2024年3月29日

なぜビル・モンローはカウボーイハットを愛用したのか

>Bill Monroe

下の写真は1928年にヴァージニア州ゲイラックスで撮影されたストーンマン・ファミリーである。前列中央がアーネスト・ストーンマン(1893–1968)だが、かぶっている帽子がカウボーイハットに見える。ヴァージニア州キャロル郡のモナラットの丸太小屋で生まれた彼が、どうしてカウボーイハットなのか不思議だ。1927年のブリストルセッションでカーターファミリーなどとビクターのために録音、カントリー音楽の本格的商業化が始まった。カウボーイハットの原型はジョン・B・ステットソン(1830–1906)が自分のために作った大きなフェルト帽という説があるようだ。ステットソンのフェルト帽を買い求めたのがカウボーイだったので、これをカウボーイハットと呼ぶようになったかもしれない。ステットソンは最終的には世界最大の帽子メーカーになり、フィラデルフィアの9エーカー(36,000㎡)に広がる工場で、なんと年間330万個以上の帽子を生産したという。これは推測に過ぎないが、黎明期のカントリー音楽のミュージシャンたちは、ステットソンの帽子をカウボーイハットという認識を持っていなかった可能性がある。ステットソンのウエスタンハットがカウボーイハットとしてイメージが定着したのは、やはり西部劇の影響が大きいのではないだろうか。カントリー音楽の巨星ハンク・ウィリアムズ(1923–1953)もステットソンの帽子を着用していたが、バンド名のドリフティング・カウボーイズが象徴的だ。今やカントリー音楽の世界では、カウボーイハットが「制帽」と言って良いだろう。

Stoneman Family
Stoneman Family, Galax, Virginia, 1928.
The Monroe Brothers (Victor RA-5281)

ブルーグラス音楽の世界でもカウボーイハットは決して珍しくはない。レスター・フラット(1914–1979)とアール・スクラッグス(1924–2012)が率いたフォギー・マウンテン・ボーイズもステットソンの帽子をかぶっていた。最近ではブルーグラス音楽の麒麟児ビリー・ストリングス(1992-)も時々着用しているようだ。余談ながらアール・スクラッグスがバンジョーを片方の肩に掛けていたのは、そうすることで帽子を脱がずにバンジョーを取り外せたからだったようだ。注目すべきはブルーグラス音楽の始祖ビル・モンロー(1911–1996)の帽子である。兄チャーリーとのモンロー・ブラザースの時代からステットソンの帽子を愛用していた。グランド・オール・オプリに登場したころのブルーグラス・ボーイズの写真を見ると、衣装には5つの基本要素があったことが分かる。象徴的なのはジョッパーズと乗馬ブーツで、キツネ狩りなどのレジャー活動に十分な財力があることを暗示しているのである。

  1. 半分から全体のふくらはぎまでの長さの黒くて光沢のある乗馬ブーツ
  2. カーキ色のジョードプル・ライディング・ブリーチズ
  3. きちんとプレスされた長袖のボタンダウンシャツ
  4. ネクタイは通常斜めのストライプ柄でベルトより下には下げない
  5. ステットソンのカウボーイハット

オリジナルのブルーグラス・ボーイズが誕生したのは1939年だった。ビル・モンローの意図を推測するのは難しいけど、ブルーグラス・ボーイズのドレスコードやステージでの見せ方については、テネシー州ナッシュビルのグランド・オール・オプリの興行主であるジョージ・D・ヘイ(1895–1968)の圧力に大きく影響されていたのではないかと考えられる。ヘイはステージショーのために、みんなに本物の「カントリー」を見せたかったのだろう。彼はミュージシャンのためにカントリー調のステージ上の人格を考案し、それに合わせて派手なモノマネをしたのである。アンクル・デイブ・メイコン(1870–1952)はディキシー・デュー・ドロップとなった。モンローは、ヘイが好んでいた下品で搾取的で自虐的な田舎の風刺画から離れて、ケンタッキーの貴族と呼ばれるイメージに向かうことで、他のオプリの仲間たちとは一線を画そうとしたのだと考えられる。

Bluegrass Boys

しかしもう少し踏み込むと、この理論は「キャデラックは50年代のアメリカ郊外の家族にとって、大恐慌時代のケンタッキー州の田舎の家族にとってのカーキ色のジョッパーズと高い乗馬靴のようなものである」という怪しげな方程式を導き出す。このような論理は、モンローがこのヌーヴォー・リッチなたわ言を信じていたこと、つまり、彼が自分のさまざまな衣服やアクセサリーが文化的にコード化され、オプリーの観客にとって読みやすいシンボルであると信じていたことを前提としている。キャデラック説はありえないし、その仮定は不合理きわまりない。いずれにしても、音楽と観客への敬意を示すために、格好良くすることがポイントだったと言ってもいいと思われる。不思議なことに、上に挙げた5つの要素のうち最初の4つは、モンローのキャリアを通してブルーグラス・ボーイのドレスコードに入ったり入らなかったりしたが、そのほとんどは10年以内に消えてしまったのである。その中で、ステットソンのカウボーイハットだけは不変だった。1996年に亡くなる最後まで。

