2026年11月1日

ダニーボーイの故郷を訪ねて

Derry
夕闇迫るデリー(尖塔は聖ユージーン大聖堂)

イギリス領北アイルランドのデリーは屈指の歴史を誇る城塞都市である。私が初めて訪ねた時は、イギリスで発行された地図には「ロンドンデリー」と記されていた。ところが南のアイルランド共和国で発行された地図には、単に「デリー」となっていた。古くはゲール語で "Doire" と呼ばれ、これはオークの森という意味だそうだ。だから元々はデリーであったが、1623年にロンドン市領となった際に改名されたのである。地名に関する訴訟が起きたのだが、2007年にイギリスの高等裁判所は、ロンドンデリーが正式名称であるという判決を下したのである。この街で会った古老に「デリーですね」と話しかけたら「そうだよ、ここはロンドンじゃないよ」という答えが返ってきた。ロンドンという綴りを省いた地名に、英国の圧政に苦しんだアイルランド人の怨念を感ぜざるを得ない。前書きが長くなってしまったようだ。いま「ダニーボーイ」の原曲について書き出そうと思っているのだが、果たしてそれを今私は「ロンドンデリーの歌」としていいのか迷っている。しかし曲名はともかく、地名はデリーと書くことにする。1851年、ダブリンに創設されたばかりの「アイルランドメロディ保存出版協会」の伝統音楽収集家ジョージ・ペトリ(1789-1866)の元に楽譜が送られてきた。送り主はデリーの東約25キロにある町、リマヴァディに住むジェーン・ロス(1810-1879)だった。ペトリはこの曲を含め、1855年に「アイルランド古謡ペトリ・コレクション」と題する本を出版した。その57ページには「この美しいメロディが、膨大な曲の蒐集をしているリマヴァディのジェーン・ロスから送られてきたものだと」紹介している。譜面を見ると紛れもなく「ダニーボーイ」のメロディであるが、大事なのは、曲名がついてないことだった。

The Petrie Collection of the Ancient Music of Ireland (First edition 1855)
Cork Univ Press (2002)

雑誌の取材で、このリマヴァディにあるジェーン・ロスの生家を訪ねたのは、1987年のことだった。濃い青紫色に塗られた2階建ての1階右側は商店になっていたが、左側の壁に丸いプレートがあった。それには「民謡ロンドンデリーエアを記録したジェーン・ロスがここに住んでいた」と書かれている。中に入ると、気品ある老婦人が迎えてくれた。クローディ・マクルーニさんは当時すでに76歳だったが、48年前にこの家を買ったと話してくれた。計算してみると、1938年ということになる。ジェーンの遺品はなかったが、近くの墓地でその墓と対面することができた。彼女は生涯独身を通したようだが、いったいどんな女性だったのだろうか。その軌跡を求めて、国境を超えたダブリンの国立図書館を訪ねたのである。天井が高い閲覧室を抜け、奥の古文書保管室に案内された。最初に見せてくれたのは、ジョージ・ペトリ自筆の楽譜集だった。その中にジェーン・ロスから送られてきたとういう但し書きがついた曲があった。しかし残念ながらあのメロディではなかった。次に1855年に出版された「アイルランド古謡ペトリ・コレクション」の初版本を館員が抱えてきた。その57ページに、昔のアイルランド音楽と題し Name unknown つまり曲名不詳と書いた楽譜が印刷されていた。譜面を見ると紛れもなく「ダニーボーイ」のメロディである。この曲を送ってきたロス嬢によれば「かなり古い」という簡単な注意書きのみで、彼女は曲名を確認できなかったようだという意味のことをペトリは書いている。この本は2002年、アイルランドのコーク大学から復刻版が出版されたので、現在は入手可能である。

