2021年12月29日

アラ・ギュレルの失われたイスタンブル写真素描

Bosphorus
Bosphorus, Beylerbeyi, Istanbul, Turkey, 1972
Ara Güler (1928–2018)

1928年8月16日に生まれたトルコのアラ・ギュレルは「イスタンブルの眼」としても知られている。父親は薬局を経営していたが、芸術の世界に属する多くの友人を持っていた。ギュレルはこうした人々と接し、彼らに触発されて写真やシネマの道を選ぶようになった。映画スタジオで働きながら、ムフシン・エルトゥールル(1892–1979)のもとで演劇を学んだ。その後、ジャーナリズムに傾倒し、映画製作を断念する。1950年、トルコの新聞社イエニ・イスタンブルにフォトジャーナリストとして入社。同時期にイスタンブール大学で経済学を学ぶ。その後、ヒュリエット紙で働き始めた。1958年、アメリカの出版社タイムライフがトルコ支社を開設したとき、アラ・ギュレルはその最初の特派員となった。その後『シュテルン』『パリマッチ』『サンデイタイムス』などの国際誌から撮影依頼を受けるようになる。1961年『ハイアット』誌にチーフフォトグラファーとして採用される。この頃、マルク・リブー(1923–2016)アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908–2004)と出会い、マグナム・フォトに引き抜かれる。1961年「英国写真年鑑」に写真が掲載される。

A market day
A market day, vendors in Tahtakale, Dardanelles, 1966

同年、米国雑誌写真家協会のトルコ人写真家として初めての会員になる。1960年代、彼の作品は著名な作家の書籍に挿絵として使用され、世界各地の展覧会で紹介された。1968年には、ニューヨーク近代美術館で「カラー写真の巨匠10人」という展覧会が開催され、彼の作品が展示された。また、ドイツのケルンで開催されたフォトキナ展にも出展した。2年後、写真集『トルコ』を出版。芸術とその歴史に関する彼の写真は『ニューズウイーク』『ライフ』『タイム』などの雑誌で紹介された。ケニア、ボルネオ、ニューギニア、インド、パキスタン、アフガニスタン、カザフスタン、イラン、トルコの都市など、世界各地に撮影の旅に出た。

Shopkeepe
An old Shopkeeper in the Covered Bazaar, 1965

1970年代には、サルバドール・ダリ(1904–1989)マルク・シャガール(1887–1985)アンセル・アダムス(1902–1984)アルフレッド・ヒッチコック(1899–1980)イモージェン・カニンガム(1883–1976)ウィリー・ブラント(1913–1992)ジョン・バージャー(1926–2017)マリア・カラス(1923–1977)バートランド・ラッセル(1872–1970)パブロ・ピカソ(1881–1973)インディラ・ガンジー(1917–1984)ウィンストン・チャーチル(1874–1965)といった著名な芸術家や政治家の写真インタビューをしている。 1975年には第一次世界大戦の戦艦を題材にしたフィクションに基づくドキュメンタリー "The End of the Hero"(英雄の終焉)を監督した。995年にはイスタンブルを撮影した集大成というべき写真集 "A Photographical Sketch on Lost Istanbul"(失われたイスタンブルの写真素描)が上梓される。

A drunk man
A drunk man at a bar in Tophane, 1959

彼の作品はパリのフランス国立図書館、ニューヨークのジョージ・イーストマン美術館、ケルンのルートヴィヒ美術館、ネブラスカ州のシェルドン記念美術館など、世界各国の美術館に作品が収蔵されている。ギュレルの写真哲学は、写真における人間の存在を重視し、自らを視覚史家とみなしていることである。写真とは、人々の苦悩や人生の記憶に残るものでなければならないという。芸術は嘘をつくことができるが、写真は現実を映し出すだけだと彼は考えている。彼は写真に芸術性を求めないため、フォトジャーナリズムを好んだのである。1999年トルコのフォトグラファー・オブ・ザ・センチュリー、1962年ライカマスター、フランスのレジオンドヌール、2009年ルーシー賞、2005年トルコの文化芸術大賞など、数々の賞を受賞している。2004年、イスタンブールのユルドゥズ工科大学から名誉フェローシップを授与された。ギュレルは2018年10月17日に心臓発作でイスタンブルで亡くなった。90歳だった。

aperture_bk Ara Güler (1928–2018) Photographs of İstanbul on the Tasarım Grifa Website

2021年12月25日

なぜ Yahoo! ニュースはコメント機能を運営するのか

コメント投稿者比率
コメント投稿者比率(ヤフーのログより

ヤフーは、ニュース配信サービス「Yahoo!ニュース」のコメント欄で、ユーザーからの違反コメント報告の導線をわかりやすく変更した、と12月22日に発表した。さらに違反コメント投稿を繰り返すユーザーに向けた投稿時の注意メッセージも変更した。違反コメントを続けた場合の法的リスクを明示し、より強い表現で警告するという。「Yahoo!ニュース」のコメント機能がスタートしたのは2007年。私の記憶では先の米国大統領選の際に、不正選挙論を支持した陰謀論系一派「Qアノン」のように、ドナルド・トランプの主張に乗っかった投稿が多かったのが印象に残っている。最近では秋篠宮の長女の結婚に関しのコメントが問題になり、ヤフーがコメント欄を閉じるという事態が発生している。「Yahoo!ニュース」のコメント欄は「ヤフコメ」と略称され、常連の投稿者は「ヤフコメ民」と呼ばれている。

ヤフーのブログによると「Yahoo!ニュース」の主要ユーザーは30~50代代の男性だが、コメント機能に限っては特に40代が突出して高い傾向がみられるという。ではなぜコメント機能を運営し続けるのだろうか。これに対し「多様な意見を知る、議論に参加する、自分の意思を表明する、といった体験を届ける場」と説明している。つまりニュースは受け取るばかりではなく、多様な価値観解釈を共有しあうものだという。ニュースに接して自らの意見を述べることに異論はない。しかしなぜ悪質なコメントが溢れるのか、その問題点を探るべきだろう。しばしば「ヤフコメはひどい」というご指摘があり、閉鎖を求める声が多かったが、やめる気配は毛頭ないようだ。蛇足ながら、私はコメント欄を非表示にしている。根本的な解決策ではないが、とりあえず酷いコメントを不快な思いをしてまで読みたくないのからである。

