2020年4月6日

家に居ましょう そして命を救いましょう

Stay Home Alone "Lonely Room - EP" (SHACD-0001)

写真は大阪のポップパンクバンドStay Home Alone CDアルバム Lonely Room - EP である。新型コロナウィルス感染症 COVID-19 パンデミックにより、世界全体が危機状態にあるが、いま各国で強く叫ばれているのが Stay Home(家に居よう)という呼びかけだ。上記 CD の演奏グループ名がオーバーラップするが、2018年8月1日にリリースされたもので、偶然とはいえ、今年ではない。イラスト自体は独りぼっちで留守番する少年を描いたと思われるが、直接関係がないにしても、なにかを暗示しているような気がしてここに掲載した。ウィルスの厄介は目に見えないことだ。マスクをして、こまめに手を洗うことが肝要だが、家から出ないのが一番の防護策だという。人が動けば動くほど、感染は拡大する。新型コロナウイルス感染症に関する専門家有志の会によると、人と会う機会を8割減らすことを心がけて欲しいという。例えば人と会う時は、屋内で会う人を10人から2人に減らす。外出は散歩、ジョギング、食料品の買い出し、通院、行く必要のある仕事程度にとどめるべきだという。家にいることが、多くの命を救うことになるというのだ。厄介なのは仕事をしないと生活破綻する人たちが大勢いることだ。休業するする代わりに国からの保障が必要だが、現政権の方針は不透明で頼りない。それでは家に閉じこもってどうやって時間を過ごすか。私は読書と音楽鑑賞で制御している。大小の会場の演奏会が次々に中止になり、音楽家に打撃を与えている。またライブ鑑賞できないファンのため、そして自らの活動継続のため「自宅ライブ」を始めた演奏家が増えてきたようだ。Facebook や Twitter などのソーシャルメディアで、ハッシュタグ #LivefromHome をキーワードに検索すると、その動向を知ることができる。

note  「全世代のみなさまにいま拡散してほしいこと」(新型コロナウィルス専門家有志の会)

2020年4月5日

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ


これまで触れた何冊かの本、例えばジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』、ギルバート・ホワイト『セルボーンの博物誌』、W・H・ハドスン『はるかな国とおい国』などに共通していること、それは正直言って読み疲れるということだ。少し読んでは放り出し、また忘れたころに読み進める。ヘンリー・D・ソロー『森の生活』もそうだが、ハーマン・メルヴィル『白鯨』(モビィ・ディック)がその極めつきではないだろうか。とにかく通読するだけでも厄介で、私は何度も挫折、数カ月を費やしてやっとのことで読み終えたのだった。物語のクライマックス、エイハブ船長と白鯨モビィ・ディックの闘いにたどり着くまでの道程が長いのである。著者メルヴィル(1819-1891)は実際に捕鯨を体験している。したがって見方を変えれば、ここに書かれている当時の鯨学、捕鯨業の実態、あるいは船員の生活など、貴重な記録文学と言える。18世紀~19世紀半の欧米諸国による捕鯨は鯨油を採ることが主目的だった。そして浦賀へ来航したペリーの艦隊の黒船が、江戸幕府に開港を迫ったのは、アメリカの捕鯨船団が燃料や食料補給のために寄港したかったからだという。

C・W・ニコル『勇魚(上・下)』(文春文庫)1992年
作家のC・W・ニコルさんが今月3日、直腸がんのため長野市の病院で死去した。著書『勇魚(いさな)』を思い出し、読み返してみたが、これは一気に読破することができた。舞台は和歌山県太地、今でも捕鯨の町である。幕末。おりしも井伊直弼、吉田松陰、坂本龍馬などが世界に目を転じ始めたころだった。エイハブ船長は白鯨によって片足を失ったが、この小説の主人公、甚助は鯨に片腕を奪われている。失意のどん底にあった彼に声を掛けたのが紀州藩士、松平定頼だった。定頼は黒船の出現を知り、海防の必要性を幕府に説き、甚助を密偵に仕立てる。紆余曲折の末、ジョン万次郎に出会った甚助はジム・スカイの名で海外に雄飛する。波乱に飛んだ歴史物語だが、作者のニコルさんはよくここまで調べたものだと感心する。ウェールズ出身で、1995年に日本に帰化したが、一年間太地に暮らした経験があるという。その体験ゆえに書けたのだろうが、訳者あとがきにもあるが、私も鯨を勇魚(いさな)と呼ぶことは知らなかった。勇ましい魚という意味である。鯨は魚類ではなく哺乳類だが、中国語では鯨魚と表記する。万葉集に「鯨魚取海哉死為流山哉死為流死許曽海者潮干而山者枯為礼」(第16巻第3852番)という歌がある。鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ。つまり「海は死ぬだろうか、山は死ぬだろうか。死ぬからこそ海は潮が干し上がるし、山は草木が枯れる」という摂理を詠んでいるのである。

