2017年9月28日

ファシストになるより豚のほうがマシさ

Porco Rosso by Hayao Miyazaki

旧プロフィール画像
これまでブログやソーシャルメディアなどのプロフィール用に、江戸時代の浮世絵師、東洲斎写楽が描いた役者「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」がローライフレックスを持った合成画像を使ってきた。ところが思うことがあり、これを廃棄、スタジオジブリ制作の宮崎駿監督作品「紅の豚」に切り替えた。同アニメの中の名言「ファシストになるより豚のほうがマシさ」をイラスト化したものだ。宮崎駿監督作品は大人の鑑賞に耐えるものばかりだが、基本的には子ども向けに作られている。そのすべてを観たわけでは無論ないが、この「紅の豚」と「風立ちぬ」が印象に残っている。いずれも戦闘機が重要な役割を担った作品だが、小さな子どもにはおそらく理解できないと思われる。だが、二眼レフを意味する twin_lens がかつてのネットワーク上のハンドルだったこともあり、写楽+ローライフレックスのプロフィール画像は捨て難いものがある。しかし昨今のこの国を覆う右傾化を憂慮、自らのリベラルの立場を自ら離すまいという、ささやかな気持ちを改めて確認するためでもある。軍靴の響きが聴こえてきた。たったひとりの孫の顔を見るたびに、この子を戦場に送らせてはならないと強く願う今日この頃である。

2017年9月25日

法華寺十一面観音菩薩立像ご開帳

国宝十一面観音菩薩立像

2017年10月25日(水)~11月13日(月)9:00~17:00 受付は~16:50
法華寺(奈良市法華寺町)0742-33-2261 http://www.hokkeji-nara.jp/

法華寺本尊十一面観音菩薩立像は、海龍王寺、不退寺とともに「佐保路の三観音」のひとつである。乾漆維摩居士坐像、木造仏頭、木造二天頭なども同時に公開される。1918(大正7)年にこの像に接した若き哲学者、和辻哲郎が「胸にもり上つた女らしい乳。胴体の豊満な肉づけ。その柔らかさ。しなやかさ。さらにまた奇妙に長い右腕の円さ。腕の先の腕環をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に移つて行く間の特殊なふくらみ。それらは実に鮮やかに、また鋭く刻みだされてゐるのであるが、しかしその美しさは、天平の観音のいづれにも見られないやうな一種隠微な蠱惑力を印象するのである」(岩波書店『古寺巡礼』1947年改定版)と絶賛し、後に広く一般に知られるようになった。

2017年9月23日

写真が写真に帰る日

野島康三「題名不詳」1931年(京都国立近代美術館蔵

伊奈信男写真論集
何度かこのブログに書いてきたたが、写真術が生まれて間もなくソフトフォーカスが流行り始めた。後にピクトリアリズム写真と呼ばれるようになったのだが、ふたつの理由があった。写真は芸術かという論争を経て、後期印象派の真似をして芸術たらんとした。それからディテール描写への拒否という感覚から流行したものだ。20世紀になり、その旗手は米国ではアルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)、日本では野島康三(1889-1964)であったが、やがてふたりともストレート写真に回帰する。戦後、といっても1970年代後半だが、欧州においてトイカメラブームが勃発した。後年、日本には商業主義と絡んだカタチで輸入されて販売されたが、ダイアナ、ロモ、ホルガといったB級カメラを使った新たな表現であった。そこには写り過ぎるカメラへのアンチテーゼが潜在、写真はブレていてもよい、不鮮明でもよい、という一種の芸術運動であった。別の潮流にピンホールやゾーンプレート写真があったが、私はこれらを一緒に第2次ピクトリアリズムと呼んでいる。ところが昨今、デジタル画像処理によって、さらに新たな写真表現が生まれつつある。電子フィルターによって作られる映像群は、トイカメラ写真同様、ストレート写真から離れた表現になっている。私はこれをさらに第3次ピクトリアリズムと呼ぼうと思っている。とはいえ、私がこれに染まっているわけではない。興味を持っているが、その先にある新たなストレート写真への回帰を予感しているからだ。ふと伊奈信男写真論集『写真に帰れ』(平凡社2005年)が書棚にあることを思い出した。伊奈信男(1898-1978)が1932年5月、写真同人誌『光画』創刊号に寄せたものの復刻で、日本における近代写真批評の嚆矢(こうし)となった論文である。写真の独自性を主張する内容となっており、芸術写真と絶縁せよと迫った。名取洋之助(1910-1962)が立ち上げた「日本工房」に参加した木村伊兵衛(1901-1974)も同人だったが、報道写真に傾斜していた。同誌の出版費用を負担した野島康三は、芸術写真に拘り、従って必ずしも『光画』の論調に同調したわけではなかったようだ。しかし彼もストレート写真に回帰、一世風靡していたピクトリアリズムの衰退を招いたのである。歴史は繰り返すという諺があるが、デジタル処理した「芸術」が席巻している現代の写真界、ひょっとしたら「写真に帰る」雪崩現象が起こるかもしれないと予感している。

