2024年4月27日

20世紀のイタリアで最も重要な写真家ジャンニ・ベレンゴ・ガルディン

Railway Station, Mila
Railway Station, Milan, Italy, 1995
Gianni Berengo Gardin

ジャンニ・ベレンゴ・ガルディン(1930年生まれ)は、ルポルタージュと編集の仕事を中心に活動してきたイタリアの写真家だが、そのキャリアは書籍の挿絵や広告にも及んだ。20世紀のイタリアで最も重要な写真家で、50年以上にわたり、職人としての謙虚さと情熱を持って写真を撮り続けてきた。ガルディンは1930年10月10日にグーリア州ジェノヴァのサンタ・マルゲリータ・リグレで生まれた。1954年にアマチュア写真家としての活動を始めるまで、スイス、ローマ、パリ、ヴェネツィアに住んだ。写真は独学で、パリで他の写真家たちと2年間働きながら写真を学んだ。写真家として活動を始めた最初の年である1954年、彼の最初の写真がイル・モンド誌に掲載された。マリオ・パンヌンツィオが編集したこの雑誌は、アマチュアもプロも好んで作品を投稿した雑誌だったが、1959年まで写真は特定の写真家の作品とは明記されていなかった。この雑誌は街頭の風景や、街と田舎の両方での奇妙で皮肉な、あるいは奇怪な出会いを重視する写真美学を追求していた。イル・モンド誌に掲載された写真の3分の1以上はガルディンによるものだった。同じフレーム内に同時に行動と物体を捉える稀有な能力により、彼はパンヌンツィオが追い求めていたストリートライフに最適な候補者となった。ベレンゴ・ガルディンは後に『ドムス』『エポカ』『エスプレッソ』『シュテルン』『タイム』『ヴォーグ・イタリア』『レアリテ』『ル・フィガロ』『ラ・レプッブリカ』などにフォトエッセイを掲載した。

Nursery for Olivetti
Nursery for Olivetti Factory Workers, 1968

1962年にプロに転向し、2年後にミラノに移り住んだ。1966年から1983年まで、イタリアのツーリング・クラブで働き、イタリアや他のヨーロッパ諸国やその都市に関する書籍の写真のほとんど、またはすべてを提供した。彼はかつて、自分のキャリアの頂点を「1978年にイギリスでツーリング・クラブのために行った仕事」と表現した。「車が大好でオースチンとMGを持っていた」とも付け加えている。彼は "Istituto Geografico De Agostini"(デ・アゴスティーニ地理研究所)でも同様の仕事をした。1979年レンゾ・ピアノと働き始め、彼の建物の設計プロセスを撮影した。ガルディンは、アルファロメオ、フィアット、イタルシダー(後のイルヴァ)、オリベッティなどのイタリアの大手企業とも協力し、製品ではなく従業員の労働生活を紹介した。1990年代初頭、イタリアのロマ(ジプシー)と生活を共にし、彼らの生活を内側から表現しようとした。その結果、高く評価されている2冊の本 "La disperata allegria"(絶望的なまでの明るさ)と "Zingari a Palermo"(パレルモのジプシー)が出版された。1990年以来、写真プロジェクト「コントラスト」の代表を務めている。

Vaporett
Vaporetto, Venezia, Italy, 1960

ガルディンは80代になっても活動を続けている。イタリア最大の部数を発行する『ラ・レプッブリカ』紙からの最近の依頼は、ヴェネツィアの生態系を脅かす巨大クルーズ船の写真を撮ることだった。 ガルディンは150万枚以上のネガを収蔵する大規模なアーカイブを所有している。ミラノの FORMA 財団がネガ、プリント、文書、カメラを含むこのアーカイブを管理、その他の資料はニューヨーク近代美術館に所蔵されている。影響を受けた人物としてフランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン、ウィリー・ロニス、エドゥアール・ブバ、ロベール・ドアノー、アメリカのユージン・スミスを挙げている。ジャンニ・ベレンゴ・ガルディンは、アイデアを念頭に置いて作曲することを好む詩的ドキュメンタリー作家の偉大な世代の一人である。彼は労働者、医師、司祭、さらには放浪する音楽家など、日々の活動で社会の構造を支える人々に常に共感を抱いてきた。代表作とも言える "Vaporetto, Venezia"(ヴェネツィアのヴァポレット)は1960年に撮影されたもので、鏡張りのドアが付いたヴァポレット(水上バス)に乗っていたため、乗客は反射モザイクの中に閉じ込められている。

Arles, France
Shadow, Arles, France, 1987

日常的であると同時に乗客は普通の通勤者、エキゾチックでもあり、過剰な表現に囚われた都市のパラドックスを捉えている。「私は30歳で、ヴェネツィアのリド島に住んでいて、毎朝ヴァポレットに乗ってサンマルコにある職場まで通っていました。本当に運が良かったんです。建築写真をたくさん撮っていましたが、これは思いつきで撮った写真で、たった1枚の写真です。中央にはヴァポレットのガラス扉に映った自分の姿があり、その後ろには全身黒ずくめの男性が立っています。もし彼が白を着ていたら、この写真はうまく撮れなかったでしょう」と説明している。この写真はベレンゴ・ガルダンの写真集『季節のヴェネツィア』に掲載された。アンリ・カルティエ=ブレッソンは「この写真はこれまでに撮影された写真の中で最も重要な80枚にランクされている。フレーム内に視線とフレームが同居するこの写真は、ベラスケスのイリュージョンを彷彿とさせる。

Pilgrimage
Pilgrimage to El Rocìo, Andalusia, Spain, 1992

異空間と人物の卓越したカメラ内モンタージュであり、フランスのルポルタージュ派(ドアノー、ブバ、ロニス)、ラ・ゴンドラと呼ばれるヴェネツィアの写真家グループ、ユージン・スミスの白黒の力強い描写など、この写真家が複数の芸術的影響を受けたことを示唆している。1950年代末、この新しいタイプのルポルタージュは、社会的ドキュメンタリーと写真家の主観的な世界の探求を調和させるように見え、戦後多くのイメージ・メーカーを分裂させていた形式と内容に関する論争に終止符を打った」と称賛している。1994年、イタリアのジプシー・コミュニティのルポルタージュ"Disperata Allegria - vivere da Zingari a Firenze"(絶望的なまでの明るさ--フィレンツェでジプシーとして暮らす)でオスカー・バルナック賞を受賞。2008年10月、ニューヨークで写真家としての功績が認められ、"Lucie Award for Lifetime Achievement"(ルーシー生涯功労賞)を受賞した。2009年5月、ミラノ国立大学で歴史と芸術批評の名誉学位を授与された。

Still Film  Gianni Berengo Gardin (born 1930) | Art Works | Biography | Peter Fetterman Gallery

