2026年10月24日

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ

Moby Dick

これまで私が触れた何冊かの本、例えばジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』、ギルバート・ホワイト『セルボーンの博物誌』、W・H・ハドスン『はるかな国とおい国』などに共通していること、それは正直言って読み疲れるということである。少し読んでは放り出し、また忘れたころに読み進める。ヘンリー・D・ソロー『森の生活』もそうだが、ハーマン・メルヴィル『白鯨』(モビィ・ディック)がその極めつきではないだろうか。とにかく通読するだけでも厄介で、私は何度も挫折、数カ月を費やしてやっとのことで読み終えたのだった。物語のクライマックス、エイハブ船長と白鯨モビィ・ディックの闘いにたどり着くまでの道程が長いのである。著者メルヴィル(1819-1891)は実際に捕鯨を体験している。したがって見方を変えれば、ここに書かれている当時の鯨学、捕鯨業の実態、あるいは船員の生活など、貴重な記録文学と言える。18世紀~19世紀半の欧米諸国による捕鯨は鯨油を採ることが主目的だった。そして浦賀へ来航したペリーの艦隊の黒船が、江戸幕府に開港を迫ったのは、アメリカの捕鯨船団が燃料や食料補給のために寄港したかったからだという。

C・W・ニコル『勇魚(上・下)』(文春文庫)1992年

作家の C・W・ニコルさんが2020年4月3日、直腸がんのため長野市の病院で死去した。著書『勇魚(いさな)』を思い出し、読み返してみたが、これは一気に読破することができた。舞台は和歌山県太地、今でも捕鯨の町である。幕末。おりしも井伊直弼、吉田松陰、坂本龍馬などが世界に目を転じ始めたころだった。エイハブ船長は白鯨によって片足を失ったが、この小説の主人公、甚助は鯨に片腕を奪われている。失意のどん底にあった彼に声を掛けたのが紀州藩士、松平定頼だった。定頼は黒船の出現を知り、海防の必要性を幕府に説き、甚助を密偵に仕立てる。紆余曲折の末、ジョン万次郎に出会った甚助はジム・スカイの名で海外に雄飛する。波乱に飛んだ歴史物語だが、作者のニコルさんはよくここまで調べたものだと感心する。ウェールズ出身で、1995年に日本に帰化したが、一年間太地に暮らした経験があるという。その体験ゆえに書けたのだろうが、訳者あとがきにもあるが、私も鯨を勇魚(いさな)と呼ぶことは知らなかった。勇ましい魚という意味である。鯨は魚類ではなく哺乳類だが、中国語では鯨魚と表記する。万葉集に「鯨魚取海哉死為流山哉死為流死許曽海者潮干而山者枯為礼」(第16巻第3852番)という歌がある。鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ。つまり「海は死ぬだろうか、山は死ぬだろうか。死ぬからこそ海は潮が干し上がるし、山は草木が枯れる」という摂理を詠んでいるのである。

太地を初めて訪れた松平定頼は獲れた鯨の解体作業に立ち会う。太地角右衛門(網捕り式捕鯨の考案者)は漁師たちが鯨の霊に祈ったことに対し「わたしどもとて死の悲しみは感じますが、しかしその悲しみの一方に、海からあのような恵みを受けるよろこびもあり、わたしどもはなにひとつむだにいたしませぬ。肉、油、骨、髭、すべてを使います」と定頼に答える。さらに臓物も食べると答えながら「正直申して、わたしは肉のほうが、わけても尾に近い脂ののった肉が好きです」と説明する。これは鯨の尾の身、すなわち尾の背側の部分の脂が霜降りになった部位を指す。一昨年の暮れ大阪道頓堀の『たこ梅』でサエズリ(ヒゲクジラの舌)の煮込みを食べた話を書いた。これも絶品だが、尾の身の刺身はさらに素晴らしい。私はアメリカの海洋哺乳類保護団体のメンバーと会ったことがある。鯨の肉は物凄く美味しいよと話したら、彼らが目を丸くしていたのを思い出した。国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を表明したことで、2019年、1988年以来、30年ぶりに商業捕鯨を再開した。南極海での捕鯨を停止することは歓迎するが、鯨肉の供給に問題が出そうである。しかし鯨肉はもはや食道楽のための高級食材であり、もはや日本人の蛋白源ではないことを改めて再認識すべきだろう。表題は万葉集万葉集・巻16-3852「鯨魚取海哉死為流山哉死為流死許曽海者潮干而山者枯為礼」(いさなとりうみやしにするやまやしにするしぬれこそうみはしほひてやまはかれすれ)で「鯨魚(いさな)取り海は死ぬだろうか、山は死ぬだろうか。死ぬからこそ海は干上がり、山は枯れる」という意味である。

