2019年8月28日

小説『ダイヤモンド広場』の深遠

Envelat Plaça del Diamant 1955 de Francesc Català-Roca

岩波文庫(2019年8月)
ピアニストの原沢未来さんが Facebook にポストしてくれた情報を読んで、8月21日、田澤耕訳『ダイヤモンド広場』(岩波文庫)が出版されることを知った。うっかり見逃すところだったが、発売と同時にネット通販で購入した。バルセロナ生まれのスペイン人小説家、マルセー・ルドゥレダ(1908–1983)が1960年に亡命先のジュネーヴで書いた作品で、世界 39 以上の言語に翻訳されている、カタルーニャ文学の代表作である。スペイン内戦前から戦後のバルセロナを舞台に、ひとりの女性の愛のゆくえを描いている。1970年代に日本でも翻訳出版されているが、いずれもフランス語訳からの重訳で、初めてカタルーニャ語から直接訳されたことになるという。
「私の意見では、内戦後にスペインで出版された最も美しい小説である」「初めてこの小説をスペイン語訳で読んだとき、私は目がくらむような衝撃を受けた。そしてそれから何度読み直したことか。そのうち何回かはカタルーニャ語で読んだのである」「たぶん、ルドゥレダは、私が知り合でもないのに訪ねて行った唯一の作家だと思う」
これは訳者あとがきに引用されている、ノーベル賞作家のガブリエル・ガルシア=マルケス(1927–2014)の言葉である。ガルシアは南米コロンビアに生まれ育ったが、ルドゥレダを訪ねたのは、彼がバルセロナのサリア地区に住んでいた頃だろう。ダイヤモンド広場はバルセロナのグラシア地区にあるが、主人公のナタリアは祭のダンス会場で、婚約者がいるにも関わらず、家具職人のキメットに口説かれた。かくして物語は始まる。
私はほとんど無意識に、私、踊れないから、と言いながら振り向いた。顔がぶつかりそうなくらい近くにあったんで、どんな顔だかわからなかったけど、ともかく男の子顔だった。かまやしないさ、と彼は言った。俺はうまいんだ、教えてやるよ、って。
Plaza & Janés (2005/2)
キメットはナタリアをクルメタ(小鳩)と呼んだ。むっとして「私の名前はナタリアよ。私の名前はナタリア」と叫ぶと「君の名前はクルメタ、小鳩ちゃん、それしかあり得ない」と笑い飛ばす。この鳩はひじょうに重要で、ルドゥレダはこの『ダイヤモンド広場』を、1959年に「クルメタ」という題名で書き始めたという。キメットがアパートの屋上に小屋をって飼い始めるが、やがて部屋の中に侵入して棲むようにようになってナタリアを悩ませる。冒頭に触れたように、通奏低音としてスペイン内戦の影が常に流れている。彼女は夢と人生が戦争によって打ち砕かれた女性だったのである。スペイン内戦を舞台にした小説としては、アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)の長編小説『誰がために鐘は鳴る』が脳裡を走る。代表作であり傑作だが、アメリカ人の目線で描いた作品であることは否めない。当のスペイン作家の作品は極めて少ない。スペイン内戦でマヌエル・アサーニャ(1880-1940)率いる、左派の人民戦線政府を打倒し、カウディーリョ(総統)として以後30年以上にわたって、フランシスコ・フランコ(1892-1975)が独裁政権を敷いたという、政治的な事情もあったからだろう。グラナダ生まれの作家、フランシスコ・アヤラ(1906-2009)著、松本健二/丸田千花子訳『仔羊の頭』現代企画室(2011年)は珍しい例かも知れない。スペイン内戦を内側からえがいた短編集で、内戦の残酷さと悲惨さを、市井の視線で浮き彫りにしている。左の『マルセー・ルドゥレダとその時代』(2005年2月)は、詩人で文芸評論家のマルタ・ペサロドナによる伝記だが、日本でも Amazon で入手可能である。スペイン語教室に通ったことがあるが、結果は三日坊主。ましてやカタルーニャ語は遠い世界、購入しても私には手におえない無用の長物になるだろう。邦訳の出版を期待したいけど、叶わぬ夢に終わりそうだ。
キメットが家にいるあいだは遠慮していたのだ。そして、何週間もしないうちに、戦争は負けるよ、って言った。敵が合流して一つになったら、こっちは負けたのも同然、あっちは勝ったも同然だよ、連中はあとは押しに押せばいいんだから。
人民戦線軍に加わり消息が不明になっていたキメットが、食料調達のため帰ってきた。ナタリアが「鳩たちはみんないなくなった」と言うと「戦争さえなけりゃ、今ごろ、上まで産卵所になっている小さな家を建てるだけどな」とキメットは答える。そして「今にすべてがうまく行くさ、こっちへ戻ってくる道すがら、たくさんの農家があったんだけど、みんな山ほど食べ物をくれるんだ」と付け加える。三日間家にいたがアラゴン戦線に戻った。そこでキメットは戦死するのだが、フィクションと分かっていても、この下りを読むのは辛かった。小説のネタバレはご法度、特に結末が意外な展開する場合は。だから、これ以上、あらすじを追うのは控えたほうが賢明なようだ。尻切れトンボ気味だけど、そろそろパソコンのキーボードから指を離そう。ぜひ手に取ってその深遠に触れて欲しい一冊だ。上に掲げた写真は、カタルーニャのヴァルスで生まれた、20世紀スペインを代表する写真家、フランセスク・カタラー=ロカ(1922-1998)が写したダイヤモンド広場である。ルドゥレダが執筆を始める4年前の1955年に撮影された作品で、ダンス会場の賑わいが活写されている。

2019年8月24日

安倍官邸 "素人外交" の危険

亀裂が入ったまま泥沼と化した日韓外交

韓国大統領府は今月22日、日韓で防衛秘密を共有する GSOMIA(軍事情報包括保護協定)を破棄することを決めた。平静を装っているが、打つ手がない安倍官邸は、さぞかし動揺しているに違いない。軍事に関しては不案内だが、韓国の文在寅大統領の思惑を考察してみた。文大統領は北朝鮮からの避難民の息子として生まれ、弁護士として市民運動や人権運動に参加したという経歴を持つ。彼が朝鮮半島の南北統一を目指し、金正恩朝鮮労働党委員長に秋波を送り続けていることは、ご存知の通りである。その目的が成就すれば「北の脅威」は消滅、ソウルがミサイル攻撃によって火の海になるという懸念がなくなる。またアメリカにとっても脅威でなくなるので、朝鮮半島から米軍は撤退するだろう。そして中国、さらにロシアに寄り添って経済の建て直しを図ろうとするに違いない。それには再び北朝鮮を韓国に振り向かせる必要がある。つまり「韓国の敵は日本である」というシナリオを通すため、日韓 GSOMIA 破棄という英断を下したのではないだろうか。筋書き通りになれば、東アジアで日本は孤立する。古谷有希子氏が Yahoo! ニュースに投稿した「日韓関係の悪化は長期的には日本の敗北で終わる」が炎上、議論を呼んだが、どうやら現実味を帯びてきた。昨日、朝日新聞 AERA dot.が「文在寅の禁じ手『GSOMIA破棄』の狙いは "安倍外し" 素人集団の官邸外交に打つ手なし」という記事を掲載した。安倍官邸は外交の主導権を外務省から奪い、経済産業省出身の官僚が牛耳っている。そして「外交の安倍」を謳いながら対ロシアなど、数々の失政を繰り返している。AERA dot.は「"素人外交" 失敗のツケは、最後は国民がかぶることになる」と結んでいる。まさにその通りである。

