2017年11月28日

大阪市議会はサンフランシスコとの姉妹都市解消を破棄すべきだ

首相官邸「自治体国際交流について」(画像クリックで拡大

サンフランシスコ市議会が民間団体からの慰安婦像および追悼碑寄贈を受け入れた要因となったのは日本の右翼であった。議会に乗り込み「慰安婦たちはみんな望んでなった売春婦」「嘘の証言をしている」というような趣旨の発言をし、これを聞いた地元議会の議員が激怒。その結果、市議から「恥を知れ」「自分たちが過去の事実を否定していることに」などと言われしまったのである。慰安婦像を撤去せよと叫べば叫ぶほど、像が増えるという皮肉な現象が続いているのである。日本において自治体の国際提携の情報提供と支援を行う財団法人自治体国際化協会では、以下の3要件をすべて満たすものを「姉妹(友好)自治体」として扱っている。
  1. 両首長による提携書があること
  2. 交流分野が特定のものに限られていないこと
  3. 交流するに当たって、何らかの予算措置が必要になるものと考えられることから、議会の承認を得ていること
これは首相官邸のサイトにも載っているが、姉妹都市提携には議会の承認が必要。これは破棄するにも議会の承認が必要だということになる。12月に市議会に諮るそうだが、そもそも提携破棄は市議会が承認してからすべきだった。サンフランシスコのエドウィン・M・リー市長は22日、同市内に設置された慰安婦像と追悼碑文について、民間団体からの寄贈を受け入れるとした同市議会の決定を承認する文書に署名した。その前に自民、公明両党市議団は姉妹都市の継続と対話による解決努力を強く望み、解消の再検討を吉村市長に要請したが無視された。しかし大阪市議会の与党、大阪維新の会は吉村洋文市長の判断を支持している。今やこの問題は海外からも注目されている。国内外の世論に耳を傾け、歴史に禍根を残す姉妹都市解消を破棄して欲しい。

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2017年11月25日

何であんな黒いのが好きなんだ…

マリ帝国九代目の王マンサ・ムーサ(ca.1280-ca.1337)

サブサハラアフリカ(クリックで拡大)
読売新聞11月25日付け電子版によると、自民党の山本幸三衆院議員が、北九州市内で今月23日に開かれた三原朝彦衆院議員の政経セミナーの来賓あいさつで、三原氏が長年続けるアフリカとの交流について触れ「何であんな黒いのが好きなんだ」と発言していたことがわかったそうだ。山本氏の事務所は「アフリカを表現する言葉として使われた『黒い大陸』という意味で言ったと話している」と説明したという。これは探検家ヘンリー・スタンリー(1841–1904)の著書名「黒い大陸」はではなく「暗黒大陸」のことだと思われる。かつてヨーロッパ人は未開の地としてアフリカをこのように呼んだが、さて、今はどうだろうか。私はまず「黒アフリカ」という言葉が頭に浮かぶ。フランス語で Afrique Noire 英語で Black Africa である。文字通り黒い肌の人が多く住む地域で、サブサハラアフリカ(サハラ以南のアフリカ)と同義とみなすこともある。かつて私は西アフリカのセネガル、ガンビア、象牙海岸を旅したが、今思えばマリに行かなかったことが悔やまれる。というのは13~16世紀に栄華を誇ったマンディンカ族のマリ帝国の歴史に興味を持ったことがあるからだ。支配地のニジェール川上流域では黄金が大量に算出されたため、サハラ砂漠を越えてやってくるイスラーム商人との黄金貿易で繁栄した黒人国家だった。ヨーロッパより進んだイスラームの文化を取り入れることでさらに発展、九代目のマンサ・ムーサ王(在位:1312年-1337年?)の時代、マリ帝国は最盛期を誇るようになる。なんと現在の貨幣価値にして約4000億ドル(約44兆円)という人類史上最高の総資産を保有したと言われる。冨の蓄積によって建築や学術は無論のこと、絵画や音楽などの芸術も花開き、いわば「黒アフリカ文化」を醸造したのである。しかしヨーロッパの列強によって19世紀末からアフリカ諸地域が植民地化されてしまった。これによってヨーロッパ中心主義が生まれた。従って「暗黒大陸」は植民地支配した宗主国の帝国主義の視線から作られた用語と言って良く、この地域や民族に対する蔑視や差別もそこから生まれたと想像する。奴隷商人の暗躍が拍車をかけたのは言うまでもない。おや、山本氏の発言から大きく脱線してしまったようだ。ただ過去の山本氏の発言から、胡散臭いものだったとおおよそ推測できる。わざわざ肌の色を引き合いに出したのは余りにも軽率で、それがアフリカ人に対する「差別発言」と揶揄されても仕方ないだろう。続報を待ちたい。