ジェーン・ロスの生家

世界中に広まったこの美しいメロディを採譜したのは、旅のフィドル弾きからだというのが定説になっているようだ。あるいはイレアンパイパーではないかという説もある。楽器の携行性を考えると、フィドルのほうに説得力がある。ジェーンがこの曲を耳にしたのは、彼女が40歳のころだったと推測を加えることもできる。しかしながら、これらはあくまで文字通り推測であって、確かな記録はない。だから文献歴史学の立場に立てば、ペトリが書き残した以外のさまざまなダニーボーイ物語は、すべてフィクションということになる可能性が高い。いわば文学の世界である。しかし人間というのは面白いもので、史実より、時にフィクションを好むようだ。そのほうがロマンに満ちてるからかもしれない。もっとも魅力あふれる逸話は、ジェーンが盲目のフィドル弾き、ジミー・マカリー(1830-1910)から教わったというものである。もうひとつは、実はジェーンが作曲したものではないかというものである。これらは果たして史実に切迫したものなのだろうか。これは先に紹介した「アイルランド古謡ペトリ・コレクション」の復刻版である。ペトリの原本、メロディー、および彼の序論のすべてを含んでいるが、いわゆる完全復刻版ではなく、新たに版を組んでいるからだ。古いアイルランドのスペルが、現代のそれに置き換えられている。日本でもよく行われてる、旧かなづかいを現代かなづかいに直す作業と同じである。一番残念なのは譜面が省略化されてることだ。例えば前回掲載した楽譜は、ペトリの娘が編曲したピアノスコアがついていたのだが、これが省かれ、主旋律のみとなっている。なぜこのようにしたか不明であるが、だから正確には復刻というより新版と呼ぶべきかもしれない。

ロス家の墓

前述した通り、ジェーンが旅回りの盲目のフィドル弾き、ジミー・マカリーから教わったという逸話が、リマヴァディにあるサイト「ダニーボーイの起源」に詳述されている。それによるとある日バーンズ&レアード運送会社の事務所の外でジミーが美しいメロディを奏でているの聴いた。そして彼に何度も弾いて貰った。そのお礼にとコインを貰ったジミーが、それを擦ってみると、ペニー銅貨だと思っていたのが実は2シリングのフロリン銀貨であった。高価なので間違いじゃないかと追って質すと、ジェーンは感謝の気持ちであるからと、そのまま持って行くようにと返却に応じなかったという。非常にドラマチックな物語であるが、これは著名な民収集家サム・ヘンリー(1870-1952)が「民衆の歌」に書いているという。ジミーの子孫であるウォレス・マカリーから1996年に聞いたもので、信憑性が高いと主張している。魅惑的な逸話である。しかし出来過ぎた話はともするとフィクションが含まれている。文献歴史学の立場からすれば、ジェーンに関する記録は、ペトリのそれだけであって、その資料は余りにも乏しい。アイルランドの音楽関係者の話では、わずかに残ってるのは、当時の中流家庭に育ち、音楽好きであったことぐらいである。せめて彼女が送った楽譜が残っていればと思う。彼女自身が実は作曲者ではなかっただろうか、というのはさらに魅力ある想像だが、これは考え難い。私はリマヴァディのクライスト教会あるロス一家の墓地を訪ねた。墓碑には一番上に父親ジョンの名が刻まれ、次に4人の娘の名がある。いずれも結婚をしなかったようだ。彼女がペトリに送ったメロディに「ダニーボーイ」の歌詞をつけた作詞者は、弁護士でもあったソングライター、フレデリック・エドワード・ウェザリ(1848-1929)と言われている。この歌は世界中に広まり、今でも多くのミュージッシャンが歌い、無数のレコーディングがある。無名のまま68歳でこの世を去ったジェーンがそれを知るよしはない。

YouTube  Deanna Durbin sings 'Danny Boy' for Charles Laughton from film 'Because of Him' 1945

