2026年4月13日

歴史探索:コンスタンティノープルの陥落

The Fall of Constantinople
ファウスト・ゾナーロ(1854-1929)コンスタンティノープルに入城するメフメト2世

総勢10万のオスマン帝国軍団を率いたメフメト2世は、1453年4月6日からコンスタンティノープルの包囲を開始した。迎え撃つビザンツ軍はヴェネツィアやジェノヴァからの傭兵・義勇兵をあわせても1万弱に過ぎない。それでも優れた海軍力も手伝って守備兵はよく守った。メフメトは4月22日には船団の「山越え」という離れ業までやってのける。木製軌道と滑車と膨大な数の牡牛や兵士の力を使ってボスポラス海峡から船団をガラタ地区の丘を越えて金角湾内に滑り込ませたのだ。金角湾西側に入ったオスマン艦隊は、陸上からのオスマン軍の砲撃と呼応して、ビザンツ艦隊を圧迫した。それでもこの町を落とすことはできなかった。しかしウルバンの巨砲が威力を発揮し、西の大城壁に大きな損傷を与え始める。包囲を開始して二か月に近づこうとする5月28日夕刻、メフメト2世は最後の総攻撃を命じる。この征服戦の遂行には側近中にも反対者がおり、失敗はすなわち、スルタンの権威失墜になりかねない情勢だった。作戦を陣頭指揮したスルタン・メフメト2世にとっても命運のかかった決戦だった。5月29日の夜明け前、オスマン軍は最後の攻撃を行い、城内へなだれ込んだ。この日をもってビザンツ帝国は滅亡した。イスラム法は、戦争によって略奪された異教徒の都市では、聖戦の戦士たちに3日間の略奪の権利を認めている。コンスタンティノープルの陥落直後にも、メフメト2世は自らの意に反しても、略奪を許可せざるを得なかった。しかし、彼は「ローマの皇帝」の都をできる限り無傷で手中にしたいと考えていたと言われる。略奪は1日できりあげられたとみるのが妥当ではないか。略奪の対象には人間も含まれる。

Hagia Sophia
イスタンブルのアヤソフィア前でメッカに向かって礼拝するムスリムたち

イスラム法では、戦利品としての異教徒の捕虜は、奴隷として捕獲者の所有に帰する。そのため多くの市民が捕虜となって奴隷に落とされ、その数は5万人に達した。この捕虜についても、メフメトは、スルタンの取り分となったものを丁重に扱い、特にビザンツ貴族たちについては、その身代金を自ら払って彼らの解放を保障したといわれる。メフメト2世は、コンスタンティノープルを征服すると、荒廃した町の再建に取り組み、街の復興に努めた。彼はなによりもオスマン帝国の首都として「ローマの都の再興」を夢見ていた。その思いは彼が6世紀に建造されたビザンツ帝国の記念碑的建造物アヤソフィアをモスクに転用した際に作成された寄進文書に色濃くあらわされている。

「… 彼は偉大なスルタン、よく知り、正しき王にして … ローマの帝国の終焉ののちに、神アッラーの言葉を掲げた者である。… 彼はこれほどまでにアレクサンドロス王の時代を体現している。… 先達たるアレクサンドロス王の杖を受け継ぐものである」
コンスタンティノープルの陥落

このようにメフメト2世は自らをアレクサンドロス大王やローマの後継者と見なしていた。そもそも彼は、即位以前からアラビア語、ペルシア語とイスラム諸学だけではなく、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語も修得し、ことにギリシアの文献を広く学んでいたことが知られている。アテネとトロイの遺跡を訪れ、称賛の言葉を発した彼を、ある歴史家は「ギリシア崇拝者」とまで記した。自らをアレクサンドロス大王の後継者と意識するメフメト2世は、実際、東西の融合を果たすべく1480年、ローマ征服を目指してイタリア半島最東端の港町オトラントを占領する。蛇足ながら塩野七生著『コンスタンティノープルの陥落』(新潮文庫)によると以前は「ビザンチウム」と呼ばれていた。そしてコンスタンティノス大帝の名をとってコンスタンティノスの都という意味の「コンスタンティノポリス」と呼ばれるようになった。「コンスタンティノープル」は現在、日本で最も普及している英語式発音の呼び方。「イスタンブル」もコンスタンティノポリスのトルコ語式の呼び方が長い年月経た結果、原語を想像するのが不可能なほどに変化したに過ぎないという。下記リンク先はワシントンD.C.の聖ソフィア・ギリシャ正教会大聖堂の記事「コンスタンティノープルの陥落は深刻な結果をもたらした」です。

history  Fall of Constantinople Had Profound Consequences | St Sophia Greek Orthodox Cathedral