二十世紀の偉大なる写真の巨匠たち

New Mothers
Sally Mann (born 1951) The New Mothers, Lexington, Virginia, 1989

2021年の夏以来、思いつくまま、世界の写真界の「二十世紀の巨匠」の紹介記事を拙ブログに綴ってきましたが、これは2024年3月27日現在のリストです。右端の()内はそれぞれ写真家の生年・没年です。今世紀に至るまで作品を作り続けたエリオット・アーウィットやセバスチャン・サルガドなどは例外で、大多数がすでに他界しています。左端の年月日をクリックするとそれぞれの掲載ページが開きます。

21/08/12写真家ピーター・ヒュージャーの眼差し(1934–1987)
21/08/23ロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し(1923–1999)
21/09/18女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
21/09/21自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ(1910–2003)
21/10/04熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座(born 1944)
21/10/06アフリカ系アメリカ人写真家ゴードン・パークスの足跡(1912–2006)
21/10/08写真家イモージン・カニンガムは化学者だった(1883–1976)
21/10/10現代アメリカの芸術写真を牽引したポール・ストランド(1890–1976)
21/10/11虚ろなアメリカを旅した写真家ロバート・フランク(1924–2019)
21/10/13キャンディッド写真の達人ロベール・ドアノー(1912–1994)
21/10/16大恐慌時代をドキュメントした写真家ラッセル・リー(1903–1986)
21/10/17自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録(1923–1971)
21/10/19報道写真を芸術の域に高めたユージン・スミス(1918–1978)
21/10/24プラハの詩人ヨゼフ・スデックの光と影(1896-1976)
21/10/27西欧美術を米国に紹介した写真家スティーグリッツの功績(1864–1946)
21/11/01ウジェーヌ・アジェを「発見」したベレニス・アボット(1898–1991)
21/11/08近代ストレート写真を先導したエドワード・ウェストン(1886–1958)
21/11/10社会に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス(1902–1984)
21/11/13ウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった(1903–1975)
21/11/16写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグ異聞(1894–1986)
21/11/20世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパの軌跡(1913–1954)
21/11/25児童労働の惨状を訴えた写真家ルイス・ハインの偉業(1874–1940)
21/12/01写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間(1908–2004)
21/12/06犬を愛撮したエリオット・アーウィット(1928-2023)
21/12/08リチャード・アヴェドンの洗練されたポートレート写真(1923–2004)
21/12/12バウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジの世界(1923–1928)
21/12/17前衛芸術の一翼を担ったマン・レイは写真の革新者だった(1890–1976)
21/12/29アラ・ギュレルの失われたイスタンブルの写真素描(1928–2018)
22/01/10自然光に拘ったアーヴィング・ペンの鮮明な写真(1917-2009)
22/02/01華麗なるファッション写真家セシル・ビートン(1904–1980)
22/02/25抽象的な遠近感を生み出した写真家ビル・ブラント(1904–1983)
22/03/09異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌(1946–1989)
22/03/18写真展「人間家族」を企画開催したエドワード・スタイケン(1879–1973)
22/03/24キュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼(born 1933)
22/04/21社会的弱者に寄り添った写真家メアリー・エレン・マーク(1940-2015)
22/05/20写真家リンダ・マッカートニーはビートルズのポールの伴侶だった(1941–1998)
22/06/01大都市に変貌する香港を活写したファン・ホーの視線(1931–2016)
22/06/12肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたアウグスト・ザンダー(1876–1964)
22/08/01スペイン内戦に散った女性場争写真家ゲルダ・タローの生涯(1910–1937)
22/09/16カラー写真を芸術として追及したジョエル・マイヤーウィッツの手腕(born 1938)
22/09/25死と衰退を意味する作品を手がけた女性写真家サリー・マンの感性(born 1951)
22/10/17北海道の風景に恋したイギリス人写真家マイケル・ケンナのモノクロ写真(born 1951)
22/11/06アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス(1868–1952)
22/11/16大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット(1910–1990)
22/11/18人間の精神の深さを写真に写しとったペドロ・ルイス・ラオタ(1934-1986)
22/12/10アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド(1928–1984)
22/12/16没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真(1926–2009)
22/12/23写真家集団マグナムに参画した初めての女性イヴ・アーノルド(1912-2012)
23/03/25フランク・ラインハートのアメリカ先住民の肖像写真(1861-1928)
23/04/13複雑なタブローを構築するシュールレアリスム写真家サンディ・スコグランド(born 1946)
23/04/21キャラクターから自らを切り離したシンディー・シャーマンの自画像(born 1954)
23/05/01震災前のサンフランシスコを記録した写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)
23/05/03メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス(1874-1945)
23/05/05超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂(born 1943)
23/05/07家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン(born 1941)
23/05/22欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンの感性(1894–1954)
23/05/2520世紀初頭のアメリカの都市改革に大きく貢献したジェイコブ・リース(1849-1914)
23/06/05都市の社会風景という視覚的言語を発展させた写真家リー・フリードランダー(born 1934)
23/06/13写真芸術の境界を広げた暗室の錬金術師ジェリー・ユルズマンの神技(1934–2022)
23/06/15強制的に収容所に入れられた日系アメリカ人を撮影したドロシア・ラング(1895–1965)
23/06/18女性として初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
23/06/20劇的な国際的シンボルとなった「プラハの春」を撮影したヨゼフ・コウデルカ(born 1958)
23/06/24警察無線を傍受できる唯一のニューヨークの写真家だったウィージー(1899–1968)
23/07/03フォトジャーナリズムの父アルフレッド・アイゼンシュタットの視線(1898–1995)
23/07/06ハンガリーの芸術家たちとの交流が反映されたアンドレ・ケルテスの作品(1894-1985)
23/07/08家族が所有する島で野鳥の写真を撮り始めたエリオット・ポーター(1901–1990)
23/07/08戦争と苦しみを衝撃的な力でとらえた報道写真家ドン・マッカラン(born 1935)
23/07/17夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ(1899–1984)
23/07/2020世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ(1908–2002)
23/07/22メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能(1896–1942)
23/07/24ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク(born 1941)
23/08/01アフリカ系アメリカ人の芸術的な肖像写真を制作したコンスエロ・カナガ(1894–1978)
23/08/04ヒトラーの地下壕の写真を世界に初めて公開したウィリアム・ヴァンディバート(1912-1990)
23/08/06タイプライターとカメラを同じように扱った写真家カール・マイダンス(1907–2004)
23/08/08ファッションモデルから戦場フォトャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯(1907-1977)
23/08/14ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績(1907-2007)
23/08/18超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド(born 1946)
23/08/20シカゴの街角やアメリカ史における重要な瞬間を再現した写真家アート・シェイ(1922–2018)
23/08/22大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン(1915-1986)
23/08/25カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン(1912-1999)
23/09/08イギリスにおけるフォトジャーナリズムの先駆者クルト・ハットン(1893–1960)
23/10/06ロシアにおけるデザインと構成主義創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ(1891–1956)
23/10/18物事の本質に近づくための絶え間ない努力を続けた写真家ウィン・バロック(1902–1975)
23/10/27先見かつ斬新な作品により写真史に大きな影響を与えたウィリアム・クライン(1926–2022)
23/11/09アパートの窓から四季の移り変わりの美しさなどを撮影したルース・オーキン(1921-1985)
23/11/15死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品(born 1939)
23/12/01近代化により消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ(1857-1927)
23/12/15同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット(1913–2009)
23/12/20哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール(1929-2007)
24/01/08音楽や映画など多岐にわたる分野で能力を発揮した写真家ジャック・デラーノ(1914–1997)
24/02/25シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座(born 1943)
24/03/21パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)
24/04/04報道写真家として自活することに成功した最初の女性の一人エスター・バブリー(1921-1998)
24/04/20長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ(born 1962)
24/04/2720世紀後半のイタリアで最も重要な写真家ジャンニ・ベレンゴ・ガルディン(born 1930)