2026年10月28日

音楽雑話(8)無国家地域クルディスタンの音楽の伝承

クルディスタンはトルコ、シリア、イラク、イランにまたがる約7万5,000平方マイルの山岳地帯に約4,000万人のクルド人が暮らす、世界最大の無国家地域である。クルド人はインド・イラン語族に属するクルド語のいくつかの異なる方言を話し、数千年にわたりクルディスタン地域に居住してきた。第一次世界大戦後、西側連合国はオスマン帝国を分割する際に、クルディスタンの独立計画を盛り込んだ。しかし、トルコの圧力と、この地域に対する一般的な理解不足により、この計画は1923年のローザンヌ条約で破棄された。クルド人はそれ以来、自らの文化とアイデンティティを守るために闘い続けている。クルド人は、言語、服装、音楽の禁止といった差別や、数十年にわたる虐殺と民族浄化に耐えてきた。これらの行為は今日でもなお活発に行われている。特に、1980年代後半にクルド人民兵組織ペシュメルガがサダム・フセイン政権に対して武装蜂起した際、独裁者は化学兵器を用いてクルド人の村ハラブジャを爆撃し、推定5,000人の民間人を殺害、1万人以上を負傷させた。さらに最近では、クルド人勢力である PKK、YPG、YPJ が、米国や西側諸国からの支援が不安定な状況にもかかわらず、ISとの戦いの最前線に立っている。

Muhammad Arif Jazrawi
ムハンマド・アリフ・ジャズラウィ(1912-1986)

注目すべきは、クルド人は平等な権利に関して中東地域全体で見ても特異な存在でありJIN, JIYAN, AZADÎ(女性・生命・自由)というスローガンを考案したのはクルド女性防衛部隊であったということである。このスローガンはその後、特にイランにおける女性の権利運動に受け継がれている。クルディスタン民謡で最もよく見られるテーマは、愛、亡命、そして抵抗である。歴史的に、デングベジュ(語り部・吟遊詩人)は歌と物語を通して地元の歴史や祖先の物語を語る担い手であり、今もそうである。人間の声は伝統的なクルド音楽において最も重要な楽器と考えられており、何十年にもわたる政府の検閲にもかかわらず、歌手の違法なカセットや CD がクルディスタン全土に出回っていた。正式な旋法体系はないが、クルド音楽はペルシャのダストガーやオスマン帝国、アラビアのマカーム旋法体系と多くの要素を共有しており、部分的なフラットマイクロトーンを多用している。声楽と楽器の両方の装飾はメリスマが強く、主音は複数の音にまたがって揺れ動く。ダンスのリズムは近隣の文化と多くの共通点があり、シンコペーションの効いた4/4拍子のほか、9/8拍子(2223)や、クルド人、アルメニア人、トルコ人が共有する10/8拍子(3223)のクルクナのリズムのダンスも存在する。クルド人は、ウードやさまざまなフィドルなど、この地域特有の伝統的な楽器のほか、ギターやキーボードなどの現代的な楽器も使用する。

Yalda Abbasi
ヤルダ・アッバースィー(1987-)

クルディスタン全域で依然として非常に人気のある伝統的なクルド楽器が多数あり、より現代的な場面で使用されると「クルドらしさ」を強く主張することがよくある。クルドの打楽器は、儀式と民俗の両方の伝統に根ざしており、特にクルドのダフが主流である。ダフは、内部に多数のリングがある大きなフレームドラムである。その他の主要な打楽器には、東地中海のほとんどの地域で一般的なダルブカ(ゴブレットドラム、別名ドゥンベクとダホル(マレットとスイッチで演奏する大きなドラム、別名トゥパンとダヴル)がある。伝統的な管楽器には、端から吹く羊飼いの笛であるブルール(別名カヴァル)、柔らかいダブルリードのメイ(アルメニアのドゥドゥクに似ている)などがある。そして、西はヨーロッパのバルカン半島から東は中国まで広く分布する、音色の大きいダブルリードのズルナ。主な弦楽器としては、イラン東部のクルディスタンで主に演奏される、独特の上向きの指ストローク奏法を持つ短いネックの2コースのリュートであるテンブール、シリア西部のクルディスタンで主に演奏される長いネックの3コースのサズがある。下記リンク先は旧オスマン帝国、アルメニアのバトマン郡出身の歌手、カラペテ・ハチョ (1900-2005) によるデングベジュの貴重な録音です。

