2020年2月24日

百済観音:ガラスケースの中の仏像

国宝観音菩薩立像(百済観音)飛鳥時代・7世紀・飛鳥園撮影

平凡社(1969年)
古寺を巡るのが好きだ。特に大和路の仏像に惹かれ、名が通った寺院はおおむね参詣したと思う。斑鳩の法隆寺は何度か訪ねたが、なぜかこの20年以上ご無沙汰だ。考古学者浜田青陵(1881–1938)は、大正の末に同寺に伝わる観音像について『百済観音』に次のように記述している。「私が百済観音の像をはじめて見たのは、いまから二十余年前、まだその頃は法隆寺の金堂の土壇の片隅に置かれてあった時であった。そのヒョロ長い反り曲った像が高く玉虫厨子の上に突き出ていた姿は、よほど風変りであったので、私もこれを見落とすことができなかったが、私にはただプロポーションの悪い古拙な彫刻として印象を残しただけであった。しかるにその後年を経て奈良博物館の中で、この像の前に佇んで眺め入る度を重ねるにしたがって、ついにこのエウロジーめいた一篇をものにするにいたったことは、私一個として自分の鑑賞がいかに甚だしい変化をしたかに自分ながら驚くのである」。つまり元々は金堂にあったが優遇されていたわけではない。博物館のガラスケースの中で他の像と肩をつきあわさんばかり群居しているのは気の毒で、せめて小じんまりした部屋にただ一体、適当なバックの前に立たしたいと書いている。私が訪ねたときは百済観音は鉄筋コンクリートの宝蔵殿の中に安置されていた。この時の印象を私は寺院参詣日記『遊行記』に次のように書き残している。「ヒョロ長い観音像に再会しなければならない。大講堂を出ると雨はいよいよ本降りになっていた。回廊沿いに歩き、表に出ると東室の南妻を改造した聖霊院があった。ちょっと立ち寄ってみようと思ったが、心は百済観音に飛んでいる。東に進むと築地塀に囲まれた鉄筋コンクリートの宝蔵殿の入り口があり、その中に入った。おびただしい数の宝物群である。橘夫人の念持仏と言い伝えのある阿弥陀三尊像、悪夢を吉夢に転嫁させてくれるという夢違観音立像。ひとつひとつ丹念に鑑賞していたら時間がいくらあっても足りない。私は駆け足でこれらをやり過ごして、北倉東端に立つ百済観音の前に出た。八頭身の像がガラスケースの中に立っている。

水瓶を下げるしなやかな百済観音の手
余りにも痩身である。かつてミスコンテストが流行ったとき八頭身という言葉がもてはやされた。しかしどうだろう、私にとってそれは頭が小さ過ぎるような気がする。美の判断というのは難しい。その姿は厨子から出されて撮影された法隆寺夢殿の救世観音像と非常によく似ている。もしかしたら同じ仏師による彫刻かも知れない。ガラスケースに入っているので、その側面も子細に観察することができる。多くの仏像は正面から拝するようになっている。特に厨子に入っているとその側面はよくわからない。水瓶を下げた左手の曲線は実に微妙にできている。いや、そればかりではない。扁平ともいえる身体全体のカーブが横から見ると実に不思議な雰囲気を醸し出しているのだ」(1995年4月15日)。確かに小じんまりした部屋だったが、その長身が窮屈そうだったのを覚えている。この像は明治44(1911)年に金堂を出て奈良帝室博物館へ移された。和辻哲郎が『古寺巡禮』(岩波書店1919年)の中で「百済観音」と紹介、これによって多くの人々の関心を呼ぶようになったようだ。昭和16(1941)年に宝蔵殿が完成すると再び法隆寺に戻った。しかし浜田青陵の嘆きが届いたのだろうか、百済観音堂の建設計画があり、浄財の寄進をこの時募っていたことを思い出す。法隆寺のサイトによると、平成10(1998)年秋に完成、ようやく安住の地を得たようだ。百済観音の前に立つと、人は寡黙になるか、あるいは饒舌になるかのどちらかだと思う。井上政次(1902-1969)は『大和古寺』(日本評論社1941年)の中で「この像は16~17歳の処女の写実であり、開花を永遠の明日に待つ蕾」だと書いた。「その蕾の、内にをさめた活力は、すんなり下げた左手が、しかしだらけてゐない所にも見える。持たれた水瓶は處女の自らなる力を受けて尻を背ろにピンと跳ね上げてゐる。右の手は二の腕を素直に脇につけたのを直角にまげて前に突き出して乙女心の一筋なるを示しながら、柔らかに開いた掌は、裳下の素足と呼應して、蓮の蕾の彈力を想はせる」云々。仏像に対するこのような饒舌は和辻哲郎が元祖であろう。そもそもこの像を最初に書き記したのは他ならぬ和辻だ。彼もまた奈良博物館推古天平室でこの像に接している。「あの圓い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人體の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人體に底知れぬ美しさを見出した驚きの心の所産である」(『古寺巡禮』)。法隆寺に建設された百済観音堂はいかなるものであろうか。