Stetson Hat  The Story and biography of John B. Stetson (1830–1906) Inventor of the Cowboy Hats

2024年3月25日

伝説的なスイングと色彩豊かな個性でメジャーリーグを変えたベーブ・ルース

Babe Ruth 1920
Yours truly "Babe" Ruth, July 23, 1920

ベーブ・ルースとして知られるジョージ・ハーマン・ルース・ジュニアは、メジャーリーグ最多本塁打記録、シーズン最多通算塁打記録、シーズン最高打率など、野球界で最も重要な記録を塗り替えた。1961年まで続いた1927年のシーズン最多本塁打60本はじめ、1974年まで破られなかった通算714本のホームランを放った。

1895年2月6日、メリーランド州ボルチモアでジョージ・ハーマン・ルース・ジュニアとして生まれた。ルースはボルチモアの水辺の貧しい地区で育ち、両親ケイト・シャンバーガー・ルースとジョージ・ハーマン・ルース・シニアは居酒屋を経営していた。ルースは夫妻の間に生まれた8人の子供のうちの1人で、幼児期を生き延びたたった2人のうちの1人であった。7歳のとき、トラブルメーカーのルースは、両親にとって手に負えない存在となった。造船所を徘徊し、酒を飲み、タバコを噛み、地元の警察官を愚弄する姿が日常的に目撃された。両親はついにルースに自分たちができる以上のしつけが必要だと判断し、カトリックの孤児院兼少年院であるセント・メアリー・インダストリアル・スクールに入れた。この施設でルースが特に尊敬したのがブラザー・マティアスという修道士で、彼は少年にとって父親のような存在になった。マティアスは、修道会の他の数人の修道士とともに、ルースに野球を教えた。15歳になる頃には、ルースは強打者としても投手としても卓越した腕前を見せていた。マイナーリーグ、ボルチモア・オリオールズのオーナー、ジャック・ダンの目に留まったのは、彼のピッチングだった。オリオールズはボストン・レッドソックスとして知られるメジャーリーグチームの選手を育成しており、ダンはルースの運動能力に将来性を見出していた。

Providence Grays
Providence Grays team photo with Babe Ruth, 1914

19歳だったルースがプロとしてプレーするためには、当時の法律では法定後見人が野球契約に署名しなければならなかった。その結果、ダンがルースの法定後見人となり、チームメイトは冗談でルースを「ダンの新しいベイブ」と呼ぶようになった。このジョークは定着し、すぐに「ベーブ」ルースというニックネームを獲得した。レッドソックスは、大リーグですでに投手ローテーションが充実していたため、ルースをロードアイランド州プロビデンスのマイナーリーグ、プロビデンス・グレイズに送り、経験を積ませた。この左腕投手は、すぐにチームの貴重なメンバーであることを証明した。その後の5年間で、レッドソックスを3度の優勝に導き、そのうちの1916年の優勝では、1試合で13回無失点という、今でも記録的な投球を見せた。しかし、1919年、ペンの一筆ですべてが変わることになる。財政難に直面したレッドソックスの球団所有者ハリー・フレイジーは、借金返済のために現金が必要だった。彼はニューヨーク・ヤンキースに助けを求め、1919年12月、当時としては破格の10万ドルでルースの権利を売却することに合意した。この契約は、予期せぬ形で両フランチャイズを形作ることになった。ボストンにとって、ルースの離脱はチームの連勝記録の終わりを告げた。後にスポーツライターたちが 「バンビーノ(幼児)の呪い」と呼んだ優勝の干ばつは、2004年まで続いた。

Dugdale Park
In a barnstorming game at Dugdale Park, Seattle, 1924

ルースを中心にヤンキースは圧倒的な強さに変貌し、その後15シーズンで4度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。フルタイムの外野手となったルースがすべての成功の中心にあり、このゲームではかつて見られなかったレベルのパワーを解き放った。移籍1年目の1920年、彼は54本塁打を放った。2年目のシーズンには59本塁打を放ち、10シーズン足らずでルースは球界の通算本塁打王の座についた。このアスリートは自らの記録を更新し続けようと決意していたようだ。1927年、彼はシーズン60本塁打という、34年間続いた大記録を再び塗り替えた。この頃には、彼の存在はニューヨークで非常に大きくなっており、1923年建設の新しいヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」と呼ばれた。ルースはキャリアを通じて、リーグ最多本塁打記録12本、シーズン最多通算塁打記録457本、シーズン長打率.847 など、野球界で最も重要な打撃記録を塗り替えた。通算本塁打714本は1974年にアトランタ・ブレーブスのハンク・アーロンに抜かれるまで続いた。 ルースの成功は、ファーストライフスタイルに飢えていた不況前のアメリカに、完璧に応えるライフスタイルと一致した。食欲、飲酒、女性への貪欲さ、浪費と豪遊の傾向の噂は、プレートでの活躍と同じくらい伝説的であった。

