2019年2月27日

首相官邸前アクション:辺野古新基地建設反対!

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日 時:2019年3月16日(土)14:00~15:30(同日開催:新たな土砂投入を許さない!沖縄県民大会)
場 所:首相官邸前(最寄り駅:丸の内線・千代田線「国会議事堂前」/南北線・銀座線「溜池山王」)
賛 同:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会/辺野古の海を土砂で埋めるな!首都圏連絡会
連 絡:沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック(090-3910-4140)/沖縄意見広告運動(03-6382-6537)
主 催:辺野古埋立て国会包囲実行委員会(http://humanchain.tobiiro.jp/

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2019年2月21日

閲覧総数が 510,000 を超えました

ファシストになるより豚のほうがマシさ

510,000PVを超えた
昨年12月21日、トータルアクセス数(Page View)が 500,000 に達したのですが、気が付いたらいつの間にか 510,000 を超えていました。二か月間で1万アクセスあったことになります。記事総数はこのエントリーを含めると 1284 になります。ブログをリニューアルしたのが2011年2月28日、エキサイトのブログ「旧・写真少年漂流記」のスタートが11年前の2008年6月21日でしたから、加算すればかなりの閲覧総数になると思われます。感謝。

2019年2月20日

梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり

梅宮大社(京都市右京区梅津フケノ川町)

今日2月25日に上七軒の舞妓芸妓が野点をする「梅花祭」が北野天満宮で開催される。しかし何事もイベント待ちの今日このごろ、人ゴミを想像するとうんざりなので、どうしようか迷っている。市バスを乗り継いで梅宮大社に出かけた。社名が示すように、ここも梅の名所である。寒空の下、早咲きの品種が紅白に色づき、春めいた香りを漂わせていた。今年は例年よりも開花が早く、白梅の「香篆(こうてん)」や「寒紅梅(かんこうばい)」が満開である。さて標題だが万葉集(巻5-0820雑歌)から筑後葛井大夫の歌を引用した。
烏梅能波奈 伊麻佐可利奈理 意母布度知 加射之尓斯弖奈 伊麻佐可利奈理
万葉仮名ではこのように書くが、漢字を表音文字として使っているのが新鮮だ。梅の花が今が盛りですよ、親しき人々よ、梅の枝を髪かざりにしよう、今が盛りですよ、という意味である。和歌の作法は不案内だが「今盛りなり」をダブらせて強調しているのが興味深い。駆け足でやって来た、春の足音が聴こえてくる。

2019年2月19日

明治時代に一世風靡したグラフォスコープ

グラフォスコープで写真を拡大して見る芸妓(1900~1905年ごろ)

江戸時代に流行った覗き眼鏡
ロウセルのグラフォスコープ
江戸時代に流行った覗き眼鏡は、浮世絵師が極端な遠近法で描いた絵を、レンズを通して覗く装置で、立体的に像が見えるというものだ。いわばカラクリの一種だが、実際にはそれほどの立体感はなく、いわば覗くという行為がその感覚を助長したのだろう。この装置が発展したのがグラフォスコープである。上掲の写真はラブ・オーシュリ氏の膨大なコレクションの1枚で、芸妓がグラフォスコープを使って写真を拡大、覗いているいるシーンである。写真共有サイト Flickr にアップロードされているが、非営利のブログなどへの転載可という但し書きがついてるので、ここに掲載することにしたオーシュリ氏は1970年代初頭、ベトナム戦争で来日、沖縄に滞在してそのまま住みついた人である。明治時代、貴重なステレオ写真を残した写真師、江南信國(1859–1929)の作品コレクターとして名高い。グラフォスコープは英国のチャールズ・ジョン・ロウセル(1802-1882)が1864年に特許をとった、折りたたみ式の拡大鏡である。特許取得後も改良が加えられ、これは長さ約58センチ。クルミ材を使い、透かし彫りの装飾があるのが特長である。レンズは直径15センチで、絵葉書などを拡大して覗く。その下にステレオ写真用の眼鏡がついている。約10センチ四方2枚一対の写真をついたてに置き、立体写真を楽しんだ。

江南信國「松の下の芸妓」(京都・嵐山で撮影したステレオ写真)
グラフォスコープは幕末から日本に輸入され、明治に入ってステレオ写真が一世風靡した。写真そのものが小型で比較的安価だったこと、そして何より国内および異国の風景を鑑賞出来たことが爆発的ブームになった理由であったと想像される。この型番はベストセラーになったようで、海外のオークションサイトに出品されているのをよく見かける。私は京都市中京区河原町通の三条を上がった古書店「キクオ書店」の店頭ショーウィンドウに飾られているのを拝見したことがある。アンティークカメラの図鑑などにも掲載されているが、このグラフォスコープを実際に使っている上掲、芸妓の写真は、歴史的にも貴重な資料といえるだろう。