2017年11月24日

何故ローライフレックスが好きなのだろう

Greyhound Bus with Rolleiflex 2.8F Planar 80mm Tri-X 1976

Rolleiflex 3.5F Planar 75mm and Xenotar 75mm
東松照明さんは篭から文鳥を取り出すと手のひらに乗せた。亜熱帯をテーマにした『太陽の鉛筆』をカメラ雑誌に連載してるころだった。「二眼レフというのはねぇ、おじぎカメラと言うんだ。ふつうのカメラはファインダーを覗くと直視する形になるだろ。二眼だと下を見るから相手は安心する。おじぎなんだよね。おじぎをして撮らせてもらうのさ」「ふーん」「スタッフカメラマンっていろいろたいへんらしいね。この間、毎日新聞のカメラマンもぼやいていたよ」「そうですか? そんなことありません、楽ですよ」。それにしても太陽の鉛筆ってうまい表現だなと私は思った。東松さんの部屋を辞して家路に着く。歩いてわずか5分だった。以上は1970年代中ごろ、新宿のど真ん中に住んでいたころの私的写真論への覚書である。私はかつてのハンドル twin_lens が示すように、二眼レフが好きである。ピンホールやゾーンプレート写真に浮気したり、たまにもっと大きなフォーマットで撮ったりするけど、やはり落ち着くのは二眼レフである。最初に手にしたのは確か中学生のときで、叔父から借りたミノルタオートコードだった。6x6センチの密着プリントが案外大きく見えた記憶がある。次に手にしたはローライフレックスだったが、ずっと時代は下って東松照明さんに会ってからだった。ジミー・カーターが大統領線に出馬した1976年秋、私はフレームザックを背負い、1台のローライフレックスを抱えてグレイハウンドバスの旅をした。いや、正確にいえば、西海岸のロングビーチの中古楽器屋で買ったフィドルがもうひとつの道連れだった。当時、1台だけ持って海外旅行すなら何をという質問には、ライカかローライと答えたものである。それを実行したわけだが、とにかく二眼レフは構造がシンプルで壊れ難い。

ISBN: 1874031967
難点はボックス型のため、ごろごろして携帯にはやや不向きということだが。いやいや、まだまだある。ファインダーを覗くと画像が左右逆だし、パララックスの不安が付き纏う。それはともかく、約一カ月に渡った旅のお供は故障することもなく、無事日本に戻った。もっとも、その後このカメラは酷使し、今は手元にない。現在所持しているローライは3台で、そのうち2台は 3.5F で、もう1台は復刻機 2.8FX である。1929年に登場したローライフレックスは、1956年までに100万台以上を売ったという。毎年平均3.5万台、休日を除いた毎日120台が世界中の人々の手に渡った計算になる。第二次大戦後も売れたのは、1950年代までプロ写真家が使ったからだという。欧米のプレスカメラマンがローライを構えてる古い写真を見たことがある。スピードグラフィックが新聞社で使われたのは、大判のため、トリミングしても使用に耐えたからである。同じような理由で二眼レフが使われたのだろう。ローライの難点はレンズ交換ができないことだった。戦後、まさに雨後の筍のように生まれた二眼レフだったが、ローライを除いてすべて凋落してしまった。フランケ・ハイデッケ社はさらにプロ写真家の要望に応えて、テレローライ、ワイドローライを世に送った。これで安泰と考えたのだろうか。スウェーデン製中判一眼レフのハッセルブラッド、そして日本の35ミリ一眼レフに脅威を感じなかっただろうか。どう考えても一眼レフのほうが原理的に優れているからだ。1966年、6x6センチの一眼レフ SL66 を出したが、時遅しという感じであったようだ。翌1967年には35ミリのコンパクトカメラ、ローライ35を世に送って話題となった。しかし1981年、旗艦機として栄光を誇った 2.8F の製造がストップ、ドイツ製のローライフレックスは消滅した。それでも私はローライフレックスが好きである。何故だろう。

