃が残した影だった。兵士の他にも何千人もの二世が、太平洋戦域で軍事情報局(MIS)の翻訳者、通訳者、尋問者として活躍し、約1,000人が第1399工兵大隊に所属し、100人以上の二世女性が女性陸軍部隊に参加した。切手の絵柄は "Go for Broke" をモットーとした第442連隊戦闘団の隊員の写真をモチーフにしている。この写真は1944年にフランスの鉄道駅で撮影されたもので、切手は凹版印刷法で印刷されている。文字は日本の伝統的な縦書きを思わせるようにデザインされている。第442連隊戦闘団はヨーロッパ戦線に投入されたが、アメリカへの忠誠心を示すため、果敢に戦い、大きな戦果を上げた。それゆえに「やはり日本人は不気味」という逆の評価を受けてしまったという負のレガシーも見逃せない。

PDF  The 442nd Regimental Combat Team "Go for Broke" by Dylan W.(PDF file 1.80MB)

2021年5月13日

どうしてユキノシタを英語でビーフステーキと呼ぶのだろう

ユキノシタ(京都市北区衣笠大祓町)

昼食のためちょっと外出、新型コロナウィルス感染症 COVID-19 を避けようというわけではないが、すぐに戻って部屋に籠ったまま。いろいろ調べ物をしていたが、それに飽きて庭へ出る。狭い庭をよく猫の額と表現するが、英語では "small about the size of a postage stamp" つまり切手のように小さいと謙遜する。それはともかく、ユキノシタ(雪の下)が咲いてるのを思い出したのだ。虎耳草、鴨脚草、鴨足草、金糸荷という別名が面白い。撮影後、海外の写真共有サイトにアップした。基本的には英語なので、ユキノシタの英名を調べてみる。ウィキペディアの英文サイトには学名 Saxifraga stolonifera がそのまま標題として使われているが、別のサイトによれば "Beefsteak Geranium" と呼ぶらしい。ビーフステーキ・ゼラニウム、なんとビーフステーキの名が冠されているのである。何故ビーフステーキのか、どうもよく分からない。

2021年5月10日

閲覧者が 4,500 人に達した Facebook ページ

American Roots Music

ソーシャルメディア Facebook で私が管理しているページ「アメリカンルーツ音楽」の閲覧者が今日4,500人を超えた。なぜ日本人がアメリカ音楽のページを、と不思議に思う人が多いかもしれない。同サイトには外国人が作っている日本の浮世絵やヲタク文化のページもあるし、そういう意味では別に不思議ではないと思っている。ページを「いいね!」した人の性別と年齢の集計データを見てみよう。ユーザーのプロフィールに記載されている情報に基づいて集計された推定値でである。男女とも65歳以上の高齢者が一番多い。ソーシャルメディアは若者というイメージなので意外だ。利用者が Facebook プロフィールに入力した年齢や性別などのさまざまな要素に基づいて集計されたものだそうである。

User

管理人が日本人と知った人から「日本語で」というメッセージが届いたこともあるが、外国人のほうが多いので、と返信した。国別閲覧者数のベストテンは次の通りである。( ) 内は人数。

  1. アメリカ合衆国(3,000)
  2. 日本(246)
  3. イギリス(216)
  4. カナダ(108)
  5. オーストラリア(85)
  6. フランス(71)
  7. イタリア(69)
  8. ドイツ(44)
  9. ブラジル(40)
  10. スペイン(39)

アメリカからのアクセスが圧倒的に多いが、イギリス、カナダ、オーストラリアの英語圏、そして英語を解する人が多いヨーロッパからと続くのがお分かりいただけると思う。日本が2番目だが、これは私の Facebook フレンドが含まれているからだと思う。閲覧者が1万を超えるページがざらにあるので、4,500人はひよっこページと言えそうだ。しかし現在の Facebook フレンドは1,260人だし、それなりのファンを得たと言えるかもれない。これまで1,000人単位でマイルストーンと表現してきたが、半マイルストーンは存在しない。次のマイルストーンは5,000人、日本流にいえば五里塚だが、さて、いつになることやら。