Lou Gehrig, Tris Speaker, Ty Cobb and Babe Ruth, 1928
Lou Gehrig, Tris Speaker, Ty Cobb and Babe Ruth, 1928

このような評判は、事実であれ想像であれ、ルースが後年チームの監督になるチャンスを奪うことになった。彼のライフスタイルを警戒する球団は、一見無責任なルースにチャンスを与えようとはしなかった。1935年、彼はブレーブスでプレーするためにボストンに誘い戻され、翌シーズンの監督就任のチャンスを狙っていた。しかしそれは実現しなかった。1935年5月25日、ペンシルベニア州ピッツバーグのフォーブス・フィールドで1試合3本塁打を放った時、太りすぎでかなり衰えたルースは、ファンに彼の偉大さを最後に思い起こさせた。翌週、ルースは正式に引退した。彼は1936年に野球殿堂入りした最初の5人の選手の一人である。最終的には1938年にブルックリン・ドジャースのコーチの肩書きを得たが、ルースがメジャーリーグのチームを監督するという目標を達成することはなかった。生涯を通じて気前のいい男として知られた彼は、晩年、多くの時間を慈善事業に捧げた。1948年6月13日、開場25周年を祝うためにヤンキー・スタジアムに姿を現した。がんに冒されていたルースは、かつての陽気な姿は影を潜めていた。その2ヵ月後の1948年8月16日、財産の多くを恵まれない子供たちのためのベーブ・ルース財団に残して、ニューヨークのがんセンターで亡くなった。53歳だった。

Major League Baseball  Babe Ruth (1895–1948) | Biography | Career | Stats | News | Licensing | Official Website

2024年3月21日

パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン

Bas-relief Frieze
Madeleine Vionnet 'Bas-relief Frieze’ Dress, Paris, 1931

George Hoyningen-Huene

ジョージ・ホイニンゲン=ヒューンは1920年代から1930年代にかけて活躍した、ロシア出身のファッション写真家である。エレガントで無駄をそぎ落としたスタイルは、世界中の写真家に劇的な影響を与え、彼の作品は、20世紀で最も印象的な写真のポートレートや構図を生み出したアーティストとして、今日もなお関連性を持ち続けている。バルト系ドイツ人とアメリカ人の両親のもと、1900年9月4日、ロシアのサンクトペテルブルクで生まれた。1917年のロシア革命の最中、ホイニンゲン=ヒューン夫妻は最初はロンドン、後にパリに逃れた。パリに移り住んだ彼は、そこで有名なシュルレアリスムの写真家、マン・レイ(本名エマニュエル・ラドニツキー)の助手となり、1924年には彼と共同でファッション写真のポートフォリオを制作した。この頃のパリは芸術表現の巣窟であり、偉大な作家や芸術家たちはみな、自分たちの考えを表現する新しい方法を積極的に取り入れていた。ヒューンの仲間には、サルバドール・ダリ、リー・ミラー、ココ・シャネルをはじめ、パブロ・ピカソ、シュルレアリストのポール・エリュアール、ジャン・コクトーらがいた。ヒューンは、ファッション・イラストレーターとして名を馳せるようになる。彼の絵の師はフランスのキュビズム画家アンドレ・ロートだった。そのユニークで革新的、芸術的なビジョンにより、ファッション写真界のリーダー的存在となった。

Virginia Kent and Peggy Leaf
Fashion by Virginia Kent and Peggy Leaf, Paris, 1934

シャネル、バレンシアガ、宝石商カルティエなど、パリのオートクチュール・メゾンのスタイルをいち早く撮影。瞬く間にコンデナスト社のフランス版『ヴォーグ』のチーフ・フォトグラファーにまで上り詰めた。エレガンスと洗練を見抜く彼の鋭い目と、貴族社会での動きやすさから、彼は当時最も美しい女性たちを紹介され、その多くが彼のモデルとなった。その中には、世界初のスーパーモデルであり、後にアメリカ人写真家アーヴィング・ペンと結婚したスウェーデン人ダンサーのリサ・フォンサグリーブスも含まれている。1935年、ホイニンゲン=ヒューンはニューヨークに移り、自分の名前をジョージと英語化して、コンデナストを退社し、ライバル誌のハーパーズ・バザーに入社した。彼は広範囲を旅し、訪れた多くの国について日記を書いた。

Thérèse Dorny
Film and Stage actress Thérèse Dorny, Paris, 1931

この頃、彼の落ち着きのないエネルギーと生来の創造力が、ファッション写真から映画の世界へ移ることを考えさせた。1946年、ジョージ・キューカー監督に説得され、ハリウッドで働くことになった。彼はイングリッド・バーグマン、チャーリー・チャップリン、グレタ・ガルボ、エヴァ・ガードナー、キャサリン・ヘプバーンなど、20世紀を代表する多くの映画スターを撮影した。ヒューンとキューカーは親しい友人となり、キューカーがテクニカラーという新しいメディアで初めてジュディ・ガーランド主演映画『スター誕生』(1954年)を撮影する際には、ヒューンにカラーコンサルタントを依頼したほどだ。なぜヒューンを選んだのかと尋ねられたキューカーは、写真術におけるヒューンの幅広い専門知識が、映画の技術的な問題、特に色の美学に関する問題の解決に応用できると直感的に感じたからだと説明した。

