2024年3月19日

パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン

Bas-relief Frieze
Madeleine Vionnet 'Bas-relief Frieze’Dress, Paris, 1931

George Hoyningen-Huene

ジョージ・ホイニンゲン=ヒューンは1920年代から1930年代にかけて活躍した、ロシア出身のファッション写真家である。エレガントで無駄をそぎ落としたスタイルは、世界中の写真家に劇的な影響を与え、彼の作品は、20世紀で最も印象的な写真のポートレートや構図を生み出したアーティストとして、今日もなお関連性を持ち続けている。バルト系ドイツ人とアメリカ人の両親のもと、1900年9月4日、ロシアのサンクトペテルブルクで生まれた。1917年のロシア革命の最中、ホイニンゲン=ヒューン夫妻は最初はロンドン、後にパリに逃れた。パリに移り住んだ彼は、そこで有名なシュルレアリスムの写真家、マン・レイ(本名エマニュエル・ラドニツキー)の助手となり、1924年には彼と共同でファッション写真のポートフォリオを制作した。この頃のパリは芸術表現の巣窟であり、偉大な作家や芸術家たちはみな、自分たちの考えを表現する新しい方法を積極的に取り入れていた。ヒューンの仲間には、サルバドール・ダリ、リー・ミラー、ココ・シャネルをはじめ、パブロ・ピカソ、シュルレアリストのポール・エリュアール、ジャン・コクトーらがいた。ヒューンは、ファッション・イラストレーターとして名を馳せるようになる。彼の絵の師はフランスのキュビズム画家アンドレ・ロートだった。そのユニークで革新的、芸術的なビジョンにより、ファッション写真界のリーダー的存在となった。

Virginia Kent and Peggy Leaf
Virginia Kent and Peggy Leaf, Paris, 1934

シャネル、バレンシアガ、宝石商カルティエなど、パリのオートクチュール・メゾンのスタイルをいち早く撮影。瞬く間にコンデナスト社のフランス版『ヴォーグ』のチーフ・フォトグラファーにまで上り詰めた。エレガンスと洗練を見抜く彼の鋭い目と、貴族社会での動きやすさから、彼は当時最も美しい女性たちを紹介され、その多くが彼のモデルとなった。その中には、世界初のスーパーモデルであり、後にアメリカ人写真家アーヴィング・ペンと結婚したスウェーデン人ダンサーのリサ・フォンサグリーブスも含まれている。1935年、ホイニンゲン=ヒューンはニューヨークに移り、自分の名前をジョージと英語化して、コンデナストを退社し、ライバル誌のハーパーズ・バザーに入社した。彼は広範囲を旅し、訪れた多くの国について日記を書いた。

Thérèse Dorny
Film and Stage actress Thérèse Dorny, 1931

この頃、彼の落ち着きのないエネルギーと生来の創造力が、ファッション写真から映画の世界へ移ることを考えさせた。1946年、ジョージ・キューカー監督に説得され、ハリウッドで働くことになった。彼はイングリッド・バーグマン、チャーリー・チャップリン、グレタ・ガルボ、エヴァ・ガードナー、キャサリン・ヘプバーンなど、20世紀を代表する多くの映画スターを撮影した。ヒューンとキューカーは親しい友人となり、キューカーがテクニカラーという新しいメディアで初めてジュディ・ガーランド主演映画『スター誕生』(1954年)を撮影する際には、ヒューンにカラーコンサルタントを依頼したほどだ。なぜヒューンを選んだのかと尋ねられたキューカーは、写真術におけるヒューンの幅広い専門知識が、映画の技術的な問題、特に色の美学に関する問題の解決に応用できると直感的に感じたからだと説明した。

Hammamet, Tunisia
Mr. George Sebastian and his wife next, Hammamet, Tunisia, 1934

ジョージ・ホイニンゲン=の貢献は実に貴重であり、ジョージ・キューカー側の抜け目のない決断を反映したものであった。ヒューンは新しい媒体の初期の進化を開拓しただけでなく、それを完成させることにも貢献したからである。その結果、ヒューンはキューカーにとって大きな財産となり、彼らはその後、高く評価されたいくつかの映画で共に仕事をした。ヒューンはカラー・コーディネーターという肩書きを与えられていたが、実際には、ファッション撮影の生涯で身につけたスキルが活かされ、撮影プロセス全体に大きな影響を与えた。ヒューンは映像詩の形で何冊かの本を出版した。『アフリカの蜃気楼:旅の記録』(1938年)では、彼はアフリカ大陸の先住民コミュニティとつながり、尊敬の念を抱いただけでなく、彼らの文化の幅広さと複雑さを理解するという点で、従来の態度を先取りしていた。