フェノロサ(1890年)
写真を見ると外観はあの無粋な宝蔵殿よりかなりマシである。では内部はどのようになっているのだろうか。今日、文化財を抱えた多くの寺院が宝物館を建てている。火災に対する防護策が主眼であると思われるが、その多くが博物館と趣が同じと言って差し支えないだろう。明治時代、神仏分離令から派生した廃仏毀釈によって多くの仏教文化財が危機に瀕した。少なからぬ数の仏像や伽藍が破壊されたが、時間の流れの中で次第に納まっていった。その過程において、功労者として挙げることができるのが、米国の東洋美術史家アーネスト・フェノロサ(1853–1908)であった。フェノロサは仏教寺院に残された古美術を高く評価、その保護に貢献した。秘仏だった夢殿救世観音像の厨子を開けたフェノロサについて、和辻は次のように記述している。「彼は一八八四年の夏、政府の嘱託を受けて古美術を研究するためにこゝに來た。さうして法隆寺の僧に厨子を開くことを交渉した。が寺僧は、さういう冒涜を敢てすれば佛罰立ちどころに至って大地震ひ寺塔崩壊するだらうと云って、なかなかきなかった」(『古寺巡禮』)。フェノロサは信仰の対象としてではなく、芸術作品として仏像を見ていた。だから数世紀の時空を超えて、秘められた扉を開けることができたのである。そして彼は明治政府に「国宝」の制定を進言した。その指定第1号が京都太秦にある広隆寺の弥勒菩薩である。この像が霊宝殿という名の鉄筋コンクリーの博物館に安置されていることは、偶然ではないかもしれない。廃仏毀釈という狂気染みた暴力から多くの仏像が救われたが、それは国家の宝という新しいスタンスに拠ることが大きいのである。それゆえに、百済観音は長い間博物館に置かれていたといえるだろう。奈良国立博物館で「国宝法隆寺金堂展」が2008年に開催された。広目天、多聞天、増長天、持国天の四天王像四体が初めて寺外に勢揃いし、像を360°から拝観することができだ。仏像はガラスケースの中ではなく、仏教寺院の伽藍の中にあってこそ正しい姿だと私も思う。しかし仔細に観察するには博物館のほうが都合がよい。3月13日〜5月10日、東京国立博物館で特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」が開催される。

