2021年9月28日

モバイルユーザビリティ問題があるというメールが届いた

Mobile usability
問題がなくなったモバイルユーザビリティ

当ブログは Google のブログサービス Blogger を利用しているが、突然「モバイルユーザビリティの問題が検出されました」という警告メールが届いた。今やパソコンよりも、スマートフォンをはじめとしたモバイル端末を使用するユーザーのほうが多くなっている。モバイルユーザビリティとは、小さい画面でもサイトが問題なく利用閲覧できるかどうかを指す。元々 Blogger は対応していたし、昨年夏に作成インターフェースが大きく更新されてレスポンシブ化が強化された。従って一部のページにエラーが出たという警告に戸惑いを感じざるを得ない。モバイルユーザビリティ報告には、以下のエラーが表示される可能性があるという。

  1. 互換性のないプラグインを使用しています
  2. ビューポートが設定されていません
  3. ビューポートが「端末の幅」に収まるよう設定されていません
  4. コンテンツの幅が画面の幅を超えています
  5. テキストが小さすぎて読めません
  6. クリックできる要素同士が近すぎます

当ブログは 4. と 6. に問題があるという。画像やコンテンツ要素がはみ出すというが、Blogger のテンプレートに少し手を加えただけなので、どうも納得できない。クリックできる要素同士が近すぎるという点はどうだろうか。これが問題なら、多数のページでエラーが発生するはずだが、今のところひとつだけらしい。そこで「再度検証を依頼」ボタンを押してみた。すると翌日に「問題が修正されました」という内容のメールが届いた。上掲の画像の通り、エラーがゼロになっている。

mobile-friendly
モバイルフレンドリーテストツール

次に念のためモバイル端末の閲覧に適しているかどうか Google のモバイルフレンドリーテストツールを使ってブログ全体をチェックしてみた。当ブログの URL を入力したら「このページは、モバイル デバイスでの使い勝手に優れています」という回答を得た。警告に始まり、お褒めの言葉、なんだか狐につままれたような気分である。ネット検察したところ、問題検出そのものが間違いであったケースがかなり報告されている。ひとつ考えられるのは Google の検出システムがロボットであり、人工知能にも限界があるということなのだろう。

mobile モバイルユーザビリティレポート | 携帯端末で表示した場合の使いやすさの問題点を特定する

2021年9月26日

アンゲラ・メルケルを首相の座に導いた漁師たち

November 1990
リューゲン島の小屋で漁師たちと語り合うアンゲル・メルケル(1990年)

リューゲン島の漁師たちが小屋の外に立っている女性に気づいたのは、1990年11月の霧のかかった寒い朝だった。バルト海で漁をしていた彼らは、それが誰なのかを確かめるために岸に近づいた。ハンス・ヨアヒム・ブルは、見知らぬ人が政府から派遣された漁獲割り当ての検査官ではないかと心配した。「私たちは魚を降ろした後、彼女に用件を尋ねた。「彼女は国会議員に立候補していて、私たち漁師がどうしているかを知りたいと言った。それで、自然に彼女を小屋に招き入れて、一緒にシュナップスを飲んだんだ」とブル。その若い候補者とは、アンゲラ・メルケルであった。そして、ドイツ北東部の煙と酒に満ちた漁師小屋が、彼女の最初の選挙活動の場となったのである。青い作業服を着た5人の漁師が2つのテーブルを囲んで煙草を吸い、メルケルはそのうちのひとりと会話をしているというものだ。背景には髭を生やした漁師が座り、煙草を吸いながら窓の外を眺めている。小屋の中に光が差し込み、オランダの古い絵画のような絵になっている。

