2024年5月22日

先駆的なグラフ誌『ピクチャー・ポスト』を主導した写真家バート・ハーディ

Fire-Fighters
Firefighter on the Ladder, during the Blitz, London, February 1, 1941
Bert Hardy

ロンドンのブラックフライアーズ地区で1913年5月19日に生まれたバート・ハーディは質素な労働者階級出身だった。7人兄弟の長男だった彼は、14歳で学校を辞め、写真の加工も手がける化学者のもとで働いた。1936年、シルバー・ジュビリーの祝典の際に、通りすがりの馬車に乗ったジョージ5世とメアリー王妃を撮影し、国王を捉えたベスト判の小さなプリント200枚を販売、これが彼の最初の大きな収入となった。23歳のときの最初の仕事は、メイフェア・ホテルでハンガリー人俳優サコールを撮影することだった。ハーディは雑誌『自転車』とフリーランス契約、初めて35ミリの小型カメラ、ライカを購入した。ライカ写真家としてジェネラル・フォトグラフィック・エージェンシーと契約し、後に自身のフリーランス事務所クライテリオンを設立する。1941年、1930年代から1950年代を代表するグラフ誌『ピクチャー・ポスト』の当時の編集者トム・ホプキンソンにスカウトされる。同誌は1938年から1957年まで英国で発行されていた写真を中心にした雑誌である。フォトジャーナリズムの先駆的な例とされ、わずか2ヶ月で週100万部を売り上げるなど、たちまち成功を収めた。米国の『ライフ』誌に相当する雑誌と呼ばれている。ハーディの写真家仲間は、競争相手ではなく、一緒に取材に出かける同僚として働いた。

Carriage Ride
Young boys run to hitch a ride on a carriage in London, 1941

フェリックス・H・マン(別名ハンス・バウマン)、ジョン・チリングワース、サーストン・ホプキンス、カート・ハットン、レナード・マッコーム、フランシス・ライス、ハンフリー・ スペンダー、グレース・ロバートソン、ビル・ブラントらがいた、彼ら家、競争相手ではなく同僚として働いた。独学でライカの使い方を学び、当時の報道写真家しては型破りな機材を使っていた。1941年2月1日、ナチス・ドイツによるロンドン大空襲でストレスを受けた消防士たちを撮影した写真エッセイで初めて写真のクレジットを獲得し、グラフ誌『ピクチャー・ポスト』のチーフ写真家となった。1944年6月6日の連合国ノルマンディー上陸作戦に参加、そしてパリ解放、ライン川を渡る連合軍の前進を取材した。

U.S. Marines
U.S. Marines in an assault craft during the Korean War, 1950

ナチス・ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所入り、そこでの収容者の苦しみを記録した最初の写真家のひとりである。また、オスナブリュック市でドイツ警察が放火した火事からロシア人奴隷を救い、その余波を写真に収めた。第二次世界大戦末期、ハーディはアジアに渡り、短期間ルイス・マウントバッテン卿の専属写真家となった。その後、ジャーナリストであるジェームズ・キャメロンとともに『ピクチャー・ポスト』誌で朝鮮戦争を取材し、1950年に釜山で国連旗の下に李承晩の警察によって行われた残虐行為を報道し、その後、朝鮮戦争の転機となったインチョンの戦いでミズーリ年間写真賞を受賞した。

 Suiza Bar
British sailors visit the Suiza Bar, Gibraltar, 1954

テレビの台頭と発行部数の減少に屈したグラフ誌『ピクチャー・ポスト』は1957年6月に休刊。労働党の「新しいイギリス」と「万人に公平な分け前」との同一視はますます不人気となり、同党は1951年の選挙で敗北した。他に活躍の場がなかったため、ハーディは広告写真家になったが、1964年に農夫になるためにこのメディアを完全に諦めたのである。エドワード・スタイケンの有名な『人間家族』展にハーディの作品3点が展示された。2点はビルマで撮影されたもので、そのうちの1枚は机に向かって深く考え込む僧侶の写真である。

Jim Nolan
Jim Nolan ignores his wife who is attacking a woman, 1954

もう1枚は、1949年1月8日に発行された『ピクチャー・ポスト』誌の特集 "Scenes From The Elephant"(象の情景)の一部で、南ロンドンのエレファント・アンド・キャッスル地区の日常を撮影した。地下の小さなアパートの窓際でくつろぐラブラブな若いカップルが写っている。アマチュア写真家向けに、良い写真を撮るのに高価なカメラは必要ないという記事を書いたハーディは、1951年、風薫るブラックプールの遊歩道で、コダックのボックスカメラ「ブラウニー」を使って手すりに座る2人の若い女性を撮影、これは戦後の英国を象徴する写真となった。1995年7月3日、イングランドのサリー州オックステッドで他界、82歳だった。2024年2月から8月まで、ハーディの回顧展がロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーで開催された。

gallery Bert Hardy (1913-1995) Photojournalism in War and Peace | Photographers Gallery 2024

写真術における偉大なるレジェンドたち

Parade of Zapatistas
Manuel Ramos (1874-1945) Parade of Zapatistas, National Palace, Mexico City, 1914

2021年の夏以来、思いつくまま世界の写真界20~21世紀のレジェンドたちの紹介記事を拙ブログに綴ってきましたが、以下は2024年5月22日現在のリストです。右端の()内はそれぞれ写真家の生年・没年です。20世紀から今世紀に至るまで作品を作り続けた写真家は少なく、エリオット・アーウィットやジェリー・ユルズマン、セバスチャン・サルガド、マーティン・パーなどは例外で、大多数が他界しています。なお今世紀に入ってから活躍し始めた写真家も積極的に取り上げたいと思っています。左端の年月日をクリックするとそれぞれの掲載ページが開きます。

