2020年4月29日

閲覧者が 3,000 人を超えた Facebook ページ


ソーシャルメディア Facebook で私が管理しているページ「アメリカンルーツ音楽」の閲覧者が今日3,000人を超えた。なぜ日本人がアメリカ音楽のページを、と不思議に思う人が多いかもしれない。同サイトには外国人が作っている日本の浮世絵やヲタク文化のページもあるし、そういう意味では別に不思議ではないと思っている。ページを「いいね!」した人の性別と年齢の集計データを見てみよう。ユーザーのプロフィールに記載されている情報に基づいて集計された推定値でである。男女とも65歳以上の高齢者が一番多い。ソーシャルメディアは若者というイメージなので意外だ。利用者が Facebook プロフィールに入力した年齢や性別などのさまざまな要素に基づいて集計されたものだそうである。


管理人が日本人と知った人から「日本語で」というメッセージが届いたが、外国人のほうが多いので、と返信したこともある。国別アクセスのベストテンは次の通りである。( ) 内は人数。
  1. アメリカ合衆国(1,999)
  2. 日本(145)
  3. イギリス(122)
  4. カナダ(79)
  5. オーストラリア(59)
  6. イタリア(46)
  7. フランス(44)
  8. ドイツ(31)
  9. スウェーデン(28)
  10. スペイン(27)
アメリカからのアクセスが圧倒的に多いが、イギリス、カナダの英語圏、そして英語を解する人が多いヨーロッパからと続くのがお分かりいただけると思う。日本が2番目だが、これは私の Facebook フレンドが含まれているからだと思う。閲覧者が1万を超えるページがざらにあるが、3,000人は3番目のマイルストーン、日本流にいえば距離は違うが三里塚だと思う。それにしても創設が昨年1月31日だから、ここまで達するまで意外と時間がかかったと思う。次のマイルストーンは4,000人だが、さて、いつ達成するだろうか?

2020年4月28日

もっと語学の勉強をしておけば良かった

ジェイムズ・ジョイス著『ユリシーズ』全三巻

バスのつり革に掴まっている、私の前に立った若い女性を見上げたら、どうやら読んでいるのは洋書らしい。目を凝らすと、それがジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』ということが分かった。ふーん、凄い、と感心する。私は邦訳の文庫本を10年以上前に購入したが、未だに読み終えていない。短編集だが、少し読んでは置いてしまう、そんな本である。ピンホール写真仲間の女性は「原書で読んだほうがいいわよ」と私に勧める。彼女は英語教師だからスラスラ読めるだろうが、私にはトンでもない話である。なにしろ日本語でも読破していないのだから。そのジョイスといえば、分厚いハードカバー3分冊(文庫版は4分冊)の高松雄一・丸谷才一 ・永川玲二(共訳)『ユリシーズ』(集英社1997年)も持っている。

ニック・アダムズ物語
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と並んで、20世紀における2大小説と呼ばれているものだが、まだ1ページも読んでいない。なぜ購入したか記憶が曖昧である。アイルランド旅行をし、ダブリン訪問の余韻が残っていたときに衝動買いしたものかもしれない。くだんの英語教師の彼女は「これも原書がいいわよ」という。『ダブリン市民』も読みかけなのに、無理、無理である。そういえば昔、学生時代に米文学を専攻していた女性に「アーネスト・ヘミングウェイは原文で読むべきね、彼はジャーナリストだから簡潔で分かりやすい英語だし…」といわれたことがある。その気になった私は "The Nick Adams Stories"(ニック・アダムズ物語) という短編集を入手したものである。主人公ニックはヘミングウェイの分身で、スペイン戦争から帰還した青年、ロストジェネレーションの物語である。晩年の彼はその代表作『老人と海』が暗示しているように、大魚を狙った海釣りをする。しかしここには川釣りで鱒を追って戦争の傷を癒す若きヘミングウェイの姿が投射されている。と、もっともらしい解説をしかけたが、これは後に読んだ邦訳版『ヘミングウェイ釣文学全集(上巻)鱒』(朔風社)で仕入れたものだ。オンライン版の原書を翻訳ソフトを使いながら、何とか拾い読みすることができた。翻訳本でも十分楽しめる、と強がりを言ってみるものの、どこかに引け目を感じてしまう。やはり原書を読めるに越したことはないのだ。手元にノーベル文学賞作家、トルコのオルハン・パムクの『イスタンブール』がある。嗚呼、原書を読めたらいいのに。嗚呼、もっと語学の勉強しておけば良かった。