2017年11月22日

速くなった Firefox はシェアを伸ばすだろうか


私の常用ブラウザは Chrome だが Firefox の最新バージョン Quantum をインストールした。余り神経質になる必要はないが、例えば一行の文字数が違ったりするので、複数のブラウザで一応チェックしている。それはともかく Quantum は「Chrome より 30% 軽量で高速」というのが謳い文句となっている。この点が話題になっているのだが、ベンチマークをする環境を持っていないので、CNET のテスト結果を紹介したい。

黄色は各ベンチマークで最も良い結果を示したブラウザ。グレーが2位、茶色が3位。©CNET

表を見ると Firefox の旧バージョンを凌駕、Chrome に追いつき、いくつかのテストでは追い越しているという点が興味深い。依然として IE ユーザーが多く、マイクロソフトの Edge に乗り換えない不思議を痛感するのだが、一般にブラウザは「慣れ親しんだもの」を使い続けるからだと想像する。それなりに Chrome が浸透したが、力を蓄えた Firefox がシェアを伸ばすかどうかは不透明である。なお Quantum には領域を指定してしてスクリーンショットする機能が付け加えられた。Mac の場合は簡単なのだが、Windows では一旦クリックボードに保管、画像ソフトを起動して貼り付ける必要があるので、ちょっとした進化ではある。

2017年11月21日

ソーシャルメディア Twitter に再参加する


アカウントを取得したのは2009年、日本語版サービスが開始されてから約1年後だったと記憶している。現在の tweet 数は 7,500 弱だが、そのほとんどは参加後数年の間の投稿で、次第に遠ざかり、幽霊会員と化してしまった。おそらく2010年秋に Facebook に参加したためだったのではないだろうか。ところが最近フトしたきっかけで tweet を再開、当ブログの左サイドバーに Twitter のガジェットを埋め込んでみた。Facebook にも近況を語る機能があるが、ちょっとした気遣いが必要だからだ。いささかキザかもしれないが、語学力に乏しいくせに、私の Facebook フレンドは外国人が多い。そこで日本語を連発すると迷惑じゃないかと心配する。逆に英語ばかりだと、日本のユーザーにとっては鬱陶しいのではと思ってしまう。その点 Twitter のフォロワーの大多数が日本人なので、遠慮なく tweet できる。それに140字以内という制限も、割り切れて良い。私はフォローしていないが、ネットニュースなどで橋下徹元大阪市長の連続 tweet の転載を目にすることがある。他人がどのように使おうが構わないが、分割して投稿するくらいなら Facebook のほうが良いのにと思ったりはする。久しぶりにアクセスして気づいたのだが、画像の貼り付けや retweet などが簡単にできるようになっていて、それなりにずいぶん進化していると痛感した。蛇足ながら tweet を「つぶやき」と呼ぶ人がいるが、正確には「さえずり」である。しかし人間はそれこそ小鳥と違い、ピーチクさえずるわけではない。従って「おしゃべり」が適訳かもしれない。もっとも政治談議となると、丁々発止の議論になったりするので「主張」のニュアンスを感ずることもある。しかし呼び方としてはピンと来ないので、英語のカタカナ表記「ツイート」に落ち着いてしまったのだろう。さらに蛇足ながら高音用スピーカーは tweeter で、低音用は woofer である。後者は犬などの唸り声を指す。アメリカ人の命名法にはつくづく感心する。

2017年11月20日

姉妹都市提携破棄を迫る吉村洋文大阪市長の愚


慰安婦像と追悼碑の除幕式が9月22日、サンフランシスコのセント・メリーズ・スクエアで行われた。この慰安婦像と追悼碑の寄贈を受け入れる決議案をサンフランシスコ市議会が可決したが、姉妹都市である大阪市の吉村洋文市長が反発、エドウィン・M・リー市長宛てに抗議の書簡を送った。議会に対し市長が拒否権を行使しないと姉妹都市提携を破棄するという内容だったようだ。これに対し11月19日、朝日新聞が「ちょっと待ってほしい。姉妹都市の関係のもとで育まれてきた交流は、双方の市民の歴史的財産である。市長の一存で断ち切ってよいものではない」と主張した。これに対し吉村市長は自身の Twitter 上で「『ちょっと待て』はこっちのセリフだよ、朝日新聞」と噛み付いたのである。一連の騒動から私は橋下徹元大阪市長が2013年に、慰安婦問題にからめ、民放番組で風俗業の活用を在日米軍に求めたことを思い出した。この発言は米国の顰蹙を買い、予定していた公式訪問を、サンフランシスコ市長から拒否される始末。無知と下品な言葉から生じた大恥を全世界に拡散してしまったのである。今回の吉村市長の言動は、その橋下元市長の指示なのか、それとも元市長の私怨を忖度(そんたく)してのことかちょっと不明だが、強気の発言は一部の市民に漂う嫌韓感情に阿ったものだった可能性もある。いずれにしても南京虐殺や従軍慰安婦を否定する「歴史修正主義者」と揶揄されても仕方ないだろう。読売新聞が「米国の慰安婦像、姉妹都市解消はやむを得ない」と社説で援護射撃したが、まさに世論を分断する「朝読戦争」の様相を呈している。長い年月をかけて培った姉妹都市の友好関係を、議会や市民に諮らずに、市長の独断で交渉の切り札にするとは余りにも非民主的で情けない。右翼、いや保守主義者は「憂国」という言葉をしばしば使うが、ちょっと待ってほしい、それはこっちのセリフだと言いたい。