21/08/12写真家ピーター・ヒュージャーの眼差し(1934–1987)
21/08/23ロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し(1923–1999)
21/09/18女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
21/09/21自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ(1910–2003)
21/10/04熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座(born 1944)
21/10/06アフリカ系アメリカ人写真家ゴードン・パークスの足跡(1912–2006)
21/10/08写真家イモージン・カニンガムは化学者だった(1883–1976)
21/10/10現代アメリカの芸術写真を牽引したポール・ストランド(1890–1976)
21/10/11虚ろなアメリカを旅した写真家ロバート・フランク(1924–2019)
21/10/13キャンディッド写真の達人ロベール・ドアノー(1912–1994)
21/10/16大恐慌時代をドキュメントした写真家ラッセル・リー(1903–1986)
21/10/17自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録(1923–1971)
21/10/19報道写真を芸術の域に高めたユージン・スミス(1918–1978)
21/10/24プラハの詩人ヨゼフ・スデックの光と影(1896-1976)
21/10/27西欧美術を米国に紹介した写真家スティーグリッツの功績(1864–1946)
21/11/01ウジェーヌ・アジェを「発見」したベレニス・アボット(1898–1991)
21/11/08近代ストレート写真を先導したエドワード・ウェストン(1886–1958)
21/11/10社会に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス(1902–1984)
21/11/13ウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった(1903–1975)
21/11/16写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグ異聞(1894–1986)
21/11/20世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパの軌跡(1913–1954)
21/11/25児童労働の惨状を訴えた写真家ルイス・ハインの偉業(1874–1940)
21/12/01写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間(1908–2004)
21/12/06犬を愛撮したエリオット・アーウィット(1928-2023)
21/12/08リチャード・アヴェドンの洗練されたポートレート写真(1923–2004)
21/12/12バウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジの世界(1923–1928)
21/12/17前衛芸術の一翼を担ったマン・レイは写真の革新者だった(1890–1976)
21/12/29アラ・ギュレルの失われたイスタンブルの写真素描(1928–2018)
22/01/10自然光に拘ったアーヴィング・ペンの鮮明な写真(1917-2009)
22/02/01華麗なるファッション写真家セシル・ビートン(1904–1980)
22/02/25抽象的な遠近感を生み出した写真家ビル・ブラント(1904–1983)
22/03/09異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌(1946–1989)
22/03/18写真展「人間家族」を企画開催したエドワード・スタイケン(1879–1973)
22/03/24キュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼(born 1933)
22/04/21社会的弱者に寄り添った写真家メアリー・エレン・マーク(1940-2015)
22/05/20写真家リンダ・マッカートニーはビートルズのポールの伴侶だった(1941–1998)
22/06/01大都市に変貌する香港を活写したファン・ホーの視線(1931–2016)
22/06/12肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたアウグスト・ザンダー(1876–1964)
22/08/01スペイン内戦に散った女性場争写真家ゲルダ・タローの生涯(1910–1937)
22/09/16カラー写真を芸術として追及したジョエル・マイヤーウィッツの手腕(born 1938)
22/09/25死と衰退を意味する作品を手がけた女性写真家サリー・マンの感性(born 1951)
22/10/17北海道の風景に恋したイギリス人写真家マイケル・ケンナのモノクロ写真(born 1951)
22/11/06アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス(1868–1952)
22/11/16大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット(1910–1990)
22/11/18人間の精神の深さを写真に写しとったペドロ・ルイス・ラオタ(1934-1986)
22/12/10アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド(1928–1984)
22/12/16没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真(1926–2009)
22/12/23写真家集団マグナムに参画した初めての女性イヴ・アーノルド(1912-2012)
23/03/25フランク・ラインハートのアメリカ先住民の肖像写真(1861-1928)
23/04/13複雑なタブローを構築するシュールレアリスム写真家サンディ・スコグランド(born 1946)
23/04/21キャラクターから自らを切り離したシンディー・シャーマンの自画像(born 1954)
23/05/01震災前のサンフランシスコを記録した写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)
23/05/03メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス(1874-1945)
23/05/05超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂(born 1943)
23/05/07家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン(born 1941)
23/05/22欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンの感性(1894–1954)
23/05/2520世紀初頭のアメリカの都市改革に大きく貢献したジェイコブ・リース(1849-1914)
23/06/05都市の社会風景という視覚的言語を発展させた写真家リー・フリードランダー(born 1934)
23/06/13写真芸術の境界を広げた暗室の錬金術師ジェリー・ユルズマンの神技(1934–2022)
23/06/15強制的に収容所に入れられた日系アメリカ人を撮影したドロシア・ラング(1895–1965)
23/06/18女性として初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
23/06/20劇的な国際的シンボルとなった「プラハの春」を撮影したヨゼフ・コウデルカ(born 1958)
23/06/24警察無線を傍受できる唯一のニューヨークの写真家だったウィージー(1899–1968)
23/07/03フォトジャーナリズムの父アルフレッド・アイゼンシュタットの視線(1898–1995)
23/07/06ハンガリーの芸術家たちとの交流が反映されたアンドレ・ケルテスの作品(1894-1985)
23/07/08家族が所有する島で野鳥の写真を撮り始めたエリオット・ポーター(1901–1990)
23/07/08戦争と苦しみを衝撃的な力でとらえた報道写真家ドン・マッカラン(born 1935)
23/07/17夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ(1899–1984)
23/07/2020世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ(1908–2002)
23/07/22メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能(1896–1942)
23/07/24ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク(born 1941)
23/08/01アフリカ系アメリカ人の芸術的な肖像写真を制作したコンスエロ・カナガ(1894–1978)
23/08/04ヒトラーの地下壕の写真を世界に初めて公開したウィリアム・ヴァンディバート(1912-1990)
23/08/06タイプライターとカメラを同じように扱った写真家カール・マイダンス(1907–2004)
23/08/08ファッションモデルから戦場フォトャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯(1907-1977)
23/08/14ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績(1907-2007)
23/08/18超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド(born 1946)
23/08/20シカゴの街角やアメリカ史における重要な瞬間を再現した写真家アート・シェイ(1922–2018)
23/08/22大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン(1915-1986)
23/08/25カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン(1912-1999)
23/09/08イギリスにおけるフォトジャーナリズムの先駆者クルト・ハットン(1893–1960)
23/10/06ロシアにおけるデザインと構成主義創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ(1891–1956)
23/10/18物事の本質に近づくための絶え間ない努力を続けた写真家ウィン・バロック(1902–1975)
23/10/27先見かつ斬新な作品により写真史に大きな影響を与えたウィリアム・クライン(1926–2022)
23/11/09アパートの窓から四季の移り変わりの美しさなどを撮影したルース・オーキン(1921-1985)
23/11/15死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品(born 1939)
23/12/01近代化により消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ(1857-1927)
23/12/15同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット(1913–2009)
23/12/20哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール(1929-2007)
24/01/08音楽や映画など多岐にわたる分野で能力を発揮した写真家ジャック・デラーノ(1914–1997)
24/02/25シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座(born 1943)
24/03/21パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)
24/04/04報道写真家として自活することに成功した最初の女性の一人エスター・バブリー(1921-1998)
24/04/20長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ(born 1962)
24/04/2820世紀後半のイタリアで最も重要な写真家ジャンニ・ベレンゴ・ガルディン(born 1930)
24/04/30トルコの古い伝統の記憶を守り続ける女性写真家 F・ディレク・ウヤル(born 1976)
24/05/01ファッション写真に大きな影響を与えたデヴィッド・ザイドナーの短い生涯(1957-1999)
24/05/08社会の鼓動を捉えたいという思いで写真家になったリチャード・サンドラー(born 1946)
24/05/10直接的で妥協がないストリート写真の巨匠レオン・レヴィンシュタイン(1910–1988)
24/05/12自らの作品を視覚的な物語と定義している写真家スティーヴ・マッカリー(born 1950)
24/05/14多様な芸術の影響を受け写真家の視点を形作ったアンドレアス・ファイニンガー(1906-1999)
24/05/16芸術的表現により繊細な目を持つ女性写真家となったマルティーヌ・フランク(1938-2012)
24/05/18ドキュメンタリー写真をモノクロからカラーに舵を切ったマーティン・パー(born 1952)
24/05/22先駆的なグラフ誌『ピクチャー・ポスト』を主導した写真家バート・ハーディ(1913-1995)