PDF  大崎晃「ニューイングランドにおける19世紀後半期アメリカ式捕鯨の衰退と産業革命」東京地学協会

2026年10月21日

ソーシャルメディアの弊害(36)精神的および感情的な健康に多くの悪影響を及ぼす可能性

Darkside of Socialmedia
Dark Side of the Social Media

ソーシャルメディアは、私たちが繋がり、コミュニケーションを取り、情報を消費する方法を間違いなく変革した。現代生活の一般的な側面であり、世界の総利用者数が約56億人〜57億人規模に達している。人口の約65%(約3人に2人)以上が何らかのソーシャルメディアを利用している計算になる。ソーシャルメディアには多くの利点がある一方で、際限なくスクロールし続けることは、私たちの精神的および感情的な健康に多くの悪影響を及ぼす可能性がある。最も顕著な悪影響の一つは、非現実的な期待や他人との比較を助長することである。ソーシャルメディアプラットフォームは、他人の完璧に見える生活を紹介する、厳選されたハイライト集のような役割を果たしている。このような情報に常に触れていると、不十分さ、羨望、自尊心の低下といった感情につながる可能性がある。研究によると、ソーシャルメディアの利用と身体イメージへの不満の増加には強い相関関係があり、特に若者の間で顕著です。ソーシャルメディアの利用が増えると、身体イメージへの懸念や摂食障害の症状が悪化するという研究結果もあります。さらに、ソーシャルメディアへのアクセスが増えたことで、過去10年間だけでも青少年のうつ病が急増している。完璧なオンライン上のペルソナを維持しようとするプレッシャーは圧倒的で、不安やうつ病、そして多くの場合、不十分さという感情につながる。さらに、ソーシャルメディアの中毒性は、絶え間ない注意散漫と集中力の低下という悪循環を生み出す。絶え間なく届く通知や更新情報はドーパミンの放出を促し、スマートフォンをチェックせずにはいられなくなる。マイクロソフトの調査によると、人間の平均的な集中力は金魚よりも短い8秒にまで低下しており、ソーシャルメディアはその一因となっている。これは、作業に集中する能力を阻害し、生産性や学業成績の低下につながる。その結果、集中力が散漫になり、深く有意義な作業に取り組むことが難しくなるのである。

Smart Phone
Smartphones Are to Blame

サイバーいじめやオンラインハラスメントも深刻な問題である。インターネットの匿名性は、個人が有害な行為に走ることを助長し、被害者に精神的苦痛や自殺願望さえ引き起こす可能性があある。10代の若者の40%以上がサイバーいじめを経験していると報告もある。絶え間ない否定的な情報やオンライン上の悪意ある言葉への曝露は、敵対的な環境を作り出し、精神的な健康と幸福に悪影響を及ぼす。かつては1日に数時間に限られていたものが、今では24時間体制で存在しているのである。誤情報やフェイクニュースの拡散は、もう一つの大きな課題である。ソーシャルメディアのアルゴリズムによって生み出されるエコーチェンバーは、既存の偏見や信念を強化し、真実と虚偽を見分けることを困難にする。米 MIT の研究によると、ソーシャルメディア上では、偽ニュースは真実のニュースよりもはるかに速く、広範囲に拡散することが分かった。これは政治的分極化、社会不安、そして信頼できる情報源への信頼の全般的な低下につながる可能性がある。こうした誤情報の結果として、社会不安や、情報に基づいた市民的議論の崩壊が生じる可能性がある。言い換えれば、ネガティブな情報はより早く吸収され、より強い影響力を持つということなのである。完璧なオンラインイメージを維持しなければならないという絶え間ないプレッシャーや、取り残されることへの恐怖(FOMO)は、不安や抑うつの感情を引き起こす可能性がある。画面から発せられるブルーライトは睡眠パターンを乱し、不眠症や睡眠の質の低下につながる可能性がある。ソーシャルメディアの過剰な使用は、現実の人間関係に悪影響を及ぼし、孤立感や孤独感につながる可能性がある。自尊心の低下:絶え間ない社会的比較や、厳選されたコンテンツへの接触は、自尊心や身体イメージに悪影響を与える可能性がある。しかし、ソーシャルメディアは必ずしもネガティブな情報源である必要はない。その有害な影響を軽減するために、より健全な習慣を身につけることができるのである。下記リンク先はハンブルグの『ディー・ツァイト』紙の記事「ソーシャルネットワークに関する欧州連合全域共通の規則が間もなく制定されるのだろうか? 13歳まではソーシャルメディアの利用を禁止し、15歳までは利用を制限する――これが欧州連合のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長が求めていることだ」です。