WWW Yahoo!ニュースのコメント欄を非表示にする方法 | パソコン&スマートフォン | find366

2021年12月18日

前衛芸術の一翼を担ったマン・レイは写真の革新者だった

Kiki de Montparnasse
Kiki de Montparnasse, Paris, 1924
Man Ray (1890–1976)

マン・レイは主に、ダダイズム運動とシュルレアリスム運動の両方にまたがる写真作品で知られている。1915年、フランスの芸術家マルセル・デュシャンと出会い、共に多くの発明を行い、ニューヨークでダダ芸術家のグループを形成した。1921年、レイはフランスのパリに移り、ダダイジムやシュルレアリスムの芸術家や作家たちと交流を深めた。写真の実験では、レイヨグラフと呼ばれる「カメラのない」写真を作る方法を発見した。マン・レイは、ロシアからのユダヤ人移民の息子として、エマニュエル・ルドニツキーとして、1890年8月27日に生まれた。父親は仕立て屋をしていた。幼い頃、一家はブルックリンに移り住んだ。レイは幼い頃から優れた芸術性を発揮していた。1908年に高校を卒業すると、フェレールセンターでロバート・アンリ(1865–1929)にデッサンを習い、アルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)のギャラリー291にも出入りするなど、芸術への情熱を燃やした。スティーグリッツの写真に影響を受けたことが明らかになったのは後のことである。レイはパブロ・ピカソ(1881–1973)ワシリー・カンディンスキー(1866–1944)マルセル・デュシャン(1887–1968)などの作品が展示された、1913年のアーモリーショーでもインスピレーションを得る。

lack and White
Black and White, Paris, 1926

同年、彼はニュージャージー州リッジフィールドの急成長しているアートコロニーに引っ越した。キュービズム風の絵画を試した後、抽象的な表現へと移行してゆく。1914年、ベルギーの詩人アドン・ラクロワ(1887–1975)と結婚したが、数年後に破局を迎えた。 この頃、芸術家仲間のマルセル・デュシャンと親しくなり、より長く続く友情を築いてゆく。デュシャンやフランシス・ピカビア(1879–1953)らとともに、ニューヨークのダダイズム運動の中心 人物となった。ダダとはフランス語で「揺り木馬」を意味し、既存の芸術や文学の概念を覆し、自発性を重んじるものである。この頃のレイの代表作のひとつが、2つの拾い物を組み合わせた彫刻 "The Gift"(贈り物)だった。アイロンの作業面に鋲を貼り付けて制作したものである。1921年、レイはパリに移り住んだ。ガートルード・スタイン(1874–1946)やアーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)などの著名人と交流し、前衛芸術の一翼を担っていた。そして芸術家や文学者たちのポートレートで有名になる。またファッション写真家としても活躍し『ヴォーグ』などの雑誌に作品が掲載された。

Long-haired woman
Long-haired woman, 1929

これらの商業活動は、彼のファインアート活動を経済的に支えたことは言うまでもない。p>写真の革新者であるレイは、暗室で偶然に面白い画像を作り出す新しい技法を発見した。感光紙の上に物を置き、光を当てることで物体の形を焼き付ける方法である。この時期のレイの有名な作品に、1924年の "Violin d'Ingres"(アングルのヴァイオリン)という作品がある。これは、フランスの新古典主義画家ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(1780–1867)の絵画『ヴァルァルパイソンの浴女』のモチーフにした作品である。彼の恋人であるパフォーマーのキキの背中ヴァイオリンのf字孔を描いた写真である。また映画の可能性を追求し "L'Etoile de Mer"(海の星)などのシュルレアリスムの名作を生み出した。また、この頃、サバティエ効果(ソラリゼーション)と呼ばれる、画像の一部が反転、銀色のゴーストのような質感を加える技法を試している。

Rayograph
The Kiss, Rayograph, 1922

パリ時代で特筆すべきは、無一文の老写真師ウジェーヌ・アジェ(1857–1927)の「発見}である。アジェは40年近くもの間、パリの建物やモニュメント、風景などを撮影し、そのプリントを芸術家や出版社に売って貧しい生活を送っていた。彼の作品を雑誌にレイは掲載した。そしてレイの助手をしていたことがあるベレニス・アボット(1898–1991)は今までで一番美しい写真と称するパリの写真に心打たれる。アボットはその写真に独創性を見出し、老人と親交を深めていった。1927年にアジェが亡くなると、アボットは彼のすべてのプリント、スライドグラス、ネガを購入することにした。この膨大なコレクションに夢中になり、その後40年間、アジェの作品の普及と保存に努め、展覧会や本の出版、資金集めのためのプリントの販売などを行なった。レイは今度はリー・ミラー(1907-1977)という別のミューズを見つけ、作品に登場させた。1932年のファウンドオブジェクト彫刻「破壊されるべき物体」には彼女の目が切り取られており「天文台の時間」(1936年)の空には彼女の唇が描かれている。

