2019年9月28日

ビル・ゲイツの「画期的エネルギー連合」は原発推進ファンド

Bill Gates Wants to Fund Your Energy Breakthrough

2015年、パリで開かれた COP21 で、ビル・ゲイツが "Breakthrough Energy Coalition"(画期的エネルギー連合)の設立を発表した。これ自体は旧聞だが、一躍有名になったスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリの主張と繋がりそうなので、再考してみた。温室効果ガスの「排出ゼロ」をめざし、ジェフ・ベゾス、リチャード・ブランソン、ジョージ・ソロス、メグ・ホイットマン、マーク・ザッカーバーグ、孫正義など、世界の富豪が新しいエネルギーの研究開発に数千億ドルを出資するファンドである。ゲイツは風力発電と太陽光発電が、二酸化炭素を排出しない未来にある程度の役割を果たすが、化石燃料がますます枯渇する中で世界の稼働を維持するという課題の規模を考えると「多数の異なる手段」を検討する必要があると述べている。今年の5月14日、ブログ Gates Notes に「気候変動を減らすための重要なステップ」という一文を寄せた。
MITの研究者による研究では、原子力および炭素回収貯蔵を含むクリーンエネルギーソリューションを組み合わせて再生可能エネルギーをサポートすると、再生可能エネルギーのみを使用する場合よりも最大62%安く炭素フリーの電力を節約できることがわかりました。原子力はすでに炭素を含まない電力源であり、世界の電力の約10%を生産しています。また、再生可能エネルギーを補完する非常に信頼性の高いクリーンエネルギー源としても機能します。しかし、高コストと安全性の懸念により、原子力発電の成長は鈍化しています。原子力の革新により、より安全で、廃棄物が少なく、低コストの新世代の原子力エネルギーを作り出すことができます。
ビル・ゲイツ「温暖化防止は原発が理想」
ゲイツは進行波炉と呼ばれる、次世代型原子炉の研究開発を行っているワシントン州の TerraPower に投資、筆頭オーナーになった。安全で増殖を防ぎ、ごくわずかな廃棄物しか排出しない原子力イノベーションだそうである。経済新興国で問題になっている、石炭火力による大気汚染を解決するためにも、火力発電を減らすことが重要だ。それには太陽や風力のようなエネルギーだけではだめで、24時間動く原子力が必要だというのが彼の主張である。クリーンエネルギーというのは、日本の原子力発電推進者の決まり文句だったが、ひとたび事故が起こればクリーンどころでないことは、福島の苛酷が立証している。グレタ・トゥーンベリは、地球温暖化、気候変動によって、人類および様々な生物が危険な状況に陥っていることを、改めて世界中の人々に知らしめた。その功績は大きい。しかしそれ故に、環境問題を金儲けに転嫁しようとする企業の「広告塔」として利用される危惧が潜んでいる。ところで元米副大統領のアル・ゴアは「原子力発電は地球温暖化の解決策にはならない」と発言していたが、2007年の連邦議会で「原発には反対しない」と発言、原発容認に豹変した。

ダボス会議:マーク・ベニオフ(左端)のグループ〔2019年1月〕
転向により巨額の環境ビジネスの投資マネーが転がり込んだのだろうということは容易に想像がつく。万が一「異なる手段」の選択を誤ると、地球の破滅に繋がる恐れがあることを忘れてはならない。グレタ・トゥーンベリは環境問題についてゴアと意気投合したようだ。今年の1月、ダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)がスイスのダボスで開催されたが、左の写真は3日目の1月24日に撮影された(左から)マーク・ベニオフ、ジェーン・グドール、ボノ、グレタ、クリスティアナ・フィゲレス、櫻田謙悟、ウィル・アイ・アムで、その繋がりに興味を覚える。ベニオフは2019年7月時点で65億ドルの純資産を持つ、アメリカのインターネット起業家、グドールはイギリスの動物行動学者、霊長類学者、人類学者で国連平和大使、ボノはアイルランドのロックグループ U2 のリーダー、フィゲレスは外交官で環境保護活動家、櫻田は SOMPO ホールディングスの取締役社長、アムはブラック・アイド・ピーズのオリジナルメンバーのラッパーで、慈善活動家である。ベニオフと櫻田以外は経済人ではない。グレタはここでもスター的な扱いを受けたようだ。ボノはかつてこのフォーラムを「雪の中に集う金持ちたち」と皮肉っていたらしいが、何をきっかけに心変わりしたのだろうか、と皮肉りたくなる。いずれにしても、地球温暖化と気候変動は深刻な問題であるが、これが原発ビジネスに利用される可能性があることに注視し、警戒する必要がある。こんなことを書きながら、マイクロソフト、アマゾン、フェイスブック、ソフトバンクと縁が切れない自分が情けない。

