2019年9月21日

カントリー音楽の誕生と多様性

Legends of the Early Country Music ©Paul Rogers/New York Times

Country Music Foundation (1991)
インターネット百科事典ウィキペディア英語版はアメリカのカントリー音楽を「1920年代初頭にアメリカ南部で始まった大衆音楽で、ルーツはアメリカの民俗音楽(特にアパラチアの民俗音楽とウェスタン音楽)やブルースなどのジャンルに由来する」と定義している。RCA の傘下にあった Okeh レコードの辣腕ディレクター、ラルフ・ピア(1892–1960)は1923年6月14日、フィドリン・ジョン・カースン(1868–1949)の歌を録音した。ジョージア州ファニン群の農家に生まれ育ったカースンは、すでに55歳になっていたが、7回にわたるジョージア・オールドタイム・フィドラーズ・コンベンションのチャンピオンに輝いていた。レコードは大ヒット、20世紀初頭の全く新しいメディアに乗った最初のカントリー音楽だった。1927年7月25日から、ピアはテネシー州ブリストルで2週間にわたる録音セッションを行った。そしてアーネスト・ストーンマン、カーター・ファミリー、ジミー・ロジャーズなどが「発見」された。南部アパラチア山岳地帯の伝承音楽が商業音楽に変身するきっかけとなった貴重な録音だった。1998年に米国連邦議会がブリストルを「カントリー音楽発祥の地」として承認している。アフリカ系アメリカ人、すなわち黒人奴隷の末裔、そしてヨーロッパからの移民たちの音楽が融合してカントリー音楽が生まれた。

Public Broadcasting Service (2019)
しかしカーター・ファミリーのメイベル(1927–1978)やジミー・ロジャーズ(1897–1933)まどは、いわば伝承音楽の改革者でもあった。9月15日よりアメリカのテレビ局 PBS でオンエアされ始めた、ドキュメンタリー番組 "Country Music - A Film by Ken Burns" が話題になっている。共同制作者のケン・バーンズ(1953-)とデイトン・ダンカン(1949-)が、ニューヨーク・タイムズ紙に "Country Music Is More Diverse Than You Think"(カントリーミュージックはあなたが考えるてるよりも多様です)という興味深い記事を投稿している。初期のカントリー音楽はヒルビリーと呼ばれたが、これはアパラチアやオザークなど、山岳地帯の貧しい人々を指す、偏見に満ちた俗語だった。バーンズは、チャーリー・プライドやレイ・チャールズを例にして、カントリー音楽に対するアフリカ系アメリカ人の影響を強調している。メキシコのミュージシャンとそのスタイルの多大な貢献も、長い間失われていた史実である。カロライナ・チョコレート・ドロップスの創設メンバー、リアノン・ギデンズ(1977-)が映画のナレーターのひとりであることも意義深い。彼女はカントリー音楽を再生しようとしているアーティストの最前線にいるからだ。