2019年8月23日

映画 "Daily Bread" の日本公開を熱望


Jan Ruff O'Herne (1942)
これはオーストラリアのルビー・チャレンジャー制作主演の映画 "Daily Bread" のプレゼンテーション写真である。昨年11月、ワシントンDCで開催された「慰安婦国際映画祭」で公開された作品で、オーストラリアの人権活動家、ジャン・ラフ・オハーンをテーマにしている。ジャンは第二次世界大戦中の1944年、オランダ領東インド起きた、スマラン慰安所事件で日本軍により強姦され、売春を強要されたオランダ人女性の被害者のひとりで、今月19日に他界した。実はルビー・チャレンジャーは、ジャンの孫娘で、写真を見るとそっくりである。1990年代初頭、ジャンは50年の沈黙を破って自らの体験を公表した。彼女は戦時中の女性の権利の擁護者であり、25年の間、ワシントンDCの議会を含む、世界中の公聴会で講演を行ってきたのである。映画を見ていないので詳細は不明だが、オーストラリアとインドネシアの映画製作者の交流フォーラム ReelOzInd! で、質問に次のように答えている。「祖母が《複雑な女》であることを明るみにすること、そして歴史が戦勝者によって書かれてる点を問い糺すことです。日本兵を悪魔化しようとするのではなく、司令官の性格を通して彼らを人間化したいと思ったのです」云々。予告編を見ると、毛がふわふわの愛猫を抱いた司令官が登場するが、彼がキーパースンであることを暗示している。一体どんなストーリーなのか興味深い。安倍晋三を筆頭に、歴史修正主義者が跋扈する現代日本、スマラン慰安所事件という忌まわしい史実を、再認識する必要がある。右翼勢力の反発が予想されるが、一刻も早い日本公開を熱望する。

2019年8月22日

進化するガラパゴス携帯

AQUOS ケータイ 3

従来型携帯電話端末を俗に「ガラケー」と呼ぶ。ご存知ガラパゴス諸島がその語源だが、日本列島独自の進化を続けている。スマートフォンと比べると機能が少ないので、逆に次のようなメリットが考えられる。
  1. 充電池の長時間駆動
  2. 脱ソーシャルメディア
  3. 低ランニングコスト
メインメニュー画面
私はこの春にスマートフォンを捨て、シャープの「AQUOS ケータイ3」を購入した。約四カ月間使用して痛切に感じるのは、やはり電池が長持ちすることだ。テレビを観るわけではないし、通話と時計代わりに時刻を見る時しか使わないからだろう。そして重要なのは、電池を自分で交換できることだ。スマートフォンの電池は薄い帯状で、市販されていない。だから交換には「修理費用」がかかる。見逃すことができないのは、ソーシャルメディア離れすることができることだろう。これを米国では Social Media Detox(ソーシャルメディア依存症回復)と呼んでいる。スマートフォンがなければ、インスタ映えする場所を求めてウロウロすることをしなくなるし、飲食店で食べ物を撮影するというような、余計なことはしなくなる。そして人はやがて、電車やバスの中では黙想、あるいは書籍を広げるようになるのである。さらにスマートフォンが無駄だと思うのは、使い放題のデータ通信料が、大手3社とも月額 5,000 円を超えることだ。機種代金も当然のことながら高価で、アップル社製 iPhone の上位機は 10 万円以上もする。おいそれと手が出せないし、実に勿体ない。ところで私にはまるで縁がないのだが、コミュニケーションアプリ LINE を必携ツールにしている人が多い。実は「AQUOS ケータイ 2」では使えたそうだが、3 の OS は Android でないので対応していないそうだ。その代わりということではないのだが、Wi-Fi 接続が可能だ。またパソコンと USB 接続してデータなどのやりとりを行ったり、充電したりすることができる。携帯電話端末のファイルの可視化は、操作ミスを犯す可能性がある。しかし撮影した写真や画像を簡単に取り出せるので、やはり便利な機能だ。画像といえばユーザーには無縁と思われるが、スクリーンショット(上図)ができる。たぶんこれは操作説明書を作るために、メーカーが設定した機能かも知れない。このようなスマートフォン用の OS や半導体部品を転用して開発された携帯電話端末を「ガラホ」と呼ぶそうだ。絶滅危惧種ではない。

PDF  AQUOS ケータイ 3 取扱説明書の表示とダウンロード(PDFファイル 18.9MB)

2019年8月20日

テキストエディタ Mery の軽量軽快に痺れる


ずいぶん昔になるが、一時 Mac ユーザーだった時期がある。デスクトップ機のほかに互換機 PowerBook 2400c を持っていたから、1997年ごろ、今から20年以上前のことになる。しかし結局 Windows に戻ったのだが、その最大の理由はテキストエディタだったと記憶している。私の知識不足もあったかも知れないが、使いやすい Mac 用のエディタに出会わなかったのである。MS-DOS 時代から私は MIFES を使っていたが、その Windows 版を再び使うようになり、今日に至っている。当時、作成ソフトではなく、エディタで直接タグを打ってウェブページを作っていた。その場合、例えば MIFES が持っていた、複数の文字列の連続置換機能が便利だった。この機能はブログ作成にも力を発揮する。すなわちデータをインポートしてブログなどに掲載する場合、加工が容易だからだ。ところで MIFES の最新バージョンは、2015年にリリースされた 10 で、現在は 2018 年に更新され、10.03 になっている。Windows10上で問題なく動いているので特に不満はないが、他のエディタを調べてみた。星の数ほどとは言えないものの、かなりの数のテキストエディタが存在している。目に止まったのがフリーウェアの Mery だった。作者自身はその特長を「Mery はシンプルなテキストエディタです。Mery では日記、恋文、新聞記事、ソースコードなどのあらゆるテキスト文書を簡単に編集することができます。また、HTML、Java、PHP、SQL などの様々なプログラミング言語の色分け表示も可能です」と説明している。MIFES も持っている機能だが、タグが色分けされるので HTML の編集がしやすい。Windows に搭載されている「メモ帳」の拡張多機能版と言えそうで、とにかく軽量軽快、シンプルなソフトである。テキストエディタを使っていない人に超おススメである。当初は mEditor だったそうだが、Mery はエディタを連想し難い名称である。蛇足ながらこの一文は Mery で作成した。

2019年8月14日

マッカーサー元帥の椅子に座った

マッカーサー記念室(東京都千代田区有楽町)1986年8月8日

昭和天皇と会見(米国大使館)
連合国最高司令官総司令部(GHQ)は1945月15日、東京・日比谷の第一生命館を接収した。第一生命社長室として使われていた6階の部屋に最高司令官 (SCAP) に就任したダグラス・マッカーサー(1880-1964)の机と椅子が置かれた。1952年に返還され、そのまま「マッカーサー記念室」として保存されて今日に至っている。1986年8月8日、私はこの部屋を撮影した。元帥の椅子に座っているのは私である。この部屋は、広さ約54㎡(約16坪)で、内装や調度品は、マッカーサーが使用していた当時のままだ。インテリアは英国のチューダー王朝風で、壁に飾られた2枚の絵は、英国人画家F・J・オルドリッジによってか描かれた「アドリヤ海の漁船」と「干潮」である。マッカーサーはヨット好きだったので、接収時もこの絵をそのまま飾っていたという。1946年1月25日、この部屋からか、それとも米国大使館からだったのだろうか、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀総長宛に天皇の犯罪行為の証拠なしという秘密電報を送った。天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、米国の負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。これが戦後日本政治の出発点になったことを肝に命ずるべきだろう。なお、第一生命館は1989年から1995年にかけ、DNタワー21として再開発されたが、マッカーサー記念室は内装などを変更せず、そのまま保存された。