nuclear  ビル・ゲイツ "Breakthrough Energy Coalition"(画期的エネルギー連合)の投資家たち

2019年9月26日

グレタ・トゥーンベリ現象を巡るフェイク画像

Fake cover of the "People with Money" magazine

表紙偽造用テンプレート
ストックホルム出身のスウェーデン人環境活動家、グレタ・トゥーンベリの、地球温暖化と気候変動の阻止を求める運動を、面白くないと思ってる人が結構いるようだ。彼女が今月23日にニューヨークの国連本部で行った演説は大きな反響を呼んだ。ところがトランプ大統領に近いテレビ局として知られる米 FOX 番組に、評論家のマイケル・ノウルズがコメンテーターとして登場し、グレタについて「精神的に病んでいる。両親や国際的な左翼に利用されている」などと述べたという。FOX テレビはこの発言を受けて「ノウルズのコメントは不見識なものでした、以後出演させない」と謝罪したようだ。ファクトチェックを行う米国のオンラインサイト Snopes が昨9月25日、「グレタ・トゥーンベリは最高額報酬活動家か?」という興味深い記事を掲載した。それによると、グレタが脚光を浴びたので、ユダヤ人の投資家ジョージ・ソロスとのツーショットなる写真をツイートした輩がいた。ところがそれは前副大統領のアル・ゴアの偽造写真だったのである。さらに ISIS のメンバーと一緒という写真も現れたが、写っている少女は赤の他人だった。極め付きは Mediamass がでっち上げた雑誌 "People with Money" である。なんとグレタの写真が表紙になっている。世界には環境問題などの運動で所得を得るビジネスが存在するが、彼女はその「高額所得活動家」のひとりだというデマ情報である。どの程度インターネットで拡散されたかは不明だが、雑誌自体が存在しないことを知らない人たちは、まんまと騙されたに違いない。驚いたことに、表紙を偽造するためのテンプレートがあることだ。デジタル画像処理技術の向上により、専門家でも見抜けないフェイク画像が、今後も作られてゆくだろう。

WWW
Snopes: The Internet's Definitive Fact-checking site created by David and Barbara Mikkelson in 1994

2019年9月24日

漢字「青條揚翅蝶」を読めますか?

揚翅蝶(アゲハチョウ)と秋桜(コスモス)京都府立植物園

朝日新聞社(2019年)
夏のような日差しが続いているが、用事があって外出した。現像ラボにフィルムを預けっぱなしであることを思い出して寄ってみる。帰り際、民家の軒先の鉢に白い花が咲いているのが目にとまる。植物名を覚えるのが苦手な私でも、これはすぐにわかった。ネコノヒゲだ。漢字混じりに記述すれば、猫の髭、英名は全く同じ意味の cat's whiskers である。和名は英名を模したものかも知れない。というのは素人ながら、多くの植物名が、最近ではラテン語の学名、あるいは英名をそのままカタカナ表記したものが多いような気がするからである。植物名ばかりではなく、現代日本語を席巻しているのが、外来語の表記、しかもこれは前に指摘したように日本特有の短縮表記である。例えば「メタボ」なんて言葉は正直言って最初は分からなかった。メタボリック・シンドロームの尻尾を症候群と書くだけましかもしれない。もっと酷いのはアコースティック・ギターに対する「アコギ」という呼び方。まさに阿漕(あこぎ)の極まりである。同じ漢字圏の中国や台湾は、外来語を今でも漢字表記している。ところが日本はカタカナがあるので、それを安易に使ってしまうきらいがある。無論、適切な翻訳造語が間に合わないという事情もあるだろうが、こと動植物名に関しては新聞社などのメディアにも責任もあるような気がする。新聞社はそれぞれ「用語規定」を持っている。というのは記事の整合性を保つには、バラバラの表記があっては不味いからである。そこで例えば市販されてる『朝日新聞の用語の手引き』の旧版では「動植物名はカタカナ」という規定があった。最近はだいぶ緩和されたようだが、かつては紫陽花(アジサイ)や向日葵(ヒマワリ)、馬酔木(アセビ)などはおろか、桜や梅もカタカナ表記していたのである。

青條揚翅蝶(アオスジアゲハチョウ)
ついでに言えば、画数の多い人名もかつては、長嶋元巨人軍監督を「長島」と表記する乱暴があったし、当用漢字にないものは使えないことが多かった。永井荷風の『濹東奇譚』は「墨東」だと寂しい。それでもちょっとした漢字、例えば「釈迦」や「菩薩」もルビを振らないと使えないことを、新聞にコラムを連載したことで知った。画数の多い人名などが使えるようになったのは、パソコンのワードプロセッサ普及の影響だったと思うし、ルビを振れば制限外の字でも新聞で使えるようになったのは、漢字文化を守る上で評価したいと思う。もっとも画面が狭く、従って極端に短いセンテンスの「ケータイ小説」という名の「ケーハク小説」が一時流行ったことがある。動植物名に話を戻そう。「褄黒豹紋蝶」「黒揚翅蝶」「浅黄斑蝶」「青條揚翅蝶」…これらはいずれもチョウの和名であるが、読めますか? ツマグロヒョウモン、クロアゲハ、アサギマダラ、アオスジアゲハと読む。難解といえば確かに難解だが、先人の英知を感ずる。さらに台湾に残る繁体字を見ると、日本の漢字もさることながら、中国の簡体字に文化の喪失を感じざるを得ない。学習に有利で、識字率アップに貢献していると言われているが、実際の識字率は簡体字の中国本土よりも、繁体字を使う台湾や香港の方が高く、一概には言えないようだ。今さら元に戻すことはできないが。

