2017年10月17日

消去法で決める一票

立憲民主党のロゴ

もし「保守かリベラルか?」と訊かれたら、迷わず後者と答えるだろう。しかし支持政党がない、いわゆる「無党派層」で、投票はおおむね消去法で決めている。私の選挙区の候補者は自民、希望、共産党三人だが、これでは選択肢がなく、必然的に決まってしまう。共産党に対しては若いころ嫌な確執経験をしたので敬遠してきたが、最近はその気持ちが和らいで、場合によっては一票を投ずるようになった。ところで比例区だが、希望の党の失墜で浮上した立憲民主党がまず頭に浮かぶ。ツイッターやフェイスブックなど、ソーシャルメディアの対応も好感が持てるし、僅か一週間で制作したというロゴもよくできていて感心する。広報戦略に長けたスタッフに恵まれていると言えそうだ。ただひとつ気になることがある。参院民進党の一部に「再結集」の動きがあることだ。選挙後万が一、立憲民主党が民進党に合流したらまさに元の木阿弥、魅力に欠ける野党第一党に戻ってしまう。これだけは勘弁して欲しいが、全く可能性がないわけではない。というわけで、社民党を選ぶか、投票日ぎりぎりまで判断を伸ばそうと思っている。

2017年10月15日

野生動物写真の先駆者カートン兄弟

海鳥の巣を撮るため崖下に降りるチェリー・カートン(シェトランド諸島)

ウタツグミの卵(クリックで拡大)
19世紀末から20世紀にかけて活動した英国のリチャード(1862–1928)とチェリー(1871-1940)のカートン兄弟は、紛れもなく現代の野生動物写真の先駆者であった。営巣中のウタツグミの卵の写真は世界で初めて、1892年に撮影されたもので、1895に出版された写真集『英国の野鳥の巣:どのようにして、どこで、いつ識別するか』にその成果が結実した。野鳥は警戒心が強いので現在でもブラインドテントを使うが、牛の毛皮で牛のぬいぐるみを作り、その中に潜んで撮るといった工夫を凝らした。また木の上の巣を撮るため、三脚を繋ぎ合わせて高くし、リチャードの背に乗って撮影するチェリーの写真が残っている。そればかりではない、高木に登り、細い枝に梯子を固定してマヒワの巣を撮ったり、海鳥の巣を撮るため、ロープにぶら下がって断崖絶壁を降りるといった危険な作業もしている。それはあくまで野生動物の自然な姿を撮るためだった。剥製を使ってフェイク写真を作るということをしなかったチェリーの「絶対的な誠実さ」を、アフリカで出会ったセオドア・ルーズベルト大統領が絶賛したという。その最たるショットが、1909年にケニアで夜間、フラッシュを使って撮影されたライオンだった。1910年に撮影されたマサイ族のライオン狩りの写真は、おそらく最初にして唯一のもので、特筆に値する。狩猟という名の忌まわしい「スポーツ」が現在でも行われているが、彼は銃の代わりにカメラを持ったが、それゆえに多くの危険に晒されたことは言うまでもない。野生動物を記録するため世界を旅した彼は「私の仕事は愛の労働」という言葉を残している。ジョン・ベヴィス著『カートン兄弟:ネイチャー写真の事始め』が昨年出版されたが、日本でもアマゾンで入手できる。

Amazon  "The Keartons: Inventing Nature Photography" by John Bevis

2017年10月14日

安倍首相は改憲が必要なくなったと思っていない

Illustration by ©281_Anti nuke

昨日「安倍首相『改憲必要なくなった』=昨年、田原氏に明かす」という記事が目に飛び込んできた。時事通信電子版の記事だが、都内の日本外国特派員協会で記者会見した田原総一朗氏が、集団的自衛権の行使を可能にするための憲法改正の必要性について、安倍晋三首相が昨年「全くなくなった」と語っていたことを明らかにしたという。米国が従来求めていた集団的自衛権の行使について、安全保障関連法の成立で可能となったことで「米側からの要請がなくなったためだ」と説明したそうである。やはり安全保障関連法は米国の要請によるものだったのである。日本は米国の属国とよく言われるが、まさにそれを露呈した発言で呆れる。ところでタイトルだけを読むと、安倍首相が「改憲必要なくなった」と発言したと誤解しそうだが、そうではなく「日本の憲法学者の7割近くが『自衛隊は憲法違反だ』と言っている。だから憲法に自衛隊の存在を明記したい」とも話したという。所謂「9条加憲」で、日本国憲法9条の1項、2項はそのままにして、新たに3項といったものを追加し、その追加の部分で自衛隊の合憲化を書き込むというものである。しかし憲法9条2項は「戦力は、これを保持しない」と規定している。自衛隊は明らかに戦力であり、7割近くの憲法学者の見解を覆して、どのように書き換えるのだろうか。日本の歴代内閣は集団的自衛権を「保有しているが、憲法9条との関係で行使できない」との解釈を示していたが、安倍内閣は2014年7月の閣議決定で、その解釈を変更した。安全保障関連法の制定は、憲法違反であるという批判を無視して成立、集団的自衛権の行使を可能にしたわけである。そしてひたすら「北の脅威」を煽り、しかも災害時における自衛隊の活躍ぶりのみを強調している。憲法9条を守るには、まず護憲派議員を増やすことだから、今回の衆院選は大事なのである。しかし投票予測記事を読むと改憲勢力が増え、状況はますます悪化すると言わざるを得ない。しかし憲法改正の手続きは、総議員の3分の2以上の賛成で国会が改正案を示し、最終的には国民が投票で決める。国民投票という瀬戸際作戦に備え、一般市民が護憲の必要性を地道に展開することが必要である。

2017年10月12日

木島櫻谷:近代動物画の冒険

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日 時:2017年10月28日(土)~12月3日(日)10:00~17:00(月曜休館)
料 金:一般800円・高大学生600円・中学生350円(小学生以下無料)※20名以上は団体割引20%
会 場:泉屋博古館(京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前町)075-771-6411

木島櫻谷(このしま・おうこく)近代の京都を代表する日本画家の一人として知られる。明治10年(1877)三条室町の商家に生まれ、円山四条派の流れをくむ今尾景年に入門し画技を学ぶ。20代から頭角を現し、明治後半から大正期にかけて文展・帝展の花形として活躍し、京都画壇の巨人・竹内栖鳳と並び立つ人気を博した。近年、櫻谷の画業が改めて注目され、今年は生誕140年のメモリアルイヤーにあたる。

