2017年11月21日

ツイッターに再参加する

Twitter Wallpaper

ソーシャルメディア Twitter アカウントを取得したのは2009年、日本語版サービスが開始されてから約1年後だったと記憶している。現在の tweet 数は 7,500 弱だが、このほとんどは参加後数年の投稿で、次第に遠ざかり、幽霊会員と化してしまった。おそらく2010年秋に Facebook に参加したためだったと思われる。ところが最近フトしたきっかけで tweet を再開した。Facebook でも同じような機能があるが、ちょっとした気遣いが必要だからだ。ちょっとキザかもしれないが、私の FB フレンドは外国人が多い。そこで日本語を連発すると迷惑じゃないかと心配してしまう。逆に英語ばかりだと、日本のユーザーにとっては鬱陶しいのではと思ってしまう。その点 Twitter のフォロワーの大多数が日本人なので、遠慮なく tweet できる。それに140字以内という制限も、割り切れて良い。私はフォローしていないが、ネットニュースなどで橋下徹元大阪市長の連続 tweet を目にすることがある。まあ、他人がどのように使おうが構わないが、分割して投稿するくらいなら Facebook のほうが良いのにと思ったりはするが。久しぶりにアクセスして気づいたのだが、retweet などが簡単にできるようになっていて、それなりに進化していると痛感した。蛇足ながら tweet を「つぶやき」と呼んでいるが、正確には「さえずり」である。しかし人間は小鳥と違ってピーチクさえずるわけではないので「おしゃべり」が適訳かもしれない。もっとも政治談議となると、丁々発止の激論になるので「演説」のニュアンスを感ずることもある。さらに蛇足ながら高音用スピーカーは tweeter で、低音用は woofer である。後者は犬などの唸り声を指す。それこそ Facebook のように、アメリカ人の命名法にはつくづく感心する。

2017年11月20日

姉妹都市提携破棄を迫る吉村洋文大阪市長の愚


慰安婦キリム碑除幕式が9月22日、サンフランシスコのセント・メリーズ・スクエアで行われた。この慰安婦像と碑文の寄贈を受け入れる決議案をサンフランシスコ市議会が可決したが、姉妹都市である大阪市の吉村洋文市長が反発、エドウィン・M・リー市長宛てに抗議の書簡を送った。議会に対し市長が拒否権を行使しないと姉妹都市提携を破棄するという内容であったようだ。これに対し今月19日、朝日新聞が社説で「ちょっと待ってほしい。姉妹都市の関係のもとで育まれてきた交流は、双方の市民の歴史的財産である。市長の一存で断ち切ってよいものではない」と主張した。これに対し吉村市長は自身の Twitter 上で「『ちょっと待て』はこっちのセリフだよ、朝日新聞」と噛み付いたのである。一連の騒動から私は橋下徹前大阪市長が2013年に、慰安婦問題にからめ、民放番組で風俗業の活用を在日米軍に求めたことを思い出した。この発言は国際的に顰蹙(ひんしゅく)を買い、予定していた公式訪問を、サンフランシスコ市長から拒否されるという大恥をかいてしまったのである。今回の吉村市長の言動は、橋下前市長の指示なのか、それとも前市長の私怨を忖度してのことか不明だが、いずれにしても南京虐殺や従軍慰安婦を否定する日本の「歴史修正主義者」と揶揄されても仕方ないだろう。読売新聞が「米国の慰安婦像、姉妹都市解消はやむを得ない」と社説で援護射撃したが、まさに世論を分断する「朝読戦争」の様相を呈している。長い年月をかけて培った姉妹都市を、議会や市民に諮らずに、市長の独断で交渉の切り札にするとは余りにも非民主的で情けない。右翼、いや保守主義者は「憂国」という言葉をしばしば使うが、ちょっと待ってほしい、それはこっちのセリフだと言いたい。