2019年9月23日

やっと閲覧者が1,000人を超えた Facebook ページ


ソーシャルメディア Facebook で私が管理しているページ「アメリカンルーツ音楽」の閲覧者が昨日1,000人を超えた。なぜ日本人がアメリカ音楽のページを、と不思議に思う人も多いと思う。同サイトには外国人が作ってる日本の浮世絵のページもあるし、そういう意味では別に不思議ではないと思っている。ページを「いいね!」した人の性別と年齢の集計データを見てみよう。ユーザーのプロフィールに記載されている情報に基づいて集計された推定値でである。男女とも65歳以上の高齢者が一番多い。ソーシャルメディアは若者というイメージなので意外だ。高齢者ほど暇なのか、それとも Facebook 特有のユーザー分布を反映しているのだろうか、どうもよく分からない。
管理人が日本人と知った人から「日本語で」というメッセージが届いたが、外国人のほうが多いので、と返信したこともある。国別アクセスのベストテンは次の通りである。( ) 内は人数。
  1. アメリカ(587)
  2. 日本(100)
  3. イギリス(36)
  4. カナダ(25)
  5. イタリア(24)
  6. オーストラリア(24)
  7. フランス(18)
  8. インド(11)
  9. ドイツ(10)
  10. バングラデシュ(10)
イタリアやフランス、バングラデシュなどを除けば、英語圏からのアクセスが圧倒的に多いことがお分かりいただけると思う。閲覧者が1万を超えるページがざらにあるが、1,000人はマイルストーン、日本流にいえば距離は違うが、一里塚だと思う。それにしても創設が今年の1月31日だから、この一里塚に達するまで意外と時間がかかったと思う。次のマイルストーンは2,000人だが、さて、いつ達成するだろうか?

2019年9月22日

地球温暖化風刺画展の主役はモナ・グレタ

Die "Mona Greta" als Ausstellungsplakat von Bernd Pohlenz

政治に対する風刺画はおおむね「批判」を込めたものだが、このポスターに描かれたそれは「称賛」を意味していると言っても良いだろう。肖像画は「モナ・グレタ」と題されているが、スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリの化身であることは容易に分かると思う。ポスターはドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州ドルトムントで、地球温暖化をテーマに開催された国際風刺画展 "Cartoons for Future"(未来のための風刺画)用に制作されたもので、主催者のベルント・ポーレンツ自身が描いたものだ。

Cartoon by Marian Kamensky
過去の催事だが、日本では報道されなかったようなので、ポスターをここに掲載することにした。2018年8月の金曜日、グレタ・トゥーンベリは学校に行く代わりに国会前で座り込み始めた。この行動がソーシャルメディアで広がり、多くの若者が呼応し "Fridays for Future"(未来のための金曜日)と呼ばれるようになった。ドルトムントの学生たちも参加、この "Cartoons for Future" が開催されたのである。ドイツの放送局 Deutsche Well の記事によると「現在4歳の子どもはおそらく次の世紀まで生きるでしょう」と語るポーレンツには4人の孫がいる。彼は世界120か国、3,200人の作家による風刺画30万点近くを有するウェブサイト toonpool の管理者で、その中から展示用に100点選んだという。ぜひ日本でも開催して欲しい。優れた作家がいるのだが、日本のマスメディアは風刺画に関しては冷淡である。頑張っているのは英字紙ジャパン・タイムズくらいだろうか。ネットを徘徊して優れた作品に出会うと、私はソーシャルメディアでシェアするようにしている。まさに「1枚の絵は1,000の言葉に匹敵する」からだ。