Juliet Browner
Juliet Browner Ray, Paris, 1960s

1940年、レイはヨーロッパでの戦争を逃れてカリフォルニアに移り住んだ。翌年、モデルでダンサーのジュリエット・ブラウナー(1911–1991)と結婚し、マックス・エルンスト(1891–1976)およびドロテア・タニング(1910–2012)とのダブル結婚式をあげた。1951年、パリに戻ったレイは、さまざまな芸術的メディアを探求し続けた。彼は絵画と彫刻に多くのエネルギーを注いだ。そして、新たな方向性として、レイは回顧録の執筆に着手する。自伝「セルフ・ポートレート」が1965年に出版された。晩年のマン・レイは、亡くなるまでの数年間、ニューヨーク、ロンドン、パリなどで展覧会を開催し、芸術作品を発表し続けた。1976年11月18日、愛するパリで逝去。86歳であった。彼の革新的な作品は、世界中の美術館で展示されており、その芸術的なウィットと独創性が記憶されている。かつてレイはインタビューに対し「どんなカメラを使うのですか」と尋ねられると「どんな絵の具と絵筆を使うのか画家に尋ねますか。どんなタイプライターを使うのか作家に尋ねますか」と答えている。けだし名言である。友人のマルセル・デュシャンは「絵筆を扱うように、カメラを心の奉仕のための、単なる道具として扱ったことが彼の功績である」と述懐している。

MoMA  Man Ray (1890–1976) Biography, Works and Exhibitions | The Museum of Modern Art

2021年12月12日

バウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジの世界

Photogram Work
Photogram Work by László Moholy-Nagy, 1925-26
László Moholy-Nagy

ラースロー・モホリ=ナジは、20世紀のハンガリーを代表する芸術家である。絵画と写真を得意とし、教師としても活躍した。彼の作風は、芸術は社会的な目的を果たすべきであり、自律的なものであってはならないという、構成主義の芸術哲学に大きく影響を受けている。また現代の技術を芸術に統合するという考えを強調していた。モホリ=ナジは1895年7月20日、ユダヤ系ハンガリー人の家庭に生まれ、ラースロー・ヴァイシュと名付けられた。その後、父親が家を出て、母親の友人であるナジが子育てを手伝ってくれたことから、ナジに姓を変えた。彼の少年時代の一部は、ハンガリーの町エイダで過ごした。幼少期にはハンガリー改革派教会でカルヴァン派に改宗した。セゲドにあるギムナジウムという高等学校で教育を受けた。第一次世界大戦が勃発すると、ブダペストで法律を学んだ。その直後、徴兵され戦地で大怪我をした。戦場から戻ってきた彼は、療養中に芸術に親しむ毎日を送り始める。そして雑誌 "Jelenkor"(現代)や "Ma"(今日)などを拠点にした芸術活動家グループと親しくなった。

multiple exposures
Portrait with multiple exposures, 1927

1918年に除隊すると、ハンガリーのフォーヴ芸術家ロベール・ベレニー(1887–1953)が経営する私立美術学校に入学した。共産主義体制が崩壊すると、セゲドに戻り、そこで作品を発表した後、ウィーン、ベルリンへと移った。モホリ=ナジは、1923年にバウハウスの基礎コースの講師に就任した。これ以降、表現主義的な教育は停止し、学校の中心的な目的であるデザインと産業の統合に集中することになる。モホリ=ナジの天才的な創造性を含む、芸術家の多才さはバウハウスで知られていた。写真、タイポグラフィ、工業デザイン、絵画、彫刻、版画など、さまざまな分野での生涯にわたる努力と熟練が認められたのである。

Stage Setting
Stage Setting for State Opera, Berlin, 1929

彼が得意としたのはやはり写真だった。彼の信念である「ニュービジョン」によれば、写真とは人間の目では完全には不可能な、まったく新しいスペクトルで現実を捉える手段である。彼の教えは、様々な形の芸術の無限の素晴らしさを探求する生徒たちに大きな影響を与えた。また「素材から建築まで新たなビジョン」と題して、自身の芸術論や教育論などをまとめた本を執筆した。モホリ=ナジは、感光性印画紙の表面に直接物を置いて光を当て、カメラを使わずに撮影するフォトグラムの実験を行った。そして "Lichtrequisit einer elektrischen Bühne"(電動ステージの照明プロップ)という作品は、彼の最も偉大な業績とされている。動くものを通して光を投射し、近くの面に影を作ることを目的とした装置である。

Light-Space Modulator
Light-Space Modulator, kinetic sculpture, 1922-30

これはドイツ工作機械展のためにハンガリー人建築家と共同で制作した動く彫刻と解釈されることが多い。死後、この装置は「光―空間変調器」と呼ばれるようになった。1927年から1929年にかけて、オランダの前衛的な雑誌『インターナショナル・レヴュー』の写真編集者として活躍した。1920年代後半にバウハウスの教職から退いた後、ベルリンではデザイナーとして高く評価された。モホリ=ナジは、ナチスが政権を握るとイギリスに渡り、教職から商業写真まで様々な仕事をする。その後ニューバウハウスのディレクターとしてアメリカに招かれ、最期までシカゴで過ごした。1946年11月24日、白血病で他界、51歳だった。

university László Moholy-Nagy (1895–1946) A Short Biography of the Artist by Hattula Moholy-Nagy

2021年12月10日

一休宗純『狂雲集』を読む

紙本淡彩一休和尚像
紙本淡彩一休和尚像 伝:墨斎筆(東京国立博物館蔵)

南海電鉄住吉大社駅を降りて、路面電車の軌道を渡ると大きな太鼓橋が見えた。反橋(そりばし)と呼ぶそうだ。雪道ですべり転んで、足首を骨折した後遺症が残っているので、一瞬ためらったが登ることにした。川端康成が「上るよりもおりる方がこはいものです」と書いたことでも知られているが、てっぺんからは登山用のステッキを頼りにおそるおそる降りた。四角柱の鳥居をくぐると、第一本宮から第四本宮にいたる「住吉造」と呼ばれる四棟の本殿が視界に入った。一休宗純は次のような漢詩を詠んでいる。富士正晴『一休』(日本詩人選27 筑摩書房)掲載の白文(原文の漢文)および読み下し文を引用してみよう。[注]

優遊且喜薬師堂  優遊して且つ喜ぶ薬師堂
毒気便々是我腸  毒気便々是れ我が腸
慙愧不管雪雲鬂  慙愧管せず雪雲の鬂
吟尽厳寒秋点長   吟じ尽す厳寒秋点長し
筑摩書房(1971年)

