2026年5月18日

アイザック・ウォルトン『釣魚大全』に流れる悠久の時間

The Life of Isaac Walton
The Life of Izaak Walton; including Notices of his Comtemporaries by Thomas Zouch; 1823
Compleat Angler, 1653, 1st Ed.

エドワード・グレイ(1862-1933)著『フライ・フィッシング』(講談社学術文庫)にこんな下りがある。曰く「ギルバート・ホワイトの著書『セルボーンの博物誌』を除いては、この『ザ・コンプリート・アングラー』(釣魚大全)ほど疲れた心に避難場所そして慰安を与えてくれる本を私は知らない」云々。ギルバート・ホワイト(1720-1793)は副牧師、博物学者だったが、セルボーン村を歩いて野鳥などの生態を観察し、ふたりの著名な博物学者、デインズ・バリントン(1727-1800)とトーマス・ペナント(1726-1798)に届けた。いわば書簡集なのだが、自然への憧憬と畏敬、そして愛に満ちている。後者はアイザック・ウォルトン(1593-1683)の著書だが、日本ではやはり『釣魚大全』という訳のタイトルのほうが馴染み深い。

角川選書 72(1974年)

両書はジャン=アンリ・ファーブル(1823-1915)の『昆虫記』や、ウィリアム・H・ハドソン(1841-1922)の『ラ・プラタの博物学者』など、自然観察文学の魁(さきがけ)をなした名著である。ところでリクリエイションというのは、気晴らし、娯楽と意味付けられている。しかしそこから生まれる、再創造という概念がある。ウォルトンは「瞑想する人のリクリエイション」という副題をつけているが、まさにこの点が超ロングセラーを続けている理由なのだろう。いずれも今なお自然探求の書として読み継がれている。ただ英国の古典文学にありがちな、ある種の冗長さがあることは否めない。『セルボーンの博物誌』は時間がかかったが、なんとか読み通したが『釣魚大全』は、放り投げてはまた手に取るということを何度か繰り返してきた。おそらく聖書に疎い浅学菲才が最初の躓きだったのかもしれない。しかしある日気づいたことがある。それは17世紀の英国と21世紀の日本では時間のテンポが違うということである。早く読破しようという気持ちを抑え、ゆったりした気分で接しようと考えた結果、冗長と思われた文章が、不思議なことにすんなり脳裡に刻まれるようになった。生きている限りは締め切りのない読書、悠久の時間に遊ぶ愉しさを味わっている今日この頃である。なお英語版(ペーパーバック 336ページ 税込み ¥2,640)を下記リンク先のオックスフォード大学出版局日本法人のウェブサイトで入手できる。

University  Izaak Walton "The Compleat Angler" (ISBN : 9780198745464) Oxford University Press

2026年5月17日

エドワード・グレイ卿『フライ・フィッシング』の深淵

Salmon and Sea Trout Flies
Sir Edward Grey

エドワード・グレイ卿(1862-1933)は英国の政治家で鳥類学者でもあった。祖父のジョージ・グレイ卿(1799-1882)は著名なリベラル政治家だった。ウィンチェスター・カレッジからオックスフォード大学に進んだが、学業を怠り退学させられた。学才がなかったというより、大学という枠の馴染めなかったのかもしれない。1882年に祖父が亡くなり、男爵の称号、約2,000エーカーの土地および私有財産を相続する。そして復学し、1884年に名誉学位を取得した。晩年、そのオックスフォード大学に名誉ある総長として招聘されたことは特筆に値する。1885年、バーウィック・アボン・ツイードから自由党員として当選し下院議員となった。第一次世界大戦勃発前夜の1914年8月3日、外務大臣だったグレイは執務室から暮れ逝く外の景色を眺めながら、友人だったウェストミンスター・ガゼット紙の記者、ジョン・アルフレッド・スペンサー(1862-1942)に「ヨーロッパ中のランプが消えようとしている。生きているうちにまたランプが灯るのを見ることはできそうもない」と語り、意に反して英国の参戦を決意したことで知られている。1905年から11年間外務大臣を務めたが、これは英国の外務大臣の最長在任記録となった。1916年に貴族院へ退いたが、爵位は継ぐものがいなく一代限りだった。眼を患い大戦集結時にはほぼ視力を失っていたという。弟がふたりいたが共にアフリカでの狩猟で命を落としている。ケニアで農場を経営したデンマークの作家、イサク・ディネセン(1885-1962)の『アフリカの日々』と時代がオーバーラップする。野鳥の研究観察と共に釣りが趣味で、1899年に『フライ・フィッシング』を著した。1929年にふたつの章を加えている。