SoundCloud  Karapete Xaco Lawike Metini kürtçe müzik kurd kurdi kurdish kurtce kürtce | pir ciwan

2026年10月27日

短縮 URL サービスの危険性

Dangers of URL Shortening Services

短縮 URL サービスが至るところで見られる。bit.ly 、ow.ly、t.co、t.me、tinyurl.com といったツールは、オンラインの世界では今ではすっかりお馴染みの存在となっている。あまりにも馴染み深いので、ほとんどのユーザーは何も考えずにクリックしてしまう。短縮 URL をクリックすると、リンクを作成したユーザーが指定した宛先アドレスにほぼ直接アクセスできる。ほぼ、だが、完全にそうではない。実際の経路は、短縮 URL サービスを経由して少し迂回する。サービスの効率が高ければ高いほど、所要時間は短縮され、終点への移行もスムーズになる。もちろん、この遅延は人間にとっては些細なことのように感じられるだろう。人間はどちらかというと動作が遅いものだから。しかし電子システムにとっては、あらゆる種類の活動を行うには十分な時間である。なぜ短縮 URL なのか? 主な理由はスペースの問題である。長いリンクを短くすることで、画面占有率を下げ、文字数制限もクリアできる。しかし、それだけではありません。短縮 URL の作成者は、必ずしもユーザーへの配慮からではなく、独自の目的を追求している可能性がある。インターネット上のリンクがなぜあんなに長くて見づらいのか、不思議に思ったことはありませんか?それはたいてい、リンクにクリックの追跡のための様々なパラメータ、いわゆる UTM タグがエンコードされているからである。通常、これらのタグは、ユーザーがリンクをクリックした場所を特定し、広告キャンペーンの効果やブロガーページへの掲載状況などを評価するために使用されます。これはもちろんユーザーの利便性のためではなく、デジタルマーケティングの目的で行われる。ほとんどの場合、これは比較的無害なトラッキング方法であり、必ずしもリンクをクリックしたユーザーからデータを収集するわけではありません。多くの場合、マーケッターはトラフィックの発生源にのみ関心があります。しかし、この追加の「パッケージ」は見た目が悪く、URLが非常に長くなることが多いため、短縮 URL サービスがよく利用される。プライバシーの観点からさらに厄介なのは、短縮 URL サービスが単にユーザーを目的のアドレスにリダイレクトするだけにとどまらない点である。これらのサービスは、リンクをクリックしたユーザーに関する様々な統計情報を収集する傾向があり、結果として、埋め込まれた UTM タ グを通じて短縮 URL の作成者だけでなく、短縮 URL サービスの所有者にもデータが渡ってしまうのである。もちろん、インターネットの世界では誰もが何らかの統計情報を収集しているが、短縮 URL を利用することで、ユーザーに関するデータを保持する仲介者がさらに増えることになる。短縮 URL はプライバシーを侵害するだけでなく、デバイスやデータのセキュリティを脅かす可能性もある。繰り返しになるが、リンクをクリックする前に必ず内容をよく確認することだ。しかし短縮 URL には問題がある。リンクをクリックした先がどこなのか、確実には分からないのでである。サイバー犯罪者が短縮 URL を使用する場合、リンク先を確認するようアドバイスしても意味がない。リンクをクリックして初めてリンク先がどこなのかが分かるからである。