追記:サンフランシスコのエドウィン・M・リー市長は、市内に設置された慰安婦像と追悼碑文ついて、民間団体からの寄贈を受け入れるとした同市議会の決定を承認する文書に署名、これによって大阪市との姉妹都市関係が解消されることになった。吉村洋文大阪市長は海外メディアから歴史修正主義者という烙印を押され、60年に渡る友好の歴史が閉ざされるという結果だけが残った。(11月22日)

2017年11月17日

受動喫煙:美しいと称賛されたニッポンが薄汚い国になりつつある


今朝のテレ朝ニュース電子版によると、厚生労働省は、30平方メートル以下の飲食店に限って喫煙を認める方針だったが、自民党の反発を受けて方針を転換し、店舗面積が150平方メートル以下の、より大型の飲食店でも喫煙を認める新たな案の検討に入ったそうだ。これを認めると、東京都内ならば9割近くの飲食店で喫煙が可能になる見込みだという。東京都議会が10月5日に「東京都子どもを受動喫煙から守る条例」を賛成多数で可決成立させたばかりだが、30平方メートル以下の飲食店なら喫煙を認めるというものだった。これでも受動喫煙は防ぎえないと思っていたが、さらに店の許可面積を広げるというから呆れる。毎日新聞11月16日電子版によると、英国の「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)」が受動喫煙に対する日本の対策は「最低ランク」と警鐘を鳴らしたという。世界55カ国が公共の場での屋内全面禁煙を法制化して15億人の健康が守られているのに対し、日本は飲食店や職場など多くの場所で喫煙が許されており「規制レベルは最低ランクの位置付け」と紹介。国民の大多数を占める非喫煙者の声が少数の喫煙者に負けているのが現状だとし、煙草、外食、娯楽産業の圧力が強く、財務省がJTの33%の株を保有している事実もロビー活動を容易にしている可能性があると指摘したのである。かつては海外から美しいと称賛されたニッポンが、薄汚い国になりつつある。

追伸:石田雅彦氏の記事「受動喫煙防止『厚労省150平方m案へ後退』報道の意図」によると「受動喫煙防止対策で厚生労働省が、飲食店の喫煙許容面積を150平方m以下にすると後退」などという内容の報道が一斉にあったが、厚労省の健康増進課に直接、確認してみたそうだ。するとそんな検討はしていない」という回答で「どこからそんな情報が出たのかわからない」と怪訝な様子だったという。事実なら私のこの一文は根底から崩れることになります。新たな情報を待ち、このエントリーをどうするか検討したいと思います。(11月19日)

2017年11月14日

フライドチキンではないケンタッキー・カーネルズ

The Kentucky Colonels at the Ash Grove, Los Angeles, California, 1966

米国ケンタッキー州から何を連想するだろうか。首府ルイヴィルのケンタッキーダービーを思い浮かべる人がいるかもしれない。しかし何と言っても日本人に馴染みがあるのはKFC(ケンタッキーフライドチキン)ではないだろうか。その象徴であったカーネル・サンダースの像がずいぶん前に大阪・道頓堀川から救い出されて話題になったことがある。KFCのウェブサイトによると、この像の原型はカナダのあるフランチャイズ店舗で作られたもので、イベントで使用された後は倉庫で眠ったままになっていたという。日本KFCの幹部がその立像をみつけて、日本に持ち帰り、店頭に置かれた。だから日本だけのものだという。私は1970年代、ケンタッキーの本店前を通り過ぎたことがあるが、像があったか憶えていない。日本にKFCができた1970年だそうだが、確かこの年、神戸のトアロードにできたばかりの店を取材した。連れて行ってくれたのは、新しがりやの女子高校生だったが、これまた像があったかどうか記憶にない。カーネルは大佐を意味するが、一種の名誉称号で、州に貢献した人に贈られるようだ。ケンタッキー州と言えば、私ならブルーグラス音楽がまず頭に浮かぶ。州のニックネームがブルーグラスで、ビル・モンローが率いたバンド名がブルーグラス・ボーイズというのがその謂われである。同じケンタッキー・カーネルでも、こちらは「S」が付いた複数形になっている。フランス系カナダ人のエリック・ホワイト・シニアの3人の息子、ローランド、エリック、クラレンスと娘のジョアンが1954年に西海岸のロサンジェルスで結成した "Three Little Country Boys" がケンタッキー・カーネルズのルーツだ。