PDF  第一生命保険「マッカーサー記念室の歴史」の表示とダウンロード(PDFファイル 368KB)

2019年8月10日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その4)

Slightly Out of Focus by Robert Capa, New Ed edition, June 12, 2001
ロバート・キャパ
怪我をしたり、殺されたりしている場面ぬきで、ただのんびりと飛行場のまわりで坐っているだけの写真では、人々に、真実とへだたった印象を与えるだろう。死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の事実を人々訴えるものである。
ボブ・ディラン
バリー・フェインステインの写真はとても好きだった。ロバート・フランクの写真を思い起こさせるね。両者に共通する荒涼とした雰囲気がね。言うまでもなく題材のせいだったけどね。バリーが写真を撮るときのアングルが好きだったな…光と影、そういったことがね。
片岡義男
女性たち、特に若くて美しい女性たちは、そのようなデザイン行為にとって、おそらくもっとも使いやすい素材なのではないだろうか。若く美しい女性がにっこり微笑している顔の写真は、ほとんどあらゆる商品の広告に使えるからだ。
ウィリアム・アルバート・アラート
大切なのは時間をかけて撮影の対象となる人々と親しくなること。言葉や身振り、声の調子を通じて、自分が信頼に値する人間であることを人々に訴える必要がある。それができなければ、目撃者になることも、その場に居合わせることもできない。
林容子
実在する被写体をできるだけ明瞭に、美しく撮るための適正なピントの調整、露出時間やアングルのなどではない。写真家ならぬ写真アーティストが写真を使って表現しようとしているのはコンセプトという目に見えない被写体だからだ。
ジュリアーノ・サルガド
父(セバスチャン)との最初の思い出は、酢酸のにおいのする暗室で現像し、写真が像を結んでいくのを見ていたことを覚えています。家族みんなで彼の仕事を分かち合いましたし、彼も家族をとても愛していましたが、いつも不在がちでしたね。
高橋周平
おそらくX線写真ほど実用的なものはないだろう。しかしあまりに実用的すぎるためか、誰も写真と思っていない節がある。
パティ・スミス
もしこれが映画なら、振り返ればそこにいる。露出計を合わせ、長い腕を震わせ、シャッターを切ろうとしている彼(ロバート・メイプルソープ)が。その直前「いいねぇ」というような眼差しを、私に向ける彼が。そしてすべては、写真の厳粛な静粛の中に溶けてゆく。
上野千鶴子
カメラのアングルを全部入れ替えて女性視点にして、男性の顔をアップに写したりというふうな形で撮りなおしたとして、それで女性が同じように興奮するだろうかと考えてみます。興奮するかもしれないけれど、でも、少しちがうのではないのかな、という気がするのです。
梅宮典子
人類は長い時間をかけて欲望を現実化してきた。周囲に集められた事物にはずっしりと重く欲望が付加されている。もう画面に人は必要ない。ファインダーをどこに向けても、どの断面を切り取っても、そこには人間が投影されているのだから。
エド・ファン・デア・エルスケン
我々の時代の非人間性を表現し提示し、来るべき世界のビジョンをカメラの目の中に、そしてプリントのマチエールの中に保持しておくことは、大型か小型かの愛すべきお喋りや、デーライトフラッシュや他の黄金律などより遥かに重要である。
辻惟雄
もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、 道釈人物を対象とするこの「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、 日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。
ウィリアム・J・ミッチェル
画像も、食刻法で画像を作ってから刷るエッチング、ネガを露光させ、現像してからプリントする写真、そしてまず画像をコード化し、それから表示するデジタル画などのように、2つの段階を経て作られるものが多い。
林宏樹
基本的に自分が人間であるから、裸の写真というより、裸体の持つ「肉体の美しさ」や「形」に、花の写真、風景写真などと同様に美の対象としての興味がある。それゆえ女性だけではなく、男性の持つ逞しい肉体の美しさも撮っている。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
望遠レンズ附きの写真機が、ここ(偵察機)では顕微鏡の役に立つ。人間ではなくて、人間の存在を示す道路や、運河や、列車や、艀船を捕捉するにさえ顕微鏡が必要なのだ。
奈良原一高
ドキュメントから出発してドキュメントに帰ってゆくのが写真の世界でもあるのだと私は思ってます。だが対象への攻めの姿勢いかんによってアクチュアル・ドキュメントを生むことが出来るのではないかと思っているのです。
フォックス・タルボット
写真家は、その撮影時に、少しも気がつかなかった多くのものを表現しているということを、おそらくずっと後になって、写真を調べてみて、発見することがしばしばある。そしてこれは写真の魅力の一つである。
スーザン・バック=モース
原理主義は、バイブルであれコーランであれ、テクストに頼り、世界を意図をもった運命として解釈する。このような解釈は、写真の物質的な痕跡を排除する。写真の意味は、大いなることばによるあらかじめの決定を乗り越えてしまう。
寺山修司
皆で写真を撮りあって遊んだ。全員で七人。皆が撮り皆が撮られることにすると、六人が並んでいる写真が七枚できることになる。写っていないひとりがつまりその写真の撮影者というわけになるわけだ。
カリン・セケッシー
生と死のあいだ、としての写真。写真は常に死を意識させる、という言い回しではなく。まだ、ともかく、ここにある、ということに対しての<生>の証拠。<あいだ>を遅延させること。
鈴木志郎康
写真を撮るというとき、一方では自分の内的な動機にこだわり、また一方では光学的な空間の把握ということにこだわっている自分がいるのがわかる。これを統一的に解釈するということが、問題としては考えられるが、私はそんな面倒なことはしたくない。
福原信三
写真の光律は、音楽のようにつぎつぎに時間的に奏でられる訳にはいかない。すなわち空間的に動くものである。それをわけもなく捕え得るということが写真術最大の長所で、時々刻々変わる光律の種々相を時々刻々撮影することができる訳だ。
エドワード・ウェストン
微妙な諧調の豊かな写真でありながら、写真としては少しも面白くないものをたくさん見ているし、また反対に、諧調は全体の画面の比較的小部分に限られていながら、本当の写真美を持っているものを見ている。
南正人
駅の人ごみを見た時、みなさんは「人がたくさん居る」と思うだろう。いっぽう、自分の卒業アルバムを見た時、みなさんの頭の中にはたくさんの友人の名前とともに、ひとりひとりの性格やいろいろな思い出が湧き出てくるだろう。この違いはどこにあるのだろう。
日高敏隆
カタクリの花にとまってみつを吸っているギフチョウの姿はとてもかわいらしく、その写真はすばらしく美しい。けれど、飛んでいるギフチョウは、ただせわしく飛ぶ蝶とみえるだけで、写真から想像する「春の女神」の優美さはない。
アイリーン・美緒子・スミス
ユージンは"integrity"(清廉潔白であること)とそれを守るための頑固さをもっとも大切にしていました。ユージンが主張するこの信念を尊重するために、私は著作権者として(入浴する智子と母)の写真を今後発表しないと決断したのです。
植田正治
モノクロームの世界こそが、自分の住むところと信じ切って、それ以外に写真は考えられないといっても過言でないぐらいに、今だに、それを主力に、ひたすら自分を賭けている毎日なのです。
オリバー・ウェンデル・ホームズ
美術家が描き落としたり、不完全に描いたりしたものを、写真は限りなく細心に注意し、そしてその映像は完全にする。たたかれて皮の黒くなった痕のない絵などは、なんてつまらないのだろう。
田中長徳
普通のクローム仕上げのM3を使っていれば、50歳過ぎのオヤジのそこそこの趣味に見られるのに、すぐにブラックペイントのM3なんかを持ち出して、ライカで「武装」しようとする悪い癖がある。
アンセル・アダムズ
ゾーンシステムは科学的なコミュティでは広く認められていません。理由は、科学者たちが、正確な物理量の実験室規格と異なるとして、イマジネーションによる形なき品質に関わるこの種の写真に関心を持たないからです。
モホリ・ナジ
写真的処理の本質的な道具はカメラではなくて、感光膜層である。そして特に写真的な法則と方法は、あらゆる材料によって、影響されて--材料の性質の明暗祖密に従って--起こる光線の効果に対する感光膜層の反応から生まれ出るのである。
ジュディス・ゴールデン
私の作品には理想化されたシンボルや仮面や幻想や現実が現れます。自我と社会と、社会が期待する役割を探っていくうち、この個人的作品が現代アメリカ文化によって形成された女性に共通する側面を写しているのではないかと思うようになりました。
レニ・リーフェンシュタール
私は女たちから身を振りほどくとラコバの反対側へ走って行ったが、そこで私に気づかず、ある少女がちょうど彼女が選んだ男性の前で踊っているところであった。興奮に震える手で露出と距離を合わせると、カシャカシャ撮り続けた。
C・A・マッキノン
ポルノグラフィはポルノグラフィ援護者の言うように、ただの人間の作る出した物、ただのシンボルではないのだ。ポルノグラフィを止めることは不可能に近いが、同時に、自由と平等を現実のものとするにはポルノグラフィを阻止することは必要不可欠のことなのである。
インカ・G・インゲルマン
1990年代、写真は最終的に芸術表現として確立していたが、同時にこの写真メディアは、デジタル化とコンピュータによる画像処理能力によって、発明以来最大の変化を遂げてきた。その変化とともに、根本的なパラダイム変換が起こっている。
安井仲治
ああ小生もいいオッサンになりにける哉です。しかし写真そのものは、だんだん若くなって来ます。旗こそ立てぬシュールのエスプリも吸収してゐる積り。ややホルモンの効きすぎかも知りませんが、凡百の未完成のハン濫を冷眼して「俺が」と思っていゐる点正に雅気満点に候はずや。

