2016年6月28日

嵯峨清凉寺本堂の扁額と釈迦如来像

清凉寺本堂扁額(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)

国宝本尊釈迦如来立像
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右から左に「栴檀瑞像」と読む
大覚寺大沢池の蓮の咲き具合を見ようと市バスに乗ったが、気が変わって二つ手前のバス停「嵯峨釈迦堂前」で途中下車した。嵯峨釈迦堂は通り名で、正式には清凉寺、確か本尊の秘仏が開帳される日だと記憶していたからだ。仁王門をくぐり、右手にある一切経蔵横の弥勒宝塔石仏に挨拶を交わす。嵯峨野を代表する石仏のひとつで、何度も撮ったことがあるが、野ざらしの石仏ゆえ人々の関心を呼ばないのかもしれない。何しろこの寺の本尊の木造釈迦如来立像は国宝だからである。その本堂である釈迦堂の前に立ち、見上げると大きな扁額が視界に入った。達筆である。しかし達筆過ぎて、残念ながら何と読むか分からない。靴を脱いで本堂に上がり、拝観受付で扁額について尋ねたら、草書体に楷書体を併記した和紙(左上)を手渡された。有り難い。黄檗隠元禅師筆によるものだそうで、右から左に「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」と読むそうである。どうやらこれはインドより中国に伝来したとされる、栴檀の香木で造られた特殊な仏像、所謂「栴檀釈迦瑞像」がルーツのようである。仏教史家の藤原崇人氏の研究論文によると、清凉寺の釈迦像は東大寺の奝然(ちょうねん)法橋が宗の都、開封に安置されていた瑞像を、様(図面)に基づき模刻し、986年(寛和2)に持ち帰ったものだそうである。内陣から若い僧侶が「どうぞ近くでご本尊をご覧ください」と声をかけてくれた。瑞像の特徴は「生身性」にあるという。つまり在世中の釈迦を写したものであり、まさしく生きた仏であった。そのせいだろうか、私が脳裡に描いていた釈迦像と微妙に違う。どう表現したら良いだろうか。やや柔和さに欠ける面立ちなのである。内陣を辞して本堂の北側を抜け、渡り廊下を進むと、弁天堂が見えた。同寺ウェブサイトの解説に「額縁の絵のようだ」とある。潤いに満ちた風が、額縁の間を通り抜けた。

PDF  藤原崇人『栴檀瑞像の坐す都─金の上京会寧府と仏教』(新潟大学学術リポジトリ)

2016年6月25日

ブルーグラス音楽の巨星ラルフ・スタンリーの思い出

Ralph Stanley (Feb 25, 1927–Jun 23, 2016) by ©Jim McGuire

ラルフ・スタンリーの訃報が昨夜届いた。89歳だった。ブルーグラス音楽を聴き始めたのは高校時代からだった。写真工学を学ぶため、大学に進んだものの、音楽の病が高じて、1963年春に「千葉大学C&W研究会」というサークルを作る始末だった。暮れの11月に小冊子「Blue Grass」を発行、全国の学生バンドを中心に「千葉の田舎に変な奴がいる」と評判になったようだ。その縁で知り合いになった明治大学の「ブルーリッジ・マウンテン・ボーイズ」がスタンリー・ブラザースの曲を主にコピーしていたことが思い出される。私自身はそれほど興味を持っていなかったものの、当時購入した日本初のブルーグラスの30センチLP盤『ブルー・グラス・スペシャル』は今でも大事にとってある。スタンリー・ブラザースとドン・レノ&レッド・スマイリーとのカップリング盤で、発売は1960年3月だった。1970年、私は神戸に移り住んだが、立命館大学の「サニー・マウンテン・ボーイズ」を率いていた野崎謙治さんが、卒業後開いた喫茶店「ロスト・シティ」に入り浸るようになった。日本公演の際に野崎さんの紹介でラルフと話す機会があった。ところが彼の言葉を全く聞き取れない。もともと語学力に乏しい私だが、クリンチ・マウンテン訛りは、まさに津軽弁のごとし、同行のアメリカ人に英英通訳して貰ったことを今でも覚えている。次に蘇るのは、2000年にコーエン兄弟が制作した映画『オー・ブラザー』だった。最後に流れた「エンジェル・バンド(天使の群れ)」も印象的だったが、KKK(クー・クラックス・クラン)の集会のシーンで歌われた「オー・デッス(死よ)」が圧巻だった。死の床にある男が死神と押し問答するという内容だが、まさに皮膚がんに侵されたラルフの闘病生活とオーバーラップする。

YouTube  "Oh Death" by Ralph Stanley: From the movie "O' Brother Where Art Thou".

