2018年11月29日

千葉大学 C&W 研究会創設のころ

千葉大学 C&W 研究会編 "Blue Grass" (1963年11月1日発行)

以下は2015年1月に書いた一文で、55年も前の内なる思い出と記録です。ソーシャルメディア Facebook のグループ "Japanese Bluegrass Archives" にポストした機会に、ここにも掲載することにしました。
私が千葉大学に入学したのは、1962年でした。軽音楽部を覗くと、1年先輩の井上博雄さんと加藤英夫さんがカントリーやブルーグラス音楽の曲を練習していました。私もギターを買って井上さんに教えて貰ったのですが、なかなか上達しませんでした。というよりブルーグラス音楽は高校時代にFEN(米軍極東放送)で知り、もっぱら聴くのが趣味で、まさか自分で演奏しようとは考えていませんでした。当時の軽音楽部はベンチャーズのコピーバンドが主流でした。練習するならやはり独自の部室があったほうが良いと考え、翌年の4月、学生自治会に申請をしました。単なる愛好会では部室を確保できず、予算も降りないので、正式のクラブとして申請したわけです。

顧問はたまたま一般教養課程で英語を担当していただいた先生がアメリカ文学が専門だったので、無理やり頼んだことを覚えています。学生自治会の新設検討会議でまず質問されたのは「軽音楽部があるのに何故作るのか」というものでした。「いえ、演奏だけが目的ではありません。音楽を通してアメリカ文化を研究するクラブです」と答えた記憶があります。C&W研究会という、一般には分かり難い名称にしたのも、一種のカモフラージュ作戦でした。創設時の部員は折山敏夫、関川靖、黒岩公洋、安間洋一、高田昌一君と私の6人で、安間君を除いて身近な同じクラス、工学部写真工学科の級友でした。高田君は喫茶店厨房でのバイト経験があったので、秋の文化祭でライブ喫茶を作るために誘ったといういきさつがあります。私以外はブルーグラス音楽を聴いたこともない人たちでしたが、バンド名をストーニー・リバー・ボーイズと決め、練習に励んだ結果、夏には千葉市内のビヤガーデンでバイト演奏するまでなりました。賞は取れなかったものの、学生バンド大会のラジオ番組にも出演しました。

部室を確保できたので、井上さんらに声をかけたところ、初代スモーキー・マウンテニアーズも C&W研究会に合流、秋の学園祭では軽音楽部のバンドと共にライブ喫茶に出演して貰いました。当時、私は個人的に他大学の学生バンドと接触、青山学院大学のブルー・マウンテン・ボーイズや、明治大学のブルーリッジ・マウンテン・ボーイズなどと知り合いになりました。早稲田大学の白井良幸、津川実、高木啓子さんらが中心になって作ったCBS(カントリー、ブルーグラス&セイクレッド)ファミリーのレコード鑑賞会(当時フォークウェイズなどのレコードは高価だった)に毎月参加、同会主催の「CBSファミリー・ジャンボリー」で、立命館大学のサニー・マウンテン・ボーイズを率いていた野崎謙二さんと知り合ったのも忘れられない思い出です。暮れの11月に小冊子「Blue Grass」を発行したのですが、今のネット時代と違って資料が少なかったため、各大学のバンドの間でかなり評判を呼んだようです。

1966年に私は卒業、朝日新聞社に入社、大阪に赴任しました。70年に神戸支局に転勤、野崎さんが店主だった「ロスト・シティ」に入り浸るようになり、神戸大学のジョッシュ大塚君が率いていた「ブルーグラス45」などと知り合いになりました。彼らのファーストアルバムの写真は私が撮影したものです。その年の夏、六甲山でブルーグラス・フェスが開催されることになり、野崎さんの依頼で5代目スモーキー・マウンテニアーズを呼ぶことになったわけですが、すでにこのころ「千葉の田舎のバンド」が全国のブルーグラス愛好家に知れ渡っていました。リーダーは故・篠塚誠治君でした。なお、私個人は1976年にケンタッキー州を中心にアメリカ東南部を音学旅行、フィドラーズ・コンベンションに出場と恥さらしをしたのも懐かしい思い出です。
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2018年11月28日

ウォルトン『釣魚大全』に流れる悠久の時間

丘から眺めたベレスフォード・ホール(アイザック・ウォルトン『釣魚大全』より

講談社(1992年)
エドワード・グレイ卿(1862-1933)著『フライ・フィッシング』(講談社学術文庫)にこんな下りがある。「ギルバート・ホワイトの著書『セルボーンの博物誌』を除いては、この『ザ・コンプリート・アングラー』ほど疲れた心に避難場所と慰安を与えてくれる本を私は知らない」云々。ギルバート・ホワイト(1720-1793)は牧師、博物学者だったが、セルボーン村を歩いて野鳥などの生態を観察、二人の著名な博物学者、ペナントとバリントンに届けた。いわば書簡集なのだが、自然への憧憬と畏敬、そして愛に満ちている。後者はアイザック・ウォルトン(1593-1683)の著書だが、日本では『釣魚大全』という訳のタイトルのほうが馴染み深い。