cartoon

ジーンズに白いシャツ、栗色のカーディガンを羽織った36歳のメルケルは、まるでタイムトラベラーのように遠い昔の漁師を訪ねているかのようだ。ある意味、彼女はそうであったのである。この選挙はドイツ統一後初の選挙であった。共産主義の東ドイツで育った5代目の漁師であるブルは、西欧諸国がもたらす変化に不安を感じていた。「メルケルは、私たちの懸念を議会に訴えると言ってくれた」と彼は言う。そして12月2日の連邦議会選挙で故郷メクレンブルク=フォアポンメルン州から出馬して初当選した。2000年2月にヤミ献金問題によりショイブレCDU党首が辞任すると、メルケルは4月の党大会で承認されCDU党首に就任した。2005年9月18日に行われた総選挙では、メルケル率いるCDU/CSU連合が勝利、11月22日、メルケルは第8代連邦首相に就任したのである。ブルは当時メルケルに投票し、それ以来、メルケルに投票し続けた。この海辺の地域の他の多くの人々も同様である。リューゲン島の猟師小屋は、彼女の政治活動の原点であり、首相の座はここから導かれたのである。アンゲラ・メルケル首相は、きょう26日の総選挙に立候補せず引退する。

aperture 写真で見る アンゲラ・メルケル独首相 在任16年で引退 | BBC ニュース日本語電子版

2021年9月24日

日本のフェミニストが高市早苗候補を嫌う理由はこれだ

akeichi with Rising Sun Flag
強硬な保守派高市早苗

ヴァニティ・フェア(Vanity Fair)イタリア語版が、9月23日付けの電子版に「日本のフェミニストが高市早苗候補を嫌う理由はこれだ」という記事を掲載した。アメリカ合衆国のコンデナスト・パブリケーションズが発行している月刊誌で、英語版の他に5つの国際版が発行されている。以下はその抄訳である。

強硬な保守派である彼女は、男女共同参画に関心を持つことはほとんどなく、女性の権利をさらに低下させるような政策も支持している。日本初の女性首相になるかもしれない高市早苗(60歳)は、健康上の問題で辞任した安倍晋三元首相の支持を受けている。現在、国会における女性の割合は15%以下であり、現政権の21人の大臣のうち女性は2人しかいない。また世界経済フォーラムが毎年発表しているジェンダーギャップに関する調査によると、世界第3位の経済大国である日本は、156カ国中120位となっている。

しかし高市早苗が当選することは、歴史的に重要な一歩であるにもかかわらず、女性解放を支持する日本の男女にとっては、あまり魅力的ではない。強硬な保守派で、男女平等にはほとんど関心がなく、妻が夫の姓を使うことを義務付ける法律など、女性の権利をさらに低下させるような政策を支持している。離婚した高市によると、この法律を変えると、離婚や不倫が増える可能性があるとのこと。また高市は同性婚や、女性が天皇として統治するための法改正にも反対している。また安倍晋三氏をはじめとする保守派の人々と同様に、第二次世界大戦中の日本の残虐行為は誇張されていると主張している。

今月、保守系の雑誌『文藝春秋』で行った講演では、男女平等やその他の権利については語らなかった。それよりも「大胆な金融緩和」「柔軟な財政出動」「投資」によってインフレ率を2%上昇させることを目標とした経済政策に注目することを優先した。

日本の政治、特に国政レベルでは、女性の地位向上に苦労している。アナリストによると、彼らは政治的影響力を得るためには、必ず右翼でなければならないという。上智大学政治学部の三浦まり教授は、ニューヨーク・タイムズ紙に「女性であることの不利を補うためには、保守派に過剰な忠誠心を示す必要がある」と説明している。

"それはつまり、反フェミニストでなければならないということだ"

ずばり核心を突いた記事で分かりやすい。ヴァニティ・フェアは、主に大衆文化、ファッション、時事問題を扱っている一般向けの雑誌で、左翼誌ではない。筆者のモニカ・コヴィエロ(Monica Coviello)はベジタリアン料理が得意なジャーナリスト。ジェンダー平等思想は今や世界の潮流で、彼女が高市早苗のいわば「女性が唱える男尊女卑」を批判するのは当たり前の感覚と言える。この点を問題にしようとしない日本のメディアこそ問題なのである。下記リンク先でイタリア語の原文を読むことができる。

magazine
Giappone, ecco perché Sanae Takaichi, candidata a primo ministro, non piace alle femministe

2021年9月23日

白馬の女性参政権運動家アイネズ・ミルホランド

WashingtonParade
Inez Milholland at the National American Woman Suffrage Association parade, Washington, D.C, March 3, 1913,