2016年6月23日

ダリ版画展 - もうひとつの顔

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日 時:2016年7月9日(土)~9月4日(日) 10:00~18:00
会 場:京都文化博物館(京都市中京区三条通烏丸東入る)075-222-0888)
料 金:一般1,200円・大高生900円・中小生500円
詳 細:http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/salvador_dari2016/

2016年6月22日

参院選京都選挙区は再び民共の戦い

上善寺(京都市上京区南上善寺町)

第24回参議院選挙はきょう6月22日公示され、京都選挙区(改選数2)はご覧のポスター掲示板のように、届け順で、福山哲郎氏(民進・現)大八木光子氏(諸派・新)二之湯智氏(自民・現)大河原寿貴氏(共産・新)の4人が立候補を届け出た。自民現職の二之湯氏は安泰だろうし、あと1議席を民進、共産党争う形になった。これで思い出すのが先の市長選で、再び「非共産V共産」になったことだ。つまり共産党が推薦する新人の本田久美子候補を避け、民主(現民進)が自公が推す現職の門川大作氏に相乗りしたのである。そしてなんと連合京都の旗開きで、福山氏が「共産党と徹底的に戦う」と宣言、野党共闘を願う市民の落胆を誘ったことが記憶に新しい。今回の参院選の近畿2府4県では、滋賀、奈良、和歌山の1人区で民進、共産、社民、生活の4野党が候補を一本化して、自民候補らと対決する構図となった。しかし京都では複数区ゆえ民共の候補が激突する構図になってしまった。同じ野党の両党がいかなる選挙戦を展開するか注視したいと思っている。

2016年6月21日

湖・沼・池の使い分けの混乱

大沢池(京都市右京区嵯峨大沢町)

Walden Pond (Wikipedia)
前エントリーでH・D・ソロー『森の生活:ウォールデン』に登場するボストンの「氷王」フレデリック・テューダーが採氷した場所を「コンコードのウォールデン池の他に、ケンブリッジのフレッシュ池、アーリントンのスパイ池、エアのサンディ池、ウーバンのホーン池、ウェークフィールドのクアンナポウィット湖、アンドーバーのハゲッツ池、リンフィールドのサンタアグ湖、ストーンハムのドレフル池、ウェナムのウェナム湖」と列挙した。これは原資料に従ってLakeを湖、Pondを池と直訳したに過ぎない。LakeとPondの違いは科学的には説明されていない。湖が大きく、池が小さいというのが一般的な解釈だが、大きさの標準化はない。モンタナ州では、湖の最小面積は20エーカー(約81,000m²)で東京ドーム2個分としているが、これは明確な指標ではないという。さて肝心のウォールデンだが、61エーカー (約247,000m²)で、東京ドーム5個分の広さだが、Pondと呼ばれている。この大きさゆえか不明だが、飯田実訳『森の生活:ウォールデン』(岩波文庫)ではウォールデン湖となっていて、池とは訳されていない。それでは日本では湖と池、さらに沼はどのように区分けしているのだろうか。これまた厳格な定義はないようだが、湖沼学上では次のように分類されるという。
  • 湖…天然の広くて深いもの。夏に水温成層がある。
  • 沼…水深が浅く水底中央部にも沈水植物(水草)の生育する水域。
  • 池…人工的に造られたもの。
琵琶湖(滋賀県大津市浜大津)
池が人工的なものであることは、京都の勧修寺の氷室の池や天龍寺の曹源池、平安神宮の栖鳳池など、社寺の庭園で納得できる。さらに例えば大覚寺の大沢池や遍照寺の広沢池なども築造されたものである。ただ上高地の大正池は噴火した火山の泥流によって川が堰き止められて形成されたもので、人工の池と言い難い。また鳥取の湖山池は日本最大の池として知られるが、これまた自然が造成した、浜名湖と同じ汽水湖である。このような例外が散見されるが、池は人工的に作られたものとおおむね定義していいかもしれない。ただ湖は琵琶湖や十和田湖のように大きく、小さいのが池という一般通念があることは否めないだろう。それではマサチューセッツ州の湖沼に戻り、ウォールデン池がどのように生まれたか調べてみることにしよう。ウィキペディアによると、今から1万~1万2千年まえに氷河が後退して創られとのことである。私の想像では、アメリカでは曖昧な基準ながら大きさから池と命名、その成り立ちとスケールから邦訳に際し、湖としたのではないだろうか。いずれにしても定義の曖昧が生んだ用語の混乱と言えそうだ。

