2018年9月23日

イサク・ディネセン『アフリカの日々』への追憶

カレン・ブリクセンと農園の使用人たち(1920年ごろ)

アフリカの日々(河出文庫 2018年)
アーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)パリ時代の回想録『移動祝祭日』(高見浩訳・新潮文庫)に、デンマークのイサク・ディネセン(1885-1962)の『アフリカの日々』"Out of Africa" に関する興味深いくだりがある。曰く「彼(ブロア・ブリクセン男爵)の最初の細君は、とても素晴らしい文章を書く人だった」「彼女がアフリカについて書いた本は、私が読んだなかでも最上のものだったな」云々。シルヴィア・ビーチ(1887–1962)のシェイクスピア&カンパニー書店から借りて読んだのだろう。邦訳本(横山貞子訳)が晶文社から出版されたのは1981年で、リアルタイムで読んで感動した記憶がある。今年の8月、河出書房新社が文庫本化したが、再び今、ディネセンが脚光を浴つつあるのだろうか。ディネセンのファーストネームはイサクと男の名だが、実は女性である。本名はカレン・ブリクセンで、1885年にデンマークのコペンハーゲンの裕福な商人の家に生まれた。27歳のとき、父の恋人アグネスの息子、スウェーデンの貴族プロア・プリクセン男爵と婚約する。プロアはいわば没落貴族で、ディネセン家の資力でケニアに農地を買い入れた。カレンはケニアでも指折りの大農園の生活を始めたわけだが、男爵夫人になった代償として、女遊びに耽溺していた夫から梅毒をうつされる。結局離婚が成立して夫は去ったが、この地にとどまり、コーヒー農園主としての18年間の生活を綴った『アフリカの日々』は病気のことを一切触れていない。アフリカの人々、アフリカの大地への愛情が、通奏低音として一貫して流れている。農園を去るとき「私たち白人はここの人びとから土地を奪った。奪ったのは彼らの父祖の土地にとどまらない。さらに多くのもの、すなわちここの人びとの過去、伝統の源、心の寄りどころを奪ったのだ」と述懐する。

カレン・ブリクセン国立博物館(ナイロビ)
今、私は晶文社版を横に置きながら、カレンの写真をこのエントリーに添えるか迷っている。というのは著者はこの本に写真を入れることを拒み続けたからである。訳者あとがきにあるように、文化人類学の本でもなければ、ルポルタージュでもない。人生は変容してゆく。カレンのアフリカの日々もまた時間の流れが脈打ち、時間を固定する写真はそれらを捉え得ることは不可能である。著者にとって大事なのは、ある瞬間にしか見えなかったことであり、皮相的な写真を否定したのだろう。しかし原著については手に取ったことがないが、無論、写真はないだろうと思う。しかしこの邦訳版の口絵には著者の意思に反して、5葉の写真が使われている。執筆当時の著者のポートレート、農園のたたずまい、キクユ族の娘の油絵、農園を根城にしたサファリ案内人でカレンの恋人だったデニス・フィンチ=ハットン(1887-1931)の墓などである。このうち、少なくとも彼女自身のポートレ-トは、長い間公表されなかったのではと想像する。謎の作家としてセンセーションを巻き起こした作家だったからである。しかし結局ここに写真を掲載することにした。1954年にノーベル文学賞を受賞したヘミングウェイは、インタビューの際に「この賞があの美しい作家イサク・ディネセンに与えられていたら、私はもっと幸せだっただろう」と述懐したそうである。私も美しいと思う。その美しさの片鱗を見せたいという誘惑に負けてしまったのである。ロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ共演のアカデミー受賞作品映画『愛と哀しみの果て』の原作であるが、そういう意味ではやはり、映画を観てこの自伝的エッセーを理解したと錯覚するのはいささか乱暴であると思う。