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2017年10月11日

京都パンフェスティバル in 上賀茂神社 2017


日 時:2017年10月28日(土)〜29日(日)10:00~15:00
会 場:上賀茂神社(京都市北区上賀茂本山)075-781-0011
照 会:京都パンフェスティバル実行委員会事務局 075-241-6172

WWW公式ホームページ: 出店企業・店舗紹介・2016年の模様など

2017年10月10日

京都1区希望の党候補者の不可解

上善寺(京都市上京区今出川通千本西入る)

第48回衆議院議員総選挙(衆院選2017)が告示された。私は京都1区の有権者だが、3人が立候補した。自民党・伊吹文明氏、共産党・穀田恵二氏は毎度お馴染みの顔ぶれだが、希望の党から立馬した嶋村聖子氏は初めて耳にする名である。朝日新聞の候補者紹介欄には、フリーアナウンサー、米国ハワイ大卒となっている。ひとつだけ分かっているのは、希望の党の小池百合子氏が主宰する政治塾「希望の塾」に参加し、国政挑戦を打診されたという点だけである。ポスターには小池氏とのツーショットがレイアウトされていて「しまむらさんが京都の希望…」というコメントが添付されている。もう少し詳しい履歴が知りたくなり、オフィシャルブログを覗いてみたところ、米国州立大学卒業とあるが、具体的な大学名は書いてない。さらにオフィシャルサイトなるものにアクセスしたところ、京都在住としながら、趣味が旅行で、京都・大阪めぐりといった矛盾も見られる。どうやら京都は観光で訪れた程度で、選挙区には縁もゆかりもないらしいのである。フェイスブックページから問い合わせて欲しいということなので、探したが見つからなかった(*)。ツイッターやインスタグラムへのリンク記述があるが、いずれも「非公開」で、しかも投稿した形跡がない。というわけでこれ以上追跡しても無駄と判断した。駆け込みドタバタ立馬で準備不足なのかもしれないが、ネットは今や有権者にとって、候補者の横顔を知る貴重かつ有用な手段である。また候補者にとっても強力な広報手段で、ホームページやブログ制作、あるいは SNS 投稿に力を注いでいる。にも関わらず、履歴や政治スタンスはどうなのかという点に対してやや不満が残る。注目の党ゆえに嶋村聖子氏をピックアップしたが、選挙妨害をするつもりでは毛頭ない。

(*) フェイスブックページ「しまむら聖子」を探すとができました。せめてオフィシャルサイト、あるいはオフィシャルブログからリンクされていれば、簡単に見つけることができたと思います。ざっと一読したところ、街宣の写真が主で、ページ情報を見ても何が目的で国政参加したか不明です。(10月12日)

2017年10月9日

赤と黒

SEKONIC FLASHMATE  L-308S

SEKONIC STUDIO DELUXE L-398M
フランスの作家スタンダールの長編小説『赤と黒』ではなく、露出計の話である。単体露出計の需要については不案内だが、なんとなく絶滅危惧種じゃないかと思い始め、同じ製品を一台買い足した。セコニックの L-308S で、右の黒がそれである。左の赤は1921年に同社の創業60周年を記念して売り出されたもので、赤、青、緑、それぞれ60台ずつ国内出荷された。数が少なかったのであっという間に売り切れ、購入し損ねてしまった。ところが米国のB&Hに在庫があったので、逆輸入して何とか入手できた代物である。ところで調べ直したところ、同社は私の心配をよそに、現在でもかなりの数のラインアップを備えている。最上位機 L-858D はそれなりに測光精度が高いと想像されるのだが、筐体が大きく嵩張るし、希望小売価格が \75,000(税別)とかなり高価である。その点 L-308S は \35,000(実勢価格 \22,000)と手ごろな値段だし、単三電池1本で動くのが良い。アルカリ電池でもかなり長期に渡って使えることを体験済みだし、何処でも入手できる点は捨て難い。なお L-308S の機能に動画対応機能を追加した後継機に L-308DC があるが、必要ない機能なのでパスした。手元にあるミノルタのオートメーターIIIはまだ動くので、売却する予定。超ロングセラー L-398M は余りにも美しいので、手放すのはやめておこうと思っている。

2017年10月5日

モノクロ写真に情報の欠落を感じないのは何故だろうか

壁画(京都市中京区河原町通三条下る)
Rolleiflex 3.5F Xenotar 75mm T-max400

アルタミラの洞窟壁画、あるいは高松塚古墳の壁画など、絵画の世界は太古からカラーだ。ふと思うことだが写真や映画、テレビはモノクロから始まっている。もし写真術の発明がカラーだったら、絵画における水墨画のように、果たしてモノクロの写真を人は作っただろうか。気まぐれで色彩情報を廃棄した写真を作ることがあったかもしれない。しかし、今、写真史に残ってるような傑作が生まれたか疑問である。手掛ける人は減ったかもしれないが、モノクロ写真には捨てがたい魅力がある。ところで、カラーの水彩画を描く場合と、水墨画を描く場合、その方法論はまった違う。それでは、写真家はカラーとモノクロをどれだけ意識して使い分けているのだろうか。これは極めて興味ある課題だ。これはカラー向きの被写体だ、といった言い方をときどき耳にする。これは一瞬ナルホドと思うが、冷静に考えてみると、これはちょっとオカシイかもしれない。どんな色をしているかという情報を必要とする被写体にのみの場合であろうけど、不思議なことに、その必要を感じた経験を思い出せない。色彩にはさまざまな情報が含まれている。色彩から人間はさまざまなことを感知する。森羅万象、人間が感じ得るあらゆるものが色彩に込められている可能性がある。時にそれは危険信号となって、生命破たんを回避してくれる。あるいは性的なパッションを含め、人間の生命エネルギーの横溢を感じさせてくれる。食への欲求を促進し、生命維持のエンジンの役割を果たしてくれる。