2019年9月19日

永井荷風『濹東綺譚』挿絵の寂寥

木村荘八『濹東綺譚』挿絵 8(東京国立近代美術館蔵

永井荷風(1879-1959)の小説『濹東綺譚』は1937年、木村荘八(1893-1958)の挿絵とともに「東京朝日新聞」に連載された後、岩波書店から単行本が刊行された。初版本の復刻版が2001年に出版され、ちょっと食指が動いたが、古書蒐集家でもないし、と自分に言い聞かせて見送った。玉の井の私娼街を描いた詩情豊かな随筆風の小説として、広く知られた名作だが、木村荘八の挿絵も評判を呼んだ。作者の分身と思われる、50代後半の小説家、大江匡が、26歳の玉の井の私娼、お雪と出合う場面は次のように描写されている。
復刻岩波文芸書初版本(2001年)
わたくしは多年の習慣で、傘かさを持たずに門を出ることは滅多にない。いくら晴れてゐても入梅中のことなので、其日も無論傘と風呂敷とだけは手にしてゐたから、さして驚きもせず、靜にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方うしろから、「檀那、そこまで入れてつてよ。」といいさま、傘の下に眞白な首を突込んだ女がある。油の匂においで結つたばかりと知られる大きな潰し島田には長目に切った銀糸ぎんしをかけてゐる。わたくしは今方通りがかりに硝子戸を明け放した女髪結の店のあつた事を思出した。
上掲の絵がそのシーンだが、これは東京国立近代美術館のデーターベースから拝借した画像ファイルである。着物の裾を膝まで持ちあげ、露出したお雪の素足が艶めかしい。背景の立て看板に「二十銭ハムライス」、暖簾に「和洋スタンド」とあるのが時代を反映していて興味深い。お雪は宇都宮で芸者をしていたが、お金が必要になり、玉の井にやって来た。大江が「馴れない中は驚いただろう。芸者とはやり方がつがうから。」と問うと「そうではないわ。初めッから承知で来たんだだもの。芸者は掛かりまけがして、借金の抜ける時がないもの。それに……身を落すなら稼ぎが結句徳だもの。」とお雪は答える。胸に迫る言葉だ。原画の寄贈者が木村初枝となっているが、親族だろうと想像する。しかし夫人なのかそれとも娘なのか、具体的な関係がはっきりしないのが不思議だ。木村荘八は挿絵を描くために玉の井に通ったそうだが、私娼街の夜の暗さと共に生きる、女と男の寂寥を見事に描き出している。永井荷風と同じく、東京下町の人情風俗に限りない愛着をよせていた東京人であったのだろう。それにしても私が所有している、岩波文庫の挿絵は余りにも小さく不鮮明だ。今からでも遅くない、やはり復刻初版本を買おうかなという気持ちに傾く。蔵書は断捨離すべき存在、困った性分である。

2019年9月17日

写真家ジョン・コーエンの死を悼む

John Cohen (1932-2019) Courtesy of Rufus Cohen

ソーシャルメディア Facebook を徘徊していたら、サングラスをかけた、ジョン・コーエンの珍しい写真が目に飛び込んできた。何事かと読んでみたら、息子のルーファスによる父親の死の報告だった。16日夕、リビングルームで息を引き取ったという。パソコンのマウスを握っていた手が凍り付いた。
My father John Cohen passed away this evening at home in his living room. David Amram had stopped by and played him Hoagy Carmichael's "Georgia" on the old out-of-tune piano. John was gone a couple of minutes later. Last week he said "Thank you everybody for making me who I was". -- Rufus Cohen
The High Lonesome Sound (1965)
最後の言葉の大意は「私の存在を認めてくれたみんなに感謝」だが、私には辞世の句に映る。親交があったロバート・フランク(1924–2019)が9日に他界したばかりだが、それを駆け足で追うような死であった。コーエンは写真家、映画制作者、音楽家、伝承音楽研究家として、多方面で活躍した才人だった。イェール大学で美術学修士号を取得した後、1950年代後半から1960年代初頭、ニューヨークで花咲いた芸術、文学、音楽のムーブメントに関わった。その業績すべてを列挙できないが、ロバート・フランクの映画 "Pull My Daisy" の制作に加わり、ビートジェネレーションの作品を記録したことは特筆に値するだろう。1958年にマイク・シーガー(1933–2009)トム・ぺイリー(1928–2017)とNLCR(ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ)を結成、古い SP 盤商業音楽レコードをソースに復元演奏、伝承音楽復興運動の一翼を担った。東南部のアパラチアを旅行、ケンタッキー州でロスコー・ホルコム(1912–1981)を「発見」して制作した映画『ハイ・ロンサム・サウンド』は画期的な作品だった。以来、コーエンはさまざまなテーマについて12を超える映画を制作している。写真集 "There Is No Eye: John Cohen Photographs" はペルーのアンデス、伝承音楽の宝庫アパラチア山系、ブルックリンのゴスペル教会、グリニッジビレッジのボブ・ディランやビートニクの文学者たちなど、50年間に撮影された作品の集大成となっている。

The Library of Congress
Treasures from the Archive Roadshow: Featuring the Down Hill Strugglers & John Cohen (LOC)

2019年9月15日

ハイボール 昔の名前で 出ています

ハイボールバー1923(京都市下京区四条通小橋東入る)