柳田聖山はこれを「ぶらりとやってきて、何とまあ嬉しいことか、薬師さまの御堂ではないか、毒気で肚いっぱいの、救われぬボクであった。ありがたや、雪か霜のような、髪の白さを気にかけず、悲しい歌にききほれて、長い厳しい冬の一夜が(あっという間に)過ぎたのである」(柳田聖山訳『狂雲集』中公クラシックス)と訳している。1470(文明二)年、一休が盲目の旅芸人、森女(しんにょ)が歌う艶歌に聞き惚れたときのことを詠んだものである。さて薬師堂は何処にあるのだろうか。水上勉著『一休を歩く』(集英社文庫)によると、住吉大社の第一本宮だという。同書には元々は神仏混合の社で、第一本宮に薬師如来を祀ったいう記述がある。社務所に尋ねたところ、第一本宮に薬師如来はないが、かつて広大な敷地を有した神宮寺があったことは確かで、本尊は薬師如来だったという。ただ『狂雲集』に登場する薬師堂が現在の第一本宮とは言い切れないという。水上氏はここで舞楽舞を観て、森女は巫女ではなかったかと逞しい想像をしている。しかし盲目の女性がはたして巫女を務められるか、ちょっと疑問である。一休が艶歌を聴いたと明記しているし、たぶん瞽女(ごぜ)の身分ではなかったかと私は想像している。翌1471(文明三)年、一休は住吉大社で森女と再会、以後同棲することになった。78歳と高僧と30歳前後の女性の恋である。

楚台応望更応攀  楚台応に望むべし応に攀ずべし
半夜玉床愁夢顔  半夜の玉床愁夢の顔
花綻一茎梅樹下  花は綻ぶ一茎梅樹下
凌波仙子遶腰間  凌波の仙子腰間を繞る
中央公論社(2001年)

これは「美人陰有水仙花香」(美人の陰〔ほと〕に水仙の花の香有り)という題がついた漢詩だが、要するに性愛を赤裸々に詠んだものである。柳田聖山はこれを「楚王が遊んだ楼台を拝んで、今やそこに登ろうとするのは、人の音せぬ夜の刻、夫婦のベッドの悲しい夢であった。たった一つだけ、梅の枝の夢がふくらんだかと思うと、波をさらえる仙女とよばれる、水仙の香が腰のあたりに溢れる」と訳している。1474(文明六)年に一休は第47世大徳寺住持となり、戦火に焼亡した大徳寺の復興を手がける。そして現京田辺市薪里ノ内の酬恩庵一休寺に移り、1481(文明十三)年に同庵で入寂するまで、二人は仲良く一緒に暮らしたのである。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっている。そして以下の辞世の句を残した。

朦々として三十年 淡々として三十年
朦々淡々として六十年 末期の糞をさらして梵天に捧ぐ
借用申す昨日昨日
返済申す今日今日
借りおきし五つのもの(地水火風空)を
四つ(地水火風)返し
本来 空に いまぞもとづく

[注] 柳田聖山訳『狂雲集』には白文の記載がなく。読み下し文に句読点がついている。漢字は象形文字であり、それ自体が美しいので、富士正晴『一休』掲載の白文および読み下し文を引用、現代語訳のみ柳田聖山訳を引用した。なお『狂雲集』自体の理解のためには後者が分かりやすいので、併せて写真と共に紹介した。

PDF  芳澤元「一休宗純と三途河御阿姑」(東京大学史料編纂所研究紀要第28号)の表示とダウンロード

2021年12月8日

リチャード・アヴェドンの洗練されたポートレート写真

In the American West
"In the American West"
Sandra Bennett, Twelve Year Old, Colorado and Ronald Fischer, Beekeeper, California. 1980-1981
Richard Avedon

ジャック・クストー(1910–1997)ジャン・ジュネ(1910–1986)アンディ・ウォーホル(1928–1987)ジミー・デュランテ(1893–1980)レナ・ホーン(1917–2010)オードリー・ヘプバーン(1929–1993)ブリジット・バルドー(1934-)の共通点とは? 彼らは写真家リチャード・アヴェドンがフィルムに収めたパーソナリティの一部に過ぎない。50年以上にわたり、リチャード・アヴェドンのポートレートは、アメリカの一流雑誌のページを飾ってきた。その荒々しいイメージと被写体のキャラクターに対する見事な洞察力により、彼はアメリカを代表するポートレート写真家の一人となった。1923年5月15日、ニューヨークに生まれたリチャード・アヴェドンは、高校を中退し、商船隊の写真部に所属した。1944年に帰国すると、デパートのカメラマンとして就職、2年後には『ハーパース・バザー』のほか『ヴォーグ』『ルック』など多くの雑誌に作品を提供した。初期の頃のアヴェドンは、主に広告の仕事で生計を立てていた。しかし彼が最も情熱を傾けたのはポートレートであり、被写体の本質を表現する能力だった。アヴェドンの知名度が上がるにつれ、様々な分野の著名人と出会い、写真を撮る機会も増えていった。遠くて近寄りがたい有名人を個人的に撮影するというアヴェドンの能力は、一般の人々や有名人自身にもすぐに認められた。

Elephants
Dovima with Elephants, Evening Dress by Dior, Paris, 1955

多くの人が自分の最も公になるイメージを彼に求めたのである。彼の芸術的なスタイルは、ポートレートに、洗練された権威ある感覚をもたらした。そして何よりも、アヴェドンは被写体をリラックスさせる能力に長けていたため、真の意味で親密で永続的な写真を生み出すことができたのである。アヴェドンはそのキャリアを通じて、独自のスタイルを維持してきた。そのミニマリズムで有名なポートレートは、白い背景の下で、十分な照明を受けて撮影されている。プリントされた画像には、フレームに入れられた大判フィルムの黒い輪郭が残っている。空っぽのスタジオというミニマリズムの中で、アヴェドンの被写体は自由に動き回り、その動きがイメージに自然な感覚をもたらした。人物の一部しか写っていないことも多く、その不完全さが親密さを感じさせる。多くの写真家は、一瞬を切り取ることと、形式的なイメージを用意することのどちらかに関心があるが、アヴェドンはその両方を実現する方法を見つけたのである。