アメリカの女性参政権運動家アイネズ・ミルホランドは、1913年3月3日にワシントンD.C.で行われた女性参政権パレードで、流れるような白いマントと冠を身にまとい、白馬に乗ってパレードを先導したことでよく知られている。彼女は「最も美しいサフラジェット」という評判を利用していたが、社会変革への取り組みは象徴的なものではなかった。有能な演説家であり、女性の権利、社会主義、平和主義を熱心に主張した。1886年8月6日、ニューヨークのブルックリンの裕福な家庭に生まれた彼女は、ニューヨークとロンドンで育った。 イギリスで過激な運動家エメリン・パンクハースト(1858–1928)と出会い、政治的に急進的になる。

Inez Milholland (ca.1911)

ヴァッサー大学の学生だったミルホランドは、学内で参政権について議論することを禁じた規則に反して、近くの墓地で集会を開いた。この反骨精神がライフワークとなったのである。1909年にヴァッサー大学を卒業したミルホランドは、ニューヨークで参政権運動の弁士として活動を始めた。1909年と1910年に行われた国際婦人衣料品労働組合のストライキでは、シャツ工場や洗濯工場の女性労働者と一緒にピケを張って逮捕されている。また、上流階級の家族の一員として、他のストライカーの保釈金を支払ったり、募金活動を行ったりした。いくつかの法科大学院を受験したが、女性であることを理由に1912年に不合格となったが、ニューヨーク大学で法学の学位を取得した。1913年、大西洋を渡ってイギリスに向かったミルホランドは、オランダのコーヒー輸入業者であるオイゲン・ヤン・ボワセヴァン(1880-1949)と出会った。彼女は船上で彼にプロポーズ、上陸して間もなく結婚したのである。その後数年間、悪性貧血による体調不良に見舞われたが活動を止めることを拒んだ。1916年、アメリカ西部での参政権ツアーを開始したが、10月22日、ロサンゼルスで演説中に倒れた。倒れる前に発した最後の言葉「女性は自由をどれだけ待たなければならないのですか?」は、ウッドロー・ウィルソン(1856-1924)に向けたものだったと伝えている。そして11月25日、30歳の若さで亡くなった。

note  Inez Milholland | Joan of Arc? by Debby Neubert | Women in American History

2021年9月21日

自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ

Violette Cornelius, Keizersgracht, Amsterdam
Violette Cornelius, Keizersgracht, Amsterdam, 1938.

ハンガリー系オランダ人の写真家であるエヴァ・ペニョ (1910–2003) は、才能ある女性がいかにして自由を手に入れ、慣習にとらわれず自立した生活を送ることができるかを示すモデルとなっている。ブダペストのカッシャーク美術館で開催中オンライン展覧会では、ペニョのものの見方が紹介されている。また、ハンガリーでの初期の自画像や社会的な写真から、ベルリンでの審美的な形成期、そしてオランダでの成功と権威ある依頼まで、彼女の人生の転機や意識的な決定が強調されている。ブダペストの裕福な家庭に生まれたベニョは、リベラルなユダヤ系ハンガリー人の家庭で啓蒙的な教育を受けたにもかかわらず、ふたりの姉妹のように高等教育を受けるようにという父親の願いに反対した。フェミニズムや女性運動の弁護士であった父親のベラ・ブルメングランド(1877-1944)は、ハンガリーで蔓延していた反ユダヤ主義を避けるために、姓をベニョと変えた。父親から贈られた新しいローライフレックスを、その後40年間にわたって使い続けることになる。エヴァは、保守的な政治体制と対立しながら、先進的な写真家ヨゼフ・ペーチュ(1889–1956)のスタジオに入る。

Berlin, 1930
Starnberger Straße, Berlin, 1930.

