2017年12月13日

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を再読する

大垣書店(京都市北区小山上総町)

書店を覗いてみたら吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫版)が平積みになっていた。帯には125万部と書いてあるが、他の出版社発行分を合わせると相当な数だろう。羽賀翔一の手になるマンガ版も空前の売れ行きのようだ。小学校だったろうか、中学校だったろうか、国語の教科書に一部が掲載されていたのを憶えている。主人公潤一君が「コぺル君」というあだ名がつく冒頭の下りだった。叔父さんと銀座の百貨店の屋上から地上を眺めているうちに心が沈んでしまう。そして「人間て、叔父さん、ほんとに分子だね。僕、今日、ほんとうにそう思っちゃった」と打ち明ける。その晩、叔父さんはノートに書き記す。昔の人は太陽や星が地球のまわりをまわっていると信じていたが、コペルニクスは地球のほうが太陽のまわりをまわっていると考えた。コペルニクス的転回である。つまり「発想や考えを逆転して根本から変えること、変えたことによって新たな道が見出されること」 という教えだが、これを機会に叔父さんは潤一君をコぺル君と呼ぶようになったのである。私にはこの書籍の神髄を語る力量がないので、内容に関するこれ以上の言及は避けたい。ただ1936年に執筆を開始され、それから80年余り経た今、ベストセラーになった意味の大きさを強調しておきたい。岩波文庫版の巻末には、著者の没後追悼の意をこめて丸山真男が書いた「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」が復刻付載されているので、ぜひ手に取って欲しい。なお引退宣言を翻した宮崎駿監督が制作中の新作が、同名であると公表している。「この本が主人公にとって大きな意味を持つという話」だという。公開が待ち遠しい。

2017年12月11日

サーロー節子さん2017年ノーベル平和賞記念講演全文


皆さま、この賞をベアトリスとともに、ICAN運動にかかわる類いまれなる全ての人たちを代表して受け取ることは、大変な光栄です。皆さん一人一人が、核兵器の時代を終わらせることは可能であるし、私たちはそれを成し遂げるのだという大いなる希望を与えてくれます。

私は、広島と長崎の原爆投下から生き延びた被爆者の一人としてお話をします。私たち被爆者は、70年以上にわたり、核兵器の完全廃絶のために努力をしてきました。

私たちは、世界中でこの恐ろしい兵器の生産と実験のために被害を受けてきた人々と連帯しています。長く忘れられてきた、ムルロア、インエケル、セミパラチンスク、マラリンガ、ビキニなどの人々と。その土地と海を放射線により汚染され、その体を実験に供され、その文化を永遠に混乱させられた人々と。

私たちは、被害者であることに甘んじていられません。私たちは、世界が大爆発して終わることも、緩慢に毒に侵されていくことも受け入れません。私たちは、大国と呼ばれる国々が私たちを核の夕暮れからさらに核の深夜へと無謀にも導いていこうとする中で、恐れの中でただ無為に座していることを拒みます。私たちは立ち上がったのです。私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。

今日、私は皆さんに、この会場において、広島と長崎で非業の死を遂げた全ての人々の存在を感じていただきたいと思います。皆さんに、私たちの上に、そして私たちのまわりに、25万人の魂の大きな固まりを感じ取っていただきたいと思います。その一人ひとりには名前がありました。一人ひとりが、誰かに愛されていました。彼らの死を無駄にしてはなりません。

米国が最初の核兵器を私の暮らす広島の街に落としたとき、私は13歳でした。私はその朝のことを覚えています。8時15分、私は目をくらます青白い閃光を見ました。私は、宙に浮く感じがしたのを覚えています。

静寂と暗闇の中で意識が戻ったとき、私は、自分が壊れた建物の下で身動きがとれなくなっていることに気がつきました。私は死に直面していることがわかりました。私の同級生たちが「お母さん、助けて。神様、助けてください」と、かすれる声で叫んでいるのが聞こえ始めました。

そのとき突然、私の左肩を触る手があることに気がつきました。その人は「あきらめるな!(がれきを)押し続けろ! 蹴り続けろ! あなたを助けてあげるから。あの隙間から光が入ってくるのが見えるだろう? そこに向かって、なるべく早く、はって行きなさい」と言うのです。私がそこからはい出てみると、崩壊した建物は燃えていました。その建物の中にいた私の同級生のほとんどは、生きたまま焼き殺されていきました。私の周囲全体にはひどい、想像を超えた廃虚がありました。

幽霊のような姿の人たちが、足を引きずりながら行列をなして歩いていきました。恐ろしいまでに傷ついた人々は、血を流し、やけどを負い、黒こげになり、膨れあがっていました。体の一部を失った人たち。肉や皮が体から垂れ下がっている人たち。飛び出た眼球を手に持っている人たち。おなかが裂けて開き、腸が飛び出て垂れ下がっている人たち。人体の焼ける悪臭が、そこら中に蔓延していました。

このように、一発の爆弾で私が愛した街は完全に破壊されました。住民のほとんどは一般市民でしたが、彼らは燃えて灰と化し、蒸発し、黒こげの炭となりました。その中には、私の家族や、351人の同級生もいました。

その後、数週間、数カ月、数年にわたり、何千人もの人たちが、放射線の遅発的な影響によって、次々と不可解な形で亡くなっていきました。今日なお、放射線は被爆者たちの命を奪っています。

広島について思い出すとき、私の頭に最初に浮かぶのは4歳のおい、英治です。彼の小さな体は、何者か判別もできない溶けた肉の塊に変わってしまいました。彼はかすれた声で水を求め続けていましたが、息を引き取り、苦しみから解放されました。

私にとって彼は、世界で今まさに核兵器によって脅されているすべての罪のない子どもたちを代表しています。毎日、毎秒、核兵器は、私たちの愛するすべての人を、私たちの親しむすべての物を、危機にさらしています。私たちは、この異常さをこれ以上、許していてはなりません。

私たち被爆者は、苦しみと、生き残るための、そして灰の中から生き返るための真の闘いを通じて、この世に終わりをもたらす核兵器について世界に警告しなければならないと確信しました。くり返し、私たちは証言をしてきました。

それにもかかわらず、広島と長崎の残虐行為を戦争犯罪と認めない人たちがいます。彼らは、これは「正義の戦争」を終わらせた「よい爆弾」だったというプロパガンダを受け入れています。この神話こそが、今日まで続く悲惨な核軍備競争を導いているのです。

9カ国は、都市全体を燃やし尽くし、地球上の生命を破壊し、この美しい世界を将来世代が暮らしていけないものにすると脅し続けています。核兵器の開発は、国家の偉大さが高まることを表すものではなく、国家が暗黒のふちへと堕落することを表しています。核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です。

今年7月7日、世界の圧倒的多数の国々が核兵器禁止条約を投票により採択したとき、私は喜びで感極まりました。かつて人類の最悪のときを目の当たりにした私は、この日、人類の最良のときを目の当たりにしました。私たち被爆者は、72年にわたり、核兵器の禁止を待ち望んできました。これを、核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。

責任ある指導者であるなら、必ずや、この条約に署名するでしょう。そして歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう。彼らの抽象的な理論は、それが実は大量虐殺に他ならないという現実をもはや隠し通すことができません。「核抑止」なるものは、軍縮を抑止するものでしかないことはもはや明らかです。私たちはもはや、恐怖のキノコ雲の下で生きることはしないのです。

核武装国の政府の皆さんに、そして、「核の傘」なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そして、あなたたちの行動こそ重要であることを知りなさい。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。

世界のすべての国の大統領や首相たちに懇願します。核兵器禁止条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去してください。

私は13歳の少女だったときに、くすぶるがれきの中に捕らえられながら、前に進み続け、光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たちの光は核兵器禁止条約です。この会場にいるすべての皆さんと、これを聞いている世界中のすべての皆さんに対して、広島の廃虚の中で私が聞いた言葉をくり返したいと思います。「あきらめるな!(がれきを)押し続けろ! 動き続けろ! 光が見えるだろう? そこに向かってはって行け」