2026年4月10日

ドナルド・トランプはベンヤミン・ネタニヤフの操り人形

イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフがアメリカ大統領ドナルド・トランプにどれほどの影響力を持っているかは驚くべきことだ。トランプがイランから核の脅威を完全に排除したと宣言してからわずか9ヶ月後に、なぜ再びイランを攻撃する必要性を感じたのか、その理由を探しているなら、これ以上探す必要はないだろう。トランプは北朝鮮の金正恩やロシアのプーチンのような政治的強権指導者に抗しがたいほど魅了されている。彼をを説得して戦争に踏み切らせたのはネタニヤフだけであり、しかも一度ならず二度もだ。昨年6月はイランへの空爆は一日限りだったが、今回は「終わりのない戦争」の始まりとなるかもしれない。トランプは2024年の大統領選キャンペーンでそれを回避すると約束しており、ベネズエラでの最近の勝利のように、イランに対して迅速かつ決定的な勝利を収めることでその約束を守れると考えている。しかしイランの最高指導者アヤトラ・アリ・ハメネイを殺害することは、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領を誘拐することと何ら変わりなく、決定的な意味を持たない。どちらの場合も政治体制は単に政権内で次席の指導者を大統領に昇格させるだけで、抑圧的な体制はそのまま維持される。そして、イランの場合は、依然として抵抗を続けることができるのだ。トランプは、短期間で勝利を収めて政権を転覆させることができるという幻想にしがみついている。確かにイランの攻撃力は非常に低いが、ネタニヤフもトランプも地上部隊を派遣しない限りイランはいつまでも生き残ることができるのである。一方、保険会社はペルシャ湾の石油タンカーへの保険提供を拒否しており、世界の石油供給量の5分の1が途絶え、価格が高騰している。さらに、ネタニヤフ首相が実現できれば、ガザ地区の停戦は崩壊し、イスラエル国防軍(IDF)はパレスチナ人の追放作戦に着手するだろう。戦略的・技術的な現実に対するトランプ大統領の無知につけ込み、二度目のイラン攻撃を促したのは、おそらくネタニヤフ首相だったのだろう。

Mar-a-Lago

9ヶ月前のアメリカによるイラン爆撃以前でさえ、イランの核兵器による差し迫った脅威は存在しなかった。イランは架空の核兵器を運搬するための現実的な手段すら持っていないのだ。ネタニヤフ首相は昨年6月にトランプ大統領にイラン攻撃を促した際、自身の発言を真に信じていたかどうかは定かではないが、その作戦は功を奏した。その後、イランの脅威はもはや信頼できるものではなくなった。しかし、トランプ大統領はガザ地区での虐殺に憤慨し、ネタニヤフ首相に10月の停戦合意を強要した。ネタニヤフはトランプ大統領の禁止令に逆らう勇気がなく、「停戦」以来、イスラエル国防軍によって殺害されたパレスチナ人はわずか618人にとどまっている。しかし今、4ヶ月にわたる試みの末、ネタニヤフはトランプ大統領を説得して再びイランを攻撃させた。今回は地上部隊を除けば、イスラエルが全面的に参加してイラン政権を打倒するための大規模な取り組みだ。なぜ彼はそれを望んだのだろうか? もしイスラエルとアメリカがイランとの大規模な戦争で同盟関係にあるのなら、ガザ地区で何らかの不幸な事件が起きたからといって、イスラエル国防軍が再び大規模な殺戮と民族浄化を開始せざるを得なくなったからといって、トランプ大統領が同盟国に背を向けるはずがない。トランプ大統領はまたしても騙されたのだ。予想では、ガザ停戦は間もなく崩壊するだろう。ベンヤミン・ネタニヤフ首相は、イランとの戦争の現段階でドナルド・トランプ大統領がイランとの停戦に合意することに警告を発した。この報道は、パキスタンが仲介した45日間の暫定停戦案がワシントンとテヘランに提出されてから数時間後に発表された。イランはこれに対し、恒久的な停戦以外は認めないとし、トランプ大統領はイランに対し、火曜日の夜までにホルムズ海峡を再開しなければ「地獄」に直面すると最後通牒を突きつけ続けた。下記リンク先はイスラエルの多言語オンライン新聞タイムズ・オブ・イスラエル紙の記事「ネタニヤフ首相はトランプ大統領に対し現段階ではイランの停戦を進めないよう要請したと述べた」です。

