2019年12月15日

モノクロ写真のカラー化で蘇ったロマノフ家最後の舞踏会

Princess Zinaida Nikolayevna Yusupova

Empress Alexandra Feodorovna
1903年2月11日から2日間にわたり、サンクトペテルブルクの冬宮(現エルミタージュ美術館)で、帝政ロシア最後の大がかりな仮装舞踏会が開かれた。ロマノフ家即位290周年を記念した、2日間にわたる祝祭だった。初日はコンサートと晩餐会で、仮装舞踏会は2日目に催された。その模様の写真は歴史的遺産として残されたが、アルバム制作のため、コライII世(1868–1918)の皇后、アレクサンドラ・フョードロヴナ(1872–1918)の希望で、サンクトペテルブルクの高名な写真師たちが撮影した。賓客は400人に近く、全員が17世紀ロシアの伝統的な衣装を身に着けたのである。その肖像写真を見ると、撮影技術の素晴らしさに驚嘆する。その一部が Russia Beyond The Headlines に掲載されているが、ジナイダ・ニコラエヴナ・ユスポヴァ公女(1861–1939)の写真が印象的だった。怪僧グリゴリー・ラスプーチン(1869–1916)を暗殺したと言われているフェリックス・ユスポフの母親で、ロシアの名門貴族ユスポフ家の女性相続人だった。彼女が頭にしているのは、ニワトリや雄鳥を意味する、スラヴ語のココシに由来する、ココシニクと呼ばれる頭飾りだ。ココシニクには絹、ビロード、錦などの高価な材料が使われ、真珠、レース、宝石や、金の糸を使った刺繍で装飾されていた。モノクロとカラーの対比写真を掲載したが、大きさを揃えるため、右上のモノクロ写真は、カラー写真を元に、私が画像処理した。2017年6月に「モノクロ写真のカラー化で歴史が生き生きと蘇る」という一文を当ブログに寄せたが、写真のカラー化は時間の境界が突然なくなり、今ある世界じゃないかと錯覚してしまう効果がある。

Guest of Costume Ball, Winter Palace, Saint Petersburg 1903 (Click to Larger Image)
Olga Shirnina
ロマノフ家最後の舞踏会の一連の写真をカラー化したのは、モスクワ教育学外国語研究所の元教授で、ドイツ語翻訳者のオリガ・シルニナである。歴史資料に目を通して衣裳の色などを時代考証、アドビ社の画像処理ソフト Photoshop で作成したという。写真を彩色するのに丸一日かかるそうだが、見事な出来栄えだ。モノクロ写真の彩色に関して、シルニナはアマチュアを自称しているようだが、かなり高度な技術を駆使している。ペテルブルク冬宮の大広間がこれほど荘厳に輝いたことはかつてなく、鏡がこれほど多量の宝石のまばゆい光を映したことは絶えてなかった。その雰囲気をカラー写真が再現している。なお舞踏会の翌1904年、日露戦争が始まり、1905年には第一次ロシア革命が勃発、帝政が崩壊した。さらに1917年には第二次革命が起こる。ニコライII世たちは臨時政府によって自由を奪われ、シベリア西部のトボリスクへ追放された。1918年、エカテリンブルクに移送されたいたニコライII世は、ウラル地区ソビエト執行委員会の命令により、ボリシェビキ軍により射殺された。そして家族全員が皇帝と同様に運命を共にし、帝室は完全に断絶したのだった。ペテルブルクの宮殿での仮装舞踏会が、その後再び開かれることがなかったが、豪華絢爛な衣裳をまとった帝政ロシアの貴族たちが、写真の中に生き続けている。

Large Format Camera The splendor of the House of Romanov's final ball 1903 (Russia Beyond The Headlines 2016)