子どものころ「明治は遠くなりにけり」という言葉をよく耳にした記憶がありますが、今まさに「20世紀は遠くなりにけり」の感があります。いわば時の流れに私たちは逆らえません。掲載した作品のほとんどがモノクロ写真で、カラーがごくわずかのなのは偶然ではないような気がします。二十世紀のアートの世界ではモノクロ写真が主流だったからです。デジタルカメラが主流の現在でもモノクロ写真に拘っている写真家も少なくありません。しかしカラーの写真も重要で、ジョエル・マイヤーウィッツとシンディー・シャーマン、サンディ・スコグランド、ジャン・ボードリヤール、 F・ディレク・ウヤル、マーティン・パーの作品を取り上げました。

aperture  The 50 greatest photographers the world has ever seen by Writer and Editor David Clark

2024年5月18日

ドキュメンタリー写真をモノクロからカラーに舵を切ったマーティン・パー

SignsTimes
We've just always enjoyed the same sort of things, 1991
Martin Parr

マーティン・パー はイギリスのドキュメンタリー写真家、フォトジャーナリスト、写真集コレクター。特にイギリスの社会階級、そしてより広く西洋世界の富を記録することを中心に、現代生活の側面を親密で風刺的、人類学的に捉えた写真プロジェクトで知られている。1952年5月23日、サリー州エプソムで生まれパーは 、 14歳の頃からドキュメンタリー写真家を志していた。アマチュア写真家であり、王立写真協会会員でもあった祖父のジョージ・パーが初期に影響を与えたという。1970年から1972年までマンチェスター工科大学で同時代のダニエル・メドウズやブライアン・グリフィンとともに写真学を学んだ。パーとメドウズは様々なプロジェクトで協力し、バトリンズで巡回写真家として働くことなどがあった。彼らはドキュメンタリー写真家の新波の一員であり緩やかな集団で、自らに名称を与えたことはなかったが「若手イギリス写真家」「独立系写真家」「新イギリス写真術」など様々な名前で知られるようになった。1975年、ウェスト・ヨークシャーのヘブデン・ブリッジに移住し、そこで最初の成熟した作品を完成させた。彼は暗室と展示スペースを備えた芸術活動の中心地、アルバート・ストリート・ワークショップに参加した。パーは5年間、その地域の田舎暮らしを撮影し、1970年代初頭に閉鎖されつつあった孤立した農村の中心地であったメソジスト(および一部バプテスト)の非国教徒の礼拝堂に焦点を当てた。ノスタルジックな性質と、この過去の活動を祝う彼の見方に適していたため、モノクロで写真を撮った。当時の写真家は、真剣に受け止められるためにはモノクロでで撮影する必要があった。

The Last Resort
The Last Resort, New Brighton, England, 1983-85

シリーズ "The Non-Conformists"(不適合者たち)が広く展示され、2013年に書籍として出版された。評論家のショーン・オハガンはガーディアン紙に寄稿し「モノクロ写真家としてパーがいかに静かに観察していたかを忘れがちだ」と​述べている。1980年にスーザン・ミッチェルと結婚、彼女の仕事のためにアイルランド西海岸に移住した。パーはロスコモン州ボイルに暗室を設置した。1982年に最初の出版物である "Bad Weather"(悪天候)が芸術評議会の助成金を受けてズウェマー社から出版された。1984年に出版された "Calderdale Photographs"(カルダーデールの写真)そして1984年に出版された"A Fair Day: Photographs from the West Coast of Ireland"(フェアな一日:アイルランド西海岸の写真)では、いずれも主にイングランド北部とアイルランドのモノクロ写真を掲載している。35mmレンズを装着したライカM3を使用したが『悪天候』ではフラッシュガンを装着した水中カメラに切り替えた。

The Rhuharb Triangle
The Rhuharb Triangle, Wakefield, West Yorkshire, England, 2014