2017年9月19日

ラッパがついたフィドルのお話

Julia Clifford and her sister Bridgie Kelleher, Knocknagree, Co. Cork, Ireland, 1984.

ボストン美術館蔵
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世の中には面白い楽器がいろいろある。写真左はアイルランドのケリー郡出身のジュリア・クリフォード(1914-1997)だが、フィドルに蓄音機のラッパに似た拡声装置がついている。ストロー・フィドルだが、ストローは麦藁を意味する Straw ではなく Stroh と綴る。オーストラリアのラム酒、シュトローと綴りは一緒だが、無論関係ない。フランクフルト生まれでイギリスに移住した電気技術者ジョン・マタイアス・オーガスタス・ストロー(1828-1914)に由来する。ストローは考案した楽器の特許を1899年に取得、息子のチャールズが1901年から1924年まで製造、ジョージ・エヴァンス社も1904年から1942年まで製造販売したという。フィドルばかりではなく、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、マンドリン、はてはウクレレやギターも作られた。音楽レコードの黎明期、蝋管式蓄音機で録音するには大きな音で指向性の強い楽器が必要だった。その要求に応えたのがストロー式絃楽器だったのである。その形状からまろやかな音色が奏でられるとは想像しがたいが、スライゴ出身の伝説の巨星、マイケル・コールマン(1891-1945)も、録音にはこれを使わらずを得なかったようだ。姉のブリッジ・ケレハーが普通のフィドルを弾いているにも関わらず、ジュリア・クリフォードは何故ストロー・フィドルなのか。街頭で開催されたフォーク・フェスティバルなどにも出演していたらしく、その場合は音が大きいのが望ましいので、使用した理由は理解できる。しかし写真は室内で撮られている。いろいろ調べてみたところ、2009年6月6日付けのアイリッシュタイムズ紙の記事に、そのヒントを得ることができた。ジュリア・クリフォードはダン・オコンネル(1921-2009)が1957年にコーク郡ノックナグリーで開店、アイルランド音楽のメッカとなったセットダンス・パブの常連演奏家だったようだ。セットダンスはアイルランドの伝統的なスクエアダンスであるカドリーユをルーツとしたフォークダンスで、爪先やかかとでたてる打撃音を伴うのが普通である。床から響く靴音にかき消されないように、音が大きいストロー・フィドルが使われた可能性が大きい。写真には「コーク郡ノックナグリー」という説明がついているので、このパブで撮影されたと断定できる。これで疑問がひとつ解けたようだ。なおストロー・フィドルはアイルランドやイギリス以外、例えばニューオーリンズの謝肉祭、マルディグラの街頭パレードでも現在使わているようである。

SoundCloud
Chase Me Charlie: Johnny O Leary and Julia Clifford, Recorded in Dan Connells pub, Knocknagree.