2021年5月9日

画像編集ツール Photo Editor Pixlr 導入顛末記

Pixlr

電源 ON からログイン画面になるまでの時間が約10秒と早く、アプリケーションの立ち上げや Google クラウド上のファイルの読み込みも、これまでのパソコンより断然早い Chromebook を愛用している。ただ画像編集に関しては若干の不満があった。拡張機能「Polarr - Online Photo Editor」を使ってみたものの、やはりどうしても Phoroshop と比較してしまい、物足りなさを感じてきた。そこで無料の高機能画像編集ツール Pixlr を使ってみた。Pixlr はクラウドベースの画像ツールとユーティリティのセットで、ウェブブラウザを介して操作する。Windows や Mac は無論 Chromebook やタブレットに対応している。ご存知 Chromebook のデメリットは、ネットに接続できない環境ではほぼ使用できないという点だが、この点は Pixlr も同じである。使用する場合はブラウザにブックマークしておいたいいだろう。ブラウザ Chrome だったら、画面右上の設定ボタン をクリックし〔その他のツール〕〔ショートカットを作成…〕を選択すると、Windows のデスクトップ画面あるいは Chromebook のランチャー画面にアイコンを置くことができる。

Interface
Interface of Online Photo Editor Pixlr

これは Pixlr のインターフェースだが、画面の上部に「メニューバー」その下に「オプションバー」そして左側には「ツールパレット」が2列、さらに右側には「ナビゲーション」「レイヤー」「履歴」のパネルがある。なんとなく Photoshop のクローンとも言えそうな画面だが、その点では違和感がない。画像フォーマットは PSD、PXD、JPEG、PNG、WebP、SVG などに対応している。主な機能は次の通り。

  • 画像をもとにサイズや明るさ調整などの画像補正機能
  • ブラシツールや塗りつぶしツールなどイラスト作成機能
  • レイヤーやフィルターなど高度な画像加工機能
  • 複数のファイル形式の取り扱い
  • Facebook などソーシャルメディアへの投稿機能

回転、トリミング、リサイズ、色調補正 といった処理機能に加えて、種類の豊富なペイントブラシ、タイプを8つの中から選べるペンツール、ぼかし、シャープ などのフィルタ効果、レイヤー、クローンスタンプ、修正ブラシ、テキスト合成、AI による背景除去などの々の機能が付いた本格的な画像処理ツールである。2008年にスウェーデンのオーラ・セヴァンダーソンが非営利団体として設立、開発されたが、2011年にオートデスクが買収した。そして2017年にロイヤリティフリーの画像を販売する 123RF の手に渡った。

technology オンライン画像編集ツール Photo Editor Pixlr 2021 の公式ウェブサイト

2021年5月7日

ストリート写真家ルッツ・ディルの眼差し

Toronto1957
オンタリオ州トロント1957年
Lutz Dille (1922–2008)

20世紀のストリート(路上)写真家といえば、フランスのアンリ・カルティエ=ブレッソン(1908–2004)やロベール・ドアノー(1912–1994)、あるいはアメリカのロバート・フランク(1924– 2019)そして没後に作品が発見されたヴィヴィアン・マイヤー(1926-2009)などが脳裡に浮かぶ人が多いだろう。しかしここにあげるルッツ・ディル(1922–2008)の名が日本では浸透していないのは何故だろうか。もしかしたら拠点がカナダだったかもしれない。ストリートは日常生活の舞台のようなものであり、私たちの存在の多くを占める公共の場である。特に大都市では、都市環境の臨界点がアーティストに豊富な視覚的素材と活動を容易に提供している。だからこそ、ストリート・ドキュメンタリー写真というジャンルが、写真というメディアの最も特徴的な要素のひとつとして発展してきたのも不思議ではない。1951年、ドイツ人の若き写真家ルッツ・ディルは、移民船を改造した船に乗って、ハンブルグからケベック・シティに渡りた。ハミルトンで列車を降りた彼は、このポジティヴィズムの雰囲気の中だった。持ち物は、着替えと現金30ドル、そしてライカIIIと引き伸ばし機だけだった。英語の知識はなかったが、29歳の移民の彼は限りなく才気にあふれていた。やがて彼はカナダを代表するドキュメンタリー写真家の一人となる。