1982年にパー夫妻はイングランドのウォラシーに移住し、そこでモノクロからカラー写真に転向した。これは主にジョエル・マイヤーウィッツ、そしてウィリアム・エグルストン、スティーブン・ショア、ピーター・フレイザー、ピーター・ミッチェルといったカラー写真家の作品に触発されたからである。パーは「1970年代初めにバトリンズで働いていた時にジョン・ハインドの絵葉書にも出会ったことがあり、その明るく鮮やかな色彩は私に大きな影響を与えた」と書いている。ニュー・ブライトン近郊の海辺で労働者階級の人々を撮影したが、1986年に "The Last Resort: Photographs of New Brighton"(最後のリゾート:ニュー・ブライトンの写真)として出版され、リバプールとロンドンで展示された。ジョン・バルマーは1965年からイギリスのカラードキュメンタリー写真の先駆者であったが、 ジェリー・バジャーは『最後のリゾート』について次のように語っている。

ほぼ四半世紀を経た今、イギリス写真界やマーティン・パーのキャリアにおいて、『ラスト・リゾート』の重要性を過小評価することは難しい。両者にとって『最後のリゾート』は、モノクロームからカラーへという写真表現の基本様式の激変を象徴するものであり、ドキュメンタリー写真の新たな基調の発展を告げる根本的な技術的変化であった。

カレン・ライトはインディペンデント紙に寄稿し「パーは労働者階級を厳しく批判したため一部の批評家から攻撃されたが、これらの作品を見ると、パーの揺るぎない目が、利用可能なあらゆる形態の余暇を受け入れる社会階級の真実を捉えていることがわかる」と述べている。1987年から1994年にかけて、世界を旅して次の主要シリーズであるマスツーリズム批判を制作し、1995年に『スモールワールド』として出版された。写真を追加した改訂版は2007年に出版された。この作品は1995年から1996年にかけてロンドン、パリ、エディンバラ、スペインのパルマで展示され、その後も様々な場所で展示され続けている。1990年から1992年までヘルシンキ芸術デザイン大学で写真の客員教授を務めた。1985年、パーはマンチェスターのドキュメンタリー写真アーカイブからの依頼でサルフォードのスーパーマーケットの人々を撮影し『サルフォード自治区の小売業』を完成させた。

Amalfi Coast
The Amalfi Coast, Sorrento, Italy, 2014

この作品は現在アーカイブに保管されている。1987年に彼と妻はブリストルに引っ越し、現在もそこに住んでいる。1987年から1988年にかけて、彼は次の主要プロジェクトを完成させた。それは、当時サッチャー政権下で裕福になりつつあった中流階級に関するものだった 。主にイングランド南西部のブリストルとバース周辺で、ショッピング、ディナーパーティー、学校のオープンデーなど中流階級の活動を撮影した。これは1989年 "The Cost of Living"(生計費)と題され出版され、バース、ロンドン、オックスフォード、パリで展示会が開かれた。1995年から1999年にかけて、グローバルな消費主義をテーマにしたシリーズ『コモンセンス』を制作した。350枚のプリントによる展覧会で、1999年には158枚の写真を収めた本が出版された。この展覧会は1999年に初めて開催され、17カ国41会場で同時に開催された。これらの写真は消費文化の細部を描写しており、人々がどのように娯楽を楽しむかを示すことを目的としている。

Royal Wedding street party
Platt St. Royal Wedding street party, Cheadle, Manchester, England, 2018

写真は鮮やかで色彩豊かな35ミリ高彩度フィルムで撮影された。1988年にマグナム・フォトの準会員となった。 1994年にパーを正会員として迎え入れる投票は賛否両論で、フィリップ・ジョーンズ・グリフィスが他の会員にパーを受け入れないよう嘆願する文書を配布したが、1票差で3分の2の多数を得た。マグナムの会員であることで、彼は編集写真の仕事に就くことができ、ポール・スミス、ルイ・ヴィトン、ギャラリー・デュ・ジュール・アニエスベー、マダム・フィガロなどの編集ファッション写真にも携わった。写真集の収集家であり評論家でもある。評論家のジェリー・バジャーとの共著 "The Photobook: A History"(フォトブック:歴史)には、19世紀から現代までの写真集1,000点以上が収録されている。最初の2巻は完成までに8年を要した。2014年に設立され、2015年に慈善団体として登録されたマーティン・パー財団は、2017年に彼の故郷であるブリストルに施設を開設した。ロンドンのテート・モダンで開催された森山大道回顧展では、パーから借り受けた森山の本が多数、ガラスケースに展示された。なお 2021年10月5日付けのガーデアン紙電子版によると、同年5月にがんと診断され、化学療法を受けたようだ。完治していることを祈りたい。

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2024年5月16日

芸術的表現により繊細な目を持つ女性写真家となったマルティーヌ・フランク

Tulku Khentrol Lodro Rabsel
Tulku Khentrol Lodro Rabsel with his tutor Llagyel, Bodnath, Nepal, 1996
Martine Franck

マルティーヌ・フランクはマグナム・フォトに32年以上在籍したドキュメンタリー写真家で、1938年4月2日、ベルギーのアントワープで生まれた。1939年、フランク家はロンドンに移住、父親のルイはイギリス軍に入隊した。戦争中、母と兄とともにイギリスからアメリカに渡り、1944年まで暮らした。スイスで、後にフランス演劇界を代表する人物となるアリアーヌ・ムヌーシュキンと出会った。マドリードのコンプルテンセ大学で美術史を学び、1958年にパリのエコール・デュ・ルーヴルに入学し、ル・モンド紙のロベール・エスカルピットのユーモラスなコラムからフランス語の読み方を学んだ。"Sculpture and Cubism: 1907-1915"(彫刻とキュビスム:1907-1915年)というテーマで論文を提出する。1963年にアリアーヌ・ムヌーシュキンと一緒に旅行したマルティーヌ・フランクは、中国、日本、インド、カンボジア、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、イランなど、他の文明の魅力と素晴らしさを写真に収め始めた。そして香港の雑誌『イースタン・ホライズン』に写真を発表。フランクは「写真は私の人生に突然現れました。中国へのビザを取得し、いとこが私にライカを貸してくれた」「あなたはラッキーだから写真を持って帰らなくてはいけないと言ってくれたのです」と2007年のローランド・キリチとのインタビューで打ち明けている。