2019年9月19日

永井荷風『濹東綺譚』挿絵の寂寥

木村荘八『濹東綺譚』挿絵 8(東京国立近代美術館蔵

永井荷風(1879-1959)の小説『濹東綺譚』は1937年、木村荘八(1893-1958)の挿絵とともに「東京朝日新聞」に連載された後、岩波書店から単行本が刊行された。初版本の復刻版が2001年に出版され、ちょっと食指が動いたが、古書蒐集家でもないし、と自分に言い聞かせて見送った。玉の井の私娼街を描いた詩情豊かな随筆風の小説として、広く知られた名作だが、木村荘八の挿絵も評判を呼んだ。作者の分身と思われる、50代後半の小説家、大江匡が、26歳の玉の井の私娼、お雪と出合う場面は次のように描写されている。
復刻岩波文芸書初版本(2001年)
わたくしは多年の習慣で、傘かさを持たずに門を出ることは滅多にない。いくら晴れてゐても入梅中のことなので、其日も無論傘と風呂敷とだけは手にしてゐたから、さして驚きもせず、靜にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方うしろから、「檀那、そこまで入れてつてよ。」といいさま、傘の下に眞白な首を突込んだ女がある。油の匂においで結つたばかりと知られる大きな潰し島田には長目に切った銀糸ぎんしをかけてゐる。わたくしは今方通りがかりに硝子戸を明け放した女髪結の店のあつた事を思出した。
上掲の絵がそのシーンだが、これは東京国立近代美術館のデーターベースから拝借した画像ファイルである。着物の裾を膝まで持ちあげ、露出したお雪の素足が艶めかしい。背景の立て看板に「二十銭ハムライス」、暖簾に「和洋スタンド」とあるのが時代を反映していて興味深い。お雪は宇都宮で芸者をしていたが、お金が必要になり、玉の井にやって来た。大江が「馴れない中は驚いただろう。芸者とはやり方がつがうから。」と問うと「そうではないわ。初めッから承知で来たんだだもの。芸者は掛かりまけがして、借金の抜ける時がないもの。それに……身を落すなら稼ぎが結句徳だもの。」とお雪は答える。胸に迫る言葉だ。原画の寄贈者が木村初枝となっているが、親族だろうと想像する。しかし夫人なのかそれとも娘なのか、具体的な関係がはっきりしないのが不思議だ。木村荘八は挿絵を描くために玉の井に通ったそうだが、私娼街の夜の暗さと共に生きる、女と男の寂寥を見事に描き出している。永井荷風と同じく、東京下町の人情風俗に限りない愛着をよせていた東京人であったのだろう。それにしても私が所有している、岩波文庫の挿絵は余りにも小さく不鮮明だ。今からでも遅くない、やはり復刻初版本を買おうかなという気持ちに傾く。蔵書は断捨離すべき存在、困った性分である。

2019年9月17日

写真家ジョン・コーエンの死を悼む

John Cohen (1932-2019) Courtesy of Rufus Cohen

ソーシャルメディア Facebook を徘徊していたら、サングラスをかけた、ジョン・コーエンの珍しい写真が目に飛び込んできた。何事かと読んでみたら、息子のルーファスによる父親の死の報告だった。16日夕、リビングルームで息を引き取ったという。パソコンのマウスを握っていた手が凍り付いた。
My father John Cohen passed away this evening at home in his living room. David Amram had stopped by and played him Hoagy Carmichael's "Georgia" on the old out-of-tune piano. John was gone a couple of minutes later. Last week he said "Thank you everybody for making me who I was". -- Rufus Cohen
The High Lonesome Sound (1965)
最後の言葉の大意は「私の存在を認めてくれたみんなに感謝」だが、私には辞世の句に映る。親交があったロバート・フランク(1924–2019)が9日に他界したばかりだが、それを駆け足で追うような死であった。コーエンは写真家、映画制作者、音楽家、伝承音楽研究家として、多方面で活躍した才人だった。イェール大学で美術学修士号を取得した後、1950年代後半から1960年代初頭、ニューヨークで花咲いた芸術、文学、音楽のムーブメントに関わった。その業績すべてを列挙できないが、ロバート・フランクの映画 "Pull My Daisy" の制作に加わり、ビートジェネレーションの作品を記録したことは特筆に値するだろう。1958年にマイク・シーガー(1933–2009)トム・ぺイリー(1928–2017)とNLCR(ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ)を結成、古い SP 盤商業音楽レコードをソースに復元演奏、伝承音楽復興運動の一翼を担った。東南部のアパラチアを旅行、ケンタッキー州でロスコー・ホルコム(1912–1981)を「発見」して制作した映画『ハイ・ロンサム・サウンド』は画期的な作品だった。以来、コーエンはさまざまなテーマについて12を超える映画を制作している。写真集 "There Is No Eye: John Cohen Photographs" はペルーのアンデス、伝承音楽の宝庫アパラチア山系、ブルックリンのゴスペル教会、グリニッジビレッジのボブ・ディランやビートニクの文学者たちなど、50年間に撮影された作品の集大成となっている。

The Library of Congress
Treasures from the Archive Roadshow: Featuring the Down Hill Strugglers & John Cohen (LOC)

2019年9月15日

ハイボール 昔の名前で 出ています

ハイボールバー1923(京都市下京区四条通小橋東入る)