2019年2月18日

トランプ大統領ノーベル賞推薦の茶番

ノーベル賞のメダル

米国のドナルド・トランプ大統領は2019年2月15日(現地時間)、安倍晋三首相からノーベル平和賞に推薦されたと明かした。この仰天ニュース、少しニュアンスが変わって、推薦したのは韓国の文在寅大統領じゃないかという憶測が流れた。しかしどうやらトランプ大統領が安倍首相に推薦依頼らしいということが判明した。この件に関し、2月18日、衆議院予算委員会集中審議で、ノーベル平和賞候補にトランプ氏を推薦したかとの質問に対して、安倍首相は「ノーベル賞委員会は推薦者と被推薦者を50年間は明らかにしないこととしていることを踏まえ、私からはコメントは差し控える」と答えた。推薦者の名前を公表しているから、これはナンセンスな答弁だ。同時に「事実ではないとは言ってない」とも述べた。つまりこれは推薦したことを認めたに等しい。トランプ大統領自身は、北朝鮮やシリア情勢への対応はノーベル平和賞の受賞に値すると考えているようだ。韓国青瓦台の金宜謙報道官も18日「文在寅大統領はトランプ大統領がノベール平和賞を受ける資格が十分だと考えている」と述べたという。いずれにせよ首相が書簡に「日本を代表し、敬意を込めてあなたを推薦した。あなたにノーベル平和賞を授与してほしいとお願いしている」と記したのは間違いようだ。平和賞は他の賞と違って、政治的な思惑が潜在すると言われている。首相の大叔父にあたる佐藤栄作元首相が受賞しているが、非核三原則制定が受賞理由だった。ところが核密約文書が自宅から見付かってるので、実に怪しいものだった。それはともかく、トランプ大統領の飼い犬もどきのとんだ茶番、米国ファーストはいい加減にして欲しい。

2019年2月17日

白衣に袴 緋色に染めて ああ美しい 日本の巫女は

下鴨神社(京都市左京区下鴨泉川町)

社寺に塗られている朱色が好きである。朱色は赤系の色の中でももっとも代表的な色だが、わずかに黄色がかり、鮮烈である。神社の本殿、拝殿に次ぐ重要な場所に塗られるのは、朱合漆という透漆の1種類に水銀朱を練り込んで作る本朱漆が使われるそうだ。塀などを含め、全般に使われるのが弁柄(べんがら)漆で、社寺の塗装には欠かせない基本色になっている。弁柄は紅殻とも表記されるが、これはインドの地名ベンガルに由来するそうだ。京都の町家の代名詞として紅殻格子があるが、最近は黒漆が多い。これは花街の風情の影響があるかもしれない。赤系の色として朱と紅の二種類をあげたが、その色は違う。ウェブ色見本辞典によると、前者の16進数コードは #EB6101 、後者は #D7003A だそうである。赤色からあがた森魚の「赤色エレジー」を連想する人は、かなり古い音楽ファンだと思う。赤色から宮崎駿の「紅の豚」を連想する人も、かなり古いアニメファンだと思う。赤色から日本共産党を連想する人は、かなり政治的志向が強いと想像する。

日の丸は国旗及び国歌に関する法律(1999年8月13日法律第127号)によると、地は白色、日章は紅色となっているだけである。色に関する指定は曖昧だが、旗の縦は横の三分の二、日章の直径は縦の五分の三と定められている。子どもの頃、白地に赤く日の丸染めてああ美しい日本の旗は、と歌わされた記憶がある。戦前から戦中にかけて、この旗は軍国主義の象徴であったことは紛れもない史実である。だからといって、切り刻んで良いとは言わないが、私にとっては忌まわしい戦争のシンボルである。しかし、デザイン自体ははシンプルで、優れてると認めざるを得ないし、確かに白と赤はマッチすると思う。神社の本殿にぶら下がっている鈴を鳴らす帯、鈴緒は紅白である。あれはたぶん、正確には紅色ではなく、緋色かもしれない。京都市中京区の斎藤專商店のウェブサイト「有職.com」の有職巫女袴着装図によると、袴は緋色である。緋色のコードは #D3381C となっているようだ。この世で一番優れた服のデザインは制服、特に軍服だとよくいわれる。誰でも似合うからだ。軍服に喩えたら余りにも可哀そうだが、巫女の衣裳は誰でも似合うのではないだろうか。

2019年2月16日

ソローの森の生活とターシャの田舎暮らし

"Walden; or, Life in the Woods" by Henry David Thoreau 1854

真崎義博訳(宝島社)
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)の『ウォールデン;森の生活』を初めて手にしたのは、神吉三郎訳の岩波文庫版で、1970年代末に遡る。これは絶版となり現在は飯田実訳が出ている。同じころギルバート・ホワイトの『セルボーンの博物誌』やW・H・ハドソンの『ラ・プラタの博物学者』(いずれも岩波文庫)など、自然史に関する本を読み漁ったことを憶えている。1979年に出版された稲本正著『緑の生活』(角川書店)に写真を寄せたが、そのときこの書籍に関連づけて言われたのが 『森の生活』 だったという。10年以上前、その飛騨高山オークヴィレッジを再訪したが、斜面に小さな丸太小屋があった。ソローが建てて住んだ小屋を模したものだという。一種のバーチャル空間とはいえ、こんな所に住んだのかと驚いたものである。ソローの "Walden; or, Life in the Woods" は、1854年、すなわち安政元年に刊行された。アメリカのペリーが浦賀に再び来航、横浜村で日米和親条約が調印され、日本が開国した年である。マサチューセッツ州コンコード近くのウォールデン湖畔に自ら建てた小屋に、2年余り暮らした経験を元に書かれたものである。世間と交際を絶つ隠遁生活を目指したのだが、実際には完全な世捨て人になったのではなかったようだ。