むし暑い六月の日々のロンドンには、どうにもやり切れない、息苦しい一面がある。建築物の挑戦的な堅苦しさ、舗道の残酷な堅牢さ、太陽のもとにただれるような街のにおい、硬い物質に終日照りつける強い日差し、夜もなお避けることのできない息のつまりそうな暑さなどがそれである。そして、夜風も涼しさをもたらさず、寝室の窓はオーヴンに向かって開いているようだ。これらの苦難に加えて、最悪なのは、この季節に田園を奪われ、田園から閉め出されているという意識である。(西園寺公一訳)
講談社学術文庫(2013年)

エドワード・グレイ『フライ・フィッシング』(講談社学術文庫2013年)は、日本の最後の貴族で、参議院議員などの要職を歴任、グレイ当時の毛鉤で鱒釣りにいそしんだ、西園寺公一の訳である。フライ・フィッシングを楽しむイギリスの釣り人にとって、一年中でもっともよい季節は初夏、すなわち五月と六月だと力説している。大自然が素晴らしく、限りない変化に富んだ姿を見せ、われわれが住む世界の美しさを納得させる絶好の季節だという。政界での苦労話はこの著書では皆無である。だだ激務に耐えながら、大自然への憧憬する心情がこの下りに顕著である。眼の病はグレイの視力を減衰させた。しかし毛鉤が見えないにも関わらず、手の触角を頼りに釣りを続けたという。おそらく野鳥は囀り、すなわち聴覚による観察をしたのではないだろうか。釣り文学の古典的バイブル『釣魚大全』の著者アイザック・ウォルトン(1593-1683)の生涯も多くの困難が伴うものだった。1626年に結婚したレイチェル・フラッドとの間に生まれた七人の子どもはすべて幼いうちに死んでしまい、彼女も1640年に他界した。1646年にアン・ケンと再婚したが、彼女との間に生まれた長男も、生まれるとすぐに死んでしまう。これらの苦難を『釣魚大全』は一切触れていない。開高健(1930-1989)が『フライ・フィッシング』を監修、序文を寄せているが、このふたりが著作の中では決して一身上の苦悩を語ろうとせず、弱音を洩らそうとしなかったと讃えてやまない。ふたりの現世の苦患(くげん)があってこそ、この明澄と静謐が蒸留されていると思いたい、と。グレイはもしかするとウォルトンを見倣ったのかもしれない。アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)の短編小説シリーズ「ニック・アダムズ物語」もそうだけど、釣り文学は釣りをしないアームチェア・アングラーの読者に支えられてる側面があると思われる。そうそう、ユーモアに富んだ開高健『私の釣魚大全』(文春文庫1978年)に底知れぬ慰安と強い感動をを覚え、何度も読み返したことが思い出される。超お薦めの一冊だ。下記リンク先は英国の歴史研究家リチャード・R・グレイソン(1969-)によるエドワード・グレイ卿のバイオグラフィーです。

biography  Edward Grey (1862-1933) Biography by Richard S. Grayson | Journal of Liberal History

2026年5月16日

世界史遠望(5)中国「天安門事件」の悲惨

Tiananmen Square on June 5, 1989
ジェフ・ウィデナー(1956-)天安門広場に向かう戦車を阻むため立ちはだかった男(1989年6月5日)