Hammamet, Tunisia
Mr. George Sebastian and his wife next, Hammamet, Tunisia, 1934

ジョージ・ホイニンゲン=の貢献は実に貴重であり、ジョージ・キューカー側の抜け目のない決断を反映したものであった。ヒューンは新しい媒体の初期の進化を開拓しただけでなく、それを完成させることにも貢献したからである。その結果、ヒューンはキューカーにとって大きな財産となり、彼らはその後、高く評価されたいくつかの映画で共に仕事をした。ヒューンはカラー・コーディネーターという肩書きを与えられていたが、実際には、ファッション撮影の生涯で身につけたスキルが活かされ、撮影プロセス全体に大きな影響を与えた。ヒューンは映像詩の形で何冊かの本を出版した。『アフリカの蜃気楼:旅の記録』(1938年)では、彼はアフリカ大陸の先住民コミュニティとつながり、尊敬の念を抱いただけでなく、彼らの文化の幅広さと複雑さを理解するという点で、従来の態度を先取りしていた。

Portrait of the Dali's
Portrait of the Dali's in L'Instant Sublime, 1939

彼の写真集『ラミー砦の女』(1938年)には、並外れた共感と人間的関心が表れている。彼は出会った無数の服装の文化的意味を理解し、その隠された象徴性を十分に認識していた。著書の序文で彼は「いつの日か、黒い大陸全体が衣服に包まれ、比較的に平凡なものになったとき、これらの文書は、組織化された人工的な世界では決して見られない形や動きの自然さを明らかにし、興味を引くかもしれない」と書いている。1947年、カリフォルニア大学で教鞭をとることになり、亡くなるなるまでその職を務めた。1968年9月12日、ロサンジェルスで他界、68歳だった。現在、彼の写真はロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ボストン美術館などに収蔵されている。なお日本初の大がかりな個展が、東京・銀座のシャネル・ネクサス・ホールで3月31日まで開催中である。下記リンク先の記事は同展をキュレーションしたジョージ・ホイニンゲン=ヒューン・エステート・アーカイブス学芸顧問スザンヌ・ブラウンへのインタビューである。

gallery インタビュー:光を駆使したジョージ・ホイニンゲン=ヒューンはファッションアート写真の先駆者

2024年3月18日

マーガレット・バーク=ホワイト撮影のライフ誌創刊号カバーストーリー

Ruby's Place
Ruby's Place, liquor was also sold at a back bar, Fort Peck, Montana, 1936
liner
One-fourth of the Missouri River would run through this steel "liner"
bar Finis
Drinking at the bar Finis, Montana, 1936
Workers
Workers in one of the several frontier towns near the site of the Fort Peck Dam, Montana, 1936
>Bar X
Bar X, Fort Peck, Montana, 1936
worked on the construction
Men worked on the construction of Fort Peck Dam, Montana, 1936
Construction
Construction of Fort Peck Dam, Montana, 1936
>First LIFE cover November 23, 1936
First LIFE cover November 23, 1936 ©Margaret Bourke-White / LIFE

Margaret Bourke-White

アメリカのライフ誌(LIFE)は1963年11月23日に創刊された。創刊号といえば女性写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904-1971)が撮影した表紙の写真を思い起こす人が多いと思われる。ニューディール政策のひとつの事業として、ミズーリ川に建設されたフォート・ペック・ダムある。余りにも有名だが、創刊号の実物を手にしたことがないので、肝心のカバーストーリーの内容については全く不案内であった。しかし幸いなことにタイム社のページに41葉の写真と共に、マーガレットの述懐などが掲載されている。フォート・ペック・ダム建設は失業救済事業だったわけだが、活写された酒場に集う労働者の写真が興味深い。なお小型カメラによる撮影のようだが、ジゼル・フロイント著『写真と社会』(お茶の水書房)によると、ライフ誌は当初大判カメラによる撮影しか認めなかったという。この辺りの真相については再度調べてみようと思う。蛇足ながら私はかつて日本のグラフ誌の草分け、ライフ誌よりも歴史が古い『アサヒグラフ』の末席で写真を撮っていた時代があった。同誌は朝日新聞社が1923年1月25日から2000年10月15日まで刊行していた週刊グラフ誌(画報誌)である。日本における写真誌の草分け的存在で、数々の歴史的な報道や、その時代に代表される世相や風俗の特集記事を多数掲載、資料的価値も高い。大正デモクラシーから、戦前、戦中、戦後、高度経済成長、オイルショック、バブル崩壊、そして21世紀の幕開けまで、77年間の長期にわたり刊行を続けた日本を代表するグラフ誌の一つだった。しかし残念ながデジタル化されていない。自分が撮った写真がこのようにアーカイブされているライフ誌に関わった写真家たちが本当に羨ましいと思う。下記リンク先が同誌創刊号を飾ったマーガレット・バーク=ホワイトの作品アーカイブである。