煙草はずいぶん昔に止めたが、酒とコーヒーは絶つことができない。日本酒が一番美味しいと思うけど、糖分が気になるので、晩酌はもっぱら焼酎である。沖縄で呑んだ泡盛は例外だけど、焼酎が美味しいと感じたことは余りない。味を誤魔化すため、烏龍茶で割ることが多い。炭酸水といえば、外出した際、ハイボールを嗜むことがある。学校を卒業、赴任地が大阪だったが、先輩が最初に連れていってくれたバーが、堂島の「サンボア」だった。氷無しの角ハイボールが絶妙だったのが今でも思い出される。サントリーの角瓶は高級ウィスキーとは言えないが、あの絶妙さはおそらく、炭酸水との混合比率に秘密があるのだろう。それに加えて温度コント―ロール、すなわちウィスキーと炭酸水、グラスの冷やし加減によるものだと確信する。サンボアは京都にも三店があるが、寺町と木屋町はなぜかサントリー角ではなくニッカウヰスキー竹鶴である。寺町店は創業1918年だから、100年の歴史を持つ老舗だ。先代のマスターが頑固オヤジだったことを思い出す。なにしろつき出しのピーナッツの皮を、床に落とさないと怒られたし、その落とし方まで指図されたものである。昔はカウンターだけのスタンドバーだったけど、客が芸舞妓を連れて来るようになったので椅子を置いた、と語っていたのが懐かしい。ウィキペディア英語版は Highball を「日本で人気がある」と紹介している。その人気ゆえに酒場のメニューに欠かせないし、京都にもハイボール専門のチェーン店が進出している。

WWW ウイスキーと炭酸水の黄金比とは? 極上ハイボールの作り方

2019年9月13日

大判 4x5 フィルムをタコ式で現像する

Taco Method Developing with DIC DSP-1F BK Tank

135から8x10まで揃っていたネオパン ACROS 100
富士フイルムが黒白フィルムの開発を再開し「ネオパン100 ACROS(アクロス)II」をこの秋にリリースするというアナウンスが6月にあったが、その後、具体的な情報がない。10月発売なら、そろそろ発表があってもおかしくないのだが。発売を予定されているのは、135および120の2種類だけである。フィルムの醍醐味は大判ほど顕著だと思うのだが、リストアップされていないのが残念である。デジタルカメラに不向きなジャンルに、ピンホール写真をあげることができる。やや専門的な話になるが、ゾーンプレート写真はレンズレス、すなわちレンズを使わずに結像するという点では、ピンホール写真と共通している。しかしゾーンプレート写真はデジタルカメラでも、それなりにソフトフォーカス効果があって面白いが、私の経験では、ピンホール写真は単にボケるだけで、際立った表現効果を期待できないと思う。やはり受光面積が大きいフィルムの登板が待たれるのである。ピンホール写真は大判ほど効果がある。長時間露光に対する特性が優れているので、ぜひ4x5以上の ACROS を発売して欲しい。

現時点では海外製品に頼ることになるが、イルフォードやコダックのフィルムが比較的入手しやすい。大判4x5黒白フィルムは自家現像がお勧めだ。7年前の2012年に「大判4x5シートフィルムの自家現像」という一文をポストした。JOBO の回転式現像タンクを使った方法だったが、リールにフィルム装填する場合、ミスが起こりがちであった。それにこの現像タンクは入手が困難で、余りお勧めできるものでなかったかもしれない。そこで今回はもっと安価で簡便な方法を紹介したい。ご覧のようにフィルムを輪ゴムで丸めて現像するという方法である。フィルムの形がメキシコのトウモロコシ料理のタコスに似るので、欧米ではこれを Taco Method(タコ式)と呼んでいる。タンクは DIC(旧大日本インキ化学工業)の小型密閉容器 DSP-1F BK で、なんと360円で市販されている。液量は約1,000ccで、1:1の希釈現像するにしても500ccの原液が必要である。図のように回転式にすれば、処理液の量を減らすことができる。なおステンレスタンクが好みの場合は、深さが4インチ強のサイズを探すと良いと思う。

2019年9月11日

巨星ロバート・フランク逝く

Men's Room, Railway Station, Memphis, Tennessee. From "The Americans" 1959

写真家ロバート・フランクの訃報を、昨日10日、CNNやニューヨーク・タイムズなどが一斉に報じた。朝日新聞電子版がニューヨーク・タイムズの記事を引用したが、同紙朝刊の訃報欄にも掲載された。
Robert Frank holds Leica (1954)
ロバート・フランク(米写真家)米紙ニューヨーク・タイムズによると、9日、カナダ・ノバスコシア州で死去、94歳。1924年、スイス生まれ。23歳で米ニューヨークに移住した。米国を横断した際の旅の模様を収め、58年にフランス、翌59年に米国で出版された写真集「The Americans(アメリカ人)」はその後の写真界に大きな影響を与えた。撮影する写真は「映画的」などと評され、一見無造作に見える一方、被写体の特徴をとらえた視点が注目された。
ロバート・フランクは写真愛好家の間では、よく知られた巨星だが、日本人一般には馴染みがあるとは思えない。そういう意味で死亡記事の掲載は、ニューヨーク・タイムズ紙の影響力を痛感する。ローリング・ストーンズ誌電子版は、ライカを手にした若き日のロバート・フランクの写真を掲載、1972年、彼によって監督されたストーンズのドキュメンタリー映画 "Cocksucker Blues" のエピソードを紹介している。飛行機の中での乱痴気騒ぎ、ホテルの部屋の破壊、コカインを吸うミック・ジャガーなどが記録されているという。裁判所命令により上映が禁止されているが、さまざまな海賊版が出回っているようだ。