2020年4月25日

ピクトリアリスムとピンホール写真の接点

Dancing Girls at Okazaki Park Kyoto with Harman TiTAN 4x5 Pinhole Camera and Fujifilm 160NS

Alfred Stieglitz: Hand of Man (1902)
香港のゼロイメージ社と英国ハーマン・テクノロジー社の4x5インチピンホールカメラを持っているが、鮮明ですね、とよく言われた。その理由のひとつとして、フィルムの面積が関係していると思う。ピンホール写真は光の直進性を利用するので、針孔の口径とフィルムのフォーマットが画素数に影響する。針孔の口径が小さければ画素数は増える理屈になるが、余り小さくすると光の回折現象によって画質が劣化する。適正針孔口径の計算式があるのだが、その通りに正確に作るにはレーザードリルが力を発揮する。だからホルガやゼロイメージなどの既製カメラの画像は鮮明なんだと推測している。私はレンズなしのカメラでどこまで写るかという興味を持ち、8x10インチのボディを特注したり、超精巧針孔基板を取り寄せてテストしてみた。ピンホール写真は鮮明さを追求するものではないが、まあ、好奇心である。しかし周囲の人たちの多くの作品の鮮明度が上がるにつれ、なんだかオカシイな、と感ずるようになったのである。だから三脚を使わず、わざとブラした不鮮明な写真を作るようになった。写真術の出現は長い人類の歴史から俯瞰すれば、つい昨日のことと言える。その黎明以降、人々は精巧なレンズを開発、より鮮明な映像を定着しようと努力してきたと信じてる人が多いかもしれない。ダゲレオタイプは1839年にフランス学士院で発表されたが、驚くほど短期間の間に肖像画に取って替わってしまった。写真が持つ明解性が絵画を凌駕したからだ。ところ19世紀末になると、カーボンやゴム、オイル、ブロモイルを使った印画法が流行る。絵画における印象派の影響を受け、ソフトフォーカスによって芸術性を高めようという動きが起こるのである。いわゆるピクトリアリスム、絵画主義写真だが、皮肉なことに写真が持つ明解性を写真家自ら排除してしまったと言える。

George Davison: Onion Field (1890)
その背景にはディテールへの嫌悪感だったと言えそうだ。つまり見えなくとも良いものまで見えてしまうことへの恐れだった。ピクトリアリスムの旗手はアメリカではアルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)、日本では野島康三(1889-1964)らであった。ところが1910年代半ば、忽然としてピクトリアリスムは頓挫、この二人も含め写真界はストレート写真へ回帰してしまう。精密な描写力こそ写真の特質であるというのが主張だった。以上は余りにも駆け足過ぎる歴史記述だが、ピクトリアリスムとピンホール写真の間に何らかの関係はないだろうか、ということを調べたことがある。1890年にジョージ・デイヴィソン(1854-1930)が撮ったネギ畑のピンホール作品が、ロンドン写真協会の年度最高賞を受賞し話題になった。そして2年後には Photonimbuses(フォトニムバス)というピンホールカメラがロンドンで4000台も売れたそうだ。ソフトフォーカスの流行がピンホール写真を受け入れたと解釈できないことはない。しかし調べた限りでは、その後のピクトリアリスムの歴史にはどうもピンホール写真は登場しないようだ。つまり両者には大きな接点を見つけることはできない。別の方向で歩んで来たと言えそうだ。不鮮明な画像を得ようとするなら、ソフトフォーカス効果が得られるフィルターやレンズを使えば良い。わざわざピンホールカメラを使う必要はない。また逆に、冒頭に触れたように、ピンホール写真は鮮明さを得ることが目的ではない。不鮮明でも構わないのではないかと居直ったとき、その先に展開するものは何だろうか。困るのは、コンテンポラリー・ピクトリアリスムを目指していると勘違いされることである。