Swiming Pool
Swiming Pool designed by Alain Capeilleres, Hamac, Le Brusc, France, 1976

1964年にパリのタイムライフ社で「真の写真」に出会い、エリオット・エリソフォンとギョン・ミリの助手を経て独立した。アメリカの有名雑誌と仕事をし、彼女の報道写真、アーティストや作家のポートレートは『ライフ』『フォーチュン』『スポーツ・イラストレイテッド』『ニューヨーク・タイムズ』『ヴォーグ』などに掲載された。ピエール・アレチンスキー、バルテュス、ピエール・ブーレーズ、マルク・シャガール、ミシェル・フーコー、ミシェル・レイリス、サム・サフラン、ポール・ストランドなど、友人となった人物は数多い。1966年、30歳年上のアンリ・カルティエ=ブレッソンと出会う。「マルティーヌ」と声をかけた彼は「密着焼きを持って来て見せて欲しい」という殺し文句を囁いたという。そしてふたりは1970年に結婚した。「父からは大きなリスクを冒していると言われたけど、私はとても幸せだった。アンリはいつも私に働くことを勧めてくれた。彼は決して私を脇に置くことはなかった。彼のお陰で、私は多くの人々に出会いました」という。

The beach at Puri
The beach at Puri, Orissa, India, 1980

1980年、フランクはマグナム・フォトの共同エージェンシーに準会員として参加し、1983年に正会員となった。マグナム・フォトに受け入れられた数少ない女性の一人である。その後、女性の権利に関する大規模な作品に着手、社会的関心の高い題材に関心を示し、現実の証拠を提供しようとした。「私の主な望みは、内省を生み出すイメージを提示することです」と。彼女は "Le Temps de Vieillir"(老いの時間)を出版、その中で「苦しみや人間の腐敗に心を痛め、立ち止まらなければならない時がある。苦しみや人間の腐敗に心を打たれ、立ち止まらざるを得ない時がある。社会学的に興味深い他の状況は、視覚的には何も語らない。写真は説明するよりも見せるもので、物事の理由を説明するものではない」と書いている。

Stolen Cars
Graveyard for Stolen Cars, Darndale, Ireland, 1993

1985年、人道的プロジェクトを支援する数多くの写真撮影を監督し、孤独、貧困、排斥、重病に苦しむ人々を支援する "Petits frères des Pauvres"「貧しい人々の会」に協力する。1993年から1997年にかけて、フランクは何度もアイルランド北西部のトーリー島を訪れた。そこで彼女は大陸の端に住む伝統的なゲール人コミュニティの日常生活を撮影した。"Tory, Ile aux confins de l'Europe"(ヨーロッパの端に浮かぶ島トーリー)は1998年に出版された。1996年、ネパールのボドナートと北インドに住むチベット僧の子どもたちを撮影、その4年後に "Tibetan Tulkus: Images of Continuity"(チベットの化身ラマ:連続性のイメージ)を出版した。アンリ・カルティエ=ブレッソンとその娘メラニーとともに、パリにアンリ・カルティエ=ブレッソン財団を設立し、2004年に理事長に就任。2010年に東京のシャネル・ネクサス・ホールで「女たち」展を開催した。

Martine Franck and Henri Cartier Bresso
Martine Franck and Henri Cartier Bresson, 1971. Photo by Josek Koudelka

2011年10月、パリのヨーロッパ写真館で開催された「他所から」展では、1965年から2010年の間にパリのアトリエで撮影された62人のアーティストのポートレートが展示された。フランス国家功労勲章オフィシエに叙勲され、アンリ・カルティエ=ブレッソン財団での活動に対して贈られるモンブラン文化賞を受賞した。2012年6月、ニューヨークのハワード・グリーンバーグ・ギャラリーで "Peregrinations"(遍歴)展が開催された。マルティーヌ・フランクは2012年8月16日、偉大なアーティストの足跡を残してこの世を去った。74歳だった。彼女の芸術は幾何学、曲線、直線に象徴される個人的なタッチの反映であり、人間の魂の美しさ、心の奥深さを追求し、そのすべてを一瞬のうちにとらえたものである。この芸術的表現により、彼女は非常に繊細な目を持つアーティストとなったのである。

magnum  Martine Franck (1938-2012) | Profile | Selected Works | Most Recent | Magnum Photos

2024年5月14日

多様な芸術の影響を受け写真家の視点を形作ったアンドレアス・ファイニンガー

Midtown Manhattan
Typical crowded urban scene in Midtown Manhattan, 1948
Andreas Feininger

アンドレアス・ファイニンガーは、アメリカの写真家であり写真技術に関する作家でもあった。ダイナミックなマンハッタンのモノクロ風景や自然物の構造の研究で知られている。ドイツ系ユダヤ人のユリア・ベルクと、アメリカ人画家で美術教育者のリオネル・ファインニンガー(1871-1956)の長男として1906年12月27日、フランスのパリで生まれた。父方の祖父母はドイツ人ヴァイオリニストのカール・ファインニンガー(1844~1922)とアメリカ人歌手のエリザベス・ファイニンガー(旧姓ルッツ)。弟は画家で写真家のT・ラックス・ファイニンガー(1910-2011)である。非常に創造的な環境で育ったファイニンガーは、幼い頃から芸術とデザインの世界に触れ、20世紀で最も影響力のある写真家のひとりになった。父親の芸術活動のため、家族はヨーロッパ各地を転々とし、彼は多様な文化や芸術の影響にさらされ、それが写真家としての彼の視点を形作ることになった。ファイニンガーの学問の旅は、ドイツの名門校バウハウスで建築を学んだことから始まった。そこで彼は機能主義と芸術とテクノロジーの融合を重視する学校の影響を受ける。建築学のバックグラウンドは、彼の写真作品、特に都市の風景や建築物に対するアプローチに大きな影響を与えた。