Corgiville Fair by Tasha Tudor
それはともかく、今日の環境保全運動の礎を築いた書となったことは、万人が認めるところである。上掲、真崎義博訳のキャプションは2005年刊となっているが、新装版のことで、掲載写真は1981年に刊行され、その後絶版になった本の表紙をコピーしたものである。あとがきによると、訳者は1970年代、ボブ・ディランに心酔し「ボロ・ディラン」のニックネームで知られたシンガー&ソングライターだった。オークヴィレッジと同様、ある時代の雰囲気をそこに感ぜざるを得ない。翻訳にあたって、神吉三郎訳の岩波文庫を参考にしたという。ターシャ・テューダー(1915-2008)について強い興味を抱き始めたきっかけは、NHKが衛星放送で2005年に放映した「喜びは創りだすものターシャ・テューダー四季の庭」だった。絵本作家そして造園家の彼女について、多少の知識はあったものの、その思想のルーツを最初に知ったのはこの放送を通してだった。絵本作家として成功したテューダーは57歳にして、カナダ国境のバーモント州南部の小さな町はずれマールボロに広大な敷地を手に入れた。そこに古風な家を建てて移り住み、19世紀風の田舎暮らしを始める。
I have learned, that if one advances confidently in the direction of his dreams, and endeavors to live the life he has imagined, he will meet with a success unexpected in common hours.
自分の夢に向かって確信を持って歩み、 自分が思い描く人生を送ろうと努めるならば、 きっと思いがけない成功にめぐり合うだろう。
Private World of Tasha Tudor
ソローの "Walden; or, Life in the Woods" の最後の章に現れる上記の一節は、彼女のはいわば座右の銘であり、これは放送の中でも語られていた。夢を持ち、それを追う生活をすれば、思いがけ ない成功にめぐり会えるという。まさにこの言葉通り夢を求め、それを獲得した人生を彼女は送ったと言えるだろう。ところでソローは凍結した湖面の氷の切り出し作業を目撃する。天然氷を冬場に採取し保冷しておき、夏場に南方の都市部で販売するという事業だったが、これを仕切る豪農の名をソローは知る。フレデリック・テューダー(1783-1864)という名前で、ターシャの曽祖父にあたる人物であった。ふたりはこのように氷面下、いや水面下の糸で結ばれていたのである。彼女が俗界から逃れたのは、ソローの強い影響によるものと想像できる。造園については、多くの日本人がよく知っているようだ。ブログ等に余りにも記述が多いので饒舌を控えたい。単に草花が美しいという以上のもの、つまり哲学が、彼女の造園に隠されていると強調することに留めておこう。紹介した図書はいずれも原書英語版だが、特に語学を必要としない幼児用絵本や写真集であるし、英文のほうがフォントが美しいという、私の勝手な好みによるものだ。"Private World of Tasha Tudor" はテューダーの農場生活を、写真家のリチャード・ブラウンが1年間追った記録で、彼女自身の言葉と、100点以上の美しい写真が掲載されている。絵本は『コーギビルの村まつり』、そして写真集は『ターシャ・テューダーの世界――ニューイングランドの四季』という標題で邦訳出版されている。

2019年2月15日

カタカナ表記の外来語濫用は日本社会の知的劣化

氾濫するカタカナ表記の外来語

朝日新聞2月13日付け電子版の記事「スクショNG、影響は?ブログ・ツイッターにも違法の罠」が目に止まったが、私はスクショがスクリーンショットのことだというのがすぐに分からなかった。新聞は見出しを短くするため、アメリカの代わりに米国というような略語を使う。その延長かもしれないが、やはりスクショには戸惑いを感ずる。かつてアコースティックギターをアコギ呼ぶことを知ったときは「なんと阿漕(あこぎ)な」と思ったものである。私は恥ずかしくて使えない。日本語を学ぶ外国人にとって一番厄介なのは、外来語のカタカナ表記だそうである。元の外国語がカタカナ表記によって変質してしまうからだと思える。例えば日本人が使うテレビジョンは、英語圏の人々の "Television" と発音が違う。さらにテレビという言い方は、原語に程遠い、英語もどきのカタカナ語に過ぎない。アドビ社のイラストレーターをイラレと呼ぶ人がいるが、元の意味とはかけ離れ、耳にするとイライラする。逆に頭文字を繋げた略語 "TV" を理解する日本人は多くはないのではないだろうか。アメリカ人は新しい技術に対する命名が上手だと感心する。Web は蜘蛛の巣を意味する単語だが、これをインターネット用語として普及させた。日本はそれをそのまま流用してウェブとカタカナ表記、アイデアを借りて蜘蛛の巣と名付けるようなことはしない。それにネットを網と呼ぶこともしない。