2019年12月12日

俺の服切り裂いた あいつに胸裂かれ

American Moonshine and Prohibition (Folkways Records FH 5263) 1962

The New Lost City Ramblers 1959
このレコードはニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(NLCR)が1962年に発表したLPアルバムで、禁酒法時代の歌を集めている。Moonshine はそのまま訳せば月光となるが、密造酒のことである。アパラチア山系はバーボンウィスキーの産地であり、この地域では18世紀から密造酒が作られていた。英語には bootlegger という単語があるが、密造酒をブーツに忍ばせて酒を運んだことに由来する。月明かりの下でコソコソ作ったという実感は Moonshiner という言葉のほうにこもっている。Prohibition は酒類醸造販売禁止のことだが、1784年、合衆国建国の父ベンジャミン・ラッシュ博士(1746-1813)が、体と精神への酒の影響について書いたパンフレットを出版した。これがアメリカにおける禁酒運動の始まりだといわれている。紆余曲折のうえ1919年に法律が成立した。その後の歴史についての詳細は避けるが、アル・カポネ(1899–1947)に代表されるマフィアたちの資金源になったことはご存じの通りである。麻薬もそうであるが、禁ずることによって闇市場が生まれ、良からぬ組織、近頃日本で話題の「反社会的勢力」に利益をもたらしてしまうというのが道理なようだ。余談ながら密造酒は粗悪になりがちで、だから味を誤魔化すためにカクテル(cocktail)が生まれたという。
Oh, goodbye booze for evermoreグッバイブーズ これからずっとだよ
My boozing days will soon be o'erあのバカな俺の日々 もうじきおしまいさ
Oh, I had a good time, and we couldn't agreeいい時もあったね 俺はへべれけで
You see what booze has done for meわかるだろこの俺に 酒がさせたこと


She's tore my clothes, she's swelled my head俺の服切り裂いた あいつに胸裂かれ
So goodbye booze, I'm going to bedグッバイブーズ 俺はひと眠り
Oh, I had a good time, and we couldn't agreeいい時もあったね 俺はへべれけで
You see what booze has done for meわかるだろこの俺に 酒がさせたこと


She swelled my head, she broke my heartあいつに胸裂かれ 頭はゴチャゴチャで
So goodbye booze, we now shall partグッバイブーズ 俺たち引き裂かれ
Oh, I had a good time, but we couldn't agreeいい時もあったね 俺はへべれけで
You see what booze has done for meわかるだろこの俺に 酒がさせたこと


She whispered low, how sweet it sounds!あいつのささやき 低く甘く
Please take another ride on the merry-go-roundどう?乗り換えたら 回転木馬に
Oh, I had a good time, and we couldn't agreeいい時もあったね 俺はへべれけで
You see what booze has done for meわかるだろこの俺に 酒がさせたこと
County Records COUNTY 516
この歌はチャーリー・プール(1892-1931)の "Goodbye Booze"(酒よさらば)で、NLCR も上掲のアルバムに収録している名曲だ。"If the River Was Whiskey"(もし川がウィスキーならば) といった歌も作っているのだが、最初に手にしたバンジョーは、密造酒を売って得たお金で購入したと言われている。映画のバックグラウンドミュージックを演奏するため、ハリウッドに招待されて切符代を受け取ったのだが、ロサンジェルスへ行かなかった。お金を6週間にわたる飲酒パーティに費やしてしまったのである。自ら作った歌のように『酒よさらば』できず、酒に溺れ、それが災いして、アルコール中毒で1931年に心臓発作に見舞われ、39歳の若さで他界してしまった。私はアメリカンルーツ音楽が好きだが、日本人がそのまま歌うことに抵抗がある。学生時代、ブルーグラス音楽のバンドを作ったりしていたが、ずいぶん後になって、それを恥ずかしく感ずるようになった。ただブルーグラス音楽のメロディは覚えやすいので、それに自作の歌詞を添えるという試みは何度かしている。一番難しいと思ったのは、訳詞である。単に訳するだけなら簡単だが、歌えるように日本語化するのが結構面倒なのである。もし日本語で歌ってみたいという場合、若干の手直しが必要かもしれない。下記 SoundCloud のリンクボタンをクリックすると、オリジナル録音を聴くことができる。私は煙草はとっくの昔にやめたけど、酒はおさらばできない。さて、今宵も乾杯しよう。

SoundCloud  Goodbye Booze : Charlie Poole and the North Carolina Ramblers (Recorded Sep 17, 1926)