2020年2月22日

カントリー音楽に潜む人種差別の影

Stephen Tarter (left) and his cousin Carson Anderson

Race Records c.1926-1930
エントリー「ロレッタ・リン:カントリー音楽は死んだ」で記述したように、OKeh Records の辣腕ディレクター、ラルフ・ピアによるオーディション開催地、テネシー州ブリストルが「カントリー音楽の発祥の地」と呼ばれるようになった。1927年7月28日、エル・ワトソンの歌2曲が録音されたが、唯一のアフリカ系米国人だった。翌1928年、同地でステファン・タ―タ―とハリー・ゲイも録音を残したが、上掲の写真がそのふたりだと言われてきた。しかしタ―タ―とその従弟、カーソン・アンダーソンである。撮影年月は不明だが、タ―タ―がマンドリンを手にしているのが興味深い。カントリー音楽がブルースなどに根ざしたポピュラー音楽のジャンルと定義されてるにも関わらず、ブリストル・セッションに招聘されたアフリカ系米国人のグループは2つに過ぎなかった。セッションのターゲットは「ヒルビリー音楽」だったが、彼らの録音は "Race records" からリリースされた。このセッションに先立つ1920年、OKeh Records がプロデュースしたマミー・スミスの "Crazy Blues" が約 75,000 枚のヒットを飛ばした。レコードの目的は蓄音機を売ることだったが、20世紀になってアフリカ系米国人にも普及、そのために生まれたのがブルース、ジャズ、ゴスペルなどを主体にしたレーベル "Race records" だった。商業レコード産業以前には音楽カテゴリーは実際には存在していなかった。しかしレコードのレーベルが分断、人種差別の起源となったのである。

ハンク・ウィリアムズ・ジュニア
カントリーのミュージシャンにも人種差別者いる、ということが話題になることがある。サンフランシスコの公共放送 KQED のゲイブ・メリネは、ケン・バーンズのドキュメンタリー映画 "COUTRY MUSIC" について「何かが欠けている」と主張している。フィドリン・ジョン・カーソンは KKK の集会で歌っているいるし、ラルフ・ピアは奴隷生活を美化したカーソンの "Little Old Log Cabin in the Lane" を録音している。そして一握りの黒人アーティストであるチャーリー・プライド、リアノン・ギデンズ、ダリアス・ラッカー、ウィントン・マルサリスを登場させているが、米国における人種差別の分断に関するものではない、と。ところでハンク・ウィリアムズ・ジュニアは超保守主義者で、人種差別者であることで知られている。2012年9月5日付け NBC News 電子版によると、テキサス州フォートワースのストックヤード音楽祭で「おれたちの大統領は、カウボーイを嫌い、カウガールを嫌い、釣りを嫌い、農業を嫌い、ゲイを愛しているムスリムだ。そんな奴、おれたちは嫌いだ」とバラク・オバマを罵倒、喝采を浴びたという。彼はまた「カントリーは白人がブルースを演奏する音楽だ」という名言、いや迷言を残している。アフリカ系米国人のミュージシャンを排斥しようという主張で、著名な歌手だけに、ドナルド・トランプ大統領と同様に賛同者も多く、その影響力は見逃せない。

リアノン・ギデンズ
ところで一昨日、2月20日付け日刊紙 Tennessean 電子版によると、テネシー州議会議事堂のネイサン・ベッドフォード・フォレスト胸像撤去問題に関し、賛成と反対の議論が紛糾したようだ。フォレストは南北戦争のピロー砦の戦いで、北軍の武装していない黒人捕虜を虐殺した部隊を率いていた、として戦争犯罪で告発された武将だった。また白人至上主義の人種差別秘密結社として悪名高い、KKK の結成者といわれている。州議会議事堂はナッシュビルにある。共和党のジェレミー・ファイソン議員がフォレストの代わりに、ドリー・パートンの胸像を設置したらと提案していたが、どうなっているのだろうか。いずれにしてもナッシュビルは保守的な風土の強い都市だが、カントリー音楽のメッカでもある。毎週土曜夜にラジオ局 WSM のグランド・オール・オプリが公開放送されている。ジョージ・D・ヘイが1925年に創設したが、この舞台に立ったアフリカ系米国人は極めて少なく、メンバーになったのはデフォード・ベイリー、チャーリー・プライド、ダリアス・ラッカーの3人だ。レギュラーではないが、リアノン・ギデンズ&カロライナ・チョコレート・ドロップスも出演している。ギデンズはノースカロライナ州グリーンズボロで白人の父親と黒人の母親の間に生まれた。やや古い記事だが、2018年、英国の The Guardian 紙のインタビューに対し「私たちはみな、ある程度の人種差別主義者です」「私は肌の色が薄いので、私の体には特権があります」と語っている。そして「人々は人種について考えるのはうんざりしている、それはドラッグだ」と言うが「私はあなたが誰であるかを気にしません。このための時間とヘッドスペースがあります」と。

