2026年7月14日

紫式部『源氏物語』における皇位継承の記述

桐壺
源氏物語絵巻「桐壺(部分)」明暦元年(1655年)個人蔵

皇室典範の改正案が衆議院を通過した。改正案は皇族数の確保に向けて、女性皇族が結婚後も皇室に残ることと、旧皇族の男系男子を養子に迎えられるようにすることの2つが骨子となっている。かつて日本には天皇の安定した皇位継承を目的として、天皇に仕える后妃たちが集められた「後宮」という空間があった。所謂「側室」は血筋を絶やさないためのリスク分散システムだった。医療が発達しておらず、乳幼児の死亡率や大人の早世率が非常に高い時代では、正室(正妻)ひとりで確実に男児を産み、無事に成人させることは容易ではなかったため、複数の側室を迎えて子孫を多く残す必要があった。歴代天皇の母親が正室(皇后)より側室のほうが多かったという史実がある。桓武天皇、宇多天皇、醍醐天皇、後朱雀天皇、後三条天皇、後三条天皇などである。時計の針を逆回しして『源氏物語』紐解いてみよう。フィクション(創作)」であり歴史的事実そのものではない。しかし物語としての面白さだけでなく、当時の貴族社会を知るための貴重な資料としての側面も持っている。平安時代の文献は限られているため、当時の貴族社会や人々の精神性を知るための「資料」として、歴史学の研究においても活用されている。ただ『源氏物語』には、現代の「側室」という言葉で一括りに説明するのは非常に難しい、平安時代の多様な夫婦関係や後宮制度が描かれている。平安時代の一夫多妻制社会における妻たちは、家格や関係性によって「正室」や「妾(妻)」と呼び分けられていたが、物語の中ではそれぞれの事情を抱えて登場する。「側室」に近い存在として描かれる女性たち平安時代の後宮では「正室」にあたる皇后や中宮に対し、それ以外の妃たちは「女御」や「更衣)」と呼ばれていた。これらは天皇の妻として公的に認められた存在だった。

紫式部
土佐光起筆「紫式部(部分)」石山寺蔵(大津市)

桐壺更衣は光源氏の母で、身分が低いため、高い家格の妃たちからは嫉妬や冷遇を受けたが、帝から非常に深く寵愛された。藤壺中宮は先帝の皇女でありながら桐壺帝に入内し、後に中宮(正室格)となる。物語の中では光源氏の憧れの対象であり、運命を大きく変える存在である。弘徽殿女御は右大臣の娘で、桐壺帝の妃の一人、朱雀帝の母で、桐壺更衣や光源氏を敵視する立場として描かれる。光源氏は多くの女性たちと関係を持った。これらは「正室」としての葵の上と並び、それぞれの事情や距離感を持って登場する。紫の上は光源氏の理想の妻として、事実上の正室(二条院の北の方)のように振る舞うが、身分や婚姻の形式上、複雑な立場にあった。花散里は光源氏が「ほんの時折通う愛人」と説明されることもあり、身分は高くないものの、源氏が信頼を寄せる落ち着いたパートナーとして描かれている。明石の御方は地方の受領階級の娘だったが、光源氏の子(後の明石中宮)を産む。身分の違いから、光源氏との関係や娘の将来に悩みながらも、重要な役割を担う。しかも平安時代の「妻」のあり方当時の結婚形態は「妻問婚」が一般的で、夫が妻の家に通う形が基本だった。そのため、複数の家に通うことも珍しくなく、現代の「本妻・側室」という区別よりも「どのは家格の女性か」「どれだけ深く通っているか」によってその女性の地位や呼び名が変わる、非常に流動的な関係性であった。『源氏物語』における皇位継承は、単なる権力の移行にとどまらず、作中の主要人物たちの運命や、光源氏の政治的立場を左右する重要なドラマの核となっている。特に「桐壺帝→朱雀帝→冷泉帝」という流れには当時の貴族社会の価値観や、光源氏の理想と苦悩が色濃く反映されている。政府は皇族数の確保に向けて皇室典範を改正することにした。しかし一夫一婦制、しかも『源氏物語』の時代と違って「後宮」もかなわぬ現代、天皇制自体が危ぶまれる事態にならないとは限らないと思う今日この頃である。