Portrait of the Dali's
Portrait of the Dali's in L'Instant Sublime, 1939

彼の写真集『ラミー砦の女』(1938年)には、並外れた共感と人間的関心が表れている。彼は出会った無数の服装の文化的意味を理解し、その隠された象徴性を十分に認識していた。著書の序文で彼は「いつの日か、黒い大陸全体が衣服に包まれ、比較的に平凡なものになったとき、これらの文書は、組織化された人工的な世界では決して見られない形や動きの自然さを明らかにし、興味を引くかもしれない」と書いている。1947年、カリフォルニア大学で教鞭をとることになり、亡くなるなるまでその職を務めた。1968年9月12日、ロサンジェルスで他界、68歳だった。現在、彼の写真はロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ボストン美術館などに収蔵されている。なお日本初の大がかりな個展が、東京・銀座のシャネル・ネクサス・ホールで3月31日まで開催中である。

ICP  George Hoyningen-Huene (1900–1968) | Biography and Archived Items | ICP New York

二十世紀の偉大なる写真の巨匠たち

Parade of Zapatistas
Manuel Ramos (1874-1945) Parade of Zapatistas, National Palace, Mexico City, 1914

2021年の夏以来、思いつくまま、世界の写真界の「二十世紀の巨匠」の紹介記事を拙ブログに綴ってきましたが、これは2024年3月19日現在のリストです。右端の()内はそれぞれ写真家の生年・没年です。今世紀に至るまで作品を作り続けたエリオット・アーウィットやセバスチャン・サルガドなどは例外で、大多数がすでに他界しています。左端の年月日をクリックするとそれぞれの掲載ページが開きます。