israel  PM Netanyahu said to ask D. Trump not to move forward with Iran ceasefire at this stage

2026年4月8日

スター・ウォーズの大看板を掲げた東京・有楽町の旧日劇(日本劇場)への追憶

旧日劇
映画「スター・ウォーズ」の大看板(千代田区有楽町の旧日劇)1978年

写真は東京・有楽町の旧日劇(日本劇場)に掲げられた映画の大看板である。朝日新聞東京本社に勤務していたが、日劇は隣にあった円形の建物だった。1978年12月12月20日、エピソード4『スター・ウォーズ/新たなる希望』が公開されたが、大看板に目をむいた私は慌ててカメラに収めた。フィルムはコダクローム64、カメラはライカM4で、レンズはズミクロン35mmだと思われる。日劇は1933年に誕生した。地下3階・地上7階、定員約3000人の大劇場で、豪奢な内装で「陸の竜宮」と呼ばれた。1935年から東宝が運営にあたり、開館当初からの映画上映の他、日本初のニュース上映、名物の日劇ダンシングチーム(NDT)のレヴュー公演、榎本健一(エノケン)劇団公演なども人気を博した。戦後はさらに幅を広げ、ジャズやロカビリー、グループサウンズ、歌謡ショー、ミュージカルや、音楽フェス「日劇ウェスタン・カーニバル」などを行い、日劇は大衆芸能を煌びやかに彩った。有楽町の持つ様々な顔のなかでも特に異彩を放っていたのは、この街が醸し出すエロスのイメージかもしれない。戦後には娯楽としてオフリミットのバーやキャバレーがつくられ華やかな空気がつくられていく一でガード下には進駐軍相手の娼婦たちが集まり、その様子は戦後初のベストセラーと言われる肉体文学の金字塔、田村泰次郎の小説『肉体の門』にも描かれて世間にも知られるところとなる。

Music Hall

何より忘れてはならないのは、駅前のランドマークだった日劇の5階小劇場に、1952年に開場した日劇ミュージックホールである。トップレスのダンサーによるショーで大変な人気を博した劇場ですが、そこで上演されたのは、性やエロスをテーマとして徹底的に磨き上げられたレヴューショーだった。戦後の抑圧から解放され、巷では性産業が盛んになっていきますが、それらとは一線を画し、最新の音響照明設備も導入して総合的に演出されたショーは、海外雑誌にも「東京で最高のショー」と取り上げられるほど。谷崎潤一郎をはじめ文化人にもファンは多く、また6分の1ほどは女性客で埋まっていたという話からも、いかにエロスが芸術の域にまで高められていたかがわかる。伊吹まりやメリー松原をはじめ、数々のスターも生んだ小劇場は約30年で閉場したが、戦後文化史に大きくその名を刻むこととなった。当時の私は朝日新聞出版写真部のスタッフカメラマンだったがので職場を抜け出し、こっそりトップレスのダンサーを眺めたり、シリアスな映画を上映していた地下の日劇文化劇場に通ったことが思い出される。携帯電話はおろか、ポケベルもなかった時代、行方不明になった私に上司は困惑したに違いない。1980年に朝日新聞は築地に移転、有楽町時代が終焉した。劇場は1981年に閉鎖され、新たに建てられた有楽町センタービル(マリオン)のTOHOシネマズ日劇に引き継がれた。下記リンク先は映画「スター・ウォーズ」の公式ウェブサイト(英文)です。