2019年8月9日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その3)

Diane Arbus by Doon Arbus, Aperture, First Edition edition, 1972
ダイアン・アーバス
奇妙なことにファインダーグラスをのぞいている時は恐いと思ったことは一度もないのです。銃を持った人が近づいてきても、ファインダーをのぞいている限り、自分が弱い存在であることなど考えもしないのです。
濱谷浩
その日の正午私は高田の市川さんの家でラジオを聞き、日本降伏を知った。私は善通寺の裏二階に駆け戻り、カメラを取り出し、本堂の前に飛びだして、真天井の太陽に向かってシャッターを切った。
アンドレ・ケルテス
写真が私の人生に影響を与えたのではなく、私の人生が写真に反映しているのだ。写真は私自身を表現する道具となった。絵画や版画や執筆以上のものがあったのだ。はじめたばかりの頃は、写真は自分自身に対する語りかけだった。
マヌエル・アルバレス・ブラボ
写真を撮っている時には、その写真のタイトルのことは頭にない。撮影の最中は、観念でなくイメージを追求しているのだから、タイトルを考えるというのはおかしなことだ。
ハリー・キャラハン
写真は重要な意味を持っているので、他の気晴らしなど余りやらない。と言っても私は行うことすべての理由を理性的に把握してわけではない。それはつまり自分が明日何をしているだろうかと考えた時の答えが分っているということだ。私は写真を撮っているだろう。
ヘルムート・ニュートン
私が欲しいのは、いかなる点でも安手の雑誌を想起させないようなモデルだ。その人ならではの特性を持った、生身の存在としての女性を望んでいる。そんな女性は完璧に整った体に及ばないかもしれない。
マン・レイ
「どんなカメラを使うのですか」と尋ねられると、「どんな絵の具と絵筆を使うのか画家に尋ねますか。どんなタイプライターを使うのか作家に尋ねますか」と答える。
エルンスト・ヘロ
映像を保持していながらそれをいまだに提示していない板の上に現れている事物が残したこのポートレイトは、魂が受け取った漠たる印象に、他者にも魂自身にもその事物をはっきりとは示さない印象に、驚くほど似てはいないか?
ケネス・ジョセフソン
ある写真を撮る必要に迫られたとしたら、私は何であれ手近なカメラを、すぐさま手にするだろう。ところが、ある種の絵柄については、ある種のカメラのほうがより適切だとはっきり言えるのだ。
浜田優
絵画における主体の表象行為が、経験的直観による継起的な手の作業であるのに対して、写真の場合、主体の役割は構図を決めてピントを絞ったところで終っていると言っていい。シャッターを切ることは、いわば我にかえるための、空虚な行為なのだ。
藤田省三
通常の写真家は完全に透明人間化することを恐れ且つ避けて何とかして自己を表現しようと工夫を凝らす。角度をつけたり、わざと暈かしたり、色をつけたり、褪色させたり、光と陰の対照を極端にしたり、して自分の眼の審美的特徴を誇示しようとする。
デュアン・マイケルズ
写真のメカニズムに関することが、写真制作のしかたに入り込むべきではない。写真を撮るという行為がそんな厄介なことであってはならないのだ。そうでないと作ることから楽しみが奪われてしまう。
ジャン=クロード・ルマニー
彫刻家は光を活用するが、彼にとってそれは第一義的なものではなく、中心的なものではない。写真家にとっては、光こそが肝心なのであり、本源的な素材は光なのである--だが、この光は、さまざまな量感を開示して見せ、量感によって調子を変える。
アラン・セイヤ
写真はどんなイマージュをもその自然の支持体から取り出し、かつ自分自身の支持体の重荷を打ち捨てて他のどんな出現圏にも、スクリーンとなるどんな表面にも備給し、それを占拠するというあの二重の性向を備えているのである。
ジョアオ・シルバ
見てみろよ。おんなじような写真撮ってて、あいつの前にたまたまハゲワシが降りてきて、そんでもってポーンとピュリッツァー賞。俺の前には何も降りてこなくて、はい、普通のボツ写真。ま、そんなもんよ。
ウィリアム・アレン
美しく、悲しみに満ちたこの少女のまなざしは、私たちの魂に訴える。果たして少女は生き延びたのだろうか? この写真を撮った写真家は何度も彼女を探したが、手がかりはなかった。少女の行方は永遠に分からないかもしれない。
E・O・ウィルソン
カメラは(火星の)クリュセ平原を、探査機の脚元から地平線までくまなく走査し、最大解像度1ミリ以下という精度でカラー映像を送ってきた。だが結果は失望すべきものだった。送られてきた風景には、どこにも植物群落らしきものは見えず、動物がレンズの前を横切ることもなかった。
パブロ・ピカソ
今日の絵画は少数者のためのファインスポーツである。しかるに写真は、かつて歌謡と舞踏において示されたのと同様の美的な力を、最も原始的な人々にさえ与えるのである。
アンリ・マティス
現在では機械的方法によって、瞬間的に写真乾板の上に、形象を固定せしめることができる。それは人間が能う限り描いたものよりも精密で正確な形象である。それゆえに、写真の誕生と共に、芸術における正確なる再現の必要が消滅した。
ドゥニ・ローシェ
モード写真が見せるさまざまな奇術の不透明さ、うわべの輝き、不変の部分--その衰弱した軍勢か? その生硬さ、メトロームの如きへつらいの身振りか? ここにあるのは、今でも我々を打ち負かし続ける純化作用、我々を憔悴させる日々のミルフィーユ、数々の命令の陰鬱なのか?
ルシアン・クレイグ
私は売春婦にモデルになってくれるよう頼んでみた。だが、売春婦に写真を撮っていいかどうか訊いてみるといい。彼女はこう答えるだろう。「あんた、私を何だと思ってんの」。これで一悶着起きた。
ヴォルフガング・ティルマンス
人々は僕が、表面的に身近なものを片っ端から写真に撮っているように言うけれど、それは違う。何回も繰り返し現れている主題というのがある。それは、自然や光や、様々な現象、観察、社会の中での「生」を考えることだと思う。
グレゴリー・コルベール
写真を撮っている間は、被写体となる動物が生息している世界に強く惹かれる。元々は人間も大自然の一部だった。だから、被写体をとても身近に感じる。ときには血縁関係があるくらいに見えるんだ。
ラルフ・ギブソン
写真のなかに三次元的な感じをどの程度出せるかで、私の表現したいことが影響を受け、またその写真がどのように知覚されるかかも変わってくることはわかっていた。だから、私は深いパースペクティブを捉えたかったのだ。
田沼武能
当時は写真の被写体に選ばれると皆大喜びでモデルになってくれました。一般の人で肖像権を言う人はいませんでした。写真は高価で自分で撮る機会が少なかったし、また、写真を悪用する人もいなかったからでしょう。
エディー・アダムス
後で分ったことだが、私がシャッターを切ったのは、ちょうど弾が発射されたときだった。そんなこと、あの瞬間には分からなかった。やつは相手の頭部を撃っていた。ベトコン兵が倒れ込み-ああいうのは見たことがない-血が1メートル以上の高さまで飛びはねた。
セルジュ・ティスロン
シャッター・ボタンを押すという動作にとって、瞬間を停止させたいという欲望は本質的なものである。しかしこの動作の意味は、世界の絶えざる運動が私たち一人一人に否応なく惹き起こす並外れたフラストレーションと切り離して考えることはできない。
矢沢栄吉
写真ってカメラのために自分を用意しなきゃいけないじゃん。だけどマイク持ってロックしていれば、用意した自分じゃなくて本音の自分が出るものね。
松重美人
(原爆投下直後)「ひどいことをしやがったな」といいながら一枚、写真を撮った。憤激と悲しみのうちに二枚目のシャッターを切るとき、涙でファインダーが曇っていたのを、今でも脳裏のどこかに、はっきりと記憶している。一息ついて時間を見たら十時半だった。
アンドレ・ケルテス
ニューヨーク近代美術館の学芸員が言うところでは「性器があればポルノだが、性器がなければ芸術だ」。これがアメリカの歓迎の挨拶だった。最終的に私は同意した。あまりにも青二才だったのだ。
和辻哲郎
だから光線を固定させ、あるいは殺し、あるいは誇大する写真には、この像(法華寺十一面観音像)の面影は伝えられないのである。
荒木経惟
要するにね、死ぬときにどんどんあれだね、子供になっていくんだよね。おっぱいとか言ったりしてね、どんどん赤ちゃんになっていくわけだな、どんどん、ね。どういう事かツーと『センチメンタルな旅』で胎児を撮っちゃったんだ、俺はね。
ウィージー
私はピカピカの真新しい1938年型のえび茶色のシェビイ・クーペを買った。それからプレスカードを取り、パトカーと全く同じ警察無線を私の車につける特別許可を署長からもらった。警察無線を持っている報道写真家は私ひとりだけだった。
ジョージ・ロジャー
いいつき合いだった。キャパの前ではずいぶん気後れしたが、それはキャパがスター写真家だったからだ。私はよちよち歩き始めたばかりだった。
安井仲治
ああ小生もいいオッサンになりにける哉です。しかし写真そのものは、だんだん若くなって来ます。旗こそ立てぬシュールのエスプリも吸収してゐる積り。ややホルモンの効きすぎかも知りませんが、凡百の未完成のハン濫を冷眼して「俺が」と思っていゐる点正に雅気満点に候はずや。