2020年4月24日

続:オンライン翻訳ツールの実力(英訳編)


引き続き今度はオンライン翻訳ツールで日本語を英訳してみた。日本文学の研究者としては、コロンビア大学名誉教授だったドナルド・キーン(1922–2019)が名高く、近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など古典から現代文学まで研究対象にした。ここで取り上げる夏目漱石(1867–1916)の『草枕』について、高く評価するものの「表現の美しさや後味の良さ」であり「物語の面白さは谷崎や芥川等に及ばない。世界の古典になかなかなれないと思う」と評論しているのが興味深い。以下、冒頭の書き出しと、そのオンライン翻訳。
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
Google翻訳
I thought about this while climbing the mountain path. If you work for Satoshi It will be washed away if you feel it. It's cramped if you get it right. Anyway, people's world is hard to live in. The more difficult it is to live, the more you want to move to a cheap place. When you realize that it is difficult to live wherever you go, poetry is born and you can draw.

DeepL翻訳
I thought as I climbed the mountain road. If you work with wisdom, you will have horns. If you let your feelings get the better of you, you will be swept away. It's cramped if you get your way. Anyway, the human world is hard to live in. When it becomes difficult to live, you want to move to a cheaper place. When you realize that no matter where you move to, it's hard to live, poems are born and paintings are made.

Weblio翻訳
I thought in this way while climbing the paths of mountain. It creates hard feelings if it acts on intellect. It is strolled if I point to the pole in feeling. It is tight if I maintain guts. The secular society is hard to live if I rake this. When I live, and hate grows on, it goes down and wants to move to the cheap place. When I realized that it is hard to live even if I move to where, poetry is born, and there is an image.

Excite翻訳
I thought of Yamaji so while climbing. When operating on cleverness, I give offense. When sticking a pole into affection, it's let run. When having the own way, it's tight. It's difficult to live in an edge for the world. When difficulty in living there is aggravated, I feel like pulling it to an inexpensive place and coming. When perceiving to be difficult to live there wherever you came, poetry can be born and do ga.

書籍翻訳(Alan Turney)
Going up a mountain track, I fell to thinking. Approach everything rationally, and you become harsh. Pole along in the stream of emotions, and you will be swept away by the current. Give free rein to your desires, and you become uncomfortably confined. It is not a very agreeable place to live, this world of ours.

漱石の『坊っちゃん」などの作品の英訳を手掛けた英国のアラン・ターニー(1938-2006)は『草枕』を直訳せず "Three Cornered World" 題して訳しているが「文字通りの意味は The Grass Pillow であり、日本の詩歌で旅を表す一般的な表現である。この表題を文字通りに訳しても、英語圏の読者には含意が伝わらないであろうから、私がこの作品の核心を表していると思うフレーズを本文から抜粋した方がよいと思った」と書いている。流れるような素晴らしい英訳で、流石、オンライン翻訳は遠く及ばない。

2020年4月23日

アベノマスク狂騒曲異聞


フェイスマスク
政府が配り始めた布マスクが集中砲火を浴びている。安倍首相が4月1日、全世帯に2枚配布すると表明したところ、不評の嵐となった。エイプリル・フールじゃないかと皮肉る海外メディアもあったという。マスクの確保と郵送などに必要な経費は合わせて466億円もかかることが分かった。束から2枚取り出し、封筒に詰めるには膨大な手間がかかる。金と労力を浪費する、実に馬鹿馬鹿しい施策である。さらに追い打ちをかけるように、カビや汚れの付着、虫、髪の毛の混入などの報告が相次いだ。ネットでは「アベノマスク」と嘲笑されているが、この愚策を主導したのは誰だろうか。週刊文春電子版によると、佐伯耕三首相秘書官が「全国民に布マスクを配れば不安はパッと消えますよ」と首相に進言したという。佐伯を秘書官に引き上げたのは、経産省の先輩にあたる今井尚哉首相秘書官だという。10万円現金一律給付に反対したのは今井尚哉補佐官だった。医療の専門家でない官僚がこの国のコロナウィルス対策を牛耳っているのである。ところで一般人のマスク着用を不要としてきたアメリカ政府が対応の見直しを迫られたようだ。マスクが普及するアジア諸国で比較的感染拡大が抑えられていることが背景にある。ところで口を覆うマスクをアメリカでは Face Mask と呼ぶが、フェイスマスクは日本ではスキンケア用のシートを指すことが多いようだ。Mask は仮面、あるいは覆面という意味だから、日本式表現のほうが正しいと思われる。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は単に Cloth Face Coverings(布製フェイスカバー)と表現、その作り方を下記リンク先で紹介している。鼻の上から顎の下までを覆うもので、その意味でも小さな「アベノマスク」は不合格である。