2016年6月19日

ソロー『森の生活:ウォールデン』に繋がるかき氷の旗

マサチューセッツ州スパイ池の採氷風景(1850年代初頭)

『森の生活』(岩波文庫)
ヘンリー・D・ソローの『森の生活:ウォールデン』は、安政元年(1854)に刊行された。アメリカのペリーが浦賀に再び来航、横浜村で日米和親条約が調印され、日本が開国した年である。マサチューセッツ州コンコード近くのウォールデン湖畔に自ら建てた小屋に、2年余り暮らした経験を元に書かれたものである。この中に次のような記述がある。「百人のアイルランド人たちが、ヤンキーの監督と一緒に、毎日ケンブリッジから氷を切り出しにやって来たのだった」云々。つまりソローは凍結した湖面の氷の切り出し作業を目撃した。天然氷を冬場に採取し保冷しておき、夏場に南方の都市部で販売するという事業だったが、これを仕切る人物の名をソローは知る。フレデリック・テューダー(1783-1864)だった。彼はコンコードのウォールデン池の他に、ケンブリッジのフレッシュ池、アーリントンのスパイ池、エアのサンディ池、ウーバンのホーン池、ウェークフィールドのクアンナポウィット湖、アンドーバーのハゲッツ池、リンフィールドのサンタアグ湖、ストーンハムのドレフル池、ウェナムのウェナム湖など、マサチューセッツ州の湖や池で氷を採取した。テューダーの名からターシャ・テューダー(1915-2008)を連想する人は少なからずいると思う。日本でも人気が高い、絵本作家、園芸家である。なんとフレデリックはターシャの曽祖父にあたる人物であり、彼こそ明治初期に日本に天然氷を輸出したボストンの事業家だったのである。ターシャが俗界から逃れたのは、当然のことながら『森の生活:ウォールデン』を読んでいただろうし、ソローの強い影響によるものと私は想像している。

「函館五稜郭龍紋氷採取の景」(函館市中央図書館蔵)
函館市史デジタル版によると「当初氷は横浜に居留する外国人の飲料品や食肉保存用として利用され、また後には来日した外国人医師が治療用に利用する場合もあった」という。さらに「ボストンから横浜までの長時間の航海輸送のために目減りが激しく氷の価格は非常に高価であった。それを横浜の居留地で氷販売に当たっていた外国居留商人が市場を独占して多額の利益を得ていたという。こうした状況下にあって、国内での採氷業に注目したのが中川嘉兵衛であった」というのだ。ボストン氷が多大な利益を得てることを知り、日本各地で採氷して横浜へ運送したが、いずれも品質の面ボストンとは比べ物にならず失敗に帰した。紆余曲折を経て亀田川を水源とする好水質を持つ函館五稜郭に出会い、ボストン氷を上回る品質の函館氷を1883年(明治16)に世に出すことができたという。函館氷は「函館五稜郭龍紋氷」のことで、1935年(昭和10)に北島エハガキ店が発行した採氷風景の絵ハガキが残っている。


