2021年8月28日

失敗に終わったアフガニスタン退避作戦

C-130

朝日新聞8月28日付け電子版によると、外務・防衛両省は27日、アフガニスタンにいる日本人や日本大使館の外国人スタッフらの退避をめぐり、自衛隊の輸送機で日本人を近隣国に運んだと発表した。退避者は1人で退避先は拠点としたパキスタンの首都イスラマバード。アフガニスタン人は運べなかった。自衛隊機による移送は同日で終わりになる見込み。政府は移送対象として、国際機関で働く日本人のほか、大使館やJICA(国際協力機構)の現地スタッフらとその家族を想定。約500人規模とみており、カブールとイスラマバードの間をピストン輸送する計画だったという。日本人大使館職員12人は17日にすでに英軍機でドバイに脱出している。また関係筋によれば、JICAの日本人職員たちも全員アフガニスタン国外に退去した。一方毎日新聞27日付け電子版によると、政府は、即時退避を希望しなかったごく少数の日本人が現地に残っているとしているそうだ。引き続き退避活動を続けるなら、対象の大部分はアフガニスタン人ということになる。彼らを難民とし日本国内に受け入れるには様々な問題が山積している。どうするのか、明確な計画は公表されていない。また28日付け時事通信電子版によると、欧州各国は27日、自国民や現地協力者とその家族を退避させる作戦を相次いで終了させたという。イタリアのディマイオ外相は希望する自国民に加え、アフガニスタン人約4,900人を退避させたと明らかにした。スペインのサンチェス首相は、想定の3倍の2,200人以上を退避させたと表明し「アフガニスタンの人々を見捨てない」と語った。ノルウェーのエーリクセン・スールアイデ外相は、27日に最終便が首都オスロに到着したと説明、タリバンが権力を掌握後、退避できた人は1,100人以上に上ったという。日本政府の退避作戦は遅きに失した感があり、失敗に終わったと言える。

2021年8月26日

菅義偉コロナに死す

Cartoon by Bart van Leeuwen

イラストはオランダの風刺漫画家バート・ヴァン・リーウェイン氏の作品で「横浜市長選挙において、菅義偉首相に大きな打撃を与えたのは、野党が支持する山中竹春氏だった。有権者は、菅首相と政府のコロナウイルス対策に強い憤りを感じていた」という説明がついている。海外の作家による菅義偉の風刺漫画は珍しい。大物政治家ほど風刺漫画の題材になりがちなので、おめでとうと言いたい。菅義偉が強く推した小此木八郎元国家公安委員長が敗れたと報じられた時、多くの有権者は「菅首相は終わった」と思ったに違いない。ところが安倍晋三や二階俊博、石破茂までが「続投」を容認したようだというのである。実に不思議な自民党の政治力学ではある。しかし国民はその欺瞞をしっかり見ているはずである。

coronavirus

政府は昨25日、新型コロナウイルス感染症対策本部を首相官邸で開き、緊急事態宣言の対象地域として、北海道、宮城、岐阜、愛知、三重、滋賀、岡山、広島の8道県を追加し、まん延防止等重点措置を、高知、佐賀、長崎、宮崎の4県に新たに適用することを決定した。そして夜の記者会見で、菅義偉は宣言などの解除後には「ワクチン接種証明書の積極的な活用を含め、飲食店の利用など日常生活や社会経済活動の回復もしっかり検討する」と述べ、ワクチンについては「9月末には全国民の6割近くが接種を終え、現在の英国や米国並みに近づく」「明かりははっきりと見え始めている」と強調した。いささか楽観に過ぎた発言で鵜呑みにはし難い。大多数の国民の感情を無視、東京オリンピックおよびパラリンピックを強行、コロナ対策は後手後手で、医療体制が崩壊している。コロナによって首相としての菅義偉が死に体であることは明白である。

官邸  新型コロナウイルス感染症に関する菅内閣総理大臣記者会見 | 首相官邸 | 2021年8月25日

2021年8月23日

ロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し

Lella
「ボートに乗ったレラ」フランスのブルターニュ(1947年)

フランスで最も有名なロマン派写真家であるエドゥアール・ブーバ(Édouard Boubat)は、1923年、モンマルトルのシラノ=ド=ベルジュラック通りで生まれた。コックとして従軍した父親から第一次世界大戦の話をたくさん聞いた。エスティエンヌ美術学校でタイポグラフィとグラフィックアートを学び、印刷会社で働く。