LIFE  LIFE's First Cover Story: Building the Fort Peck Dam, 1936. Written by Ben Cosgrove

2024年3月15日

アイルランドの豊饒なフィドル音楽の原風景

The Enduring Magic
Robin Williamson  loupe

弦を弓で擦って音を出す、いわゆる擦弦楽器の起源に関しては諸説があるが、ブリテン諸島に現れたのは紀元前数百年、クリュース(crwyth)というハープを原型にしたものといういわれている。しかしながらこの楽器が歴史の中でいつまで受け継がれたかは不明である。一般に擦弦楽器はアジアの騎馬民族によってヨーロッパにもたらされ、各地方の民族楽器として浸透し、その後地域ごとに多種多様な発展をし多くの楽器群が出現したというのが定説のようである。フィドル(fiddle)とヴァイオリン(violin)は今日では楽器としては全く同じものを指すが、フィドルのほうが歴史が古く、ヨーロッパではレベック(rebec)あるいはレバブ(rebab)などを経てヴィオール属、ヴァイオリン属の楽器に変遷したといわれている。16世紀にほぼ完成されたスタイルで突如出現したイタリアのヴィオリーノ(小さなヴィオラ)がヴァイオリンである。似たような楽器だったがネックが丸く単音を弾けるようになったことなどから、ヴァイオリンがフィドルにとって代わる。そしてフィドルという言葉自体は、クラシック音楽のヴァイオリンと区別する形で、民俗音楽系の総称になる。アイルランド音楽ではいろいろな楽器が使われているが、昔から使われてきた楽器は、フィドルとイリアンパイプ、それにハープの3種類である。ヨーロッパではケルト系のアイルランドやスコットランドの、そして東欧系のロマ族すなわちジプシーのふたつ奏法に大きく分けることができるだろう。アイルランドからの移植者がアメリカに持ち込んだフィドルはカントリーやブルーグラス音楽の花形楽器になる。ちょっと扇情的な響きがするからだろうか、ときに「悪魔の箱」と呼ばれたりする。それではそのフィドルはいつごろアイルランドに伝わったのだろうか。スコットランドのロビン・ウィリアムソン(1943年生まれ)の "English, Welsh, Scottish and Irish Fiddle Tunes"(イングランド、ウェールズ、スコットランドおよびアイルランドのフィドルチューン)にその背景が記述されている。フィディル(fidil)という言葉がアイルランドの詩 "Fair of Carnan" に現れたのは8世紀ごろだという。

Map of Ireland

次に十字軍の時代(1096-1291)に現れたのが冒頭に上げたレベックである。別の史料としてアイルランドの放送ジャーナリストのフィオヌアラ・ウィルソンがアルスター・スコッチ協会のサイトにちょっと注目すべき論文を寄せている。彼女は1989年、アルスターの大学で音楽を勉強する間にアントリムで録音を含めたフィドルに関するフィールドワークをしている。論文の中で彼女は、現在とは形や大きさが違うだろうが、この地域にフィドルあるいはフィドラ(fidula)が11世紀に入ったと書いている。フィドルあるいはフィドラがすぐに引っ張りだこになった理由としてダンスからの希求であったという説明は説得力がある。それまでのパイプより息切れせずに長い間演奏できたからだというのだ。英国の支配によって苦しめられたアイルランドの農民にとって、ダンスが最大の愉しみであったことは容易に理解できるし、フィドルが急速に普及した点も容易に理解できる。製作技術の向上により安価で手に入るようになったこと、そして比較的小型の楽器だったので、持ち運びに便利だったことも大きな理由になったと想像される。ジャガイモの収穫期には労働者が行き交い、スコットランドとの曲目の相互伝播も盛んになったようだ。フィドルが農民にとっていかにポピュラーな楽器だったということは、アメリカ近代絵画のジョージア・オキーフ(1887-1986)の伝記からも伺い知ることができる。父親がアイルランドの小作農で、アメリカに入植してからもフィドルを手放すことはなかったようである。

Tommy Makem and the Clancy's website
Jack Makem (pipes) Tommy Makem (piccolo) Peter Makem (fiddle) ca.1954