今夜、私たちがオスロの街をたいまつをともして行進するにあたり、核の恐怖の闇夜からお互いを救い出しましょう。どのような障害に直面しようとも、私たちは動き続け、前に進み続け、この光を分かち合い続けます。この光は、この一つの尊い世界が生き続けるための私たちの情熱であり、誓いなのです。

YouTube  Nobel Peace Prize Award ceremony 2017. Norway, Oslo. 10 December 2017. (84 minutes)

2017年12月10日

大谷翔平選手の賢い選択

入団会見で17番のユニフォームを羽織った大谷翔平選手 Photo by ©USA TODAY Sports

米メジャーリーグのエンゼルスへの移籍を決めた大谷翔平選手が12月9日(日本時間10日)、カリフォルニア州アナハイムのエンゼルスタジアムで公開入団会見に臨んだ。いささか野球オンチの私だが、元気を貰える明るいニュースだった。ご存知、大谷選手は「二刀流」で知られる。二刀流は両手で刀または剣を持って戦う剣法で、巌流島で佐々木小次郎と決闘をした宮本武蔵のそれが馴染み深い。英語でもやはり同義の Dual Wield だが、西部劇の二丁拳銃を思い出す。投手と打者を兼任する野球選手を指す英語は Two-Way Player だが、最近では Dual Wield と表現する米メディアもあるようだ。大谷選手がエンジェルスを選んだのは、メジャーリーグでも「二刀流を続けたい」という気持ちだったからという。プロ入りした当初は、二刀流に対し野球関係者からは否定的な意見が多かったが、その後の活躍により次第に認めるようになったようだ。そういえば高校野球では投手で4番打者という選手が結構いる。センスがある選手は本来、投打に優れているのかもしれない。大谷選手が利用したポスティングシステムでは「25歳未満でプロ経験が6年未満の選手」の契約金の上限が抑えられるそうである。今季がプロ選手として5年目。来年オフの移籍であれば多額の契約金を得られる可能性があったのだが、あくまでメジャーリーグ挑戦の夢を早く叶えることに拘ったようである。この辺りが何とも清々しい。ヤンキースを蹴ったのは小気味が良かったし、気候が温暖なアナハイムを本拠地にするエンジェルスを選んだことは賢い選択だったと思う。おっと、これ以上書くとボロが出そうだ。来季開幕後の活躍を期待したい。

YouTube  MLB: Shohei Ohtani Press Conference at Angels Stadium, Anaheim, CA

2017年12月9日

なぜ NHK はスクランブルを導入しないのか

不可解な NHK の受信契約

最高裁が NHK 受信契約の義務規定を「合憲」と判断したニュースが大きな波紋を呼んでいる。私はテレビを見る習慣がないが NHK の受信料に関しては関心を持っている。ネット上での否定的な意見の典型は「契約自由の原則に反している」「NHK の番組を見なくても受信料を払うのはおかしい」というものである。今やテレビの画面は放送を映し出すだけではなく、DVDを見たり、ゲームの端末だったりする。インターネットが生活に浸透、とりわけスマートフォンの普及によって、テレビ放送というメディアは衰退の傾向にある。有料放送を維持しようとするなら、契約者だけが視聴するスクランブル放送に移行することが、もっとも利用者の負担という意味で平等である。これに対しなぜスクランブルを導入しないか、NHK は次の理由を上げている。
  1. NHKは、広く視聴者に負担していただく受信料を財源とする公共放送として、特定の利益や視聴率に左右されず、社会生活の基本となる確かな情報や、豊かな文化を育む多様な番組を、いつでも、どこでも、誰にでも分けへだてなく提供する役割を担っています。
  2. 緊急災害時には大幅に番組編成を変更し、正確な情報を迅速に提供するほか、教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、視聴率だけでは計ることの出来ない番組も数多く放送しています。
  3. スクランブルをかけ、受信料を支払わない方に放送番組を視聴できないようにするという方法は一見合理的に見えるが、NHKが担っている役割と矛盾するため、公共放送としては問題があると考えます。
  4. また、スクランブルを導入した場合、どうしても「よく見られる」番組に偏り、内容が画一化していく懸念があり、結果として、視聴者にとって、番組視聴の選択肢が狭まって、放送法がうたう「健全な民主主義の発達」の上でも問題があると考えます。
これらの言い訳はすべて看破できる。例えば公共放送云々だけど、契約は個人の自由になっている電気や、ガス、水道などのライフラインより果たして公共性が高いのだろうか。受信できる設備を設置しただけで契約しなければならないというのは無理がある。また、よく見る番組だけに偏ると、健全な民主主義の発達の上でも問題があるという説明は不可解である。世の中には、中継料に多大な費用を支出している、大相撲や米メジャーリーグを見てない人は多いはずだ。私はニュースと天気予報、国会中継だけでいいと思っている。要するにスクランブルを導入すると収益がダウン、湯水のごとくお金を使えなくなることを恐れているのである。一歩譲って、現在の制度を維持したいなら、せめて経費を抑えて大幅に受信料を値下げすべきじゃないだろうか。

2017年12月7日

戦争の火種を撒き散らす日米首脳の危険


トランプ米大統領は12月6日、エルサレムをイスラエルの首都と認め、テルアビブから在イスラエル米大使館を移転する手続きを開始すると宣言した。東エルサレムには、ユダヤ教徒、キリスト教、イスラーム教の聖地があり、パレスチナ自治政府は東エルサレムを将来の独立国家の首都と位置付けている。いわば「宣戦布告」で世界各国が非難、中東和平がいっそう遠のき、緊張が高まっている。パレスチナ自治政府のアッバス議長は「地域の紛争を宗教戦争にしようとする過激派組織を助長する」とともに、米国が和平プロセスでの役割から「撤退を宣言する」に等しいと演説したという。この件に関し安倍首相の談話はまだないが、米国の動きに同調、テルアビブにある日本大使館を移転する可能性もある。ところで政府は、航空自衛隊の戦闘機に長距離巡航ミサイルを搭載するための調査費を2018年度当初予算案に計上する方針を固めたようだ。問題は射程が長いため「敵基地攻撃能力」としての転用も可能であることだ。第二次世界大戦後の日本で練られている軍事戦略は専守防衛である。従ってこのような攻撃型の保有はこの原則に反する。弾道ミサイルなどが発射される前に敵の基地をたたく敵基地攻撃能力について、政府は「自衛の範囲内」で憲法上可能との立場をとっているようだが、果たしてそうだろうか。安倍首相は先月22日の国会答弁で「国民の命と平和な暮らしを守るため」と検討に含みを持たせた。しかし軍事力を誇示することは紛争の抑止にならず、これは逆に「国民の命と平和な暮らしを破壊」しかねない。ホワイトハウス周辺では「トランプ大統領は病気だ」という診断に与する人が増えているとの報道があるという。上院外交委員会議長は「大統領の奇矯な行動は米国を第三次世界大戦への道に押しやりつつある」という懸念を表明したそうである。安倍首相は前言を簡単に翻すので、ホントに自分の発言を憶えてないのかもしれない。だから実は病気じゃないかとフト思うことがある。いずれにしても似た者同士の日米両首脳は、戦争の火種を撒き散らす危険な存在である。