2019年8月8日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その2)

Edward Weston Nudes by Charis Wilson, Aperture, January 1, 1977
カリス・ウィルソン
エドワードも私も共通の友人、ギリシャ人のジェーン・ヴァルダの見方に対し、もっともだと思った。この世には三つの完全な形がある。それは舟の舳先であり、バイオリンであり、そして女性の体だと好んでいうのである。
ドゥニ・ローシュ
鯨たちの大きな灰色の背がいつまでも沖合で行き交っている--エイハブ船長の類は皆ずっと前に溺れ死んでしまったのだ。それはつまり、時として一枚の写真が、たった一枚の写真が「理性」を生じさせるということである。
椹木野衣
フルオートカメラを操る女子高校生の写真に素晴らしいスナップが偶然紛れ込んでいたり、単なる記録のつもりで手当たり次第撮影したもののなかに予想外の奇抜なショットが含まれていたり、ましてや事故でシャッターがおりてしまったところが意外に奇妙な効果をかもしていたりする。
池澤夏樹
ぼくは自分の写真の下手さ加減を糊塗するためにこういう大袈裟なことを言っているわけではない。下手は下手と認めた上で、なぜ人があれほど素直に写真は真を写すと信じているか、そこに関心があるのだ。
エリック・レナー
円形の穴は始まりです 出生のための原初的モチーフ、転換の場であり、象徴的に女性です。多くの古代文化の出現伝説は、先祖が最初に現れた神聖な原産地として、地球の穴か空の穴を指しています。
栗原広太
明治天皇は、どういうわけか、御写真を撮影することを御嫌いになった。随ってこれまで、正面から写真をおうつさせになったことがないと承っている。従来明治天皇の御真影として、官衙学校等に汎く下賜された御写真は、実は真実の御写真ではない。
エリオット・ポーター
アンセル・アダムズが何かを撮影するとき、彼はその対象をただちに白黒の画像として見る。だから白黒で撮影する。私はただちに色を持った画像として見る。
イモジェン・カニンガム
父は写真家を「やくざ」だと思っていたの、本当よ。「やくざな写真家になろうとしているのがわかっているのに、なぜ学校に行きたいんだ」と言ってました。ちゃんとした仕事だと思っていなかったのよ。
ローラ・ギルピン
確かにカルティエ=ブレッソンは並はずれています。けれど、もともと画家だったのですから。私は35ミリというのはアクセサリーだと思っています。大型カメラが復活の兆を見せているのは、面白いことですね。
マヌエル・アルパレス・ブラボ
視覚的芸術家のほうが、作家や哲学者よりも自由に哲学的な考えを伸ばせるように思う。鍛錬されたものではないが。写真というものは、目と心、両方を使って制作するのだ。
ウィン・バロック
写真家より画家、哲学者、科学者からより多くのものを学んだにもかかわらず、私は写真家以上のものになりたいと思ったことはない。なぜなら、写真というのはそういうもの--光のメディアだからだ。
若杉慧
写真のための旅ではなく、旅のついでに撮るのである。
リシュアン・ボジェル
重要な事件が起こったところからはどこからでも、写真、特電、記事が「ヴェ」に届き、我々の読者と全世界を結び付け、人の生活の広がりを「眼」に見せるであろう。
ロナール・E・ギャレラ
私は彼らを悩ませたいと思ってるわけではありません。私は有名人のありのままの姿をとらえてたいと思っているのです。自然でポーズをとってない姿を。これが私の言うパーパラッチ流のやり方というわけです。
パトリシア・ボズワーズ
ダイアンはアヴェドンの手法にひっかかるものを感じていた。彼のやり方はかならずしもフェアでないと思った。印画に修整を加えてぼかしたり誇張したりしているため、フィルムに写った有名人の顔が歪曲されることもあったのだ。
グイド・クノップ
海兵隊は上陸後四日間で、摺鉢山守備隊の日本軍をけちらし、山頂を占領した。ハロルド・G・シャイアー少尉率いる兵士40人は、山頂に大隊旗を立てた。硫黄島の真のヒーローたちが、星条旗に鉄の棒にくくりつけて地面に押し込んだのだ。
ローレンス・キーフ、デニス・インチ
写真がゆっくり侵食され朽ちていくのは、もしかしたら「無駄を間引きせよ」という天の声なのかもしれない。この厳しく必然的な剪定はたしかに枯れ枝を削除していく。ところが、この自然の剪定は気まぐれで、我々の価値観などにはお構いなしなのだ。
サーシャ・ストーン
我々は、写真によって、我々の時代の文化を描写する手段を持っている。ゆえに、写真に帰れ! 唯一の世界語、視覚による言葉に帰れ!
内野博子
バザンの写真論的な意義は、基本的には「写真画像の存在論」に集約されていると言えるだろう。この短い論考は、写真のメディウム的な特性と写真の受容経験との密接な関係を論じるものであり、その意味で写真の根本的な問題を扱うものである。
深川雅文
写真は、とうとうここまできた。そして、われわれもとうとうここまできた。生々しい現実からの乖離 -- ハイパーリアルへの離陸がそろそろ始まろうとしていたのである。
マイナー・ホワイト
私は写真家になれるでしょうか、そうきくと、スティーグリッツは「君は恋をしたことがあるかね」そう言った。「はい」と答えると、「なら写真家になれるだろうと」という言葉が返ってきた。
バーモント・ニューホール
近代美術館その他私が関わったあらゆる機関のおかげで様々な素晴らしい機会を与えられ、それによって写真を認めることに微力を割くことができる地位を与えられたことを、私は非常に誇りに思う。しかし、まだ始まったばかりなのだ。
ジョイス・テニソン・コーエン
言葉であれ絵画であれコラージュであれ彫刻であれ、そして写真であれ、自分史的な見解を示すことは現代女性作家のメイン・テーマになっている。それは自己を追求せざるをえない流れというものだろう。
金森敦子
その人は時計をちらりと見ると、時間がせまっているのかと聞いてきた。この辺りの石仏の写真を撮って歩いてるだけなので乗る列車は別に決めてないと答えると、少しは乾くだろうとヒーターのスイッチに手を伸ばした。
キャロル・ダンカン
ヌードは、他のテーマよりも、芸術が男性のエロティックなエネルギーに起源を持ち、そこに支えられている、ということを証明しえた。時代の「種子=精子」となる作品の多くが、ヌードであることの理由である。
鈴木和成
写真のクールさは感覚的にも確かめられる。試みに何冊も写真集を長い時間をかけて眺めてみれば、このクールさを存分に味わうことができる。これは画集では決して体験することができない特殊なクールさである。
開高健
どうして巨大魚かだって? そりゃ写真のためだよ。大きな魚ほど写真の見栄えが良い。だからだんだん大物釣りになってしまったんだよ。
福原信三
それにしても現在使っているカメラでは、自分がその時に感じた印象とは、似ても似つかないものがいつもできる。考えているうちにレンズの角度が、自分の眼の角度と合わないことに気づいた。
木村伊兵衛
カルティエ=ブレッソンのマチスその他の報道写真を突きつけられたときは、ぞっとしてすっかりまいってしまった。俺はこれを忘れていたのだ、どうしても写真の行くべき道はここにあるのだ。
フランシス・ウェイ
アカデミー派の画家や批評家たちの眼には、誰が最も罪ある者として映っているのであろう。誰が現代美術の革命家で、情け無用の水平主義者なのであろうか。写真である。
清水穣
私を空にしていけば、あるがままの世界が立ち現れるというのではない。写真の「リアル」とは、私と、私が想定している「あるがままの世界」の両方を消去してしまうのであり、この消去そのものなのだ。
ジョン・モリス
日本人もまた真珠湾攻撃によって不具にされた人の写真を見せられることはなかった。彼らが見せられたのは、上空から撮影された壮大な勝利の光景だったのである。ちょうど我々の側が国民にヒロシマ上空の美しいキノコ雲の写真しか見せなかったと同じように。
湯川豊
僕たちは南相木川の上流にいた。渓流を歩く植村(直己)の写真をとるためだった。撮影が終ったあと、僕はフライ・ロッドを手にして上流に向って歩きだした。彼が20メートルほど離れて後についてきた。
大島洋
カメラを手にして写真を撮っているときにはほとんど何も考えない。私がそう言うと、たいがい「ウソをつくな」というような返事が返ってくる。グジャグジャといろいろ考えめぐらせて撮っているに決まっている、というのである。
上野俊哉
写真が浮上しつつある。いや正確に言うとそうではない。浮上しつうあるのは写真についての言説であって写真そのものではない。
森村泰昌
世の中にステキな写真というものは確実に存在するのではないだろうか。ではなぜそれがステキに感じられたのか。「なんとなくステキだと思ってしまった」というのがほんとうのところだと思う。

2019年8月5日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その1)