平安時代  渋谷栄一(高千穂大学名誉教授・国文学)「源氏物語の世界」定家本「源氏物語」本文の研究と資料

2026年7月13日

フェイスブックとインスタグラムの「中毒性のあるデザイン」は欧州法に違反する

Facebook & nstagram
Facebook and Instagram

欧州連合(EU)の欧州委員会は、ソーシャルメディアプラットフォームの「中毒性のある設計」に対処するため、メタ社はフェイスブックとインスタグラムに大幅な変更を加える必要があると判断した。欧州委員会は声明でアプリケーションの自動再生、無限スクロールフィード、パーソナライズされたおすすめ機能、プッシュ通知などの機能は、ユーザーの「身体的および精神的な健康」を損なう可能性があると述べた。同委員会は、メタ社がこれらのリスクに適切に対処したり、ユーザーに警告したりしておらず、欧州委員会のデジタルサービス法(DSA, Digital Services Act)に違反している可能性があると指摘した。この声明は、メタ社が前年に施行された欧州委員会のオンラインプラットフォームに関する包括的な規制であるデジタルサービス法(DSA)に違反しているかどうかを調査するために2024年に開始された 調査の結果である。メタ社はこれらの調査結果に異議を唱えているが、今年、米国の2つの陪審がメタ社が意図的に若いユーザーを中毒状態に陥れ、害を与えたと判断した判決を下したことに続くものだ。これらの訴訟は、メタ社の同様の機能に焦点を当てたものだった。昨年、オーストラリアが16歳未満の子供のソーシャルメディア利用を世界で初めて禁止したことを受け、欧州連合諸国を含む多くの国が、10代の若者のソーシャルメディアへのアクセスを遮断する動きを見せている。

Logo mark of META

メタ社の広報担当者であるベン・ウォルターズは声明の中で「メタ社はこの調査結果に同意しない」「この調査結果は私たちが10代の若者を守るために講じてきた重要な措置を正確に考慮に入れていない」と述べた。「この調査開始以来、私たちは10代の若者を自動的に保護し、保護者が管理できるティーンアカウントを導入した。これにより保護者は夜間のインスタグラムへのアクセスをブロックしたり、1日のスクリーンタイムを15分に制限したりすることが可能になりますと声明には記されています」「私たちは、10代の若者に安全で健全なオンライン体験を提供するという欧州委員会の取り組みに賛同しており、今後も欧州委員会と建設的な対話を続けていきます」と主張した。欧州委員会の調査結果は暫定的なものであり、メタ社には異議を申し立てる機会が与えられる。しかしメタ社がデジタルサービス法(DSA)に違反していると判断された場合、昨年の収益に基づくと、全世界の収益の最大6%に相当する罰金が科される可能性がある。その額は120億ドルを超える。下記リンク先は「欧州委員会がフェイスブックとインスタグラムに対し《中毒性のある》デザイン機能の撤廃を要求」です。

European Union  EU Commission demands Facebook and Instagram dismantle 'addictive' design features

2026年7月12日

南北戦争や世界大戦などの紛争に関する写真史編纂で知られているフランシス・トレベリアン・ミラー

Hero Tales
Hero Tales From American Life: Christian Herald, 1909

フランシス・トレベリアン・ミラーは1877年10月8日、コネチカット州サウジントンで生まれた。サウジントンは、19世紀後半に農業の伝統と小さな町の雰囲気で知られた、ニューイングランド地方の田舎町である。彼はイライジャ・ハッチンソン・ミラーとジェーン・アン・ハルの息子であり、両親ともに初期アメリカ史に深く根ざした家系の出身だった。ミラーは母方から見ると、プリマス植民地の総督であったウィリアム・ブラッドフォードの子孫であり、一家はアメリカにおけるイギリス人入植の礎となる物語と深く結びついている。田舎の環境で育ち、先祖の遺産である植民地時代の忍耐と愛国的な勇気の物語に囲まれていたミラーは、アメリカの歴史物語に早くから魅了され、それが彼をこの地域での正式な教育へと駆り立てた。地元の学校で初等教育を受けた後、コネチカット州ハートフォードのトリニティ・カレッジに通い、その後バージニア州レキシントンのワシントン・アンド・リー大学に編入した。法学を専攻し、1901年に法学の学位を取得して卒業した。北部出身の彼が南部の歴史的視点に触れた経験は、アメリカ史に対する彼の理解を深めた。母方の祖先がプリマス植民地総督ウィリアム・ブラッドフォードであるなど、家族の愛国的な家系の影響を受け、ミラーは学問において歴史と文学を重視し、後の歴史的著作活動への準備を整えた。彼の最も影響力のある出版物である『南北戦争の写真史』(1911年)は、彼の指揮の下で編集された10巻からなるもので、数千枚もの当時の写真を収集し、紛争の包括的な視覚的記録を提供し、アメリカの歴史学における先駆的な作品として高い評価を得た。 同様に、公式資料を基にした8巻からなるシリーズ『第一次世界大戦の物語』(1916年)の編集者としての役割は、第一次世界大戦の進行を記録し、複雑な歴史的物語を本物のイラストと統合する彼の評判を確固たるものにした。

