2019年11月12日

グーグル検索1回で7グラムの二酸化炭素排出というが

沈みゆくヴェネツィア:温暖化を警告する彫刻家ロレンソ・クイン制作の巨大な腕

二酸化炭素排出問題で批判されたグーグル
米国は4日、気候変動への国際的な取り組みを決めた2015年の「パリ協定」からの離脱を正式に国連に通告した。これにより世界で唯一、同協定に参加していない国となる。自分で決めたガス排出を減らす目標の取り消しや、発展途上国の対策を助けるための国際基金へお金を出すのをやめると明言したのである。二酸化炭素というと、火力発電所や工場などを想起するが、家庭からも排出されている。10年前、英国のザ・タイムズ紙が「グーグル検索の環境に及ぼす影響」という記事を掲載して話題になった。検索1回につき、7グラムの二酸化炭素を排出する。ヤカン一杯のお湯を沸かすと15グラム。だから2回で同じ排出量になり、明らかに環境に悪影響を与える、という物理学者のアレックス・ウィズナー=グロス博士(ハーバード大学研究員)の主張を取り上げたものだ。なにかと話題を振りまくグーグルだが、これに対する TechCrunch のジェイソン・キンケイド氏の論評が誠に興味深い。要約しながら紹介してみよう。本一冊がおよそ2,500グラムの二酸化炭素に相当するそうで、これはグーグル検索の350倍以上になる。またチーズバーガー1個の二酸化炭素排出量は3,600グラムだそうだ。これはグーグル検索500回以上に相当する。だから、食べるハンバーガーを減らして検索を控えめにすればいい。そうすれば体重も減らせるしと書いている。そしてその先が痛烈である。キンケイド氏は何かを調べるのに車で図書館に行くかわりにグーグルを使ったことは数知れないという。そのたびに車を使えば排出する二酸化酸素は、グーグル検索より桁違いに多いだろうとしている。これは一理あり、その通りだと思う。また乗り換え案内を使い、電車やバスの時刻を調べて車を使わずに済ませたことは何10回もあるという。それに炭素クレジットを買えるサイトを見つけるのにも検索エンジンが役立っているというのだ。

出典:国立環境研究所クリックで拡大
記事について氏が問題にしているのは、事実が誤っているかどうかというのではなく、グーグルに謎に包まれた邪悪な力のレッテルを貼り、みんながグーグルを使うたびに、環境問題を悪化させていると言っていることで、ある意味で人騒がせなアラーミストだという。つまりグーグルが今よりもエネルギー効率を良くする余地があるだろうが、この手の記事が人々にインターネットを敬遠させてしまうことをは恐れているという。ガソリンを大食いするスポーツ用多目的車と違って、インターネットは人々を繋ぎ、人間性を豊かにするものである。ウェブ企業には何をおいてもカーボンニュートラルになって欲しいが、エネルギーに関心のある消費者にブラウザーを怖がらせてはならないという主張である。環境問題は一筋縄で行かない側面があると私は思う。米国地理学会の「ナショナル・ジオグラッフィック」誌によると、地球には今後、数百万年に1度という深刻な氷河期がやってくるという予測結果が判明したという。ところが自動車や発電所から出る二酸化炭素などの温室効果ガスによって温暖化が促進されているため、この氷河期の到来は無期限に延期されているという研究結果があるそうだ。スコットランドのエディンバラ大学のトーマス・J・クローリー教授によると、温暖化が生じていなければ、1万~10万年のうちにカナダ、ヨーロッパ、アジアの大半がいま南極にあるような恒久的な氷床で覆われる可能性があるという。地球温暖化で氷河期が食い止められている、というのは何とも皮肉な話だが、本当なら米国を喜ばす説になるかもしれない。キンケイド氏の論評に戻すと、グロス博士は CO2Stats というベンチャーを共同設立した。これが単なる情報ウェブサイトではなく、営利企業であることをザ・タイムス紙は触れていない。商売がらみの可能性が高い、だから重要な偏見を生む可能性のあるものは、もっと詳しく取り上げるべきだろうと述べている。極めて興味深い記事だったので、かなり衆目を集めたようだが、グーグルが反論したのは言うまでもない。

google  ザ・タイムズ紙の「グーグル検索と二酸化炭素排出の関連性が明らかになった」への反論(英文)