2019年12月9日

ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』『動物農場』『一九八四年』の系譜

ジョージ・オーウェルは1941年8月から1943年11月まで BBC で働いた

岩波文庫(1992年)
ジョージ・オーウェル(1903-1950)は1941年から43年の間にスタッフ番号 9889 としてBBC(英国放送協会)の従業員として勤務した。東洋部インド課のトークプロデューサーで宣伝番組の制作に従事した。1984年にオーウェル自身が作成したトークの原稿や番組台本や書簡などが収録されている『戦争とラジオ―BBC時代』が発見された。これは偶然だが『一九八四年』と重なる。この本には、戦時下の BBC の検閲がどういったものか、ということも書かれている。また『一九八四年』に出てくる、真理省のモデルとされている、ロンドン大学の総合図書館セネット・ハウス・ライブラリー(Senate House Library)の写真も載っている。オーウェルの作品の中で、最も著名な小説『動物農場』(1945年)『一九八四年』(1949年)がこの頃の体験をもとに創造されたことがわかる。1998年から2014年まで「BBCラジオ4」のプレゼンターだった英国人ジャーナリスト、マーク・ローソン(1962-)は「オーウェルの散文の平易、明快さは BBC に従事する前に培われたが、放送に課せられた時間制限と、読者の目と放送の聴取者の耳に引っ掛かるように、言葉と骨組みを簡略化することで完成した」と書いている。その下地になっているのは、ルポルタージュ『カタロニア讃歌』(1938年)ではないだろうか。アーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)の小説は、英語力が多少不足でも、原文でも読めるはずだと言われている。ジャーナリストとしての体験が、平易で簡潔な文章をもたらしてと言うのである。オーウェルの『カタロニア讃歌』はスペイン内戦での人民戦線義勇軍への従軍体験を描いたもので、マルセー・ルドゥレダ(1908–1983)の『ダイヤモンド広場』(1962年)は、夫をアラゴン戦線に送ったものの、主人公は戦場を知らない。一方は外国人ジャーナリストが英語で書き、一方はカタルーニャに生まれ育った作家がカタルーニャ語で書いた。その対照的とも言えそうなスタンスの差が興味深い。

radio
The Real George Orwell: A journey exploring the man Eric Blair and the writer George Orwell (BBC)

2019年12月7日

ヴァイオリンの f 字孔物語

ヴァイオリンの内部 ©2018 エイドリアン・ボルダ

マン・レイ(1924年)
エドワード・ウェストン(1886–1958)のヌード写真集 "Edward Weston: Nudes" のモデルになったカリス・ウィルソン(1914–2009)は、友人の言葉を引用して「この世には3つの完璧な形がある―艇体、ヴァイオリン、女性の体」と書いている。弦楽器はしばしば女性の体に喩えられるが、これをまさに具現化したのが、マン・レイ(1890–1976)の『アングルのヴァイオリン』だろう。これは彼が敬愛していた画家ドミニク・アングル(1780–1867)の裸婦作品『パンソンの浴女』に触発されたと言われている。f 字孔を付け加えたので、ヴァイオリンを連想させる写真に仕上がっている。上の写真はそのヴァイオリンの中を撮影したルーマニアの写真家エイドリアン・ボルダ(1978-)の作品だ。ボルダが住むルーマニアのレギンは、ヴァイオリンの街と言われている。サウンドホールからの光が f の字を投射しているので、ヴァイオリンやチェロの内部と想像がつく。修理中のチェロを開け、8mmの魚眼レンズを装着した Sony NEX-6 で撮影したのがきっかけだったそうだ。しかしこのカメラをヴァイオリンの f 字孔から入れるのは無理であるが、どのように撮影したのか分からない。ところでヴァイオリン属の弦楽器にはどうして f 字孔があるのだろうか。弦を弓で擦って音を出す、いわゆる擦弦楽器の起源に関しては諸説がある。