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2026年4月6日

オスマン帝国の遺産:イスタンブルの壮麗なモスク

Sultan Ahmed Mosque
Sultan Ahmed Mosque (Blue Mosque) Istanbul, Turkey ©Tsutomu Otsuka

米国とイスラエルに対するイランの反撃によってイスラーム信仰が注目されるようになった。精緻で美しいペルシャのモスクを拝観したいのだが、戦時中なので今は不可能である。かつてイスラーム文化圏のいくつかの国々を訪ねたが、鮮やかに脳裏に浮かぶのがイスタンブルのモスクである。その巨大さ、壮麗さ、そして深い歴史的意義で世界的に有名である。世界中の人々がその複雑な建築様式や豪華な内装に感嘆するだけでなく、興味深い歴史的背景を知るためにイスタンブルを訪れるのである。古代都市を見下ろすように聳え立つミナレットは、街のスカイラインを圧倒する存在感を放っている。中には1500年もの歴史を持つものもあり、幾多の戦争や革命を乗り越え、興亡を繰り返した強大な帝国によって支えられてきた。そして、これらのミナレットは、500年以上にわたりイスタンブルの礎となってきたイスラーム文化を象徴している。1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となった。日本ではこれ以後をトルコ語によるイスタンブルの名で呼ぶことが多い。

Female students
Female students wearing hijabs and long coats in Sultan Ahmed Mosque

ただし公式にイスタンブルと改称されるのはトルコ革命後の1930年である。コンスタンティノープル陥落によってアヤソフィア(ハギアソフィア・聖ソフィア)大聖堂はミナレットなどが加えられ、モスクに改修された。頭上にはドーム型天井が聳ええ立ち、複雑でありながらも調和のとれた数々の装飾が施されている。渦巻くアラベスク模様の両脇には、金箔を施したタイルモザイク、繊細な石細工、手描きの壁画、そして30個以上ものアーチ型窓が織りなす美しい対称性が広がっている。コンスタンティノープルは間もなくこのイスラム帝国の首都となり、オスマン帝国は最終的に非常に強大な勢力へと成長した。彼らは最終的に、現在のバルカン半島、中東、北アフリカにあたる地域を支配下に置いた。オスマン帝国は蓄積した富を新たな首都イスタンブルに注ぎ込み、数十もの美しいモスクを建設した。ビザンツ帝国の宮殿跡地に建てられたスルタン・アフメト・モスク(通称ブルーモスク)は、オスマン帝国のコンスタンティノープル支配と覇権を象徴する建造物である。現在では、主要な観光名所となっている。このモスクに到着した時、入堂を待つ大勢の観光客の列に遭遇した。

向かいに聳えるアヤソフィアのビザンチン建築にインスピレーションを得たスルタン・アフメト・モスクは、なんと13個ものドームと6本のミナレットを擁している。一見すると過剰に思えるかもしれないが、実際には、その精緻なデザインはバランスが良く、優雅だと感じた。中に入ると、内壁を飾る青いイズニクタイルに目を奪われた。タイルは一枚一枚手描きで、粘土ではなく石英で作られており、複雑な花模様や幾何学模様が施されている。この独特なタイルこそが、ブルーモスクが史上最も壮麗なイスラム建築の一つとして広く認められている大きな理由である。それは、オスマン帝国の力強さ、創意工夫、そして芸術的才能を今に伝える証として、今もなお輝き続けている。1617年にスルタン・アフメト・モスク完成するまでに、オスマン帝国は160年以上にわたる激動の時代を乗り越え、この地域における強大な勢力としての地位を確立した。そして、1923年にトルコ共和国となるまで、その地位を保ち続けた。この6世紀にわたるオスマン帝国の発展と偉業の根底には、イスラームへの厚い信仰があったのである。下記リンク先はブルーモスク(スルタン・アフメト・モスク)の公式ウェブサイトです。

mosque  The Blue Mosque Tickets Official Website – Entry Info, Visiting Rules & Best Tour Options