紅葉(京都市右京区梅ケ畑高雄町)
Rolleiflex 2.8FX Planar 80mm T-max400

いわば色彩は、人間の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、つまり五感すべてに関与していると言っても過言ではない。にも関わらず、多くの場合、モノクロ写真に大きな情報の欠落を感じないのは何故だろうか。新聞に掲載された小さな顔写真。人はそれを見て、それが誰かを識別する。何故なのだろうか。色彩がない二次元の映像から、人間はそのパターンやその他の情報を汲み取る。単なる影でさえ、人間はたくましく想像を張り巡らすのである。この先は大脳生理学者が解説してくれるだろうけど、おそらく、人間はその経験によって欠落情報を補填する能力を持っていると私は想像している。私が好きな写真家、石内都さんは著書『モノクローム』(筑摩書房)の中でこんな記述をしている。「色彩は自然の摂理であり、疑う余地のない現実の世界。そのすべての色彩をモノクロームのフィルムは、光と影の明暗だけに置きかえる。(途中略)いかなる色彩もモノクロームにあっては、黒と白に近づく為だけに用意されている」云々。これである。現実を写し取るのが写真の役割のひとつだが、眼前にあるモノを写し変える作為が写真にはある、と彼女は言う。そうなのである。現実を大脳が想起させつつ、さらにモノトーン化した画像から人間は、さらなるもうひとつの世界を嗅ぎ取るのである。

2017年10月3日

時代祭2017年日程

巴御前に扮した宮川町の芸妓(京都御所2016年10月22日)

10月15日13:30 時代祭宣状授与祭
行列の主な参役に選ばれた約500名の平安講社員が平安神宮のご神前に行列の無事執行を祈願し宮司より宣状が一人一人に授与される
15:00 時代祭奉祝踊り足固め
平安神宮境内で揃いの衣装の女性300名による民踊列が披露される
10月21日10:00 時代祭前日祭併献花祭
時代祭の無事執行を祈り献花などが平安神宮で行われる
10月22日7:00 時代祭(雨天順延)
総長・奉行が参列し平安講社を代表して総長が祭文を奏上する
8:00 神幸祭
2基のご鳳輦(ほうれん)に桓武天皇・孝明天皇のご神霊をうつす
9:00 神幸列進発
神幸列が平安神宮を進発し10:00頃に京都御所の行在所に到着する
10:30 行在所祭
崇敬者と市民代表が参列し神饌講社より神饌が献じられ白川女の献花奉仕が行われる
12:00 行列進発
時代行列が京都御所の建礼門前を出発し平安神宮に向かい13時頃には御池寺町に14時頃には平安神宮前で奉祝踊りが披露される
16:00 大極殿祭並還幸祭
全行列が到着したあと御鳳輦を大極殿へ奉安し延暦文官参朝列の三位が代表で祭文を奏上し続いて御霊代をご鳳輦より本殿に還して祭典を終了
10月23日10:00 時代祭後日祭
祭典の無事終了を奉告し祭具を片付け格納される
京都観光NAVI  行列の解説や巡行コースなど時代祭詳報(京都市観光協会)

2017年10月1日

片腕の写真家ヨゼフ・スデックの偉業

Prichod Noci ©Josef Sudek ca.1948–64

暗箱を背にした晩年のスデック
20世紀を代表する写真家の巨匠はという問いに対し、すぐにアンリ・カルティエ=ブレッソンやアンセル・アダムズなどを頭に浮かべるけど、ヨゼフ・スデック(1896–1976)の名を挙げる人は少ないかもしれない。スデックは「プラハの詩人」と呼ばれているが、こよなく愛したその都市景観と近郊の田園風景の魅力ある写真を残した。ウジェーヌ・アジェ(1857-1927)のパリとは大きく異なり、光を捉えた幻想的な作品である。アジェは日陰になった建物の諧調が潰れるのを嫌い、曇天の日に撮影することを好んだ。それに対しスデックは光が織りなすトーンを大事にしたからである。ボヘミアのコリーンに生まれた彼は、父親の生業だった製本の見習工になった。1915年にハンガリー軍に徴集され、イタリア戦線に送られたが、そこで負傷、傷の悪化により右腕を失ってしまった。入院中、医師からカメラを貸与された彼は患者仲間を撮影することに没頭する。退院後、プラハに戻った彼はグラフィックアート学校で写真を本格的に学んだのである。ピクトリアリズムに傾倒したが、すぐにストレート写真に転向、1924年にチェコ写真協会を設立して前衛表現に関心を寄せるようになった。スデックの写真表現を決定的にしたのは、1962年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団に同行、イタリアを旅した時の出来事だった。コンサートから抜け出した彼は、夜露に濡れた街の光景に強く打たれる。そして「もうどこにも行かない」と決心、プラハの都市景観撮影に集中、1933年に最初の個展開催にこぎつけた。1940年代に入り、ナチにより撮影活動が制限、戦後も社会主義体制のもとで極度に戸外での撮影制限されされたため、窓からの眺めを撮影したが、これは結果的にはシリーズ「アトリエの窓から」という傑作を残した。晩年はパノラマカメラも導入したが、大判の木製暗箱が主な撮影道具であった。健常者でも操作が厄介であるが、片腕というハンディを乗り越えた点に敬服するが、何よりも作品自体の素晴らしさに畏敬の念を抱かざるを得ない。紛れもなく20世紀を代表する写真家の巨匠の一人である。

2017年9月28日

ファシストになるより豚のほうがマシさ

Porco Rosso by Hayao Miyazaki

旧プロフィール画像
これまでブログやソーシャルメディアなどのプロフィール用に、江戸時代の浮世絵師、東洲斎写楽が描いた役者「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」がローライフレックスを持った合成画像を使ってきた。ところが思うことがあり、これを廃棄、スタジオジブリ制作の宮崎駿監督作品「紅の豚」に切り替えた。同アニメの中の名言「ファシストになるより豚のほうがマシさ」をイラスト化したものだ。宮崎駿監督作品は大人の鑑賞に耐えるものばかりだが、基本的には子ども向けに作られている。そのすべてを観たわけでは無論ないが、この「紅の豚」と「風立ちぬ」が印象に残っている。いずれも戦闘機が重要な役割を担った作品だが、小さな子どもにはおそらく理解できないと思われる。だが、二眼レフを意味する twin_lens がかつてのネットワーク上のハンドルだったこともあり、写楽+ローライフレックスのプロフィール画像は捨て難いものがある。しかし昨今のこの国を覆う右傾化を憂慮、自らのリベラルの立場を自ら離すまいという、ささやかな気持ちを改めて確認するためでもある。軍靴の響きが聴こえてきた。たったひとりの孫の顔を見るたびに、この子を戦場に送らせてはならないと強く願う今日この頃である。