2017年9月18日

2017年第42回JPS京都展開催のお知らせ

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会 場: 京都文化博物館 5F(京都市中京区三条通高倉)075-222-0888
日 時: 2017年9月26日(火)~9月30日(土)10:00~18:00(最終日16:00まで)
料 金:一般700円(団体560円)/学生400円(団体320円)/高校生以下および65歳以上無料
主 催:公益社団法人日本写真家協会(http://www.jps.gr.jp/

公益社団法人日本写真家協会(略称JPS)は全国に1,600名余りの会員を擁する職業写真家の団体です。協会の文化活動としての展覧会活動は、協会発足当時から始まっています。本協会創立の翌年1951年には「日本写真家協会第1回展」を開催、1962年の第10回展まで行われました。同展は1976年に「JPS展」と名称を新たにし、1977年からは一般公募を開始、91年からは写真学生を対象とした「ヤングアイ」にまで規模を拡大し、東京、広島、名古屋、京都などで開催しています。一般公募では、文部科学大臣賞・東京都知事賞・金・銀・銅賞の他、奨励賞、優秀賞が与えられ、プロの写真家への登竜門となっています。

JPS  フライヤーの表示とダウンロード(PDFファイル 6.44MB)

2017年9月17日

ブルーライトカット眼鏡を勧められたけど

蛍光管に比べて LED は青色光にピークが来ている(©日経トレンディ)

パソコン専用を新調しようと眼鏡店に出かけたら、ブルーライトカット眼鏡を勧められた。ブルーライトとは眼科医などの医療専門家が設立した「ブルーライト研究会」によると、波長が 380~500nm(ナノメートル)の青色光のことで、ヒトの目で見ることのできる光=可視光線の中でも、もっとも波長が短く、強いエネルギーを持っており、角膜や水晶体で吸収されずに網膜まで到達してしまうというのだ。このブルーライトをカットする眼鏡が2012年に発売され、ヒット商品となった。上の図はブルーライトカット眼鏡チェーン店 J!NS のデータを元に、日経トレンディが制作した蛍光管液晶および LED 液晶ディスプレイのスペクトルである。これを見ると、後者のディスプレーには青色 LED に起因する急カーブの山が 450nm 付近にある。ただし紫外線に隣接した帯域ではゼロである。ブルーライトは、眼や身体に大きな負担をかけると言われており、従って軽減する眼鏡がヒット商品になったのだろう。ここで注意すべきは「負担をかけると言われており」という表現で、液晶モニターを製造している EIZO も「ブルーライトは、可視光線に含まれるため、疲れ目に影響があるとは一概に言い切れませんが、有害である UVA に近い波長であることから、目への負担が大きいとも考えられます」と微妙な説明をしている。同様の記述は眼鏡メーカーのサイトにも多々ある。つまり目に負担をかけているかもしれないが、損傷を与えるとは明言していない。にもかかわらず、一日中オフィスで液晶ディスプレイを睨んでるひとには、有用な健康器具と受け取ってる人が少なくないだろうと想像する。当初ブルーライトカット眼鏡を注文したものの、結局キャンセルしてしまった。その効果を否定する知識を持ち併せてはいないが、液晶ディスプレイがそんなに有害なら製造停止にすべきという考えがちらっと脳裡を走ったからだ。なおディスプレイの色温度と輝度をさげれば、ブルーライトを軽減できるそうなので試してみようかなと思っている。一番の対策は長時間パソコンに向かわないことだろう。いずれにしてもどうやら私は根っからの天の邪鬼らしい。

2017年9月16日

京都カーフリーデー2017

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日 時:9月17日(日)9月18日(月・祝)10:00~16:00
主 催:京都カーフリーデー実行委員会
共 催:二条駅地域安全ネットワーク・環境省京都御苑管理事務所