ペーチュのスタジオは、美術や写真を学ぶ学生たちや、ジョージ・ケペッシュ(1906–2001)やロバート・キャパ(1913–1954)など、1920年代から1930年代にかけての未来のビジュアル・アーティストたちが集う重要な場所となっていた。ブダペストの美術工芸博物館で開催された「本と広告」展にペーチュ他の弟子たちと一緒に参加、息苦しいファシズムに支配されたハンガリーを脱出し、1930年9月、ベルリンにたどり着く。同郷のジョージ・ケペッシュ(1906–2001)やラースロー・モホリ=ナギ(1895–1946)に出会い、モダニズム芸術や実験的な写真に触れた。ルネ・アーレ(1893-1976)の広告スタジオに職を得て、撮影アシスタントを務めた。ベルリンでの最初の数ヶ月間、ベニョはケペッシュや他の若者たちと彼のアパートで積極的に行動を共にし、政治的に重要なアートや時事問題について活発な議論を展開した。この関係やサークルから、ロシア構成主義やモホリ=ナギの「新構想」の思想を学び、自分の写真に取り入れていったのである。

Self-Portrait
Selbstporträt, Berlin, 1932.

初めてのベルリンでの夏を過ごした後、1931年にはナチョードシュトラーセに暗室付きのスタジオを借りて独立した。ナチズムと反ユダヤ主義の台頭によって中断され、彼女はドイツを離れることになった。映画監督のジョン・フェルノ(1913–1987)とともにオランダに移住し、デ・ステイル運動のメンバーを含む芸術家とその仲間たちを写真で記録する大規模な仕事を始めた。1933年にアムステルダムのローキンにある有名なクンスタンデル・ヴァン・リエで初の個展を開催した。彼女の現代的な視点により、人気の高い写真家となる。家族や友人を撮影した個人的な作品だけでなく、社会的なテーマを撮影した象徴的な写真も多く残している。1930年代の終わりには、仕事が少なくなり、収入が減る一方で、彼女の作品はますます政治的なものになっていった。しかし建築家から写真の依頼を受け、機能主義の考えを伝えるために再びニュー・ビジョンを取り入れたのである。1941年5月の「ジャーナリズム令」により、ユダヤ人であることを理由に自分の名前で出版することができなくなったエヴァは、ウィム・ブリュッセの名前で定期刊行物に写真を掲載するようになった。

Dolle-Mina
Dolle Mina op de weg, Amsterdam, 1972.

戦後、ヒューマニズムの世界観に惹かれ、ネオリアリズムのスタイルを確立する。この時期の彼女作品はフェミニズムが強調されていた。ニューヨーク近代美術館のディレクターだったエドワード・スタイケン(1879–1973)が彼が企画した展覧会「ファミリー・オブ・マン」(1955年)に参加した。1970年代には、オランダのマルクス主義フェミニズム運動「ドール・ミーナ」に参加、活動家として、お祭りのような雰囲気の中でユーモアと挑発を織り交ぜた、ストリートパフォーマンスをしている。彼女は自由と自立を実現する手段としての写真の可能性を早くから見出していた。1920年から1940年の間に写真を始めた世代の女性のひとりとして、プロの写真家としての地位を確立することで、経済的な自立を果たし、自分の生き方を選択し、当時写真が切り開いていたさまざまな領域を探求することができたのである。ハンガリーでフォトジャーナリズム運動に関与、失業者や恵まれない子供たちなどの社会問題を探求した。第二の故郷であるオランダでは、建築写真や、1970年代の抗議行動や街頭デモの写真記録である「ドール・ミーナ」で名を馳せたのだった。

museum   The Photographs of Éva Besnyő Virtual Exhibition | Budapest's Kassák Museum

2021年9月18日

女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト

Liberation of Buchenwald
解放されたナチスのドイツ・ワイマール近郊エッタースベルク丘のブッヘンヴァルト収容所(1944年)

マーガレット・バーク=ホワイトは、女性初の戦場カメラマンとして知られている。また、男女を問わず外国人写真家として初めてソ連に入国し、ソ連の製造業などを撮影したことでも知られている。1904年6月14日、ニューヨーク州ブロンクスに生まれた。ポーランドから移住してきたユダヤ人の父ジョセフ・ホワイトと、アイルランド系カソリックの母ミニー・バークのもと、ニュージャージー州バウンド・ブルックで育つ。1922年、コロンビア大学に入学し、爬虫類学を専攻したが、在学したのは父が亡くなった直後の1学期だけだった。父の思い出を大切にしようと写真を始め、ピクトリアリスムの代表的な写真家、クラレンス・H・ホワイト(1871–1925)の門を叩いた。彼女の母親も、娘に初めてのカメラを買ってあげるなどの応援した。1924年にエヴァレット・チャップマンと結婚したが、2年後に離婚、父の姓と母の旧姓を繋いで、バーク=ホワイトと名乗るようになった。大学を転々とし、最終的にはコーネル大学を卒業し、1927年に学位を取得した。