Shikata Records SRCD-1002 (1999)
ローランドがビル・モンローに傾倒、フラットマンドリンを手にしたことからブルーグラスバンドに変身、1957年には地元局でレギュラー番組を持つようになる。1963年にファーストアルバムを出すが、このときからケンタッキー・カーネルズを名乗るようになった。上記ケンタッキー州の名誉称号を意識したものであろう。徴兵で抜けていたローランドが戻り、フィドラーのボビー・スローンが加わり、グループは全米ツアー敢行する。1964年にはUCLAとニューポートのフォークフェスティバルに足跡を残している。その後、天才フィドラーであったスコッティ・ストーンマンを迎えたが、1965年に解散する。ケンタッキー・カーネルズが今日でも強い支持を得ているのは、なんと言ってもクラレンス・ホワイトの技巧を凝らした、華麗なギターテクニックの魅力によるものだろう。ジョージ・シャフラーやドン・レノの奏法を基に、彼独自の発想が加わった革命的奏法である。フラットピックによる早弾きは、古くはアルトン・デルモア、その影響を受けたドク・ワトソン、そしてトニー・ライスが有名だが、いずれも演奏スタイルは微妙に違う。クラレンスは、1968年にザ・バーズに参加、フォークロックの礎を築いたひとりだが、 1973年に交通事故でこの世を去った。弱冠29歳だった。左のアルバムは1965年録音の音源を、1999年に Shikata Records の故・四方敬士氏の尽力でCD化されたもので、パーソネルはクラレンス・ホワイト(ギター)ローランド・ホワイト(マンドリン)ビリー・レイ(バンジョー)ロジャー・ブッシュ(ベース)の4人。スコッティ・ストーンマンとの共演など、何枚かのCDが出ているが、録音状態も良く、彼らのベストアルバムだと思う。

2017年11月12日

安倍政権とジャーナリズムの危機

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日 時:2017年12月2日(土)18:30~
会 場:クレオ西ホール(大阪市此花区西九条6-1-20)
講 演:望月衣塑子(東京新聞記者)
演 奏:長野たかし(元「五つの赤い風船」)&森川あやこ
報 告:木村真(森友問題を考える会)
主 催:とめよう改憲!おおさかネットワーク

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2017年11月8日

真珠湾奇襲攻撃秘話ニイハウ島の悲劇

真珠湾の航空取材を終えホノルル空港に戻ったイヴランドさんと私(1976年12月)

ちょうど75年前の1941年12月7日、日本時間12月8日未明、日本海軍はハワイ州オアフ島の真珠湾を航空機および潜航艇で奇襲攻撃をした。写真は1976年の12月中旬、ホノルル空港で撮影したもので、私が穿いてるベルボトムのジーンズが時代を感じさせる。フィルムスキャンしたもので、好天下でコントラストが高いのが難点だけど、流石コダクローム、40年を経ても変褪色の兆しがゼロである。横にいるのはパイロットのイヴランドさん。この日は旧日本軍の戦闘機の飛行コースに沿って真珠湾に侵入、湾内を何回か旋回し撃沈した戦艦アリゾナの記念館を撮影した。この地域にはアメリカ海軍太平洋艦隊の司令部や太平洋空軍の基地などになっているので、しばらくすると管制塔から無線で「退去せよ!」と怒鳴られ、すぐそばのホノルル国際空港に着陸、ほっとしたところを記念撮影したものだ。イヴランドさんと一緒にハワイの島々を飛び回ったが、彼は飛行機操縦教官の資格があり、風が穏やかな洋上では時々操縦桿を握らせて貰った。だから私は4~5時間の飛行教程を履修したことになっているのである。真珠湾奇襲攻撃を受けた米国は日本に宣戦布告、これがハワイに住む日系人に複雑な影を落としたことは言うまでもない。ところでニイハウ島事件をご存知だろうか。