大阪の氷室会社の函館五稜郭氷ちらし(早稲田大学図書館蔵

波千鳥の氷旗(京都市東山区祇園白川)
これは関西各地に支社を持つ大阪の氷室会社「竹水亭」の宣伝ちらしである。明治時代、冬季以外に氷を得るには、天然氷を氷室に保存しておくしかなく、夏の氷は大変貴重なものだった。だからこのような「氷室ビジネス」が全国で成立したのだろう。今日は雨模様で気温がやや下がっているが、昨日は33℃を超える真夏日だった。猛暑にはかき氷が欲しくなる。先日鹿苑寺(金閣寺)門前の甘味処で見た氷旗は、何か足りないと思ったが、波だけで千鳥がないことに気付いた。右の写真のように千鳥があるのが「正式の氷旗」であるが、気のせいか千鳥を省略した旗が増えたような気がする。波に千鳥の組み合わせは伝統的な日本のデザインなのだが、千鳥の省略は氷旗の由来を無視したものだと思う。氷の産地表示、あるいはに使われた「官許氷函館」という旗が原型らしいのだが、画像を見つけることができなかった。その代わりに函館市の市史デジタル版には函館氷の広告が載っているが、現在の氷旗の書体とデザインとは全く別のものである。いずれにしても現在の氷旗は全国どこでも共通、かき氷を商ってることがすぐに分かる、優れたデザインであることは紛れもない。

YouTube  Frederic Tudor and the Ice Industry by Jillann Palace, Carter Shearea & Maggie Favazza

2016年6月17日

京都に植物園があってよかった

シダ植物(京都府立植物園)Fujifilm Finepix X100

京都市バスの車内などで「日本に京都があってよかった」という京都創生PRポスターを見かけるが、私は「京都に植物園があってよかった」と時々思うことがある。私は関東生まれ、関東育ちだが、京都を終の棲家と決め込んでいる。初めて京都府立植物園に入ったのは、確か1970年代初頭、シンガー&ソングライターの豊田勇造君に誘われてだったと記憶している。園内をぐるぐる回ったのだが、何を見たのか全く覚えていない。賀茂川の畔に出てバトミントンをしたことは脳裡に残っている。その後、私は新宿に長い年月住んたが、緑の芝生を求めて新宿御苑や明治神宮によく出かけた。ただそこにあった植物にはまるで興味が沸かなかった。まさか自分が植物園の花にレンズを向けるとは当時の私には考えられないことだったといえる。ところが10年ほど前、新聞社のスタッフカメラマンを辞した私はそれを始めたのである。何故だろう? 単に年齢を重ねたから? 確かにその側面は否めない。全日本写真連盟関西本部事務局の仕事をしていたころ、そのコンテスト審査会で故秋山庄太郎さんがこんなことを語ってくれた。「写真家が歳をとるのは難しい」「若い人(雑誌の編集者)が俺に対し遠慮するようになった」「だから<花の会>を作って、仕事の写真はやめて花を撮るようになったんだ」云々。さて植物園だが、京都のそれは日本で最初の効率植物園である。明治時代までは上賀茂神社の境外末社である半木神社とその鎮守の森を中心とした田園地帯であった。インターネット百科事典ウィキペディアによると、大正天皇の即位を祝い企画した「大礼記念京都大博覧会」の開催用地として、1913年(大正2年)に京都府によりこの地が購入された。しかし議会等の反対もあり博覧会は開催されず、植物園が代案として計画されることとなり、1915年(大正4年)に「大典記念植物園」の設置が決定されたという。実際に歩いてみると実感できると思うが、高木に囲まれ、半木(なからぎ)の森が生き続けている。京都に植物園があってよかった。

2016年6月16日

怒りと悲しみの沖縄県民大会に呼応する命と平和のための6・19大行動

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日時:2016年6月19日(日)14:00~15:30
場所:国会正門前+並木通り・南庭前・北庭前(歩道)
共催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会/「止めよう辺野古埋め立て」国会包囲実行委員会

PDF  フライヤーの表示とダウンロード(PDFファイル 4.98 MB)