煙草はずいぶん昔に止めたが、酒とコーヒーは絶つことができない。日本酒が一番美味しいと思うけど、糖分が気になるので、晩酌はもっぱら焼酎である。沖縄で呑んだ泡盛は例外だけど、焼酎が美味しいと感じたことは余りない。味を誤魔化すため、烏龍茶で割ることが多い。炭酸水といえば、外出した際、ハイボールを嗜むことがある。学校を卒業、赴任地が大阪だったが、先輩が最初に連れていってくれたバーが、堂島の「サンボア」だった。氷無しの角ハイボールが絶妙だったのが今でも思い出される。サントリーの角瓶は高級ウィスキーとは言えないが、あの絶妙さはおそらく、炭酸水との混合比率に秘密があるのだろう。それに加えて温度コント―ロール、すなわちウィスキーと炭酸水、グラスの冷やし加減によるものだと確信する。サンボアは京都にも三店があるが、寺町と木屋町はなぜかサントリー角ではなくニッカウヰスキー竹鶴である。寺町店は創業1918年だから、100年の歴史を持つ老舗だ。先代のマスターが頑固オヤジだったことを思い出す。なにしろつき出しのピーナッツの皮を、床に落とさないと怒られたし、その落とし方まで指図されたものである。昔はカウンターだけのスタンドバーだったけど、客が芸舞妓を連れて来るようになったので椅子を置いた、と語っていたのが懐かしい。ウィキペディア英語版は Highball を「日本で人気がある」と紹介している。その人気ゆえに酒場のメニューに欠かせないし、京都にもハイボール専門のチェーン店が進出している。

WWW ウイスキーと炭酸水の黄金比とは? 極上ハイボールの作り方

2019年9月13日

大判 4x5 フィルムをタコ式で現像する

Taco Method Developing with DIC DSP-1F BK Tank

135から8x10まで揃っていたネオパン ACROS 100
富士フイルムが黒白フィルムの開発を再開し「ネオパン100 ACROS(アクロス)II」をこの秋にリリースするというアナウンスが6月にあったが、その後、具体的な情報がない。10月発売なら、そろそろ発表があってもおかしくないのだが。発売を予定されているのは、135および120の2種類だけである。フィルムの醍醐味は大判ほど顕著だと思うのだが、リストアップされていないのが残念である。デジタルカメラに不向きなジャンルに、ピンホール写真をあげることができる。やや専門的な話になるが、ゾーンプレート写真はレンズレス、すなわちレンズを使わずに結像するという点では、ピンホール写真と共通している。しかしゾーンプレート写真はデジタルカメラでも、それなりにソフトフォーカス効果があって面白いが、私の経験では、ピンホール写真は単にボケるだけで、際立った表現効果を期待できないと思う。やはり受光面積が大きいフィルムの登板が待たれるのである。ピンホール写真は大判ほど効果がある。長時間露光に対する特性が優れているので、ぜひ4x5以上の ACROS を発売して欲しい。

現時点では海外製品に頼ることになるが、イルフォードやコダックのフィルムが比較的入手しやすい。大判4x5黒白フィルムは自家現像がお勧めだ。7年前の2012年に「大判4x5シートフィルムの自家現像」という一文をポストした。JOBO の回転式現像タンクを使った方法だったが、リールにフィルム装填する場合、ミスが起こりがちであった。それにこの現像タンクは入手が困難で、余りお勧めできるものでなかったかもしれない。そこで今回はもっと安価で簡便な方法を紹介したい。ご覧のようにフィルムを輪ゴムで丸めて現像するという方法である。フィルムの形がメキシコのトウモロコシ料理のタコスに似るので、欧米ではこれを Taco Method(タコ式)と呼んでいる。タンクは DIC(旧大日本インキ化学工業)の小型密閉容器 DSP-1F BK で、なんと360円で市販されている。液量は約1,000ccで、1:1の希釈現像するにしても500ccの原液が必要である。図のように回転式にすれば、処理液の量を減らすことができる。なおステンレスタンクが好みの場合は、深さが4インチ強のサイズを探すと良いと思う。