子どものころ「明治は遠くなりにけり」という言葉をよく耳にした記憶がありますが、まさに「20世紀は遠くなりにけり」の感があります。いわば時の流れに私たちは逆らえません。掲載した作品のほとんどがモノクロ写真で、カラーがごくわずかのなのは偶然ではないような気がします。二十世紀のアートの世界ではモノクロ写真が主流だったからです。しかしカラーの写真も重要で、これまでにジョエル・マイヤーウィッツとシンディー・シャーマン、サンディ・スコグランド、ジャン・ボードリヤールの作品を取り上げました。

aperture  World's most famous photographers and an insight on their personal and professional life

2024年4月25日

タンポポの花が咲いて日差しは黄色

タンポポの綿毛
タンポポの綿毛(京都市左京区下鴨半木町)

1980年代半ば、京都を離れた私は東京で独り暮らしをしていた。雑誌のフォトエディターなどをしていたが、仕事上では、ある意味で充実していたのかもしれない。ただやはり独り暮らしには小さな隙間があったように記憶している。そのころ発表するアテもなく作った歌のひとつがこの「タンポポの花が咲いて」だった。

タンポポの花が咲いて
日差しは黄色
あの娘はおかしく
やさしいね

バベルの塔は
目に虚ろ
線と点を
散歩する

花びらひとひら
酒に浮く
言葉の裏に
耳傾け

ランボーは不良かい
詩人は不良なのよ
墓場のダンス
月明り

白い帽子の
手鞠歌
風が吹いて
飛んでゆく

逃げる歌を
追い求め
絵の具がひび割れ
あせてゆく

1988年秋、天皇の病状が悪化した。テレビは連日「本日のご容体は…」と報じ、日本中すべてが重い自粛ムードに包まれてしまった。年の瀬の12月末、私は皇居内の宮内庁に駐車していた報道用小型バスの中で、無線電話によって大阪への転勤を命ぜられた。私の東京生活が終り、そして昭和も終わったのだった。なお上に掲げた拙作の歌詞は、下記リンク先のミズーリ州立大学のウェブサイトにコレクションされている1969年収録のフォークソング Ramblin' Round のメロディで歌うことができる。

university  Ramblin' Round | As sung by Tom Aley, Ozark, Missouri on February 8, 1969 (2:03) MSU

2024年4月23日

少年老い易くペイント学成り難し

Screen Shot
Microsoft Paint for Windows 11

前エントリー「自前のショートカットアイコンを作ろう」でペイントでオリジナルのアイコンを作成する方法はやや面倒だと書いた。私は Photoshop を常用しているが、写真修正や加工を目的としたいわば「画像編集ソフト」である。ペイントも「画像編集ソフト」であるが、コンピュータ上で画像を描く2次元コンピュータグラフィックス用のソフトウェアである。ラスターグラフィックスエディタとも呼ばれ、ラスター画像の編集用ソフトウェアである。私自身が見落とししてきたソフトウェアといえるが、少年老い易く学成り難し、ペイントについて勉強しようと思った次第である。以下は「よくある質問」に対するマイクロソフトの回答である。

ペイントとは?
ペイントは、画像や描画を作成、編集、操作できる、多彩でユーザーフレンドリーな Windows のグラフィックス編集アプリです。ペイントは、画像を簡単にトリミング、サイズ変更、描画したり、基本図形やテキストを画像に追加するのにとても便利です。AI を活用した幅広いツール 1 や、基本的なグラフィックス編集作業を行うための機能を搭載したシンプルなインターフェイスを備えています。シンプルで使いやすいペイントは、画像を素早く簡単に編集できる便利なツールです。
Windows 11 でペイントを開くには、どうすればいいですか?
Windows のスタート ボタンをクリックします。
検索バーで「ペイント」と入力し、[Enter] を押します。
これで、ペイント アプリが開きます。
フォトアプリとペイントの違いは何ですか?
フォトアプリは、主に写真と画像を表示、整理、編集するために設計されています。画像ライブラリの管理とシンプルな調整により焦点を当てています。フォトアプリでは、写真コレクションの表示と整理、画像のトリミングと回転、フィルターと基本的なエンハンスメントの適用、シンプルな動画スライドショーの作成、写真の共有を簡単に行うことができます。ペイントは、簡単な描画や基本的な画像編集作業により適しています。ペイントには、フリーハンドの描画、図形の挿入、色の塗りつぶし、画像のトリミング、テキストの追加を行うためのツールが用意されています。オリジナルのアート作品を作成したり、画像に基本的な編集を行うための、より多彩なツールです。
ペイントの新機能はどのようなものですか?
ペイントの新機能は、最新の Windows 11 アップデートに含まれています。AI を搭載したペイント コクリエーター 1 、背景除去、そしてリクエストの多かった機能、レイヤーです。ペイントのこれらの新機能は、プロのようにデジタル画像を作成したり、AI が提供するインスピレーションで創造力を輝かせることを後押しします。初心者からプロまで、ほとんどのファイル形式で、誰もがファイルを操作、管理、保存、共有できます。
ペイントを使って写真や画像を編集できますか?
はい。ペイントを使って写真や画像を編集できます。ペイントには、トリミング、サイズ変更、描画、テキストの追加、シンプルな画像調整を行うための基本的なツールが用意されています。

引用はここまでにしよう。私は撮影した写真を Photoshop で加工することには慣れているつもりである。ペイントにも背景を透明化するなどの画像編集機能があるが、主な目的は描画、すなわち絵を描くこと、画像を創造することである。これは私にとっていわばアキレス腱であり、その技量は極めて貧弱である。したがってこのソフトウェアを使いこなす自信はない。まさに少年老い易くペイント学成り難しなのである。

paint  最新バージョンの Windows 11 に搭載されたペイントで創作をもっとシンプルに | マイクロソフト

2024年4月22日

自前のショートカットアイコンを作ろう

Cliparts of People
アイコン用クリップアートを探す

ウィンドウズの場合、アプリケーションをパソコンにインストールすると、デスクトップにショートカットアイコンがおおむね自動生成される。ファイルやフォルダーのショートカットを作成したい場合はそのファイルやフォルダーを右クリック、表示されたコンテキストメニューから、デスクトップ(ショートカットを作成)をクリックすれば OK である。ただし思い通りのアイコンは生成されない。ウェブブラウザ Chrome なら、画面右上の三点「︙ 」マークから「保有して共有」を選択すれば、お気に入りのウェブサイトのショートカットアイコンを作成できる。この方法で風刺漫画サイト Cartoon Movement アイコンを作ったのだが、かなり不鮮明で、しかもグレーのデスクトップ背景に溶け込んでしまった。仕方なくロゴをダウンロードしてアイコンを作り直したことがある。ウィンドウズ 11 のペイントでオリジナルのアイコンを作成する方法は次の通りである。