平凡社(1997年)
両書はジャン=アンリ・ファーブル(1823-1915)の『昆虫記』や、ウィリアム・H・ハドソン(1841-1922)の『ラ・プラタの博物学者』など、自然観察文学の魁(さきがけ)をなした名著である。ところでリクリエイションというのは、気晴らし、娯楽と意味付けられている。しかしそこから生まれる、再創造という概念がある。ウォルトンは「瞑想する人のリクリエイション」という副題をつけているが、まさにこの点が超ロングセラーを続けている理由なのだろう。いずれも今なお自然探求の書として読み継がれている。ただ英国の古典文学にありがちな、ある種の冗長さがあることは否めない。『セルボーンの博物誌』は時間がかかったが、なんとか読み通したが『釣魚大全』は、放り投げてはまた手に取るということを何度か繰り返してきた。おそらく聖書に疎い浅学菲才が最初の躓きだったのかもしれない。しかしある日気づいたことがある。それは17世紀の英国と21世紀の日本では時間のテンポが違うということである。早く読破しようという気持ちを抑え、ゆったりした気分で接しようと考えた結果、冗長と思われた文章が、すんなり脳裡に刻まれるようになった。締め切りのない読書、悠久の時間に遊ぶ愉しさを味わっている今日この頃である。

2018年11月26日

ロバート・メイプルソープとパティ・スミス

Patti Smith ©1976 Robert Mapplethorpe

Robert Mapplethorpe & Patti Smith 1969
ロバート・メイプルソープの写真展が東京都庭園美術館で開催されたのは1992年だった。翌年春に、滋賀県立近代美術館に巡回されたが、写真に興味を持っていなかった人たち、特に若い女性が押し寄せたことを憶えている。展示枚数が多く、パティ・スミスのこのヌード写真に関しては、朧げにしか記憶にない。というのはスミスについてはよく知らず、後でその音楽を知ったからではないかと思う。彼女の自叙伝『ジャスト・キッズ』を読んだのは2012年の暮れだった。当時、湯山玲子が書いたブックレビューによると、「パティ。僕らみたいに世界を見る奴なんて、誰もいないんだよ」とメイプルソープは幾度となくスミスに語ったという。写真は二人の関係を彷彿とさせる。それは現実を直視する視線があるからだ。思えば1970年代はエキサイティングで面白かった。奇しくもザ・バンドが解散コンサート「ラストワルツ」を開催したのも1976年だった。以来、私はポップ音楽を聴かなくなり、ルーツ音楽、つまり伝承音楽のみになり、今日に至っている。音楽が現実社会と遊離してしまった感があるからだ。写真も同じだった。1970年代にピークを迎え、その後は勢いを失ったと私は思うのである。いつの頃か、ピンホール写真を撮り始めたが、それはディテイルを見ることの拒否作用でもあった。コンテンポラリー絵画主義写真と名付けてもいいが、写真が持つリアリティの放棄であるのはいうまでもない。つまり「芸術」という心地よい形容詞に酔った、現実逃避であったような気もする。ところが最近になってストレート写真へ回帰した。伏線として、現実を直視する写真を撮りたくなったからである。メイプルソープはパティ・スミスの恋人だったが、LGBT でもあった。エイズに感染、死を覚悟した彼は、うつろう自分自身の表情を撮り始めた。まさに現実を直視したのである。

2018年11月24日

ボブ・ディランがオートハープを弾いている

Bob Dylan with Mimi and Dick Fariña, 1964. Photo by ©Barry Feinstein

Poster for Bob Dylan at Gerde's Folk City 1961
1964年。フォーク歌手ジョーン・バエズ(1941-)のコンサートの楽屋でボブ・ディラン(1941-)がハモニカを吹きながら、オートハープを弾いている。真ん中の女性はバエズの妹、ミミ(1945–2001)で、右はその夫のディック・ファリーニャ(1937-1966)である。ファリーニャはキューバ人の父とアイルランド人の母の間に、ニューヨークのブルックリンで生まれた。コーネル大学卒業後、詩人やフォーシンガーたちが集まった、グリニッチ・ヴィレッジの居酒屋「ホワイト・ホース・タバーン」に足繁く通い、そこでキャロライン・へスターと(1937-)と出会い、わずか18日後に結婚した。へスターはフォークリバイバル運動の拠点となった、ニューヨークの「ガーズ・フォーク・シティ」の立ち上げに加わったひとりだった。その当時、ケンタッキー州カンバーランドの大学を卒業して、ニューヨークでソーシャルワーカーの仕事をしていた、ジーン・リッチー(1922-2015)と親交を持つ。都会に生まれ育ったディックにとっては、アパラチアに伝承されたバラッドを歌うリッチーとの付き合いは、非常に有益だったようだ。彼女からダルシマーの手ほどきを受けた可能性もある。