スクリーンショットを意味する中国語
発音が違うと書いたが、例えば "dot.com" をアメリカ人はダカームと発音する。だから日本語化したドットコムは通じない。それで思い出したこと。子どものころ母親が木綿糸をカタン糸と呼んでいた。コットンより "cotton" に近い。だからカタン糸とはコットン糸がなまったものという説明はおかしい。ところでカタカナを持たない中国人は外来語を漢字で訳している。スクリーンショットの中国語(繁体字)を調べてみたところ「截圖」と訳している。すなわち画像を截ち切るという意味であるが、工夫の跡が窺える。かつて日本人は外来語を丹念に訳してきた。テレビはかつて受像機と呼んだが、いつの間にか消えてしまった。重要な言葉を全てカタカナ表記で済ましてしまう、日本社会の知的劣化を憂慮せざるを得ない。国立国語研究所外来語委員会が、分かりにくい外来語の日本語への言い換えを検討し始めて久しいが、成果をあげていないような気がする。リテラシーを「読み書き能力」とするなどの提案だが、新聞などの報道媒体が使わないと普及しないのではないだろうか。

2019年2月14日

般若心経にこもる切なる願い

石像寺(京都市上京区千本通上立売上る)

八寸釘と釘抜きの札
京都には病気平癒を祈願する社寺が多い。というより人間にとって一番の厄介ごとは病気あり、であるからこそ社寺を参詣して「ご利益」に預かろうとするのかもしれない。新京極通にある蛸薬師堂(永福寺)はガン封じで知られてるし、四条通の南座東にある目疾(めやみ)地蔵(仲源寺)は眼病平癒で有名である。いずれも通称寺で、正式な寺名より通り名のほうが浸透しているのが特長である。千本通の釘抜き地蔵(石像寺)を久しぶりに訪ねてみた。819(弘仁10)年に弘法大師が開いたと伝えられ、本堂に地蔵菩薩像が安置されている。山門をくぐると目に飛び込んでくるのが、本堂の外壁を埋め尽くした実物大の八寸釘と、釘抜きを張り付けた御礼札である。釘抜きで病気の苦しみを抜き取ってくれるというのだ。病気平癒あるいは健康を祈願する参詣者は、竹の札を歳と同じ数だけ持ち、この地蔵堂を一周するごとに箱に納めて行くのである。

般若心経を書いた涎掛け(クリックで拡大)
この写真を撮ったときも二人のご婦人が、堂を回りながら熱心に祈っていた。ユニークな地蔵堂に目を奪われ勝ちだが、境内裏手にある小堂に安置されてる石仏は文化財として貴重だと言う。一般に石仏は野仏と呼ばれるくらいだから、その生い立ちについては不明なものがほとんどである。ところがここにある阿弥陀如来坐像と、脇侍である観音および勢至菩薩像はその由来が分かっている。真ん中の阿弥陀像にの光背の銘によって、伊勢権守佐伯朝臣為家という人が願主となって1225(元仁2)年に造像されたことが分かるという。ゆえに重要文化財に指定されているようだ。鎌倉時代の石仏といえば、私は化野念仏寺の山門前にある、釈迦・阿弥陀の二尊仏の美しさに強く惹かれる。傑作だと思うが、記録がないので無指定である。小堂の竹柵に夥しい数の涎掛けが巻きつけられていた。庶民にとって石仏はすべて地蔵菩薩なのだろう。丹念な筆遣いの般若心経に、切なる願いがこもっている。

2019年2月13日

樺太にまで足跡を残した江戸時代の探検家たち

長久保赤水「蝦夷松前図」(北海道大学蔵)クリックで拡大

間宮海峡(ウィキペディア
長久保赤水自画像(長久保甫氏蔵)
遥かなる昔の思い出。確か小学校の教科書で間宮林蔵(1780-1844)について読んだような記憶がある。北海道から樺太(サハリン)千島列島(クリル列島)で20年以上も生活し、間宮海峡を発見した探検家だった。間宮海峡は樺太とユーラシア大陸にある海峡で、諸外国ではタタール海峡と呼んでいる。間宮林蔵は1809(文化6)年に間宮海峡を踏査したが、その19年前の1790(寛政2)年に、長久保赤水(1717-1801)が、この海峡を「蝦夷松前図」に描いていた。1785(天明5)年、探検家の最上徳内(1754-836)が江戸幕府の蝦夷地調査隊として、択捉島から得撫島を踏査し、さらに奥地の事情を探査調査した。そしてロシア人から聞いた情報により、1790(寛政2)年に「蝦夷風俗人情之沙汰付図」を作成した。