2018年9月19日

歌で蘇るマッキンリー大統領暗殺事件

ハンカチに包んだ銃で狙撃されるウィリアム・マッキンリー大統領(米国議会図書館蔵

マッキンリー大統領
暗殺されたアメリカの大統領は誰れか?と質問されたら、おそらくエイブラハム・リンカーン(1809-1865)とジョン・F・ケネディ(1917-1963)のふたりを誰もがあげるに違いないだろう。しかしジェームズ・ガーフィールド(1831-1881)とウィリアム・マッキンリー(1843-1901)の名を頭に浮かべる人は少ないと思われる。正直言うと私はガーフィールドについては勉強不足で知らなかったが、マッキンリーの名は前から知っていた。ガーフィールドは1881年7月2日午前9時30分、首都ワシントンのボルティモア・アンド・ポトマック駅で、チャールズ・ギトーに狙撃された。今日の医療技術であれば命を落とすことはなかっただろうという、興味深い医療史上の研究があるようだ。マッキンリーはニューヨーク州バッファローで開かれていた、パン・アメリカン博覧会を訪問中の1901年9月6日午後4時7分、無政府主義者レオン・チョルゴシュに暗殺された。セオドア・ルーズベルトが副大統領から昇格した結果、史上最年少の42歳10ヶ月で大統領職に就くことになった。
Charlie Poole & the North Carolina Ramblers
McKinley hollered, McKinley squalled
Doc said to McKinley, "I can't find that ball"
From Buffalo to Washington

Roosevelt in the White House, he's doing his best
McKinley in the graveyard, he's taking his rest
He is gone, long old time

Hush up, little children, now don't you fret
You'll draw a pension at your papa's death
From Buffalo to Washington

Roosevelt in the White House drinking out of a silver cup
McKinley in the graveyard, he'll never wakes up
He is gone, long old time

Ain't but one thing that grieves my mind
That is to die and leave my poor wife behind
I'm gone, long old time

Lookit here, little children, don't waste your breath
You'll draw a pension at your papa's death
From Buffalo to Washington

Standing at the station just looking at the time
See if I could run it by half past nine
From Buffalo to Washington

Came the train, she's just on time
She run a thousand miles from eight o'clock till nine
From Buffalo to Washington

Yonder come the train, she's coming down the line
Throwin' every station, Mr. McKinley's a-dying
It's hard times, it's hard times

Lookit here, you rascal, you see what you've done
You've shot my husband with that Iver Johnston gun
Carry me back to Washington

Doc's on the horse, he th'ow down his rein
Said to that horse, "You've got to outrun this train"
From Buffalo to Washington

Doc came a-running, takes off his specs
Said, "Mr McKinley, it's, better pass in your checks
You bound to die, bound to die"
この歌はチャーリー・プール(1892–1931)&ノースカロライナ・ランブラーズが1926年に録音した『ホワイトハウス・ブルース』である。おそらく事件から余り日が経ってうちに作曲したにも関わらず、政治的配慮からすぐに発表できなかったのではなかろうか。ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ、ビル・モンロー、アール・テーラー、サム・ブッシュなど、主としてブルーグラス音楽系のミュージシャンに歌い継がれ、現在でも頻繁に演奏されている。アメリカのカントリーソングには『オールド 97 の大破』『タイタニック』など、事件事故をテーマにしたトピカルソングが少なからずある。人々は歌によって歴史の記憶が蘇るのである。私がマッキンリー暗殺事件を知ったのはこの『ホワイトハウス・ブルース』を聴いたからだった。

headphoneWhite House Blues: Charlie Poole and the North Carolina Ramblers 1926 (Columbia 15099-D)

2018年9月18日

ジョーン・バエズ 18 歳のレア写真

©Acervo de família. Joan Baez aos dezoito anos de idade. EUA, 1959.

写真はブラジル南東部ベロオリゾンテ在住の写真編集者フェルナンド・ラベロ氏が、Facebook に公開した若き日のフォーク歌手、ジョーン・バエズのポートレートである。1959年、18歳。1973年、チリ軍事クーデターの際にラベロ氏の弟ペドロが反乱軍に捕まる。バエズらの国際的な抗議運動で、3ヶ月後に解放されたが、そのオマージュだそうである。バエズは1941年、ニューヨーク州スタテン島のメキシコ系の家に生まれた。ピート・シーガーの影響を受け、彼の歌を歌うようになり、1957年にギブソンのギターを購入した。翌年、一家はマサチューセッツ州に移住、バエズはボストン郊外のケンブリッジで歌うようになった。1959年、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演、一躍有名になった。ハーヴァード・スクエアのフォーク歌手が結集したアルバム "Folksingers 'Round Harvard Square" の録音に参加、プロの道を歩み始める。翌年10月、ソロアルバム "Joan Baez" がヴァンガードからリリースされた。ラベロ氏は「家族のコレクション」とクレジットしているが、調べてみたところ、この写真は2014年4月、バエズの Facebook 公式ページに投稿されたものであることが分かった。プロのカメラマンが撮影したと思われるが、プリントそのものはネガフィルムの埃の痕跡が残っているので、レコード会社が配布したプロモーション用とは考えにくい。おそらく本人ないし家族が所有していたものだろう。埃は背後の壁の部分だったので、当ブログ掲載にあたり修正を施した。いずれにしても、初めて見る写真である。バエズは今年1月9日、77歳の誕生日を迎えたが、引退を決意して、さよならツアー "Fare Thee Well" を開始した。なおバエズにとって2008年以来の新作となる "Whistle Down the Wind" が、米国の公共ラジオネットワーク局「NPR」の公式サイトで全曲試聴可能となっている。