抗議デモは1989年4月15日に始まった。20世紀初頭から数多くの学生デモや大衆デモが行われてきた北京の天安門広場に、中国の人気改革派指導者、胡耀邦の死去を悼むために中国の学生たちが集まったのだ。デモは、汚職やインフレへの抗議の場となり、毛沢東時代以降に中国を大きく変革した改革をさらに発展させるための、より広範な政治経済改革を求める声が上がった。中国指導部はデモへの対応をめぐって意見が分かれていた。デモ参加者の数が数万人に膨れ上がると、デモを共産党支配への直接的な挑戦とみなす一部の指導者は、4月26日付の政府系新聞「人民日報」の社説でデモ参加者を「反革命分子」と断じた。一方、デモ参加者の政治改革要求に同情的な当局者は融和的なアプローチを支持し、5月4日には趙紫陽総書記がデモ参加者を訪問し、彼らの懸念を聞き、理解を示した。5月15日に予定されていたソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長の国賓訪問は、抗議活動を活発化させた。一部の抗議者は政府への圧力を強めるため、ハンガーストライキを開始した。訪問を取材するために到着した外国メディアは抗議活動に注目し、国際社会、特に西側諸国における抗議者とその要求への認識を高めた。広場に集まった群衆は学生だけでなく、北京内外の労働者から一般市民まで、中国社会の幅広い層に広がり、その数は100万人を超えたと伝えられている。

Tiananmen Square Incident
1989年6月上旬までに天安門広場には大勢の人々が集まっていた ©BBC ニュース

ゴルバチョフの訪問は、5月18日の出発まで中国当局の関心を独占した。5月19日、趙氏は再び抗議者を訪問し、ハンガーストライキの中止を訴えた。中国指導部は5月20日に北京に戒厳令を敷いた。抗議活動は続いた。6月3日から4日にかけての夜、人民解放軍は戦車で広場に突入し、甚大な人的被害を伴いながら抗議活動を鎮圧した。死者数の推定値は様々である。中国政府は、負傷者が3,000人を超え、大学生36人を含む200人以上がその夜に死亡したと主張している。しかし、西側諸国は中国政府の公式発表に懐疑的で、死者数は数百人、あるいは数千人に上ると報じることが多い。他の中国都市で発生した同様の抗議活動もすぐに鎮圧され、指導者たちは投獄された。事件後、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は天安門事件を非難し、中国への軍事販売と中国当局者との高官級交流を停止した。米国議会議員、国民、そして国際社会の指導者の多くは、より広範な経済制裁を提唱し、その一部が実施された。米国指導者らは、米国に留学中の中国人学生と面会し、中国との関係強化を象徴的に示した。中国との関係、特に最恵国待遇の付与に関する問題は、ブッシュ大統領の任期末からクリントン大統領の任期にかけて、議論の的となった。下記リンク先は英国放送協会(BBC)の「中国の天安門事件:1989年の抗議活動で何が起きたのか」です。

BBC News  China's Tiananmen Square Incident: What happened in the protests of 1989 | BBC News

2026年5月15日

宗教考現学:世界最大のイスラム教徒人口を抱えるインドネシア

インドネシアは公式にはイスラム国家ではないものの、世界最大のイスラム教徒人口を抱えている。インドネシアでは人口の87.54%、2億500万人がイスラム教徒である。これは世界のイスラム教徒16億2,000万人の12.7%に相当する。インドネシアの非イスラム教徒の宗教信者は、プロテスタント(6.96%)カトリック(2.91%)ヒンドゥー教(1.69%)仏教(0.71%)、儒教(0.05%)その他(0.13%)である。インドネシアの多様な宗教コミュニティの大部分は、政府による制限がほとんどなく公然と活動しているが、公式に認められている宗教グループはイスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教、儒教の6つだけである。インドネシアはイスラム協力機構(OIC)の加盟国である。インドネシアのイスラム教徒の大多数はスンニ派である。スンニ派最大のイスラム社会組織であるムハマディヤは、合わせて約7,000万人の信者を擁している。ムハマディヤは4,000万人、ナフダトゥル・ウラマは3,000万人の信者を擁しています。インドネシアには推定100万人から300万人のシーア派イスラム教徒が暮らしている。