千島列島の島々に、ロシア語の名称がカタカナで記され、主要な島にはアイヌ語の地名を併記している。この地図をもとに長久保赤水が「蝦夷松前図」を描き、刊行したのである。左上の[山丹]は中国の甘粛省にある県で、位置としてはおかしい。そして北海道と樺太が描かれているが、いずれも形が扁平で不正確である。1779(安永8)年に赤水が刊行した「改正日本輿地路程全図」には北海道以北が省かれているが、この地域の情報が不足だったと思われる。それはともかく、いずれにせよ、江戸時代に日本人がこの地に足跡を残しているのは興味深い。千島諸島がカムチャッカ半島まで一列の列島として描かれいるが、1875(明治8)年、樺太・千島交換条約でロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することになった。ところが1951年にサンフランシスコ平和条約を受諾、放棄してしまった。北方領土問題が話題になっているが、安倍首相はどうやら1956年の日ソ共同宣言を根拠に、歯舞群島と色丹島のみの返還で手を打とうとしているようだ。ただその二島も、ロシアの各種世論調査では、北方領土の引き渡し反対が7割を超えているという国内事情もあり、プーチン大統領が手放すかは、相変わらず不透明のままなのである。

2019年2月12日

ロバート・ジョンソン「3番目の写真」はフェイクだった

大発見と騒がれた写真だけど

これは当ブログの「ロバート・ジョンソンの修復写真に思うオリジナル写真とは?」と題した記事に添付した写真である。伝説のミシシッピ・デルタ・ブルーズシンガー、ロバート・ジョンソン(1911-1938)の写真は2枚しかないと信じられていたが、3番目の写真が発見され、傷んでいたので修復されたという内容だった。ソースが米国の "Popular Photography" 誌だったので躊躇せず掲載した。しかし今から7年前の2012年夏だったので、すっかり忘れていた。ところが最近、ネットを徘徊していたら、ガーディアン紙の「ロバート・ジョンソンの写真は、かのブルース・レジェンドのではないと音楽専門家が指摘」という記事が目に止まった。実は怪しい写真という噂を私は読んだことがあるが、追及せずに放置してきた。2015年の記事だから、決して新しいものではないが読んでみた。それによると隣に写っている、音楽仲間のジョニー・シャインズ(1915-1992)の上着のボタンが、向かって右側にあるのは逆じゃないか。それに腕時計が左腕というのも、何となくおかしいという指摘である。なるほど、腕時計はともかく、女性用のジャケットを着ていたというのは不自然ではある。第一このダブダブの上下揃いの服、どう見ても男物である。

写真を左右反転してみたら

それではというわけで、画像を左右反転してみた。これを見ると、確かにシャインズの服装は自然である。ところが今度はジョンソンが、右指でギターの絃を押さえていることになる。つまり左利きということなのだが、いずれの史料でも彼は右利きであり、極めて不自然である。ガーディアン紙は指摘していないが、ギターのネックが大きく反っているのも気になる。シャインズの反転写真と、ジョンソンらしき人物の写真を合成したと断定しても構わないのではないだろうか。それでは何故このような手の込んだことをしたのだろうか。おそらくふたりが半ば向かい合った構図のほうが、デザイン上しっくりすると考えたのだろう。いずれにせよ、合成写真であることには間違いなく「3番目の写真」というのは怪しい。クレジットが "Robert Johnson Estate/Hulton Archive" となっていたが、肝心のウェブサイトを見つけることができなかった。フェイクであると結論できそうなので、前エントリーにその旨を追記しなければと思っている。

2019年2月11日

ダグラス・ダンカンと朝鮮戦争とニッコールレンズ


朝鮮日報2月11日付け日本語版によると、2回目の米朝首脳会談を前に、米国は北朝鮮の非核化に対する見返りとして「終戦宣言」「平和協定」「平壌連絡事務所の設置」などを検討しているという。終戦宣言とは朝鮮戦争のそれを指すが、実現すれば南北朝鮮統一の足掛かりになる。統一政府ができた場合、日本の立ち位置はどうなるだろうか。おそらく米軍は朝鮮半島から引き揚げるだろう。そうした場合いわゆる「北の脅威」はなくなり、自衛隊の存在理由が薄まるに違いない。逆に背後の中国の存在を理由に、軍備強化する可能性も否めない。ところで朝鮮戦争といえば、私は昨年102歳で他界した写真家ダグラス・ダンカンを思い出す。1916年生まれ、米国の報道写真の第一人者であり、従軍写真家として太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争などを撮影、その作品をニューヨーク・タイムズ紙、ライフ誌などに発表した。
1950年のことである。同じくLIFE誌のカメラマンであった三木淳氏が、たまたま遊びに来ていた友人の写真家の持っていたNikkor 8.5cmを借りてダンカン氏のスナップを撮っていた。その場では「へぇ日本製のゾナーかい」とあまり興味を示さなかったダンカン氏であったが、後日その写真を引き伸ばして見せたところ、氏の表情が急に変わり、ルーペを持ち出してその写真をチェックしはじめた。「すごい!シャープだ。この会社にすぐ行こう!」(ニッコール「千夜一夜物語」第三十六夜 Nikkor P・C 8.5cm F2
ダンカンは日本光学工業の大井工場を訪ね、ライツ、ツァイスレンズとニッコールレンズとを投影検査機で比較。その結果を見たてライカ用ニッコールレンズの購入を即断した。1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると、ダンカンは2台のライカに 50mm F1.5 と 135mm F4 を付け、前線に飛んだ。ニコンの名を世界に知らしめた、有名なエピソードであるが、ニコンだけでなく、日本のカメラメーカーの大恩人だったといえる。