2016年6月15日

ぼくの名前はニッパーだよ

His Master's Voice by ©Isato Nakagawa

フランシス・バロウド
シンガー&ギタリストの中川砂人さんがFacebookで、優れたコンピューターグラフィックスを公開している。このイラストは古い電気蓄音機の裏蓋に貼られていた商標が元となっているという。蓄音機に耳を傾ける一匹の犬、米国のRCAレコードや英国のレコード販売店グループHMV、日本ビクター(現JVCケンウッド)などの企業のトレードマークとして知られ、多くの人たちの記憶に刻まれていると思われる。モデルはブル・テリアとフォックス・テリアの血が混じった雑種犬で、その名は噛むことを意味するニッパーである。1884年に英国のブリストル生まれ、飼い主は画家のマーク・バロウドだった。1887年にマークが他界、弟のフランシスに引き取られ、リバプールに移り住んだ。新しい家でニッパーはシリンダー式蓄音機から流れる亡き主人、マークの声に不思議そうに耳を傾けるようになり、この様子をフランシスが絵に描いたのである。1895年9月にニッパーが亡くなったが、1898年に絵が完成した。当初は「犬が蓄音機を見て耳を傾ける」という題だったが、後に「彼の主人の声」に変更した。1899年にフランシスは絵をグラモフォン社に売り込んだが、同社の製品に合わせ、蓄音機を黒から真鍮のホーンがついた円盤式に描き換えた。1900年になると、ニッパーの絵はいくつかのプロモーションアイテムとなった。そして1910年にHMVが商標登録、そしてニッパーの画像および蓄音機は最終的にはRCAの正式商標となったのである。この商標は見た途端に分かるもので、「20世紀の有名ブランド」トップ10に選ばれている。ニッパーは単にRCAの商標というだけではなく、商業レコードの黎明の不朽の象徴になったのである。

nipper  ニッパー公式サイト(JVCケンウッド)

2016年6月13日

勧修寺氷室の池の半夏生

勧修寺(京都市山科区勧修寺仁王堂町)

最初に半夏生(はんげしょう)について書いたのは2年前のエントリー「清楚で清々しい詩仙堂の半夏生」だった。その後、建仁寺両足院の「半夏生の庭園」については折に触れて投稿してきた。今日は足を延ばして、山科の勧修寺(かじゅうじ)に出かけた。同寺の「氷室の池」周辺の半夏生は見事の一言に尽きる。花菖蒲や睡蓮も鑑賞できるので、その景観は両足院を上回るものがある。かつては交通不便だったが、今は京都市営地下鉄が通り、小野駅から約5分で行ける。本堂横に半夏生の苗の一群があり「抜いてご自由にお持ち帰りを」という立て看板があった。ただ我が家の狭い庭は私の管轄外、残念ながら持ち帰るのを諦めた。

2016年6月10日

ドリー・パートンの華麗なファッションと音楽

Dolly Parton, Emmylou Harris and Linda Ronstadt

The Complete Trio Collection
写真は今年の9月9日に発売が予定されている「トリオ」(ドリー・パートン、エミルー・ハリス、リンダ・ロンシュタット)の3枚組CDボックスセット「The Complete Trio Collection」(右)のプロモーション用に撮影されたもので、同時発売のセレクト盤「My Dear Companion」のカバーに使われている。ファッショナブルな写真で「メトロポリス・ナイト」誌6月号の表紙にも流用されている。この写真のコンセプトは、ひょっとしたらドリー・パートンのアイデアじゃないかと私は思っている。というのは、彼女が出演したTV番組などのビデオをYouTubeで見ると、好んでこのようなドレスを纏っていることが多いからだ。フリルのあるドレス、こってりとつけた口紅、ボリュームのある髪型、なんと言うか「アメリカン可愛い系ファッション」と呼んでも良いのだが、こと音楽に関してはたいへんな実力者なのである。私はブルーグラスに始まり、さらにそのルーツである1920~30年代のオールドタイム音楽に傾倒して今日に至っている。カントリー系のミュージシャンはどことなく保守的な感じがして敬遠してきたのだが、その例外はジョニー・キャッシュとドリー・パートンである。キャッシュについてはいずれ稿を改めよう。ドリーの実力に裏打ちされた幅の広い多才に触れ、私のちっぽけな偏見は木っ端みじんに打ち砕かれたと言って良い。履歴の詳細なウィキメディアに任せておこう、そのサマリー「アメリカ合衆国のシンガーソングライター、女優、作家、事業経営者、人道支援家、 カントリー・ミュージックの第一人者として知られている」で十分である。ただ多くの楽器に精通していることは付記していいだろう。現地時間、本日6月10日の午後8時、オハイオ州ノースフィールドを皮切りに、全米およびカナダの60都市で開催されるツアー>では、エレキギター、バンジョー、フィドル、ダルシマー、ピアノ、そしてオートハープの演奏を披露するそうである。1946年1月生まれだから、数えてみるとすでに70歳だが、私にとっては永遠のマドンナである。