How to Troubleshoot Short Link

攻撃者がブラウザのゼロクリック脆弱性を悪用した場合、悪意のあるサイトにアクセスした瞬間に感染してしまう可能性があるからである。サイバー犯罪者は、必要に応じてリンク短縮ツールを使ってターゲットアドレスを変更することもできる。例えば、攻撃者が数百万件のメールアドレスのデータベースを購入し、それを使って何らかのリンクを含むフィッシングメールを送信したとします。しかし、攻撃者にとって問題なのは、作成したフィッシングサイトがすぐに発見され、ブロックされてしまったことである。別のアドレスに再ホストすることは問題ないが、その場合、すべてのフィッシングメールを再送信しなければならない。解決策は「シミング」サービスを利用することであり、これによりユーザーがアクセスするURLを素早く変更することが可能になる。そしてここでいう「シミング」の役割は、短縮 URL サービスが担うことができ、中には元々悪意を持って作成されたものもある。この手法では、フィッシングメールにシミングサービスへのリンクが追加され、被害者はそのリンクをクリックすると、フィッシング業者が現在使用しているアドレスのサイトにリダイレクトされる。多くの場合、追跡をさらに困難にするために、複数のリダイレクトが使用される。また、宛先のフィッシングサイトがブロックされた場合、サイバー犯罪者は単に新しいアドレスでサイトをホストし、シミング内のリンクを変更することで、攻撃を継続する。多くの場合、大量利用を目的とした短縮 URL は、ソーシャルネットワークの投稿やウェブページに掲載される。しかし、個人宛てにメッセンジャーやメールで送られてきた場合は、さらにリスクが高まる。攻撃者は、ユーザーに関する情報を既に持っている場合、このようなリンクを使って、個人情報があらかじめ入力されたフィッシングサイトに誘導する可能性がある。例えば、有効なユーザー名とパスワードの入力を求める銀行サイトのコピー、あるいは銀行カード番号があらかじめ入力された決済サービスの「決済ゲートウェイ」に誘導され、セキュリティコードの入力を求められるといったケースである。さらに、こうしたリンクは、特にL短縮 URL サービスが高度な機能を提供している場合、個人情報の暴露やその他の追跡行為に悪用される可能性がある。では、どう対処すればよいのでしょうか?短縮 URL は絶対にクリックしないようにアドバイスすることもできるが、ほとんどの場合、短縮 URL サービスは正当な目的で使用されており、非常に一般的になっているため、完全に避けることは現実的ではない。とはいえ、ダイレクトメッセージやメールで送られてくる短縮 URL には特に注意を払うことをお勧めする。また GetLinkInfo や UnshortenIt などの短縮 URL チェックツールにリンクをコピー&ペーストして、クリックする前に内容を確認することもできる。下記リンク先はドメインネームシステム(DNS)の監視および管理プラットフォーム CaptainDNS の「URL短縮サービス:bit.lyやt.ly、そして同種のサービスがフィッシング攻撃の主要な手段となった理由」です。

WWW URL Shorteners: Why bit.ly, t.ly & Their Peers Have Become Phishing's Weapon of Choice

2026年10月25日

大徳寺高桐院の灯篭は細川ガラシャの墓石なのだろうか

小林清親『古今誠画 浮世画類考之内 慶長五年之頃 細川忠興室』1885(明治18)年

細川幽斎の長子忠興が建立した大徳寺塔頭高桐院は紅葉の名所で知られる。書院の奥に茶室松向軒(しょうこうけん)がある。忠興は江戸時代初期の武人として有名だが、三斎と号したように利休七哲に数えられる茶人でもあった。茶室の天井から小さな裸電球がぶら下がっている。その明かりを頼りに天井に目を注ぐ。実に質素なたたずまいだ。こういうのを利休風建築というのだろう。利休好みという言葉がある。ワビとかサビというのは、唐変木の私にとって理解できない気風だ。古寺にしても、風雪が変貌させた土や草の色はあまり好きではない。むしろ、金ピカだったり派手な朱色だたりしていたほうが嬉しい。伽藍が暗示する浄土はそんな世界ではないだろうか。備前焼きより清水焼きのほうが好きな私だ。高桐院は細川家の菩提寺でもある。西庭の一角に三斎の墓所がある。その墓石はガラシャ夫人のものだという。南庭の春日灯篭は、その墓石を模したものだという。