2017年11月17日

受動喫煙:美しいと称賛されたニッポンが薄汚い国になりつつある


今朝のテレ朝ニュース電子版によると、厚生労働省は、30平方メートル以下の飲食店に限って喫煙を認める方針だったが、自民党の反発を受けて方針を転換し、店舗面積が150平方メートル以下の、より大型の飲食店でも喫煙を認める新たな案の検討に入ったそうだ。これを認めると、東京都内ならば9割近くの飲食店で喫煙が可能になる見込みだという。東京都議会が10月5日に「東京都子どもを受動喫煙から守る条例」を賛成多数で可決成立させたばかりだが、30平方メートル以下の飲食店なら喫煙を認めるというものだった。これでも受動喫煙は防ぎえないと思っていたが、さらに店の許可面積を広げるというから呆れる。毎日新聞11月16日電子版によると、英国の「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)」が受動喫煙に対する日本の対策は「最低ランク」と警鐘を鳴らしたという。世界55カ国が公共の場での屋内全面禁煙を法制化して15億人の健康が守られているのに対し、日本は飲食店や職場など多くの場所で喫煙が許されており「規制レベルは最低ランクの位置付け」と紹介。国民の大多数を占める非喫煙者の声が少数の喫煙者に負けているのが現状だとし、煙草、外食、娯楽産業の圧力が強く、財務省がJTの33%の株を保有している事実もロビー活動を容易にしている可能性があると指摘したのである。かつては海外から美しいと称賛されたニッポンが、薄汚い国になりつつある。

追伸:石田雅彦氏の記事「受動喫煙防止『厚労省150平方m案へ後退』報道の意図」によると「受動喫煙防止対策で厚生労働省が、飲食店の喫煙許容面積を150平方m以下にすると後退」などという内容の報道が一斉にあったが、厚労省の健康増進課に直接、確認してみたそうだ。するとそんな検討はしていない」という回答で「どこからそんな情報が出たのかわからない」と怪訝な様子だったという。事実なら私のこの一文は根底から崩れることになります。新たな情報を待ち、このエントリーをどうするか検討したいと思います。(11月19日)

2017年11月14日

フライドチキンではないケンタッキー・カーネルズ

The Kentucky Colonels at the Ash Grove, Los Angeles, California, 1966

米国ケンタッキー州から何を連想するだろうか。首府ルイヴィルのケンタッキーダービーを思い浮かべる人がいるかもしれない。しかし何と言っても日本人に馴染みがあるのはKFC(ケンタッキーフライドチキン)ではないだろうか。その象徴であったカーネル・サンダースの像がずいぶん前に大阪・道頓堀川から救い出されて話題になったことがある。KFCのウェブサイトによると、この像の原型はカナダのあるフランチャイズ店舗で作られたもので、イベントで使用された後は倉庫で眠ったままになっていたという。日本KFCの幹部がその立像をみつけて、日本に持ち帰り、店頭に置かれた。だから日本だけのものだという。私は1970年代、ケンタッキーの本店前を通り過ぎたことがあるが、像があったか憶えていない。日本にKFCができた1970年だそうだが、確かこの年、神戸のトアロードにできたばかりの店を取材した。連れて行ってくれたのは、新しがりやの女子高校生だったが、これまた像があったかどうか記憶にない。カーネルは大佐を意味するが、一種の名誉称号で、州に貢献した人に贈られるようだ。ケンタッキー州と言えば、私ならブルーグラス音楽がまず頭に浮かぶ。州のニックネームがブルーグラスで、ビル・モンローが率いたバンド名がブルーグラス・ボーイズというのがその謂われである。同じケンタッキー・カーネルでも、こちらは「S」が付いた複数形になっている。フランス系カナダ人のエリック・ホワイト・シニアの3人の息子、ローランド、エリック、クラレンスと娘のジョアンが1954年に西海岸のロサンジェルスで結成した "Three Little Country Boys" がケンタッキー・カーネルズのルーツだ。