European Union  Von der Leyen plant Social-Media-Verbot für unter 13-Jährige | Der Die Zeit in Hamburg

2026年10月19日

映画『パーフェクトワールド』とハロウィン

Halloween
箒に跨った満月の魔女
A Perfect World (1993) loupe

ハロウィンは古代ケルト人の祭が起源で、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的行事だったという。本来キリスト教とは関係ないが、11月1日に行われるキリスト教の万聖節「All Hallows」の前夜祭として紐付いたようである。日本でもカボチャのカービングや仮装行列が行われるようになったが、クリスマスと同様、宗教行事とは程遠い。ハロウィンというと私はずいぶん昔に観たクリント・イーストウッド監督作品の映画『パーフェクトワールド』(1993年)を思い出す。ケビン・コスナー演ずる脱獄囚ブッチ・ヘインズが、逃走途中に民家へ押し入り、8歳の少年フィリップ・ペリーを人質にアラスカに向けて逃亡する物語である。途中、フィリップは雑貨店でハロウィンの仮装用お面などに目を輝かす。エホバの証人の信者である彼の家庭では、母親が宗教に厳しく、キリスト教の友だちが開くパーティにも参加できず、ハロウィンの仮装も許されなかった。米国では近くの家々を訪れ「Trick or treat(お菓子をくれなきゃいたずらするぞ)」と唱えてお菓子をもらったりするそうだ。それがフィリップにとって羨ましくてしょうがなかったのである。クリント・イーストウッド演ずる刑事レッド・ガーネットはブッチを追い詰め、人質を解放するように求める。それに対しブッチは「母親がフィリップをハロウィンに行かせろ」という降伏条件を出す。この下りで思わず涙腺が緩んだことを憶えている。そし現場に到着したフィリップの母親がその要求を受け入れ、ブッチはフィリップを解放したのだった。

YouTube  A Perfect World - Theatrical Trailer 1993(映画『パーフェクトワールド』劇場公開用トレーラ)

2026年10月17日

世界史遠望(26)アフリカ系アメリカ人の権利と自由の法的保護を確立した公民権運動

Selma March
アラバマ州セルマの行進で「VOTE」と額に書いたアフリカ系アメリカ人の男性(1965年3月7日)

20世紀半ば、アフリカ系アメリカ人の平等な権利と人種隔離・排除の撤廃を求める全国的な運動がアメリカ各地で勃興した。この運動は様々な形態をとり、参加者たちは座り込み、ボイコット、抗議デモ、フリーダム・ライド、政府関係者への立法働きかけなど、幅広い手段を用いて要求を訴えた。彼らは多くの方面で反対に直面して爆破や暴行、逮捕、暗殺の犠牲となった。主な出来事としては以下のようなものがある。