NewYork1959
ニューヨーク1959年

ルッツ・ディルはライプツィヒの裕福な中産階級の家庭に生まれた。1933年にヒトラー率いる国家社会主義者が政権を握り、軍服用の革の需要が高まってからは、毛皮の商売に力を入れていた。郵政官僚であった父は、木製ビューカメラを所有するアマチュア写真家であった。2002年に書かれた未発表の回想録の中で、ディルはドラマチックな家族の写真撮影の様子を生き生きと描写している。それは、彼のブルジョア家庭が高度な経済状態を享受していたことと同様に、写真を撮ることの複雑な状態とそれに必要な専門知識を物語っている。ナチスの計画に参加したくないと思い、自転車で国境まで行き、デンマークに逃れた。これをきっかけに、様々な状況から逃避する人生が始まったのである。写真を撮ることは、彼に不変の感覚を与え、生涯の避難所となるだろう。しかし、デンマーク当局は彼をドイツの警察に引き渡し、ディルはすぐに逮捕、軍に徴兵されて東部戦線に送られた。彼は偵察写真家として働き、ツェッペリンからロシアの領土を撮影した。戦後、ディルはハンブルグの美術大学に通っていたが、機会があればすぐに「新しい人生が送れる」と聞いていた新大陸のカナダに移住したのである。最初は、汚い下宿やフレッド・ビクター・ミッションで暮らしていた。物質的には決して恵まれていないが、心は優しい人々の優しさに触れた。彼は疲れを知らずにカメラを持って街を歩き回り、モノクロで撮影していた。ノバスコシア州、メキシコ、スウェーデン、アイルランド、イギリス、イタリア、ニューヨークなどを旅して、印象的な写真を生み出したのである。ルッツ・ディルの写真は、カナダ国立美術館、ニューヨーク近代美術館、ハンブルグの尖筆芸術協会などに収蔵されている。

museum  Lutz Dille (1922–2008) Works | National Gallery of Canada (Ottawa, Ontario)

2021年5月4日

古代オリンピックはバラ色ではなかった

Panathenaic amphora
パナテナイア祭の花瓶に描かれた徒競走(紀元前530年頃)メトロポリタン美術館蔵

西暦165年のオリンピック大会は最悪の結末を迎えた。メインスタジアムからほど近い場所で、大勢の観衆に見守られながら、ペレグリナス・プロテウスという老人が燃え盛る火炎に飛び込んだ。この焼身自殺は、この競技会の創設者のひとりであるヘラクレスの神話的な死を模したものであり、人間界の腐敗した富への抗議の意思表示であると同時に、教祖の信奉者たちへの苦しみに耐える方法の教訓でもあった。ペレグリナスの物語は、目撃者である古代の風刺作家ルキアノスによって語られていまる。彼は、老人の最後の瞬間を描いただけでなく、古代オリンピックの交通問題についても言及している。ルキアノスは「悪評」を立てようとしている「酔狂な老いぼれ」だと彼は嘲笑した。しかしこの話は、ローマ支配下でのオリンピックの衰退を示すものではない。ペレグリヌスが芝居がかった自殺の機会を選んだのは、オリンピックが依然として大きな魅力を持っていたからであり、この事件がこれほど大きく書かれたのは、その文化的意義が大きかったからである。現代のオリンピックの起源について考えるとき、ローマ時代を避け、代わりに古典ギリシャの栄光の日々に集中する。

