2026年5月16日

エドワード・グレイ卿『フライ・フィッシング』の深淵

Salmon and Sea Trout Flies
Sir Edward Grey

エドワード・グレイ卿(1862-1933)は英国の政治家で鳥類学者でもあった。祖父のジョージ・グレイ卿(1799-1882)は著名なリベラル政治家だった。ウィンチェスター・カレッジからオックスフォード大学に進んだが、学業を怠り退学させられた。学才がなかったというより、大学という枠の馴染めなかったのかもしれない。1882年に祖父が亡くなり、男爵の称号、約2,000エーカーの土地および私有財産を相続する。そして復学し、1884年に名誉学位を取得した。晩年、そのオックスフォード大学に名誉ある総長として招聘されたことは特筆に値する。1885年、バーウィック・アボン・ツイードから自由党員として当選し下院議員となった。第一次世界大戦勃発前夜の1914年8月3日、外務大臣だったグレイは執務室から暮れ逝く外の景色を眺めながら、友人だったウェストミンスター・ガゼット紙の記者、ジョン・アルフレッド・スペンサー(1862-1942)に「ヨーロッパ中のランプが消えようとしている。生きているうちにまたランプが灯るのを見ることはできそうもない」と語り、意に反して英国の参戦を決意したことで知られている。1905年から11年間外務大臣を務めたが、これは英国の外務大臣の最長在任記録となった。1916年に貴族院へ退いたが、爵位は継ぐものがいなく一代限りだった。眼を患い大戦集結時にはほぼ視力を失っていたという。弟がふたりいたが共にアフリカでの狩猟で命を落としている。ケニアで農場を経営したデンマークの作家、イサク・ディネセン(1885-1962)の『アフリカの日々』と時代がオーバーラップする。野鳥の研究観察と共に釣りが趣味で、1899年に『フライ・フィッシング』を著した。1929年にふたつの章を加えている。

むし暑い六月の日々のロンドンには、どうにもやり切れない、息苦しい一面がある。建築物の挑戦的な堅苦しさ、舗道の残酷な堅牢さ、太陽のもとにただれるような街のにおい、硬い物質に終日照りつける強い日差し、夜もなお避けることのできない息のつまりそうな暑さなどがそれである。そして、夜風も涼しさをもたらさず、寝室の窓はオーヴンに向かって開いているようだ。これらの苦難に加えて、最悪なのは、この季節に田園を奪われ、田園から閉め出されているという意識である。(西園寺公一訳)
講談社学術文庫(2013年)

エドワード・グレイ『フライ・フィッシング』(講談社学術文庫2013年)は、日本の最後の貴族で、参議院議員などの要職を歴任、グレイ当時の毛鉤で鱒釣りにいそしんだ、西園寺公一の訳である。フライ・フィッシングを楽しむイギリスの釣り人にとって、一年中でもっともよい季節は初夏、すなわち五月と六月だと力説している。大自然が素晴らしく、限りない変化に富んだ姿を見せ、われわれが住む世界の美しさを納得させる絶好の季節だという。政界での苦労話はこの著書では皆無である。だだ激務に耐えながら、大自然への憧憬する心情がこの下りに顕著である。眼の病はグレイの視力を減衰させた。しかし毛鉤が見えないにも関わらず、手の触角を頼りに釣りを続けたという。おそらく野鳥は囀り、すなわち聴覚による観察をしたのではないだろうか。釣り文学の古典的バイブル『釣魚大全』の著者アイザック・ウォルトン(1593-1683)の生涯も多くの困難が伴うものだった。1626年に結婚したレイチェル・フラッドとの間に生まれた七人の子どもはすべて幼いうちに死んでしまい、彼女も1640年に他界した。1646年にアン・ケンと再婚したが、彼女との間に生まれた長男も、生まれるとすぐに死んでしまう。これらの苦難を『釣魚大全』は一切触れていない。開高健(1930-1989)が『フライ・フィッシング』を監修、序文を寄せているが、このふたりが著作の中では決して一身上の苦悩を語ろうとせず、弱音を洩らそうとしなかったと讃えてやまない。ふたりの現世の苦患(くげん)があってこそ、この明澄と静謐が蒸留されていると思いたい、と。グレイはもしかするとウォルトンを見倣ったのかもしれない。アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)の短編小説シリーズ「ニック・アダムズ物語」もそうだけど、釣り文学は釣りをしないアームチェア・アングラーの読者に支えられてる側面があると思われる。そうそう、ユーモアに富んだ開高健『私の釣魚大全』(文春文庫1978年)に底知れぬ慰安と強い感動をを覚え、何度も読み返したことが思い出される。超お薦めの一冊だ。下記リンク先は英国の歴史研究家リチャード・R・グレイソン(1969-)によるエドワード・グレイ卿のバイオグラフィーです。

biography  Edward Grey (1862-1933) Biography by Richard S. Grayson | Journal of Liberal History