ブラウン対教育委員会事件
全米黒人地位向上協会の法律擁護教育基金は、サーグッド・マーシャルの指導の下、数十年にわたり教育における人種隔離と闘ってきた。この長い闘いは、米国最高裁判所がブラウン対教育委員会事件を審理したことで頂点に達した。この事件は学校における人種隔離に関する5つの別々の訴訟をまとめたもので、マーシャルが最高裁での弁論を主導した。1954年5月17日、米国最高裁は「分離された教育施設は本質的に不平等である」と全員一致で判決を下し、公立学校における人種隔離を法的に終結させ、1889年のプレッシー対ファーガソン事件で確立された「分離すれども平等」の原則を覆した。
ローザ・パークスの逮捕
1955年12月1日、公民権運動家のローザ・パークスは、アラバマ州モンゴメリーのバスで白人乗客に席を譲ることを拒否したため逮捕された。この逮捕は、米国公民権運動における重要な出来事であるモンゴメリー・バス・ボイコットにつながり、パークスの長きにわたる活動家としてのキャリアにおける決定的な瞬間となった。モンゴメリー・バス・ボイコットでは、モンゴメリーの若き牧師、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士が頭角を現した。
リトルロックの学校統合危機
ブラウン対教育委員会裁判の最高裁判決後、多くの州の州および地方当局は学校統合に抵抗した。1957年9月、9人のアフリカ系アメリカ人の生徒がアーカンソー州リトルロックのセントラル高校に入学しようとした。州知事は州兵に高校を包囲するよう命じ、黒人の生徒たちは嫌がらせを受け、校舎に入ることを阻まれた。ドワイト・アイゼンハワー大統領はアーカンソー州兵を国有化し、生徒を保護し、連邦裁判所の分離撤廃命令を執行するために米軍を派遣した。
バーミングハム運動
1963年春、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師率いる南部キリスト教指導者会議は、アラバマ州バーミングハムで、市の残忍な人種隔離政策に抗議するため、大規模な座り込みとデモ行進運動を開始した。多くの抗議者と指導者が投獄され、キング牧師は獄中で、非暴力抵抗の哲学を説明する長文の公開書簡を執筆した。この書簡は「バーミングハム刑務所からの手紙」として知られるようになり、広く再出版され、市民的不服従の原則を擁護する古典的な著作として高く評価されている。
The Great March on Washington
約25万人がワシントン記念塔からリンカーン記念堂まで行進した(1963年8月28日)
数十万人がワシントンD.C.に集結
1963年8月28日、米国史上最大規模の非暴力公民権デモ「雇用と自由のためのワシントン大行進」を行った。この行進は数ヶ月で組織され、ベテラン戦略家のバイヤード・ラスティンが調整役を務め、実質的な変革の緊急性を訴えることを目的としていた。行進のプログラムには、「現議会による包括的かつ効果的な公民権法制」から始まり、教育、住宅、雇用などにおける差別撤廃などが含まれていた。指導者や組織者は議員やジョン・F・ケネディ大統領と面会し行進はリンカーン記念堂で音楽と演説で締めくくられた。演説の中には、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「私には夢がある」も含まれていた。
アラバマ州セルマ公民権行進
1965年3月7日、25歳の活動家リーダー、ジョン・ルイスが率いる公民権行進が、行進隊が市内のエドマンド・ペタス橋を渡ろうとした際に、州警察官と保安官代理に襲撃された。行進隊が殴打され、催涙ガスを浴びせられ、警察の馬に踏みつけられる様子が報道されると、全国で怒りが広がり、活動家、宗教指導者、一般市民がセルマに押し寄せ、支援を行った。3月9日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア博士が率いる2番目の行進隊が橋に近づき、そこで祈りを捧げ、教会に戻った。3月21日、今度は連邦化された州兵に守られながら、数千人の行進隊が橋を渡り、モンゴメリーに向かった。
1964年の公民権法と1965年の投票権法
南北戦争後の再建期以降で最も重要な2つの公民権法が、わずか2年の間に相次いで可決された。この2つの法律は、人種、肌の色、宗教、性別、出身国に基づく差別を違法とした。公共施設、公教育、雇用における差別を禁止し、人種に基づく投票制限も禁じた。このような包括的な法律は、公民権運動の長年の目標であり、ジム・クロウ時代の多くの法律や慣習に終止符を打つものとなった。

1960年代末までに、公民権運動は法律と社会慣習に劇的な変化をもたらし、アフリカ系アメリカ人の権利と自由に対する法的保護を確立した。これは、その後数十年にわたりアメリカ社会を形作るものとなった。下記リンク先はジョン・F・ケネディ大統領図書館の「現代公民権運動とケネディ政権」です。

Kennedy MuseumThe Modern Civil Rights Movement and Kennedy Administration | John F. Kennedy Library