2017年12月5日

レコードが有名にした砂嵐の写真

Farmer and sons walking in the face of a dust storm. Cimarron, Oklahoma, 1936

Woody Guthrie (New York 1943)
これは Folkways Records から1964年にリリースされた、フォーク歌手ウディ・ガスリー(1912–1967)の「砂嵐のバラード」のジャケットを飾った写真である。撮影したアーサー・ロススタイン(1915-1985)はコロンビア大学を卒業後、写真家のロイ・ストライカー(1893-1975)に誘われて、FSA(農業安定局)の写真記録プロジェクトに加わった。大恐慌時代の農民の生活を撮影することを目的に、フランクリン・D・ルーズベルト大統領(1882-1945)がニューディール政策の効果をアピールするため創設した組織である。エスター・バブリー、マージョリー・コリンズ、マリオン・ポスト・ウォルコット、ゴードン・パークス、ラッセル・リー、ウォーカー・エヴァンス、ジャック・デラノ、ジョン・バション、カール・マイダンス、ドロシア・ラング、ベン・シャーンといった、今から考えると錚々たる名を連ねたチームで、最大の業績はドキュメンタリー写真の礎を築いたことだった。この写真のプリントを所蔵している合衆国議会図書館のサイトには「《砂嵐に向かって歩く農夫と二人の息子》オクラホマ州シマロン(1936年)」という説明がついている。ウディ・ガスリーはボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンなどに強い影響を与えたフォーク歌手として名高い。このレコードはウディの最初のアルバムで、フォークソング愛好家に広く浸透している。作家ジョン・スタインベック(1902-1968)は、開墾によって発生した砂嵐により流民となって、オクラホマからカリフォルニアに逃れる一家を描いた小説『怒りの葡萄』を1939年に発表、1940年にピューリッツァー賞を受賞した。ウディはオクラホマ州オキーマに生まれ、14歳の時に母親が他界、17歳で流浪の旅を始めた。農家にこそ生まれなかったが、その生活がスタインベックの小説とオーバーラップする。アラン・ロマックス、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー共著の『酷い打撃を受けた人々のための痛烈な歌』にスタインベックは序文を寄せ、ウディについて「彼が歌う歌には甘いものは何もない。しかし聴く人々にとってはそれよりもっと重要なことがある」と書いている。このような背景で生まれたウディのレコードには、FSAプロジェクトの記録写真がマッチする。とりわけロススタインが撮影した砂嵐に見舞われた農夫の写真はぴったりする。ウィキペディア英語版は「おそらくロススタインの最も有名な作品で、砂嵐写真のアイコンのひとつ」と解説しているが、この作品を世に知らしめたのは、ウディのアルバムじゃないかと私は推測している。

YouTube  Dust Bowl Refugee: Woody Guthrie (guitar/harmonica/vocals)

2017年12月3日

木島櫻谷の幻の名画「かりくら」に痺れる

「かりくら」1910(明治43)年 櫻谷文庫蔵

昨日の12月2日、左京区鹿ヶ谷の泉屋博古館に出かけた。今日が木島櫻谷『近代動物画の冒険』展の最終日なので、文字通り駆け込み鑑賞だった。閑静な住宅街にある同館は旧財閥住友家が蒐集した美術品、特に中国古代青銅器を保存展示するために1960年に設立された美術館である。木島櫻谷(このしまおうこく1877-1938)は京都生まれの日本画家。徹底した写生を行い、透徹した自然観照と叙情あふれる画風で、明治後半から昭和初期にかけて活躍した。その画風は京都画壇に伝統的な運筆法を駆使しながら、明治末期からは油絵の技法をも研究した鮮麗な色彩と造形で新境地を開いた。大正末期頃からは南画風の表現に傾き、写実と瀟洒で詩情豊かな画風へと展開していった。今回の展示は得意とした動物画を集めたものである。最も有名な作品は「寒月」(京都市美術館蔵)で、一匹の狐が辺りの様子を窺いながら雪の竹林を歩む姿を描いている。かの夏目漱石が「兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」と酷評した、いわくつきの作品だが、案に相違して文展で高い評価を受け、二等に選ばれている。ライオンを描いた「獅子虎図屏風」(個人蔵)も素晴らしい。緻密な描写だが、実際のライオンをモデルにしたのだろうか。一番印象に残ったのは「かりくら」(櫻谷文庫蔵)である。1910(明治43)年の第4回文展で三等となり、翌年イタリアで開催された羅馬万国美術博に出品後、長らく行方不明とされていた作品だった。没後3年の「大回顧展」に出されることもなく、専門家の間では消失してしまったのだろうと、諦められていたという。ところが2008年に衣笠の櫻谷旧邸で見つかり、修復されて蘇生した、いわば幻の名画である。題名は狩猟場、あるいは狩りの競争を指すが、疾走する狩人が描かれている。人馬一体という言葉があるが、三人の狩人と馬が一つになった、躍動感あふれる作品である。特に馬の描写は見事の一言に尽きる。今年は櫻谷生誕140年にあたり、京都文化博物館でも「木島櫻谷の世界」が12月24日まで開催されている。なお来年には港区六本木の泉屋博古館分館でも生誕140年記念特別展が開かれる。

2017年12月1日

ポインセチアは天然のフォギーフィルターがお似合い

京都府立植物園(京都市左京区下鴨半木町)

師走。京都府立植物園の温室で「ポインセチア展」が始まった。温室は湿度が高く、寒さで冷えたカメラを持ち込むとたちまちレンズが曇ってしまう。そこで真ん中の部分を指で拭い、円環状の天然のフォギーフィルターもどきに仕立てて利用した。カメラは富士フイルムのコンパクトデジタルで、直接レンズに細工した。高級一眼レフで、レンズに触れるのが憚れるなら、保護フィルターを使うほうが良いかもしれない。ポインセチアは、その名がアメリカ合衆国の初代メキシコ公使であったジョエル・ロバーツ・ポインセット(1779-1851)に由来するように、原産は中南米のメキシコである。なぜクリスマスとポインセチアが結びついたのだろうか。一般的には葉の赤が、十字架にかけられたイエズス・キリストの血にたとえられるからと説明されるようだ。西洋ヒイラギもクリスマスに飾られるが、葉はイエズスのいばらの冠、赤い実はイエズスの血を象徴したものだそうである。というわけで赤い色がイエズスの磔刑を連想させるため、この時期に苞葉が真っ赤になるポインセチアが飾りに使われるようになったらしい。北半球は真冬、草花の色が乏しい季節なので、以上のような謂われも何となく納得するが、さらに古い伝説が英語版ウィキペディア "Poinsettia" に載っている。16世紀、イエズスの誕生日に教会にお祝いのお供えをするには余りにも貧しい少女がいた。天使のささやき従って彼女は路傍の雑草を摘んで教会の祭壇の前に置いた。すると深紅色の「花」が雑草から発芽し、美しいポインセチアになったというのである。作り話かもしれないが、クリスマスらしい物語である。

2017年11月28日

大阪市議会はサンフランシスコとの姉妹都市解消を破棄すべきだ

首相官邸「自治体国際交流について」(画像クリックで拡大

サンフランシスコ市議会が民間団体からの慰安婦像および追悼碑寄贈を受け入れた要因となったのは日本の右翼であった。議会に乗り込み「慰安婦たちはみんな望んでなった売春婦」「嘘の証言をしている」というような趣旨の発言をし、これを聞いた地元議会の議員が激怒。その結果、市議から「恥を知れ」「自分たちが過去の事実を否定していることに」などと言われしまったのである。慰安婦像を撤去せよと叫べば叫ぶほど、像が増えるという皮肉な現象が続いているのである。日本において自治体の国際提携の情報提供と支援を行う財団法人自治体国際化協会では、以下の3要件をすべて満たすものを「姉妹(友好)自治体」として扱っている。
  1. 両首長による提携書があること
  2. 交流分野が特定のものに限られていないこと
  3. 交流するに当たって、何らかの予算措置が必要になるものと考えられることから、議会の承認を得ていること
これは首相官邸のサイトにも載っているが、姉妹都市提携には議会の承認が必要。これは破棄するにも議会の承認が必要だということになる。12月に市議会に諮るそうだが、そもそも提携破棄は市議会が承認してからすべきだった。サンフランシスコのエドウィン・M・リー市長は22日、同市内に設置された慰安婦像と追悼碑文について、民間団体からの寄贈を受け入れるとした同市議会の決定を承認する文書に署名した。その前に自民、公明両党市議団は姉妹都市の継続と対話による解決努力を強く望み、解消の再検討を吉村市長に要請したが無視された。しかし大阪市議会の与党、大阪維新の会は吉村洋文市長の判断を支持している。今やこの問題は海外からも注目されている。国内外の世論に耳を傾け、歴史に禍根を残す姉妹都市解消を破棄して欲しい。