カーフリーデーは1997年フランスで始まり、2000年には欧州委員会のプロジェクトになりました。現在ではモビリティウィーク&カーフリーデーとして、毎年9月16~22日の間、世界のおよそ2000都市で開催されています。エネルギーや地球温暖化の問題が深刻化する中で「かしこいクルマの使い方」を、徒歩や自転車・電車・バスを利用することによって、環境負荷の少ないこれからの「くらしかた」を考え、まちの賑わい・楽しさ・文化を大切にする取組です。※台風接近に伴う催事変更に関しては下記 Facebook ページをごらんください。

Facebook  京都カーフリーデー実行委員会 Facebook ページ

2017年9月13日

京都市民と観光客の冷たい戦争

スーツケースを持って市バスに乗り込む観光客(京都駅バスターミナル)

京都市は外国人観光客らの増加による混雑解消のため、市バスの大半の区間が乗り放題になる1日乗車券を来年3月から、500円を600円に値上げする方針を決めたそうだ。スーツケースを持った外国人観光客らが増え、市民から「バスに乗れない」などの苦情が相次いだからだという。市交通局によると、値上げで市バスの1日当たりの乗客数は5,500~9,300人減る見込みだそうだが、それほど減らないと想像している。市バスの初乗り運賃は230円で、依然1日3回乗れば元が取れるからだ。スーツケースの件だが、私は何度も目撃しているが、確かに混雑した車内では迷惑ではある。観光客の増加で収益が上っていると想像されるが、税金で賄っている市バス、市民の不満も理解できる。到着した駅からタクシーに乗ってくれれば問題ないのだが、様々な事情が混在する。出費を抑えるというのが第一の理由だろうけど、タクシー運転手を信用しない外国人が結構いるようだ。すなわち遠回りすのではないか、運賃をボラれるのではないかと疑うというのである。いずれにしても市民と観光客の間に冷戦があるのは確かなようである。スペインで最も多くの観光客が訪れるバルセロナや、世界的な観光都市であるイタリアのベネチアなどで、相次いで住民による観光産業に対するデモがあったと報道された。バルセロナの場合、160万人の住民に対して年間3200万人もの観光客が訪れているという。実に人口の20倍もの観光客が押し寄せているのである。ベネチアの場合は人口の何と400倍だそうである。さすがに京都はこのレベルに達していないが、市民の不満がくすぶっていることは事実である。

2017年9月11日

左利きミュージッシャンの不思議な物語


台所の冷蔵庫を移動したのはよいが、困ったことに扉が開け難くなってしまった。把手が左側にある、右開きの扉なのだが、大きく開かないと中のものを取り出せない。一般にトイレその他の片開きの扉はこのようになっている。この形式は、右手で開けるのが便利なので、きっと右利き用なのだろう。左右で分からないのは自動車道である。米国はじめ多くの国が右側通行を採用しているが、日本は左側通行である。これに合わせて国産車は運転席が右側にある。今はAT車が増えたが、私は変速シフトレバーは左手のほうが良いような気がする。すると国産車は右利き用と思うが、そういう議論は余り聞いたことがない。同じような理屈で考えると、楽器は不思議である。フィドルやチェロ、ギターなど、左指で弦を押さえるものを右利き用としているからだ。利き腕のほうの指で弦を押さえても良いのではとは思うが、そうでもないようだ。

John and James Kelly:
ジョンとジェイムス兄弟はふたりともアイルランドの首都ダブリン生まれだが、父親のジョン・ケリー・シニアは西クレア地方でよく知られたフィドラーだった。従ってふたりはクレアスタイルのフィドル奏法を継承している。このジャケットで分かる通り、ジェイムスは左利き用のフィドルを使っている。フィドルは左右対称に作られていない。表板の振動を裏板に直接伝える魂柱(サウンドポスト)が高音弦寄りにあるからだ。この位置がフィドルをフィドルたらしめてるキーポントであろうと思う。だから左利き用は単にブリッジの形状や、糸巻きの位置を変更するだけでは済まない構造になっていると思うのである。楽器自体を見たこともないので、だからそれを使ってる演奏者を実際に見たことがない。クラシックのオーケストラなどの場合、隣の奏者と弓がぶつかってしまうのではといらぬ心配をしてしまう。余談ながら左利きが有利な楽器はホルンだそうである。左手でレバ―を押して演奏するからだろう。