The New Lost City Ramblers (1959)
ミック・ジャガーはこの作品について、インタビューに答えて「ライブの模様をもっと多く収めてほしかったのに、監督のロバート・フランクが勝手に編集したのが気に入らなかった」と語ったそうである。というわけで、ストーンズのファンの間ではフランクの名が浸透しているようだ。1950年代、フランクはニューヨークに住んでいた作家、画家、その他の写真家とも密接な関係を築いていた。そのひとりが写真家のジョン・コーエンだった。NLCR(ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ)のメンバーだったが、その縁でレコードジャケットのカバー写真を撮影している。ずいぶん昔にフランクの名がクレジットされているのに気づき、驚いたことが思い出される。NLCR は古い SP レコードに記録された伝承民謡を復元演奏したバンドだったが、フランクとの繋がりの意外性、あるいは所以には興味深いものがある。ジャック・ケルアックが写真集 "The Americans" に序文を寄せているが、ビートニクの仲間だったという時代背景に、私は羨望すら覚える。

cinema
The Rolling Stones documentary "Cocksucker Blues" by Robert Frank (Part 1) (Part 2) (Part 3)

2019年9月9日

短編アニメ "Abita" 外で遊べない子供たち


Abita from Uki Uki Studio on Vimeo
Abita, an animated short film about Fukushima children who can't play outside because of the radiation risk, delicately illustrates their dreams and realities. The film, produced by Shoko Hara and Paul Brenner, won the award for Best Animated Film at the International Uranium Film Festival in 2013. Shoko Hara, a student in Germany who was born in Okayama in the western part of Japan, wrote about the metaphor she used in the film. Sound Design and Music: Lorenz Schimpf. Awards: Best Animated Film, International Uranium Film festival, Rio de Janeiro, 2013. Special Mention, Back-up Filmfestival, Weimar, 2013.

Kinder in Fukushima können auf Grund der radioaktiven Strahlung nicht mehr in der Natur spielen. Denn die Natur ist nicht dekontaminierbar. Dies ist nur eine Geschichte von 360.000 Kindern, die zu Hause bleiben und von ihrer Freiheit in der Natur träumen und die Wirklichkeit erleben.

2019年9月6日

歴史を捻じ曲げる東京五輪旭日旗応援

旭日旗は軍国主義と植民地主義の象徴

各紙電子版によると、昨5日午前の記者会見で菅義偉官房長官は、来年の東京五輪パラリンピックの競技場に旭日旗の持ち込み禁止を求める韓国側の動きについて「旭日旗は国内で広く使用され、政治的宣伝とはならず、持ち込み禁止は想定していない」と述べたという。昨今の日韓関係泥沼化を踏まえ、対韓強行策の一環と思われるが、呆れると共に怒りが込み上げてきた。FIFA(国際サッカー連盟)は昨年のW杯ロシア大会からスタジアムからの差別撲滅を目指し、新たに監視システムを導入した。具体的には FIFA の委託を受けた NGO 団体 FARE のスタッフが1試合3人で監視するようになったのである。その FARE が昨年6月に「サッカーにおける差別的慣行に関するグローバルガイド第2版」を公表した。その中で日本の旭日旗を次のように記述している。
The Rising Sun Flag (旭日旗 Kyokujitsu-ki) formerly used by the Imperial Japanese Navy and Imperial Japanese Army until 1945, variations of the Rising Sun Flag are viewed as a symbol of Japanese militarism and colonialism before and during the World War II and considered discriminatory, specifically towards Korean Republic, Korea DPR, and PR China fans and fans from other countries in the region impacted during World War II. The flag is officially used as a symbol of the Japan Maritime Self-Defence Force currently and is also used in commercial advertising; nevertheless the flag symbolism is still seen as discriminatory by the countries affected by Japanese military action during World War II.
要するに旭日旗は日本の陸海軍が終戦まで公式に使っていたもので、日本の軍国主義と植民地主義の象徴だった。これをサッカースタジアムに持ち込んで応援するというのは、韓国、北朝鮮、中国およびその他の国のファンに対し差別だと主張しているのである。ご存知、旭日旗は現在でも自衛隊が使用しているが、自衛隊は紛れもなく軍隊である。軍隊の旗をスポーツの応援に使うことを容認というのは、ファシスト安倍晋三首相への忖度以外の何ものでもない。FIFA がサッカースタジアムでの使用に禁止しているのも関わらず、東京五輪は構わないとは時代錯誤も甚だしい。旭日旗容認は、この旗の下で、日本軍が朝鮮半島や中国の人々を殺したという史実の否定に繋がる。昨今の歴史修正主義者たちの跋扈は目に余るものがある。旭日旗が嫌なら、韓国人は東京五輪をボイコットすればよいと一部のネットワーカーが騒いでいるという。観戦に来なくてもよい、という主張らしい。これを逆手に取れば、旭日旗応援を許すくらいなら、東京五輪パラリンピックは酷暑問題もあるし、開催を返上したほうがよいと主張したい。なにしろ首相は2013年9月、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された IOC 総会で招致演説、真っ赤なウソをついたわけだから。曰く「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」でんでん。