YouTube  Stephen Tarter and Harry Gay "Brownie Blues" and "Unknown Blues" (1928)

2020年2月20日

サン=テグジュペリ『夜間飛行』を読み返す


新潮文庫(1956年)
地球儀を眺めるのが好きだ。日本人は太平洋を真ん中にした世界地図を見慣れている。だから大西洋に対する感覚にズレが生ずることがある。フランスのパリ、セネガルのダカール、ブラジルのリオデジャネイロの三都市が、地球儀だとほぼ一直線で結ばれてることに気付くはずである。1930年、フランスの航空郵便会社アエロポスタルは南大西洋を横断する、最初の無着陸飛行に成功した。郵便飛行サービスは極めて危険な仕事だったが、作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリもアエロポスタル社の飛行士であった。サン=テグジュペリの『星の王子さま』について触れたばかりだが、郵便飛行をテーマにした堀口大学訳『夜間飛行』(新潮文庫)を読み返してみた。サン=テグジュペリは、1900年、南フランスのリヨンで生まれた。生家は名門貴族の家柄だったが、4歳のときに父親を亡くし、母方の親類の所有する城館で暮らしたという。21歳の年、兵役に志願して飛行機の操縦を覚えた1926年、アエロポスタル社に入社し、サハラ砂漠の中継基地や、ブエノスアイレスなどに着任した。だからこの小説は、彼の飛行士としての経験を元に書かれたものである。従って南米への郵便飛行開拓期の歴史的史料としての価値も高いという。主人公ファビアンの操縦する飛行機がパタゴニアからブエノスアイレスへと帰還するシーンから物語は始まる。待ち受ける支配人リヴィエールは冷厳な性格の持ち主で、部下に厳しく、時間の遅れや整備不良に対して厳格であった。表面は冷たいが、それは危険な任務を遂行する飛行士を陰から守る、そういった上司であった。案の定ファビアンの操縦するパタゴニア機が暴風雨に遭遇し、何とか脱出しよう雲の上空まで上昇する。燃料が尽き、やがて通信が途絶える。しかしファビアンを失ったリヴィエールは毅然とした態度を保ち続ける。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(右)1935年
小説『夜間飛行』は1931年に発表されベストセラーになった。1933年にハリウッドが映画化、1934年に公開された。このビデオはそのサマリーである。監督はクラレンス・ブラウン、出演はジョン・バリモア、ヘレン・ヘイズ、クラーク・ゲイブルなどだった。サン=テグジュペリは第二次世界大戦中、志願して北アフリカ戦線の実戦勤務についた。着陸失敗により除隊処分を受けたが、紆余曲折を経て、古巣のオルコントに駐屯する偵察隊に復帰する。対ナチス戦での戦闘体験から書かれ、1942年に出版された小説『戦う操縦士』には「望遠レンズ附きの写真機が、ここ(偵察機)では顕微鏡の役に立つ。人間ではなくて、人間の存在を示す道路や、運河や、列車や、艀船を捕捉するにさえ顕微鏡が必要なのだ。人間に至ってはこの機械の目にさえとまらない。人間は顕微鏡のプレパラトの上に散らばっているのだ。僕は冷静な科学者だ、人間どもの戦争なぞは、僕にとっては、実験室に於ける研究に過ぎない」という印象深い記述がある。1944年7月31日、ナチス部隊のを写真偵察のためボルゴ飛行場から出撃したが、消息を絶った。本書には作家のアンドレ・ジッドが序文を寄せている。「僕は単に勇気があるというだけの男なら、絶対尊敬しないつもりです」と書きながら、哲学者キントンの書から次のような格言を引用している。「恋愛と同じく、人は自分が勇敢だという事実を隠したがる」または、もっと適切に「勇敢な人間は、金持ちがその慈善を隠すと同じく、その行為を隠す。彼らはその行為に変装させるか、でなければそれを詫びたい気分になる」云々。

amazon  サン=テグジュペリ (著) 堀口大学 (訳) 『夜間飛行』(1956年2月)『戦う操縦士』(1956年11月)