「枯れ葉を持つ少女」1947年

1943年に召集され、ドイツ・ライプツィヒの工場で2年間の強制労働に従事することになった。1946年にパリに戻ってきたブーバは、6冊の辞書を売って、最初のカメラである6x6のローライコードを購入する資金に充てた。リュクサンブール公園で撮影した「枯れ葉を持つ少女」をフランス国立図書館が主催する国際写真サロンにこの写真を出品し、コダック賞を受賞する。驚くべきスタートを切ったのである。ローライコードを購入した同じ年に、ブーバは後に妻となるレラと出会い、彼女のために20世紀を代表する美しい写真を撮影する。ブーバの写真への取り組みは、第二次世界大戦の影響を強く受けている。「戦争を知っているから、恐ろしさを知っているから戦争を増やしたくないから。戦後、私たちは人生を祝福する必要があると感じた。私にとって写真はそのための手段だった」と述懐している。1950年、1950年、ブーバの作品はスイスの『カメラ』誌に掲載されたが、その後、フランスのニュース雑誌『リアリティーズ』のアートディレクターと知り合いになった。それ以来、ブーバはこの雑誌のために世界中を旅した。貧しい地域や荒涼とした地域での撮影が多かったが、愛と美だけはしっかりと捉えていた。フォトジャーナリストとしての彼の特別な才能は、世界中の人々の日常生活をつなぐ共通の糸を見つけることだった。

 Zen Garden in Kyoto
「石庭で瞑想する禅僧」京都(1974年頃)

ブーバにとって、写真とは同胞との出会いであった。彼は人間を撮影することを愛していた。彼の写真は彼が被写体との間に持っていた特別な関係を物語っているのである。「我々は生きた写真である。写真は私たちの中にあるイメージを明らかにする」とコメントしている。1968年にブーバは『リアリティーズ』誌を離れたが、その後も独立して活動を続けた。彼は人生の感動と美しさを私たちの視線に届けるために、たゆまぬ努力を続けた。アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908–2004)の「決定的瞬間」の後継者と言われるブーバは、真の巨匠の確信に満ちた眼によってのみ不滅のものとなる、一瞬の魔法のような瞬間をとらえる稀有な才能を持っていた。

Hommage au Douanier Rousseau
「ドゥアニエ・ルソーへのオマージュ」パリ(1980年)

1999年にパリで亡くなったブーバは、素晴らしい写真集を残しているが「一生の間に、すべては偶然の出会いと特別な瞬間によって織り成されていることに気づいた。写真はその瞬間を深く洞察し、世界全体を思い起こさせてくれる」語っている。フランスの詩人ジャック・プレヴェール(1900–1977)は、ヒューマニストであり、非政治的であり、高揚感のある被写体を撮影することから彼を「平和特派員」と呼んだ。

gallery  Photography and Works by Édouard Boubat | Holden Luntz Gallery Palm Beach, Florida

2021年8月18日

アフガン人640人の劇的な退避作戦

C17
カブールからカタールに向け出発した米空軍の大型輸送機の機内

写真は2021年8月15日深夜に米空軍の大型輸送機 C17 グローブマスターIII の内部で撮影されたもので、軍事ニュースサイトのディフェンス・ワン(Defense One)が入手し、公開、インターネット上で大きな反響を呼んだ。クレジットの明記はないが、乗組員の撮影だろう。米空軍提供と書かれてないのは、何らかの事情があったと思われる[*]。フォトジャーナリストが撮った写真ならピューリッツァー賞に値する傑作ではある。2013年に設立されたディフェンス・ワンは、ワシントンのシニアリーダーから海外の指揮官、国家安全保障の専門家や関係者による、市民が知るべき軍事情報を提供しているという。同サイトによると、米空軍の輸送機 C-17 が日曜日の深夜、カブールから約 640 人のアフガニスタン人をカタールに避難させた。