Civil Wa
Photographic History of the Civil War: In Ten Volumes

出版業界にとどまらず、映画製作にも進出し、サイレント映画時代の作品『脱出』(1919年)などの脚本を手がけた。この作品はヘレン・ケラーの伝記映画であり、彼がアメリカの感動的な物語に強い関心を持っていたことを示している。彼の幅広い作品には、アメリカの英雄主義、探検、伝記の探求が含まれており、『アメリカの生活からの英雄物語』(1909年)、『リンドバーグ:写真で見る彼の物語』(1929年)、『リンカーンの肖像』(1910年)などのタイトルがあり、テキストと写真を組み合わせることで、国民的遺産について一般の人々を教育し、関心を惹きつけることが多かった。ミラーの努力は、20世紀初頭のアメリカにおける視覚的歴史の普及に大きく貢献し、後世の人々が重要な出来事にどのようにアクセスし理解するかに影響を与えた。レビュー・オブ・レビューズ社が1911年に出版した記念碑的な全10巻からなる『南北戦争写真史』の編集長を務めた。このプロジェクトでは、マシュー・ブレイディなどの先駆的な写真家から提供されたものを含む、南北戦争に関する3,389枚の写真が収集され、文章による解説と統合されて、戦争の視覚的な記録としてまとめられた。各巻は、開戦時の戦闘、軍隊と指導者、騎兵隊の作戦、海戦、刑務所と病院、兵士の個人アルバム、詩的な回想など、多岐にわたる側面を網羅しており、ヘンリー・W・エルソンやウィリアム・コナント・チャーチといった著名な歴史家や権威者の寄稿も含まれている。戦争勃発50周年を記念して企画されたミラーの取り組みは、写真という主要な歴史的ツールを革新的に活用し、静的な戦場の写真を教育と追悼のためのダイナミックな媒体へと変貌させた。

Great War
Photographic History of the Great War: The New-York Tribune, 1914

兵士、野営地、武器、そして破壊の様子を描いた数千枚もの当時の写真を集約することで、この写真集はブレイディの作品に関する当時の記録にも記されているように、「戦争の恐ろしい現実と真剣さ」を伝える写真の役割を強調し、当時の時代背景を視覚的に捉える機会をかつてないほど提供した。このアプローチは、視覚的な記録と学術的な分析を融合させる初期の試みであり、写真史の先例となった。ミラーは第一次世界大戦と第二次世界大戦に関する膨大な著作を通して、現代の世界的紛争へと研究の焦点を移し、物語形式で幅広い読者層を対象とした歴史書を執筆した。第一次世界大戦に関しては、公式資料やフランシス・J・レイノルズ、アレン・L・チャーチルといった協力者からの寄稿を基に編纂された全8巻のシリーズ『大戦の物語』(1916年)を編集した。ミラーの歴史書は、南北戦争と第一次、第二次世界大戦の両方において、英雄的行為とアメリカの役割を重視し、連載形式で分かりやすく記述している。南北戦争に関する出版物で用いた写真と物語の手法を応用し、一般読者に訴えかけるとともに、20世紀の紛争における戦略的要素と人間的要素を記録している。フランシス・トレベリアン・ミラーはコネチカット州に居住し、1959年11月7日、ニューヘイブンのグリニッジ病院で82歳で死去、生まれ故郷のサウジントンのクィニピアック墓地に埋葬された。下記リンク先は生成 AI のオンライン百科事典 Grokipedia(グロキペディア)によるフランシス・トレベリアン・ミラーのバイオグラフィーです。

biography Francis Trevelyan Miller | Early life | Professional career | Major works and contributions