Chrysler Building
クライスラー・ビルの屋上から撮影するバーク=ホワイト(1931~34年)

バーク=ホワイトはオハイオ州クリーブランドに移ってから商業写真家としてのキャリアをスタートさせる。彼女が成功したのは、写真の技術に加えて、彼女の人間力によるところが大きい。オハイオ州にスタジオを構えてから、オーティス・スチール社は彼女の初期のクライアントのひとつとなった。後年、バーク=ホワイトはインタビューで、国防総省の資材や機械を生産する鉄鋼業が国防上の問題とみなされていたため、工場での撮影にさまざまな困難があったことを明かしている。1929年に『フォーチュン』誌に写真家兼副編集長として採用され、フォトジャーナリズムのキャリアをスタートさせた。その1年後には、外国人ジャーナリストとして、また女性として初めて、ソ連の産業界を撮影するという先駆的な取り組みを行った。1935年、アメリカの雑誌界の大物、 ヘンリー・ルース(1898–1967)は彼女を『ライフ』誌のフォトジャーナリストとして採用したが、これは同誌初の女性スタッフ・フォトグラファーであった。彼女は1940年まで同誌に在籍した。1969年に写真家を引退するまで、同誌とは何度も関係を持った。

第二次世界大戦出征する男性に代わってモスクワ近郊のクリシェボ集団農場で働く女性たち(1941年頃)

バーク=ホワイトが『ライフ》誌に掲載した作品の中で最も有名なのは、フォート・ペック・ダムの写真で、同誌の創刊号1936年11月23日号の表紙を飾っている。国際的なキャリアは、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキアでのナチズムと、ソ連での共産主義を記録することだった。ヨシフ・スターリン(1878–1953)が人前で微笑む姿を撮影、グルジアを訪れた際には、スターリンの母親をはじめとする家族を撮影している。しかし作品から受けた最も顕著な影響は、第二次世界大戦中のことだった。1941年、ナチスドイツの戦闘機がモスクワにミサイルを投下し始めたとき、彼女はモスクワにいた。その時、彼女は唯一の外国人写真家だったのである。アメリカ大使館に避難したバーク=ホワイトは、戦争開始の最初の写真を撮影した。その後、アフリカ、イタリア、ドイツで米軍に同行し、女性として初めて戦闘地域を撮影しました。また、1940年代半ばには、インドとパキスタンの間で起こった混乱を撮影している。1953年、パーキンソン病の最初の症状が出た。1971年、67歳でコネチカット州スタンフォードにあるスタンフォード病院で他界した。

The Library of Congress  Margaret Bourke-White | Introduction & Biographical Essay | The Library of Congress

2021年9月13日

大恐慌時代の生活を記録したFSAプロジェクト

Russell Lee
Russell Lee (1903-1986) Farmer, his wife, and brother in close harmony. Pie Town, Catron County, New Mexico, June 1940.

多くの政府機関がそうであるように、FSA(Farm Security Administration; 農業安定局または農業保障局)も広報部を設置して、自分たちのプログラムが何を達成しようとしているのか、どんな問題を解決しようとしているのかを、一般市民や議会に説明できるようにした。しかし、大恐慌の絶望感とニューディーラーの宣教師としての熱意から、FSAはこの時代を記録することにおいて、それ以前にも以後にも、他のどの機関よりもはるかに優れていた。FSAが8万点を超える大恐慌時代のアメリカの写真コレクションを構築したのは、優れた写真家とそれを導く優れた管理者を雇ったからだ。ロイ・ストライカー(1893-1975)は、コロンビア大学で経済学を学んだ後、FSAの「歴史部門」の責任者として採用された。上司のレックスフォード・タグウェル(1891–1979)によれば、彼の仕事は「都会の人々に農場での生活を見せること」だった。現場から写真が返ってくるようになると、ストライカーはそれを出版するために努力した。全米の新聞は、砂嵐の原因や出稼ぎ労働者の窮状を伝える記事とともに、FSAが撮影した写真を掲載したのである。

Jack Delano
Jack Delano (1914–1997) Florida migrants on their way to New Jersey, to pick potatoes. North Carolina, July 1940.