世界史遠望(5)中国「天安門事件」の悲惨

Tiananmen Square on June 5, 1989
ジェフ・ウィデナー(1956-)天安門広場に向かう戦車を阻むため立ちはだかった男(1989年6月5日)

抗議デモは1989年4月15日に始まった。20世紀初頭から数多くの学生デモや大衆デモが行われてきた北京の天安門広場に、中国の人気改革派指導者、胡耀邦の死去を悼むために中国の学生たちが集まったのだ。デモは、汚職やインフレへの抗議の場となり、毛沢東時代以降に中国を大きく変革した改革をさらに発展させるための、より広範な政治経済改革を求める声が上がった。中国指導部はデモへの対応をめぐって意見が分かれていた。デモ参加者の数が数万人に膨れ上がると、デモを共産党支配への直接的な挑戦とみなす一部の指導者は、4月26日付の政府系新聞「人民日報」の社説でデモ参加者を「反革命分子」と断じた。一方、デモ参加者の政治改革要求に同情的な当局者は融和的なアプローチを支持し、5月4日には趙紫陽総書記がデモ参加者を訪問し、彼らの懸念を聞き、理解を示した。5月15日に予定されていたソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長の国賓訪問は、抗議活動を活発化させた。一部の抗議者は政府への圧力を強めるため、ハンガーストライキを開始した。訪問を取材するために到着した外国メディアは抗議活動に注目し、国際社会、特に西側諸国における抗議者とその要求への認識を高めた。広場に集まった群衆は学生だけでなく、北京内外の労働者から一般市民まで、中国社会の幅広い層に広がり、その数は100万人を超えたと伝えられている。

Tiananmen Square Incident
1989年6月上旬までに天安門広場には大勢の人々が集まっていた ©BBC ニュース

ゴルバチョフの訪問は、5月18日の出発まで中国当局の関心を独占した。5月19日、趙氏は再び抗議者を訪問し、ハンガーストライキの中止を訴えた。中国指導部は5月20日に北京に戒厳令を敷いた。抗議活動は続いた。6月3日から4日にかけての夜、人民解放軍は戦車で広場に突入し、甚大な人的被害を伴いながら抗議活動を鎮圧した。死者数の推定値は様々である。中国政府は、負傷者が3,000人を超え、大学生36人を含む200人以上がその夜に死亡したと主張している。しかし、西側諸国は中国政府の公式発表に懐疑的で、死者数は数百人、あるいは数千人に上ると報じることが多い。他の中国都市で発生した同様の抗議活動もすぐに鎮圧され、指導者たちは投獄された。事件後、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は天安門事件を非難し、中国への軍事販売と中国当局者との高官級交流を停止した。米国議会議員、国民、そして国際社会の指導者の多くは、より広範な経済制裁を提唱し、その一部が実施された。米国指導者らは、米国に留学中の中国人学生と面会し、中国との関係強化を象徴的に示した。中国との関係、特に最恵国待遇の付与に関する問題は、ブッシュ大統領の任期末からクリントン大統領の任期にかけて、議論の的となった。下記リンク先は英国放送協会(BBC)の「中国の天安門事件:1989年の抗議活動で何が起きたのか」です。

BBC News  China's Tiananmen Square Incident: What happened in the protests of 1989 | BBC News

2026年5月15日

宗教考現学:世界最大のイスラム教徒人口を抱えるインドネシア

インドネシアは公式にはイスラム国家ではないものの、世界最大のイスラム教徒人口を抱えている。インドネシアでは人口の87.54%、2億500万人がイスラム教徒である。これは世界のイスラム教徒16億2,000万人の12.7%に相当する。インドネシアの非イスラム教徒の宗教信者は、プロテスタント(6.96%)カトリック(2.91%)ヒンドゥー教(1.69%)仏教(0.71%)、儒教(0.05%)その他(0.13%)である。インドネシアの多様な宗教コミュニティの大部分は、政府による制限がほとんどなく公然と活動しているが、公式に認められている宗教グループはイスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教、儒教の6つだけである。インドネシアはイスラム協力機構(OIC)の加盟国である。インドネシアのイスラム教徒の大多数はスンニ派である。スンニ派最大のイスラム社会組織であるムハマディヤは、合わせて約7,000万人の信者を擁している。ムハマディヤは4,000万人、ナフダトゥル・ウラマは3,000万人の信者を擁しています。インドネシアには推定100万人から300万人のシーア派イスラム教徒が暮らしている。