coronavirus CDC: Use of Cloth Face Coverings to Help Slow the Spread of COVID-19

2020年4月21日

日本捕鯨のルーツを旅する

小児の弄鯨一件の巻(肥前国産物図考1773年)部分

反捕鯨論に対する反論でよく目にするのは「文化」という言葉である。子どもの頃、確かに鯨のベーコンや鯨カツが食卓に並んだことがある。また鯨肉は学校給食に使われた。ところが現代では、スーパーで「大和煮」の缶詰などを見かけるが、鯨肉が日本人の主要な蛋白源となっているとは言い難い。オノミの刺身や、おでんの具であるサエズリ(舌)あるいはベーコンは、一部の食通が愉しむ高級食品と言えるのではないか。一般日本人の食生活から遠のき、今や食べたことすらないという現代人が多数を占めているのではないだろうか。事実南氷洋の調査捕鯨で獲れた鯨肉は売れ残っているという情報もある。残念ながら鯨なしでは生きて行けないという人は稀有ではないだろうか。従って「食文化」と主張するにはやや抵抗がある。それでは捕鯨そのものの伝統はどうだろうか。大雑把にいえば、江戸時代まで続いた太地などの古式捕鯨は、明治になって終焉してしまった。日本の沿岸を回遊する鯨が外国の船団によって大量捕獲され、激減してしてしまったからだ。

戦後、ノルウェー式の捕鯨を南氷洋で展開するようになったが、これをもって「捕鯨文化」とは言い難いのではないだろうか。しかし歴史的観点に立てば、厳として「捕鯨文化」は存在した。日本人と鯨の付き合いは古く、縄文時代にまで遡る。それは集落遺跡から発掘された鯨の骨がが証明してくれる。これは座礁漂着した鯨を獲ったものと推測されるが、古墳には捕鯨図らしき線刻画が見つかっているという。また奈良時代以降の古代、および中世の日本には捕鯨に関する記述が存在しないそうだ。専門的な集団(鯨組)によって、鯨から取れる肉や油、その他の製品を販売する目的で、戦国時代末期に始まった捕鯨を古式捕鯨と呼ぶ。中園成生・安永浩 (著)『鯨取り絵物語』(弦書房)はその古式捕鯨を、膨大な量の古文書を元に詳述したものである。添えられた数々の素晴らしい鯨の絵物語を見ると、少なくとも歴史を遡れば「捕鯨文化」が存在し、それが明治以降の近代化によって一挙に失われたことがよく理解できる。本書の魅力を拙文で伝えるのは至難の技である。日本は国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を2018年12月に決め、1986年以来となる商業捕鯨を再開した。捕鯨問題は国際的関心を呼んでいるが、捕鯨のルーツを旅させてくれる本書を強くお奨めしたい。蛇足ながら本書に関係する元資料は大学の図書館や、全国各地に所在する一般の博物館などに所蔵されている。研究者でない限り、目に触れ難いものも少ないなくないと思う。仮に閲覧する機会があっても、古文書を読み下すにはそれなりの知識が必要であろう。そういう意味でもこのような図書は、専門外の人間にとって非常に有難い存在と言えるだろう。なお本書に登場する捕鯨史料の一部は九州大学デジタルアーカイブでも閲覧できる。古文書そのもののコピーなどで研究者にとっても参考になると想像される。


news  和歌山県太地町で商業捕鯨による捕獲のミンククジラ入札(2020年4月15日付け紀伊民報)