PDF  首相官邸「自治体国際交流について」の表示とダウンロード(PDFファイル 484KB)

2017年11月25日

何であんな黒いのが好きなんだ…

マリ帝国九代目の王マンサ・ムーサ(ca.1280-ca.1337)

サブサハラアフリカ(クリックで拡大)
読売新聞11月25日付け電子版によると、自民党の山本幸三衆院議員が、北九州市内で今月23日に開かれた三原朝彦衆院議員の政経セミナーの来賓あいさつで、三原氏が長年続けるアフリカとの交流について触れ「何であんな黒いのが好きなんだ」と発言していたことがわかったそうだ。山本氏の事務所は「アフリカを表現する言葉として使われた『黒い大陸』という意味で言ったと話している」と説明したという。これは探検家ヘンリー・スタンリー(1841–1904)の著書名「黒い大陸」はではなく「暗黒大陸」のことだと思われる。かつてヨーロッパ人は未開の地としてアフリカをこのように呼んだが、さて、今はどうだろうか。私はまず「黒アフリカ」という言葉が頭に浮かぶ。フランス語で Afrique Noire 英語で Black Africa である。文字通り黒い肌の人が多く住む地域で、サブサハラアフリカ(サハラ以南のアフリカ)と同義とみなすこともある。かつて私は西アフリカのセネガル、ガンビア、象牙海岸を旅したが、今思えばマリに行かなかったことが悔やまれる。というのは13~16世紀に栄華を誇ったマンディンカ族のマリ帝国の歴史に興味を持ったことがあるからだ。支配地のニジェール川上流域では黄金が大量に算出されたため、サハラ砂漠を越えてやってくるイスラーム商人との黄金貿易で繁栄した黒人国家だった。ヨーロッパより進んだイスラームの文化を取り入れることでさらに発展、九代目のマンサ・ムーサ王(在位:1312年-1337年?)の時代、マリ帝国は最盛期を誇るようになる。なんと現在の貨幣価値にして約4000億ドル(約44兆円)という人類史上最高の総資産を保有したと言われる。冨の蓄積によって建築や学術は無論のこと、絵画や音楽などの芸術も花開き、いわば「黒アフリカ文化」を醸造したのである。しかしヨーロッパの列強によって19世紀末からアフリカ諸地域が植民地化されてしまった。これによってヨーロッパ中心主義が生まれた。従って「暗黒大陸」は植民地支配した宗主国の帝国主義の視線から作られた用語と言って良く、この地域や民族に対する蔑視や差別もそこから生まれたと想像する。奴隷商人の暗躍が拍車をかけたのは言うまでもない。おや、山本氏の発言から大きく脱線してしまったようだ。ただ過去の山本氏の発言から、胡散臭いものだったとおおよそ推測できる。わざわざ肌の色を引き合いに出したのは余りにも軽率で、それがアフリカ人に対する「差別発言」と揶揄されても仕方ないだろう。続報を待ちたい。

2017年11月24日

何故ローライフレックスが好きなのだろう

Greyhound Bus with Rolleiflex 2.8F Planar 80mm Tri-X 1976

Rolleiflex 3.5F Planar 75mm and Xenotar 75mm
東松照明さんは篭から文鳥を取り出すと手のひらに乗せた。亜熱帯をテーマにした『太陽の鉛筆』をカメラ雑誌に連載してるころだった。「二眼レフというのはねぇ、おじぎカメラと言うんだ。ふつうのカメラはファインダーを覗くと直視する形になるだろ。二眼だと下を見るから相手は安心する。おじぎなんだよね。おじぎをして撮らせてもらうのさ」「ふーん」「スタッフカメラマンっていろいろたいへんらしいね。この間、毎日新聞のカメラマンもぼやいていたよ」「そうですか? そんなことありません、楽ですよ」。それにしても太陽の鉛筆ってうまい表現だなと私は思った。東松さんの部屋を辞して家路に着く。歩いてわずか5分だった。以上は1970年代中ごろ、新宿のど真ん中に住んでいたころの私的写真論への覚書である。私はかつてのハンドル twin_lens が示すように、二眼レフが好きである。ピンホールやゾーンプレート写真に浮気したり、たまにもっと大きなフォーマットで撮ったりするけど、やはり落ち着くのは二眼レフである。最初に手にしたのは確か中学生のときで、叔父から借りたミノルタオートコードだった。6x6センチの密着プリントが案外大きく見えた記憶がある。次に手にしたはローライフレックスだったが、ずっと時代は下って東松照明さんに会ってからだった。ジミー・カーターが大統領線に出馬した1976年秋、私はフレームザックを背負い、1台のローライフレックスを抱えてグレイハウンドバスの旅をした。いや、正確にいえば、西海岸のロングビーチの中古楽器屋で買ったフィドルがもうひとつの道連れだった。当時、1台だけ持って海外旅行すなら何をという質問には、ライカかローライと答えたものである。それを実行したわけだが、とにかく二眼レフは構造がシンプルで壊れ難い。

ISBN: 1874031967
難点はボックス型のため、ごろごろして携帯にはやや不向きということだが。いやいや、まだまだある。ファインダーを覗くと画像が左右逆だし、パララックスの不安が付き纏う。それはともかく、約一カ月に渡った旅のお供は故障することもなく、無事日本に戻った。もっとも、その後このカメラは酷使し、今は手元にない。現在所持しているローライは3台で、そのうち2台は 3.5F で、もう1台は復刻機 2.8FX である。1929年に登場したローライフレックスは、1956年までに100万台以上を売ったという。毎年平均3.5万台、休日を除いた毎日120台が世界中の人々の手に渡った計算になる。第二次大戦後も売れたのは、1950年代までプロ写真家が使ったからだという。欧米のプレスカメラマンがローライを構えてる古い写真を見たことがある。スピードグラフィックが新聞社で使われたのは、大判のため、トリミングしても使用に耐えたからである。同じような理由で二眼レフが使われたのだろう。ローライの難点はレンズ交換ができないことだった。戦後、まさに雨後の筍のように生まれた二眼レフだったが、ローライを除いてすべて凋落してしまった。フランケ・ハイデッケ社はさらにプロ写真家の要望に応えて、テレローライ、ワイドローライを世に送った。これで安泰と考えたのだろうか。スウェーデン製中判一眼レフのハッセルブラッド、そして日本の35ミリ一眼レフに脅威を感じなかっただろうか。どう考えても一眼レフのほうが原理的に優れているからだ。1966年、6x6センチの一眼レフ SL66 を出したが、時遅しという感じであったようだ。翌1967年には35ミリのコンパクトカメラ、ローライ35を世に送って話題となった。しかし1981年、旗艦機として栄光を誇った 2.8F の製造がストップ、ドイツ製のローライフレックスは消滅した。それでも私はローライフレックスが好きである。何故だろう。

2017年11月22日

速くなった Firefox はシェアを伸ばすだろうか


私の常用ブラウザは Chrome だが Firefox の最新バージョン Quantum をインストールした。余り神経質になる必要はないが、例えば一行の文字数が違ったりするので、複数のブラウザで一応チェックしている。それはともかく Quantum は「Chrome より 30% 軽量で高速」というのが謳い文句となっている。この点が話題になっているのだが、ベンチマークをする環境を持っていないので、CNET のテスト結果を紹介したい。