Dick Fariña & Eric Von Schmidt (1963)
ところがファリーニャは1962年の春、フランスのシャルトル大聖堂で17歳のミミと出会う。そして翌年の春、ふたりはパリで密かに結婚するのである。1963年1月、ファリーニャはエリック・フォン・シュミット(1931–2007)とロンドンのドーベル・レコード店で録音したが、ボブ・ディランがブラインド・ボーイ・グラントの名をかたってバックアップ・ヴォーカルとハモニカで参加している。ジャグバンド、ブルース、そしてアパラチアの伝承音楽などに根ざした選曲の LP アルバムで、その年にリリースされたが、今ではいわば幻の名盤となっている。1966年にファリーニャがオートバイ事故で他界する。残されたミミはサンフランシスコに移り、歌手、ソングライター、モデル、女優、運動家として活躍する。そして1974年に非営利団体「パンと薔薇」を組織、ピート・シーガーやポール・ウィンター、タジ・マハル、ジュディ・コリンズ、オデッタ、リリー・トムリン、カルロス・サンタナなどの協力を得て、500以上のコンサートを開催した。ところでディランのオートハープだが、デビュー当時の音楽活動はフォークリバイバル運動と不可分の関係だったので、ディック・ファリーニャとの友だち付き合いも自然だし、アパラチアの人々が使ってきた楽器に興味を抱いていただろう、ということは容易に理解できる。そして実はマルチプレーヤーでもあることが知られている。ビューグルやコンガ、キーボードなど、18種類の楽器をこなす才人だ。その多才ぶりに関しては下記リンク先に詳しく解説されている。

WWW The Instruments of Bob Dylan (18 Instruments) – A Great Talent (Need Some Fun)

2018年11月23日

2015年「日韓合意」は真の意味での合意だったのだろうか

共同会見に臨んだ岸田文雄元外務大臣と尹炳世元外交部長官(2015年12月28日)

済州島で10月11日、国際観艦式が開催されたが、韓国は各国に「自国と韓国の国旗のみ」を掲揚するよう求めていた。これに対し日本は反発、軋轢が生じたまま折り合いがつかず、艦艇派遣を見送ってしまった。しかしこれは日本の反応を読み越した上の参加拒否だったと言える。そして同月30日、韓国の最高裁にあたる大法院は、徴用工訴訟差し戻し審で新日本製鉄(現新日鉄住金)に対し、韓国人4人へ1人あたり1億ウォン(約1000万円)の損害賠償を命じた。さらに今月21日、日本政府が出資した10億円をもとに、元慰安婦への支援事業を行ってきた「和解・癒やし財団」の解散を発表した。矢継ぎ早の攻勢に、日本政府は強く反発、日韓関係は泥沼状態になっている。2015年末の日韓外相会談で結ばれた「慰安婦問題日韓合意」だが、両国間で公式な文書を交わすことは行われず、共同記者会見を開いて発表するという形式で行った。少女像について韓国の尹炳世元外相は、会見で「韓国政府は、日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し、公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても、可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力する」と発表したのみで、撤去を約束したわけではない。極めて曖昧で、真の意味での合意と言えるだろうか。問題をこじらせているのは「日韓合意」という呪文ではないだろうか。