西開地重徳一飛曹
焼却後の西開地飛曹搭乗のゼロ戦
真珠湾第二次攻撃のため、戦艦「飛龍」を飛び立った零式艦上戦闘機(ゼロ戦)がエンジンの故障で不時着、奇怪な展開を見せた事件である。この島には軍事施設がなく、万が一のために不時着地として日本軍が指定してあったものだ。パイロットは西開地重徳一飛曹(海軍一等飛行兵曹)、軽傷だったようだが住民が手厚く看護したという。ところがその住民の一人が機内から地図と拳銃を盗み出した。地図は帝国海軍の軍人にとってはいわば機密書類、住民との間に緊張感が漂った。間に立ったのがカウアイ島から農場の管理人として働きに来ていた日系二世の原田義雄夫妻だった。最終的には西開地一飛曹は住民との抗争によって殺されるのだが、これによって原田さんも自害する。アメリカ人でありながら日本軍に加担したというジレンマに陥ってしまったからだ。ニイハウ島はロビンソン一家が私有する小島で、先住ハワイアンの生活様式を継承している。許可なしには誰も上陸できなく、私も申請したが無理だった。カウアイ島でヘリコプターをチャーター、上空から島の様子を窺った。礼拝を終えたと思われる住民が教会から出てきたところを見たくらいで、パイロットが低空飛行を嫌がったこともあり、その生活実態を撮影することはついにできなかった。現在でも島の一部を散策できるツアーもあり、上陸については容易であるが、島民への接触は招待された者以外は認められていないという。

欧州戦線で名を馳せた第442連隊戦闘団の日系人兵士たち
移民というのはひとつのプロセスを辿るようだ。まず農業、漁業などの労働に従事する。次に教育を受けた子弟が、教員をはじめ公務員になる。無論企業にも務める人もあれば、起業する人も登場する。スポーツ選手が現れ、政治家も誕生する。音楽や絵画などの芸術家が生まれるが、最後に現れるのはその国の言葉を使う文学者だという。当時、詩で受賞したという日系三世の女子高校生のことを新聞で知り訪ねたことがある。顔かたちが日本そのものなのに、会うと英語しか喋れず、奇妙な感じを抱いたものである。どうして二世たちは三世に日本語教育をしなかったのか。大戦中ハワイから欧州戦線に送られた日系米兵の「第100歩兵大隊」「第442連隊戦闘団」はドイツ軍と果敢に戦い、米軍内では稀にみる大きな戦績を残した。ところが皮肉なもので、戦場で活躍したがうえに「やはり日本人は怖い」と逆の評価も囁かれてしまったのである。すべての日系人がそのようにしたか不明だが、このような苦い経験から、より「アメリカ人」になろうと子弟に日本語を教えなくなったという。これは例えば華僑の世界とはずいぶん違う。ニイハウ島事件から逸れたが、ハワイに住む日系人の複雑な深層心理を一枚の写真から思い出した次第である。

2017年11月6日

ジョー・ヒル:天国のパイ

群衆に囲まれて墓地に向かうジョー・ヒルの棺(シカゴ1915年11月25日)

アメリカの大恐慌は人々の生活を苦しめたばかりではなく、結果的にドイツやイタリア、日本などのファシズムを生み、第2次世界大戦への引き金となった。アメリカはつくずく記録魔の国だと思う。魔と書いたが、良い意味である。手元に絶版となったソングブックが一冊ある。"Hard Hitting Songs For Hard-Hit People" と題されたこの書籍は、1967年にニューヨークのオーク・パブリケーションズから出版されたもので、編纂は民謡蒐集研究家のアラン・ロマックス、フォークシンガーのウディ・ガスリーとピート・シーガーで、小説『怒りの葡萄』の作者ジョン・スタインベックが序文を寄せている。私が所有しているのはハードカバーだが、2012年にペーパーバックス復刻版が出たので、現在は入手可能である。それはともかくこのソングブックには大恐慌が産み落とした歌の数々が収録されていて、庶民の視点による貴重な記録になっている。この中から一曲紹介しよう。これはジョー・ヒル(1879–1915)が作った "Pie in the Sky"(天国のパイ)という歌である。
悼んではならない 団結せよ!
長髪の説教師どもが毎晩やってくる
何が悪いか何が良いかやつらは語る
でも何か食べるものはと訊いてごらん
やつらは甘い声でこう答えるだろう