アイルランドのダンス音楽における変遷で重要なのは、曲作りがペンおよび紙の上ではなく楽器自体で行われたことである。楽器を使った作曲は楽器そのものが持つ特性が直接影響を及ぼします。従ってパイプで作られた曲とフィドルで作られた曲はそれそれが特徴を備えているといえそうだ。クラッシックのヴァイオリン演奏家は左指をハイポジションに移動する必要があり、従って楽器を顎で支えます。ところがアイルランドのフィドラーはほぼ第一ポジションにとどまる演奏をしたため、極端な場合、楽器を腕まで下げて演奏した。がっちり確保する必要のない自由さはアイルランド特有のフィドルチューンを醸造したといえなくもない。この演奏法はアメリカのフィドルチューンに引き継がれた。アイルランドの伝承音楽は半ば閉塞状態にあった農村社会でゆるやかに蓄積されてゆく。その豊饒ともいえる伝承に変化を与えたもの、それは20世紀初頭のレコードとラジオの出現である。新しい伝達手段は居ながらにして他の地域の音楽を入手できるようになった。それはある意味では、その豊饒なる伝承の共有としては素晴らしいものがあるのだが、一方、地域独自のスタイルが斜いてしまったという弊害も否定できない。スライゴーに生まれ育たなくても、マイケル・コールマン(1891–1945)のようなスライゴー・プレーヤーを模倣するフィドラーの出現を可能にしてしまったのである。時計の螺旋を逆に巻くことは不可能だ。しかし逆にメディアの発達により、私たちは世界中の素晴らしい民俗音楽の手に入れることができるようになった。そして時系列の中でメディアが貴重な記録作業をしていることも忘れてはならないだろう。なお7下記リンク先の動画共有サイト YouTube でマイケル・コールマンの演奏を鑑賞できます。

YouTube  Michael Coleman: Bonnie Kate / Jenny's Chickens (Decca 12015) New York, Nov. 9, 1934

2024年3月12日

疲れた心に避難場所と慰安を与える英国の野鳥文学

birds
鳥たちをめぐる冒険/セルボーンの博物誌(講談社学術文庫)

フライフィッシング用の蚊鉤を巻いた経験がほんの少しあるものの、竿を手に水辺に立ったことはないのに釣り文学が好きである。カラスとヒヨドリとスズメくらいなら区別はつくものの、名前を覚えることが大の苦手なくせに、野鳥ないし博物学の本を読むのが好きだ。どうやら私は典型的なアームチェア・アングラー&バード・ウォッチャーのようだ。英国の政治家、エドワード・グレイ卿(1862-1933)の『フライ・フィッシング』を紐解くと、疲れた心に避難場所と慰安を与える本として、アイザック・ウォルトン(1593-1683)の『釣魚大全』は無論だが、ギルバート・ホワイト(1720-1793)の『セルボーンの博物誌』を挙げている。ちょっと意外に思われるかもしれないが、グレイ卿は釣りを趣味にした政治家として有名だが、鳥類学者でもあったのである。ギルバート・ホワイトは博物学者であるとともに、聖職者でもあった。セルボーンはングランドのハンプシャーにある小さな村で、アルトンの南3.9マイル、サウスダウンズ国立公園の北の境界内にある。

ラ・プラタの博物学者
ラ・プラタの博物学者(講談社学術文庫)

ここに生まれ育ったギルバート・ホワイトは牧師館に住み、村を歩いて野鳥などの生態を観察して二人の著名な博物学者ペナントとバリントンに届けた。だから『セルボーンの博物誌』はいわば書簡集で、それゆえかなり冗長な側面があるが、背後に繰り広げられる自然描写に癒される。その一方、グレイ卿は触れていないが、ウィリアム・H・ハドスン(1841-1922)の『鳥たちをめぐる冒険』に私は惹かれる。そのハドスンはアルゼンチン生まれの英国人で『ラ・プラタの博物学者』などで知られているが、鳥類学に長けていた。1978年に講談社から邦訳出版された『鳥と人間』も素晴らしい。終章のタイトルは「セルボーン」で、ホワイトの影響を強く感ずる書である。現在入手は困難のようだ。ハードカバーより持ち運びに便利な同社の学術文庫にリストアップされることを期待したい。鳥類学を含めた博物学に関しては岩波文庫版を複数所持しているが、青い背表紙の講談社学術文庫に親しみを感ずる。なお、かつては高価なハードカバーを購入していたが、昨今では文庫版のみに食指を伸ばすようになった。下記リンク先はハドスンが会員であった英国の RSPB(王立鳥類保護連盟)の公式サイトで、米国のオーデュボン協会と共にチェックを欠かせないサイトである。

rspb logo  Protection of Birds | Charitable Organisation registered in England, Wales and Scotland

2024年3月10日

クレジットカードのサインレス決済は安全か

credit cards
目覚ましいクレジットカードの利用者増加

官民一体となってキャッシュレス化を推進しているせいか、クレジットカードの利用者増加が目覚ましいようだ。その利便性向上のために普及しているのが、暗証番号の入力やサインが不要サインレス決済である。レジに行列ができやすい場所で、できるだけ客を待たせないための、ひとつの手段として導入されている。ただ紛失などによって不正利用される可能性もゼロではない。したがって決済金額の上限が設定されているし、換金し難い商品を扱っているンビニやスーパーなどが積極的に導入しているようだ。暗証番号の入力やサインが不要でスムーズな決済が可能な一方、いくつかの問題点も存在する。