WWW 外務省:日韓両外相共同記者発表(日本語・英語・韓国語)2015年12月28日

2018年11月21日

アフリカの貴公子デニス・フィンチ=ハットン

Denys Finch-Hatton (1887-1931) Somewhere around 1910 or 1920

Karen Blixen & Denys Finch-Hatton
デンマークの作家カレン・ブリクセン(1885-1962)の名著『アフリカの日々』(河出文庫)を読まなければ、アングロアイルランドの貴族、デニス・フィンチ=ハットン(1887–1931)の名を脳裡に刻むことはなかったと思う。1937年出版の『アフリカの日々』の著者名は、イギリスとデンマークでは本名だが、翌年のアメリカ版ではイサク・ディネセンとなっているという。カレンは1914年から1931年まで18年間、アフリカでコーヒー農園の経営にした。ところが買い入れたナイロビ郊外の土地はコーヒーの栽培に不向きで、経営に失敗する。アフリカを離れることになり、失意の日々が訪れる。そしてデニスの死という不幸が重なる。アフリカを去って6年後、次のような追悼の言葉を綴っている。
デニスはアフリカ高地のありとあらゆる道に精通していた。ここの土の性質、季節の移り変わり、植物、野生動物、また風や匂いのことを、白人のなかではデニスほどに把握していた人はいなかった。彼はこの高地の天候の変化を観察し、そこに住む人々や雲に目をそそぎ、夜には星々を眺めてきた。同じこの丘陵で、なにもかぶらないまま頭を午後の日ざしにさらして低地一帯を見わたし、そこにあるものひとつひとつをはっきり見ようと双眼鏡を使っていたデニスの姿は、つい数日まえここにあった。彼はこの高地を吸収し、この土地はデニスの個性の刻印をうけて、彼自身の心象のなかでかたちを変え、デニスの一部となった。いまアフリカはデニスを受けいれ、彼を変え、アフリカそのものの一部とするであろう。(横山貞子訳)
Gypsy Moth: de Havilland DH.60 Moth
デニス・フィンチ=ハットンは伯爵の息子で、イートン校では人気のある学生だった。身長が高く、ハンサムで優雅、歌や絵画からクリケットやゴルフまで、あらゆるものに才能があった。ただオックスフォード大学では学業の才能を発揮できなかったようで、東アフリカに赴き、遺産で暮らすようになった。デニスは1918年、カレンと彼女の夫、プロア・プリクセン男爵と知り合った。このふたりが離婚した1925年、カレンの家に移住、サファリで裕福なビジターを護衛する狩猟家として新たなキャリアを開始する。クライアントのひとりがウェールズ王子、後のエドワード8世だった。1928年から1930年にかけてのサファリでは、狩猟の代わりに野生動物の写真撮影にシフト、タンザニア北部のセレンゲッティ国立公園の創設に関わったのである。1931年5月14日早朝、デニスが操縦するジプシー・モス(デ・ハビランド DH.60 モス)が、カレンの農園に向かうため、ケニア南部のヴォイ空港を離陸した。しかしエンジンが不調だったのか、200フィートの低空で翼を翻して空港に戻ろうとした。そして突然機体が揺れ、きりもみ状態になり、墜落炎上してしまった。44歳だった。遺体はカレンの手によってンゴング丘陵の麓に葬られたが、しばらくすると墓にライオンが現れるようになったという。

YouTube Out Of Africa | Africa From Above: That Plane Scene (Meryl Streep and Robert Redford)

2018年11月19日

上七軒のお茶屋「吉田家」の切ない思い出

勝恵美(北野天満宮)1995年4月

第67回北野をどり(クリックで拡大)
上七軒の「茶ろん」にふらりと立ち寄った。歌舞練場の中庭に面する一角に喫茶室として佇んでいる。上七軒は北野天満宮の東側に軒を並べる小さな花街だが、懐かしくも切ない思い出がある。京都には祇園甲部、先斗町、上七軒、宮川町、祇園東の五つの花街があるが、このうち歴史的に一番古いのが上七軒である。かれこれ35年も前になるだろうか。こじんまりしたたたずまいに惹かれた私は、大正時代、同じ舞妓同士だった仲の祇園甲部の女将に紹介してもらい、上七軒のお茶屋「吉田家(よしだや)」に通うようになった。その当時は「おっきいおかあさん」こと大女将の吉田悦子さん、そして「ちっちゃいおかあさん」こと娘の泰子(ひろこ)さんが切り盛りをしていた。上七軒は戦後舞妓が途絶えたが、泰子さんがその復活一番バッターになった。舞妓を卒業したあと、東京新橋の「金田中」に修行に出た。新橋演舞場のすぐ横にあるが、佐藤栄作元首相がここで倒れて有名になった料亭である。大女将の悦子さん自身も昔は舞妓だったが「ウチは舞妓極道どす」というくらい舞妓好きであった。

福鶴と勝喜代さん(1997年4月)
そして待望の舞妓を生み出したのである。それが勝悠喜(かつゆき)さんだった。泰子さんには子どもがなく、この勝悠喜さんを養女にして、将来の女将にするつもりだったようだ。しかしそれは夢のまま終わることになる。2001年の春ごろ吉田家は店仕舞いをした。泰子さんの健康状態が悪化したためだった。その前年の12月、私は「イスタンブル素描」という個展を開いたが、唯ひとりプリントを購入してくれたのが彼女だった。翌秋になって泰子さんは他界した。脳腫瘍だった。数年後、母親の悦子さんもこの世を去った。そして祇園、先斗町、上七軒と流転した、私のお茶屋遊びに終止符が打たれたのである。吉田家は医師・藤村直樹さんの斡旋で売却され、現在は豆腐料理店になっているが、お茶屋の趣はそのまま残っている。ふたりを看取っ藤村直樹さんもこの世にいない。亡き人といえば、勝喜代(かつきよ)姐さんも懐かしい。80歳代後半に至るまで踊り続けた、京都では最高齢の現役芸妓だったが、2016年に他界した。来年3月25日から「北野をどり」が始まる。鬼に笑われそうだが、観覧しようかなと思っている。