2017年9月25日

法華寺十一面観音菩薩立像ご開帳

国宝十一面観音菩薩立像

2017年10月25日(水)~11月13日(月)9:00~17:00 受付は~16:50
法華寺(奈良市法華寺町)0742-33-2261 http://www.hokkeji-nara.jp/

法華寺本尊十一面観音菩薩立像は、海龍王寺、不退寺とともに「佐保路の三観音」のひとつである。乾漆維摩居士坐像、木造仏頭、木造二天頭なども同時に公開される。1918(大正7)年にこの像に接した若き哲学者、和辻哲郎が「胸にもり上つた女らしい乳。胴体の豊満な肉づけ。その柔らかさ。しなやかさ。さらにまた奇妙に長い右腕の円さ。腕の先の腕環をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に移つて行く間の特殊なふくらみ。それらは実に鮮やかに、また鋭く刻みだされてゐるのであるが、しかしその美しさは、天平の観音のいづれにも見られないやうな一種隠微な蠱惑力を印象するのである」(岩波書店『古寺巡礼』1947年改定版)と絶賛し、後に広く一般に知られるようになった。

2017年9月23日

写真が写真に帰る日

野島康三「題名不詳」1931年(京都国立近代美術館蔵

伊奈信男写真論集
何度かこのブログに書いてきたたが、写真術が生まれて間もなくソフトフォーカスが流行り始めた。後にピクトリアリズム写真と呼ばれるようになったのだが、ふたつの理由があった。写真は芸術かという論争を経て、後期印象派の真似をして芸術たらんとした。それからディテール描写への拒否という感覚から流行したものだ。20世紀になり、その旗手は米国ではアルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)、日本では野島康三(1889-1964)であったが、やがてふたりともストレート写真に回帰する。戦後、といっても1970年代後半だが、欧州においてトイカメラブームが勃発した。後年、日本には商業主義と絡んだカタチで輸入されて販売されたが、ダイアナ、ロモ、ホルガといったB級カメラを使った新たな表現であった。そこには写り過ぎるカメラへのアンチテーゼが潜在、写真はブレていてもよい、不鮮明でもよい、という一種の芸術運動であった。別の潮流にピンホールやゾーンプレート写真があったが、私はこれらを一緒に第2次ピクトリアリズムと呼んでいる。ところが昨今、デジタル画像処理によって、さらに新たな写真表現が生まれつつある。電子フィルターによって作られる映像群は、トイカメラ写真同様、ストレート写真から離れた表現になっている。私はこれをさらに第3次ピクトリアリズムと呼ぼうと思っている。とはいえ、私がこれに染まっているわけではない。興味を持っているが、その先にある新たなストレート写真への回帰を予感しているからだ。ふと伊奈信男写真論集『写真に帰れ』(平凡社2005年)が書棚にあることを思い出した。伊奈信男(1898-1978)が1932年5月、写真同人誌『光画』創刊号に寄せたものの復刻で、日本における近代写真批評の嚆矢(こうし)となった論文である。写真の独自性を主張する内容となっており、芸術写真と絶縁せよと迫った。名取洋之助(1910-1962)が立ち上げた「日本工房」に参加した木村伊兵衛(1901-1974)も同人だったが、報道写真に傾斜していた。同誌の出版費用を負担した野島康三は、芸術写真に拘り、従って必ずしも『光画』の論調に同調したわけではなかったようだ。しかし彼もストレート写真に回帰、一世風靡していたピクトリアリズムの衰退を招いたのである。歴史は繰り返すという諺があるが、デジタル処理した「芸術」が席巻している現代の写真界、ひょっとしたら「写真に帰る」雪崩現象が起こるかもしれないと予感している。

2017年9月19日

ラッパがついたフィドルのお話

Julia Clifford and her sister Bridgie Kelleher, Knocknagree, Co. Cork, Ireland, 1984.

ボストン美術館蔵
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世の中には面白い楽器がいろいろある。写真左はアイルランドのケリー郡出身のジュリア・クリフォード(1914-1997)だが、フィドルに蓄音機のラッパに似た拡声装置がついている。ストロー・フィドルだが、ストローは麦藁を意味する Straw ではなく Stroh と綴る。オーストラリアのラム酒、シュトローと綴りは一緒だが、無論関係ない。フランクフルト生まれでイギリスに移住した電気技術者ジョン・マタイアス・オーガスタス・ストロー(1828-1914)に由来する。ストローは考案した楽器の特許を1899年に取得、息子のチャールズが1901年から1924年まで製造、ジョージ・エヴァンス社も1904年から1942年まで製造販売したという。フィドルばかりではなく、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、マンドリン、はてはウクレレやギターも作られた。音楽レコードの黎明期、蝋管式蓄音機で録音するには大きな音で指向性の強い楽器が必要だった。その要求に応えたのがストロー式絃楽器だったのである。その形状からまろやかな音色が奏でられるとは想像しがたいが、スライゴ出身の伝説の巨星、マイケル・コールマン(1891-1945)も、録音にはこれを使わらずを得なかったようだ。姉のブリッジ・ケレハーが普通のフィドルを弾いているにも関わらず、ジュリア・クリフォードは何故ストロー・フィドルなのか。街頭で開催されたフォーク・フェスティバルなどにも出演していたらしく、その場合は音が大きいのが望ましいので、使用した理由は理解できる。しかし写真は室内で撮られている。いろいろ調べてみたところ、2009年6月6日付けのアイリッシュタイムズ紙の記事に、そのヒントを得ることができた。ジュリア・クリフォードはダン・オコンネル(1921-2009)が1957年にコーク郡ノックナグリーで開店、アイルランド音楽のメッカとなったセットダンス・パブの常連演奏家だったようだ。セットダンスはアイルランドの伝統的なスクエアダンスであるカドリーユをルーツとしたフォークダンスで、爪先やかかとでたてる打撃音を伴うのが普通である。床から響く靴音にかき消されないように、音が大きいストロー・フィドルが使われた可能性が大きい。写真には「コーク郡ノックナグリー」という説明がついているので、このパブで撮影されたと断定できる。これで疑問がひとつ解けたようだ。なおストロー・フィドルはアイルランドやイギリス以外、例えばニューオーリンズの謝肉祭、マルディグラの街頭パレードでも現在使わているようである。

SoundCloud
Chase Me Charlie: Johnny O Leary and Julia Clifford, Recorded in Dan Connells pub, Knocknagree.