黄色は各ベンチマークで最も良い結果を示したブラウザ。グレーが2位、茶色が3位。©CNET

表を見ると Firefox の旧バージョンを凌駕、Chrome に追いつき、いくつかのテストでは追い越しているという点が興味深い。依然として IE ユーザーが多く、マイクロソフトの Edge に乗り換えない不思議を痛感するのだが、一般にブラウザは「慣れ親しんだもの」を使い続けるからだと想像する。それなりに Chrome が浸透したが、力を蓄えた Firefox がシェアを伸ばすかどうかは不透明である。なお Quantum には領域を指定してしてスクリーンショットする機能が付け加えられた。Mac の場合は簡単なのだが、Windows では一旦クリックボードに保管、画像ソフトを起動して貼り付ける必要があるので、ちょっとした進化ではある。

2017年11月21日

ソーシャルメディア Twitter に再参加する


アカウントを取得したのは2009年、日本語版サービスが開始されてから約1年後だったと記憶している。現在の tweet 数は 7,500 弱だが、そのほとんどは参加後数年の間の投稿で、次第に遠ざかり、幽霊会員と化してしまった。おそらく2010年秋に Facebook に参加したためだったのではないだろうか。ところが最近フトしたきっかけで tweet を再開、当ブログの左サイドバーに Twitter のガジェットを埋め込んでみた。Facebook にも近況を語る機能があるが、ちょっとした気遣いが必要だからだ。いささかキザかもしれないが、語学力に乏しいくせに、私の Facebook フレンドは外国人が多い。そこで日本語を連発すると迷惑じゃないかと心配する。逆に英語ばかりだと、日本のユーザーにとっては鬱陶しいのではと思ってしまう。その点 Twitter のフォロワーの大多数が日本人なので、遠慮なく tweet できる。それに140字以内という制限も、割り切れて良い。私はフォローしていないが、ネットニュースなどで橋下徹元大阪市長の連続 tweet の転載を目にすることがある。他人がどのように使おうが構わないが、分割して投稿するくらいなら Facebook のほうが良いのにと思ったりはする。久しぶりにアクセスして気づいたのだが、画像の貼り付けや retweet などが簡単にできるようになっていて、それなりにずいぶん進化していると痛感した。蛇足ながら tweet を「つぶやき」と呼ぶ人がいるが、正確には「さえずり」である。しかし人間はそれこそ小鳥と違い、ピーチクさえずるわけではない。従って「おしゃべり」が適訳かもしれない。もっとも政治談議となると、丁々発止の議論になったりするので「主張」のニュアンスを感ずることもある。しかし呼び方としてはピンと来ないので、英語のカタカナ表記「ツイート」に落ち着いてしまったのだろう。さらに蛇足ながら高音用スピーカーは tweeter で、低音用は woofer である。後者は犬などの唸り声を指す。アメリカ人の命名法にはつくづく感心する。

2017年11月20日

姉妹都市提携破棄を迫る吉村洋文大阪市長の愚


慰安婦像と追悼碑の除幕式が9月22日、サンフランシスコのセント・メリーズ・スクエアで行われた。この慰安婦像と追悼碑の寄贈を受け入れる決議案をサンフランシスコ市議会が可決したが、姉妹都市である大阪市の吉村洋文市長が反発、エドウィン・M・リー市長宛てに抗議の書簡を送った。議会に対し市長が拒否権を行使しないと姉妹都市提携を破棄するという内容だったようだ。これに対し11月19日、朝日新聞が「ちょっと待ってほしい。姉妹都市の関係のもとで育まれてきた交流は、双方の市民の歴史的財産である。市長の一存で断ち切ってよいものではない」と主張した。これに対し吉村市長は自身の Twitter 上で「『ちょっと待て』はこっちのセリフだよ、朝日新聞」と噛み付いたのである。一連の騒動から私は橋下徹元大阪市長が2013年に、慰安婦問題にからめ、民放番組で風俗業の活用を在日米軍に求めたことを思い出した。この発言は米国の顰蹙を買い、予定していた公式訪問を、サンフランシスコ市長から拒否される始末。無知と下品な言葉から生じた大恥を全世界に拡散してしまったのである。今回の吉村市長の言動は、その橋下元市長の指示なのか、それとも元市長の私怨を忖度(そんたく)してのことかちょっと不明だが、強気の発言は一部の市民に漂う嫌韓感情に阿ったものだった可能性もある。いずれにしても南京虐殺や従軍慰安婦を否定する「歴史修正主義者」と揶揄されても仕方ないだろう。読売新聞が「米国の慰安婦像、姉妹都市解消はやむを得ない」と社説で援護射撃したが、まさに世論を分断する「朝読戦争」の様相を呈している。長い年月をかけて培った姉妹都市の友好関係を、議会や市民に諮らずに、市長の独断で交渉の切り札にするとは余りにも非民主的で情けない。右翼、いや保守主義者は「憂国」という言葉をしばしば使うが、ちょっと待ってほしい、それはこっちのセリフだと言いたい。

追記:サンフランシスコのエドウィン・M・リー市長は、市内に設置された慰安婦像と追悼碑文ついて、民間団体からの寄贈を受け入れるとした同市議会の決定を承認する文書に署名、これによって大阪市との姉妹都市関係が解消されることになった。吉村洋文大阪市長は海外メディアから歴史修正主義者という烙印を押され、60年に渡る友好の歴史が閉ざされるという結果だけが残った。(11月22日)

2017年11月17日

受動喫煙:美しいと称賛されたニッポンが薄汚い国になりつつある


今朝のテレ朝ニュース電子版によると、厚生労働省は、30平方メートル以下の飲食店に限って喫煙を認める方針だったが、自民党の反発を受けて方針を転換し、店舗面積が150平方メートル以下の、より大型の飲食店でも喫煙を認める新たな案の検討に入ったそうだ。これを認めると、東京都内ならば9割近くの飲食店で喫煙が可能になる見込みだという。東京都議会が10月5日に「東京都子どもを受動喫煙から守る条例」を賛成多数で可決成立させたばかりだが、30平方メートル以下の飲食店なら喫煙を認めるというものだった。これでも受動喫煙は防ぎえないと思っていたが、さらに店の許可面積を広げるというから呆れる。毎日新聞11月16日電子版によると、英国の「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)」が受動喫煙に対する日本の対策は「最低ランク」と警鐘を鳴らしたという。世界55カ国が公共の場での屋内全面禁煙を法制化して15億人の健康が守られているのに対し、日本は飲食店や職場など多くの場所で喫煙が許されており「規制レベルは最低ランクの位置付け」と紹介。国民の大多数を占める非喫煙者の声が少数の喫煙者に負けているのが現状だとし、煙草、外食、娯楽産業の圧力が強く、財務省がJTの33%の株を保有している事実もロビー活動を容易にしている可能性があると指摘したのである。かつては海外から美しいと称賛されたニッポンが、薄汚い国になりつつある。

追伸:石田雅彦氏の記事「受動喫煙防止『厚労省150平方m案へ後退』報道の意図」によると「受動喫煙防止対策で厚生労働省が、飲食店の喫煙許容面積を150平方m以下にすると後退」などという内容の報道が一斉にあったが、厚労省の健康増進課に直接、確認してみたそうだ。するとそんな検討はしていない」という回答で「どこからそんな情報が出たのかわからない」と怪訝な様子だったという。事実なら私のこの一文は根底から崩れることになります。新たな情報を待ち、このエントリーをどうするか検討したいと思います。(11月19日)