Shikata Records SRCD-1002 (1999)
ローランドがビル・モンローに傾倒、フラットマンドリンを手にしたことからブルーグラスバンドに変身、1957年には地元局でレギュラー番組を持つようになる。1963年にファーストアルバムを出すが、このときからケンタッキー・カーネルズを名乗るようになった。上記ケンタッキー州の名誉称号を意識したものであろう。徴兵で抜けていたローランドが戻り、フィドラーのボビー・スローンが加わり、グループは全米ツアー敢行する。1964年にはUCLAとニューポートのフォークフェスティバルに足跡を残している。その後、天才フィドラーであったスコッティ・ストーンマンを迎えたが、1965年に解散する。ケンタッキー・カーネルズが今日でも強い支持を得ているのは、なんと言ってもクラレンス・ホワイトの技巧を凝らした、華麗なギターテクニックの魅力によるものだろう。ジョージ・シャフラーやドン・レノの奏法を基に、彼独自の発想が加わった革命的奏法である。フラットピックによる早弾きは、古くはアルトン・デルモア、その影響を受けたドク・ワトソン、そしてトニー・ライスが有名だが、いずれも演奏スタイルは微妙に違う。クラレンスは、1968年にザ・バーズに参加、フォークロックの礎を築いたひとりだが、 1973年に交通事故でこの世を去った。弱冠29歳だった。左のアルバムは1965年録音の音源を、1999年に Shikata Records の故・四方敬士氏の尽力でCD化されたもので、パーソネルはクラレンス・ホワイト(ギター)ローランド・ホワイト(マンドリン)ビリー・レイ(バンジョー)ロジャー・ブッシュ(ベース)の4人。スコッティ・ストーンマンとの共演など、何枚かのCDが出ているが、録音状態も良く、彼らのベストアルバムだと思う。

2017年11月12日

安倍政権とジャーナリズムの危機

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日 時:2017年12月2日(土)18:30~
会 場:クレオ西ホール(大阪市此花区西九条6-1-20)
講 演:望月衣塑子(東京新聞記者)
演 奏:長野たかし(元「五つの赤い風船」)&森川あやこ
報 告:木村真(森友問題を考える会)
主 催:とめよう改憲!おおさかネットワーク

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2017年11月11日

気分は紅の豚

サボイアS.21試作戦闘飛行艇を操ってアドリア海を飛ぶ紅の豚

イタリア版ポスター(クリックで拡大)
先々月末「ファシストになるより豚のほうがマシさ」と題して、ブログやソーシャルメディアなどのプロフィール用画像を、宮崎駿監督アニメ作品「紅の豚」に切り替えたと報告した。これまでネット上のユーザーネームは実名を、漢字あるいはローマ字で表記してきたが、これはバーチャルとリアル社会を繋げようという趣旨の Facebook の影響だと言えそうだ。しかしその前は、実名での活動は住所を特定されるなどのリスクが高く、ストーカー被害や嫌がらせなどから自身、または身内の危険回避、自己防衛の意味でハンドルを使うのが常だった。過去に経験したミートアップでは、実名よりハンドルで呼び合ったことが多かった。というわけでついでにブログやソーシャルメディアなどのハンドルも思い切って Porco Rosso(紅の豚)に変更した。ただし実名やメールアドレスを知りたい人には、その表記がある自己紹介ページに辿れるようになっている。実名はいわば親から与えられたものだが、ハンドルは自分が選ぶという主体性がある。紅の豚の援用はいささか安易であることは否めないが、何となく紅の豚の気分になったのが面白い。宮崎監督は今年1月に76歳になったが、イタリアのミカエラ・オンガレッチさんの「76になった宮崎駿、紅の豚との最高の願い」といった記事も、何だか自分が褒められてるようで、楽しく読むことができた。他の宮崎監督作品とやや異なり、いわば男のロマンが通奏低音として全篇を流れているが、女性であるにも関わらず、その点も深い洞察を加えている。そして何よりも物語の舞台がアドリア海であることが、身近でお気に入りのようだ。女性と言えば、監督を両脇で支える最も重要な存在が作画監督と美術監督なのだが、そこを女性で固め、さらに録音演出でも女性を抜擢、重要なポジションをすべて女性で占めたそうだ。つまり女性が作った映画であり、当時のアニメーション界全体を見渡しても画期的なことだったという。ところで航空機に関しては全く不案内だが、紅の豚の操った機体は「サボイアS.21試作戦闘飛行艇」で、この作品のために練り上げられた架空のものだという。この機体は実機のサボイアS.21ではなく、宮崎監督がが小学生の時に見た写真がモデルで、その飛行艇はマッキ M.33とされているそうだ。いわば個人的な趣味として作られたようだが、その辺りに興味を抱き、制作秘話を期待して『ジブリの教科書7紅の豚』を注文してしまった。