On Photography by Susan Sontag, New Ed edition, September 27, 1979
スーザン・ソンタグ
最近では写真はセックスやダンスと同じくらいありふれた娯楽となった。そのことは、大衆芸術というものはどれもそうだが、写真が大部分の人にとって芸術でなくなったことを意味している。それは主として社交的な儀礼であり、不安に対する防御であり、また権力の道具なのである。
ロバート・キャパ
怪我をしたり、殺されたりしている場面抜きで、ただのんびりと飛行場の周りに座ってるだけの写真では、人々に真実と隔たった印象を与えるだろう。死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の真実を人々に訴えるものである。
アンリ・カルティエ=ブレッソン
かつては自分でプリントしていた。だからネガから何を引き出せるか完全にわかっていたわけだ。けれど、もう何年も自分でプリントしていない。観察にもっと時間を割きたいからだ。
ヴォルフガング・ウルリヒ
直接性という魅力を取り戻すために、できるだけ単純なカメラが必要とされるようになった。写真の技術武装とデジタル化に対する反動として、ロモグラフィーが1990年代に発展した。
ジャック=アンリ・ラルティーグ
幸いなことに、私はいまだに子供だ。普通、人間というのは年をとるほど衰退していくような気がする。いつまでも無邪気で楽しい子供のままでいるように努めるべきだろう。
ジョゼフ・アディスン
私がかつて見たもっとも美しい景色は、暗い部屋の壁に描かれたものであった。
酒井修一
生産停止の知らせを聞いて、日本のメーカーの技術者、とくに役職に就いていたベテラン技術者の気持ちは複雑だった。自分たちの力で日本のカメラを大きく育てたとする自負心はあったが、ライカM3を打ち負かしたという気持ちになれなかったのである。
ロラン・バルト
今日では誰もが経験することだが、私はいたるところで写真を見る。写真はこちらから求めなくとも、世界のほうから私のもとにやって来る。そうした写真は単なる《映像》にすぎず、その現れ方は来たい放題(または行きあたりばったり)である。
富岡多恵子
金もうけへのエネルギーを写真にこめて、写真をその手段にするならいざ知らず、そうでない場合の写真とはいったいなんなのだろうか。写真を撮るとはいったいなにごとなのであろうか。
セシル・ビートン
写真が写真としての価値で展示されることはなかった。わざわざ写真の展覧会をしようなどという人はほとんどいなかった。20年代と30年代、写真が受け入れられていたのはアメリカだけだった。
ブレッド・ウェストン
父(エドワード・ウェストン)はいつも身近にいて、何年もの間、一緒に旅し、一緒に撮影した。何度か同じ女の子を追いかけたことさえあった。父は私のことを兄弟と呼んだ。父と私はすばらしい仲間だったのだ。
シルヴィア・ボーベンシェン
女らしさの原理を具体化するような芸術だけが、伝統的な表現のパターンを塗り替えることができ、陳腐な表現を避け、そこに本来の姿も見えてきた。その結果、女性がアイデンティティを求めるためには非常に厄介な手順を踏まなければならなくなった。
小林美香
私にとって写真を見せながら「語る」という行為には、対象となる写真に写されているものや状態を描出したり分析したりするための言葉を選ぶことだけではなく、語る主体である私自身のことを内省するプロセスも含まれている。
谷崎潤一郎
ソノ写真機ハ写シタモノガ即座ニ現像サレテ出テ来ル。テレビデ相撲ノ実写ノ後デ、アナウンサーガ取口ノ解説ヲスル時ニ、キメ手ノ状況ガ早クモスチル写真ニ撮ラレテ出テ来ルノハポーラロイドヲ使ッテ写スノデアル
ベニータ・アイスラー
最も才能に恵まれていると認めた二人の「若者」を291で引き合わせたとき、スティーグリッツはその結果を予想だにしなかった。ジョージア・オキーフとポール・ストランドの間で初めてかわされた視線はたちまち情熱的な恋愛となって燃えあがった。
ロベール・ドアノー
暗室作業はすいぶんやるが、それは経済的な独立を失わないためだ。もちろん、あまり暗室作業ばかりやるのは馬鹿げている。暗室にいる間は町に出られないのだから。
赤瀬川原平
デジカメはたしかに、見た感じ、よく写る。でもやはり、何かしら騙されてるような気分なのは何故だろうか。暗いところでもまずは写るし、手ブレも少ないし、ピントもよく合う。でもそれは、子供騙しが大人騙しになったもの、という感じが拭えない。
J・H・ファーブル
私は息子のポル・ファーブルと協力して前版で非難された欠陥を埋めることにつとめた。この版は本書の研究の対象をなす大部分の登場者と場景を示す二百枚以上の写真で飾られることになる。その大半は自然の中で生きているものをそのまま写した。
ピーター・ウェッブ
ポルノグラフィックな写真をエロティックと感ずる人々もいるかもしれないが、ほとんどの人々は、エロティシズムをセックスにだけではなく、むしろ愛と結びつけるのであり、そして愛は、ポルノグラフィにおいては、ほとんど、あるいは全く役割を演じていない。
アラ・ギュレル