そのうちに食べられるようになるさ
天の上の栄光ある国で
働き祈りなさい干し草で暮らしなさい
死んだら天国でパイが手に入るだろう
ジョー・ヒルの生涯に関しては、1971年にアメリカとスウェーデン合作の伝記映画が公開されている。またジョー・グレイザー、フィル・オークスやジョーン・バエズなどがジョー・ヒルのことを歌っている。1879年スウェーデン生まれだが、1902年に移民としてアメリカにやってきた。無賃乗車で列車の旅をした人々をホーボーと呼ぶが、彼もその集団に加わったひとりであった。1905年にシカゴにおいて結成された Industrial Workers of the World(世界産業労働者組合)の運動に加わったが、最後はフレームアップで処刑されてしまう。集会条例によって街頭の演説が禁じられたいたため、賛美歌のメロディを使った替え歌で運動を展開したことで彼は知られている。奇しくもこれは、演説がだめなら歌で、ということで生まれた明治大正時代の添田唖蝉坊らの「演歌」と酷似しているのが興味深い。演歌はやがて風化して「艶歌」に化けてしまったが、アメリカではフォークソングとして育ち、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、そしてボブ・ディランへと歌い継がれていったのである。このソングブックにはFSA(農業安定局)プロジェクトが記録した、大恐慌時代の写真が多数掲載されていることを特筆しておきたい。ドロシア・ラングやウォーカー・エバンスなどが撮影したもので、現代ドキュメンタリー写真の礎(いしずえ)になった。大恐慌と写真というテーマで機会があれば書いてみたい。

YouTube  Pie in the Sky - Pete Seeger 1965    YouTube  The Ballad of Joe Hill - Phil Ochs

2017年11月5日

イスラームの科学者イブン・アル=ハイサムの偉大


イブン・アル=ハイサム 最初の科学者
イスラームいう言葉に接すると日本人は何を連想するだろうか。左手に聖典クルアーン、右手に剣という比喩に代表される宗教的攻撃性だろうか。中東に今なおくすぶる戦火だろうか。それとも産油国の為政者の豪奢な暮らしぶりだろうか。歴史的にはヨーロッパを震撼とさせた、オスマン帝国の覇権主義だろうか。いずれにしても、その結束力は時空を超えて、アジアからアフリカに至るまで、繋がりを持っている。多くの人々がプラスのイメージを持たず、負のそれを抱いてるのではと想像する。しかし工業立国日本は石油なしには生き延びることができない。その観点のみから外交政策が行われ、その文化に対する認識は立ち遅れてるような気がしてならない。だから10世紀において、イスラーム圏の科学がヨーロッパより遥かに進んでいたという史実が、日本人の認識の中に欠落しているかもしれないのである。サブタイトルを「最初の科学者」とした本書は、史上最も偉大な科学者の一人であるイブン・アル=ハイサム(アルハゼン 965-1038)の伝記および評論である。ペルシャ(現イラン)のバスラで生まれ、バグダードで科学を学んだ。アリストテレス、ユークリッド、アルキメデス、そしてプトレマイオスの業績を研究考察した。そして目から出た光が対象を走査し、そのことによって目の中に像が出来るというといった、彼らの視覚論を批判する。太陽その他の光源から出た光が対象に反射し、それが目に入って像を結ぶという正しい理論を提出し、現在から見てもかなり正確な眼球の構造を記している。本書は児童向け図書で、日本の子どもたちのために邦訳が待たれる。

イラク中央銀行の10000ディナール紙幣(2003年)
実験というメソッド使用することで科学へのアプローチを開発したのであるが、光学の分野での功績は大きい。ロジャー・ベーコン(1214-1294)からピエール・ド・フェルマー(1608-1665)までの中世ヨーロッパの科学者と数学者、そして天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)に影響を及ぼしたのである。彼はカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いたのだが、右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いたのである。このことからは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。像の左右の入れ替わりに触れているが、像が倒立することには言及していない。エジプトのファーティマ朝の第6代カリフ・ハーキムによってカイロに招かれ、ナイル川の洪水を治める研究をするよう指示された。しかしそれが困難と知った彼は独裁者の逆鱗を買ったが、気が触れたと偽る。結局カリフが没するまで幽閉されてしまうが、最終的に釈放されバグダッドに戻る。死ぬまでに科学に関するもう90冊の本を書いたと言われる。幽閉中に書かれた『光学宝典』著書は1572年に出版されたが、上記ケプラーを筆頭に、ルネ・デカルト(1596-1650)、クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695)、アイザック・ニュートン(1642-1727)などが更に光学を発展させて行った。少なくとも10~11世紀において、イスラーム圏は科学の先進を走っていたのである。

YouTube  Ibn Al-Haytham (Alhazen) - Optics: The True Nature of Light | by Jim Al-Khalili (EN)

2017年11月4日

東寺五重塔にどうして大日如来像がないのだろう?