小さな円から細長く大きな f 字形に進化したサウンドホール(MIT News 2015

アントニオ・ストラディバリ
アジアの騎馬民族によってヨーロッパにもたらされ、各地方の民族楽器として浸透し、その後地域ごとに多種多様な発展をし多くの楽器群が出現したというのが定説のようだ。現在ではフィドル(fiddle)とヴァイオリン(violin)は楽器としては同じものを指すが、フィドルのほうが歴史的には古く、レベック(rebec)あるいはレバブ(rebab)などを経て、ヴィオール属、ヴァイオリン属の楽器に変遷したといわれている。そのヴァイオリンは改良を重ねて徐々に完成されたのではなく、1550年ごろ、突如として、最初から完全な形でイタリアに誕生した。マサチューセッツ工科大学の音響学者と流体力学者は、ボストンのノース・ベネット・ストリート・スクールのヴァイオリン製作者と一緒に、クレモネーゼ時代の数百のヴァイオリンの測定値を分析した。そしてヴァイオリンの音に影響を与える重要な要素は、空気が逃げる f 字型の開口部の形状と、長さであることを突き止めたのである。すなわち開口部が長くなればなるほど音が大きくなる。これは中世のレベックなど、ヴァイオリンの祖先の丸いサウンドホールよりも、音響効率が高いことがわかったのである。イタリアのアントニオ・ストラディバリ(1644-1737)やジュゼッペ・グァルネリ(1698-1744)などの名工が、サウンドホールを細長くし、裏板を厚くしたのは、あらかじめ設計したのではなく、偶然だった可能性があるという。余談ながら、細長い S に駒(bridge)の位置を示す刻みを入れたので、最終的に f 字形になったのではないかと私は推測している。

study  Power efficiency in the violin by Jennifer Chu | MIT News Office | February 10, 2015

2019年12月5日

何度か同じ女の子を追いかけたことさえあった

Edward Weston: Nudes by Charis Wilson (Author) Edward Weston (Photographer) 1977

晶文社(1988年)
写真に関する本を読むのが好きだ。とりわけポール・ヒルおよびトーマス・クーパー著『写真術―21人の巨匠』(晶文社)は近代写真史を考察する上で示唆に富み、座右の一冊と言っても過言ではない。登場するのはマン・レイ、ブラッサイ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、アンドレ・ケルテス、ジャック=アンリ・ラルティーグ、ユージン・スミス、イモジェン・カニンガム、ポール・ストランドなど21人。彼らと実際に会い聞き書きしたインタビュー集である。写真との出会いから手法や思想、人生哲学にいたるまで、20世紀写真史の生きた証言集と言っても過言ではない。何よりも一般の歴史書が掬い取れそうもない、エピソードに溢れているのが最大の魅力になっている。ブレッド・ウェストンは父エドワードについて「いつも身近にいて、何年もの間、一緒に旅し、一緒に撮影した。何度か同じ女の子を追いかけたことさえあった」と述懐している。エドワード・ウェストンは私が最も敬愛する写真家のひとりだが、やはりこの下りは興味深い。ウェストンの名声は、たぶんにモデル兼助手となった作家のカリス・ウィルソンの功績が大だと私は想像している。カリスがモデルになったときは、ウェストンは結婚していたが、ふたりは一緒に住むようになる。1939年に出版された『エドワード・ウェストンとカリフォルニアを見る』のテキストはカリスが執筆した。この本によって財政的に救われたウェストンはカリスと結婚する。ウェストンは1958年に他界したが、彼女は写真集1977年に出版された『エドワード・ウェストン・ヌード』に素晴らしい解説文を寄せている。

Imogen Cunningham - Nude (1932)
マン・レイによると、ユジューヌ・アッジェに新式の印画紙でプリントするから乾板を貸して欲しいと頼んだ。ところが「長持ちさせるものではない」と断られる。アッジェのプリントは食塩水で定着、光に晒すと褪色するものだった。というのはいつまでも客に長持ちする写真を持っていては困るという理由だった。マン・レイによれば、アッジェは単純な男で、ほとんど世間知らずだったという。だから「神話を作るつもりはない」と断言している。ウェストンやアンセル・アダムスが結成した「グループf/64」について、イモジェン・カニンガムは「あれはそんなに素晴らしい展覧会ではなかった」と振り返っている。今日、伝説のグループとして名高いが、内部にいたカニンガムは、サンフランシスコで見た作品展を「あんまりいい気分になれなかった」と証言しているのである。斯々然々(かくかくしかじか)で話は尽きない。ところで私は見損なってしまったが、勅使河原宏監督作品『十二人の写真家』と題した映画がある。すでに廃刊になっているが、写真雑誌『フォトアート』創刊6周年を記念して制作された作品で、木村伊兵衛、三木淳、大竹省二、秋山庄太郎、林忠彦、真継不二夫、早田雄二、浜谷浩、稲村隆正、渡辺義雄、田村茂、土門拳の12人の仕事現場を捉えたドキュメンタリーだった。すでに全員が他界しているが、一時代を築いた日本の写真家の証言が、書籍として残されなかったことが惜しまれる。