2017年11月8日

真珠湾奇襲攻撃秘話ニイハウ島の悲劇

真珠湾の航空取材を終えホノルル空港に戻ったイヴランドさんと私(1976年12月)

ちょうど75年前の1941年12月7日、日本時間12月8日未明、日本海軍はハワイ州オアフ島の真珠湾を航空機および潜航艇で奇襲攻撃をした。写真は1976年の12月中旬、ホノルル空港で撮影したもので、私が穿いてるベルボトムのジーンズが時代を感じさせる。フィルムスキャンしたもので、好天下でコントラストが高いのが難点だけど、流石コダクローム、40年を経ても変褪色の兆しがゼロである。横にいるのはパイロットのイヴランドさん。この日は旧日本軍の戦闘機の飛行コースに沿って真珠湾に侵入、湾内を何回か旋回し撃沈した戦艦アリゾナの記念館を撮影した。この地域にはアメリカ海軍太平洋艦隊の司令部や太平洋空軍の基地などになっているので、しばらくすると管制塔から無線で「退去せよ!」と怒鳴られ、すぐそばのホノルル国際空港に着陸、ほっとしたところを記念撮影したものだ。イヴランドさんと一緒にハワイの島々を飛び回ったが、彼は飛行機操縦教官の資格があり、風が穏やかな洋上では時々操縦桿を握らせて貰った。だから私は4~5時間の飛行教程を履修したことになっているのである。真珠湾奇襲攻撃を受けた米国は日本に宣戦布告、これがハワイに住む日系人に複雑な影を落としたことは言うまでもない。ところでニイハウ島事件をご存知だろうか。

西開地重徳一飛曹
焼却後の西開地飛曹搭乗のゼロ戦
真珠湾第二次攻撃のため、戦艦「飛龍」を飛び立った零式艦上戦闘機(ゼロ戦)がエンジンの故障で不時着、奇怪な展開を見せた事件である。この島には軍事施設がなく、万が一のために不時着地として日本軍が指定してあったものだ。パイロットは西開地重徳一飛曹(海軍一等飛行兵曹)、軽傷だったようだが住民が手厚く看護したという。ところがその住民の一人が機内から地図と拳銃を盗み出した。地図は帝国海軍の軍人にとってはいわば機密書類、住民との間に緊張感が漂った。間に立ったのがカウアイ島から農場の管理人として働きに来ていた日系二世の原田義雄夫妻だった。最終的には西開地一飛曹は住民との抗争によって殺されるのだが、これによって原田さんも自害する。アメリカ人でありながら日本軍に加担したというジレンマに陥ってしまったからだ。ニイハウ島はロビンソン一家が私有する小島で、先住ハワイアンの生活様式を継承している。許可なしには誰も上陸できなく、私も申請したが無理だった。カウアイ島でヘリコプターをチャーター、上空から島の様子を窺った。礼拝を終えたと思われる住民が教会から出てきたところを見たくらいで、パイロットが低空飛行を嫌がったこともあり、その生活実態を撮影することはついにできなかった。現在でも島の一部を散策できるツアーもあり、上陸については容易であるが、島民への接触は招待された者以外は認められていないという。