2019年11月8日

沖縄高等女学校制服変遷悲話

へちま襟の上着にモンペ姿の女学生たち

沖縄県立高等女学校の前身だった、私立沖縄高等女学校が設立されたのは、明治政府が琉球藩を廃し、沖縄県を強制的設置した1879(明治12)年から数えて21年目の1900(明治33)年だった。当初は首里城の軒先で授業をしていたが、1908(明治41)年、真和志村大道に新しい校舎が竣工して移転した。1916(大正5)年に沖縄県女子師範学校が移転して並置された。校長および一部の教師は兼任であった。そのため、校名は異なるものの、実質的には一つの学校に近いものであった。当時の制服は小袖に女袴という大和風だったが、1922(大正11)年に全校生徒自治会で「女学生の制服として和服と洋服と何れが可なりや」との議題が提案された。賛否激しい議論になったが、翌年、制服制定の件で洋服和服自由期間を設けた。

ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)
半年でほぼ全員が洋服になり、1926(大正15)年に制服がセーラー服に正式決定されたのである。1928(昭和3)年には、さらに沖縄県立第一高等女学校に改称された。時代が下り、1941(昭和16)年になると、2年生は分け髪、3年生は分けて結ぶ、4年生は三つ編みと決められた。どうして学年ごとにこのような区分けをしたか不明である。迫りくる戦争の黒い影が沖縄の空を覆い、この年からセーラー服がへちま襟の上着に変更され、さらに翌年には、スカートの代わりにモンペ着用になった。糸満市のひめゆり平和祈念資料館によると、米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945(昭和20)年3月23日の深夜、沖縄県女子師範学校および沖縄県立第一高等女学校の女学生222人と、引率教師18名の合計240名からなる「ひめゆり学徒隊」が南風原の沖縄陸軍病院に向かった。敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した。亡くなった女学生は123名、教師は13名だった。陸軍病院以外の犠牲者を加えると、沖縄戦で亡くなった女学生は211名、教師は16名、合わせて227人だった。戦闘機による激しい空爆と、戦艦ミシシッピなどによる艦砲射撃で町が焼かれ、校舎は灰燼に帰し、廃校を与儀なくされる。開校時に教室として軒先を借りた首里城も砲撃を受けて炎上した。1900(明治33)年から数えてわずか45年、沖縄県立高等女学校のすべてが、戦争によって露と消えてしまったのである。

PDF
ひめゆり平和祈念資料館「電子版ダイジェストブック」の表示とダウンロード(PDFファイル 5.91MB)

2019年11月3日

オリンピックの腐敗を憂慮したクーベルタン男爵

古代オリンピックの短距離走(メトロポリタン美術館蔵)

オリンピックの起源には諸説ある。ヘラクレスがギリシャ南部のペロポネソス半島のエーリスを攻略、オリンピアにゼウス神殿を建て、4年に1度、競技会を行ったのが始まりというのが、そのひとつである。時代が大きく下った紀元165年、大観衆で埋まったオリンピック会場の近くで、哲学者ペレグリヌス・プロテウスが焼身自殺した。ヘラクレスの神話上の死をモデルにしたもので、人間世界の腐敗した富に対する抗議だったという。紀元前146年にローマがマケドニアを属州としたのを皮切りに、ギリシャはローマの一部と化した。古代オリンピックはギリシア人以外の参加を認めていなかったが、ローマ帝国が支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになった。その変質に悲憤したプロテウスは自殺を予告、葬儀場の火炎に身を投げたのである。さらに392年、ローマ帝国のテオドシウス帝がキリスト教を国教と定めたことで、オリンピア信仰を維持することは困難となった。最後の古代オリンピックが開催されたのは、393年の第293回大会だった。

クーベルタン男爵(1925年)
そのオリンピックを再興したのがクーベルタン男爵ピエール・ド・フレディ(1863–1937)だ。1894年に国際オリンピック委員会(IOC)の設立が決定され、1896年にアテネで第1回近代オリンピックが開催された。有名な「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」は、英米両チームのあからさまな対立により険悪なムードだったロンドン大会(1908年)中の日曜日、礼拝のためにセントポール大寺院に集まった選手を前に、主教が述べた戒めの言葉だった。これを援用してクーベルタンは「勝つことではなく、参加することに意義があるとは、至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある」と述べたのである。彼はいわばある種の理想主義者で、オリンピックの出場者は「スポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではない」と主張した。しかし現在は、オリンピック憲章から「アマチュア(リズム)」という単語は削除されている。世界的なスポーツ界の流れとしても事実上存在しないに等しい。2020n年東京大会のマラソン会場を巡る騒ぎで露呈したように、昨今のオリンピックの商業主義は目に余るものがある。クーベルタンは1927年に「もし輪廻というものが実際に存在し、100年後にこの世に戻ってきたなら、私は自分が作ったものをすべて破壊することでしょう」と演説した。金にまみれたオリンピックは解体すべきだろう。