Production of Airplane propellers
Production of Airplane propellers, Hartford, Connecticut, 1942

ファイニンガーの興味は写真へと移り、1933 年に移住したストックホルムで写真家として最初の仕事を始めた。スウェーデンではフォトジャーナリストとして働き、さまざまな写真技術を試しながら技術を磨き、独自のスタイルを築き上げた。この時期の彼の写真は、建築物と光と影の相互作用に焦点を当て、都市生活の本質を捉えている。ドイツにおけるナチズムの台頭により、ファイニンガーは1939年に米国に移住した。ニューヨーク市に定住し、彼にとって最も影響力のある時期が始まった。1943年、彼は LIFE 誌のスタッフに加わり、20年間勤務した。LIFE 誌では、ファイニンガーはダイナミックな都市景観、建築写真、科学および自然研究で知られるようになった。

Time Exposure
Time Exposure, The Hurricane, Coney Island, 1949

この雑誌に掲載された作品によって、彼のユニークなビジョンは幅広い読者に知られるようになり、写真の構図と技術の達人としての評判も確立した。彼の写真スタイルは、構造、形状、光のニュアンスに細心の注意を払っているのが特長である。彼の建築学の教育は、都市環境の形状や質感を探求することが多い彼の写真に表れている。キュメンタリーと芸術を融合させ、日常の光景を印象的な構図に変える独特の才能を持っていた。彼の作品には、都市景観の活気と壮大さを捉えたニューヨークの象徴的な写真が含まれている。科学技術に興味を持っていたため、写真顕微鏡法の分野でも先駆的な作品を生み出し、写真という媒体の可能性を広げたのである。

Seaweed Harvesters
Seaweed Harvesters, Portugal, 1951

その作品は世界中の主要な美術館やギャラリーで展示されている。彼は写真に関する本を数冊執筆しており、それらはこの分野に影響を与えている。"The World Through My Eyes"(私の目に映った世界)などの出版物は、彼の創作プロセスや、芸術形式としての写真に対する哲学についての洞察を提示している。ファイニンガーの影響は写真作品だけにとどまらない。彼は写真に関する尊敬される教師であり作家でもあり、将来の写真家の教育と育成に貢献した。彼の著作や講義では、明白なことを超えて見るということ、そして写真を探求と表現のツールとして理解することの重要性が強調されていた。晩年も写真撮影と執筆を続け、写真界で活躍し続けた。

Gaboon Viper
Skeleton of a 4-foot-long Gaboon Viper, 1952

20世紀で最も影響力のある写真家のひとりとして遺産を残し、1999年2月18日に亡くなった。ファイニンガーのキャリアは60年以上にわたり、その間に多様で影響力のある一連の作品を制作した。建築写真や都市写真への彼の貢献、そして顕微鏡写真の実験的な仕事は、写真の分野に消えることのない足跡を残したのである。彼の作品は写真家たちにインスピレーションを与え続け、私たちを取り巻く世界の美しさと複雑さを捉える写真の力の証しとなっている。現在、ファインニンガーの写真は、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館、ナショナル・ギャラリー、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウスのパーマネント・コレクションなどに収蔵されている。

The Library of Congress  Andreas Feininger (1906-1999) American | Archived Art Works | The Library of Congress

2024年5月12日

自らの作品を視覚的な物語と定義している写真家スティーヴ・マッカリー

Fishermen SriLanka
Fishermen at Weligama, South Coast of Sri Lanka, 1995
Steve McCurry

ティーヴ・マッカリーは1950年2月24日、ペンシルヴァニア州ニュートンスクエアの小さな町で生まれた。デラウェア郡のマープルニュータウン高校に通い、その後ペンシルヴァニア州立大学に進学し。映画撮影を専攻し、1974年に優秀な成績で卒業した。大学在学中に写真に興味を持ち、卒業後はペンシルバニア州キング・オブ・プルシアの "Today's Post"(今日のポスト)紙で2年間働く。彼は若い頃からインドを中心に広く旅行していた。写真家として世界中を飛び回り、その写真技術で数々の賞を獲得したのも不思議ではない。1980年、初めてアフガニスタンを訪れたあと、彼は初めて海外からの写真報道に与えられるロバートキャパ賞を授与された。パキスタンとアフガニスタンの間で戦争が続いており、過酷な環境のため、マッカリーは国境地帯に入るために現地の服装に変装しなければならなかった。国境を越えてフィルムを持ち帰るには、フィルムストリップを衣服の内側に縫い付けなければならなかった。危険と命がけの状況に直面するのはこれが最後ではなかった。海外で経験した最も恐ろしい瞬間は、ユーゴスラビアで飛行機が墜落したときだった。軽飛行機で航空写真を撮っていたとき、パイロットが機体の制御を失ってしまう。

Bicycles on Side of Train, India
Bicycles on Side of Train, India, 1983

飛行機は湖に墜落し、マッカリーはシートベルトを外して沈みゆく飛行機から脱出しようと奮闘した。最終的に彼は浮上して泳ぎ、ボートで救助されなんとか岸にたどり着いた。しかしマッカリーが遭遇したこれらの危険な状況は、彼が愛する仕事から遠ざかるものではなかったのである。マッカリーが撮影した写真の中でお気に入りの1枚は "Dust Storm, India"(インドの砂嵐)とタイトルされたの作品である。1983年にインドのラジャスタンで撮影された、木の後ろに身を寄せて雨宿りする女性たちの写真は、マッカリー自身の言葉を借りれば、まさに「魔法のよう」であった。機材が壊れるのではないかと心配していたにもかかわらず、彼は「それが自分の目的だった」ので、とにかく嵐の中に出かけた。