KamAirA340
カーム航空が運航する「エアバスA340型機」の屋根に登った人たち

米国とその同盟国によって30年近くにわたって運用されてきた巨大な軍用貨物機である C-17 に搭乗した人数としては、史上最多であると考えられる。飛行追跡ソフトによると、この輸送機はデラウェア州のドーバー空軍基地を拠点とする第436航空団に所属しているという。情報提供や教育を目的としたニュースプラットフォーム、ハミングゾーン (Humming Zone) のブログによると、乗務員はこれほど多くの乗客を乗せるつもりはなかったが、パニックになったアフガニスタン人が半分開いたタラップに押し寄せたのが、余剰の乗客を追い出すことよりも「出発することを決断した」そうだ。アフガニスタンの人々は、飛行機の整備場の地面に座り、仕切りについている貨物用のストラップをシートベルト代わりにしていたという。この輸送機はカブールから多くの乗客を乗せて離陸した、数ある飛行機のうちのひとつだった。

[*] 大手通信社が写真の配布を始めたので "Capt. Chris Herbert US Airforce/AFP" といったクレジット表記を新聞・雑誌・放送メディアがするようになった。(8月18日午後)

YouTube  アフガニスタンから脱出しようとカブール空港で離陸する米軍機に命懸けで追いすがる人たち

2021年8月15日

五山送り火を支える無名寺院の信徒たち

護摩木(京都市北区金閣寺町)

京都五山送り火の左大文字護摩木志納のため鹿苑寺(金閣寺)に出かけた。しかし昨年に続き、今年も受け付けは中止だった。写真は3年前に撮影したものである。後述水上勉氏の随筆にあるように左大文字の護摩木は、法音寺という小さな寺院の信徒たちが山に登って焚く。同寺は狭いし世間に場所も知られていない。従って観光客が多い鹿苑寺境内で毎年志納受付をする慣わしになったのだろう。水上勉氏の随筆を引用しよう。如意ヶ嶽の大文字を守っている浄土院でいただいたパンフレットに復刻されていたもので、単に雑誌「PHP」11月号とあるだけだが、古都税紛争一時和解、御巣鷹山日航機墜落事件に触れているので、1985年と推測できる。

「五山の送り火」水上 勉(作家)

ことしは久しぶりに京五山の送り火を拝んだ。周知のように五山とは、如意ヶ嶽の大文字、松ヶ崎東、西山の妙法、船山の舟、大北山の左大文字、鳥居本の曼荼羅山の鳥居である。十三日の盆に、祖先の精霊を迎えた京の家では、仏壇に供物をならべて念仏申しあげ、家内安全息災を祈願するとともに、精霊を弔うのだが、十六日にはその精霊が、ふたたび彼岸へ帰ってゆくのを送らねばならない。火はつまり、その仏徒たちの昔から行ってきた精霊送りだ。調べてみると、これらの火は、五山の保存会のメンバーによって焼かれ、一般の人は仲間に入らない。昔から寺の信徒にその役があり、しかも、若衆と呼ばれた青年たちによって、焼かれるところもある。不思議なことに、それらの寺は有名寺院ではない。有名寺院といえば、京都ではみな観光寺院になってしまうが、火を焼く寺は、殆ど観光とは無縁といっていいだろう。まず銀閣寺前にある浄土寺が如意ヶ嶽の大文字を焼き、松ヶ崎は湧泉寺、船山は西方寺、大北山は法恩寺、鳥居本には寺はない。古くからの保存会員の持ち山で、町衆が焼くそうだ。焼かれる護摩木は寺でつくられ、寺に詣でた善男善女が、新仏の法名や、俗名を書いて護摩料を払うのである。

絵・水上勉

新仏が出なかった家は、先祖代々の霊だとか、一家の安全息災を祈ることばを書く場合もある。いずれにしても、これらの木をあつめて、背負って山へのぼり、汗だくになって焼く人々はむな、無名の信者たちである。この行事が何百年とつづいて、今日も燃えつづけた。なかった年は、敗戦の年とその翌々年までの三年だけで、昭和二十三年から休んだことがない。つまり、仏を送る信心に休みがないということであって、本心は、敗戦の年まわりこそ、大勢の死者が広島や長崎にあふれ、爆災都市にも、たくさん焼死体がころがっていたのだから、京の町衆は送り火だけは焼きたかっただろう。ところが占領下であったために、遠慮しなければならなかった、とつたえられる。それにしても、この行事が、古くからの信者たちによって、手弁当で行われてきたことに私は心を打たれる。今は京の観光の目玉ともなり、どのホテルも満員の外来を迎えてほくほくだが、じつはその送り火そのものは、観光と無関係に、信心の証として、保存会の家々がうけついできている。そこで、思うのだが、私たちは、大文字といえば銀閣寺を頭にうかべ、左大文字といえば金閣寺を頭にうかべ、有名な相国寺派別格地の両寺が焼くように思いがちだ。そうではない。護摩木は観光客に売りはするけれど、山へぼって焼くのは、ほかの寺の信徒がやっていたのである。しつこいようだが、このことにこだわるのは、凡庸な俗界にあって、信心の火を観光寺院に見ることが出来なくなった、ということを、五山の火は教えたからである。伝によれば、如意ヶ嶽の大文字は、銀閣慈照寺を創建した足利義政がはじめたともいう。