また"LIFE" "LOOK" "Survey Graphic" など、当時、影響力のあった雑誌にも写真が掲載された。ニューヨークのフォトリーグのようなギャラリーでも、FSAの作品が展示された。ニューヨークのフォトリーグのようなギャラリーでも、FSAの作品が展示された。 ストライカーはアメリカの生活全般を記録することを目的としていたが、彼の写真家たちは特にアメリカの農村部に注目していた。、経済全体における農業の重要性について、ニューディールへの理解を共有していたのである。そして新しい世代がそれぞれFSAの写真に触れるようになった。それは作品の質の高さもさることながら、全コレクションが出版社に著作権フリーで提供されているからである。政府のために制作された作品なので、プリントはわずかなプリント代で米国議会図書館から購入することができる。参加した主要な写真家は、ジャック・デラーノ(1914-1997)ウォーカー・エヴァンス(1903-1975)セオドア・ヤング(1906-1996)ドロシア・ラング(1895-1965)ラッセル・リー(1903-1986)カール・マイダンス(1907-2004)ゴードン・パークス(1912-2006)アーサー・ロススタイン(1915-1986)ベン・シャーン(1898-1969)ジョン・ヴェイション(1914-1975)マリオン・ポスト・ウォルコット(1910-1990)アルフレッド・T・パーマー(1906-1993)などである。

The Library of Congress  Farm Security Administration/Office of War Information Black-and-White Negatives

2021年9月10日

牛革製通帳カード入れを探し求める

ゲンテン通帳カードケース
ゲンテン(Genten)通帳カード入れ

通帳カード入れが傷んできたので、新たに購入することにした。使用していたケースは丸善京都本店で購入したものだが、同じ製品は店頭に今はないようだ。百貨店や文具店にも通帳カードケースはあるのだが、希望通りの製品を探すのが結構難しい。それにコロナ禍の昨今、外出を控えているので、結局ネットで探すことにした。第一条件は通帳が2冊、カードが最大10枚程度入ること。第二は長辺が16cm程度であること。英国製釣りバッグのポケットに入れるのでこの大きさが望ましい。あとは素材だが、牛革製を探してみた。あれこれ検索して辿り着いたのが、ゲンテン製アマーノシリーズの通帳カード入れだった。大きさはタテ15.5cmxヨコ10.5cmxマチ1cmで、カードポケットの数は14である。宣伝の片棒を担ぐようでいささか気恥ずかしいのだが、アマーノで使用しているのはフィレンツェにある名門タンナー、バラダッシ・カルロ社の「ミネルバリスシオ」というバケッタレザーだそうである。同類の商品ではカード入れがビニールだったりするが、これはそれこそ総革で、高級感がある。税込み価格15,400円とちょっと値が張るが、良い買物をしたと思う。

2021年9月7日

高市早苗語録の怪

高市早苗
Sanae Takaichi with the Rising Sun Flag

菅義偉(72)が9月3日に突然、自民党総裁選への不出馬の意向を明かすと、これまで菅の再選支持を表明していた安倍晋三(66)が、この事態を受けてすぐに行動を起こした。高市早苗(60)に電話して支援する考えを示したそうである。これで出馬意向を示していた高市は、20人の推薦人を集めるメドが立ったようである。週明けの9月6日になると、麻生太郎(80)も高市支援に回る可能性が報じられた。高市を推す動きが広がったことで、ネットなどでは、彼女のこれまでの発言なども取りざたされ、総裁・首相にふさわしいのかという論議になるほどの注目ぶりだ。過去の問題発言を拾い読みしてみよう。(出典:名言の王国へようこそ