Eid al-Adha
ジャカルタの道路でイード・アル・アドハーの祈りを捧げる信徒たち

さらに、インドネシアには多くの小規模なイスラム組織があり、その中にはイスラム教の異端的な解釈であるアフマディーヤ・カディヤニ派を信奉する約20万人から40万人の人々が含まれている。インドネシア宗教省は、その他の宗教人口の内訳を、プロテスタント約1,600万人、カトリック約600万人、ヒンドゥー教徒約400万人、仏教徒約100万人、儒教徒約11万5,000人、その他約29万6千人と推定している。先住民族の宗教、伝統的な宗教、または公式に認められた6つの宗教のいずれにも該当しない宗教団体は、州または地域レベルの教育文化省に報告する必要がある。インドネシアでは、概してほとんどの地域で人権が尊重されている。表現の自由、信仰の自由、集会の自由は概ね保障されている。これらの自由の侵害は記録され、公表され、人権機関に報告される。市民は重大な人権侵害について政府に請願することもできる。インドネシア憲法(Undang – Undang Dasar Republik Indonesia 1945)は信教の自由を規定しており、法令その他の規則の指針となる法源である。インドネシア憲法の指針となる基準は、パンチャシラ、すなわち「五つの原則」である。

Morning assembly at the Madrasah Aliyah Negeri
ジョグジャカルタ第2国立高等イスラム学校の朝礼

これには、唯一神への信仰、公正で文明的な人間性、インドネシアの統一、代表者間の審議から生じる全会一致の内なる知恵に導かれた民主主義、そしてインドネシア国民全体のための社会正義が含まれる。 インドネシア憲法は「唯一神への信仰」に基づき、「国家は唯一神への信仰に基づいている」が、インドネシア憲法は信教の自由を明示的に規定し「すべての人に、自らの宗教または信仰に従って礼拝する権利を保障する」と明記されているのである。インドネシア憲法におけるこれらの記述は、宗教を他のいくつかの理想とともに、インドネシアの国家イデオロギーの最前線に位置づけているのである。ところでクルアーンはアラビア語で記述されているが、インドネシアのイスラム教徒は読めるだろうか。インドネシアのイスラム教徒におけるアラビア語の読解能力については「文字として読める(音読できる)」レベルか「意味を理解できる」レベルかによって状況が大きく異なる。結論は多くの人がアラビア文字を「読む(唱える)」ことはできるがが、言語として「理解している」人は一部に限られる。インドネシアの子供たちは幼少期から「タマ」と呼ばれる放課後の宗教学校や近所のモスクで、クルアーンの読み方を習うのが一般的である。

2026年のイード・アル=アドハーはイスラム暦に従って5月26日に始まり5月27日に終る

そして多くの教徒は、アラビア文字の綴りと発音のルール(タジュウィード)を習得しており、クルアーンを声に出して読むことができるようだ。しかしアラビア語を日常会話や学術的な言語として理解できる人は、全体から見れば少数派である。ほとんどのインドネシア人は、アラビア語の原文の横にインドネシア語訳が併記されたクルアーンを使用する。内容を理解する際は、この翻訳に頼るのが一般的である。インドネシアに限らずそもそもクルアーンを他言語に訳するのはご法度と考えている人が多い。イスラームの教義において、クルアーンの翻訳については「宗教的な位置づけ」と「実用的な位置づけ」の2つの側面から考えられる。つまり「内容を理解するための翻訳は認められているが、翻訳されたものは「クルアーンそのもの』とはみなされない」というのが一般的な解釈である。下記リンク先はインドネシア・イスラム国際大学の「インドネシアにおけるイスラム教:平和と学びのモデル」です。

university  Islam in Indonesia: A Model of Peace and Learning | Univ. Islam International Indonesia