とすれば銀閣寺はやはり、火の元だったわけだが、いまは門前の浄土寺が、汗だくになって護摩木を背負いはこび、当夜は、弘法大師像を安置するカナオの堂前で、誦経をし、住職の合図で火がつけられる。ことしの送り火はいろいろのことを考えさせられた。銀閣寺も金閣寺も古都税問題で、(つまりゼニのことで)門を閉めて人を入れなかったりした。ところが、どういう相談ができたか、急に市当局と握手して、門がひらかれた。門をひらくことは賛成だが、なぜ門をしめたのか、庶民にはよくわからなかった。法灯を守るというのが理由のようだった。だが十六日の法の火は、観光とない信心の徒をあつめる無名寺院が汗だくで焼いていたのである。送り火は死者を送るのだから、生者のよろこびだ。生者といっても、いつ朝霧の如き命を落とさねばならぬかわかったものではない。安全と信じた大型飛行機が、とつぜん五百名以上の乗客もろとも、山にぶっつかって燃えあがるこの頃である。われわれはコンピューター文明の世を生き、平和だといっている。一億総中流だともいっている。寿命ものび、老後に年金も入り、ゲートボールも楽しめ、しあわせな国に生きている思いが国民の大半を占めている、ともいう。本当にそのように平穏だろうか。五山の送り火は、何百年と同じ火を燃やしてながら、新しい何かを私にささやいた。何をささやかれたかを語るには枚数が足りない。火を拝んで、私は今日つかのまを生きておれたことを感謝したとだけいっておく。

文中の浄土寺は浄土院(左京区銀閣寺町)法恩寺は法音寺(北区衣笠街道町)。これを読むと京都の五山送り火は、無名寺院の信徒、町衆の信仰によって守られてきた宗教行事であることがしみじみと理解できる。送り火を見物に大勢の観光客が京都にやってくるが、夏の夜空を彩る観光イベントではない。お盆にこの世に戻った精霊を再び冥府に還すため、静かに手を合わせる、あくまで宗教行事であることを忘れてはならない。

京都観光NAVI  令和3(2021)年度 「京都五山送り火」について | 京都市観光 MICE 推進室京都観光 NAVI

2021年8月12日

トランスジェンダー写真家ピーター・ヒュージャーの眼差し

Ethyl Eichelberger as Minnie the Maid
メイドに扮したエチル・アイケルバーガー(1981年)

ピーター・ヒュージャー(1934–1987)はトランスジェンダーで、エイズで他界したという点でロバート・メイプルソープと共通している。死後「20世紀後半の主要なアメリカ人写真家のひとり」そして「最も偉大なアメリカ人写真家のひとり」として認められてきた写真家で、日本でもその名がやっと浸透しつつある。広告写真家のアシスタントとしてキャリアをスタートし、その後5年間「ハーパーズ・バザー」や「GQ」といった雑誌のための写真を手がけたところで、ファッション写真は自分に不向きと確信した。自由のない商業写真を放棄し、39歳の時からアーティスト活動に専念する。1970〜80年代のニューヨーク、イーストヴィレッジのアンダーグラウンドを舞台に、作家のスーザン・ソンタグやウィリアム・バロウズ、アーティストのルイーズ・ネヴェルソン、トランスジェンダーのパフォーマーなどを撮影した。勃起したペニス、手淫で射精する瞬間など過激な写真を残しているが、私は彼の動物写真に注目している。

Doves — The Circus 1973
サーカスの鳩(ニューヨーク 1973年)