21/08/12写真家ピーター・ヒュージャーの眼差し(1934–1987)
21/08/23ロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し(1923–1999)
21/09/18女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
21/09/21自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ(1910–2003)
21/10/04熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座(born 1944)
21/10/06アフリカ系アメリカ人写真家ゴードン・パークスの足跡(1912–2006)
21/10/08写真家イモージン・カニンガムは化学者だった(1883–1976)
21/10/10現代アメリカの芸術写真を牽引したポール・ストランド(1890–1976)
21/10/11虚ろなアメリカを旅した写真家ロバート・フランク(1924–2019)
21/10/13キャンディッド写真の達人ロベール・ドアノー(1912–1994)
21/10/16大恐慌時代をドキュメントした写真家ラッセル・リー(1903–1986)
21/10/17自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録(1923–1971)
21/10/19報道写真を芸術の域に高めたユージン・スミス(1918–1978)
21/10/24プラハの詩人ヨゼフ・スデックの光と影(1896-1976)
21/10/27西欧美術を米国に紹介した写真家スティーグリッツの功績(1864–1946)
21/11/01ウジェーヌ・アジェを「発見」したベレニス・アボット(1898–1991)
21/11/08近代ストレート写真を先導したエドワード・ウェストン(1886–1958)
21/11/10社会に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス(1902–1984)
21/11/13ウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった(1903–1975)
21/11/16写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグ異聞(1894–1986)
21/11/20世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパの軌跡(1913–1954)
21/11/25児童労働の惨状を訴えた写真家ルイス・ハインの偉業(1874–1940)
21/12/01写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間(1908–2004)
21/12/06犬を愛撮したエリオット・アーウィット(1928-2023)
21/12/08リチャード・アヴェドンの洗練されたポートレート写真(1923–2004)
21/12/12バウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジの世界(1923–1928)
21/12/17前衛芸術の一翼を担ったマン・レイは写真の革新者だった(1890–1976)
21/12/29アラ・ギュレルの失われたイスタンブルの写真素描(1928–2018)
22/01/10自然光に拘ったアーヴィング・ペンの鮮明な写真(1917-2009)
22/02/01華麗なるファッション写真家セシル・ビートン(1904–1980)
22/02/25抽象的な遠近感を生み出した写真家ビル・ブラント(1904–1983)
22/03/09異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌(1946–1989)
22/03/18写真展「人間家族」を企画開催したエドワード・スタイケン(1879–1973)
22/03/24キュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼(born 1933)
22/04/21社会的弱者に寄り添った写真家メアリー・エレン・マーク(1940-2015)
22/05/20写真家リンダ・マッカートニーはビートルズのポールの伴侶だった(1941–1998)
22/06/01大都市に変貌する香港を活写したファン・ホーの視線(1931–2016)
22/06/12肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたアウグスト・ザンダー(1876–1964)
22/08/01スペイン内戦に散った女性場争写真家ゲルダ・タローの生涯(1910–1937)
22/09/16カラー写真を芸術として追及したジョエル・マイヤーウィッツの手腕(born 1938)
22/09/25死と衰退を意味する作品を手がけた女性写真家サリー・マンの感性(born 1951)
22/10/17北海道の風景に恋したイギリス人写真家マイケル・ケンナのモノクロ写真(born 1951)
22/11/06アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス(1868–1952)
22/11/16大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット(1910–1990)
22/11/18人間の精神の深さを写真に写しとったペドロ・ルイス・ラオタ(1934-1986)
22/12/10アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド(1928–1984)
22/12/16没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真(1926–2009)
22/12/23写真家集団マグナムに参画した初めての女性イヴ・アーノルド(1912-2012)
23/03/25フランク・ラインハートのアメリカ先住民の肖像写真(1861-1928)
23/04/13複雑なタブローを構築するシュールレアリスム写真家サンディ・スコグランド(born 1946)
23/04/21キャラクターから自らを切り離したシンディー・シャーマンの自画像(born 1954)
23/05/01震災前のサンフランシスコを記録した写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)
23/05/03メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス(1874-1945)
23/05/05超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂(born 1943)
23/05/07家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン(born 1941)
23/05/22欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンの感性(1894–1954)
23/05/2520世紀初頭のアメリカの都市改革に大きく貢献したジェイコブ・リース(1849-1914)
23/06/05都市の社会風景という視覚的言語を発展させた写真家リー・フリードランダー(born 1934)
23/06/13写真芸術の境界を広げた暗室の錬金術師ジェリー・ユルズマンの神技(1934–2022)
23/06/15強制的に収容所に入れられた日系アメリカ人を撮影したドロシア・ラング(1895–1965)
23/06/18女性として初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
23/06/20劇的な国際的シンボルとなった「プラハの春」を撮影したヨゼフ・コウデルカ(born 1958)
23/06/24警察無線を傍受できる唯一のニューヨークの写真家だったウィージー(1899–1968)
23/07/03フォトジャーナリズムの父アルフレッド・アイゼンシュタットの視線(1898–1995)
23/07/06ハンガリーの芸術家たちとの交流が反映されたアンドレ・ケルテスの作品(1894-1985)
23/07/08家族が所有する島で野鳥の写真を撮り始めたエリオット・ポーター(1901–1990)
23/07/08戦争と苦しみを衝撃的な力でとらえた報道写真家ドン・マッカラン(born 1935)
23/07/17夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ(1899–1984)
23/07/2020世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ(1908–2002)
23/07/22メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能(1896–1942)
23/07/24ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク(born 1941)
23/08/01アフリカ系アメリカ人の芸術的な肖像写真を制作したコンスエロ・カナガ(1894–1978)
23/08/04ヒトラーの地下壕の写真を世界に初めて公開したウィリアム・ヴァンディバート(1912-1990)
23/08/06タイプライターとカメラを同じように扱った写真家カール・マイダンス(1907–2004)
23/08/08ファッションモデルから戦場フォトャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯(1907-1977)
23/08/14ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績(1907-2007)
23/08/18超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド(born 1946)
23/08/20シカゴの街角やアメリカ史における重要な瞬間を再現した写真家アート・シェイ(1922–2018)
23/08/22大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン(1915-1986)
23/08/25カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン(1912-1999)
23/09/08イギリスにおけるフォトジャーナリズムの先駆者クルト・ハットン(1893–1960)
23/10/06ロシアにおけるデザインと構成主義創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ(1891–1956)
23/10/18物事の本質に近づくための絶え間ない努力を続けた写真家ウィン・バロック(1902–1975)
23/10/27先見かつ斬新な作品により写真史に大きな影響を与えたウィリアム・クライン(1926–2022)
23/11/09アパートの窓から四季の移り変わりの美しさなどを撮影したルース・オーキン(1921-1985)
23/11/15死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品(born 1939)
23/12/01近代化により消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ(1857-1927)
23/12/15同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット(1913–2009)
23/12/20哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール(1929-2007)
24/01/08音楽や映画など多岐にわたる分野で能力を発揮した写真家ジャック・デラーノ(1914–1997)
24/02/25シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座(born 1943)
24/03/19パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)