2020年4月18日

三度も三途の川を渡りそこね

大腸の内視鏡検査

もうおよそ17年前になるだろうか、私は大阪の居酒屋で大量の血を吐いた。出血性胃潰瘍だった。救急車で運ばれたが、当直医が胃の内視鏡手術をできる人で、命を取り留めた。3日間集中治療室にお世話になったが、お陰でヘビースモーカーであった私は煙草を絶つことができた。2004年春、京都の桜開花を毎日追った。坂道を登ると胸に激痛が走った。掛かりつけの医院でこのことを話したら、心電図を見て心筋梗塞であることが分かった。またしても救急車で京都第二日赤病院に運ばれた私は、カテーテル手術を受けた。狭まくなった血管に人工の管を挿入し、血行を促す処置で再び命を取り留めた。翌年、人間ドックの検査結果、胃の内視鏡検査するように指示された。京都第二日赤の消化器科で調べて貰ったら胃ガンと分かった。告知後、外科部長から「ガンは転移が問題」と脅された。胃のリンパ節がガン細胞に犯されてるかどうかは手術をしてみないと分からないという。手術までの日にちが長かったことを思い出す。手術中、ガン細胞検査サンプル提供に協力した。築地のがんセンターが収集しているもので、いかに最小限の切除で済ますか、そのデータ収集だそうだ。同時期に大腸の検査をしたところ、ポリープが見つかった。これは放置するとガンになるという。内視鏡で切除した。というわけで私は3回、三途の川を渡りかけたことになる。生きているのが不思議なくらいだ。胃の手術後は人間ドックに行くのはやめ、毎年6月になると個々の検査をするようにした。ドックに行っても結局再検査という無駄が出るからだ。これだけの既往症があるので、新型コロナウィルス感染症 COVID-19 はやはり怖い。

2020年4月13日

希望の音楽:アンドレア・ボチェッリの無観客コンサート

  1. Panis Angelicus (from "Messe Solennelle" Op. 12, FWV 61) César Franck
  2. Ave Maria, CG 89a (from Johann S. Bach "Prelude" No.1, BWV846) Charles-François Gounod
  3. Sancta Maria (from "Cavalleria Rusticana", Intermezzo) Pietro Mascagni
  4. Domine Deus (from "Petite Messe Solennelle") Gioachino Antonio Rossini
  5. Amazing Grace John Newton
PDF  アンドレア・ボチェッリ「希望の音楽」曲目と歌詞の表示とダウンロード(PDFファイル 1.49MB)

2020年4月12日

ブログ開設は Blogger がおススメ

ブログは手軽な自己表現ツール

新型コロナウィルス感染症 COVID-19 パンデミックのお陰で、外出自粛を強いられてる毎日、ブログを書くことで時間をやり過ごしている。もしブログを開設したいとお思いなら、グーグルのブログサービス Blogger をおススメしたい。よく比較されるのが WordPress のブログツールで、拡張性の高さを誇っている。ただしサーバーとドメインを自分で用意する必要があるのが難点だ。その点、ビジネスを目的ならともかく、趣味の延長なら、無料の Blogger で十分である。国内のブログの利用ランキングは、FC2ブログ、アメーバブログ、ライブドアブログという順で、Blogger はその次、かろうじて4位となっている。特長は次の通りだ。
  1. 無料にも関わらず広告表示がない
  2. 無料にも関わらず制約が少ない
  3. カスタマイズしやすいテンプレート
  4. サイト全体が SSL 化している
無料のブログサービスで押し付けの広告がないのは、おそらくこの Blogger だけだと思われる。広告自体を頭から否定するわけではないが、ときに折角のブログの雰囲気を壊す恐れがある。広告が乱雑、満載のブログに出会うと、本文を読む気がなくなることがある。デザインを工夫してもぶち壊しなのである。逆に Blogger は望めば、アフィリエイト広告を自由に掲載できるので、収益につながる可能性がある。審査が厳しくやや狭き門らしいが、グーグル提供のコンテンツ連動型広告配信サービス AdSense も利用できる。テンプレートとは、テーマとも呼ばれる、ブログのデザイン雛型のことである。いわば衣裳なのだが、誰しもが他人と同じ服を着たくないものだ。GUI 環境のテーマデザイナーが用意されていて、背景、横幅、レイアウト、フォント、その他を自分好みに変更できるので、世界で唯一デザインのブログが出来上がる。HTML & CSS の知識があれば、更なるカスタマイズが可能で、プロの要望に応えた拡張性と自由度があると言われる所以である。なお常時 SSL 化はブログ運営者が見逃しがちだが、SSL/TLS という技術を用いて HTTPS 化(通信の暗号化)をすることで、訪問者が安心して利用することができるようになっている点は大きい。