2018年11月15日

初期ミンストレルから現代バンジョーへの変遷

Dan Bryant (1833–1875) ca. mid-1800s

Banjo built by William Boucher Jr., Baltimore Maryland, 1845
ウェブサイト "Minstrel Banjo" に掲載されているミンストレル芸人、ダン・ブライアント(1833–1875)の写真である。撮影年月の記述はないが、ブライアントがブロードウェイで初演をしたのが1857年だから、その前後だと思われる。注目すべきは、瓢箪バンジョーを手にしていることである。1785~1795年ごろに描かれた、サウスカロライナ州の農園で踊る奴隷の水彩画に、瓢箪バンジョーが描かれているが、それがそのままミンストレルに使われた証拠として興味深い。ミンストレルは黒塗りメイクの白人が演ずるショーだったが、黒人の楽器だったバンジョーを使ったのが特長だった。ミンストレルにバンジョーを取り入れたのはジョエル・スウィーニー(1810-1860)と言われている。瓢箪ではなく木製の円形リムに皮を張った、今のバンジョーに近い楽器だった。1847年の「スウィーニーズ・ヴァージニア・メロディー」に描かれているが、姪のために作ったものという説もあるようだ。その真偽はともかく、ウイリアム・バウチャー(1822–1899)が1845年に製作したバンドジョーを使ったようだ。

Earl Scruggs (1924–2012)
これは現在メトロポリタン美術館に保存されている。バウチャーはドイツ出身だったが、メリーランド州ボルチモアでドラム製造業を営んでいた。ギター製作家のヨハン・ゲオルグ・シュタウファー(1778-1853)とクリスチャン・フレデリック・マーティン(1796-1867)が使用したものと同様のスクロールペグヘッドを追加した。そして瓢箪のボディを、ドラムヘッドに使用されているのと同様の、ネジ締めブラケットで薄く曲げた、リム構造に置き換えたのである。バウチャーの革新は大量生産を可能にし、都会の音楽のテイストに適応、その後のバンジョーの世界的な普及に大きな役割を果たしたのである。黒塗りメイクのミンストレルは人種差別と批判され、20世紀初頭に姿を消したが、アメリカのショービジネスの礎になった。バンジョーがその後の音楽産業に果たした役割は大きい。大きな音とサスティンが得られるリゾネータが装着されるなど進化する。そしてアール・スクラッグス(1924–2012)が編み出したスリーフィンガー奏法により、ブルーグラス音楽の花形楽器となった。その一方、古い演奏スタイルも再評価され人気がある。さらにアメリカの民族楽器という範疇を超え、アイルランドやオーストラリア、そして日本など、バンジョーは広く世界中の人々に愛されるようになった。

2018年11月13日

音楽研究家エリック・サックハイムの思い出


The Silent Firefly(クリックで拡大)
アメリカの政治については複雑な思いが交錯するが、音楽に関しては文句なしに好きだ。アメリカンルーツ音楽に関するブログを持っているが、アメリカ人が相撲や歌舞伎のブログを作ってるのと同じだと思う。高校生のころだったが、FEN(米軍極東放送網)から流れてきた軽快な5弦バンジョーの響きに惹かれのが始まりだった。それはのちにブルーグラス音楽ということがわかり、大学に進学した翌年の1963年、病嵩じてC&W研究会なるクラブを結成した。卒業後もこの音楽から離れることができず、さらにオールドタイム音楽へと範囲を広げ、一時はカリフォルニア大学ロサンジェルス校民俗学センターにあったJEMF(ジョン・エドワーズ記念基金)の研究機関に加わったりした。上掲のジャケット写真は、1963年にリリースされた、チャールズ・リヴァー・ヴァレー・ボーイズの「ブルーグラス&オールド・タイミィ・ミュージック」 (Prestige Folklore FL-14017)である。このレコードの録音に参加していないが、グループ創設者のひとり、ハーヴァード大学で日本語を学んだエリック・サックハイムが、フルブライト奨学金で60年代初頭に来日した。確か1963年あるいは64年、早稲田大学CBS(Country, Bluegrass & Sacred)ファミリー主催のコンサートで彼の演奏を聴いたことがある。フラットマンドリンがなかったのだろうか、胴が膨らんだクラッシックのマンドリンによる弾き語りだった。東洋思想に傾倒していて、東京からインドに渡ったようだ。音楽学者で "The Silent Firefly: Japanese Songs of Love and Other Things (1963)" などを著している。彼のような立派な書籍を書いてるわけではないが、学生時代 "Blue Grass" という謄写版刷りの小冊子を出したことがある。音楽研究の道を歩むという夢は叶わず、写真を生業にしたが、音楽が東西を飛び交うことは素晴らしいと痛感している。