子どもの頃「明治は遠くなりにけり」という言葉をよく耳にした記憶がありますが、まさに「20世紀は遠くなりにけり」の感があります。いわば時の流れに私たちは逆らえません。掲載した写真のほとんどがモノクロで、カラーがごくわずかのなのは偶然ではないような気がします。二十世紀のアートの世界ではモノクロ写真が主流だったからです。しかしカラーの写真も重要で、これまでにジョエル・マイヤーウィッツとシンディー・シャーマン、サンディ・スコグランド、ジャン・ボードリヤールの作品を取り上げました。

aperture  World's most famous photographers and an insight on their personal and professional life

2024年3月18日

マーガレット・バーク=ホワイト撮影のライフ誌創刊号カバーストーリー

Ruby's Place
Ruby's Place, liquor was also sold at a back bar, Fort Peck, Montana, 1936
liner
One-fourth of the Missouri River would run through this steel "liner"
bar Finis
Drinking at the bar Finis, Montana, 1936
Workers
Workers in one of the several frontier towns near the site of the Fort Peck Dam, Montana, 1936
>Bar X
Bar X, Fort Peck, Montana, 1936
worked on the construction
Men worked on the construction of Fort Peck Dam, Montana, 1936
Construction
Construction of Fort Peck Dam, Montana, 1936
>First LIFE cover November 23, 1936
First LIFE cover November 23, 1936 ©Margaret Bourke-White / LIFE

Margaret Bourke-White

アメリカのライフ誌(LIFE)は1963年11月23日に創刊された。創刊号といえば女性写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904-1971)が撮影した表紙の写真を思い起こす人が多いと思われる。ニューディール政策のひとつの事業として、ミズーリ川に建設されたフォート・ペック・ダムある。余りにも有名だが、創刊号の実物を手にしたことがないので、肝心のカバーストーリーの内容については全く不案内であった。しかし幸いなことにタイム社のページに41葉の写真と共に、マーガレットの述懐などが掲載されている。フォート・ペック・ダム建設は失業救済事業だったわけだが、活写された酒場に集う労働者の写真が興味深い。なお小型カメラによる撮影のようだが、ジゼル・フロイント著『写真と社会』(お茶の水書房)によると、ライフ誌は当初大判カメラによる撮影しか認めなかったという。この辺りの真相については再度調べてみようと思う。蛇足ながら私はかつて日本のグラフ誌の草分け、ライフ誌よりも歴史が古い『アサヒグラフ』の末席で写真を撮っていた時代があった。同誌は朝日新聞社が1923年1月25日から2000年10月15日まで刊行していた週刊グラフ誌(画報誌)である。日本における写真誌の草分け的存在で、数々の歴史的な報道や、その時代に代表される世相や風俗の特集記事を多数掲載、資料的価値も高い。大正デモクラシーから、戦前、戦中、戦後、高度経済成長、オイルショック、バブル崩壊、そして21世紀の幕開けまで、77年間の長期にわたり刊行を続けた日本を代表するグラフ誌の一つだった。しかし残念ながデジタル化されていない。自分が撮った写真がこのようにアーカイブされているライフ誌に関わった写真家たちが本当に羨ましいと思う。下記リンク先が同誌創刊号を飾ったマーガレット・バーク=ホワイトの作品アーカイブである。

LIFE  LIFE's First Cover Story: Building the Fort Peck Dam, 1936. Written by Ben Cosgrove

2024年3月15日

アイルランドの豊饒なフィドル音楽の原風景

The Enduring Magic
Robin Williamson  loupe

弦を弓で擦って音を出す、いわゆる擦弦楽器の起源に関しては諸説があるが、ブリテン諸島に現れたのは紀元前数百年、クリュース(crwyth)というハープを原型にしたものといういわれている。しかしながらこの楽器が歴史の中でいつまで受け継がれたかは不明である。一般に擦弦楽器はアジアの騎馬民族によってヨーロッパにもたらされ、各地方の民族楽器として浸透し、その後地域ごとに多種多様な発展をし多くの楽器群が出現したというのが定説のようである。フィドル(fiddle)とヴァイオリン(violin)は今日では楽器としては全く同じものを指すが、フィドルのほうが歴史が古く、ヨーロッパではレベック(rebec)あるいはレバブ(rebab)などを経てヴィオール属、ヴァイオリン属の楽器に変遷したといわれている。16世紀にほぼ完成されたスタイルで突如出現したイタリアのヴィオリーノ(小さなヴィオラ)がヴァイオリンである。似たような楽器だったがネックが丸く単音を弾けるようになったことなどから、ヴァイオリンがフィドルにとって代わる。そしてフィドルという言葉自体は、クラシック音楽のヴァイオリンと区別する形で、民俗音楽系の総称になる。アイルランド音楽ではいろいろな楽器が使われているが、昔から使われてきた楽器は、フィドルとイリアンパイプ、それにハープの3種類である。ヨーロッパではケルト系のアイルランドやスコットランドの、そして東欧系のロマ族すなわちジプシーのふたつ奏法に大きく分けることができるだろう。アイルランドからの移植者がアメリカに持ち込んだフィドルはカントリーやブルーグラス音楽の花形楽器になる。ちょっと扇情的な響きがするからだろうか、ときに「悪魔の箱」と呼ばれたりする。それではそのフィドルはいつごろアイルランドに伝わったのだろうか。スコットランドのロビン・ウィリアムソン(1943年生まれ)の "English, Welsh, Scottish and Irish Fiddle Tunes"(イングランド、ウェールズ、スコットランドおよびアイルランドのフィドルチューン)にその背景が記述されている。フィディル(fidil)という言葉がアイルランドの詩 "Fair of Carnan" に現れたのは8世紀ごろだという。