Blogger  ブログを作成:伝えたいことを自分らしく発信、あなただけの素敵なブログを作りましょう。

2020年4月11日

続)家に居よう そして命を救おう

Stay Home and Listen to #LiveFromHome on Social Media

この画像は私が管理している Facebook ページ American Roots Music に掲載するために制作した。新型コロナウィルス感染症 COVID-19 パンデミックは、眼に見えない敵との戦いなのが厄介だ。いま考えられる感染拡大への防護策は「外出しないこと」に尽きる。感染者が動けばウィルスが伝播する。ニューヨークではテレワークに切り替えた人たちが助かり、地下鉄などの通勤を強いられている労働者、いわば貧困層に被害が広がっているという。富の差によって命の存在が分断されているのである。前エントリーでも触れたが、大小の会場の演奏会が次々に中止になり、音楽家に打撃を与えている。ライブ鑑賞できないファンのため、そして自らの活動継続のため「自宅からライブ」を始めた演奏家が増えてきたのが、一筋の光明かもしれない。

YouTube  動画共有サイト YouTube でハッシュタグ #LiveFromHome を付けた楽曲のリスト

2020年4月10日

ロゴ流用の YouTube リンクボタンの変更

動画共有サイト YouTube のアイコン

グーグルの動画共有サイト YouTube のロゴを使っていたリンクボタン変更することにした。これまで文字付きのロゴを流用していたが、文字無しのアイコンだけで十分通じるだろうという判断だった。改めてロゴやアイコンを管理しているページ「YouTube ブランドの使用について」をアクセスしてみたが、細かい使用規定があるのに驚いた。禁止されているのがまずロゴやアイコンの改変使用である。
文字付きのロゴの場合、アイコンと YouTube の間隔または YouTube の文字間隔を変更する。赤、黒に近いグレー、または白以外の任意の色を使用する。YouTube の書体を変更する。ドロップあるいはシャドウなどの視覚効果を加える。YouTube という単語の変更や置き換えを行う。ロゴの形を変更する。フレーズまたは文章の中でロゴを使用する、などが禁止されている。またアイコンの場合、アイコンの形を横方向や縦方向に伸ばす。三角形の角度やサイズを変更する。赤、黒に近いグレー、または白以外の色を使用する。アイコンを回転させる。特殊効果を加える。アイコンに模様や画像を追加する。三角形を他の図形やアイコンに置き換える。三角形を単語に置き換える。長方形の形を変更する、などが禁止されている。YouTube のアイコンは矩形ではなく、樽型で、タテヨコの比率はおおむね 10:7 である。これを私はタテヨコ同じ、ほぼ正方形に変形して使っていた。これを改めた機会に本稿を書いた次第である。

YouTube  YouTube ブランドとその使用に関する注意点についての説明(YouTube About)

2020年4月6日

家に居よう そして命を救おう

Stay Home Alone "Lonely Room - EP" (SHACD-0001)

写真は大阪のポップパンクバンドStay Home Alone CDアルバム Lonely Room - EP である。新型コロナウィルス感染症 COVID-19 パンデミックにより、世界全体が危機状態にあるが、いま各国で強く叫ばれているのが Stay Home(家に居よう)という呼びかけだ。上記 CD の演奏グループ名がオーバーラップするが、2018年8月1日にリリースされたもので、偶然とはいえ、今年ではない。イラスト自体は独りぼっちで留守番する少年を描いたと思われるが、直接関係がないにしても、なにかを暗示しているような気がしてここに掲載した。ウィルスの厄介は目に見えないことだ。マスクをして、こまめに手を洗うことが肝要だが、家から出ないのが一番の防護策だという。人が動けば動くほど、感染は拡大する。新型コロナウイルス感染症に関する専門家有志の会によると、人と会う機会を8割減らすことを心がけて欲しいという。例えば人と会う時は、屋内で会う人を10人から2人に減らす。外出は散歩、ジョギング、食料品の買い出し、通院、行く必要のある仕事程度にとどめるべきだという。家にいることが、多くの命を救うことになるというのだ。厄介なのは仕事をしないと生活破綻する人たちが大勢いることだ。休業するする代わりに国からの保障が必要だが、現政権の方針は不透明で頼りない。それでは家に閉じこもってどうやって時間を過ごすか。私は読書と音楽鑑賞で制御している。大小の会場の演奏会が次々に中止になり、音楽家に打撃を与えている。またライブ鑑賞できないファンのため、そして自らの活動継続のため「自宅ライブ」を始めた演奏家が増えてきたようだ。Facebook や Twitter などのソーシャルメディアで、ハッシュタグ #LivefromHome をキーワードに検索すると、その動向を知ることができる。