2017年9月18日

2017年第42回JPS京都展開催のお知らせ

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会 場: 京都文化博物館 5F(京都市中京区三条通高倉)075-222-0888
日 時: 2017年9月26日(火)~9月30日(土)10:00~18:00(最終日16:00まで)
料 金:一般700円(団体560円)/学生400円(団体320円)/高校生以下および65歳以上無料
主 催:公益社団法人日本写真家協会(http://www.jps.gr.jp/

公益社団法人日本写真家協会(略称JPS)は全国に1,600名余りの会員を擁する職業写真家の団体です。協会の文化活動としての展覧会活動は、協会発足当時から始まっています。本協会創立の翌年1951年には「日本写真家協会第1回展」を開催、1962年の第10回展まで行われました。同展は1976年に「JPS展」と名称を新たにし、1977年からは一般公募を開始、91年からは写真学生を対象とした「ヤングアイ」にまで規模を拡大し、東京、広島、名古屋、京都などで開催しています。一般公募では、文部科学大臣賞・東京都知事賞・金・銀・銅賞の他、奨励賞、優秀賞が与えられ、プロの写真家への登竜門となっています。

JPS  フライヤーの表示とダウンロード(PDFファイル 6.44MB)

2017年9月17日

ブルーライトカット眼鏡を勧められたけど

蛍光管に比べて LED は青色光にピークが来ている(©日経トレンディ)

パソコン専用を新調しようと眼鏡店に出かけたら、ブルーライトカット眼鏡を勧められた。ブルーライトとは眼科医などの医療専門家が設立した「ブルーライト研究会」によると、波長が 380~500nm(ナノメートル)の青色光のことで、ヒトの目で見ることのできる光=可視光線の中でも、もっとも波長が短く、強いエネルギーを持っており、角膜や水晶体で吸収されずに網膜まで到達してしまうというのだ。このブルーライトをカットする眼鏡が2012年に発売され、ヒット商品となった。上の図はブルーライトカット眼鏡チェーン店 J!NS のデータを元に、日経トレンディが制作した蛍光管液晶および LED 液晶ディスプレイのスペクトルである。これを見ると、後者のディスプレーには青色 LED に起因する急カーブの山が 450nm 付近にある。ただし紫外線に隣接した帯域ではゼロである。ブルーライトは、眼や身体に大きな負担をかけると言われており、従って軽減する眼鏡がヒット商品になったのだろう。ここで注意すべきは「負担をかけると言われており」という表現で、液晶モニターを製造している EIZO も「ブルーライトは、可視光線に含まれるため、疲れ目に影響があるとは一概に言い切れませんが、有害である UVA に近い波長であることから、目への負担が大きいとも考えられます」と微妙な説明をしている。同様の記述は眼鏡メーカーのサイトにも多々ある。つまり目に負担をかけているかもしれないが、損傷を与えるとは明言していない。にもかかわらず、一日中オフィスで液晶ディスプレイを睨んでるひとには、有用な健康器具と受け取ってる人が少なくないだろうと想像する。当初ブルーライトカット眼鏡を注文したものの、結局キャンセルしてしまった。その効果を否定する知識を持ち併せてはいないが、液晶ディスプレイがそんなに有害なら製造停止にすべきという考えがちらっと脳裡を走ったからだ。なおディスプレイの色温度と輝度をさげれば、ブルーライトを軽減できるそうなので試してみようかなと思っている。一番の対策は長時間パソコンに向かわないことだろう。いずれにしてもどうやら私は根っからの天の邪鬼らしい。

2017年9月16日

京都カーフリーデー2017

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日 時:9月17日(日)9月18日(月・祝)10:00~16:00
主 催:京都カーフリーデー実行委員会
共 催:二条駅地域安全ネットワーク・環境省京都御苑管理事務所

カーフリーデーは1997年フランスで始まり、2000年には欧州委員会のプロジェクトになりました。現在ではモビリティウィーク&カーフリーデーとして、毎年9月16~22日の間、世界のおよそ2000都市で開催されています。エネルギーや地球温暖化の問題が深刻化する中で「かしこいクルマの使い方」を、徒歩や自転車・電車・バスを利用することによって、環境負荷の少ないこれからの「くらしかた」を考え、まちの賑わい・楽しさ・文化を大切にする取組です。※台風接近に伴う催事変更に関しては下記 Facebook ページをごらんください。

Facebook  京都カーフリーデー実行委員会 Facebook ページ

2017年9月13日

京都市民と観光客の冷たい戦争

スーツケースを持って市バスに乗り込む観光客(京都駅バスターミナル)

京都市は外国人観光客らの増加による混雑解消のため、市バスの大半の区間が乗り放題になる1日乗車券を来年3月から、500円を600円に値上げする方針を決めたそうだ。スーツケースを持った外国人観光客らが増え、市民から「バスに乗れない」などの苦情が相次いだからだという。市交通局によると、値上げで市バスの1日当たりの乗客数は5,500~9,300人減る見込みだそうだが、それほど減らないと想像している。市バスの初乗り運賃は230円で、依然1日3回乗れば元が取れるからだ。スーツケースの件だが、私は何度も目撃しているが、確かに混雑した車内では迷惑ではある。観光客の増加で収益が上っていると想像されるが、税金で賄っている市バス、市民の不満も理解できる。到着した駅からタクシーに乗ってくれれば問題ないのだが、様々な事情が混在する。出費を抑えるというのが第一の理由だろうけど、タクシー運転手を信用しない外国人が結構いるようだ。すなわち遠回りすのではないか、運賃をボラれるのではないかと疑うというのである。いずれにしても市民と観光客の間に冷戦があるのは確かなようである。スペインで最も多くの観光客が訪れるバルセロナや、世界的な観光都市であるイタリアのベネチアなどで、相次いで住民による観光産業に対するデモがあったと報道された。バルセロナの場合、160万人の住民に対して年間3200万人もの観光客が訪れているという。実に人口の20倍もの観光客が押し寄せているのである。ベネチアの場合は人口の何と400倍だそうである。さすがに京都はこのレベルに達していないが、市民の不満がくすぶっていることは事実である。