セキュリティ面のリスク
サインや暗証番号による本人確認がないため、カードを盗難されたり、紛失したりした場合、不正利用されるリスクが高まる。特に、ICチップ搭載カードでも、磁気ストライプに情報が残っている場合は、偽造スキミングによって磁気情報を読み取られ、サインレス決済で不正利用される可能性がある。
利用金額の確認不足
暗証番号入力やサインの確認がないため、利用金額をしっかり確認せずに決済してしまう可能性がある。特に複数人で買い物をする場合や、タッチ決済を利用する場合は、合計金額を把握しにくくなる。
不正利用時の対応
サインや暗証番号がないため、不正利用された場合、利用者自身が不正利用を証明する必要がある。店舗やカード会社によっては補償を受けられる場合もあるが、証明が困難な場合もあり、泣き寝入りになってしまうケースも考えられる。
高額決済への利用制限
高額な決済には、セキュリティ上の理由からサインや暗証番号の入力が求められる場合がある。そのため、サインレス決済は少額の買い物に限定されることが多く、利便性が制限される場合がある。
全ての加盟店で利用可能ではない
サインレス決済は、加盟店が導入している必要がある。全ての加盟店で利用できるわけではなく、利用可能な場所が限定される場合がある。
心理的な抵抗感
セキュリティ面への不安から、サインレス決済に抵抗感を覚える利用者もいる。特に高齢者やセキュリティ意識の高い利用者にとっては、従来のサインや暗証番号による本人確認の方が安心できるという声もあるようだ。

サインレス決済は利便性が高い一方で、セキュリティ面のリスクなどいくつかの問題点がある。利用する際には、これらの問題点を理解し、注意を払う必要がある。

WWW  カードの歴史 | クレジットについて | カードの仕組 | カードの便利さ | 日本クレジットカード協会

2024年3月8日

未だに途絶えていないモノクロ写真の制作

>ポケモンセンター
ポケモンセンター(京都市下京区函谷鉾町)FUJIFILM X100F フィルムシュミレーション

デジタル写真が出現するずっと前、写真術がカラーから始まったとしたら、モノクロ写真は生まれただろうかと考えたことがある。絵画の世界の水墨画に相当する写真が誕生したかという点は興味深い。カラー写真術が生まれても、報道や広告写真などを除けば、芸術の世界ではモノクロ写真が主流だった。カラー写真が芸術として認められていなかった背景には、色の再現性や保存の問題といったその技術的な限界だけではなく、モノクロ写真が芸術的でカラー写真はそうではないという、根深い固定観念があったからかもしれない。ただしかし後述するように、フィルムからデジタルカメラに移行しても、モノクロ写真の制作が未だに途絶えていない。話は錯綜するが、1960年代後半から1970年代初めにかけて、アメリカの新しい世代の写真家たちが、カラー写真で作品を発表しはじめた。彼らの作品は「ニューカラー」と総称された。

ワウラ族
セバスチャン・サルガド「ピウラガ湖で漁をするワウラ族」(ブラジル)

デジタル革命により暗室は必要性を失い、明室でパソコンによる後処理をするようになった。プリントの作成はより速く、よりきれいになったが、常にカラー写真を扱うことを前提にしている傾向がある。しかしモノクロ写真に拘ってきた写真家は、デジタル時代になっても、モノクロ写真を制作し続けている。例えばブラジルのセバスチャン・サルガド(1944年生まれ)である。カナダのドキュメンタリー誌「Point of View Magazine」のインタビューに対し、2008年からデジタルカメラを使うようになったと答えている。2006年に発売された Leica M8 だと思われる。2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降、空港のセキュリティが変わり始め、グアテマラで仕事をした後、空港のX線検査で52巻のフィルムを失ったことがそのきっかけだった。パソコンでの編集の仕方がわからないので、助手に4x5インチのデジタルネガを制作して貰いプリントしたという。

Leica M11 Monochrom
Leica M11 Monochrom

モノクロ専用機 Leica M Monochrom が発売されたのは2012年だった。RGBのカラーフィルターがない分だけ高画質だった。現行機種 Leica M11 Monochrom の発売は2022年だが、サルガドが現在どの機種を使っているか不明である。CMOSセンサー6,000万画素、ライカストアでの価格は1,496,000円(税込)レンズは例えばアポズミクロンM F2.0/50mm が1,298,000 (税込)だから、併せると何と1,298,000 円也、庶民には手が届かない値段である。それでもモノクロ写真に拘る写真家には必携の道具となっている。アメリカ人写真家ピーター・ターンリー(1955年生まれ)もそのひとりで、最近ではロシア軍の侵攻で隣国ポーランドにに逃れるウクライナ難民を、ライカのデジタルカメラで撮影している。森山大道(1938年生まれ)はモノクロの詳細設定が可能なリコーのデジタルカメラを使っている。撮影方法はフィルムとデジタルで変わっただろうか。

彩度をゼロ
カラー画像の彩度をゼロにしてモノクロ化
時代祭で巴御前に扮した芸妓里美(京都御所)