PDF  FARE: Global Guide to Discriminatory Practices in Football Ver. 2 June 2018 (PDF 369 MB)

2019年9月3日

スペイン内戦とヘミングウェイ

新潮文庫(2018年)

Ernest Hemingway (1918)
スペイン内戦を背景にした作品で、日本の人々の印象に残っているのは、文学よりもむしろ映画の方が多いかも知れない。ビクトル・エリセ(1940-)の『ミツバチのささやき』や、ホセ・ルイス・クエルダ(1947-)の『蝶の舌』など、名作揃いである。内戦がスペイン人に負わせた心の傷を映像化した秀作だが、文学にも戦争の悲惨を描いた作品が存在する。そのひとつが前エントリ―で触れたフランシスコ・アヤラ(1906-2009)の短編集『仔羊の頭』である。カタルーニャ文学の金字塔、マルセー・ルドゥレダ(1908–1983)の小説『ダイヤモンド広場』は、一人称で書かれているため、戦場の記述はない。内戦で夫を失った慟哭、ふたりの子どもを抱えながら仕事を失い困窮する生活、運命と言う名の厄介が綴られている。淡々とした記述ゆえ、胸に迫るものがある。アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)の長編小説『誰がために鐘は鳴る』を「アメリカ人の目線で描いた作品であることは否めない」と片付けたのは、言葉足らずでいささか不本意であった。1920年代のパリは、回想録『移動祝祭日』に活写されているが、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882–1971)やパブロ・ピカソ(1881–1973)、ジェイムズ・ジョイス(1882–1941)など、新しい芸術を指向するアーティストが結集していた。1921年にヘミングウェイは、妻のハドリーとともに、パリに移住した。その1カ月後にジョイスは『ユリシーズ』を、オデオン通のシェイクスピア書店から刊行している。

新潮文庫(2003年)
ヘミングウェイは1923年7月、23歳のとき、初めてスペインのパンプローナを訪れた。以来、再三にわたってこの国を訪れている。パンプローナへの旅は名作『日はまた昇る』(1926年)の土壌となった。1937年3月、内戦取材のためマドリードに到着したが、フランシスコ・フランコ(1892-1975)率いる反乱軍によって混迷を深めていた。このときヘミングウェイは37歳だったが、スペインの人々ため、共和国側を支援しようという強い思いがあったに違いない。ホテル・フロリダが共和国側に立つジャーナリストの溜まり場だったが、ここに陣取ったヘミングウェイは、ドキュメンタリー映画の撮影に同行して前線を駆け巡る。これ以降、4回に渡り、8カ月の月日をかけて戦況の報道に費やした。フランコは1939年1月、バルセロナを制圧、3月にはマドリードを占領、4月に勝利宣言をした。スペイン戦争といえば、国民戦線側による市民の虐殺に目がそそられるが、共和国側によるファシストやカトリック司祭の虐殺もあった。この点をヘミングウェイは見逃していないが、この史実は『ダイヤモンド広場』も間接的に触れている。戦争にはいかなる大義もない。肩入れした共和国軍の敗戦に苛まれたに違いないが、体験を書くことが使命だと自らを奮い立たせたのだろう。内戦が終結した頃、キューバのハバナで小説を書き始めていた。のちにそれは『誰がために鐘は鳴る』と題された。