note  「全世代のみなさまにいま拡散してほしいこと」(新型コロナウィルス専門家有志の会)

2020年4月4日

いつでも陽の当たる明るいところに

The Carter Family (L-R) Maybelle Carter, A. P. Carter and Sara Carter

カーター・ファミリーの "Keep On the Sunny Side" は1928年5月9日にリリースされた。エイダ・ブレンクホーン(1858–1927)作詞、J・ハワード・エントワイル(1866–1903)作曲のこの歌は、人生は暗く苦しい面と明るく陽が差す面もあるが、いつでも陽の当たるところにいようと呼びかけている。
There's a dark and a troubled side of life;
There's a bright and a sunny side, too;
Tho' we meet with the darkness and strife,
The sunny side we also may view.

Keep on the sunny side, always on the sunny side,
Keep on the sunny side of life;
It will help us every day, it will brighten all the way,
If we keep on the sunny side of life.

Tho' the storm in its fury break today,
Crushing hopes that we cherished so dear,
Storm and cloud will in time pass away,
The sun again will shine bright and clear.

Let us greet with a song of hope each day,
Tho' the moments be cloudy or fair;
Let us trust in our Savior always,
Who keepeth everyone in His care.
スティーブン・フォスター(1826–1864)がミンストレル・ショーのために書いた、パーラーソング「つらい時代はもう来ないで」は貧困生活に疲れ果てた人たちのため息を歌ったもので、悲観的な内容だった。それに比べると、同じ困難な時代をテーマにしているが、人生に希望を抱かせる歌になっている。新型コロナウィルス感染症 COVID-19 パンデミックの悪夢に苛まれている毎日、この歌に救われるような気がしてならない。

YouTube  The Carter Family: Keep on the Sunny Side (Camden, New Jersey, May 9, 1928)

2020年4月3日

ジョーン・バエズに影響を与えた反戦活動家の母親

Mimi Baez Fariña, Joan Bridge Baez, Joan Baez, and Bob Dylan, New York, 1965.

音楽ファンならジョーン・バエズとボブ・ディランは無論、左がジョーンの妹、ミミ・ファリーニャであることは先刻ご存知だと思う。しかし真ん中の女性が、母親のジョーン・ブリッジ・バエズだということに気づかないかもしれない。ジョーン・バエズの政治スタンスに大きな影響を与えた反戦活動家だった。

ベトナム戦争徴兵拒否のポスター(1968年)
ジョーン・ブリッジは1913年4月11日、スコットランドのエディバラで生まれた。父親はプリンセス街のセイント・ジョン・エピスコパル教会の司祭だった。ブリッジ一家はカナダに渡り、後にニュージャージー州マディソンに移住した。高校生だった彼女はダンスパーティーで、メキシコ系アメリカ人の物理学者アルバート・バエズと知り合う。1936年にふたりは結婚、ポーリン、ジョーン、ミミの3人の娘をもうけ、一家はカリフォルニアに移り住んだ。ベトナム戦争へのアメリカの関与がエスカレートした1967年10月、ジョーン母娘はオークランドの米空軍誘導センターへの出入り口を2回封鎖して逮捕され、1か月以上刑務所で過ごす。翌1968年、三姉妹をモデルにした、徴兵拒否を促す反戦ポスター Girls Say Yes to Boys Who Say No(ノーという男の子たちを女の子たちはイエスと言う)が制作された。