私自身と同じあるいはその前の世代の人々は、二度とあの紫色のセイヨウハナズオウの花びらに覆われた庭園の門前を通り過ぎることはないだろう。彼らは雨上がりのつるつる滑る玉石のボスポラス通りを下ることもないのだ。
ヘルベルト・バイヤー
画家、写真家、映画制作者の間に、技術とアイデアの交流があった。写真が芸術家に受け入れられ、芸術の一部と考えられるようになっていたのだ。しかし私は、親しい数人を除いて、バウハウス時代孤立していた。
土門拳
貧窮のどん底にありながらなぜ、かれらが暴動を起こさないのか不思議なくらいだった。それがマケ犬の忍従なのか、いわゆる日本人のネバリ強さななのか、ぼくにはわからない。長い圧迫の歴史が、かれらのエネルギーをどこかに閉じ込めてしまったかに見える。
東松照明
礼をいって写真を渡すと、老婆は、生娘のごとくからだをくねらせて恥ずかしがる。老婆は、食い入るようにして写真を眺める。何分も、ずーっと姿勢を崩さずに見つづける。変だな、と思って覗き込むと、老婆は、写真を上下逆にして見ているのだ。
佐貫亦男
幼児の視覚とは、低い位置から仰ぐのではなく、むしろそこから見下ろすものである。幼児のころ遊んだ街角へ何十年ぶりかに立って先のほうを眺めると、驚くほど近い。ところが幼児の記憶だと、それははるか地平線にとどくほど遠かった。
イポリット・テーヌ
我々は模写が芸術の目指すところであると結論しなくてはならないのだろうか。写真とは、線と明暗とでもって、模写すべき対象の形を、背景の前にくっきりと、この上もなく完璧に再現する技術である。
ウジェーヌ・ドラクロワ
ダゲレオタイプによる肖像をよく見てみれば、百枚に一枚も我慢できるものはあるまい。人の顔を見て、我々が驚かされたり、魅了されたりするのは、その顔形以外の何物かなのだ。機械には、我々が一目で見てとれるものを決して知覚できないのだ。
ジゼル・フロイント
ボードレールにとって写真は「物事をその外見的な形によってしか判断しない、この無教養でぼんくらな階級」を激しく非難する口実となった。写真は、芸術を何も理解しておらず実物そっくりの絵を好む大衆の虚栄を満足させる手段に過ぎなかった。
小沢健志
"写された薩摩の人々"をみると、幕末・維新の覇気と風貌とを感じさせるものが多い。やがて明治を生きる若き志士たち、西南戦争に散った旧藩士たちも多く含まれている。
名取洋之助
写真家は、写真雑誌が本舞台のように思ったりしています。写真のアマチュアや、写真を知らない人たちに、写真を撮るには芸術家の天分がなければならないような幻想を抱かせています。
ヘンリー・ホームズ・スミス
ヴァン・デレン・コークが高等教育と写真について簡単な歴史を書いているが、オハイオ大学がおそらく最初にこの過程を始めたのだと思う。ただしスティーグリッツが第一次大戦前のある時期に講座を持っていたらしいコロンビア大学は例外だ。
マン・レイ
アッジェについて、神話をつくるつもりはない。単純な男で、1900年に写真を始めたころに普通だった素材を終生使っていた。おんぼろのカメラに安物のレンズを付け、シャッターの代わりにキャップを取って撮影していた。
リチャード・ウィーラン
ゲルダは、自分自身のためにもほとんど同じようにコスモポリタン的な別名を採用した。彼女はゲルダ・ポポリレスではなく、ゲルダ・タローと名乗ることになる。その名前はパリに住む日本人の若い画家、岡本太郎から借りたものだった。
アンセル・アダムズ
ゾーンシステムは科学的なコミュティでは広く認められていません。理由は、科学者たちが、正確な物理量の実験室規格と異なるとして、イマジネーションによる形なき品質に関わるこの種の写真に関心を持たないからです。
石内都
現実を写し撮ることも写真の機能の一つであるけれど、それ以上に眼の前にあるモノを写し変える作意が、写真には満ちている。モノクロームはその作意やもしくは意図が、黒と白の間に、しとやかな一条の光を呼び起こし、漆黒の影を紡ぎ出し、見えない世界をおびきだす。
多木浩二
ヌード写真の脱性化をみてみると、近代芸術は一面では性にまつわる政治学、すなわち男と女の社会的な関係を回避することであった。もちろん写真家がこうした関係を意識していたために起こったのではない。
ジェフリー・ギルバート
戦前の日本の前衛写真と近代写真の動向は、1930年代前半までその実験的な活力を維持していた。しかし、やがてその活力と才能は、広告や出版という商業写真へと吸収されていく。第二次大戦後、出版界は大きく繁栄したが、野島の作品はこの恩恵に浴さなかった。
光田由里
野島康三のアルバムに、自分の屋敷やその庭先で、梅原龍三郎、岸田劉生、宮本健吉、萬鐵五郎らの様々な作家たちと並んで写った写真が何枚も残されている。痩せて背が高く、遠慮がちで穏やかな野島の表情は、どの写真でも変わることがない。
ヘンリー・ルース
人類が成し遂げた業績--絵画や塔や発見を見る。何千マイルも離れたものを見る、壁の後ろや部屋の中に隠されたもの、近づくと危険なものを見る。男たちの愛する女性、そして数多くの子供たち。見る、そして見ることに喜びを見いだす。見て驚く。見て教えられる。