2019年2月10日

イヌイットを記録したカナダの女性写真家

ビーズ飾りの防寒着を纏ったクー・タック・タック 1905年2月(グレンボウ博物館蔵

ムーディ夫妻(クリックで拡大)
日系米国人の強制収容の記録をしたドロシア・ラング(1895-1965)に続き、女性写真家の先駆者をもうひとり紹介したい。ジェラルディン・ムーディ(1854–1945)はカナダの最初の女性職業写真家のひとりで、北部の先住民族の歴史的写真を撮ったことで知られている。トロントに生まれたが、英国に移住、軍人のジョン・ダグラス・ムーディ(1849-1947)と知り合い、1878年に結婚した。夫妻はカナダに戻り、ダグラスは北西騎馬警察(NWMP)の検査官になる。そして頻繁に夫のダグラスに同行し、ハドソン湾地域のイヌイットを撮影したのである。重い大判カメラやガラス乾板などの機材を携行して、犬ぞりやボートで移動。極寒の氷雪の世界での撮影は、困難を極めていたと想像される。職業真家としてジェラルディンは肖像写真の仕事をしたが、個人的には騎馬警察、牧場、そして野の花の写真なども撮ったようだ。1945年に99歳で他界、晩年を過ごしたアルバータ州カルガリーにある、バーンズランド墓地に埋葬された。写真はメディシン・ハット・ミュージアム&アートギャラリーのディレクター、ドナルド・ホワイトが発見するまで、陽の目を見ることがなかった。夫妻のひ孫が保管していたもので、1998年、ガラス乾板、写真アルバム、日記、手紙などがカルガリーのグレンボウ博物館に寄贈された。蛇足ながらカナダ郵便公社が、クー・タック・タックの肖像写真を使った切手を2013年に発行したが、これによってジェラルディンの業績が、カナダで広く一般に知られるようになった。主なイヌイットの写真と解説が下記リンク先のサイトに掲載されている。

WWW Rare Century-old images of the Inuit people by the country's first female photographer

2019年2月8日

紙博&布博~夢の共演

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日 時:2019年2月23日(土)24日(日)10:00~16:00
会 場:国立京都国際会館イベントホール(京都市左京区岩倉大鷺町)
料 金:800円(小学生以下無料)
主 催:手紙社(調布市西つつじヶ丘)042-444-5367
詳 細:http://kami-nuno.com/2019/

2019年2月6日

写真共有サイト Flickr とクリエイティブ・コモンズ

無料プラン会員の1,000点を超えた写真が削除される

昨年11月、写真共有サイト Flickr が、無料プランの容量を1TBから、写真と動画1,000点までに制限し、あわせて1,000点を超えた分を削除すると発表した。有料プランへの移行を促した措置のようだったが、私は無料プランのままで、アップグレードをしなかった。2月5日から削除作業が開始されるという予告があった。

削除警告と有料プランへの勧誘

CCライセンス(表示-非営利-改変禁止)
どうなってるか調べてみたが、きょう2月6日現在、特に変化がなく合計5,761点はそのままだ 。実はこれに関し、クリエイティブ・コモンズのライセンスでアップロードされていた写真は、削除対象に含めないとアナウンスされていた。クリエイティブ・コモンズとは、インターネット時代のための新しい著作権ルールで、作品を公開する作者が「この条件を守れば私の作品を自由に使って構いません」という意思表示をするためのツールである。実はこのブログの記事を含め、Flickr にポストした写真にこのシステムを導入している。クレジットを表記する限り、作品をダウンロードし、共有することを他の人に許すが、どのような形でも改変することを許さず、営利目的で利用することを禁止するという設定をしている。雑誌『アサヒカメラ』がネット上の「盗用」を問題視する特集をしているようだが、私自身は著作権に関し、いささか寛容な考え方を持っている。営利目的やクレジットを抜いた転用は問題だが、共有によって優れた写真が拡散することは、あながち悪いことではないと思うからだ。削除作業には日数がかかる可能性があるので+1,000点の行方はまだ不明である。

追伸:USA TODAY の記事によると、削除作業開始は3月12日に延期されたようです。(2月8日)

2019年2月5日

ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ NLCR は単なるコピーバンドではなかった

The New Lost City Ramblers "Songs from the Depression" (Folkways Records FH5264) 1959