Live at the Fillmore East
左利きといえばジミ・ヘンドリックスを思い出さずにはいられない。このアルバムは1969年の大晦日から、翌元旦にかけてのライブをピックアップしたものだ。肝心のギターだが、手にしてるフェンダー・ストラトキャスターは、糸巻きの位置で分かるように右利き用である。つまり弦の上下を逆さまに張り替えて使っているようだ。アコースティックギターの場合だと、ナット(上駒)やブリッジの形状が違うので、右利き用をそのまま左利き用にできない。私は電気ギターは触ったことがないのでよく分からないのだが、なんらかの改造はしたのではと想像している。

右利き用のギターの弦を張り替えずに、そのまま演奏したのがエリザベス・コットンだ。彼女は1893年、ノースカロライナに生まれたが、有名になったのは晩年である。民謡研究家チャールズ・シーガーの娘ペギーが迷子になったが、家に届けたのがエリザベスだった。その縁でマイク・シーガーが1958年、Folkways のために録音をした。マイクの異母兄弟がピート、そして父親はチャールズ・シーガーである。そのピート・シーガーが1960年代に司会を務めたテレビ番組「レインボウ・クエスト」にゲスト出演したエリザベス・コットン。絶妙なフィンガーピッキングを聴くことができる。

YouTube  Elizabeth Cotten live on Pete Seeger's Rainbow Quest TV Show

2017年9月7日

レンズを通した恋:アンリ・カルティエ=ブレッソンとマルティーヌ・フランク

Henri Cartier Bresson and Martine Franck ©1971 Josef Koudelka

ポール・ヒル&トーマス・クーパー著『写真術―21人の巨匠』(晶文社1988年)は写真界のレジェンドとの貴重な対話集である。「なぜ写真に撮られることを拒み続けてきたのですか」という問いに対し、アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908-2004)が「目だったり気づかれたのでは観察できない。それ以上の理由はない」と答えているのが非常に興味深い。とはいえ、ネット検索してみると、確かに若いころの写真はごく僅かだが、歳を重ねてからのものは結構目にすることができる。その多くはライカを構えた写真だが、この写真を偶然ソーシャルメディア Facebook で見つけた。ブリオデジャネイロ在住の写真編集者フェルナンド・ラベロ氏のタイムラインに「マルティーヌ・フランクとアンリ・カルティエ=ブレッソン1971年」と題して掲載されている。ソ連軍がプラハに侵攻、所謂「プラハの春」の写真でロバート・キャパ・ゴールドメダルを受賞したことで知られる、マグナムのヨゼフ・コウデルカが撮影した写真である。パリ郊外だろうか、腕を組んで傍らに寄り添う女性、マルティーヌ・フランク(1938-2012)もマグナムに所属していた著名な写真家だった。2014年、編集者のリチャード・コンウェイが「レンズを通した恋」と題した記事をタイム誌 LightBox に寄せている。それによると2010年、マルティーヌ・フランクはテレビ司会者のチャーリー・ローズのインタビューを受けたが、どのようにして二人が恋に落ちたか語ったという。「マルティーヌ」と声をかけた彼は「コンタクト・シート(密着焼き)を持って来て見せて欲しい」という殺し文句を囁いたというのだ。意気投合した二人は1970年に結婚したが、ブレッソンの二人目の妻となった彼女は、なんと30歳も年下だった。しかしその年齢差は恋の障害にならなかった。ブレッソンが他界した2004年まで、仲睦まじい暮らしを共にしたのである。

2017年9月4日

玩具のピストルを頭に突き付けた少年の涙

Young boy holds a toy pistol to his head, Alto Churumazu, Peru. ©2004 Steve McCurry