2017年9月11日

左利きミュージッシャンの不思議な物語


台所の冷蔵庫を移動したのはよいが、困ったことに扉が開け難くなってしまった。把手が左側にある、右開きの扉なのだが、大きく開かないと中のものを取り出せない。一般にトイレその他の片開きの扉はこのようになっている。この形式は、右手で開けるのが便利なので、きっと右利き用なのだろう。左右で分からないのは自動車道である。米国はじめ多くの国が右側通行を採用しているが、日本は左側通行である。これに合わせて国産車は運転席が右側にある。今はAT車が増えたが、私は変速シフトレバーは左手のほうが良いような気がする。すると国産車は右利き用と思うが、そういう議論は余り聞いたことがない。同じような理屈で考えると、楽器は不思議である。フィドルやチェロ、ギターなど、左指で弦を押さえるものを右利き用としているからだ。利き腕のほうの指で弦を押さえても良いのではとは思うが、そうでもないようだ。

John and James Kelly:
ジョンとジェイムス兄弟はふたりともアイルランドの首都ダブリン生まれだが、父親のジョン・ケリー・シニアは西クレア地方でよく知られたフィドラーだった。従ってふたりはクレアスタイルのフィドル奏法を継承している。このジャケットで分かる通り、ジェイムスは左利き用のフィドルを使っている。フィドルは左右対称に作られていない。表板の振動を裏板に直接伝える魂柱(サウンドポスト)が高音弦寄りにあるからだ。この位置がフィドルをフィドルたらしめてるキーポントであろうと思う。だから左利き用は単にブリッジの形状や、糸巻きの位置を変更するだけでは済まない構造になっていると思うのである。楽器自体を見たこともないので、だからそれを使ってる演奏者を実際に見たことがない。クラシックのオーケストラなどの場合、隣の奏者と弓がぶつかってしまうのではといらぬ心配をしてしまう。余談ながら左利きが有利な楽器はホルンだそうである。左手でレバ―を押して演奏するからだろう。

Live at the Fillmore East
左利きといえばジミ・ヘンドリックスを思い出さずにはいられない。このアルバムは1969年の大晦日から、翌元旦にかけてのライブをピックアップしたものだ。肝心のギターだが、手にしてるフェンダー・ストラトキャスターは、糸巻きの位置で分かるように右利き用である。つまり弦の上下を逆さまに張り替えて使っているようだ。アコースティックギターの場合だと、ナット(上駒)やブリッジの形状が違うので、右利き用をそのまま左利き用にできない。私は電気ギターは触ったことがないのでよく分からないのだが、なんらかの改造はしたのではと想像している。

右利き用のギターの弦を張り替えずに、そのまま演奏したのがエリザベス・コットンだ。彼女は1893年、ノースカロライナに生まれたが、有名になったのは晩年である。民謡研究家チャールズ・シーガーの娘ペギーが迷子になったが、家に届けたのがエリザベスだった。その縁でマイク・シーガーが1958年、Folkways のために録音をした。マイクの異母兄弟がピート、そして父親はチャールズ・シーガーである。そのピート・シーガーが1960年代に司会を務めたテレビ番組「レインボウ・クエスト」にゲスト出演したエリザベス・コットン。絶妙なフィンガーピッキングを聴くことができる。

YouTube  Elizabeth Cotten live on Pete Seeger's Rainbow Quest TV Show

2017年9月7日

レンズを通した恋:アンリ・カルティエ=ブレッソンとマルティーヌ・フランク

Henri Cartier Bresson and Martine Franck ©1971 Josef Koudelka

ポール・ヒル&トーマス・クーパー著『写真術―21人の巨匠』(晶文社1988年)は写真界のレジェンドとの貴重な対話集である。「なぜ写真に撮られることを拒み続けてきたのですか」という問いに対し、アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908-2004)が「目だったり気づかれたのでは観察できない。それ以上の理由はない」と答えているのが非常に興味深い。とはいえ、ネット検索してみると、確かに若いころの写真はごく僅かだが、歳を重ねてからのものは結構目にすることができる。その多くはライカを構えた写真だが、この写真を偶然ソーシャルメディア Facebook で見つけた。ブリオデジャネイロ在住の写真編集者フェルナンド・ラベロ氏のタイムラインに「マルティーヌ・フランクとアンリ・カルティエ=ブレッソン1971年」と題して掲載されている。ソ連軍がプラハに侵攻、所謂「プラハの春」の写真でロバート・キャパ・ゴールドメダルを受賞したことで知られる、マグナムのヨゼフ・コウデルカが撮影した写真である。パリ郊外だろうか、腕を組んで傍らに寄り添う女性、マルティーヌ・フランク(1938-2012)もマグナムに所属していた著名な写真家だった。2014年、編集者のリチャード・コンウェイが「レンズを通した恋」と題した記事をタイム誌 LightBox に寄せている。それによると2010年、マルティーヌ・フランクはテレビ司会者のチャーリー・ローズのインタビューを受けたが、どのようにして二人が恋に落ちたか語ったという。「マルティーヌ」と声をかけた彼は「コンタクト・シート(密着焼き)を持って来て見せて欲しい」という殺し文句を囁いたというのだ。意気投合した二人は1970年に結婚したが、ブレッソンの二人目の妻となった彼女は、なんと30歳も年下だった。しかしその年齢差は恋の障害にならなかった。ブレッソンが他界した2004年まで、仲睦まじい暮らしを共にしたのである。

2017年9月4日

玩具のピストルを頭に突き付けた少年の涙

Young boy holds a toy pistol to his head, Alto Churumazu, Peru. ©2004 Steve McCurry