Merchants Paddle Boats
Merchants Paddle Boats, Kashmir, 1998

彼の写真スタイルは、人々が自分らしくいるときの、人間の生活のありのままの瞬間を捉えるのである。マッカリーは、被写体と一緒に待ち、冗談を言って雰囲気を和らげるのが好きだと言いう。最終的には、彼らはカメラがあることさえ忘れ、彼らの本質が輝き出すと彼は言う。おそらくマッカリーの最も有名な写真のひとつつである「アフガンの少女」は、彼が論じている本質を捉えている。1984年に撮影されたこの写真は、パキスタンの難民キャンプに逃げてきたアフガンの少女を撮影したものである。撮影当時、彼女はわずか13歳で、その顔は世界中で知られるようになったが、身元は不明だった。「私は、この素晴らしい目をしたひとりの小さな女の子に気づきました。そして、これが私が本当に撮りたい唯一の写真だとすぐにわかりました」と彼は語っている。

Afghan Girl
Afghan Girl, Peshawar, Pakistan, 1984

ナショナルジオグラフィック協会の機関誌に掲載されたこの写真でマッカリーは数々の賞を受賞し、ナショナルジオグラフィックはこれを最も有名な写真としたのである。初めて彼女の顔をフィルムに収めてから18年後の2002年、マッカリーは再びアフガニスタンに戻り、この無名の少女を見つけて写真を撮影した。疲れ果てていたが、旅は成功し、彼女の写真は2002年4月にナショナルジオグラフィックの表紙に再び掲載されたのである。現在、マッカリーが写真撮影のために海外へ行くお気に入りの場所はアジアだが、米国西部、特にグランドキャニオン地域は「世界で最も素晴らしい場所のひとつ」だと考えている。彼はほとんどの時間を旅行に費やしており、残りの人生もそうするつもりである。

Bird Seller, Afghanistan, 2002

2016年、マッカリーはフォトショップやその他の手段で広範囲に画像を加工し、個人やその他の要素を削除したとして非難された。しかしデジタル写真とカメラに特化したウェブサイト PetaPixel とのインタビューでは、あえて強い否定はせずに、現在は自分の作品を「視覚的な物語」であり「芸術」であると定義していることを示した。マッカリーは、自身のコレクションを書籍の形で数多く出版している。また、彼の作品はアメリカ全土および海外で展示されている。2021年、ドゥニ・デレストラク監督作品『マッカリー:色彩の追求』と題されたドキュメンタリー伝記映画が制作され、ニューヨーク・ドキュメンタリー映画祭、マラガ映画祭(スペイン)、グラスゴー映画祭(スコットランド)などに正式出品された。スペインでの公開は2022年6月。現在ペンシルヴァニア州とニューヨーク州にオフィスを構えているが、ほとんどの時間をニューヨークで過ごしているという。

Boy Stands by a Window
Boy Stands by a Window, Ethiopia, 2012

1985年6月、12歳のアフガニスタン難民としてナショナルジオグラフィックの表紙を飾り、世界中で「アフガンの少女」として広く知られているシャルバト・グラさんは偽造パキスタン身分証明書を使用したとして逮捕された。しかしその後、政府から3,000平方フィートの邸宅を贈られ、生活費と医療費として月約700ドルの給付金も支給されるようになった。下記リンク先の記事はナショナルジオグラフィックの元編集者、ニーナ・ストロチュリックによるその詳報リポートである。

National Geographic Famed 'Afghan Girl' Finally Gets a Home by Nina Strochlic | National Geographic Magazine

2024年5月10日

直接的で妥協がないストリート写真の巨匠レオン・レヴィンシュタイン

Coney Island, New York City
Coney Island, New York City, 1980
Leon Levinstein

レオン・レヴィンシュタインは、1950年代から1980年代にかけてニューヨークの日常生活を記録した、アメリカの古典的なストリート写真の巨匠である。タイムズスクエア、ローワーイーストサイドからコニーアイランドまで、ニューヨークで撮影された率直で感傷的でないモノクロの人物写真で最もよく知られている。1910年9月20日、ウェストバージニア州バックハノンで、ロシア系ユダヤ人の両親のもとに生まれた。1923年9月、公立大学の予備校であったリーランド州のボルチモア・シティ・カレッジに入学した。高校卒業後の1927年秋、ボルチモアのメリーランド・インスティテュート・オブ・アーツの夜間クラスに通う。グッゲンハイム研究奨学金の申請書は、ピッツバーグ美術大学でコースを受講していることに触れている。広告業界での最初の仕事は、ボルチモアのダウンタウンにあるヘクト家具会社だった。1934年から1937年まで、そこでアシスタント・アート・ディレクターとして新聞広告のレイアウトを担当した。その後、フリーランスのグラフィック・アーティスト、デザイナーとして独立。レイアウトは、彼の広告業界でのキャリアを通じて得意とするところだった。1948年秋、彼は同校のディレクターであり、最も影響力のある教師のひとりであるシド・グロスマンの上級ワークショップを受講した。

Bear Mountain Park
Bear Mountain Park, New York State, 1950

散歩好きで一匹狼のレヴィンシュタインがニューヨークの通りやコニーアイランドの浜辺を歩き回るのは当然のことだった。1951年の "U.S. Camera Annual"(米国カメラ年鑑)に1点、翌年には2点が選ばれる。1956年にはリチャード・アヴェドン、ウィン・ブロック、G・E・キダー・スミスミス(建築写真家)、ユージン・スミス、ブレット・ウェストンら6人の写真家とともに、作品がこの年鑑に掲載された。1952年には、写真雑誌『ポピュラー・フォトグラフィー』誌の国際写真コンテストで優勝し、賞金2,000ドルを獲得した。1955年、レヴィンシュタインの作品が同誌の夏のグループ展に出品された。