Mike, Peggy and Pete Seeger 1995 Photo by ©Dave Gahr
CD復刻盤を作って欲しいと思う何枚かのLPレコードがある。他人に薦めようにも、プレーヤーがないだろうし、CDになっていないと再生できないだろう。それに第一、昔のLPレコードはそのほとんどがすでに入手困難になっている。LPを持っていたが、2012年にこの名盤『大恐慌時代の歌』がCD化されたときは、何故かほっとしたものである。文字通り大恐慌時代の歌を集めたものだが、いずれの曲も、商業レコードのソースがある。演奏しているニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(NLCR)は、78回転SPレコードを復元演奏した特異なグループであった。メンバーが途中で一度代わったが、このレコードのパーソネルはマイク・シーガー、ジョン・コーエン、トム・ぺイリーで、1959年1月にリリースされたものだ。リーダーのマイク・シーガーはピート・シーガーの異母兄弟で、父親のチャールズはジョン&アラン・ロマックス父子らと伝承音楽の共同研究をした、米国議会図書館民謡資料室の学者だった。マイクは1933年、ニューヨーク生まれだが、おそらく父親の書斎には膨大な量のSPレコードがあったに違いなく、それを聴いて育ったのだろう。

Country Music Foundation CMF-011-D
トーマス・エジソンがシリンダー式レコード「フォノグラフ」を発明したのは1877年だったが、その10年後に円盤式の「グラモフォン」が生まれている。商業レコードができたのは1920年前後である。そのレコードの音楽利用の黎明に関して不案内だが、1923年6月14日、RCAビクターの傘下にあったオケー・レコードの辣腕ディレクター、ラルフ・ピアがジョージア州ファニン群出身のフィドリン・ジョン・カースンのフィドルと歌を録音している。彼はその前、1920年にブルーズ歌手のマミー・スミスの "Crazy Blues" などを録音しヒットさせたが、ヒルビリー音楽に食指を伸ばしたのである。カースンが吹き込んだ "Little Old Log Cabin in the Lane" は空前の大ヒットとなる。うまい喩えが浮かばないのだが、津軽三味線の吉田兄弟がレコード黎明期の演奏家と想定する。そしてその演奏を録音しヒットしたとすると、伝承民謡が商業化されたことになる。1927年、ピアは更なる試みとして、テネシー州ブリストルでアーネスト・ストーンマン、ジミー・ロジャーズ、カーター・ファミリーなどを集めて録音した。のちに「ブリストル・セッション」と呼ばれるようになったが、伝承音楽が商業化するきっかけとなったものだった。

Folkways Records FTS-31027
同じ時期、議会図書館のアラン・ロマックスを中心にしたプロジェクトも、同じ地帯ののど自慢たちの録音をしている。アパラチア山系には、アイルランドやイングランドの古謡が残存していたわけで、学者と商業レコード会社の双方が注目したのは興味深い。さてこの時代に製作された商業レコードに着目したのがNLCRだった。今日、彼らを単なるコピーバンドと片付けてしまう人もいるようだが、とんでもない話である。彼らは20~40年代に作られたレコードに内包する、遥かなる歴史資産の片鱗に注目した。そして人々、とりわけ都会人にそれを知らしめ、今日のアメリカンルーツ音楽ブームの礎を構築したと言える。ボブ・ディランも自伝『クロニクルス』で、影響を受けたと書いている。それはさておき、メンバーのひとりであるジョン・コーエンは優れた写真家であった。レコードジャケットにFSA(農業安定局)プロジェクトの写真を用いたのも、彼のアイデアだったと推測される。アルバム『大恐慌時代の歌』のカバーには、同プロジェクトのベン・シャーンが撮影した、ストリート・ミュージシャンの写真が使われている。さらに彼らのLPアルバム 『モダン・タイムズ』(1968年) のジャケットは、コーエンと親交があった、かの写真集『アメリカ人』で知られるロバート・フランクが担当していることを特筆したい。

County Records COUNTY-505
ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズというバンドの名は、チャーリー・プール&ノースカロライナ・ランブラーズに由来する。1925年から30年にかけて録音を残しているが、当時流行のストリングバンドは、フィドル、バンジョー、ギターという編成が典型的なものだった。プールのバンジョーはスリーフィンガー奏法で、のちのブルーグラス・バンジョーのルーツになっている。また、ロイ・ハーヴィーのギターはベースランニングに特長があり、これまた大きな影響を与えている。グループ初期のフィドラーだったポージー・ローラーはダブルノートを使わない、どちらかといえばクラシックのヴァイオリンに近い奏法だった。プールが作った『ホワイトハウス・ブルーズ』はマッキレー大統領暗殺事件を扱ったトピカルソングで、今でもブルーグラス・ミュージシャンがよく取り上げている。禁酒法時代を背景に『酒よさらば』 という曲も作っているのだが、彼自身が大酒飲みで、1931年に心臓発作で若死してしまった。好きなミュージシャンの訃報に接すると、誰でも少なからぬ衝撃を受けると思われる。尊敬してやまないマイク・シーガーが他界した2014年1月27日、物凄いショックを受けたことが記憶に新しい。