  1. ペイントを起動する
  2. 「新規作成」を選択する
  3. イメージしたオリジナルのアイコンを描く
  4. 「ファイル」から「名前を付けて保存」を選択し「BMP画像」で保存を選択する
  5. 任意のファイル名をつけ拡張子を「ico」にして保存すると完成

この方法は若干面倒である。その要因は普段は Photoshop で画像編集をしているため、ペインに不慣れであるせいだと思う。というか、実は文末のリンク先「オンラインで PNG 形式の画像から任意のサイズのアイコンファイルをすばやく作成するサイト」を知ってしまったからだ。以下の手順で新しいオリジナルの「Google 連絡先」アイコンを作成してみた。左がアイコン用の元画像で 200x200 ピクセルである。

Google Contact
アイコン用元画像
Screen Shot
デスクトップに収まった Google 連絡先のアイコン

ご覧のように画像が白黒だったため Photoshop で赤色に塗り替えた。PNG 形式の画像ファイルをアイコンに変換するのサイトに移動して選択した赤色の画像ファイルをドロップ。カスタムサイズ 48x48 ピクセルを選んで変換ボタンをクリック、さらにダウンロードボタンをクリックしたら、オリジナルのアイコンが取得できた。すでにデスクトップ上にあった「Google 連絡先」アイコンを右クリックし「その他のオプションを確認」「プロパティ」と進みアイコンの変更ができた。

technology  オンラインで PNG 形式の画像から任意のサイズのアイコンファイルをすばやく作成するサイト

2024年4月20日

長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ

Three Women Selling Cigarettes
Three Women Selling Cigarettes, Saint Petersburg, 1992
Alexei Titarenko

アレクセイ・ティタレンコは1962年11月25日、ソビエト連邦のレニングラード(現ロシアのサンクトペテルブルク)に生まれた。1971年、9歳のときに写真を撮り始めた。1978年にレニングラード公立社会関連職業大学を卒業、フォトジャーナリズムの学位を取得。同年、ティタレンコは独立系フォトクラブ "Zerkalo"(鏡)のメンバーとなり、初の個展を開催した。1983年、レニングラード文化大学で映画・写真芸術の修士号を取得した。その2年後、ソ連軍に18カ月間従軍した後、兵役義務を解かれた。コラージュとフォトモンタージュのシリーズ "Nomenklatura of Signs"(記号の命名規則=ソ連時代に使用されていた公的空間における記号とシンボルの使用を規制する一連の規則)の制作を始め、共産主義体制が市民を単なる記号に変える抑圧的なシステムであることを論評し、1988年にはパリで西ヨーロッパ初の個展を開催した。また1989年、"Nomenklatura of Signs")が、全米を巡回したソビエト連邦の写真家による新作写真展『フォトストロイカ』に出品された。1991年のソビエト連邦崩壊後、彼はこの時期のロシア国民の人間的状況と、20世紀を通じて彼らが耐えてきた苦難をテーマにした写真シリーズをいくつか制作した。現在と過去のつながりを表現するため、長時間露光と意図的なカメラの動きをストリート写真に導入することで、強力なメタファーを生み出した。この時期の最も有名なシリーズは『影の街』である。セルゲイ・エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段(別名ポチョムキンの階段)のシーンを彷彿とさせる都市風景もある。

Metro Station
Vasileostrovskaya Metro Station, Saint Petersburg, 1992

ミートリイ・ショスタコーヴィチの音楽とフョードル・ドストエフスキーの小説に触発された彼は、ドストエフスキーが描いたロシアの魂を、時に詩的に、時にドラマチックに、生まれ故郷であるサンクトペテルブルクの街並みに翻訳した。ティタレンコは、1990 年代のサンクトペテルブルクでの一連の作品によって、世界中で高い評価を得た。2002年、フランスのアルル国際写真フェスティバルでは、ガブリエル・ボーレがキュレーターを務めたレアチュ美術館の "Les quatres mouvements de St. Petersburg"(サンクトペテルブルクの四つの運動)展の作品を紹介した。2005年にはフランスとドイツの合同テレビ局アルテが、ティタレンコに関する30分のドキュメンタリー "Alexey Titarenko: Art et la Maniere"(アレクセイ・ティタレンコ: アートとマニエール)を制作した。ティタレンコのプリントは暗室で巧みに作られている。

Man and Shadow
Man and Shadow, Saint Petersburg, 1994

漂白と調色により、微妙なグレーのパレットに深みが加わり、プリントは彼の経験のユニークな解釈となり、個人的かつ感情的な視覚的特徴が吹き込まれている。2011年、ロサンジェルスのゲッティ美術館におけるグループ展 "A Revolutionary Project: Cuba from Walker Evans to Now"(革命的プロジェクト:ウォーカー・エヴァンスから現在までのキューバ)でキューバのハバナ・シリーズ(2003年~2006年)かの15枚のゼラチンシルバープリントが展示された。現代のハバナにおけるストリート写真に対するティタレンコのアプローチが、1933年のウォーカー・エヴァンスの写真を、彼が撮影した被写体とプリントの側面から再現したのである。

Woman with Umbrella
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Woman with Umbrella, Saint Petersburg, 1995

2011年にアメリカに帰化し、アーティスト、写真家、プリンターとして活動している。ニューヨークでの彼の仕事は今も続いている。長時間露光と暗室技術を使い、彼の目標は依然として、イメージを創り出すときの自分の経験を表現するプリントを作ることにある。シンボルを描き、現実の暗闇からそれらを浮かび上がらせる。だから、ティタレンコのニューヨークに対するビジョンが、20世紀初頭に都市とそこに暮らす人々のダイナミズムを写真に表現しようと努めたアルヴィン・ラングドン・コバーンやアルフレッド・スティーグリッツの作品と共鳴していることは、驚くべきことではない。ティタレンコとニューヨークの関係が成長し変化するにつれ、彼が創り出す写真も成長する。それが彼の仕事のやり方の本質なのだ。

Black Cats
Black Cats, Saint Petersburg, 1997

彼の作品はサンクトペテルブルクのロシア国立美術館、ロサンゼルスのゲティ美術館、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス、ボストン美術館、オハイオ州のコロンバス美術館、ヒューストン美術館、サンディエゴ写真美術館、マサチューセッツ州のウェルズリー大学デイビス博物館、パリのヨーロッパ写真館、フロリダ州のサウスイースト写真美術館、カリフォルニア州サンタバーバラ美術館、ニュージャージー州ラトガース大学のジェーン・ボーヒーズ・ジマーリ美術館、アルルのレアチュ美術館、ローザンヌのエリゼ写真美術館など、ヨーロッパやアメリカの主要な美術館に収蔵されている。