紀元前2世紀中頃から紀元後4世紀末にキリスト教皇帝によって廃止されるまで、ローマの支配下で祝われていたという意味で、古代競技は「ギリシャ」と同じくらい長い間「ローマ」だったという事実を無視しがちだからだ。現代の多くの説では、ゲームの真の起源は、紀元前6世紀から4世紀にかけての古代ギリシャ時代にあるとされているが、もしかしたらもっと前かもしれない。伝説では、古代ゲームは紀元前776年に創設されたとされているが、その年代を正当化する史料は見つかっていない。私たちにとって、この「元祖」オリンピックの話は、勇敢なアマチュア競技者たちの姿を思い起こさせる。男性だけだが、猛烈な愛国心を持ち、非常に限られた範囲のスポーツで気高く競い合っていた。徒競走、戦車競技、レスリング、ボクシング、円盤投げ、槍投げなどだ。余談ながらパナテナイア祭の花瓶に描かれた選手たちは素っ裸である。紀元前720年にメガラ出身のランナーであるオルシッポスが、スタディオンレースでパンツを脱ぎ捨てて初めて裸で走ったという。また紀元前8世紀にスパルタ人がオリンピックに裸体を導入したという伝聞がある。紀元前776年にスタディオンレースで優勝したコロイボスは、オリンピアでの最初の勝利者として記録されているが、短パンをはいていたかどうかは定かではない。しかし8世紀後半に、選手の裸体が一般的になっていたことは確かなようだ。

東京オリンピック強行開催は狂気の沙汰

競技は個人で行われ、勝利という純粋な栄光のために、物質的な報酬はなかった。オリンピックの競技で1位になってもメダルはもらえず、オリーブの葉の花輪が贈られるだけで、運が良ければ競技場の近くや故郷に自分の銅像が建てられることもあった。また、最も幸運な人は、詩人のピンダルやその弟子が特別に作った「勝利のオデッセイ」の中で祝福された。さらに、すべての競技は神々を讃えるために行われた。オリンピアはスポーツの場であると同時に宗教的な聖地であり、競技はギリシャ世界を一つの宗教文化の旗の下に統合していた。ギリシャの都市国家は、普段は戦争ばかりしていたが、4年に一度、オリンピック休戦宣言が出され、大会期間中は紛争が中断され、ギリシャ世界のどこからでも参加できるようになった。それは、スポーツやフェアプレーが、私利私欲のための軍事的な紛争や対立に勝る瞬間だったのである。例えば、古代オリンピックにはメダルも女性も存在しなかった。しかし、全体として、当時のオリンピックが実際にどのようなものであったかを示す絵画が大きな誤解を招いている。それは、古代ギリシャ人自身よりも、近代オリンピック運動の創始者たちの関心事に負うところが大きい。1896年に近代オリンピックを成功させたピエール・ド・クーベルタン男爵のような人たちは、アルコールを嫌ったり、世界の平和と調和についてのかなり漠然とした考えを持っていたりと、自分たちの強迫観念をオリンピックに体系的に投影させたのである。

1980年代までの近代オリンピックの責任者たちがこだわっていたのは、アマチュアリズムへの崇拝だった。クーベルタンとその後継者たちは、現代のオリンピック選手として温かく迎えられたアマチュア競技者と、絶対にそうではないプロの妨害者との間の境界線を、時に残酷なまでの線引きをした。近代オリンピックの歴史の中で最も悪意に満ちた事件の一つは、1912年のストックホルム大会で五種競技と十種競技の両方で優勝した優秀なアメリカ人選手、ジム・ソープの話である。スウェーデンのグスタフ国王から記念の胸像を贈られたとき「国王、ありがとう」と答えたと言われている。後にアメリカのマイナーリーグでプレーしていた際に、週に25ドルという些細な報酬を受け取っていたことが明らかになり、プロに再分類され、メダルを剥奪され、胸像の返却を求められた。しかし1983年になって、ようやく遺族にレプリカのメダルが送られてきたのである。ソープは、1953年に貧困の中で亡くなっていた。いずれにせよ、古代および近代オリンピックは負の側面を持っている。新型コロナウィルス感染症パンデミック下、東京オリンピック強行は狂気の沙汰である。

PDF  The Ancient Olympic Games: Being Part of the Experience (PDF File 362KB)

2021年5月1日

ダイアン・フォッシー:ゴリラを愛しゴリラに死す

Brent Stirton
ヴィルンガ国立公園で殺害されたマウンテンゴリラの遺体を運ぶレンジャー
早川書房 (1986/02)