アフガンの少女
この写真はスティーブ・マッカリーが、2004年にペルーのチュルマスで撮影した「玩具のピストルを頭に突き付ける少年」である。マッカリーは1985年にナショナル・ジオグラフィック誌の表紙に掲載された「アフガンの少女」(左)で有名になったアメリカのフォトジャーナリストである。少年期に刀やピストルなどの武器の玩具で遊ぶことは珍しくない。この写真を見たとき、玩具のピストルと分かり、当初はそれで遊んでるのかと思ったが、流れる涙に違和感を覚えた。初出媒体は不明だが、何らかの説明がついていた筈なのに、その内容を知ることができなかった。ところが最近、断片的にその事情を得ることができた。2012年、地中海に浮かぶマルタ共和国の首都ヴァレッタでマッカリーの個展が開催された。同国写真界の重鎮であるケビン・カシャ「忘れ難きイベント」と題し、その思い出をブログに綴っている。それによるとマッカリーは「ペルーの山岳地帯の村の道端で少年が泣いているのを見た。彼が遊んでいた場所で何人かの他の子どもたちがいじめたのである。彼は玩具の銃を手にしていた。何か手助けできないかと近づいてみたが、少年はかなり気が動転していたらしく、私の問いかけに答えることができなかったようで、そのまま家に向かって立ち去ってしまった」と語ったという。少年はいじめにあい、仲間外れにされていたのである。このような小さな子どもは、楽しい子ども時代を過ごす権利がある。ところがいじめから受ける痛みを和らげる唯一の解決策として、人生を終わらせることを選択しようとする子どもがいる。涙が「ぼくは死にたいんだ」と叫んでいる。

2017年9月1日

大正時代の売れっ子芸妓にため息

ヴァイオリンを抱えた下谷の芸妓さかえ

カメラが撮らえた
幕末・明治・大正の美女
大著『青い目が見た「大琉球」』の著者ラブ・オーシュリ氏は、沖縄に住むアメリカ人の古写真の蒐集研究家で、写真共有サイト Frickr に夥しい数の画像をストレージしている。これはその一枚で "Miss SAKAE-SAN -- GEISHA WITH VIOLIN" とタイトルがついているが、芸妓「さかえ」のポートレートである。かなり有名な芸妓だったらしく、津田紀代監修『カメラが撮らえた幕末・明治・大正の美女』(ビジュアル選書)の表紙にもなっている。目が大きく、二重瞼で、鼻筋が通った、現代に通ずる美女だ。その可憐にして妖艶な艶姿にため息が出る。同書によると大正期に絵葉書のモデルとして売り出されてから一世を風靡し、当時の写真集『東都の名妓』や『現代美人帖』にも取り上げられた売れっ子だったようだ。出自など詳しいことは伝わっていないとのことだが、どうやら1922(大正11)年に18歳でデビュー、東京・下谷の置屋「三州家」に所属していたらしい。毎日新聞社『1億人の昭和史』に歌舞伎役者の二代目市川左団次夫人になったという記述があるそうだ。入手困難な雑誌だし、図書館に出向いて全15冊を調べる根気もない。嫁いだのは「栄」という名の芸妓で、本名は浅利登美子という説もあるようだ。左団次についてネットで調べてみたのだが「さかえ」の名は出てこない。興味深い話だが、真偽のほどは不明である。ヴァイオリンを抱えているが、よく見ると顎当てがない。彼女自身が演奏できたかどうかは不明だが、おそら写真師が用意した小道具だろう。ところで江戸時代に歌舞伎役者や相撲力士の浮世絵が人気を博したが、明治時代になると写真がそれに代わり、同時にその絵葉書も大量生産されるようになった。所謂プロマイドだが、現代のグラドル(グラビアアイドル)に通ずるものがある。風景や名所旧跡などのほか、芸妓・舞妓の絵葉書は、外国人の土産としても人気が高かったようである。いずれにせよ、このような古写真が文献歴史学上、貴重な資料であることは間違いない。

2017年8月28日

フィドルとヴァイオリンはどこが違うのか?

Father and daughter play fiddles, Benburb Co. Tyrone, Northern Ireland, 1987.

こんな質問を時々受ける。現在は楽器としては同じです、と答えた後、実はその続きが長くなってしまうことがしばしばだ。「あのですね、本来フィドルのほうが歴史が古く、ヨーロッパにおいてはレベック(rebec)あるいはレバブ(rebab)どを経て、ヴィオール属、ヴァイオリン属の楽器に変遷したといわれています」なんていうと、相手はきょとんとしてしまう。さらに続けて「16世紀にほぼ完成されたスタイルで突如出現したイタリアのヴィオリーノ(小さなヴィオラ)がヴァイオリンです。似たような楽器でしたが、フィンガーボード面が丸みを帯びるようになり、弓で単音を弾けるようになったことなどから、ヴァイオリンがフィドルにとって代わります」と付け加えるといよいよ分からなくなるようだ。つまり本来はフィドルは古い楽器だった。ところがヴァイオリンの出現により、これをまた新たにフィドルと呼ぶようになったというわけなのだが。そしてフィドルという言葉自体は、同じ楽器のクラシック音楽のヴァイオリンと区別する形で民族音楽系の総称になった。ヨーロッパではケルト系のアイルランドやスコットランドの、そして東欧系のロマ族、すなわちジプシーのふたつの奏法に大きく分けることができるようだ。アイルランドやスコットランドからの移植者が、アメリカのアパラチア山系に持ち込んだフィドルは、カントリーやブルーグラス音楽の花形楽器になったのである。

G. B. Grayson, Henry Whitter and the Greer Sisters of Boone, North Carolina, ca. 1927.

では古来のフィドルはいつ頃生まれたのだろうか? スコットランド出身のフィドラ―、ロビン・ウィリアムス著 "English, Welsh, Scottish and Irish Fiddle Tunes" によると、フィディル(fidil)という言葉がアイルランドの詩 "Fair of Carnan" に現れたのは8世紀ごろだという。そして次に十字軍の時代に現れたのが冒頭に上げたレベックである。別の資料として北アイルランドの放送ジャーナリストのフィオヌアラ・ウィルソンが、アルスター・スコッチ協会のウェブサイトにちょっと注目すべき論文を寄せている。彼女は1989年、アルスター大学で音楽を勉強する間にアントリムで、レコードを含めたフィドルに関するフィールドワークをしている。論文の中で彼女は、現在とは形や大きさが違うだろうが、この地域にフィドルあるいはフィドラ(fidula)が11世紀に入ったと書いている。アイルランド音楽ではいろいろな楽器が使われているが、昔から使われてきた楽器はイリアンパイプとハープなどであった。フィドルあるいはフィドラがすぐに引っ張りだこになった理由として、ダンスからの希求であったという説明は説得力がある。それまでのパイプよりフィドルのほうが息切れせずに長い間演奏できたからだというのだ。つまり朝まで弾き続けることができたのである。


Yo-Yo Ma - Fiddle Medley ft. Stuart Duncan, Edgar Meyer, Chris Thile, 2012.