ヒュージャーはボヘミアンなニューヨークを代表する写真家となる前は、農家の少年だった。ニュージャージー州トレントンでアルコール依存症の母親のもとに生まれた彼は、11歳になるまで半農半漁のユーイング・タウンシップの祖父母のもとで育てられた。祖父母の農場で、彼は動物への深い愛情を育み、それが彼の最初の、そして最も永続的な写真の被写体となった。彼の動物の写真は豊かで多様な作品の中でもあまり知られていないが、ニューヨークモルガン美術館が企画した巡回回顧展のおかげでようやくその価値が認められるようになった。ダイアン・アーバスとロバート・メイプルソープは、社会の片隅にいる人物に魅了されるという点で、ヒュージャーと共通している。しかしアーバスが自分の疎外感を表現するために被写体を代用したり、メイプルソープが被写体をプラトニックな美しさの領域に押し込めようとしたりしたのに対し、ヒュージャーはカメラを使って被写体とのつながりを作り、被写体を真に見てもらうことで被写体を高めたのである。泥だらけの野原をよちよちと歩くガチョウや、車のタイヤの下に隠れているウサギなど、様々な動物にカメラを向けているが、サーカスの鳩が好きである。広いテントの片隅だろうか、カメラの後ろの彼の存在を感じるのである。なお下記リンク先のサイトで、きわどい被写体の作品を含め、その概要を観賞できる。

museum  Peter Hujar Archive | 12 East 86th Street #1424 | New York, NY 10028 | 212-249-7199

2021年8月10日

東京オリンピック負のレガシー

Cartoon by Amorim

オリンピック開催強行を批判してきたので、テレビ観戦とは無縁だったが、閉会式だけは例外だった。しかし余りにも冗長な演出に呆れ、途中でスイッチを切ってしまった。ただネットニュースだけは目を逸らすわけにもいかず、溢れかえる「美談」に辟易とした。競歩やマラソン会場では沿道に人が溢れ、閉会式では中に入れるわけでもないのに、大勢の人たちが競技場周辺に詰めかけたようだ。これは予想通りではあった。メダル獲得数より、大谷翔平のホームラン数のほうが気になる人がいるかもしれない。やはりオリンピックは日本人にとって大きなスポーツ催事であることが、改めて示されたわけだが、アスリートのお祭りに終わったという感も否めない。近代オリンピックは教育の革新とスポーツ教育の重要性を主張した、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵(1863-1937)の提唱によって、第1回大会が1896年にアテネで開催された。

Olympic fire

第5代国際オリンピック委員会の会長に就任したエイベリー・ブランデージ(1887-1975)はアメリカ合衆国のスポーツ選手で、親ナチス的、反ユダヤ的な態度をとった、人種主義者とも取れる問題が多い人物だった。第7代会長はスペインのフアン・アントニオ・サマランチ侯爵(1920-2010)で、オリンピックの商業化とプロ化を推し進めた。スペインの独裁者フランコの支持者で、ファシスト政党の党員だった。彼が推薦したのがトーマス・バッハ(1953年生まれ)の現会長である。新型コロナウィルス感染拡大を恐れる人々の心情を逆撫でする言動が顕著だった。追随した日本政府も含め、この事実は負のレガシーとして忘れてはならない。大会開催が人々の気を緩め、東京の医療崩壊の導火線となった可能性も否定できないだろう。今後維持できなくなる新設競技会場も多く、ネガティブな遺産となるだろう。当初の予算を大きくオーバーした費用が大会につぎ込まれたがこのツケは税金となって跳ね返ってくる。つまり「やって良かった」は大いなる勘違いなのだ。

magazine  東京オリンピックは成功したのだろうか? | 東京大学講師 フィリップ・パトリック(英文)