2019年8月3日

北方領土問題の種を撒いたルーズベルト大統領


ルーズベルト大統領(1933年)
ふたりの男が掲げたプラカードには「ルーズベルトに投票するな」と書いてある。日本の東條英機(1884–1948)とドイツのアドルフ・ヒトラー(1889–1945)で、枢軸国首脳の象徴的存在だった。米国の風刺画家、アーサー・シック(1894–1951)が1944年に描いたイラストで、この時、フランクリン・ルーズベルト(1882–1945)は4期目、最後の大統領選キャンペーン中だった。その落選をふたりが願ってるだろうという皮肉が籠っている。第二次世界大戦はドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、英国、ソビエト連邦、フランス、米国、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争だった。東條、ヒトラー、そしてイタリアのベニート・ムッソリーニ(1883–1945)はファシストであり、三国同盟の中心人物だった。ルーズベルトは「戦争はしない」という公約を掲げていたが、1941年2月8日に真珠湾攻撃受け、日本への宣戦布告を議会に求め承認された。これに対し、米国の参戦を望んでいた英国首相のウィンストン・チャーチル(1874–1965)は欣喜雀躍したという。翌年の1942年2月19日、大統領令 9066 号に署名、最終的には12万人に達した日系米国人の強制収容を開始した。前エントリー「日系米国人の強制収容を記録したドロシア・ラング」で触れたが、その背景に日本人に対する人種差別的感情があった。日本に対する宣戦布告は、直接的には真珠湾攻撃だったかも知れないが、通奏低音としてレイシズムが流れていたのである。ところで社会主義国家のソ連が連合国であったことを不思議に思ったことがある。調べてみると、1939年に大戦が始まった時点では米国は参戦しておらず、またソ連もドイツと不可侵条約を結んでいたので、連合国として共同歩調はとられていなかった。

ヤルタ会談に臨んだチャーチル、ルーズベルト、スターリン
1941年6月に独ソ戦開始が開始され、8月にルーズベルトとチャーチルが首脳会談を行って大西洋憲章を発表しファシズムとの戦争という大義を明らかにし、提携が強まったのだった。ルーズベルトが容共主義者であったという点も見逃せない。戦争がが中盤に入った1945年2月、ヨシフ・スターリン(1878-1953)はクリミア半島のヤルタに、ルーズベルトとチャーチルを招き、所謂ヤルタ会談が開かれた。8日間に渡る会談だったが、ここで極東密約が結ばれた。ルーズベルトは太平洋戦争の日本の降伏にソ連の協力が欠かせないため、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を求め、千島列島をソ連領とすると提言した。ドイツと日本の降伏という勝利を見ずに、1945年4月12日に他界、従って原爆投下という歴史的汚点は刻まれなかった。1951年、サンフランシスコ平和条約を批准、日本は千島列島の放棄を約束してしまった。米国代表は「千島列島には歯舞群島は含まないというのが合衆国の見解」と発言したが、ソ連代表のアンドレイ・グロムイコ(1909–1989)第一外務次官は「千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地がない」と主張した。吉田茂(1878–1967)首相は条約受諾演説で「千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日、一方的にソ連領に収容されたのであります」「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も、終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」と述べている。これが「終戦間際のどさくさに紛れて不法占拠された」という対ロシア北方領土交渉のスタンスになった。ただ元はと言えば、ルーズベルトのソ連への対日参戦要求が発端であったことを忘れてはならない。しかも反ファシズムの旗の下での提議であったことも。

PDF
花田智之「ソ連の対日参戦における国家防衛委員会の役割」の表示とダウンロード(PDFファイル 605KB)

2019年8月2日

2019年「フォトジェニック 」京都・加西展

Kansai Professional Photographer's Exhibition 2019

大阪展(終了)
日 時:2019年7月23日(火)~29日(月)平日9:00~20:00 土日9:00~17:00(最終日16:00まで)
京都展
日 時:2019年8月14日(水)~20日(火)11:00~16:00(最終日16:00まで)
会 場:ぎゃらりー西利京都市東山区祇園町南側 京漬物西利祇園店3F・4F)075-541-8181
加西展
日 時:2019年8月26日(月)~30日(金)9月2日(月)~6日(金)8:30~17:00
会 場:加西市役所市民ホール(兵庫県加西市北条町横尾1000番地)0790-2-1110

出展者(五十音順)阿部秀行・有馬清徳・石川裕修・井上博義・岩田賢彦・岩月千佳・上田進一・上仲正寿・植村耕司・宇佐美宏・大亀京助・大久保勝利・太田眞・大塚努・大西としや・沖野豊・奥田基之・奥村宗洋・奥村喜信・落井俊一・越智信喜・小幡豊・垣村早苗・金居光由・河村道浩・川本武司・神崎順一・北井孝博・木村晃造・木村尚達・木村充宏・草木勝・クキモトノリコ・葛原よしひろ・楠本秀一・小林賢司・小林禎弘・小林達也・佐々木宏明・佐藤壽一・柴田明蘭・新極求・角山明・瀬野雅樹・瀬野匡史・高城芳治・高橋南勝・高橋正則・高畠節二・高畠泰志・髙本雅夫・高屋力・田口郁明・田中重樹・田中祥介・田中秀樹・田邊和宜・谷沢重城・富岡敦・内藤貞保・中島雅彰・中島佳彦・中村優・西岡伸太・西岡千春・西村仁見・二村海・野沢敬次・野本暉房・林巧・原田茂輝・平井豪・平田尚加・広田大右・広瀬慎也・福井一成・福島正造・福島雅光・藤井小十郎・BOCO塚本・前川聡・前田欣一・松井良浩・マツシマススム・丸山伸二郎・三浦彩乃・三浦誠・MIKI・水野真澄・溝縁ひろし・南伸一郎・三村博史・宮﨑裕士・宮田昌彦・宮本博文・宮本大希・村川荘兵衛・森澤保賢・森誠・森脇学・山本学・山本道彦・吉川英治・吉村玲一・米川浩二・林致婕

問い合わせ:フォトジェニック展事務局 06-4395-5183