Map of Ireland

次に十字軍の時代(1096-1291)に現れたのが冒頭に上げたレベックである。別の史料としてアイルランドの放送ジャーナリストのフィオヌアラ・ウィルソンがアルスター・スコッチ協会のサイトにちょっと注目すべき論文を寄せている。彼女は1989年、アルスターの大学で音楽を勉強する間にアントリムで録音を含めたフィドルに関するフィールドワークをしている。論文の中で彼女は、現在とは形や大きさが違うだろうが、この地域にフィドルあるいはフィドラ(fidula)が11世紀に入ったと書いている。フィドルあるいはフィドラがすぐに引っ張りだこになった理由としてダンスからの希求であったという説明は説得力がある。それまでのパイプより息切れせずに長い間演奏できたからだというのだ。英国の支配によって苦しめられたアイルランドの農民にとって、ダンスが最大の愉しみであったことは容易に理解できるし、フィドルが急速に普及した点も容易に理解できる。製作技術の向上により安価で手に入るようになったこと、そして比較的小型の楽器だったので、持ち運びに便利だったことも大きな理由になったと想像される。ジャガイモの収穫期には労働者が行き交い、スコットランドとの曲目の相互伝播も盛んになったようだ。フィドルが農民にとっていかにポピュラーな楽器だったということは、アメリカ近代絵画のジョージア・オキーフ(1887-1986)の伝記からも伺い知ることができる。父親がアイルランドの小作農で、アメリカに入植してからもフィドルを手放すことはなかったようである。

Tommy Makem and the Clancy's website
Jack Makem (pipes) Tommy Makem (piccolo) Peter Makem (fiddle) ca.1954

アイルランドのダンス音楽における変遷で重要なのは、曲作りがペンおよび紙の上ではなく楽器自体で行われたことである。楽器を使った作曲は楽器そのものが持つ特性が直接影響を及ぼします。従ってパイプで作られた曲とフィドルで作られた曲はそれそれが特徴を備えているといえそうだ。クラッシックのヴァイオリン演奏家は左指をハイポジションに移動する必要があり、従って楽器を顎で支えます。ところがアイルランドのフィドラーはほぼ第一ポジションにとどまる演奏をしたため、極端な場合、楽器を腕まで下げて演奏した。がっちり確保する必要のない自由さはアイルランド特有のフィドルチューンを醸造したといえなくもない。この演奏法はアメリカのフィドルチューンに引き継がれた。アイルランドの伝承音楽は半ば閉塞状態にあった農村社会でゆるやかに蓄積されてゆく。その豊饒ともいえる伝承に変化を与えたもの、それは20世紀初頭のレコードとラジオの出現である。新しい伝達手段は居ながらにして他の地域の音楽を入手できるようになった。それはある意味では、その豊饒なる伝承の共有としては素晴らしいものがあるのだが、一方、地域独自のスタイルが斜いてしまったという弊害も否定できない。スライゴーに生まれ育たなくても、マイケル・コールマン(1891–1945)のようなスライゴー・プレーヤーを模倣するフィドラーの出現を可能にしてしまったのである。時計の螺旋を逆に巻くことは不可能だ。しかし逆にメディアの発達により、私たちは世界中の素晴らしい民俗音楽の手に入れることができるようになった。そして時系列の中でメディアが貴重な記録作業をしていることも忘れてはならないだろう。なお7下記リンク先の動画共有サイト YouTube でマイケル・コールマンの演奏を鑑賞できます。

YouTube  Michael Coleman: Bonnie Kate / Jenny's Chickens (Decca 12015) New York, Nov. 9, 1934