2018年11月11日

オーストラリアのアマ写真家が撮影した20世紀初頭のカラー写真


ウィリアム・A・ガリック
写真はウィリアム・アップルゲイト・ガリック(1858–1922)が撮影したカラー写真で、娘のメアリ、ゾーイ、マジョリー、クロエがモデルになっている。ガリックはオーストラリアのニューサウスウェールズ州の印刷業者で、切手の発行およびインスペクタだった。そしてアマチュア写真家でもあり、ニューサウスウェールズの紋章をデザインしたことで知られている。彼はオートクロームを使ってカラー写真を撮影している。オートクロームはフランスのリュミエール兄弟によって発明され、1903年に特許を取得した最初期のカラー写真技法。1907年に写真乾板の形式で一般に販売が開始され、コダックがコダクロームを販売する1930年代までは、市場においてはほぼ唯一のカラー写真であった。撮影が1909年であるなら、ガリックはいち早く新しい技法を取り入れたことになる。じゃがいもの澱粉を三原色に染めたものを均一に混ぜ、ガラス板に散布したのちに、黒い粉を乗せて、光を遮断。その上をニスと感光性のある乳剤で覆って原板を作り、撮影したあとに反転現像処理すると、カラーのポジ画像が得られる。手順が複雑で普及しなかったが、ガリックのような裕福なマチュア写真家などが主な使い手であった。娘たちに色違いドレス着せている点に工夫の跡が窺われる。

2018年11月10日

徴用工判決問題に垣間見る日本政府の焦り

韓国最高裁の判決を待つ元徴用工の原告(前列中央)©Kim Hong-Ji/REUTERS

河野外務大臣の韓国批判が止まらない。今月9日の記者会見で、韓国最高裁が確定判決で新日鉄住金に賠償を命じた元徴用工訴訟の原告について「募集に応じた方で徴用された方ではない」と述べた。つまり戦時中の朝鮮半島での動員には「募集」「官による斡旋」「徴用」の3段階があったと説明、自民党からは「原告らは『募集工』と呼ぶべきだ」との声が上がっていたからだという。東洋経済オンラインに寄せられた、東京新聞論説委員の五味洋治氏の記事「徴用工判決が突きつける『日韓国交正常化の闇』韓国大法院判決全文の熟読で分かったこと」によると、原告のうち2人は1943年頃、旧日本製鉄が平壌で出した大阪製鉄所の工員募集広告を見て応募した。「2年間訓練を受ければ、技術を習得することができ、訓練終了後、朝鮮半島の製鉄所で技術者として就職することができる」と書かれていた。しかし実態は「1日8時間の3交代制で働き、月に1、2回程度外出を許可され、月に2、3円程度の小遣いが支給されただけ」だったという。今回の訴訟は「原告らは被告に対して未払賃金や補償金を請求しているのではなく、強制動員への慰謝料を請求している」(判決文)のであり、日本による統治を「不法」としている韓国では、1965年の請求権協定に含まれていない慰謝料を請求できる、という論理構成になっているそうだ。また韓国のハンギョレ新聞は「日本政府、専門家には個人請求権の実体を認めながら一般大衆には『韓日協定で解決済み』と説明」「国際司法裁判所へ行っても日本が負ける可能性ある」という戦後補償問題を取り上げてきた山本晴太弁護士にインタビューを掲載している。これらを読むと、河野外務大臣や多くの日本メディアの韓国批判は、いささか過剰に過ぎるのではと疑問を抱いてしまう。海自艦の旭日旗掲揚拒否問題以降、対韓国外交に日本政府の焦りを感ずるのは私だけではないと思う。

2018年11月8日

デパスを断つことはできるだろうか

エチゾラム(デパスの後発薬)0.5mg 錠

抗不安薬デパス(エチゾラム)の服用を始めたのが何時だった思い出せない。10数年前に心筋梗塞を患い、カテーテル手術で一命を取り留めた。その後3カ月に1回、降圧剤などを処方してもらうため、循環器内科に通うようになった。当時、同じ総合病院の心療内科でデパスを処方してもらっていた。しかし複数の診療科に通うのは面倒なので、訊いたところ、循環器内科でも処方してもらえることが分かった。以来、いわば惰性で服用してきたが、やめることはできないかと思い始めた。日経メディカル処方薬事典の「デパス錠」には

1. 神経症、うつ病の場合:エチゾラムとして1日3mgを3回に分けて経口投与する
2. 心身症、頚椎症、腰痛症、筋収縮性頭痛の場合:エチゾラムとして1日1.5mgを3回に分けて経口投与する
3. 睡眠障害に用いる場合:エチゾラムとして1日1~3mgを就寝前に1回経口投与する

とある。なお「いずれの場合も年齢、症状により適宜増減するが、高齢者には、エチゾラムとして1日1.5mgまでとする」という。私は毎朝1回0.5mgしか服用していなかった。デパスの作用時間は短かいので、どうして1日1回なのか不明である。心理的に依存しているのだろうけど、長期間常用したため効かなくなってるかもしれない。やはりこの際やめようと思い始めたのは、第三種向精神薬に指定されたからである。投与期間の上限が30日になったわけであるが、裏返せば厚労省がこの薬の危険性を認めたのである。2週間ほど前から半分に割って飲むようにした。その後離脱反応もないようなので、このまま数カ月を過ぎたら、断薬しようかと思っている。どうやら断ち切れそうな気がするが、不安材料が消えたわけではない。減薬、断薬はリバウンド(反跳作用)というリスクを伴うので、自己判断ではなく、専門医と相談することをおススメしたい。