阿弥陀如来坐像

五重塔はストゥーパ、すなわち釈迦の遺骨を安置する舎利塔である。東寺(京都市南区九条町)の五重塔は弘法大師が天長3(826)年に創建着手したが、しばしば災火を受けて焼失、現在の塔は寛永2(1644)年に徳川家光に寄進によって竣工したものだそうだ。東側から初層の内陣に入ると、心柱を背にした須弥壇に安置された阿閦(あしゅく)如来像が目に飛び込んで来る。そして反時計廻りに不空成就(ふくうじょうじゅ)、阿弥陀(あみだ)、宝生(ほうしょう)如来と続く。いずれも金色だが、中心に置くべき真言密教の主導、大日如来の姿がない。東寺塔頭宝菩提院住職だった三浦俊良著『東寺の謎―巨大伽藍に秘められた空海の意図』によると、空海は心柱そのものを大日如来と位置付けたそうである。大日如来は宇宙の真理を表わす仏である。この仏を心柱とみなし、その上で金剛界の密教世界を作り上げていったという。

2017年11月3日

ピンホール現象に関する「アリストテレスの難題」を解いてみよう

Annular Eclipse Shadows on May 20 in 2012 by ©Justin Soffer

木漏れ日の針孔現象
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ピンホールカメラの原理について訊かれると、私は「光の直進性を利用したもの」と答えることにしている。これで何となく納得してしまうらしく、例えば「どうして光は直進するのか」という突っ込みを受けたことがない。中国の経書によれば、紀元前5世紀に光の直進性が知られていた。墨子や荘子らは影について語っている。衝立にピンホールを開けて倒立した像を作ることを最初に記述したのは墨子である。墨子は物体が光をあらゆる方向に反射することも、物体の頂点がから発せられた光線が針孔を通過すると像を作りだすことを知っていたし、針孔を通過した光だけが像を結ぶことに気づいていた。ピンホール現象が人の手によらず発生するのを最初に観察したのは紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者アリストテレスだと言われている。日蝕のとき木陰になった地面に三日月形の像が浮き上がってるのを見て、葉と葉の小さな隙間がそれを作りだしていることに気づいた。像が倒立することに対しては、アリストテレスは頭を悩ますことはなかったようだ。太陽からくる円錐状の光を想定して単純に説明した。すなわち円錐の頂点が孔の位置にあり、それが反対側にもうひとつの円錐を作りだし、これが太陽の像を結ぶと考えた。彼が関心を抱いたのは、孔の形がなんであれ、太陽の像が日蝕時には必ず三日月形になることだ。これは「アリストテレスの難題」として残り、16世紀まで解決されることがなかったという。

光の直進性を証明する実験装置
10世紀、アラビアのアルハゼン(イブン・アル・ハイサム)がカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いた。彼は右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いた。このことからアルハゼンは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。形のまちまちな孔が、同じ太陽の円形の像、あるいは日蝕時に三日月形の像を結ぶのはなぜか? この「アリストテレスの難題」を16世紀になって解いたのが、ギリシャのフランチェスコ・マウロリコだったという。マウロリコはヨハネス・ケプラーの先駆者とも言える数学者であった。眼球が作る像とレンズのない小さな隙間が作る像、その両方に関する理論に没頭した、と歴史書は説明している。前置きが長過ぎたようだ。ここまで読んでいただいたあなたは、マウロリコがどのように「アリストテレスの難題」を説明したか知りたくなりませんか? 実は私がそうなのである。ところが、彼が解いたということが分かったものの、どのように説明したかは見つからないのである。私はピンホール、あるいはカメラオブスクラ関係の書籍をそれなりに持っている。しかしその中からは答えが出ずじまいだ。もしやと思い、インターネットで検索してみたが、やはり見つからなかった。仕方ない、それではということで、自分で考えることにした。あなただったらどう説明しますか?