「奥方さま、では、お覚悟を。直ちにわれらこれより御供申しあげまする。しかしながら、このお傍に果てるのは余りにも恐れ多きこと故、われらは玄関にて御供させて頂きまする」「自害は許しませぬ。天主のみもとに行くは、わたくし一人にとどめますように。では、早う、少斎どの。頼みまする」「奥方ごめん!」閃くと見た少斎(小笠原秀清)の長刀が、一瞬のうちに玉子の胸を刺しつらぬいた。真紅の血がさっと飛び散り、玉子の上体がぐらりと前に傾いたかと思うと、そのまま玉子は床に打ち伏した。(三浦綾子『ガラシャ夫人』主婦の友社 1975年)
笠の後ろが三分の一欠けた春日灯篭
高桐院(京都市北区紫野大徳寺町)

家臣に首を切らせたという異説もある。ガラシャが自らの意志で散ったのは1600年8月25日(慶長5年7月17日)、辞世の句は「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」だった。遺骨は大阪の崇禅寺の境内に埋葬されたという。10月、夫である忠興はオルガンチノ神父と相談して盛大なキリスト教式葬儀を行った。忠興が高桐院を建立したのがその翌年になる。この塔頭建立とガラシャとの関係はどうなっているのだろうか。暗雲からわずかにこぼれた光の束は、鬱蒼とした樹木のフィルターでさらにその力を弱めている。小さな門をくぐると、そこは廟になっていた。正面に石灯篭が見える。観光で訪れたのだろう、ふたりの女性の声が弾んでいる。これが忠興とガラシャの墓石なのだそうだ。千利休が秘蔵していた灯篭で「天下一」の称があったという。秀吉と忠興のふたりに請われて困った利休は、わざと笠の三分の一を欠き、キズ物と称してその懇請を断ったという。

キリシタン大名高山右近追放、ガラシャ受洗、キリスト教禁教令、三木パウロ殉教、秀吉の全国統一、家康江戸入城、そして長崎における二十六聖人の殉教と続く。1596年(慶長元)、千利休は秀吉によって自殺に追いやられている。利休の遺志によって灯篭「天下一」は細川忠興の手に渡った。5年後に建立したこの寺の庭に置いたのは間違いないだろう。しかし、この灯篭をもってすぐにガラシャの墓石にしたかどうかは歴史書は寡黙だ。夫人の死後、忠興は83歳で死ぬまで、45年も生きながらえた。かれは亡き夫人を偲んで、生涯再婚はしなかったという。その間に、自らと、そしてガラシャの墓石にこの石灯篭を転嫁させたのだろうか。明智光秀の謀反によってその玉子は一転「逆賊の娘」になってしまった。その玉子がなぜガラシャになったか、得も知れぬ興味が湧いてきたのに思わず身震いした。戦国時代を駆け抜けたキリシタンとはいったい何だったのだろうか。私は夢を見始めたようだ。あの灯篭はほんとにガラシャの墓石なのだろうか。この禅林は細川家の菩提寺だ。デウスに帰依したガラシャの痕跡はここにあるだろうか。細川家の紋は残っている。しかしここには十字架はない。ただあるのは利休好み、三斎好みの灯篭があるだけだ。キリスト教式の葬儀を行ったにも関わらず、その痕跡をこの庭に残さなかったのは何故だろうか。それがキリシタン史を紐解くひとつの鍵ではないだろうか。今日、宗教が現実世界に投下してる影響力は数知れなくある。宗教はひとつの方向性を持っているのが常だが、信心がない人間には理解できない。

christian  小倉城ものがたり第2話 | 小倉藩初代藩主細川忠興の誇り高き才媛の妻・細川ガラシャの悲しい生涯