これはフィドルのスチュアート・ダンカン、ベースのエドガー・メイヤー、フラットマンドリンのクリス・シーリとチェロのヨーヨー・マによるフィドル混成曲である。ブルーグラス音楽の名手たちと、クラシック音楽の巨星のコラボとして興味深い。茂木健著『フィドルの本』にはこんな記述がある。「ヴァイオリンとフィドルはまったく同じ楽器でありながら、一方ではヨーロッパの芸術音楽の花型楽器として揺るぎない地位と敬意を得ているのに、一方では民衆の卑俗な音楽を演奏する下賤な楽器として同じく揺るぎない蔑みを受けてきた」というのである。民衆音楽における変遷で重要なのは、曲作りがペンおよび紙の上ではなく、楽器自体で行われたことである。楽器を使った作曲は楽器そのものが持つ特性が直接影響を及ぼす。従ってパイプで作られた曲とフィドルで作られた曲はそれそれが特徴を備えているといえる。クラッシックのヴァイオリン演奏家は左指をハイポジションに移動する必要があり、従って楽器を顎で支える。ところがアイルランドのフィドラーはほぼ第一ポジションにとどまる演奏をしたため、極端な場合、楽器を腕まで下げて演奏した。がっちり確保する必要のない自由さは、アイルランド特有のフィドルチューンを醸造したといえなくもない。この演奏法はアメリカのフィドルチューンに引き継がれたのである。高度な技巧を凝らすクラシックのヴァイオリン演奏を聴くのも好きだが、やはり惹かれるのはフィドルである。いわば土の香りといったものがその魅力を支えている。

WWWフィドル音楽(歴史・音盤・書籍・紀行・他)

2017年8月27日

一枚の写真に潜むホームレス一家の物語

The Damm Family in Their Car, Los Angeles, California. ©1987 Mary Ellen Mark

クリッシ―の通学を手伝うメアリー
左からクリッシ―、ジェシー、リンダ、ディーンのダム一家で、1987年にメアリー・エレン・マーク(1940–2015)が撮影、米国のグラフ誌 LIFE に掲載された。元トラック運転手だった父親のディーン・ダムは失職中で、ホームレスとなり、車が一家の住み家だった。同年12月、編集者のアン・ファディマンが書いた覚え書きを読んだ。彼らは1週間にわたって一家と共にしたのだが、その様子が克明に綴られている。ディーンはトラック運送会社と仕事の約束をするが、連絡する電話番号を持っていなかったので、結局断られてしまう。「携帯電話を持っていない限り仕事を得られない。アパートに住んでない限り携帯電話を持つことができない」と突き放されてしまったのである。仕方なく売血によって生活の糧を得るという悲惨であった。唯一の救いは、学齢期に達したクリッシ―の通学をメアリー・エレン・マークが助ける写真だ。8年後の1994年秋、タイム誌のバーバラ・マダックスらが一家を追跡、リポートしている。初めてカリフォルニア州ノース・ハリウッドのホームレスのためにバレー・シェルターで会ったとき、ディーンは「地獄に戻ることはないだろう」と誓った。読者から9,000ドルの寄付、アパートに引っ越し、中古車2台を手に入れた。悲惨な時代は終わったかのように見えたが、4ヵ月後、ダム一家はは路上に戻ってしまった。金が尽き、ドラッグを買うために車と家具は消えてしまったのである。愛は逆境や時間を超えた愛情であり、子どもたちはそれを知って育たない限り、成長することはできないとリポートは結んでいる。

2017年8月25日

ナチス式敬礼を拒否した男

ひとり腕を組んだままのアウグスト・フリードリヒ・ランドメッサー

ナチス式敬礼を拒否した男の名は、アウグスト・フリードリヒ・ランドメッサー(1910年5月24日生まれ - 推定死亡1944年10月17日、死亡認定1949年)で、1936年6月13日、ドイツ海軍の練習船ホルスト・ヴェッセルの出航集会で撮影されたものだという。かなり有名な写真で、ウィキペディアに詳しい説明が載っている。写真は1991年3月22日付け「ディー・ツァイト」紙に掲載されたが、この人物が本当にアウグスト・フリードリヒ・ランドメッサーであるか確定が難しいという。しかし次女のイレーネ・エクラーが写真の人物を父ランドメッサーであると主張したことから、米国「ワシントン・ポスト」やフランスの週刊誌「レクスプレス」などで取り上げられ、人々に知られるようになっていったとのことである。議員の数を頼りに独裁政治に走るヒットラーもどきの安倍晋三首相や、歴史修正主義者の橋下徹元大阪市長、ナチス礼賛ツイートを繰り返す高須クリニック院長、そして巷のネトウヨ諸氏らに見せたい写真だ。こんな人間もいたのだということを。

WWWAugust Friedrich Landmesser: A lone man refusing to do the Nazi salute, 1936.

2017年8月24日

バーバラ・デイン:私は資本主義体制を憎悪する

Barbara Dane performs at the Newport Folk Festival in the mid-1960s

曲目リスト(画像をクリック)
バーバラ・デインのLPアルバム『私は資本主義体制を憎悪する』を久しぶりに聴いた。これはバーバラ・デインとアーヴィン・シルバーが創設したパルドン・レコードが1973年にリリースしたアナログレコードである。同レコードは1970年から85年までに、左翼および民族解放運動に関する50のアルバムを制作したが、音源を後にフォークウェイズ・レコードに寄付した。1914年4月20日、コロラド州でラドローの虐殺と呼ばれる事件が起きた。争議で宿舎のテント村を占拠していた炭鉱労働者やその家族約20人を州兵が殺害した事件である。また1948年、低賃金でカリフォルニアの果樹農園に雇われていたメキシコ人が「不法入国」と責められた上、賃金を取り上げられて国外退去になった。そして彼らを乗せた飛行機がロス・ガトス渓谷に原因不明の墜落に見舞われた。これらの理不尽な史実に対する嫌悪と抗議がこのアルバムのバックグラウンドになっている。フォークソングは文字通り、民衆の怒りと希望を背景にした歌である。日本では「音楽に政治を持ち込むな」といった言葉が跋扈しているらしいが、実に情なく悲しい。

SoundCloud  Listen to "I Hate The Capitalist System" by Barbara Dane on Sound Cloud