Blogger  Joan Baez: Fare Thee Well Abschiedstour - Live @ Paris Olympia on June 13, 2018

2018年9月16日

災害時にワイド FM も聴けるラジオ


台風21号による停電の教訓から、情報収集用に携帯ラジオが必要と痛感した。条件は「ワイド FM」 放送も聴けることだった。余りに耳にしない用語で、私も最近知ったのだが、正式には「FM 補完放送」という名称がついている。ネット百科事典ウィキペディアによると、FM 補完中継局は「中波放送を行う基幹放送局の放送区域において、災害対策等のため、補完的に超短波放送用周波数を用いて放送を行う中継局」と定義されているそうだ。つまり FM 電波で、AM 放送が聴ける放送のことである。ワイド FM なら、ビルやマンション、山間部でも雑音が少ないクリアな音で聴ける。ただし山の影では電波が回り込みにくいので受信できない。私が住む京都では、比叡山の中腹に KBS 京都が送信機器を設置、この春からようやく放送を開始した。

周波数 90.1MHz~94.9MHz に対応した FM ラジオが必要
このワイド FM を受信するには、従来の FM 放送用の周波数(76.1MHz~89.9MHz)に加え、新たに FM 放送用として使用可能とした周波数(90.1MHz~94.9MHz)に対応したラジオが必要である。そこで選んだのがインターネット通販サイト、アマゾンの携帯ラジオ部門ベストセラー1位の、オーム電機製「豊作ラジオ」だった。丸みを帯びた濃緑色の筐体デザインが気に入った。名称は田圃や畑での農作業中でも使えることに由来するらしい。完全防水ではないが、IPX4 防飛沫仕様なので、水しぶきに強く、災害時にも役立ちそうだ。受信可能な周波数は AM 530KHz~1605kHz / FM 76MHz~99MHz で、ワイド FM に十二分に対応している。電源が容量の大きい単1形乾電池4個なので、かなり長時間持つようだ。1,700 円強という低価格に驚いた。

PDF  ワイド FM に対応した放送局(FM 補完中継局)の整備地域(PDFファイル 471KB)

2018年9月13日

危うい北海道の電力供給体制

北海道への電力融通増強計画(出典:北海道電力)

泊原発の位置に注目 ©北海道新聞
朝日新聞9月12日付け電子版によると、9月6日未明の地震直後に北海道電力が本州側から緊急の電力融通を受けるなどして、いったんは電力の需給バランスを回復していた。ところがその後何らかの理由で再びバランスが崩れ、地震から18分後に道内ほぼ全域のブラックアウトに陥ったという。発生直後、震源近くにあった北海道最大の火力である苫東厚真発電所の2、4号機が自動停止し、当時の供給力の4割強が一気に失われた。本州との間を結ぶ海底ケーブル「北本連系線」は北海道の異常を探知し、本州から60万kWの電力供給を始めた。北電もブラックアウトを防ぐため、一部地域を強制的に停電させて需要を減らす措置をとったが、安定した状況は続かなかった。本州からの送電はふたたび増加に転じ、同3時11分に60万kWに達した。その14分後、苫東厚真で唯一、発電を続けていた1号機が停止。ほぼ同時にほかの地域で動いていた発電所もすべて止まり、北海道は闇に包まれたのである。

新ルート「北斗今別直流幹線」の断面(出典:北海道電力)

海底ケーブル「北本連系線」の送電能力は60万kWが限界だそうだが、これでは足りず、青函トンネルを利用した新たな「北斗今別直流幹線」を増設して合計90万kWに増やし、2019年3月に運転を開始する予定になっている。北海道の電力系統規模は360万kW程度で、東日本の4,100万kW、西日本の5,500万kWなど他の地域と比べて小さいという特徴がある。従ってたとえ90万kW融通されても、道内の電力不足をカバーするには、大きく不足していることはシロウトでも分かる。やはり供給量の半分を苫東厚真発電所1カ所に依存するリスクが露呈したと言えそうだ。今回のブラックアウトを受け、泊原発を再稼働すべきという意見がまたしても出そうである。しかし建屋の直下に活断層があり、再稼働はとんでもない話である。

nuclear 北海道胆振東部地震「泊原発が動いていれば停電はなかった」論はなぜ「完全に間違い」なのか