  • 何はともあれ、現在の学校教育というものは、子供たちに甘すぎる。
  • 教育は税金を使って実施しているのだから、一つの国策と考えてもいい。
  • だから教師は、学校が決めたルールに子供たちを断固従わせるくらいの厳しさを持つべきである。
  • 卒業式の「日の丸」や「君が代」にしても、これを不服として卒業式をボイコットする生徒には卒業証書を授与しないくらいの強い態度をとってほしいものだ。
  • 今こそ「結果平等」から「機会平等」へと転換していくべきである。
  • 今の子供たちを見ていると「摩擦」に対する耐性ができていないという印象がある。これは、戦後の「行き過ぎた結果平等教育」の影響であろう。
  • 憲法には「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」(26条)とある。しかし現状では、この「能力に応じて」という点は無視され、「結果」だけの平等が目指されている。
  • 私たち日本人は「自立と勤勉の倫理」を再び取り戻さなければならない。
  • 現在の雇用情勢は厳しいですが、仕事を選り好みしなければ、働ける場所は沢山あります。
  • 私の両親が若かった頃は戦後の混乱期で、食料も社会資本も不足し、子育て支援などの福祉制度も今ほど整ってはいませんでした。仕事を選ぶ余裕もなく、歯を食いしばって勤勉に働いて頑張ってきた世代です。
  • その方々のおかげで今の私たちがいるのです。若い世代までが富を生み出さずに福祉のお金を使っていては日本も滅びますので、キャリア教育などで子供たちの勤労観や職業観を養うことも含めて、もう一度大事な価値を取り戻したいと考えています。

右翼政治家安倍晋三が泣いて喜びそうな内容である。総裁選をめぐり、その安倍が高市早苗支援に鞍替えしたのは、岸田文雄(64)をけん制する狙いもあるとみられる。岸田が安倍政権で強い批判を浴びた森友学園問題などについて説明の必要性を訴え、安倍は再燃を警戒しているためだ。「国民が納得するまで説明を続けることが政府の姿勢として大事だ」。岸田はテレビ番組で、森友問題についてこう強調。党本部から河井克行元法相夫妻側へ支出した1億5,000万円や「桜を見る会」など、安倍政権で相次いだ「政治とカネ」の問題に関しても、同様の考えを示したそうだ。第100代の総理大臣を「憲政史上初の女性首相」という点には異論はない。しかし高市早苗がそれに相応しいとは論外であることは言うまでもない。

2021年9月3日

二階から突き落とされた菅義偉

菅義偉

自民党の総裁選立候補を表明した岸田文雄が8月26日、会見で「総裁を除く党役員の任期につきましては、1期1年・連続3期までとすることによって、権力の集中と惰性を防いでいきたいと思います」と発言した。いわば二階外しと言えるもので、当の二階俊博は激怒したという。菅義偉首相は8月31日、二階俊博幹事長の交代を含む自民党役員人事、内閣改造を9月上旬に断行すると岸田潰しの作戦に出た。ところがは菅義偉はきょう9月3日午前に開かれた党役員会で、今月に予定されていた党総裁選に立候補しないことを表明したという。出席者によると、首相は「コロナ対策に専念する。総裁選には出馬しない」と語ったという。当ブログに8月26日「菅義偉コロナに死す菅義偉コロナに死す」と題した一文を投稿、首相としての菅義偉が死に体であることは明白であると断じた。誰がどう考えても続投は無理と判断しているに違いないと感じたからだ。そういう意味では、総裁選不出馬の表明は遅きに失したとも言える。菅内閣の発足からほぼ1年、安倍晋三前首相の路線を引き継ぎながら新型コロナの対応に追われ、後手、小出しといった世論の批判が集中。しかも世論を無視して東京オリンピック、パラリンピックを強行開催した。最終盤は自民党内の「菅離れ」に拍車がかかり、万策尽きて退陣を余儀なくされた。頼りの二階から突き放されて転がり落ちてしまったのである。

官邸  菅義偉総理自由民主党総裁選挙に立候補しない意向の表明についての会見 | 首相官邸