 Bob Dylan
Folk singer Bob Dylan, Central Park, New York, 1965

雑誌業界での仕事以外にも、アヴェドンは多くのポートレートの書籍に協力している。1959年にはトルーマン・カポーティ(1924–1984)と共同で、20世紀の最も有名で、重要な人物たちを撮影した写真集を制作した。見聞録には、バスター・キートン(1895– 1966)パブロ・ピカソ(1881-1973)ロバート・オッペンハイマー(1904–1967)グロリア・ヴァンダービルト(1924–2019)フランク・ロイド・ライト(1867–1959)メイ・ウェスト(1893–1980)の画像が含まれていた。また同時期に精神病院の患者を撮影したシリーズも始めている。スタジオという管理された環境を病院に置き換えることで、彼は他のポートレートのような天才的な作品を、有名人ではない人々で再現することができたのである。精神障害者の生活の残酷な現実は、彼の他の作品とは対照的だった。数年後、彼は漂流者、カーニバルの労働者、労働者階級のアメリカ人をスタジオで撮影したシリーズで、再び有名人のポートレートから離れてゆく。

Veruschka von Lehndorff
Artist and model Veruschka von Lehndorff, New York, 1967

1960年代を通じて『ハーパース・バザー』誌に携わり、1974年にはジェームズ・ボールドウィン(1924–1987)と共同で "Nothing Personal"(個人的なものは何もない)という本を制作した。1943年にニューヨークで出会ったボールドウィンとアヴェドンは、30年以上にわたって友人であり、共同制作者でもあった。1970年代から1980年代にかけて、アヴェドンは『ヴォーグ』誌の仕事を続け、この数十年間で最も有名なポートレートを撮影した。1985年、アヴェドンは代表作 "In the American West"(アメリカの西部にて)を発表した。16州計762名の人物を撮影したというたポートレート集で、肉屋、炭鉱労働者、囚人、ウェイトレスなどさまざまな人々が、白い背景の前で大判カメラを使って撮影されている。ベルリンの壁が崩壊した直後の1989年にドイツを訪れ、統一後初めてブランデンブルク門で開かれるドイツの新年会を撮影しようとした。

Audrey Hepburn
Film actress Audrey Hepburn, New York, 1967

そこで出会ったのは祝賀の雰囲気ではなく、暴力と不安に満ちたものだった。この経験を記録した一連の写真は、通常の作品とは全く異なる。熱狂的で混沌とした写真で、顔のクローズアップが多く、ジャーナリスティックな色合いを帯びているにもかかわらず、ポートレートが依然としてアヴェドンの写真衝動の中心であることを強調している。1992年『ニューヨーカー』誌のスタッフ・フォトグラファーとして働き始めたが、これは彼のフォーマルなスタイルを再活性化させ、演劇性を高める機会とななった。同年秋には、ニューヨークの国際写真センターの後援で、一連のマスタークラスの教鞭をとり始めた。また、カルバンクライン、ヴェルサーチ、レヴロンなどのブランドのために、印刷物や放送用の革新的な広告作品を制作した。2004年10月1日、『ニューヨーカー』誌の取材でテキサス州サンアントニオに滞在中、脳出血のため死去、81歳だった。

gallery Richard Avedon (1923–2004) The Work, Publications, Exhibitions, About, Social Media

2021年12月6日

犬を愛撮したエリオット・アーウィット

Two dogs in goggles
Two dogs in goggles, Yokohama, Japan, 2003
Elliott Erwitt

エリオット・アーウィットは1928年6月26日、フランスのパリで生まれた。1939年、アーウィットが10歳のとき、ロシア出身の一家はアメリカに移住した。ニューヨークのニュースクール・フォー・ソーシャル・サイエンスとロサンゼルス・シティ・カレッジで1950年まで写真と映画制作を学ぶ。その間、アシスタント・フォトグラファーとして活躍、エドワード・スタイケン(1879-1973)やロバート・キャパ(1913–1954)などの著名な写真家と出会う機会を得た。アーウィットは、FSA(Farm Security Administration; 農業安定局または農業保障局)のロイ・ストライカー(1893-1975)に雇われ、スタンダードオイル社のプロジェクトを担当した。その後、フリーランスの写真家として活動を始め『ライフ』『ルック』『ホリデイ』誌などで活躍した。

Felix, Gladys and Rover
Felix, Gladys and Rover, New York, 1974

1953年、アーウィットは写真家集団マグナムフォトに参加し、国際的なプロジェクトに参加することができた。アーウィットが広く取り上げてきたテーマは犬。『エリオット・アーウィットの犬』(2008年)『ワンワン』(2005年)『ドッグ・ドッグ』(1998年)『雌犬の息子』(1974年)と、4冊の本で犬が取り上げられている。一番最初の本のタイトルはとても興味深くユーモラスである。アーウィットは犬を、ある状況では面白く、人間のいくつかの性質を持っていると表現している。その後、2009年に『アンドレ・S・ソリダールの芸術』を出版し、2011年にはロンドンのポール・スミス・ギャラリーで作品展を開催した。