欧州戦線で名を馳せた第442連隊戦闘団の日系人兵士たち
移民というのはひとつのプロセスを辿るようだ。まず農業、漁業などの労働に従事する。次に教育を受けた子弟が、教員をはじめ公務員になる。無論企業にも務める人もあれば、起業する人も登場する。スポーツ選手が現れ、政治家も誕生する。音楽や絵画などの芸術家が生まれるが、最後に現れるのはその国の言葉を使う文学者だという。当時、詩で受賞したという日系三世の女子高校生のことを新聞で知り訪ねたことがある。顔かたちが日本そのものなのに、会うと英語しか喋れず、奇妙な感じを抱いたものである。どうして二世たちは三世に日本語教育をしなかったのか。大戦中ハワイから欧州戦線に送られた日系米兵の「第100歩兵大隊」「第442連隊戦闘団」はドイツ軍と果敢に戦い、米軍内では稀にみる大きな戦績を残した。ところが皮肉なもので、戦場で活躍したがうえに「やはり日本人は怖い」と逆の評価も囁かれてしまったのである。すべての日系人がそのようにしたか不明だが、このような苦い経験から、より「アメリカ人」になろうと子弟に日本語を教えなくなったという。これは例えば華僑の世界とはずいぶん違う。ニイハウ島事件から逸れたが、ハワイに住む日系人の複雑な深層心理を一枚の写真から思い出した次第である。

2017年11月6日

ジョー・ヒル:天国のパイ

群衆に囲まれて墓地に向かうジョー・ヒルの棺(シカゴ1915年11月25日)

アメリカの大恐慌は人々の生活を苦しめたばかりではなく、結果的にドイツやイタリア、日本などのファシズムを生み、第2次世界大戦への引き金となった。アメリカはつくずく記録魔の国だと思う。魔と書いたが、良い意味である。手元に絶版となったソングブックが一冊ある。"Hard Hitting Songs For Hard-Hit People" と題されたこの書籍は、1967年にニューヨークのオーク・パブリケーションズから出版されたもので、編纂は民謡蒐集研究家のアラン・ロマックス、フォークシンガーのウディ・ガスリーとピート・シーガーで、小説『怒りの葡萄』の作者ジョン・スタインベックが序文を寄せている。私が所有しているのはハードカバーだが、2012年にペーパーバックス復刻版が出たので、現在は入手可能である。それはともかくこのソングブックには大恐慌が産み落とした歌の数々が収録されていて、庶民の視点による貴重な記録になっている。この中から一曲紹介しよう。これはジョー・ヒル(1879–1915)が作った "Pie in the Sky"(天国のパイ)という歌である。
悼んではならない 団結せよ!
長髪の説教師どもが毎晩やってくる
何が悪いか何が良いかやつらは語る
でも何か食べるものはと訊いてごらん
やつらは甘い声でこう答えるだろう

そのうちに食べられるようになるさ
天の上の栄光ある国で
働き祈りなさい干し草で暮らしなさい
死んだら天国でパイが手に入るだろう
ジョー・ヒルの生涯に関しては、1971年にアメリカとスウェーデン合作の伝記映画が公開されている。またジョー・グレイザー、フィル・オークスやジョーン・バエズなどがジョー・ヒルのことを歌っている。1879年スウェーデン生まれだが、1902年に移民としてアメリカにやってきた。無賃乗車で列車の旅をした人々をホーボーと呼ぶが、彼もその集団に加わったひとりであった。1905年にシカゴにおいて結成された Industrial Workers of the World(世界産業労働者組合)の運動に加わったが、最後はフレームアップで処刑されてしまう。集会条例によって街頭の演説が禁じられたいたため、賛美歌のメロディを使った替え歌で運動を展開したことで彼は知られている。奇しくもこれは、演説がだめなら歌で、ということで生まれた明治大正時代の添田唖蝉坊らの「演歌」と酷似しているのが興味深い。演歌はやがて風化して「艶歌」に化けてしまったが、アメリカではフォークソングとして育ち、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、そしてボブ・ディランへと歌い継がれていったのである。このソングブックにはFSA(農業安定局)プロジェクトが記録した、大恐慌時代の写真が多数掲載されていることを特筆しておきたい。ドロシア・ラングやウォーカー・エバンスなどが撮影したもので、現代ドキュメンタリー写真の礎(いしずえ)になった。大恐慌と写真というテーマで機会があれば書いてみたい。