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2024年4月17日

カタルーニャ文学の至宝マルセー・ルドゥレダの生涯

Mercè Rodoreda (1908-1983)
Mercè Rodoreda (1908-1983)

マルセー・ルドゥレダは、1908年10月10日にスペインのカタルーニャ州バルセロナで生まれた。カタルーニャ語から他の言語に最も多く翻訳されている作家であり、小説 "La plaça del Diamant"(ダイヤモンド広場)はスペイン内戦をテーマにした最も有名な作品のひとつである。1921年、叔父のジョアン・グルギ・グアルディアが一家と同居するようになった。彼女は以前受け取った手紙の影響で彼を理想化し、20歳の誕生日である1928年10月10日にボナノヴァ教会で彼と結婚式をあげた。14歳年上であり、近親婚であったため、ローマ教皇の許しが必要であった。息子のジョルディが誕生後、ルドゥレダは作家として活動を始め、1932年に処女作 "Sóc una dona honrada?(私は正直な女ですか?)を出版した。1939年1月23日、ルドゥレダは他のカタルーニャの作家や知識人たちとともにバルセロナを去り、スペイン内戦が終結する直前に亡命する。そしてアンナ・ムリア、アルマンド・オビオルス、フランセスク・トラバル、カルレス・リーバらとともにフランスのロワシー・アン・ブリーに居を構えた。第二次世界大戦の勃発後、グループは離散し、彼女はアルマン・オビオルスとともにリモージュ、そしてボルドーに移る。 この間、ルドゥレダはカタルーニャ語で詩作を続け、花の宴コンペティションに詩の作品を出品する。交際関係にあったルドゥレダとオビオルスは、1954年にジュネーブに移り住む。亡命中に書かれたルドゥレダの短編小説集 "Vint-i-dos contes"(22の短編)がビクトル・カタラ賞を受賞。

ダイヤモンド広場
岩波文庫 (2019/8/21)

1962年 "La plaça del Diamant"(ダイヤモンド広場)がバルセロナの小説クラブ社から出版された。サン・ジョルディ賞に応募されたが、受賞には至らなかった。この小説は1965年にスペイン語に、1967年に英語に翻訳された。1966年、小説 "El carrer de les Camèlies"(カメリエの道)を出版し、サン・ジョルディ賞を受賞した。執筆活動を続け "Jardi vora el mar"(海辺の庭)と "La meva Cristina i altres contes"(私のクリスティーナとその他の物語)も出版された。ルドゥレダは1972年にカタルーニャに戻り、ロマーニャ・デ・ラ・セルヴァに住む。1974年に小説 "Mirall trencat(壊れた鏡)1980年に "Quanta, quanta guerra"(戦争、あまりに多くの戦争)を出版した。そして 同年、短編集 "Semblava de seda"(まるでシルクのようだった)"Viatges i flors"(旅と花)も出版。"La plaça del Diamant"(ダイヤモンド広場)が、1982年にバルセロナのフランセスク・ベトリウ監督により映画化された。1983年4月13日、74歳でルセー・ルドゥレダはジローナで他界した。彼女の小説 "La mort i la primavera"(春の死)が1986年に遺作として出版された。1991年には彼女の名を冠した財団が設立され、1998年には文学と短編小説のためのマルセー・ルドゥレダ賞が創設される。現在までに、彼女の作品は30以上の言語に翻訳され、カタルーニャ文学の第一人者とみなされている。下記リンク先はマルセー・ルドゥレダ財団の公式サイトで、ニュースハイライトや年代記などが掲載されている。

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2024年4月13日

松浦武四郎『北蝦夷余』に描かれた樺太アイヌの鉄口琴

北蝦夷余
松浦武四郎『北蝦夷余』万延元年(1860年)

図は松浦武四郎(1818-1888)著『北蝦夷余誌』の挿絵の一枚で北蝦夷、すなわち樺太(今のサハリン)のアイヌの男が鉄口琴を奏でている様子が描かれている。鉞(まさかり)を肩に担ぎ、弁取り付け型鉄口琴をそれに押し当てた状態で弾く「鉞奏法」の貴重な史料である。武四郎は幕末から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家で、名前は竹四郎とも表記される。津軽海峡を越えて蝦夷地に渡ることは簡単なことではなかったが、武四郎は28歳ではじめて蝦夷地へ渡ることができた。函館から太平洋側の海岸線を歩いて知床岬まで行きそこに「勢州一志郡雲出川南松浦竹四郎」などと記した標柱を建てて函館に戻った。弘化3年(1846年)29歳の武四郎は、再び蝦夷地を訪れ、蝦夷地の北にある樺太の調査を行っている。嘉永2年(1849年)の第3回目の蝦夷地調査では、国後島、択捉島を詳細に調査した。アイヌの人びとに案内を頼んで調査する中で、異なる文化をもつアイヌの人びとの理解に努める。武四郎は蝦夷地調査のかたわら、アイヌ語を積極的に勉強した。そして誰から命令されたわけでもなく、個人の意志でおこなった3度の蝦夷地調査を通して、蝦夷地を支配する松前藩の圧政や、豊富な海産物に目をつけた商人たちによって、アイヌの人びとがおかれている過酷な状況を知ったのである。明治になり、政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼された。武四郎は「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられる。「加伊」はアイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で「人間」という意味である。政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」としたのである。国名、郡名についての上申書も提出、その意見が取り上げられた。その名前も蝦夷地を調査しているときにアイヌの人々から教えてもらった土地名が由来となっている。

鉄口琴
鉄口琴

口琴は古くから世界各地で親しまれてきた小型の有簧楽器で、その起源は明らかではないが、数千年前から存在していたと考えられている。一枚または複数の簧を空気の流れで振動させて音を出すが、簧の振動数によって音程が決まる。口琴は、単音のみを発音するものから、和音を出すものまで様々な種類がある。日本では古来から親しまれている雅楽の楽器である笙(しょう)や龍笛(りゅうてき)などが口琴の一種とみなされている。ヨーロッパでは、19世紀にドイツで近代的な口琴が開発された。アフリカには、様々な形態の口琴が古くから存在する。特に西アフリカでは、カリンバと呼ばれる親指ピアノの一種が有名である。アメリカ大陸には、先住民独自の口琴が古くから存在する。樺太(今のサハリン)のアイヌの鉄口琴は、ムックリと呼ばれる竹製のものよりも珍しく、独特な音色と文化的な背景を持っている。奏者は口琴を親指と人差し指で持ち、息を吹き込むようにするが、口の形や舌の動きによって音色を変化させることもできる。鉄口琴は、金属製の簧を使用しているため、他の地域の口琴よりも明るくシャープな音色が特徴である。また奏者の技量によって様々な音色を表現することができる。樺太アイヌにとって鉄口琴は娯楽や儀式の際に演奏される重要な楽器であった。また魔除けや占いなどの呪術的な目的で使用されることもあった。日本のアイヌ文化の中でも独特な存在で、その美のしい音色と力強い演奏は、聴く人を魅了した。20世紀に入ってから徐々に衰退し、現在では演奏できる人がほとんどいなくなったという。近年ではその貴重な文化を保存しようと、演奏技術の継承や研究活動が行われている。口琴を英語では Jew's harp と総称するが、ユダヤ人とは何の関係もないし、民俗差別を伴う誤解を招き兼ねない。日本語の口琴に近い Mouth harp の方が適切な呼び方であると私は思う。