世界自然遺産でもあるブウィンディ原生国立公園を中心とするヴィルンガ山地に生息するマウンテンゴリラ。乱獲などにより絶滅危惧種に指定され、生息数はわずか600頭あまりとみられている。これは2007年にフォトジャーナリストのブレント・スタートン氏が中央アフリカのコンゴ共和国東部で撮影した「死体収容の写真」である。2008年の「世界報道写真展」入賞作品で、スタートン氏の特別許可を得て旧ブログ掲載したものである。その際、霊長類学者ダイアン・フォッシー(1932-1985)に関するコメントをいただいた。マウンテンゴリラの研究と保護に半生を捧げた極めて有名な女性動物学者で、邦題「愛は霧のかなたに」という映画にもなったくらいだ。絶滅危惧種の動埴物保護を巡る議論が注目され始めたのを機会に、その生涯を再考するのも無駄ではないだろう。書棚に著作『霧の中のゴリラ』があったのを思い出し、再読してみた。物語は1963年、ケンタッキー州ルイヴィルの病院に勤めていたフォッシーが、銀行ローンを借りてアフリカ旅行に出るところから始まる。目的はザイール(コンゴ民主共和国)のミケノ山のマウンテンゴリラを訪ねること、そしてタンザニアに住んでいた人類学者ルイス・リーキー博士夫妻に会うことだったが、その両方の望みがかなえられる。3年後、リーキー博士の助力でを得てザイールのカバラでゴリラと再開する。野生のゴリラの群れに入っていくというフィールドワークを開始したのだが、1967年、政治的動乱によりルワンダに拠点を移すこととなった。ベルギー政府が制定したヴィルンガ火山国立公園内に、カリソケ研究センターを設置したが、以後、アフリカにおけるマウンテンゴリラの研究および保護の文字通りセンターの役割を担うことになる。公園内には「密猟者」によって罠が仕掛けられていた。主な獲物はアンティロープ(羚羊)でゴリラが標的ではなかった。ところがゴリラも誤って掛かり、彼女は罠の撤去に奔走し始める。もうひとつ彼女が手掛けたのは、遊牧民トゥウィ族が放すウシを公園の外に追い出すことだった。なぜそうしたか。

Dian Fossey
マウンテンゴリラと一緒に生活したダイアン・フォッシー(撮影:ロバート・キャンベル)

それは「動植物相の保護のために作られた公園をそのまま残すか、それとも個人的利益を求める侵入者に利用されていいのか」という信念であり、妥協はできないというものだった。数年かけてウシを追い出すことに成功するが、その前に興味深いことに触れている。火山群内にウシを放す習慣は少なくとも400年前に遡り、代々受け継がれてきた。だから彼らは自分たちの土地だと考えている、と。まさに同じ理由で「密猟者」たちも、自分たちの狩猟場であり、公園は後から勝手に設定されたものだと考えていた可能性がある。国立公園に指定したのは、あとからやってきた白人たちである。かつて私はケニアとタンザニアが国境を閉鎖している時に両国を訪れたことがある。国境を超えるため、ケニアのナイロビからエチオピアのアジスアベバに飛び、タンザニアのキリマンジャロ空港に降り立つという大迂回の旅だったが、遊牧民マサイ族は国境を徒歩で悠然と越えていた。その代わり彼らの土地は、動物保護区や国立公園に指定されて遊牧生活が困難となってしまったのである。そのこととゴリラ保護のためのルワンダの火山国立公園がオーバーラップするのは私だけだろうか。しかし彼女は強調する。絶滅の危機に瀕してる多数の種を、例えば観光事業で生存の機会を増すことは期待できないが、効果的な活動があるという。それは「野生動物の生息域を頻繁にパトロールして、密猟者の装備や武器を壊すこと」であると。そうすれば数が減ってきている森の動物に生きてゆくチャンスを提供できるというのだ。1985年12月26日未明、ダイアン・フォッシーは、カリソケ研究センターのキャビンの中で惨殺死体となって発見された。54回目の誕生日の数週間前のことで、二度にわたってナタで頭と顔を打たれていたという。

YouTube  ナショナルジオグラフィック「ダイアン・フォッシー:真実は霧のかなたに」予告編(1:20)