2019年2月4日

アイヌ先住権をめぐる連続出前講座

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日本政府の新しいアイヌ政策には、「先住民族の権利に関する国連宣言」が各国政府に求めている「先住権保障」の視点がみあたりません。この問題に詳しいテッサ・モーリス=スズキさんを講師に迎え、問題点を洗いだすとともに、望ましいアイヌ政策について議論を深めます。

日 時:2019年3月9日(土)13:30~17:00
会 場:札幌市教育文化会館(札幌市中央区北1条西13丁目)011-271-5821
講 師:テッサ・モーリス=スズキ(オーストラリア国立大学名誉教授)
費 用:無料(資料代500円)
主 催:北大開示文書研究会北大大学院メディア・コミュニケーション研究院
PDF  アイヌ先住権をめぐる連続出前講座のフライヤーの表示とダウンロード(PDFファイル 1.69MB)

2019年2月2日

アメリカンルーツ音楽 Facebook グループの閉鎖

Old plantation in Beaufort County, South Carolina ca.1785-1795 (Wikipedia)

約1年前に開設した Facebook グループ "American Roots Music" を閉鎖した。グループ閉鎖は、全メンバーを退会させ、その後で管理人が退会するという手順を踏む必要がある。メンバーをひとりひとり退会させる必要があり、一括ではできない。例えば1万人のグループなら1万回繰り返す必要があり、人数が多い場合は実際には不可能である。おそらくグループを無闇に閉鎖させないという狙いがあるのだろう。私が管理していたグループは500人強だったので、30分余りですんだ。いわば参加者をグループから削除する作業なので、せっかく参加していただいた人たちに申し訳ない、という気持ちに駆られたのは言うまでもない。ただ実際に投稿されたアーティクルは、私のものがほとんどだったので、代わりににページを作ればという気持ちが働いた。グループ運営は陰で結構煩わしいことがある。一番悩んだのは、メンバーにそぐわないと思われる人の入会希望をどうするかという点だった。アメリカンルーツ音楽とはまるで関係ない人と疑いつつ入会許可を出したところ、怪しげなサイトへの誘導案内を投稿するケースが何件かあった。そのたびにボイコット作業するなど、なにかと厄介だった。というわけで閉鎖したが、手元に残った資料の蓄積を活かすため、新たにページを作ることにした。グループもそうだったのだが、何故ページを作るのか、それには理由がある。私の Facebook フレンドは大きく分けて、写真、音楽、知人の三つに分かれる。ジャンル違いの話題をやたらと流すのは迷惑じゃないかと案じているからだ。なお上掲の「サウスカロライナの古い農園で踊る奴隷たち」は、新設したページのカバーに使用したフォークアートで、奴隷所有者でもあった画家のジョン・ローズが描いたと言われている水彩画である。昨年秋に投稿した「カリブ海から始まるバンジョー物語」にも掲載した。

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2019年2月1日

千島列島の範囲に対する解釈の違い

千島列島を巡る紛争の歴史(画像をクリックすると拡大)

前エントリー「北方領土問題の解決は不透明なままだ」で、1951年のサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄したが、北方四島は千島列島に含まれていないというのが日本の一貫した主張であった、と書いた。これが日本が四島返還を求めてきた根拠になっている。対日参戦したソ連は1945年8月18日、千島列島に進攻を開始した。日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏し9月2日、降伏文書に調印、これによって千島列島はソ連の占領下になった。実際にソ連が北方四島を占領したのは、8月28日から9月5日だった。そして1951年、サンフランシスコ平和条約を批准、千島列島の放棄を約束してしまうのである。米国代表は「千島列島には歯舞群島は含まないというのが合衆国の見解」と発言したが、ソ連代表のアンドレイ・グロムイコ第一外務次官は「千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地がない」と主張している。吉田茂主席全権は条約受諾演説で「千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日、一方的にソ連領に収容されたのであります」「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」と述べている。千島列島の範囲について鈴木宗男議員が、2006年2月の衆議院で質問したが、西村熊雄政府委員(外務省条約局長)は「日本国との平和条約(昭和二十七年条約第五号。以下「サンフランシスコ平和条約」という)にいう千島列島とは、我が国がロシアとの間に結んだ千八百五十五年の日魯通好条約及び千八百七十五年の樺太・千島交換条約からも明らかなように、ウルップ島以北の島々を指すものであり、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島は含まれていない」と答弁している。旧ソ連および現ロシアと日本との間に、千島列島とはどこかとの解釈に差がある所以である。おそらくロシアは北方四島(南クリル諸島)は千島列島の一部だから、日本が放棄したと解釈しているだろう。吉田茂元首相の演説文をいま読むと、いわば敗戦国の悲哀が伝わってくる。ソ連軍による一方的な千島列島占領は理不尽だが、サンフランシスコ平和条約を受諾せざるを得なかったというジレンマである。

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日本国との平和条約 - Ministry of Foreign Affairs of Japan の表示とダウンロード(PDFファイル 1.11MB)