New Years Eve
New Years Eve, New York City, 1955

同年、ニューヨーク近代美術館のエドワード・スタイケンが、彼の写真2点を世界巡回展 "The Family of Man"(人間家族)に選んだ。 同展は900万人が訪れ、カタログは現在も印刷されている。この2点のキャンディッド写真は、至近距離で撮影されたもので、腰を据えて撮影するのが彼の常套手段だった。ひとつはタクシーを待つ裕福なカップルの地面の高さからの風景で、彼女はボリュームのある毛皮を身にまとい、彼はダブルブレストのスーツに帽子をかぶっている。もうひとつはローワーイーストサイドで撮影を楽しんでいた恵まれない人々への共感で、アフリカ系アメリカ人の女性が、日陰の絨毯に寝転がりながら赤ん坊を愛撫している。

Coney Island 1956
Coney Island, New York City, 1956

もうひとりの支援者は、写真の展示と販売だけに専念した最初のニューヨークのギャラリー「ライムライト」の創設者であるヘレン・ジーだった。 自伝の中で、ジーは第13章の最初の部分をレヴィンシュタインに割いており、1956年の最初の展覧会は、同ギャラリーでの彼の唯一の個展であった。ジーと同様、レヴィンシュタインもシド・グロスマンのもとで、最初はフォト・リーグで、その後はグロスマンの個人ワークショップで写真を学んだ。カルチャー紙『ヴィレッジ・ヴォイス』のエドガー・ライトによる好意的な批評もあった。1980年、ジーは彼の作品を「50年代の写真」展に出品した。

Singig 1976
Singing, New York City, 1976

翌年、彼女は美術商ハリー・ルンに相当数のプリントを売却する手配に尽力した。1970年代後半から1980年代にかけて、レヴィンシュタインは撮影のために海外を旅し、アメリカに戻ってはボルチモアのアパートに滞在していた。ルンはレヴィンシュタインの写真作品を大量に購入し、1978年にニューヨーク近代美術館で開催された写真展 "New Standpoints"(新たな視点)を皮切りに、作品は戦後ドキュメンタリー写真の重要な展覧会に出品されるようになった。1988年、ニューヨークで死去、まだあまり知られていないが、20世紀後半の写真界を代表する人物として徐々に認知されるようになっている。

ICP  Leon Levinstein (1910–1988) American | Biography | Archived Items | ICP New York City

2024年5月8日

社会の鼓動を捉えたいという思いで写真家になったリチャード・サンドラー

Two Faces
Two Faces, 5th Ave, NYC, 1989
Richard Sandler

リチャード・サンドラーは、都会の日常生活をモノクロームで描いた作品が高い評価を受けている。1946年、ニューヨークのクイーンズ区フォレストヒルズ地区で生まれた。1977年から2001年まで、サンドラーは定期的にニューヨークとボストンのストリートを歩き、ストリートが提供するあらゆるものを写真に収めてきた。初期のキャリアは、やや折衷的なものだったようだ。1968年にボストンに移り、鍼灸師として働きながらマクロビオティックを学び「極めて健康的で、生命力にあふれ、季節感のある、伝統的な日本スタイルのレストラン料理」を作ることを習得した。1955年、母親とニューヨークの近代美術館を訪れた際、クロード・モネの『睡蓮』を見て「ジャックナイフで目を大きく見開いた」と彼は言ったという。1960年、フレンチレストランで偉大なるサルバドール・ダリとの思いがけない出会いによって、彼はシュルレアリスムに興味を持ち始めた。しかし1977年に友人であるメアリー・マクレランドからカメラを贈られ、当時住んでいた家(メアリーは有名な心理学者のデヴィッドと同居していた)で彼の写真の旅が始まった。メアリーはまた、サンドラーに地下の暗室で写真をプリントする方法を教えた。ストリートで「社会の鼓動」を捉えたいという熱い思いに駆られる。

CC Train
CC Train, NYC, 1982

そして 著名なストリート写真家ゲイリー・ウィノグランドのワークショップを4日間受講した。リチャード・サンドラーはこのワークショップで写真撮影に必要なすべてを学んだと語っている。ボストンの街頭で情熱的かつ多作な写真を撮り始めた、フォトジャーナリストとして仕事を見つけ、本格的に写真家としてのキャリアをスタートさせた。その後数十年にわたり、サンドラーはライカを片手にニューヨークの街を駆け巡り、最も有名な先人たちのような鋭い洞察力、技術、ヒューマニズムをもって、彼の仲間である人々を撮影してきた。

Greenwich Village
Greenwich Village, NYC, 1984

詩的であると同時に率直な彼のモノクロームの写真は、1980年代の都市の衰退、その後の数十年間における高級化と階級格差の拡大など、刻々と変化するニューヨークの姿をニュアンス豊かに描き出している。サンドラーは1992年までに、彼自身の言葉を借りれば「最高のスチル写真を撮った」と自覚し、友人の影響もあって8ミリビデオの実験を始めた。1999年、彼は最初の映画『タイムズ・スクエアの神々』の脚本と監督を手がけ、その後十年間に数多くの作品を作ることになる。

Hand on Subway Car Window
Hand on Subway Car Window, NYC, 1984

この間、彼は写真を撮り続けたが、以前ほどの情熱と多作はなく、2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件の後は「スチル写真を後回しにする」ことを決め「音と動きがあの恐ろしい時代を理解する唯一の方法」だと主張した。ニューヨーク州の田舎町、ハドソン渓谷に移り住み、現在は都会には住んでいない。現在、彼は主にモノクロの静止画フィルム、スーパー8、16ミリと35ミリの映画フィルム(カラーとモノクロの両方)で風景を撮影している。しかし彼が写真の旅に出るきっかけとなった深い情熱は、いまだに続いている。

Grand Central Terminal
Grand Central Terminal, NYC, 1990

稀にこの街に戻ったとき、彼は今でも「ストリートでワイルドに撮影」し、数十年前と同じ芸術性で街の魂を捉えている。写真集 『都市の眼』(2016年)には、1977年から2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の数週間前までの、ニューヨークとボストンで撮影された写真が収められている。2023年2月11日から3月26日まで、ニューヨークのブロンクス・ドキュメンタリー・センターで回顧展を開催した。

The Guardian  Richard Sandler (born 1946) | Street photography "The Eyes of the City" | The Guardian