2017年11月14日

フライドチキンではないケンタッキー・カーネルズ

The Kentucky Colonels at the Ash Grove, Los Angeles, California, 1966

米国ケンタッキー州から何を連想するだろうか。首府ルイヴィルのケンタッキーダービーを思い浮かべる人がいるかもしれない。しかし何と言っても日本人に馴染みがあるのはKFC(ケンタッキーフライドチキン)ではないだろうか。その象徴であったカーネル・サンダースの像がずいぶん前に大阪・道頓堀川から救い出されて話題になったことがある。KFCのウェブサイトによると、この像の原型はカナダのあるフランチャイズ店舗で作られたもので、イベントで使用された後は倉庫で眠ったままになっていたという。日本KFCの幹部がその立像をみつけて、日本に持ち帰り、店頭に置かれた。だから日本だけのものだという。私は1970年代、ケンタッキーの本店前を通り過ぎたことがあるが、像があったか憶えていない。日本にKFCができた1970年だそうだが、確かこの年、神戸のトアロードにできたばかりの店を取材した。連れて行ってくれたのは、新しがりやの女子高校生だったが、これまた像があったかどうか記憶にない。カーネルは大佐を意味するが、一種の名誉称号で、州に貢献した人に贈られるようだ。ケンタッキー州と言えば、私ならブルーグラス音楽がまず頭に浮かぶ。州のニックネームがブルーグラスで、ビル・モンローが率いたバンド名がブルーグラス・ボーイズというのがその謂われである。同じケンタッキー・カーネルでも、こちらは「S」が付いた複数形になっている。フランス系カナダ人のエリック・ホワイト・シニアの3人の息子、ローランド、エリック、クラレンスと娘のジョアンが1954年に西海岸のロサンジェルスで結成した "Three Little Country Boys" がケンタッキー・カーネルズのルーツだ。

Shikata Records SRCD-1002 (1999)
ローランドがビル・モンローに傾倒、フラットマンドリンを手にしたことからブルーグラスバンドに変身、1957年には地元局でレギュラー番組を持つようになる。1963年にファーストアルバムを出すが、このときからケンタッキー・カーネルズを名乗るようになった。上記ケンタッキー州の名誉称号を意識したものであろう。徴兵で抜けていたローランドが戻り、フィドラーのボビー・スローンが加わり、グループは全米ツアー敢行する。1964年にはUCLAとニューポートのフォークフェスティバルに足跡を残している。その後、天才フィドラーであったスコッティ・ストーンマンを迎えたが、1965年に解散する。ケンタッキー・カーネルズが今日でも強い支持を得ているのは、なんと言ってもクラレンス・ホワイトの技巧を凝らした、華麗なギターテクニックの魅力によるものだろう。ジョージ・シャフラーやドン・レノの奏法を基に、彼独自の発想が加わった革命的奏法である。フラットピックによる早弾きは、古くはアルトン・デルモア、その影響を受けたドク・ワトソン、そしてトニー・ライスが有名だが、いずれも演奏スタイルは微妙に違う。クラレンスは、1968年にザ・バーズに参加、フォークロックの礎を築いたひとりだが、 1973年に交通事故でこの世を去った。弱冠29歳だった。左のアルバムは1965年録音の音源を、1999年に Shikata Records の故・四方敬士氏の尽力でCD化されたもので、パーソネルはクラレンス・ホワイト(ギター)ローランド・ホワイト(マンドリン)ビリー・レイ(バンジョー)ロジャー・ブッシュ(ベース)の4人。スコッティ・ストーンマンとの共演など、何枚かのCDが出ているが、録音状態も良く、彼らのベストアルバムだと思う。

2017年11月12日

安倍政権とジャーナリズムの危機

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日 時:2017年12月2日(土)18:30~
会 場:クレオ西ホール(大阪市此花区西九条6-1-20)
講 演:望月衣塑子(東京新聞記者)
演 奏:長野たかし(元「五つの赤い風船」)&森川あやこ
報 告:木村真(森友問題を考える会)
主 催:とめよう改憲!おおさかネットワーク

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2017年11月8日

真珠湾奇襲攻撃秘話ニイハウ島の悲劇

真珠湾の航空取材を終えホノルル空港に戻ったイヴランドさんと私(1976年12月)

ちょうど75年前の1941年12月7日、日本時間12月8日未明、日本海軍はハワイ州オアフ島の真珠湾を航空機および潜航艇で奇襲攻撃をした。写真は1976年の12月中旬、ホノルル空港で撮影したもので、私が穿いてるベルボトムのジーンズが時代を感じさせる。フィルムスキャンしたもので、好天下でコントラストが高いのが難点だけど、流石コダクローム、40年を経ても変褪色の兆しがゼロである。横にいるのはパイロットのイヴランドさん。この日は旧日本軍の戦闘機の飛行コースに沿って真珠湾に侵入、湾内を何回か旋回し撃沈した戦艦アリゾナの記念館を撮影した。この地域にはアメリカ海軍太平洋艦隊の司令部や太平洋空軍の基地などになっているので、しばらくすると管制塔から無線で「退去せよ!」と怒鳴られ、すぐそばのホノルル国際空港に着陸、ほっとしたところを記念撮影したものだ。イヴランドさんと一緒にハワイの島々を飛び回ったが、彼は飛行機操縦教官の資格があり、風が穏やかな洋上では時々操縦桿を握らせて貰った。だから私は4~5時間の飛行教程を履修したことになっているのである。真珠湾奇襲攻撃を受けた米国は日本に宣戦布告、これがハワイに住む日系人に複雑な影を落としたことは言うまでもない。ところでニイハウ島事件をご存知だろうか。

西開地重徳一飛曹
焼却後の西開地飛曹搭乗のゼロ戦
真珠湾第二次攻撃のため、戦艦「飛龍」を飛び立った零式艦上戦闘機(ゼロ戦)がエンジンの故障で不時着、奇怪な展開を見せた事件である。この島には軍事施設がなく、万が一のために不時着地として日本軍が指定してあったものだ。パイロットは西開地重徳一飛曹(海軍一等飛行兵曹)、軽傷だったようだが住民が手厚く看護したという。ところがその住民の一人が機内から地図と拳銃を盗み出した。地図は帝国海軍の軍人にとってはいわば機密書類、住民との間に緊張感が漂った。間に立ったのがカウアイ島から農場の管理人として働きに来ていた日系二世の原田義雄夫妻だった。最終的には西開地一飛曹は住民との抗争によって殺されるのだが、これによって原田さんも自害する。アメリカ人でありながら日本軍に加担したというジレンマに陥ってしまったからだ。ニイハウ島はロビンソン一家が私有する小島で、先住ハワイアンの生活様式を継承している。許可なしには誰も上陸できなく、私も申請したが無理だった。カウアイ島でヘリコプターをチャーター、上空から島の様子を窺った。礼拝を終えたと思われる住民が教会から出てきたところを見たくらいで、パイロットが低空飛行を嫌がったこともあり、その生活実態を撮影することはついにできなかった。現在でも島の一部を散策できるツアーもあり、上陸については容易であるが、島民への接触は招待された者以外は認められていないという。

欧州戦線で名を馳せた第442連隊戦闘団の日系人兵士たち
移民というのはひとつのプロセスを辿るようだ。まず農業、漁業などの労働に従事する。次に教育を受けた子弟が、教員をはじめ公務員になる。無論企業にも務める人もあれば、起業する人も登場する。スポーツ選手が現れ、政治家も誕生する。音楽や絵画などの芸術家が生まれるが、最後に現れるのはその国の言葉を使う文学者だという。当時、詩で受賞したという日系三世の女子高校生のことを新聞で知り訪ねたことがある。顔かたちが日本そのものなのに、会うと英語しか喋れず、奇妙な感じを抱いたものである。どうして二世たちは三世に日本語教育をしなかったのか。大戦中ハワイから欧州戦線に送られた日系米兵の「第100歩兵大隊」「第442連隊戦闘団」はドイツ軍と果敢に戦い、米軍内では稀にみる大きな戦績を残した。ところが皮肉なもので、戦場で活躍したがうえに「やはり日本人は怖い」と逆の評価も囁かれてしまったのである。すべての日系人がそのようにしたか不明だが、このような苦い経験から、より「アメリカ人」になろうと子弟に日本語を教えなくなったという。これは例えば華僑の世界とはずいぶん違う。ニイハウ島事件から逸れたが、ハワイに住む日系人の複雑な深層心理を一枚の写真から思い出した次第である。

2017年11月6日

ジョー・ヒル:天国のパイ

群衆に囲まれて墓地に向かうジョー・ヒルの棺(シカゴ1915年11月25日)