YouTube  Pie in the Sky - Pete Seeger 1965    YouTube  The Ballad of Joe Hill - Phil Ochs

2017年11月5日

イスラームの科学者イブン・アル=ハイサムの偉大


イブン・アル=ハイサム 最初の科学者
イスラームいう言葉に接すると日本人は何を連想するだろうか。左手に聖典クルアーン、右手に剣という比喩に代表される宗教的攻撃性だろうか。中東に今なおくすぶる戦火だろうか。それとも産油国の為政者の豪奢な暮らしぶりだろうか。歴史的にはヨーロッパを震撼とさせた、オスマン帝国の覇権主義だろうか。いずれにしても、その結束力は時空を超えて、アジアからアフリカに至るまで、繋がりを持っている。多くの人々がプラスのイメージを持たず、負のそれを抱いてるのではと想像する。しかし工業立国日本は石油なしには生き延びることができない。その観点のみから外交政策が行われ、その文化に対する認識は立ち遅れてるような気がしてならない。だから10世紀において、イスラーム圏の科学がヨーロッパより遥かに進んでいたという史実が、日本人の認識の中に欠落しているかもしれないのである。サブタイトルを「最初の科学者」とした本書は、史上最も偉大な科学者の一人であるイブン・アル=ハイサム(アルハゼン 965-1038)の伝記および評論である。ペルシャ(現イラン)のバスラで生まれ、バグダードで科学を学んだ。アリストテレス、ユークリッド、アルキメデス、そしてプトレマイオスの業績を研究考察した。そして目から出た光が対象を走査し、そのことによって目の中に像が出来るというといった、彼らの視覚論を批判する。太陽その他の光源から出た光が対象に反射し、それが目に入って像を結ぶという正しい理論を提出し、現在から見てもかなり正確な眼球の構造を記している。本書は児童向け図書で、日本の子どもたちのために邦訳が待たれる。

イラク中央銀行の10000ディナール紙幣(2003年)
実験というメソッド使用することで科学へのアプローチを開発したのであるが、光学の分野での功績は大きい。ロジャー・ベーコン(1214-1294)からピエール・ド・フェルマー(1608-1665)までの中世ヨーロッパの科学者と数学者、そして天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)に影響を及ぼしたのである。彼はカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いたのだが、右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いたのである。このことからは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。像の左右の入れ替わりに触れているが、像が倒立することには言及していない。エジプトのファーティマ朝の第6代カリフ・ハーキムによってカイロに招かれ、ナイル川の洪水を治める研究をするよう指示された。しかしそれが困難と知った彼は独裁者の逆鱗を買ったが、気が触れたと偽る。結局カリフが没するまで幽閉されてしまうが、最終的に釈放されバグダッドに戻る。死ぬまでに科学に関するもう90冊の本を書いたと言われる。幽閉中に書かれた『光学宝典』著書は1572年に出版されたが、上記ケプラーを筆頭に、ルネ・デカルト(1596-1650)、クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695)、アイザック・ニュートン(1642-1727)などが更に光学を発展させて行った。少なくとも10~11世紀において、イスラーム圏は科学の先進を走っていたのである。

YouTube  Ibn Al-Haytham (Alhazen) - Optics: The True Nature of Light | by Jim Al-Khalili (EN)

2017年11月4日

東寺五重塔にどうして大日如来像がないのだろう?