Two bull dogs
Two bull dogs and their owner, New York, 2000

これに先立つ2002年、アーウィットは、写真の芸術と分野への貢献が認められ、英国王立写真協会から100周年記念メダルと名誉フェローシップを授与された。セーターを着たチワワと女性の足の大きさを対比させた街頭写真(1946年)ノースカロライナ州の噴水(1950年)、窓からの光に照らされたベッドの上の子供を見つめる、アーウィットの妻の写真(1953年)カリフォルニア州で車のサイドミラー越しに撮影されたカップルの写真(1956年)など、彼の代表的な写真はすべてアメリカで撮影されたものだ。写真だけでなく、1970年代から映画にも時間とエネルギーを費やしてきた。

family
A head of the family, Paris, France, 1989

テレビのコマーシャルフィルム、ドキュメンタリー、そして長編映画を制作した。例えば『アフガニスタンのヘラートのガラス職人』(1977年)『赤、白、そして青い草』(1973年)『美しさは痛みを伴わない』(1971年)『アーサー・ペン:映画監督』(1970年)などである。これ以外にも『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』(2009年)では追加撮影を、『ボブ・ディラン:ノー・ディレクション・ホーム』(2005年)ではスチール撮影を、1970年代の『ギミー・シェルター』ではカメラオペレーターを務めた。

looking at her baby
A mother and her cat looking at her baby, New York, 1953

2011年には、ニューヨーク・ドキュメンタリー映画祭の「エリオット・アーウィットの夕べ」で、彼の作品の数々が上映された。また、ダグラス・スローン監督のドキュメンタリー映画『エリオット・アーウィット:私は犬に向かって吠える』にも出演している。エリオット・アーウィットは、世界的に有名な写真家であり、商業写真の分野で成功を収め、写真に多大な貢献をしてきた。皮肉や洒落、ユーモアを作品に取り入れることで知られているが、一方で、冷静で感情的な写真も制作している。その作品は、何の苦労もなく作られているように見えるが、技術や洞察力、タイミングには細心の注意が払われている。

gallery Meet our Artists: Elliott Erwitt (born 1928) | Holden Luntz Gallery | Palm Beach, Florida

2021年12月4日

ボブ・ディランはなぜ絵を描き始めたのか

Wigwam Motel
Wigwam Motel, Holbrook, Arizona, 2016
Bob Dylan by Joan Baez

シンガーソングライターであるボブ・ディランは、その音楽ほどには知られていないが、実はドローイング、ペインティング、シルクスクリーン・オン・キャンバスなどの作品は、世界的に知られている。どうやら気まぐれな天が二物を与えたようである。ディランは、1960年代初頭にニューヨーク のにグリニッジ・ヴィレッジで若いフォークシンガーとして登場して以来、ずっと優れた音楽作品を作り続けてきた。「風に吹かれて」や「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」などの曲を世界中の聴衆に届けながら、旅先で出会った人々や場所から受けた印象を作品に反映させている。1989年から1992年にかけて、アメリカ、ヨーロッパ、アジアなどをツアーしながら制作された、絵画シリーズの "Drawn Blank" は、ディランの芸術作品の重要な部分を占めている。これらの表現主義的なドローイングと、そこから生まれたペインティングは、街角や室内の風景、路傍の建物、ランドスケープ、ポートレート、ヌード、静物など、彼の音楽と同様に詩的でパーソナルなイメージを表現している。ディランは2016年11月2日付け『ヴァニティフェア』誌デジタル版で、なぜ、そしていつ絵を描き始めたのかを語っている。

Bob Dylan's Endless Highway
Bob Dylan's Endless Highway 61 Revisited, 2015–2016

すなわち「私にも誰にも誤解されない絵を描くことを考えていた。ロンドンのハルシオン・ギャラリーがアメリカの風景画を展覧会に出すというアイデアを持ってきたとき、彼らは一度だけ言えばよかった。私はそれを心に刻み、実行したからだ」「これらの作品に共通するテーマは、アメリカの風景と関係している。土地を縦横に移動しながら、どのようにそれを見ているのか。メインストリームから離れ、自由なスタイルでバックロードを旅することだ」「私のアイデアは、物事をシンプルにして、外見的に見えるものだけを扱うことだった。これらの絵画は、最新のリアリズムであり、古めかしく、最も静的でありながら、見た目には震えている。

>Man on a Bridge
Man on a Bridge, 2010-2012

現代の世界とは相反するものです。しかし、それは私がやっていることです。サンフランシスコのチャイナタウンの通りは、窓のない企業のビルからわずか2ブロック離れたところに立っている。しかしこれらの冷たい巨大な構造物は、私が見たり、選んだり、一部になったり、入り口を得たりする世界において、私にとって何の意味も持たない」「マスメディア、コマーシャルアート、有名人、消費者や製品のパッケージ、看板、コミックストリップ、雑誌広告など、消費者文化や大衆文化を否定しようとする意識があった」「Beaten Path の作品は消費者文化の日常的なイメージとは異なる主題を表現している。

Manhattan Bridge
Manhattan Bridge, Downtown New York, 2015–2016

どの絵も、見る人はそれが実際の物体なのか、それとも妄想なのかを考える必要はない。その絵が実際に存在する場所を訪れれば、同じものを見ることができる。それが私たちを結びつけるものなのだ」云々。ディランの歌に感服することはしばしばだが、その思想が絵の中に潜んでいる。蛇足ながらシンガーソングライターのジョーン・バエズも絵が上手で、ソーシャルメディアで公開しているが、ボブ・ディランの肖像画も描いている。なお下記リンク先で『ヴァニティフェア』誌の原文を読むことができる。

painting In His Own Words: Bob Dylan told why and when he started painting | Vanity Fair