2019年9月1日

ボブ・ディランも影響を受けた NLCR は単なるコピーバンドではなかった

Tom Paley, Mike Seeger and John Cohen 1959 by Robert Frank

Folkways Records (FH-5264) 1959
ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(NLCR)のレコードを初めて購入したのは、1960年代初頭になる。当時、輸入盤、特に Folkways Records のそれは高価で6,000円もしたと記憶している。なにしろ1ドル400円もした時代だったが、学生にとってはきつい出費だった。しかし分厚い解説書が極めて有益だったし、値段に値していたと思う。その1枚が左の『大恐慌時代の歌』である。文字通り大恐慌時代の歌を集めたものだが、いずれの曲も、商業レコードのソースがある。つまり演奏している NLCR は、78回転 SP レコードを復元演奏した特異なグループであった。メンバーは途中で一度代わったが、このレコードのパーソネルはマイク・シーガー、ジョン・コーエン、トム・ぺイリーで、1959年1月にリリースされたものである。マイク・シーガー(1933–2009)はピート・シーガー(1919–2014)の異母兄弟で、父親のチャールズ(1886–1979)はジョン・ロマックス(1867–1948)アラン・ローマックス(1915-2002)父子らと伝承音楽の共同研究をした議会会図書館民謡資料室の学者だった。マイクはニューヨーク生まれだが、おそらく父親の部屋には膨大な量のレコードがあったに違いなく、それを聴いて育ったのだろう。

Bristol Sessions (CMF-011-D) 1991
トーマス・エジソン(1847-1931)が瘻管蓄音機「フォノグラフ」を発明したのは1877年だったが、その10年後に円盤式の「グラモフォン」が生まれている。商業レコードができたのは 1920年前後である。そのレコードの音楽利用の黎明に関して不案内だが、1923年6月14日、RCA ビクターの傘下にあったオケー・レコードのラルフ・ピア(1892–1960)がジョージア州ファニン群出身のフィドリン・ジョン・カースン(1868-1949)のフィドルと歌を録音している。彼はその前の1920年にブルーズ歌手のマミー・スミス(1891-1946)の "Crazy Blues" などを録音しヒットさせたが、ヒルビリー音楽に食指を伸ばしたのである。カースンが吹き込んだ "Little Old Log Cabin in the Lane" は空前の大ヒットとなる。うまい喩えが浮かばないのだが、津軽三味線の吉田兄弟がレコード黎明期の演奏家と想定する。そしてその演奏を録音しヒットしたとすると、伝承民謡が商業化されたことになる。1927年、ピアは更なる試みとして、テネシー州ブリストルでジミー・ロジャーズ、カーター・ファミリーなどを集めて録音した。後に「ブリストルセッション」と呼ばれるようになったが、伝承音楽が商業化するきっかけとなったものだった。

Folkways Records (FTS-31027) 1968
同時期、議会図書館のロマックス父子を中心にしたプロジェクトも、同じ地帯ののど自慢たちの録音をしている。アパラチア山系には、アイルランドやイングランドの古謡が残存していたわけで、学者と商業レコード会社の双方が注目したのは興味深い。さてこの時代に製作された商業レコードに着目したのが NLCR だった。今日、彼らを単なるコピーバンドと片付けてしまう人もいるようだが、とんでもない話である。彼らは20~40年代に作られたレコードに内包する、遥かなる歴史資産の片鱗に注目、人々、とりわけ都会人にそれを知らしめ、今日のアメリカンルーツ音楽ブームの礎を構築したと言える。ボブ・ディランも自伝『クロニクルス』で、影響を受けたと書いている。前述『大恐慌時代の歌』のジャケットには、画家のベン・シャーン(1898–1969)が撮影した、ストリート・ミュージシャンの写真が使われている。メンバーのひとり、ジョン・コーエンは優れた写真家であった。レコードジャケットに FSA(農業安定局)プロジェクトの写真を用いたのも、彼のアイデアだったと推測される。さらに彼らの LP アルバム 『モダンタイムス』(1968年) のジャケット写真は、かのロバート・フランクが担当していることを特筆したい。

White House Blues (1926)
ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズというバンド名は、このチャーリー・プール&ノースカロライナ・ランブラーズに由来する。1925年から30年にかけて録音を残しているが、当時流行のストリングバンドは、フィドル、バンジョー、ギターという編成が典型的なものだった。プールのバンジョーはスリーフィンガー奏法で、後のブルーグラスバンジョーのルーツになっている。また、ロイ・ハーヴィーのギターはベースランニングに特長があり、これまた大きな影響を与えている。グループ初期のフィドラーだったロージー・ローラーはダブルノートを使わない、どちらかといえばクラシックのヴァイオリンに近い奏法だった。プールが作った "White House Blues" はマッキレー大統領暗殺事件を扱ったトピカルソングで、今でもブルーグラス・ミュージシャンがよく取り上げている。禁酒法時代を背景に "Goodbye Booze" や "If the River Was Whiskey" といった歌を作っているのだが、最初に手にしたバンジョーは、密造酒を売って得たお金で購入したと言われている。映画のバックグラウンドミュージックを演奏するため、ハリウッドに招待されていた。切符代を受け取ったのだが、ロサンジェルスへ行かず、お金を6週間にわたる飲酒パーティに費やしてしまった。自ら作った歌のように『酒よさらば』できず、酒に溺れ、それが災いして、アルコール中毒で1931年に心臓発作に見舞われ、39歳の若さで他界してしまったのである。

The Library of Congress  Passing for Traditional: The New Lost City Ramblers and Folk Music Authenticity on LOC