ここで時計の針を戻そう。娘ジョーンのプロのシンガー・ソングライターとしてのキャリアは、1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルで始まった。1960年代の初めから中頃にかけて、母親と一緒にアメリカの公民権運動に関わっていた彼女は、フォークリバイバル運動の最前線に現れる。この激しい時代に若いボブ・ディランを世界に紹介するのを助けたのが彼女だった。ジョーン・ブリッジとふたりの娘は、ディランの背中にプロテストシンガーというラベルを貼り付けたのだった。ディランとバエズはなぜ結婚しなかったのかという疑問の文章を目にすることがある。政治的な歌からディランは一線を引きたかったのではないかと私は想像している。サラ・ディラン(シャーリー・マーリン・ノズニスキー)と1965年11月22日結婚、バエズ一家から穏やかに離れていった。

時計の針を進め、いきなり21世紀にスリップしよう。ジョーンは母親の100歳の誕生日について、自らの Facebook のページに「樫の木と春の花と100個の色とりどりの風船に囲まれた敷地内で、大々的なお祝いが行われました。150人の友人や家族が彼女に向かってハッピー・バースデーを歌い、その調べは物凄い勢いで通り過ぎて坂を下り、さらに小川へと続き、樫の木の中へと響いていきました」と綴っている。その9日後の2013年4月20日、ジョーン・ブリッジ・バエズはカリフォルニア州ウッドサイドの自宅で息を引き取った。

YouTube  Watch the video "Joan Bridge Baez On Her Daughter Joan Baez" on YouTube

2020年4月2日

閲覧者が 2,500 人を超えた Facebook ページ

Old-time music women's group, from the end of the 19th century to early 20th century.

ソーシャルメディア Facebook で私が管理しているページ American Roots Music(アメリカンルーツ音楽)の閲覧者が昨日2,500人を超えた。なぜ日本人がアメリカ音楽のページを、と不思議に思う人が多いかもしれない。同サイトには外国人が作っている日本の浮世絵やヲタク文化のページもあるし、そういう意味では別に不思議ではないと思っている。ページを「いいね!」した人の性別と年齢の集計データを見てみよう。ユーザーのプロフィールに記載されている情報に基づいて集計された推定値でである。男女とも65歳以上の高齢者が一番多い。ソーシャルメディアは若者というイメージなので意外だ。利用者が Facebook プロフィールに入力した年齢や性別などのさまざまな要素に基づいて集計されたものだそうである。


管理人が日本人と知った人から「日本語で」というメッセージが届いたが、外国人のほうが多いので、と返信したこともある。国別アクセスのベストテンは次の通りである。( ) 内は人数。
  1. アメリカ(1,656)
  2. 日本(134)
  3. イギリス(94)
  4. カナダ(66)
  5. オーストラリア(48)
  6. イタリア(42)
  7. フランス(37)
  8. ドイツ(28)
  9. スウェーデン(26)
  10. スペイン(24)
アメリカがダントツだが、イギリス、カナダの英語圏、そして英語を解する人が多い、ヨーロッパからのアクセスが多いことがお分かりいただけると思う。日本が2番目だが、これは私の Facebook フレンドが含まれているからだと思う。閲覧者が1万を超えるページがざらにあるが、個人の趣味ページとしてはそれなりの数字を獲得していると思う。しかし創設がちょうど1年前の1月31日だから、意外と時間がかかったとも言えそうだ。次のマイルストーンは3,000人だが、日本流に言えば三里塚、さて、いつ達成するだろうか。

2020年4月1日

世界ピンホール写真の日は4月26日(日)です


毎年4月の最終日曜日は、世界ピンホール写真の日(Worldwide Pinhole Photography Day)で、今年は4月26日(日)です。新型コロナウィルス感染症 COVID-19 を防ぐため、戸外では人混みを避けての撮影に心がけましょう。外出自粛要請がある地域では、室内でのスチルライフ(静物)撮影をお勧めします。この日に制作されたピンホール写真を、下記ウェブサイトにアップロードすると、特設ギャラリーに掲載されます。

WPPD 2020年世界ピンホール写真デー(WPPD)ウェブサイトへようこそ!