2021年8月4日

マザー・メイベルとカーター・シスターズ物語

Mother Maybelle and her daughters (L-R) Helen, Anita and June 1946

国境を超えたメキシコのボーダーラジオ局 XERA で演奏した数回の冬と、ノースカロライナ州シャーロットのラジオ局 WBT で演奏した戦時中の1年を経て、オリジナル・カーター・ファミリーは16年間に渡る活動のあと、1943年に解散した。サラは新しい夫と一緒にカリフォルニアに移住、A.P. はヴァージニア州メイセススプリングに食料品店を開いた。メイベルと娘たち、ヘレン、アニタ、ジュ―ンは、父親のエズラの励ましとツアーサポートを受けながら自分たちのカントリー音楽活動を確立していった。メイベルとカーター・シスターズのレパートリーは、カーター・ファミリーの人気曲だけでなく、当時のポピュラー・サウンドにも及んでいた。メイベルのアイコンであるFホールの L-5 ギブソンギターは、グループのリード楽器のひとつだった。またメイベルは本来ラップトップであるオートハープを腕に抱え、親指と人挿し指でメロディーと伴奏を演奏する方法を考案した。ヘレンは当時のカントリーミュージックで頻繁に使われていたアコーディオンを演奏していた。1949年にはテネシー州のチェット・アトキンスが、フィドルとフィンガースタイルのエレキギターで、グループの最初の家族以外のメンバーとなった。ジューンはエネルギッシュなコメディーを加え、母と姉妹はキラキラとした笑顔で甘いトリオハーモニーを歌った。ヴァージニア州リッチモンドの小さなラジオ局 WRNLで3年間活動した後、リッチモンドでは5万ワットの WRVA のオールド・ドミニオン・バーンダンス、ノックスビルでは WNOX のミッドデイ・メリーゴーランドなど、活動の場を広げていった。1950年にはナッシュビル WSM 局のグランド・オール・オプリーへと大きなステップを踏み、その後すぐにビクターとコロンビアのナショナル・レーベルと契約した。メイベルは、ヴァージニア州で勤勉さを身につけて育ち、旅の戦士として活躍した。グループのツアーカーを長時間運転し、衣装や音楽的な問題を管理した。

Mother Maybelle and the Carter Sisters with Chet Atkins 1950

ビジネス上の決定はエズラが行い、3人が結婚するまで娘たちのソロ活動を見守っていた。60年代に入ると、メイベルは自分のスタイルを見失い、娘たちも他の音楽活動や家族の活動に夢中になっていた。週末にオプリーに出演しながら、パートタイムの准看護師として高齢者の世話をしていた。そして新しい世代に「フォークリバイバル」運動が起きた。彼らはカーター・ファミリーの歴史的な録音とクラシックなスタイルに注目、そして第2期のカーター・ファミリーの人気が再燃するきっかけとなった。ニューポート・フォーク・フェスティバルや初期のブルーグラス・フェスティバルなどで、ギターやオートハープの演奏を披露し、全国的な出版物のインタビューを受けていた。引退していたサラは、メイベルと一緒にアルバムを制作したり、何度か共演したりするように説得された。しかし最大のチャンスは、メイベルのカントリーやフォークでの名声と、ジョニー・キャッシュが娘のジューンに興味を持ち始めたことが重なり、マザー・メイベルとカーター・シスターズが、自己完結型のジョニー・キャッシュのツアーパッケージ、そして最終的には彼のネットワークテレビ番組に出演するという長期契約を結んだことだった。60年代半ばから70年代前半にかけて、彼女たちはジョニーのバックで歌い、自分たちのセットを披露した。しかし指の関節炎の痛みを感じたメイベルは、リードギターを娘のヘレンに譲り、オートハープを中心に演奏するよになった。エズラが亡くなる少し前の1975年に、メイベルは娘たちやジョニー・キャッシュ、チェット・アトキンスらの反対を押し切って、音楽活動からの引退を決意した。彼女はフロリダのセカンドハウスで過ごす時間を増やし、友人たちとビンゴやトランプ、賭け金の少ないギャンブルなど、活発な社交生活を楽しんだ。1978年、彼女の容態が深刻な状態になり、その年の10月23日に静かに眠りについた。彼女の死は全米で注目されたが、物腰が柔らかく勤勉で、愛されていたメイベル・カーターは、自分が世界の音楽遺産に与えた影響の大きさを十分に理解していなかったのかもしれない。

radio  A Lifetime Of Labor: Maybelle Carter At Work by Jessica Wilkerson | National Public Radio