太地を初めて訪れた松平定頼は獲れた鯨の解体作業に立ち会う。太地角右衛門(網捕り式捕鯨の考案者)は漁師たちが鯨の霊に祈ったことに対し「わたしどもとて死の悲しみは感じますが、しかしその悲しみの一方に、海からあのような恵みを受けるよろこびもあり、わたしどもはなにひとつむだにいたしませぬ。肉、油、骨、髭、すべてを使います」と定頼に答える。さらに臓物も食べると答えながら「正直申して、わたしは肉のほうが、わけても尾に近い脂ののった肉が好きです」と説明する。これは鯨の尾の身、すなわち尾の背側の部分の脂が霜降りになった部位を指す。一昨年の暮れ大阪道頓堀の『たこ梅』でサエズリ(ヒゲクジラの舌)の煮込みを食べた話を書いた。これも絶品だが、尾の身の刺身はさらに素晴らしい。私はアメリカの海洋哺乳類保護団体のメンバーと会ったことがある。鯨の肉は物凄く美味しいよと話したら、彼らが目を丸くしていたのを思い出した。国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を表明したことで、日本は1988年以来、30年ぶりに商業捕鯨を再開することとなった。南極海での捕鯨を停止することは歓迎するが、鯨肉の供給に問題が出そうである。しかし鯨肉はもはや食道楽のための高級食材であり、もはや日本人の蛋白源ではないことを認識すべきだろう。

2020年4月4日

いつでも陽の当たる明るいところに

The Carter Family (L-R) Maybelle Carter, A. P. Carter and Sara Carter

カーター・ファミリーの "Keep On the Sunny Side" は1928年5月9日にリリースされた。エイダ・ブレンクホーン(1858–1927)作詞、J・ハワード・エントワイル(1866–1903)作曲のこの歌は、人生は暗く苦しい面と明るく陽が差す面もあるが、いつでも陽の当たるところにいようと呼びかけている。
There's a dark and a troubled side of life;
There's a bright and a sunny side, too;
Tho' we meet with the darkness and strife,
The sunny side we also may view.

Keep on the sunny side, always on the sunny side,
Keep on the sunny side of life;
It will help us every day, it will brighten all the way,
If we keep on the sunny side of life.

Tho' the storm in its fury break today,
Crushing hopes that we cherished so dear,
Storm and cloud will in time pass away,
The sun again will shine bright and clear.

Let us greet with a song of hope each day,
Tho' the moments be cloudy or fair;
Let us trust in our Savior always,
Who keepeth everyone in His care.
スティーブン・フォスター(1826–1864)がミンストレル・ショーのために書いた、パーラーソング「つらい時代はもう来ないで」は貧困生活に疲れ果てた人たちのため息を歌ったもので、悲観的な内容だった。それに比べると、同じ困難な時代をテーマにしているが、人生に希望を抱かせる歌になっている。新型コロナウィルス感染症 COVID-19 パンデミックの悪夢に苛まれている毎日、この歌に救われるような気がしてならない。

YouTube  The Carter Family: Keep on the Sunny Side (Camden, New Jersey, May 9, 1928)

2020年4月3日

ジョーン・バエズに影響を与えた反戦活動家の母親

Mimi Baez Fariña, Joan Bridge Baez, Joan Baez, and Bob Dylan, New York, 1965.