PDF_BK  松浦武四郎(1818-1888)著『北蝦夷余誌』(早稲田大学図書館蔵)の表示(PDF File 13.1MB)

2024年4月12日

3台までペアリングできるワイヤレスキーボード

K480BK
Device Select Dial

前エントリー「ソーシャルメディアでスマートフォンを駆使するトランプ前大統領」で私は画面が狭いスマートフォンによるオンライン書き込みは苦手だと書いた。日本語12キーのフリック入力は一向に上達しない。若い女性が物凄いスピードで入力しているのを拝見したことがあるが、私にとっては魔法使いのようである。パソコンによるローマ字入力に慣れているので QWERTY 配列にしてみたが、文字が小さいので打ち間違いの連続でうんざりする。そこでワイヤレスキーボード K480 を導入してみた。物理的なキーボードなので打鍵しやすく、オンラインによるテキスト入力ができるようになった。目的のひとつが達成されたわけだが、この製品の真骨頂は外付けキーボードをサポートする Bluetooth 対応デバイスに接続できるため、Windows、macOS、Chrome OS、Android、iOS、iPadOSでシームレスに作業ができることである。最大3台のデバイスにペアリングできるが、左上のダイヤルを回して切替える。とはいえ私自身は Android スマートフォンとペアリングしただけである。Windows / Android ユーザーだけどアップルの Mac / iOS にも食指が動かないわけではない。Windows のキー配列と Mac のキー配列が同居した形のこのワイヤレスキーボードに興味が尽きない。下記リンク先は Manuals.Plus による取扱説明書である。

Manual  ロジクール K480 Bluetooth マルチデバイス・キーボード・ユーザーマニュアル | Manuals.Plus

2024年4月11日

ソーシャルメディアでスマートフォンを駆使するトランプ前大統領

Trump with Smaart Phone
スマートフォンを手にしたトランプ前大統領(撮影者不詳)

イーロン・マスクが買収してからの X は、有料のプレミアム会員になれば投稿編集できるようになったが、旧 Twitter 時代はできなかった。ドナルド・トランプ前大統領はその旧 Twitter 時代にスマートフォン iPhone で投稿していたが、かなり長文のテキストでも、スペリングなどの誤りがなく、私は感心して読んでいたものである。投稿内容に誤りがあった場合、削除して再投稿する、訂正投稿をする、コメントで訂正する、という三つの方法があるが、最初の方法が一番簡単である。トランプ創設したソーシャルメディアぷらっとフォーム TRUTH Social(トゥルース・ソーシャル)では、2024年4月現在、投稿の編集機能は提供されていない。

The White House Thugs should not be allowed to have these dangerous and unfair Biden Trials during my campaign for President. All of them, civil and criminal, could have been brought more than three years ago. It is an illegal attack on a Political Opponent. It is Communism at its worst, and Election Interference at its Best. No such thing has ever happened in our Country before. On Monday I will be forced to sit, GAGGED, before a HIGHLY CONFLICTED & CORRUPT JUDGE, whose hatred for me has no bounds. All of these New York and D.C. "Judges" and Prosecutors have the same MINDSET. Nobody but this Soros Prosecutor, Alvin Bragg, wanted to take this ridiculous case. All legal scholars say it is a sham. BIDEN’S DOJ IS RUNNING THE CASE. Just think of it, these animals want to put the former President of the United States (who got more votes than any sitting President!), & the PARTY’S REPUBLICAN CANDIDATE, IN JAIL, for doing absolutely nothing wrong. It is a RUSH TO THE FINISH. SO UNFAIR!
Donald J. Trump
ホワイトハウスの凶悪犯は、私の大統領選挙キャンペーン中に、このような危険で不公平なバイデン裁判を行うことを許されるべきではない。民事も刑事もすべて、3年以上前に起こすことができたはずだ。これは政治的敵対者に対する違法な攻撃だ。最悪の共産主義であり、最高の選挙妨害だ。このようなことは、かつてわが国では起きたことがない。月曜日、私は、私に対する憎悪がとどまるところを知らない、高度に対立し腐敗した裁判官の前に、ギャグを言われながら座らされることになる。ニューヨークとワシントンの「裁判官」と検事はみな同じ思考回路を持っている。ソロスのアルビン・ブラッグ検事以外、誰もこの馬鹿げた事件を担当したがらなかった。すべての法律学者が、これは見せかけだと言っている。ビデンの司法省がこの事件を動かしているのだ。考えてみてほしい。この動物たちは、(現職のどの大統領よりも多くの票を集めた)前アメリカ大統領と、党の共和党候補を、まったく悪いことをしていないのに投獄しようとしているのだ。これは、最後の追い込みだ。とても不公平だ!(2024年4月10日)

これは4月10日の投稿だが、かなりの長文である。ドナルド・トランプ前大統領の新メディア会社が開発したトゥルース・ソーシャルの iOS アプリが、2022年2月21日のプレジデンツ・デーに先立ち、アップルの iOS App Store で公開されたが、スマートフォンを使用している写真が公開された。その後もパソコンによる書き込みという報道はないし、この長文もスマートフォン、おそらく iPhone によるものと想像される。画面が狭いスマートフォンによるオンライン書き込みは、打鍵エラーの連続で私は苦手である。私よりも指が大きいはずのトランプによるスペルミスのない長文の投稿は、ある種の才能だと感心する。

Truth Social  Account of former President Donald J. Trump on his Social media platform TRUTH Social

2024年4月10日

トランプが創設したソーシャルメディア TRUTH Social のアカウントを取得した

Truth Social

ことし秋のアメリカ大統領選挙でドナルド・トランプ前大統領が返り咲く可能性が現実味を帯びてきた。トランプは2021年1月、アメリカ連邦議会議事堂襲撃事件への対応としてツイッターとフェイスブックから追放されたが、2022年2月21日、新たなソーシャルメディアプラットフォーム Truth Social(トゥルース・ソーシャル)を立ち上げた。いささか遅きに失した感があるが、私もそのアカウントを取得した。彼は両者への復帰を果たしたものの、かつては彼の主要な発信源であったイーロン・マスク所有のプラットフォームであるX(旧ツイッター)からはほとんど姿を消している。一方、フェイスブックでは、彼の投稿の大半は動画や画像で、スローガンやメッセージは「ありがとう、ミズーリ!一緒に、我々はアメリカを再び偉大にするんだ!"といったスローガンやメッセージが添えられた動画や画像が多い。トゥルース・ソーシャルの前には、トランプの個人サイトに "From the Desk of Donald J. Trump"という短期間のブログがあった。しかしそれも長くは続かず、トランプ陣営はすでに前大統領がソーシャルメディア・プラットフォームを準備していることをほのめかしていた。トゥルース・ソーシャルは、2022年2月にアップル・アプリストアに登場した。