阿弥陀如来坐像

五重塔はストゥーパ、すなわち釈迦の遺骨を安置する舎利塔である。東寺(京都市南区九条町)の五重塔は弘法大師が天長3(826)年に創建着手したが、しばしば災火を受けて焼失、現在の塔は寛永2(1644)年に徳川家光に寄進によって竣工したものだそうだ。東側から初層の内陣に入ると、心柱を背にした須弥壇に安置された阿閦(あしゅく)如来像が目に飛び込んで来る。そして反時計廻りに不空成就(ふくうじょうじゅ)、阿弥陀(あみだ)、宝生(ほうしょう)如来と続く。いずれも金色だが、中心に置くべき真言密教の主導、大日如来の姿がない。東寺塔頭宝菩提院住職だった三浦俊良著『東寺の謎―巨大伽藍に秘められた空海の意図』によると、空海は心柱そのものを大日如来と位置付けたそうである。大日如来は宇宙の真理を表わす仏である。この仏を心柱とみなし、その上で金剛界の密教世界を作り上げていったという。

2017年11月3日

ピンホール現象に関する「アリストテレスの難題」を解いてみよう

Annular Eclipse Shadows on May 20 in 2012 by ©Justin Soffer

木漏れ日の針孔現象
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ピンホールカメラの原理について訊かれると、私は「光の直進性を利用したもの」と答えることにしている。これで何となく納得してしまうらしく、例えば「どうして光は直進するのか」という突っ込みを受けたことがない。中国の経書によれば、紀元前5世紀に光の直進性が知られていた。墨子や荘子らは影について語っている。衝立にピンホールを開けて倒立した像を作ることを最初に記述したのは墨子である。墨子は物体が光をあらゆる方向に反射することも、物体の頂点がから発せられた光線が針孔を通過すると像を作りだすことを知っていたし、針孔を通過した光だけが像を結ぶことに気づいていた。ピンホール現象が人の手によらず発生するのを最初に観察したのは紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者アリストテレスだと言われている。日蝕のとき木陰になった地面に三日月形の像が浮き上がってるのを見て、葉と葉の小さな隙間がそれを作りだしていることに気づいた。像が倒立することに対しては、アリストテレスは頭を悩ますことはなかったようだ。太陽からくる円錐状の光を想定して単純に説明した。すなわち円錐の頂点が孔の位置にあり、それが反対側にもうひとつの円錐を作りだし、これが太陽の像を結ぶと考えた。彼が関心を抱いたのは、孔の形がなんであれ、太陽の像が日蝕時には必ず三日月形になることだ。これは「アリストテレスの難題」として残り、16世紀まで解決されることがなかったという。

光の直進性を証明する実験装置
10世紀、アラビアのアルハゼン(イブン・アル・ハイサム)がカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いた。彼は右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いた。このことからアルハゼンは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。形のまちまちな孔が、同じ太陽の円形の像、あるいは日蝕時に三日月形の像を結ぶのはなぜか? この「アリストテレスの難題」を16世紀になって解いたのが、ギリシャのフランチェスコ・マウロリコだったという。マウロリコはヨハネス・ケプラーの先駆者とも言える数学者であった。眼球が作る像とレンズのない小さな隙間が作る像、その両方に関する理論に没頭した、と歴史書は説明している。前置きが長過ぎたようだ。ここまで読んでいただいたあなたは、マウロリコがどのように「アリストテレスの難題」を説明したか知りたくなりませんか? 実は私がそうなのである。ところが、彼が解いたということが分かったものの、どのように説明したかは見つからないのである。私はピンホール、あるいはカメラオブスクラ関係の書籍をそれなりに持っている。しかしその中からは答えが出ずじまいだ。もしやと思い、インターネットで検索してみたが、やはり見つからなかった。仕方ない、それではということで、自分で考えることにした。あなただったらどう説明しますか?