音楽ファンならジョーン・バエズとボブ・ディランは無論、左がジョーンの妹、ミミ・ファリーニャであることは先刻ご存知だと思う。しかし真ん中の女性が、母親のジョーン・ブリッジ・バエズだということに気づかないかもしれない。ジョーン・バエズの政治スタンスに大きな影響を与えた反戦活動家だった。

ベトナム戦争徴兵拒否のポスター(1968年)
ジョーン・ブリッジは1913年4月11日、スコットランドのエディバラで生まれた。父親はプリンセス街のセイント・ジョン・エピスコパル教会の司祭だった。ブリッジ一家はカナダに渡り、後にニュージャージー州マディソンに移住した。高校生だった彼女はダンスパーティーで、メキシコ系アメリカ人の物理学者アルバート・バエズと知り合う。1936年にふたりは結婚、ポーリン、ジョーン、ミミの3人の娘をもうけ、一家はカリフォルニアに移り住んだ。ベトナム戦争へのアメリカの関与がエスカレートした1967年10月、ジョーン母娘はオークランドの米空軍誘導センターへの出入り口を2回封鎖して逮捕され、1か月以上刑務所で過ごす。翌1968年、三姉妹をモデルにした、徴兵拒否を促す反戦ポスター Girls Say Yes to Boys Who Say No(ノーという男の子たちを女の子たちはイエスと言う)が制作された。

ここで時計の針を戻そう。娘ジョーンのプロのシンガー・ソングライターとしてのキャリアは、1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルで始まった。1960年代の初めから中頃にかけて、母親と一緒にアメリカの公民権運動に関わっていた彼女は、フォークリバイバル運動の最前線に現れる。この激しい時代に若いボブ・ディランを世界に紹介するのを助けたのが彼女だった。ジョーン・ブリッジとふたりの娘は、ディランの背中にプロテストシンガーというラベルを貼り付けたのだった。ディランとバエズはなぜ結婚しなかったのかという疑問の文章を目にすることがある。政治的な歌からディランは一線を引きたかったのではないかと私は想像している。サラ・ディラン(シャーリー・マーリン・ノズニスキー)と1965年11月22日結婚、バエズ一家から穏やかに離れていった。

時計の針を進め、いきなり21世紀にスリップしよう。ジョーンは母親の100歳の誕生日について、自らの Facebook のページに「樫の木と春の花と100個の色とりどりの風船に囲まれた敷地内で、大々的なお祝いが行われました。150人の友人や家族が彼女に向かってハッピー・バースデーを歌い、その調べは物凄い勢いで通り過ぎて坂を下り、さらに小川へと続き、樫の木の中へと響いていきました」と綴っている。その9日後の2013年4月20日、ジョーン・ブリッジ・バエズはカリフォルニア州ウッドサイドの自宅で息を引き取った。

YouTube  Watch the video "Joan Bridge Baez On Her Daughter Joan Baez" on YouTube

2020年4月2日

閲覧者が 2,500 人を超えた Facebook ページ

Old-time music women's group, from the end of the 19th century to early 20th century.

ソーシャルメディア Facebook で私が管理しているページ American Roots Music(アメリカンルーツ音楽)の閲覧者が昨日2,500人を超えた。なぜ日本人がアメリカ音楽のページを、と不思議に思う人が多いかもしれない。同サイトには外国人が作っている日本の浮世絵やヲタク文化のページもあるし、そういう意味では別に不思議ではないと思っている。ページを「いいね!」した人の性別と年齢の集計データを見てみよう。ユーザーのプロフィールに記載されている情報に基づいて集計された推定値でである。男女とも65歳以上の高齢者が一番多い。ソーシャルメディアは若者というイメージなので意外だ。利用者が Facebook プロフィールに入力した年齢や性別などのさまざまな要素に基づいて集計されたものだそうである。


管理人が日本人と知った人から「日本語で」というメッセージが届いたが、外国人のほうが多いので、と返信したこともある。国別アクセスのベストテンは次の通りである。( ) 内は人数。
  1. アメリカ(1,656)
  2. 日本(134)
  3. イギリス(94)
  4. カナダ(66)
  5. オーストラリア(48)
  6. イタリア(42)
  7. フランス(37)
  8. ドイツ(28)
  9. スウェーデン(26)
  10. スペイン(24)
アメリカがダントツだが、イギリス、カナダの英語圏、そして英語を解する人が多い、ヨーロッパからのアクセスが多いことがお分かりいただけると思う。日本が2番目だが、これは私の Facebook フレンドが含まれているからだと思う。閲覧者が1万を超えるページがざらにあるが、個人の趣味ページとしてはそれなりの数字を獲得していると思う。しかし創設がちょうど1年前の1月31日だから、意外と時間がかかったとも言えそうだ。次のマイルストーンは3,000人だが、日本流に言えば三里塚、さて、いつ達成するだろうか。