Eid al-Adha
ジャカルタの道路でイード・アル・アドハーの祈りを捧げる信徒たち

さらに、インドネシアには多くの小規模なイスラム組織があり、その中にはイスラム教の異端的な解釈であるアフマディーヤ・カディヤニ派を信奉する約20万人から40万人の人々が含まれている。インドネシア宗教省は、その他の宗教人口の内訳を、プロテスタント約1,600万人、カトリック約600万人、ヒンドゥー教徒約400万人、仏教徒約100万人、儒教徒約11万5,000人、その他約29万6千人と推定している。先住民族の宗教、伝統的な宗教、または公式に認められた6つの宗教のいずれにも該当しない宗教団体は、州または地域レベルの教育文化省に報告する必要がある。インドネシアでは、概してほとんどの地域で人権が尊重されている。表現の自由、信仰の自由、集会の自由は概ね保障されている。これらの自由の侵害は記録され、公表され、人権機関に報告される。市民は重大な人権侵害について政府に請願することもできる。インドネシア憲法(Undang – Undang Dasar Republik Indonesia 1945)は信教の自由を規定しており、法令その他の規則の指針となる法源である。インドネシア憲法の指針となる基準は、パンチャシラ、すなわち「五つの原則」である。

Morning assembly at the Madrasah Aliyah Negeri
ジョグジャカルタ第2国立高等イスラム学校の朝礼

これには、唯一神への信仰、公正で文明的な人間性、インドネシアの統一、代表者間の審議から生じる全会一致の内なる知恵に導かれた民主主義、そしてインドネシア国民全体のための社会正義が含まれる。 インドネシア憲法は「唯一神への信仰」に基づき、「国家は唯一神への信仰に基づいている」が、インドネシア憲法は信教の自由を明示的に規定し「すべての人に、自らの宗教または信仰に従って礼拝する権利を保障する」と明記されているのである。インドネシア憲法におけるこれらの記述は、宗教を他のいくつかの理想とともに、インドネシアの国家イデオロギーの最前線に位置づけているのである。ところでクルアーンはアラビア語で記述されているが、インドネシアのイスラム教徒は読めるだろうか。インドネシアのイスラム教徒におけるアラビア語の読解能力については「文字として読める(音読できる)」レベルか「意味を理解できる」レベルかによって状況が大きく異なる。結論は多くの人がアラビア文字を「読む(唱える)」ことはできるがが、言語として「理解している」人は一部に限られる。インドネシアの子供たちは幼少期から「タマ」と呼ばれる放課後の宗教学校や近所のモスクで、クルアーンの読み方を習うのが一般的である。

2026年のイード・アル=アドハーはイスラム暦に従って5月26日に始まり5月27日に終る

そして多くの教徒は、アラビア文字の綴りと発音のルール(タジュウィード)を習得しており、クルアーンを声に出して読むことができるようだ。しかしアラビア語を日常会話や学術的な言語として理解できる人は、全体から見れば少数派である。ほとんどのインドネシア人は、アラビア語の原文の横にインドネシア語訳が併記されたクルアーンを使用する。内容を理解する際は、この翻訳に頼るのが一般的である。インドネシアに限らずそもそもクルアーンを他言語に訳するのはご法度と考えている人が多い。イスラームの教義において、クルアーンの翻訳については「宗教的な位置づけ」と「実用的な位置づけ」の2つの側面から考えられる。つまり「内容を理解するための翻訳は認められているが、翻訳されたものは「クルアーンそのもの』とはみなされない」というのが一般的な解釈である。下記リンク先はインドネシア・イスラム国際大学の「インドネシアにおけるイスラム教:平和と学びのモデル」です。

university  Islam in Indonesia: A Model of Peace and Learning | Univ. Islam International Indonesia