2021年12月1日

写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間

Mount Aso
Mount Aso-san, Kumamoto, Japan, 1965

アンリ・カルティエ=ブレッソンは1908年8月22日、フランスのシャンテループ・アン・ブリーの裕福な繊維商の家に、5人兄弟の長男として生まれた。母親のマルトは、パリのルーブル美術館に連れて行ったり、室内楽のコンサートに参加させたり、定期的に詩を読んで聞かせるなど、芸術に親しむ教育をした。父親のアンドレは厳格な人で、繊維業で成功することに没頭していた。アンリは幼い頃から「父の後を継がない」と誓っていたという。ブレッソンが絵画に興味を持ったのは、彼がまだ5歳のときだった。叔父であるルイは、優れた画家であり、1910年にローマ賞を受賞している。2人はルイのアトリエで何時間も一緒に過ごし、アンリは叔父のことを "神話の父 "と呼ぶようになった。しかし、叔父のアトリエでの修行は、ルイが第一次世界大戦で戦死したことにより、突然、悲劇的に終わりを告げた。幼いブレッソンは、2人の兄も戦争で失った。ひとりで絵を描き続け、絵を描くことと読書をすることで、現実世界の混乱から逃れる手段を見つけていた。最終的には、両親が2人の美術教師を雇い、カトリックの学校に通いながら指導を受けた。当時、ブレッソンはまだ写真には興味がなかったが、D・W・グリフィス(1875–1948)やエリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885–1957)の作品など、いくつかの映画を見て、大戦後に映画を制作する際の重要なインスピレーションの源とした。

Henri Cartier-Bresson and Martine Franck

父が息子をフランスで最も有名なビジネススクールに通わせたいと願っていたにもかかわらず、高等学校教育の修了を認証する国家試験に3回も落ちてしまった。1926年、ブレッソン家を出てモンパルナスにあるフランスのキュビズムの彫刻家、画家であるアンドレ・ロート(1885–1962)の美術学校で学んだ。ロートはキュービズムの美学と、ニコラ・プッサン(1594–1665)やジャック=ルイ・ダヴィッド(1748–1825)といったフランスの新古典主義の画家たちの技術的な慣習を組み合わせることで、モダニズムと伝統を結びつけることができると考えていた。彼の学生たちは、オールドマスターの作品を学ぶためにルーヴル美術館に頻繁に足を運び、ヤン・ファン・エイク(1390–1441)やピエロ・デラ・フランチェスカ(ca.1415–1492)といったルネッサンス期の著名な画家たちの作品を見て、新進気鋭の画家は感銘を受けた。新旧の良いところを組み合わせたロートは、ブレッソンにとって「カメラのない写真」の師匠となった。短期間ではあるが、社交界の肖像画家であるジャック=エミール・ブランシュ(1861–1942)から肖像画を学んだ。1928年から1929年までの1年間、イギリスのケンブリッジ大学マグダレンカレッジで美術と文学、そして英語を学ぶ。しかし1930年にフランス軍に徴兵され、パリ郊外のル・ブルジェに駐屯することになったため、学業から離れざるを得なくなった。兵役から戻った彼はかつての美術教師の紹介で、シュルレアリスムの作家ルネ・クルヴェル(1900–1935)をはじめとするフランス美術界の重要な人脈を得た。二人は意気投合し、クルヴェルとブレッソンは、パリの賑やかなカフェに通い、他のシュルレアリストたちと首都のエキサイティングなナイトライフを楽しんだ。

Prostitutes
Prostitutes, Calle Cuauhtemoctzi, Mexico, 1934

ルネ・クルヴェルのニヒリズム、反抗的な雰囲気、そしてシュルレアリスムのマニフェストに示された、哲学への献身に惹かれたのだった。ブレッソンはシュルレアリスムの自然発生的な表現や直感に頼った表現に惹かれて、自分の実験にもそのような考え方を取り入れていった。クルヴェルを通じて、シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトン(1896–1966)をはじめ、マックス・エルンスト(1891–1976)マルセル・デュシャン(1887–1968)マン・レイ(1890–1976)などと出会った。また現代の哲学や文学に興味を持ち、アルトゥル・ショーペンハウアー(1788–1860)フリードリヒ・ニーチェ(1844–1900)フョードル・ドストエフスキー(1821–1881)アルチュール・ランボー(1854–1891)マルセル・プルースト(1871–1922)ジークムント・フロイト(1856–1939)カール・マルクス(1818–1883)フリードリヒ・エンゲルス(1820–1895)などの作品を読み漁った。確かにシュルレアリスムに惹かれ、その思想や個性に大きな興味を抱いていた。しかし最終的にはのロバート・キャパ(1913–1954)の「ラベルに気をつけて。安心感を与えてくれるが、誰かが『小さなシュルレアリスムの写真家』という、一生消えないラベルをきみに貼り付けるだろう。フォトジャーナリストというレッテルを代わりに受け取り、もう一つのレッテルは自分自身のために、心の中にしまっておこう」というアドバイスに従うことにした。1931年、兵役義務を終えたブレッソンは、ジョゼフ・コンラッド(1857–1924)の小説 "Heart of Darkness"(闇の奥)を読み、都会の生活から抜け出して冒険をしようと、フランス植民地時代のアフリカのコートジボワールに渡った。獲物を撃ち、その肉を村人に売って生活した。アフリカに行く前に中古のクラウスカメラを手に入れた。

Banks of the Seine
Sunday on the Banks of the Seine, Paris, 1938

1年間の冒険は黒水熱という寄生虫の病気にかかったことで終わりを迎えた。症状は悪化し家族に最期の願いを込めた絵葉書を送るほどだった。フランスに戻ると、まずマルセイユで療養した。偶然にも、ハンガリーの写真家マーティン・ムンカッチ(1896–1963)が撮影した、東アフリカの湖畔で裸で波に向かって走る3人の少年の写真 "Three Boys at Lake Tanganiyka"(1929年)を目にしたのである。彼らのシルエットは一瞬の出来事を印象的に捉えており、ブレッソンはそれまで写真に触れてこなかった真剣さで写真を撮るようになる。その時のことを「写真は一瞬にして永遠を定着させることができるということを突然理解した」と語っている。その1年後、初めてライカを購入した。このカメラは市場に出回っていなかったもので、小型で持ち運びが容易なため、ブレッソンの写真に対する即興的なアプローチを容易にし、迅速な行動を可能にし、押しつけがましくなく被写体の率直なイメージを撮影することができた。1932年から1933年にかけて、彼は友人たちと一緒にカメラを持ってヨーロッパとアフリカを旅し、1934年の大半はメキシコを放浪した。この3年間に制作した写真の多くは、出版物のために依頼されたものであったが、展覧会用のポートフォリオの作成も始めていた。第二次世界大戦の直前にニューヨークに渡り、写真家のポール・ストランド(1890–1976)からモンタージュの原理を1年間学んだ後、1935年にジュリアン・レヴィ・ギャラリーで初の写真展を開催した。1936年にはパリに戻り、悪化するヨーロッパの政治情勢を動画で捉えようと決意し、ジャン・ルノワール(1894–1979)と共に共産党のプロパガンダ映画を制作した。この映画 "La vie est à nous"(人生は我らのもの)は、フランスを支配していた有力なファミリーを攻撃したものである。