Donald John Trump

不具合の多いスタートだったがアップルの最もダウンロードされた無料アプリのリストのトップに躍り出た。同プラットフォームは、トランプ大統領のソーシャルメディア禁止令に対する怒りを利用して幅広いオーディエンスを惹きつけようとしたが、トゥルース・ソーシャルは、同じ右寄りのソーシャルメディア・プラットフォームである Gettr や Parler と同様、保守的な政治的コメントのエコーチェンバーを大きく超えることはできていない。サインアップするために、電子メールアドレスと電話番号を要求された。ユーザーは、登録プロセスを完了する前に、そこからのテキストメッセージを受け取ることに同意しなければならない。これはできるだけ多くの人を惹きつけようとするソーシャルメディア企業にとっては珍しいことである。トゥルース・ソーシャルは「政治的イデオロギーで差別することなく、オープンで自由、そして正直なグローバルな会話」を奨励しているという。しかし非営利団体が発表した報告書によると、初期のユーザーが「前大統領とその同盟国を揶揄したり批判したりするようなユーザー名を選んだり、投稿をしたりすると、BANされた」経験があるという。下記リンク先のウェブサイトで TRUTH Social のアカウントを取得することができる。

Truth Social  TRUTH Social | An alt-tech social media platform owned by Trump Media and Technology

2024年4月8日

絵馬に託す恋の成就と地獄から地蔵の救い

神社仏閣を訪れる観光客、とりわけ外国人にとって印象が残るのは、お御籤(みくじ)と絵馬らしい。確かに引いた夥しい数の御籤が、木の枝や専用のロープなどに結ばれた光景は壮観である。また願い事を書いた絵馬にも目を奪われるようだ。日本人は何と信心深いのだろうと誤解を与えそうだが、信仰というより、むしろ現世利益を願う現代人の象徴かもしれない。絵馬は神霊を和らげて奉るために生きた馬を神社に奉納したのが始まりだという。生きた馬がやがて木馬になり、さらに板に描いた馬になった。そして馬だけではなく、様々な絵が描かれるようになり現代に至ったようだ。五角形の名所説明立札を駒札と呼ぶが、将棋の駒に由来するようだ。駒は仔馬、若馬を意味するし、絵馬の形も将棋の駒の形を模したものではないかと考えたことがあるが、ちょっと無理なようだ。五角形でない絵馬もある。

片岡社(京都市北区上賀茂本山)

片岡社は上賀茂神社楼門の前に鎮座する第一摂社で、傍らの説明板によると『延喜式』には片山御子神社とあるそうだ。玉依日売命(たまよりひめのみこと)を祀った社で、絵馬には「ほととぎす声待つほどは片岡のもりのしづくに立ちやぬれまし」と書かれている。これは紫式部が詠んだもので、ホトトギスの声を待っている間は片岡の森の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていようかという意味である。新古今和歌集巻第三夏歌の詞書には「賀茂にまうでて侍りけるに、人の、ほとゝぎす鳴かなむと申しけるあけぼの、片岡の梢おかしく見え侍りければ」とあり、詠った情景が理解できる。ホトトギスとは未来の結婚相手の声のことだそうだ。絵馬はハート型に見えるが、葵の葉をかたどったものである。

矢田寺(京都市中京区寺町通三条上る)

矢田寺は京都の繁華街、三条通商店街から寺町通を北へ上ったところにある。正面の梵鐘は、精霊を冥土に迷わず送るために撞く「送り鐘」で、これは東山区にある六道珍皇寺の「迎え鐘」と一対になった呼び方という。本尊の地蔵菩薩は苦しみを代わりに受けてくれるという「代受苦(だいじゅく)地蔵」として知られるが、その手前にある赤い炎を彫った衝立が印象的である。地獄の火焔であるが、これをデザインしたのが「救い絵馬」である。寺に伝わる重要文化財の「矢田地蔵縁起絵巻」に描かれた一場面で、火焔に包まれた釜であえぐ罪人に僧侶が手を差し伸べている。地蔵菩薩の化身である。一見恐ろしげな図柄だが、なにしろ地獄から救ってくれるわけだから、有難い絵馬として人気があるようだ。

鳥居絵馬の歴史:合格、恋愛、安産…小さな板に願いを託す | 絵馬が持つ知られざる歴史を知る者は少ない

2024年4月6日

羽根を奪われた飛べない鳥の悲劇

The Feather'd Fair in a Fright
ニルスの不思議な旅

アニメーションで印象に残っているひとつに『ニルスのふしぎな旅』がある。妖精によって小人にされた少年ニルスが、ガチョウのモルテンの背に乗りやガンの群れと一緒にスウェーデン中を旅する物語である。ガンの群れに「お前、飛べないだろう」とバカにされたモルテンは練習して飛べるようになったのである。NHK総合テレビで1980年から1981年まで放送されたが、幼い娘と一緒に毎週楽しく観たものである。飛べない鳥で思い出すのが、蜂須賀正氏博士(1903-1953)の研究で知られる絶滅鳥ドードーで、その「絵に関する覚え書き」を2012年に当ブログに書いた。飛べることは飛べるが、ノロマゆえ鳥島のアホウドリは、明治半ば以降大量捕獲され絶滅の危機に陥ってしまった。羽毛や帽子の羽飾り用に捕獲されたのである。カイツブリの羽毛の商業取引に対処するためにつくられた英国の RSPB(王立鳥類保護協会)の創設会員で、アルゼンチン生まれの作家ウィリアム・H・ハドスン(1841–1922)は『鳥たちをめぐる冒険』(講談社学術文庫)の中で、美しい野鳥の殺戮に力を貸しているのは「殺された鳥の飾り羽や残骸で自分の頭を飾りたがる、おそろしき女性の一連隊だ」と嘆いている。国際保護鳥だった亜種のアラビアダチョウがアラビア半島に棲息していたが、20世紀初頭に絶滅したために1960年に東京で開催された第12回国際鳥類保護会議でリストから削除されたという。