雑誌のインタビューで「撮り方は変わらない。ただフィルムのときは撮り終わったらダンボールに入れて、200本、300本たまったらまとめて現像したけれど、今は撮ったらその場で見るし、すぐ消すこともある。フィルムはあとで現像したときに、おっ、と思う面白さがあったけれど、今はそれはないね」と答えている。私が所有している富士フイルムの X100F も同じような機能があり、同社の黒白フィルム PROVIA などをシュミレーションした撮影ができる。ただ、いずれもカラー写真を撮れるカメラで、RGBのカラーフィルターがない Leica M11 Monochrom には太刀打ちできない。レタッチソフトでモノクロ化が広く使われていると思われる。例えばアドビ社の Photoshop ならカラー画像の彩度をゼロにすれば、モノクロ写真が至極簡単に出来上がる。下記リンク先は、デジタル時代のモノクロ写真の品質をいかに優れたものにするか、撮影からパソコンの画像処理まで、その達成方法のコツを解説した記事です。

camera  Kent DuFault |Taking a Black and White Photo in the Digital Age | ExposureGuide.com

2024年3月5日

愛欲を生じて吉祥天女の像に恋ひ 感応して奇き表を示しし縁

浄瑠璃寺吉祥天像

遥か昔、2016年7月に「秋篠寺伎芸天像の妖艶」という一文をポストしたが、その時に薬師寺の僧、景戒(生没年不詳)が787年(延暦六)に著した『日本霊異記』の中のエピソードを織り込むかちょっと迷ったが、筋書きが錯綜するので見送った。つまり拙文に「私は強烈なエロティシズムをこの像に感じてしまったのである。いつの間にか天女の裸体を、生身の裸体を想像していた私に、私自身が驚愕する」と書いた。これはあくまで秋篠寺伎芸天像の妖艶についての記述であった。この下りで『日本霊異記』の「愛欲を生じて吉祥天女の像に恋ひ、感応して奇き表を示しし縁 第十三」を思い出したからだ。

聖武天皇の御世、信濃の国の優婆塞(うばそく)その山寺に来り住し、天女の像を睇(み)て愛欲を生じ、心に繋けて恋い、六時(晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)ごとに願いていわく、天女のごとき容(かお)好き女を我に賜へという。優婆塞、夢に天女の像に婚(くなか)うと見、明日睇れば、その像の裙(も)の腰、不浄に汚せり。

中田祝夫氏の現代語訳によれば、ある修行僧がある夜、天女の像と交接した夢を見た。あくる日天女の像を見回すと、裳の腰のあたり、不浄の物が染みついて汚れていたので、恥ずかしさのあまり「わたしは天女に似た女が欲しいと願っていたのに、どうして畏れ多くも天女ご自身がわたしと交接されたのでございますか」とつぶやいた。後日、師に追われた弟子が、師の悪口を言い、吉祥天女との情事を暴いた。この話を聞いた里人が確かめると、その像は淫水で汚れていた。修行僧は隠しきれず、理由を説明した。深く信仰すると、神仏に通じないおとがことはないということがわかった。『涅槃経』に「多淫の人は絵に描いた女にも愛欲の情を起す」というのは、このことをいうのである。

中田祝夫訳注『日本霊異記』上・中・下(講談社)

この吉祥天女像は和泉国泉郡、現在の和泉市の山寺にあったものだが、私は京都府木津川市の浄瑠璃寺のそれを拝観したことがある。内陣は暗く懐中電灯を頼りに厨子の中の天女を覗き込んだ。胡粉で塗られた肌はあくまで白い。柔らかくふくよかな頬、弓のようなくっきりした眉。そして何よりも好ましいのは、その小さな朱の唇だ。豊満な、つまりグラマーな肉体は、色鮮やかな、唐の貴婦人をイメージする盛装に包まれている。まさに薬師寺に伝わる吉祥天画像の立体化、具現化をここに見ることができる。ひときわ鮮やかなのは、腰に着けられた白い帯である。いや、色彩がではない、目に鮮やかなのだ。妖艶とでも表現するのだろうか、ふくよかな肉体のラインを見せる帯のカーブは、性的なもの以外の何物でもないだろう。仏教の初期において、性愛に関しては激しい戒律があった。釈尊は出家者に対し性交を厳しく禁じた。その雰囲気はとくに小乗仏教に濃厚な色彩で残っている。釈尊は人間の欲を戒めた。欲と言うのは人間を堕落せしめるもので、とりわけ性欲は脱却しにくいゆえ、そうしたのだろう。性欲は人間の自然な発露であり、ことさら禁ずるのはおかしいと思う。おそらく仏教の戒律というのは、ある種の歯止めを作ったのではないかと思うのである。現代では仏像や仏画がポルノグラフィーになるとは考え難いけど、吉祥天女像と夢の中で交接、射精した僧の逸話は、極めて人間的だと感心する。

buddhism

なお下記リンク先はマーク・シューマッハ氏編纂の仏像辞典(英文)掲載の「吉祥天」の解説である。仏像について英文で記述したい際に役立つサイトです。

  Goddess of Beauty, Fertility, Prosperity, and Merit, Also spelled Kichijoten, Kisshōten.