Behind the Gare St. Lazare
Behind the Gare St. Lazare, Paris, 1932

続くルノワール作品ではブレッソンがイギリス人の執事を演じた "La Regle du Jeu"(ゲームのルール)は、今では古典となっているが、貴族とその使用人の関係を風刺したコメディである。その後スペイン共和国を支援する3本のドキュメンタリー映画を制作した。1937年には、ロバート・キャパ(1913–1954)やデヴィッド・シーモア(1911–1956)とともに、新たに創刊された共産主義新聞「セ・ソワール」のスタッフとなり、写真活動を再開した。第二次世界大戦が始まると、写真家としてフランス軍に入隊したが、捕虜となり、ドイツの労働キャンプに送られた。3回の脱走を試みたが、結局、3年の歳月を費やした。ライカを埋めたヴォージュの農場に戻り、カメラを掘り起こして、終戦までそこに留まったという。 農場では最初の妻ラトナ・モヒニ(1904–1988)と出会い、MNPGD(戦勝捕虜流刑者)で地下抵抗活動を続けた。連合軍がノルマンディーに上陸したことがラジオで報じられると、ドイツの占領から解放されたパリの様子を取材した。キャパは、オマハ・ビーチでの上陸作戦における連合軍の侵攻、そしておそらく "The Magnificent Eleven"(素晴らしい11コマ)と題された第二次世界大戦全体を象徴するような写真を撮っていた。実際、この2人は、壊滅的な戦争の死の瞬間を最も印象的に撮影した写真を提供する役割を担っていた。ブレッソンは1946年に、フランス人捕虜の帰還を描いた映画を制作している。このようにしてブレッソンとキャパは、戦時中のフォトジャーナリズムを決定づけたのである。1947年、写真家仲間のキャパ、シーモア、ジョージ・ロジャー(1908–1995)とともにマグナム・フォトを共同設立した。

Scrambles
Scrambles in front of a bank to buy gold, China, 1948

マグナムは、写真家の利益、ネガの所有者、すべての複製権を守るための機関であった。創設メンバーは、ブレッソンがアジアを撮影するなど、分担して世界を旅した。彼の政治的与はしっかりとした左派であり、ジャーナリスティックな写真撮影に専念、特に共産主義の報道機関に関心を持っていた。アジアでの彼の仕事には、中国の共産主義への移行、パキスタンの分割、マハトマ・ガンジー(1869–1948)の死などの記録があった。1950年には、ガンジーの取材で、その年の最優秀ルポルタージュに贈られるUSカメラ賞を受賞し、南京と上海で撮影した写真で、権威ある海外記者クラブからも賞を受けた。彼のキャリアを最も決定づけたひとつが、1952年に出版された自作の写真集 "The Decisive Moment"(決定的瞬間)である。表紙は友人のアンリ・マティス(1869–1954)がデザインし、126枚の写真が掲載されている。これは彼が世界中から集めたイメージのポートフォリオの中から選ばれたものである。タイトルは17世紀の聖職者であり政治運動家でもあったレッツ枢機卿(1613–1679)の言葉 "Il n'y a rien dans ce monde qui n'ait un moment decisif"(この世界には決定的な瞬間がないものはない)に由来する。この言葉は、彼の最初のメジャーな出版物のタイトルであるだけでなく、彼の美学的な存在意義となった。私にとって写真とは「ある出来事の重要性と、その出来事を適切に表現するための正確な形の構成を、ほんの一瞬のうちに同時に認識することである」と説明している。

Fidel Castro Demonstration
Fidel Castro Demonstration, New York, 1960

1955年、ルーブル美術館内のパヴィリオン・ド・マルサンで開催された初の展覧会までに、ウィリアム・フォークナー(1897–1962)トルーマン・カポーティ(1924–1984)マルセル・デュシャン(1887–1968)などの著名人のポートレートを撮影し、国際的な評価を得ていた。彼の2番目の妻は、肖像画家としての彼の人気と、それぞれの状況を最大限に活用する能力が、彼の成功の鍵だったと後に語っている。彼は誰かに紹介されることを拒まず、誰と話しても(支配者であろうと貧困者であろうと)常に感受性を持ち、最終的には多くの重要人物とのつながりを持っていた。これらの特性のおかげで、他の写真家にはない写真を入手することができたのである。それからの10年間、彼はメキシコ、アメリカ、中国、日本、インドなど、しばしば戦争やその余波の中で世界を旅し続けたが、冷戦時代のソビエト連邦で写真を撮った最初の西洋人写真家だった。1966年にマグナムを脱退し、写真家を引退した。1970年、長年連れ添った妻と離婚し、同じ写真家のマルティーヌ・フランク(1938–2012)と結婚した。二人の間にはメラニーという娘が生まれた。アンリはもはや世界中を旅することなく、父親としての活動に専念する。2003年には、妻と娘とともに「アンリ・カルティエ=ブレッソン財団」を設立した。2004年8月3日、フランスのセレステで死去した。

museum  Henri Cartier-Bresson (1908–2004) | Official Website of the Fondation | Paris, France