2026年7月11日

皇室典範改定:なぜ高市首相は愛子天皇」を潰したいのか

愛子内親王
園遊会に出席した愛子内親王と天皇皇后両陛下(2024年10月30日)赤坂御苑

皇族数の確保に向けた皇室典範改定案が7月10日、衆議院本会議で採決が行われ、自民・維新両党と中道改革連合、国民民主党、参政党などの賛成多数で可決され、参議院に送られた。改定案は参議院でも賛成が過半数に達する見通しで、今の国会で成立する公算が大きくなった。改正案は皇族数の確保に向けたもので、女性皇族が結婚後も皇室に残ることと、旧皇族の男系男子を養子に迎えられるようにすることの2つが柱となっている。しかし波乱含みであることは否めない。皇位継承を男系男子に限る1条と、女性皇族が結婚により皇室を離れるとする12条の規定を指す。1条については「これだけでは将来、皇室が絶える危険性が高い」としたうえで、12条については「皇族数が減り、皇室活動に支障をきたす」と指摘があるからだ。旧皇室典範は、大日本帝国憲法と並ぶ最高法規として1889年(明治22年)に制定された皇室の家憲である。皇位継承は「男系男子」に限られ、女性皇族の臣籍降嫁や議会の関与などを定めていた。GHQ の指令下、現行の皇室典範が公布された1947年(昭和22年)5月2日に廃止されている。第1条は「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と謳っているが、新皇室典範も全く同じである。高市首相が「日本初の女性総理大臣」になったこととあいまって、もしかしたら「愛子天皇」実現への道を開いてくれるのではないかという期待となった。彼女が以前『文藝春秋』2022年1月号で、自分は女性天皇に反対しているわけではないと述べたこともあちこちで引用され強調されたからである。 しかし例によって嘘嘘八百。自民党の中でも保守的な考えの持ち主で、 天皇は男系男子に限るという現在の皇室典範が定めている立場を堅持している。

旧皇室典範
伊藤博文 (著) 帝國憲法 皇室典範 義解: 国会図書館復刻版

そうした中で「愛子天皇」待望論の人たちにとってショックだったのは、高市首相が2月27日の衆院予算委員会で「男系男子に限ることが適切とされている」などと答弁したと報じられたことだ。さらに大きいのが、麻生太郎副総裁の存在だ。週刊誌の報道によれば現職閣僚が「皇室典範の議論については、事実上『麻生一任』というのが暗黙の了解です。その麻生さんが、養子案を強力に推し進めている。この流れに逆らえる議員などいません」と内情を打ち明けたそうである。このへんがとてもややこしいのだが、そもそも2月27日の皇室典範改定をめぐる高市首相の発言自身が、党内右派の意見に引っ張られたもので、内容に齟齬がある。あるいは間違いだという指摘もあるという。高市首相は「皇位が女系で継承されたことは一度もないんですね。ですから有識者会議の報告でもそうなっておりますけれども、皇統に属する男系男子に該当するものに限ることが適切とされています。政府としても私としても、この報告を尊重いたしております」衆院選後の特別国会で初めてとなる2月27日の衆院予算委員会でこう述べている。その一方で高市首相は「過去には男系の女性天皇がいらしたことは歴史的な事実です。過去の女性天皇を否定してしまうということは不敬にあたる」と主張。いささか行き当たりばったりの発言だが、歴史は認めるそうである。確かに日本の歴史において、即位した女性天皇は8人・10代存在する。2人が重祚(ちょうそ/じゅうそ:一度退位した君主《日本では天皇》が再即位すること)としたため、人数は8人だが、即位の回数としては10代となる。

  1. 33代 推古(すいこ)天皇(592–628年)日本初の女帝とされる
  2. 35代 皇極(こうぎょく)天皇(642–645年)後の斉明天皇(重祚)
  3. 37代 斉明(さいめい)天皇(655–661年)皇極天皇が重祚
  4. 41代 持統(じとう)天皇(690–697年)
  5. 43代 元明(げんめい)天皇(707–715年)
  6. 44代 元正(げんしょう)天皇(715–724年)
  7. 46代 孝謙(こうけん)天皇(749–758年)後の称徳天皇(重祚)
  8. 48代 称徳(しょうとく)天皇 (764–770年)孝謙天皇が重祚
  9. 109代 明正(めいしょう)天皇(1629–1643年)
  10. 117代 後桜町(ごさくらまち)天皇(1762–1770年 現在のところ最後の女性天皇)
推古天皇
日本史上最初の女帝とされる推古天皇

過去の重祚の事例。1. 皇極天皇(こうぎょくてんのう)⇒ 斉明天皇(さいめいてんのう)概要: 35代皇極天皇が退位したのち、弟である孝徳天皇が即位。しかし孝徳天皇の崩御後、655年に37代斉明天皇として再び即位しました。背景: 息子の「中大兄皇子(のちの天智天皇)」が政治の実権を握っていたが、当時の緊迫した朝鮮半島情勢に対応するため、威信のある天皇を立てる必要があったとされている。2. 孝謙天皇(こうけんてんのう)⇒ 称徳天皇(しょうとくてんのう)概要: 46代孝謙天皇として在位したのち、一度退位して上皇となった、淳仁天皇と不和になり、764年の「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」を機に48代称徳天皇として再び即位した。背景: 皇室の権力を掌握し直すためのクーデター的な要素を含んだ即位だった。

book 笠原英彦著『皇室典範―明治の起草の攻防から現代の皇位継承問題まで』中公新書(2025/1/22)