2026年5月14日

イスラム教の聖典クルアーンとモスクの起源

Quran
イスラム教の聖典クルアーン

イスラム教の聖典であるクルアーンは、ヒラー山での最初の啓示から始まり、23年間にわたってムハンマドに啓示されたと、イスラム教徒は信じている。預言者の死後、後継者たちがこれらの神の啓示を写本にまとめた。クルアーンには、祈り、道徳的な教え、歴史物語、そして楽園の約束が含まれている。最も広く朗誦されている短い祈りであるファティハで始まり、長さの降順に114の章(スーラ)に分かれている。製本や読みやすさを考慮して、クルアーンの写本はしばしば30の等しい部分(ジュズ)に分けられる。クルアーンの章はすべて(1章を除いて)「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において」という祈りの言葉の総称である「ビスミッラー」で始まる。イスラム教徒は、スピーチをする前、食事を始める前、あるいはバスに乗る前など、イベントや作業を始める際にこの言葉をよく唱える。カリグラフィーで書かれた ビスミッラーは、宗教的なものだけでなく世俗的なものにも頻繁に見られる。クルアーンは、ムハンマドをアブラハムから始まる長い預言者の系譜の最後に位置づけている。物語はクルアーンの中心ではないものの、ノア、モーセ、イエスの物語が含まれている。クルアーンはユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」と認めており、その結果、イスラム教徒はユダヤ教のトーラーとキリスト教の聖書の教えの多くを受け入れている。

古代クルアーンの断片
発見された約1,400年前の最も古いクルアーンの断片

スペイン、イラン、インド、トルコなどの多くのイスラム帝国は、宗教的少数派に対して寛容であった。イスラム教徒は、クルアーンにはアラビア語で語られた神の言葉がそのまま記されていると信じている。クルアーンの文字化された形は、神の意図を最も純粋に表現したものと考えられている。世界中のイスラム教徒は、クルアーンを原語で読みたいという願いに基づき、言語的な絆で結ばれている。イスラム社会においてクルアーンが崇高な地位を占めていることから、歴史的にクルアーン写本の製作、装飾、装飾、展示には特別な注意が払われてきた。神の言葉が書かれた書道であることから、カリグラフィーはイスラム教徒にとって最高の芸術形式とみなされている。豪華に装飾されたクルアーン写本は、特別にデザインされた書見台(ラフラ)に置かれ、モスクや宗教学校(マドラサ)で目立つように展示されることがよくある。モスクは、イスラム教の礼拝所を指す。この言葉は、アラビア語の「masjid」に由来し「ひれ伏す場所」を意味する。イスラム教徒は礼拝の際、神の意志への服従のしるしとして、短時間ひざまずき、額を地面に触れさせる。預言者ムハンマドがメディナ(現在のサウジアラビア)に最初に住んだ家は、最初のモスクと考えられており、初期のモスク建築のモデルとなった可能性が高い。それは、囲まれた長方形の中庭の片側に居住空間がある日干しレンガ造りの建物だった。

mosque
夜明けのモスクで礼拝するムスリム(東アフリカのモザンビーク島)

ムハンマドの信者たちは彼の家に集まって祈りを捧げたため、キブラ(祈りの方向)に面した中庭側には、砂漠の灼熱の太陽から身を守るためにヤシの枝で覆われたポーチが設けられていた。 初期のモスクのほとんど、そしてアラブ諸国の後のモスクの大部分は、この一般的なレイアウトに従っている。モスクは、個々のイスラム教徒コミュニティの規模とニーズを反映しており、金曜日にはすべての信者が共に礼拝を行う。モスクの内部と外部にはコーランからの碑文が飾られており、聖典と祈りの場との強い結びつきが確立されている。モスクの装飾には、偶像崇拝につながる可能性があるとみなされる人間や動物の姿はほとんど用いられない。代わりに、幾何学模様、花模様、植物模様、カリグラフィーなどがモスクを飾り、楽園の約束を象徴的に想起させる。世界各地のモスクは、多様な建築材料を用い、地域ごとの伝統や様式を反映している。規模やデザインに違いはあるものの、イスラム教徒のコミュニティにおいてモスクが占める特別な地位は普遍的である。蛇足ながらイスラム教の聖典は日本ではコーランと称するのが一般的だが、本稿ではアラビア語の発音に近いクルアーンを採用した。現在、学術書や公式な場などではこちらが主流です。下記リンク先はナショナル・ジオグラフィック誌の「イギリスの図書館で発見されたクルアーンは現存するイスラム教の聖典の最も古い文献資料」です。

NationalGographic  Pages of Ancient Koran Among Oldest Yet Discovered | The ational Geographi Magazine