2020年2月18日

ロレッタ・リン:カントリー音楽は死んだ

Loretta Lynn performs onstage at Stubbs on March 17, 2016 in Austin, Texas ©Scott Dudelson

カントリー歌手マルティナ・マクブライドのポッドキャストで、ロレッタ・リンが「カントリー音楽は死んだ」と語ったことが話題になっている。ロレッタは1932年4月生まれの87歳。父親はケンタッキー州の炭鉱夫だったが、1970年にリリースされた "Coal Miner's Daughter"(炭鉱夫の娘)が彼女のシグネチャーソングになった。カントリー音楽とポップスとの境界線が曖昧であることに不満を持っているようだ。現在、多くの歌手がポップスやラップを歌に取り入れているが、それはカントリー音楽ではないというのである。実はカントリー音楽の定義はなかなか厄介である。インターネット百科事典ウィキペディア英語版は「アメリカのフォークミュージック(特にアパラチア音楽と西欧音楽)やブルースなどに根ざしたポピュラー音楽のジャンル。その大衆化されたルーツは、1920年代初頭の米国南部に由来する」と説明している。確かにルーツはその通りで、レコードとラジオというメディアによって、1920年代に東南部の伝承音楽が、商業化された新しい音楽だったと思う。その典型が1927年の「ブリストル・セッション」で、OKeh Records の辣腕ディレクター、ラルフ・ピアによって「発見」された、カーター・ファミリーとジミー・ロジャースだった。テネシー州ブリストルがカントリー音楽発祥の地と認証された所以である。しかしこの伝統を受け継いでいるのは狭義のそれであって、現在ではヒップホップ調、ファンク調やドゥーワップ調などのスタイルの曲も跋扈している。時代と言えば時代なのだが、カントリー音楽の神髄が失われ、自らその魅力を喪失させているような気がする。ドキュメンタリー映画のケン・バーンズが編纂したアンソロジー "COUNTRY MUSIC" を聴くと、やはり古い曲に魅力を感じてしまう。カントリー音楽は文字通リ田舎の音楽であり、土の、そして草の香りに私は惹かれる。ロックを聴きたければロックミュージシャンのそれに耳を傾けるのがベストだ。ロレッタ・リンの詠嘆が理解できる。

television  ケン・バーンズ監督ドキュメンタリー作品「カントリー音楽」PBS(米国公共放送)

2020年2月16日

星の王子さまと新型コロナウィルス

Le Petit Prince ©2020 Kianoush Ramezani

新型コロナウィルスの顕微鏡写真をを眺めていたら、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説『星の王子さま』(原題 Le Petit Prince 小さな王子)に登場する小惑星が思い浮かんだ。ソーシャルメディア Twitter で検索したところ、イラン人の風刺漫画家で、フランスに亡命中のキアヌーシュ・ラメザニの作品を見つけた。フランスのカトリック系新聞「ラ・クロワ(十字架)」に掲載した作品だそうで「新型コロナウイルスの発生によって人類は新たな課題に直面してい」という説明がついている。これを機会に河野万里子訳『星の王子さま』(新潮文庫2006年)を再読してみた。この本は子どもではなく大人に捧げられている。いや子どもだった大人に捧げられた、全人類への啓蒙書である。小惑星 B612 を出るとき、王子は薔薇の花に最後の水をやり、ガラスの覆いをかけてやろうとした。咳をしていたので心配したのである。「風邪は大したことはないわ…ひんやりした夜風はからだにいいし。わたし、花だもの」と薔薇は断る。「でも獣が…」と食い下がると「蝶々とお友だちになりたかったら、毛虫の二匹や三匹がまんしなくちゃね。とってもきれいなんでしょう。だってほかに誰か訪ねてきてくれるかしら? あなたは遠くに行っちゃうし。大きな獣も、ぜんぜんこわくない。わたしだって、爪があるわ」と薔薇がトゲを見せた。今や人間は咳が心配の的である。ウィルスを撃退するトゲも身に着けていない。体をすっぽり覆って、N95 マスクも突き抜けるウィルスを遮断してくれるガラスが欲しい。