麦藁帽子に付けた羽根飾り

現在はダチョウは飼育され、その羽根は帽子の飾りに使われている。また宝塚歌劇団のトップスターが着用する衣装に着ける大きな羽根飾りは、ダチョウの羽根である。上図は英国の大英博物館所蔵のエッチングで、ジョン・コレット(1725-1780)が描いた風刺画、18世紀末の風俗に対する洞察を与えてくれる。帽子に羽根飾りを付けた女性を、羽根を抜かれて怒ったダチョウが追いかけているという設定である。ダチョウはかつてアフリカ全域およびアラビア半島に生息していたが、飛べないゆえか乱獲され、現在ではアフリカ中部と南部に生息するのみである。ただ種卵、種鳥の輸出規制が解禁されたため、世界中に飼育が広まり、日本でも飼育数が増加、既に10,000羽以上のダチョウが、南は沖縄から北は北海道まで、すべての都道府県の約400の農場で飼育されているという。なお麦藁帽子に小さな羽根飾りを付けてみた。製造元は書いてなかったが、中国産と思われる。帽子屋で売ってる小さな羽根飾りは、ニワトリやカモ、ホロホロ鳥など、いずれも家禽の羽根が使われてるようだ。ベル・エポック時代のヨーロッパの婦人たちが夢中になった派手な羽根飾りと比べると、実に慎ましい代物であるが、その魔力が分かるような気もする。しかしウィリアム・H・ハドスンの警告に触れ、羽根飾りが野鳥の絶滅に追い込んだ歴史を考えると、いささか動機が不純で小さな躊躇いが全くないわけではない。下記リンク先はフロリダ大学のブログ「野生のサラソータ」に今年1月にポストされた、飾り羽根貿易と渡り鳥保全の物語である。

bird  Wild Sarasota: Florida's Wading Birds and the Plume Trade, A Story of Conservation | UF

2024年4月4日

フリーランスの写真家として自活することに成功した最初の女性の一人エスター・バブリー

Miss America Contest
Miss America Contest, 1957

Esther Bubley

エスター・バブリーは1921年2月16日、ロシア系ユダヤ移民の子としウィスコンシン州フィリップスで生まれた。1936年、同州スペリオールのセントラル高校3年生だったとき、写真雑誌『ライフ』が創刊された。この雑誌、特に FSA(農業安全保障局)が制作した大恐慌の写真に触発され、彼女はフォトジャーナリズムとドキュメンタリー写真に情熱を傾けるようになった。高校卒業後、スーペリアの州立教員大学で2年間を過ごした後、ミネアポリス美術学校の1年間の写真プログラムに入学した。1941年、大学卒業後、写真家としての仕事を求めてワシントンD.C.に移る。しかしワシントンでは仕事が見つからず、ニューヨークに移った。1941年のクリスマスシーズンにニューヨークのファッション誌『ヴォーグ』で職を得るが、その仕事が気に入らなかった。1942年初頭、彼女は国立公文書記録管理局のマイクロフィルマーとしての仕事のオファーを受け、ワシントンに戻った。1942年秋、ロイ・ストライカーが彼女を OWI(戦時情報局)の暗室助手として雇った。彼の写真部門は FSA から移管されたばかりだった。ストライカーと、より年長の写真家たちの勧めもあり、彼女は OWI の歴史部門のために写真を撮るようになり、戦時中の家庭生活を記録した。彼女の最も挑戦的な仕事は、中西部と南部のバス・システムに関する有名なシリーズであった。1943年後半、ストライカーがニュージャージー州のスタンダード・オイル社の広報プロジェクトに携わるために OWI を去ったが、ゴードン・パークスやジョン・ヴァションら他の写真家とともに彼に同行した。

Howard Stagg Farm
Howard Stagg Farm, Beaumont, Texas, 1945

スタンダード・オイル社のために制作した「バス物語シリーズ」は、以前 OWI のために制作した物語の再現であったが、1948年にブリタニカ百科事典/ミズーリ大学ジャーナリズム学部の「年間最優秀ニュース写真 」でベスト・ピクチャー・シークエンス賞を受賞した。この時期、彼女はスタンダード・オイルの総務部長エドウィン・ロックと短期間結婚したが、すぐに離婚した。1947年になると、バブリーはストライカーおよびスタンダード・オイル以外にも視野を広げていた。児童福祉機関である米国児童局で働き始めたのだ。その後数年にわたり、何千枚もの写真を同局のファイルに提供し、彼女の作品は同局の機関誌 "The Child"(児童)の30以上の表紙を飾った。1948年、バブリーはラッセル・リーとともにシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道に雇われ、鉄道の社会的・経済的影響を記録した。

Bus Story
Bus Story, Title and Date are unknown, 1947

彼らは鉄道沿線の日常生活を撮影した3,000枚以上のネガを制作した。1949年に『レディース・ホーム・ジャーナル』誌に寄せた精神疾患についてのフォト・エッセイが、ブリタニカ百科事典/ミズーリ大学ジャーナリズム学部のコンテストで特集の第1位を獲得し、バブリーは百科事典の2冊目のセットを手に入れた。その後も同誌の仕事を続け、1948年から1960年まで断続的に掲載された有名なシリーズ "How America Lives"(アメリカはどう生きるか)のために12本の写真記事を制作した。1951年、フリーランスとして『ライフ』誌の仕事を始め、最終的に2つのカバーストーリーを含む40のフォトストーリーを提供した。彼女は主要雑誌のフリーランスの写真家として自活することに成功した最初の女性の一人である。1951年には、当時ピッツバーグ写真図書館を設立していたストライカーのために、ピッツバーグ小児病院に関するシリーズも制作した。

Greyhound Bus Terminal
In the Waiting Room, Greyhound Bus Terminal, New York City, 1949

ニューヨーク近代美術館写真部門のディレクターであったエドワード・スタイケンは、1952年の "Diogenese with a Camera"(カメラを持ったディオゲネス)でこのシリーズから13点の作品を使用した。彼はまた、彼女がすべてのフレームをどのように使っているかを示すために、コンタクトシートをマウントして展示した。このシリーズをきっかけに、医療をテーマにした作品がのポートフォリオの主要な部分を占めるようになった。1953年、彼女はユニセフとフランス政府に雇われ、失明の原因となる感染症トラコーマの治療プログラムを撮影するためにモロッコを訪れた。翌年、バブリーはこの任務で撮影した写真を写真雑誌主催のコンテスト国際部門に応募。女性として初めて1位を獲得した彼女は、男性写真家が描かれたトロフィーを受け取った。1955年、スタイケンは彼の記念碑的な展覧会 "The Family of Man"(人間家族)に彼女の作品を出展した。

>Johnny Ray Fans
Johnny Ray Fans, Midtown, New York City, 1952

1956年、ペプシコーラ・インターナショナルは、同社の雑誌『パノラマ』でラテンアメリカを取材するためにバブリーを雇った。1960年代半ばには、パン・アメリカン航空が企業写真ライブラリーのために彼女を世界各地に2度派遣した。1960年代後半、写真雑誌の売れ行きが落ち、過酷な旅行スケジュールに嫌気がさした彼女は仕事量を減らした。ニューヨークの自宅で過ごす時間を増やし、個人的に興味のあるプロジェクトを進め、動物に関する2冊の児童書と植物のマクロ写真を特集した本を制作した。熱心な動物愛好家であった彼女は、セントラルパークで朝を迎え、愛犬の散歩をしながら写真を撮り、公園についての本を作りたいとメモをとっていた。1991年、ミネアポリス美術大学から名誉博士号を授与された。1998年3月16日、癌のためニューヨークで死去、77歳だった。2001年、ニューヨークの UBS アートギャラリーで回顧展が開催された。2005年、アパチュア・ファウンデーションがモノグラフ『エスター・バブリー』を出版した。

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