アフガンの少女
この写真はスティーブ・マッカリーが、2004年にペルーのチュルマスで撮影した「玩具のピストルを頭に突き付ける少年」である。マッカリーは1985年にナショナル・ジオグラフィック誌の表紙に掲載された「アフガンの少女」(左)で有名になったアメリカのフォトジャーナリストである。少年期に刀やピストルなどの武器の玩具で遊ぶことは珍しくない。この写真を見たとき、玩具のピストルと分かり、当初はそれで遊んでるのかと思ったが、流れる涙に違和感を覚えた。初出媒体は不明だが、何らかの説明がついていた筈なのに、その内容を知ることができなかった。ところが最近、断片的にその事情を得ることができた。2012年、地中海に浮かぶマルタ共和国の首都ヴァレッタでマッカリーの個展が開催された。同国写真界の重鎮であるケビン・カシャ「忘れ難きイベント」と題し、その思い出をブログに綴っている。それによるとマッカリーは「ペルーの山岳地帯の村の道端で少年が泣いているのを見た。彼が遊んでいた場所で何人かの他の子どもたちがいじめたのである。彼は玩具の銃を手にしていた。何か手助けできないかと近づいてみたが、少年はかなり気が動転していたらしく、私の問いかけに答えることができなかったようで、そのまま家に向かって立ち去ってしまった」と語ったという。少年はいじめにあい、仲間外れにされていたのである。このような小さな子どもは、楽しい子ども時代を過ごす権利がある。ところがいじめから受ける痛みを和らげる唯一の解決策として、人生を終わらせることを選択しようとする子どもがいる。涙が「ぼくは死にたいんだ」と叫んでいる。

2017年9月1日

大正時代の売れっ子芸妓にため息

ヴァイオリンを抱えた下谷の芸妓さかえ

カメラが撮らえた
幕末・明治・大正の美女
大著『青い目が見た「大琉球」』の著者ラブ・オーシュリ氏は、沖縄に住むアメリカ人の古写真の蒐集研究家で、写真共有サイト Frickr に夥しい数の画像をストレージしている。これはその一枚で "Miss SAKAE-SAN -- GEISHA WITH VIOLIN" とタイトルがついているが、芸妓「さかえ」のポートレートである。かなり有名な芸妓だったらしく、津田紀代監修『カメラが撮らえた幕末・明治・大正の美女』(ビジュアル選書)の表紙にもなっている。目が大きく、二重瞼で、鼻筋が通った、現代に通ずる美女だ。その可憐にして妖艶な艶姿にため息が出る。同書によると大正期に絵葉書のモデルとして売り出されてから一世を風靡し、当時の写真集『東都の名妓』や『現代美人帖』にも取り上げられた売れっ子だったようだ。出自など詳しいことは伝わっていないとのことだが、どうやら1922(大正11)年に18歳でデビュー、東京・下谷の置屋「三州家」に所属していたらしい。毎日新聞社『1億人の昭和史』に歌舞伎役者の二代目市川左団次夫人になったという記述があるそうだ。入手困難な雑誌だし、図書館に出向いて全15冊を調べる根気もない。嫁いだのは「栄」という名の芸妓で、本名は浅利登美子という説もあるようだ。左団次についてネットで調べてみたのだが「さかえ」の名は出てこない。興味深い話だが、真偽のほどは不明である。ヴァイオリンを抱えているが、よく見ると顎当てがない。彼女自身が演奏できたかどうかは不明だが、おそら写真師が用意した小道具だろう。ところで江戸時代に歌舞伎役者や相撲力士の浮世絵が人気を博したが、明治時代になると写真がそれに代わり、同時にその絵葉書も大量生産されるようになった。所謂プロマイドだが、現代のグラドル(グラビアアイドル)に通ずるものがある。風景や名所旧跡などのほか、芸妓・舞妓の絵葉書は、外国人の土産としても人気が高かったようである。いずれにせよ、このような古写真が文献歴史学上、貴重な資料であることは間違いない。