2021年8月1日

ピクトリアリズムとは何だったのか

Alfred Stieglitz
Alfred Stieglitz - Night Reflections, 1897

ピクトリアリズム(絵画主義写真)という呼び方は、その技術や美学に関する19世紀の最も影響力のある著作のひとつである、ヘンリー・ピーチ・ロビンソン(1830–1901)の "Pictorial Effect in Photography"(1869年)に由来する。ロビンソンは芸術としての写真と、さまざまな科学的、記録的目的のための写真とを分離することを主眼としていた。同時代のイギリスの写真家ピーター・ヘンリー・エマーソン(1856–1936)もまた単なる客観性ではなく、個人的な表現を重視した写真を模索していた。彼の作品は、主に風景を撮影し、自然の中の雰囲気を再現することを目的としていた。しかし、ピクトリアリズムが普及し始めたのは、1900年代初頭のことだった。これは、初期のコダック社製スナップショットカメラの登場と、アメリカの著名な写真家であるアルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)が芸術家仲間を集めて行った活動の成果である。このグループは「フォトセセッション」と呼ばれる独自の写真運動を展開し、写真を絵画と同様に表現力のある意味深いメディアとして普及させることを主な目的としていた。スティーグリッツは、構図、色、階調などに細心の注意を払い、現実を超えた夢の領域に近いものを捉えようとしていた。

Clarence H. White
Clarence H. White - Morning, 1905

エドワード・スタイケン(1879–1973)やクラレンス・ホワイト(1871–1925)といった他のピクトリアリストとともに、スティーグリッツは写真に対する認識を根本的に変えることに貢献し、1世紀以上後にこれらの異世界の芸術作品が大量に販売される土壌を作ったのである。ピクトリアリズムの歴史の中で最も重要な出来事のひとつは、1910年にニューヨーク州バッファローのオルブライトギャラリーがスティーグリッツから15枚の写真を購入したときのことである。これはギャラリーが写真の価値を認めた最初の出来事であり、このアプローチは、多くのアートコレクターや組織に影響を与える強力な変化をもたらした。ピクトリアリストは、いわゆるストレートフォトグラファーとは異なり、様々な印刷プロセスを綿密に試すことで知られている。彼らは普通のガラス板やネガから始めて、印画紙の選択や、効果を強めたり弱めたりするための化学的処理にこだわっていた。同じ理由で、ピクトリアリストの中には特殊なレンズを使ってソフトな画像を作る人もいたが、後処理でピントをソフトにすることが最も一般的な方法だった。これらの革命的な芸術家の多くは、普通の写真家が複雑すぎる、あるいは信頼できないと考えていた代替的な印刷プロセスを使用していたことが知られている。例えば絵画派の人々は重クロム酸ガムを好んで使っていたが、これは化学薬品を何層にも重ねる珍しい方法で、水彩画のような絵画的な画像を得ることができた。写真家がプリントの明るい部分を選択的に操作し、暗い部分はそのままにしておくことができるので、非常に便利なものであった。

Edward Steichen
Edward Steichen - The Pond, Moonlight, 1904

これらの限界的なアプローチに加えて、ピクトリアリストは、シアノタイプやプラチナプリントのような、より一般的でありながら芸術的な手法に頼っていた。しかし第一次世界大戦末期には、スティーグリッツとスタイケンは、絵画的な写真のイメージを払拭し、現実世界の抽象的な形態や色調の変化を忠実に表現するという写真本来の力を発揮することを目指すようになった。新たな一歩を踏み出したことは、芸術におけるモダニズムという世界的な現象への一歩であり、ふたりはその流れを汲んで最高の作品を生み出した。スティーグリッツは1917年に「フォトセセッション」と「カメラワーク」を解散したが、ガートルード・ケーゼビア(1852–1934)アルヴィン・ラングダン・コバーン(1882-1966)クラレンス・ホワイトは、1916年に「ピクトリアル・フォトグラファーズ・オブ・アメリカ」という組織を設立し、世紀初頭の写真制作を続けていた。そして「フォトセセッション」のメンバーはそれぞれの道を歩んだが、彼らはいずれも写真の表現力を確立し、世界の輪郭を再現するだけではない写真の価値を示すことに貢献した。ピクトリアリズムの作品は、画家のキャンバスのように美しく描かれ、グラフィックアーティストの構図のように巧みに構成されている。写真のネガの情報を操作することで、私たちのイメージに独自の感性を吹き込み、絵画的な意味を持たせていたのである。

museum  Pictorialism in America by Lisa Hostetler | New York Metropolitan Museum of Art