amazon  近藤誠『クスリに殺されない47の心得 体のチカラがよみがえる近藤流「断薬」のススメ』

2018年11月7日

写真共有サイト Flickr のサービス変更

Spangled cotinga: Photo by ©Mathias Appel

写真共有サイト Flickr からメールが届いた。曰く「2019年1月8日以降、フリーアカウントは1,000点の写真あるいはビデオに制限される」云々。有料のプロアカウントにアップグレードすれば保存容量は無制限になるという。フリーメンバーとプロメンバーとの不公平さを解消したいという。フリーメンバーの97%以上が1,000点以下しか保存していないので、影響は少ないと説明している。Flickr は2004年2月に開設されたが、その年の11月に私は参加した。当時、フリーアカウントの保存容量は写真200点で、プロアカウントを取得したと記憶している。運営が Yahoo! に移ってからフリーメンバーでも1TBの容量が使えるようになったので、アカウントを切り替え、支払いを停止した。2017年に Verizon がその Yahoo! を44億8,000万ドルで買収したが、同社は今年、SmugMug に Flickr を売却した。今回のサービス変更の背景である。保存点数を超えた写真は2月5日より、古いものから順に削除されるという。Flickr のブログによると、2018年11月以前にクリエイティブ・コモンズのライセンス下でアップロードされた写真は削除されないそうだ。ただフリーアカウントのままだと写真の追加はできなくなる。現在私が保存している写真は5,739点、どう対応しようか迷っている。参加していたフォーラムからは遠ざかってしまったし、ストレージを目的にするなら Google フォトがあるし。

2018年11月6日

スマートフォン用音楽プレーヤーの選択

Sony Mobile | JBL Music | Pulsar Music

小柳ルミ子さん(クリックで拡大)
カセットテープ式の携帯音楽プレーヤー、ソニーのウォークマンを購入したのは1979年9月だった。雑誌『週刊朝日』の取材で小柳ルミ子さんを撮ったのがきっかけだった。発売されたばかりの1号機を彼女はベルトに付けていた。好奇心が強かったのだろう、早速真似して私も入手した。以来約40年、携帯音楽プレーヤーを使ってきたことになる。ソニーのウォークマンを蹴とばしたのがアップルの iPod だった。当初はハードディスク内蔵だったが、2005年に物理的なドライブを廃し、フラッシュメモリを採用した iPod Shuffle が画期的だった。文字通り楽曲をシャッフル、つまり収録されている曲を収録順に関係なくランダムに再生できるようになった。スティーブ・ジョブスはオーディオマニアだったが、アルバムを聴くという鑑賞スタイルを壊してしまったのである。iPod は iPhone に進化し、写真が撮れて、音楽を聴くことができる携帯電話という、21世紀初頭の大発明だった。当初私は iPhone を使っていたが、現在はソニーの Xperia を使っている。理由は省くが、音質が優れていると感じたからだ。

iPod Shuffle (2005)
ソニーの音楽プレーヤーは、ずばり Walkman という名がついていたが、今は単に「ミュージック」となっている。ふと思いついて、星の数ほどあるプレーヤーから良さそうなものを数点試してみた。iPhone の音質について、記述を避けたのは「いい音」というのはあくまで主観であり、強いて言えばデバイス、特にヘッドフォンないしイヤフォンの性能に左右される。そしてスマートフォン用のプレーヤーで「いい音」と言われてるのは、おおむね低音をブーストしてると私は睨んでいる。逆にいえば、イコライザつきで、シャッフルができることが望まれる。JBL はスピーカーのブランドとして有名だが、やや期待外れといって良いだろう。ジャンル分けはできるものの、曲がアルファベット順に並んでいるだけで、シャッフル再生できない。音質はともかく操作性が最低である。その点 Pulsar Music は Android の最高の音楽プレイヤーの1つで、広告なしであることも嬉しい。曲間の途切れを防ぐギャップレス再生もできるし、イコライザで好みの音域設定ができる。探せばまだまだ優れたプレーヤーがあると思うが、取りあえずこれをしばらく使うことにした。