アメリカの大恐慌は人々の生活を苦しめたばかりではなく、結果的にドイツやイタリア、日本などのファシズムを生み、第2次世界大戦への引き金となった。アメリカはつくずく記録魔の国だと思う。魔と書いたが、良い意味である。手元に絶版となったソングブックが一冊ある。"Hard Hitting Songs For Hard-Hit People" と題されたこの書籍は、1967年にニューヨークのオーク・パブリケーションズから出版されたもので、編纂は民謡蒐集研究家のアラン・ロマックス、フォークシンガーのウディ・ガスリーとピート・シーガーで、小説『怒りの葡萄』の作者ジョン・スタインベックが序文を寄せている。私が所有しているのはハードカバーだが、2012年にペーパーバックス復刻版が出たので、現在は入手可能である。それはともかくこのソングブックには大恐慌が産み落とした歌の数々が収録されていて、庶民の視点による貴重な記録になっている。この中から一曲紹介しよう。これはジョー・ヒル(1879–1915)が作った "Pie in the Sky"(天国のパイ)という歌である。
悼んではならない 団結せよ!
長髪の説教師どもが毎晩やってくる
何が悪いか何が良いかやつらは語る
でも何か食べるものはと訊いてごらん
やつらは甘い声でこう答えるだろう

そのうちに食べられるようになるさ
天の上の栄光ある国で
働き祈りなさい干し草で暮らしなさい
死んだら天国でパイが手に入るだろう
ジョー・ヒルの生涯に関しては、1971年にアメリカとスウェーデン合作の伝記映画が公開されている。またジョー・グレイザー、フィル・オークスやジョーン・バエズなどがジョー・ヒルのことを歌っている。1879年スウェーデン生まれだが、1902年に移民としてアメリカにやってきた。無賃乗車で列車の旅をした人々をホーボーと呼ぶが、彼もその集団に加わったひとりであった。1905年にシカゴにおいて結成された Industrial Workers of the World(世界産業労働者組合)の運動に加わったが、最後はフレームアップで処刑されてしまう。集会条例によって街頭の演説が禁じられたいたため、賛美歌のメロディを使った替え歌で運動を展開したことで彼は知られている。奇しくもこれは、演説がだめなら歌で、ということで生まれた明治大正時代の添田唖蝉坊らの「演歌」と酷似しているのが興味深い。演歌はやがて風化して「艶歌」に化けてしまったが、アメリカではフォークソングとして育ち、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、そしてボブ・ディランへと歌い継がれていったのである。このソングブックにはFSA(農業安定局)プロジェクトが記録した、大恐慌時代の写真が多数掲載されていることを特筆しておきたい。ドロシア・ラングやウォーカー・エバンスなどが撮影したもので、現代ドキュメンタリー写真の礎(いしずえ)になった。大恐慌と写真というテーマで機会があれば書いてみたい。

YouTube  Pie in the Sky - Pete Seeger 1965    YouTube  The Ballad of Joe Hill - Phil Ochs

2017年11月5日

イスラームの科学者イブン・アル=ハイサムの偉大


イブン・アル=ハイサム 最初の科学者
イスラームいう言葉に接すると日本人は何を連想するだろうか。左手に聖典クルアーン、右手に剣という比喩に代表される宗教的攻撃性だろうか。中東に今なおくすぶる戦火だろうか。それとも産油国の為政者の豪奢な暮らしぶりだろうか。歴史的にはヨーロッパを震撼とさせた、オスマン帝国の覇権主義だろうか。いずれにしても、その結束力は時空を超えて、アジアからアフリカに至るまで、繋がりを持っている。多くの人々がプラスのイメージを持たず、負のそれを抱いてるのではと想像する。しかし工業立国日本は石油なしには生き延びることができない。その観点のみから外交政策が行われ、その文化に対する認識は立ち遅れてるような気がしてならない。だから10世紀において、イスラーム圏の科学がヨーロッパより遥かに進んでいたという史実が、日本人の認識の中に欠落しているかもしれないのである。サブタイトルを「最初の科学者」とした本書は、史上最も偉大な科学者の一人であるイブン・アル=ハイサム(アルハゼン 965-1038)の伝記および評論である。ペルシャ(現イラン)のバスラで生まれ、バグダードで科学を学んだ。アリストテレス、ユークリッド、アルキメデス、そしてプトレマイオスの業績を研究考察した。そして目から出た光が対象を走査し、そのことによって目の中に像が出来るというといった、彼らの視覚論を批判する。太陽その他の光源から出た光が対象に反射し、それが目に入って像を結ぶという正しい理論を提出し、現在から見てもかなり正確な眼球の構造を記している。本書は児童向け図書で、日本の子どもたちのために邦訳が待たれる。

イラク中央銀行の10000ディナール紙幣(2003年)
実験というメソッド使用することで科学へのアプローチを開発したのであるが、光学の分野での功績は大きい。ロジャー・ベーコン(1214-1294)からピエール・ド・フェルマー(1608-1665)までの中世ヨーロッパの科学者と数学者、そして天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)に影響を及ぼしたのである。彼はカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いたのだが、右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いたのである。このことからは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。像の左右の入れ替わりに触れているが、像が倒立することには言及していない。エジプトのファーティマ朝の第6代カリフ・ハーキムによってカイロに招かれ、ナイル川の洪水を治める研究をするよう指示された。しかしそれが困難と知った彼は独裁者の逆鱗を買ったが、気が触れたと偽る。結局カリフが没するまで幽閉されてしまうが、最終的に釈放されバグダッドに戻る。死ぬまでに科学に関するもう90冊の本を書いたと言われる。幽閉中に書かれた『光学宝典』著書は1572年に出版されたが、上記ケプラーを筆頭に、ルネ・デカルト(1596-1650)、クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695)、アイザック・ニュートン(1642-1727)などが更に光学を発展させて行った。少なくとも10~11世紀において、イスラーム圏は科学の先進を走っていたのである。

YouTube  Ibn Al-Haytham (Alhazen) - Optics: The True Nature of Light | by Jim Al-Khalili (EN)

2017年11月4日

東寺五重塔にどうして大日如来像がないのだろう?

阿弥陀如来坐像

五重塔はストゥーパ、すなわち釈迦の遺骨を安置する舎利塔である。東寺(京都市南区九条町)の五重塔は弘法大師が天長3(826)年に創建着手したが、しばしば災火を受けて焼失、現在の塔は寛永2(1644)年に徳川家光に寄進によって竣工したものだそうだ。東側から初層の内陣に入ると、心柱を背にした須弥壇に安置された阿閦(あしゅく)如来像が目に飛び込んで来る。そして反時計廻りに不空成就(ふくうじょうじゅ)、阿弥陀(あみだ)、宝生(ほうしょう)如来と続く。いずれも金色だが、中心に置くべき真言密教の主導、大日如来の姿がない。東寺塔頭宝菩提院住職だった三浦俊良著『東寺の謎―巨大伽藍に秘められた空海の意図』によると、空海は心柱そのものを大日如来と位置付けたそうである。大日如来は宇宙の真理を表わす仏である。この仏を心柱とみなし、その上で金剛界の密教世界を作り上げていったという。

2017年11月3日

ピンホール現象に関する「アリストテレスの難題」を解いてみよう

Annular Eclipse Shadows on May 20 in 2012 by ©Justin Soffer

木漏れ日の針孔現象
クリックすると拡大
ピンホールカメラの原理について訊かれると、私は「光の直進性を利用したもの」と答えることにしている。これで何となく納得してしまうらしく、例えば「どうして光は直進するのか」という突っ込みを受けたことがない。中国の経書によれば、紀元前5世紀に光の直進性が知られていた。墨子や荘子らは影について語っている。衝立にピンホールを開けて倒立した像を作ることを最初に記述したのは墨子である。墨子は物体が光をあらゆる方向に反射することも、物体の頂点がから発せられた光線が針孔を通過すると像を作りだすことを知っていたし、針孔を通過した光だけが像を結ぶことに気づいていた。ピンホール現象が人の手によらず発生するのを最初に観察したのは紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者アリストテレスだと言われている。日蝕のとき木陰になった地面に三日月形の像が浮き上がってるのを見て、葉と葉の小さな隙間がそれを作りだしていることに気づいた。像が倒立することに対しては、アリストテレスは頭を悩ますことはなかったようだ。太陽からくる円錐状の光を想定して単純に説明した。すなわち円錐の頂点が孔の位置にあり、それが反対側にもうひとつの円錐を作りだし、これが太陽の像を結ぶと考えた。彼が関心を抱いたのは、孔の形がなんであれ、太陽の像が日蝕時には必ず三日月形になることだ。これは「アリストテレスの難題」として残り、16世紀まで解決されることがなかったという。