2019年11月1日

五輪招致から撤退する都市が相次いでいる

バンクシーの壁画「輪を盗んだ」(ロンドン2012年)

東京2020五輪大会のマラソンおよび競歩の会場を巡る一連のゴタゴタ騒ぎは、見方を変えれば、招致そのものに問題があったことを炙り出すという、皮肉な成果があった。エントリー「灼熱東京五輪マラソン会場の札幌移転」で指摘したように、立候補ファイルで、開催期間中の気候が「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と真っ赤な嘘をついて招致した。開催要件の「7月15日から8月31日まで」は、9月に入ると米国の人気プロスポーツ、バスケットやアメリカン・フットボールなどと重なるため、多額の放映権料を払う米テレビ局に配慮したものだ。春、あるいは秋がベストシーズンだが、開催費用をひねり出すために、いびつな運営形態になってしまっているのが今の五輪である。効果ある暑さ対策を用意できないまま招致した、東京都と日本オリンピック委員会(JOC)、後押しした政府の責任は極めて重い。ところで五輪招致から撤退する都市が相次いでいる。2004年大会は11都市だったが、20年後の2024年大会はわずか2都市だった。
立候補したロサンジェルスは2024年を断念、2028年に開催することになった。要するに2都市の開催順を同時に決めたという異常措置だった。実は2024年大会の立候補に関し、米国オリンピック委員会(USOC)は公式入札をしたが、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ワシントンDCを、ボストンが押しのけた。ところが同市は市民の反対運動で招致から撤退した。反対運動を指揮したクリス・デンプシーは「五輪を開催するための財政的な負担が一番の懸念だった」という。1960年以降の五輪は全ての大会で予算をオーバーしている。英国放送協会(BBC)の記事によると、数十年もの五輪予算を研究してきたオックスフォード大学のベント・フライフヨルグ教授は「誰もが史上最高の五輪にしたいという競争みたいなものがあるのです」「五輪を開催するどの都市も、これまで開催したことがないか、あってもかなり昔なので、その経験を活用できません。つまり、大金が絡むイベントを担当しているのは未経験の人たちなので、費用超過へとつながるのは当然なのです」と語っている。IOC は2032年大会開催の準備し始めたそうだが、早期募集に焦りが滲み出ている。

2019年10月31日

首里城の中庭でカドリールを踊る女学校の学生たち

首里城の中庭で開催された沖縄県立高等女学校の運動会(1907年頃)

きょう31日未明、沖縄県那覇市の世界遺産の首里城跡上に復元された正殿などが焼失、全国に衝撃が広がった。1453年・1660年・1709年・1945年の焼失に次いで、歴史上5度目の焼失となった。首里城の創建年代は明らかではないが、13世紀末から14世紀のグスク(御城)造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられるそうである。1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、5月27日に焼失、1958年に守礼門が再建されたのを皮切りに、円覚寺門など周辺の建築から再建が始まった。上掲の写真は、沖縄在住の元米軍海兵隊員、古写真蒐集家ロブ・オーシュリ氏によると、1907(明治40)年に撮影されたという。オリジナルの写真は不明だが、近くにあった写真館が撮影したと思われる。

首里城時代の県立高等女学校の学生たち(那覇市歴史博物館蔵)1908年

1879(明治12)年、明治政府は500名弱の部隊で首里城に乗り込み、一方的に強権をもって沖縄県の設置を断行し、琉球王国を滅ぼした。首里城の御庭(うなー)すなわち中庭で女学生たちがカドリール(quadrille)を踊っている。カドリールは4組の男女のカップルがスクエアになって踊る、歴史的ダンスだが、女学校ゆえに女子学生ばかりである。運動会の一コマで、万国旗が写っている。首里城には複数の学校が間借りしていた時代があり、沖縄県立高等女学校もそのひとつだった。髪型、そして小袖(こそで)に女袴といった制服に違和感を覚える。明治政府が琉球の生活風習を剥奪し、大和風のそれを押し付けたことがよく分かる。蛇足ながら県立高等女学校は1922(大正11)年に、全校生徒自治会で「女学生の制服として、和服と洋服と何れが可なりや」との議題が提案。賛否激しい議論になったが、1926(大正15)年 、セーラー服に正式決定された。1928(昭和3)年に県立第一高等女学校に改称、1945(昭和20)年に沖縄戦で壊滅、廃校になった。