2018年11月3日

マイクロソフト Office 2003 の蘇生

Windows 10 にインストール可能な Microsoft Office 2003

今年の10月の初め「Microsoft Office 365 に振り回される」と題した記事を投稿した。Office 365 を導入したら、突然パソコンから古いバージョンの Office が消えてしまったという一件だった。再インストールを試みたが、残念ながらできなかった。おまけにパソコンを起動するたびに AppVlsvSubsystems32.dll が見つからない、というメッセージが表示される始末で閉口した。ところがである、何をどうやったか自分では記憶がないのだが、そのメッセージが表示されなくなった。そのことを思い出し、とりあえず手元に Office 2003 のディスクがあるので、再びインストールを試みた。というのは「Windows 10 で Office 2003は 動作するのか」という記事が目に止まったからだった。それによると Office 2003 のサポートは、2014年4月9日に終了しているので、当然ながら動作保証はしていない。マイクロソフトは「セキュリティ更新をせず PC を利用し続けることは、PC の脆弱性を解決しないままで使用し続けることになり、セキュリティ上、危険な状態になります」と警告している。この点を認識した上でインストールしたという。私もダメで元々という気持ちで試みたところ、今度はすんなりインストールできた。はからずも15年前のソフトが蘇ったのである。ついでに Office 2007 のアップグレードパッケージも持っているので試してみたが、インストールの途中でエラー表示、作業がストップしたままになった。何故だか私には分からないが、とにかくダメなようだ。Excel は年にわずか1回、確定申告に必要な医療費の集計をするために使うくらいで、Word も使用頻度は極めて少ない。個人向け Office 365 の使用料は年間 12,744円、永続ライセンスだと 32,184円もする。滅多に使わないソフトゆえに私にとってやはり無駄な費用だ。かつて Windows マシンには Office がバンドルされていた。みみっちいようだが、昔はタダだったじゃないかという深層心理が働いてしまう。

www  2014年4月9日 Windows XP および Office 2003 の製品サポートが終了しました(Microsoft)

2018年11月2日

遊びで殺されるアフリカの野生動物

Game trophies exhibited by Kerry Krottinger and his wife Libby ©Robert Clark/National Geographic

自らが射殺した動物たちに囲まれて写真に収まっているのは、テキサス州ダラスの石油業者、ケリー・クロッティンガー氏と妻のリビー。ナショナルジオグラフィック誌のロバート・クラーク氏が撮影、2017年11月のブログにも掲載されているので引用した。狩猟の目的は次のように大別できるが、クロッティンガー氏の狩猟は趣味に過ぎなく、多くの人々の怒りを買っている。
仕留めたライオンと笑顔で記念写真に納まる一家(南アフリカ)
  1. 食糧の獲得
  2. 毛皮などの生活物資の獲得
  3. 危害を及ぼす野生動物の棲息数管理
  4. 趣味の殺戮
趣味の狩猟を英語で "Trophy hunting"(トロフィー狩猟)と呼ぶ。スポーツ狩猟という欺瞞に満ちた言い方もあるが、要するに遊びである。野生動物を射殺することがリクレーションで、動物の頭や、角、牙、皮などがトロフィーになり、これを自宅に展示して自慢する。生け捕りした野生動物を放ち、狙撃させる牧場が北米にある。いわば釣り堀のようなものだが、簡易狩猟で、ビジネスとしてそれなりに成り立っているようだ。このトロフィー狩猟牧場を紹介した報道にまだ私は接したことがない。北米では広い地域にピューマ(クーガー)が棲息しているが、これを駆除して鹿の数を増やしたいという動きがある。コロラド州、ユタ州、ワシントン州をはじめとするいくつかの州では、このピューマ狩猟が増えつつあるようだ。無論、これに対する反対運動が起きている。トロフィー狩猟の最たるものが、絶滅の危機にあるアフリカの野生動物の殺害である。1980年代初頭、私は山崎豊子の著書『沈まぬ太陽』(新潮社1999年)の主人公恩地元のモデルとなった、小倉寛太郎(1930-2002)氏が率いていた「サバンナクラブ」の人たちとケニアを訪れた。同クラブが動物保護区の監視用自動車を贈呈したのだが、現地の人たちと話し合う機会があった。ケニアにとって野生動物は観光資源であり、密漁から守る意味に対する認識を新たにした。他のアフリカ諸国にとっても今でも同じことが言えると思う。ところが南アフリカやナミビア、タンザニアなど、アフリカの多くの国で合法的に狩猟が行われている。高価な狩猟許可料が貴重な収入源と言われている現実があり、毎年推定600頭ものライオンが「合法的」に殺されているのである。いわばこの需要と供給という悪しき繋がりを断ち切る必要がある。

2018年11月1日

第44回 2019 JPS展(日本写真家協会展)作品募集

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主 催:公益社団法人日本写真家協会
共 催:東京都写真美術館
後 援:文化庁・東京都

公益社団法人日本写真家協会(JPS)は全国に1,600名の会員を擁する職業写真家の団体です。協会の文化活動としての展覧会活動は、協会発足から始まっています。本協会創立の翌年1951年には「日本写真家協会第1回展」を開催、1962年の第10回展まで行われました。同展は1976年に「JPS展」と名称を新たにし、1977年から一般公募を開始、1991年からは写真学生を対象にした「ヤングアイ」にまで拡大し、東京、名古屋、京都などで開催しています。一般公募では、文部科学大臣賞・東京都知事賞・金・銀・銅賞のほか、奨励賞が与えられ、プロ写真家への登竜門になっています。
公益社団法人日本写真家協会 写真展担当理事 足立 寛

PDF  第44回 2019 JPS展応募要項の表示とダウンロード