光の直進性を証明する実験装置
10世紀、アラビアのアルハゼン(イブン・アル・ハイサム)がカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いた。彼は右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いた。このことからアルハゼンは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。形のまちまちな孔が、同じ太陽の円形の像、あるいは日蝕時に三日月形の像を結ぶのはなぜか? この「アリストテレスの難題」を16世紀になって解いたのが、ギリシャのフランチェスコ・マウロリコだったという。マウロリコはヨハネス・ケプラーの先駆者とも言える数学者であった。眼球が作る像とレンズのない小さな隙間が作る像、その両方に関する理論に没頭した、と歴史書は説明している。前置きが長過ぎたようだ。ここまで読んでいただいたあなたは、マウロリコがどのように「アリストテレスの難題」を説明したか知りたくなりませんか? 実は私がそうなのである。ところが、彼が解いたということが分かったものの、どのように説明したかは見つからないのである。私はピンホール、あるいはカメラオブスクラ関係の書籍をそれなりに持っている。しかしその中からは答えが出ずじまいだ。もしやと思い、インターネットで検索してみたが、やはり見つからなかった。仕方ない、それではということで、自分で考えることにした。あなただったらどう説明しますか?

2017年10月31日

第五福竜丸建造70年記念特別展

この船を描こう 森の福竜丸 男鹿和雄と子どもたちの絵

会 期:2017年11月3日(祝・金)~2018年3月25日(日)9:30~16:00
月曜休館ただし祝日は開館・火曜振替休館・12月28日~1月3日休館
会 場:第五福竜丸展示館(東京都江東区夢の島公園)03-3521-8494
詳 細:http://www.d5f.org/news/80.html

ウェブサイトより:第五福竜丸70年・古稀を記念して、スタジオジブリ作品を多く手がけた森と樹の画家、男鹿和雄さんが第五福竜丸の絵を描いてくださいました。「海の第五福竜丸」「森の第五福竜丸」の2点の作品と、「焼津港」「ビン玉」「六分儀」の3点が展示館に贈られました。大海原を勇躍赤道にむかい航海する福竜丸に、閃光と爆発音、巨大なキノコ雲の下で灰は降り落ちました。しかし、航海はつづきます。建造70年にあたり「この船を知ろう」「この船をつくろう」につづき、「この船を描こう」では男鹿和雄作品と全国から寄せられた60点の子どもたちの絵を展示します。

2017年10月29日

小池百合子希望の党代表の危険


昨年8月、私は「東京都民はトンデモナイ女性を知事にしてしまった」という一文を寄せた。PHP研究所の月刊誌『VOICE』2003年3月号での鼎談を、自らのウェブサイトで「日本有事3つのシナリオ」と題して掲載している点を突いたものだ。以下のような発言だったが、選挙対策のためかこの下りは削除されている。
軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうるのですが、それを明言した国会議員は、西村真吾氏だけです。わずかでも核武装のニュアンスが漂うような発言をしただけで安部晋三官房副長官も言論封殺に遭ってしまった。
これは小池百合子希望の党代表の脳裡に、通奏低音として流れている政治信条で、安倍晋三首相と共通認識だと思われる。だから先の衆院選において小池氏が「安倍政治を終焉させること」をスローガンに掲げたことに疑問を持った。つまり「反安倍大連合」なるものは、実は「自公補完勢力創設」であり、民進党の前原誠司氏が、希望の党への合流を進めた真意に疑問を持ったものである。希望の党が安全保障関連法肯定、憲法改定推進を「踏み絵」にしたわけで、だから小池氏が思わずリベラルを「排除」すると口を滑らし、墓穴を掘ったのも不思議ではない。安倍一強政治に多くの国民が反発を感じている。国政に躍り出た小池氏は「新たな選択肢」として当初は大きな旋風を巻き起こすかのように見えた。しかし「排除」という失言ならぬ本音を露呈してしまったのである。安倍晋三首相も危険だが、さらなる危険思想を持っているのが小池百合子希望の党代表である。

2017年10月26日

岡本神草の時代展案内

しんさうのぬりゑ

日 時:2017年11月1日(水)~12月10日(日)9:30分~17:00(金・土曜は20:00まで)
休 館:毎週月曜日
会 場:京都国立近代美術館(京都市左京区岡崎円勝寺町)075-761-4111

京都市立絵画専門学校の卒業制作を、厳選で知られている第1回国画創作協会展に入選させ、新興美人画作家として注目された岡本神草(1894-1933)。昭和に入ってからは、かつてのように官能性を前面に押し出すのではなく、そこはかとなく漂わせるような作風に移り、38歳の若さで亡くなりました。画家にとって初の大規模回顧展となる本展は、数少ない本画を可能な限り集め、素描、下図、資料類100点ほどを加えて画業を紹介するとともに、甲斐庄楠音など同時代に競い合った作家達の作品も展示し、神草芸術の全貌だけでなく、時代性と特異性を知ることのできる展覧会です。

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2017年10月24日

ダイアン・アーバス自撮りヌード異聞

Diane Arbus (1923-1971) Self-Portrait, Pregnant, N.Y.C., 1945

 Diane & Allan Arbus (1950)
この写真をソーシャルメディア Facebook に投稿したところ、削除され、おまけに主な機能の利用停止処分を食らってしまった。理由は「Facebook のポリシーに違反するコンテンツ」ということらしく、33時間、投稿は無論、いいね!ボタンも押せなくなってしまったのである。ダイアン・アーバスの意外な側面を知る上で貴重な写真と思うのだが、要するにどんな内容であれ、ヌード写真はとにかく駄目ということらしい。というわけで、ここに紹介することにした。ダイアンのセルフヌードは、私が知ってる限りでは1944年と、1945年のこの写真が流布されている。1941年、18歳のダイアンは幼な馴染のアラン・アーバスと結婚、1945年に長女ドーンを出産した。つまりこれは妊娠中の写真で、陸軍信号隊の写真家として従軍、インドに駐屯していた夫に送ったものだという。ダイアンというと二眼レフを連想しがちだが、これは大判のデアドルフである。彼女はまだ写真家ではなかったが、若い夫婦がファッションや広告写真の事業を始めることを期待、ニューヨークでデパートを経営していたダイアンの父親が購入したものである。白いブリーフをつけただけのダイアンが、ベッドルームの鏡に向かってポーズをとっている。妙に艶めかしく、私生活を覗き見した気分になるのは私だけだろうか。明らかなプライベート写真で、アランに妊娠を知らせるために撮った一枚なのである。1959年に彼らは別居、1969年に離婚したが、二人の娘がいたため、アランは日曜の朝食にやってきて、ダイアンのフィルムの現像を続けたようである。1956年にダイアンは商業写真から手を引き、35ミリのニコンを使うようになった。後にローライやマミヤの二眼レフに持ち替え、性倒錯者、畸形、身体障碍者などの所謂「フリークス」を撮り始めたのはご存知の通りである。その中にはヌーディスト・キャンプに飛び込んで撮影したものなど、いくつかのヌード写真が含まれるが、それは彼女の蒐集癖の産物であり、若き日のセルフポートレートとは隔たりがある。そのプライベート写真がどのような経緯で公表されたのか、寡聞にして私は知らない。