2016年6月7日

半夏生の庭園特別公開

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日 時:2016年6月6日(月)~7月6日(水)10:00~17:00
場 所:建仁寺塔頭両足院(京都市東山区花見小路通四条下る)
料 金:大人600円・小中学生300円・小学生未満無料
詳 細:http://www.ryosokuin.com/tokubetu/

2016年6月6日

喜納昌吉「東崎(あがりざち)」に心酔

Philips S-7025 (1977)

新聞各紙によると、沖縄県議選が昨6月5日投開票され、翁長雄志知事を支える与党勢力が半数を超えた。反基地姿勢を後押しする結果になったが、告示前にうるま市の女性の遺体を殺害遺棄した容疑で、元米海兵隊員で軍属の男が逮捕される事件が発生。反基地感情の高まりが、知事や与党への支持につながったと言えそうだ。知事と言えば2014年の選挙で喜納昌吉氏が立候補するという不思議があった。政治家としての氏には若干疑問を持っているが、音楽家としては素晴らしいの一言に尽きる。
与那国(ゆなぐに)ぬ島に渡て
東崎(あがりざち)登(ぬぶ)て見りば
あん美(ちゅら)さ波ぬ花になゆさ
情き深さ島ぬ心(くくる)あらわす波ぬ花
いちまでんいちまでん眺みぶさ

東崎(あがりざち) 登て見りば
昔(んかし)沖縄(うちなー)うびじゃすさ
あさましいや変てあゝ生まり島
海ん山ん変わるなよ人ぬ心変らすな
いちまでんいちまでぃん東崎

東崎(あがりざち)見りば知ゆさ
人の道生まりたる運命(さだみ)
御万人(うまんちゅ)に知らしぶさあゝくぬ悟(さとう)い
鳥(とうい)ん花ん蝶(はべる)ん共(とうむ)に語ていちぶさや
いちまでんいちまでん忘(わし)らゝん
訳詞
与那国に渡り
東崎に立ってみれば
波の花がすばらしく美しい
情深い島の人たちの心のように
我を忘れ時を忘れて
立ちつくしてしまう

東崎に登って眺めると
昔の沖縄を思い出す
今では変わり果ててしまった生れた島
海よ山よ人の心を変わらせてはくれるな
いつまでもいつまでもこの東崎のように

東崎のあの自然を見れば
人の道 運命がそこにある
すべての人に知らせたいこのすばらしさを
鳥も花も蝶も共に語り暮らしたい
いつまでもいつまでも心にしみて忘れられない
これは1977年にリリースされた「喜納昌吉&チャンプルーズ」の中の一曲「東崎(あがりざち)」の歌詞である。このアルバムは様々な意味で私に衝撃を与えた一枚である。現在、日本のポップミュージシャンは、欧米と違ってそのルーツを持っていない。まさか純邦楽にそれを求めるのは現実的に無理だろう。そういう意味では芳醇な民謡の宝庫である沖縄をベースにする喜納昌吉氏は幸運と言えるだろう。

SoundCloud  東崎(あがりざち): 喜納昌吉&チャンプルーズ(1977年)

2016年6月2日

戦争法廃止!安倍内閣退陣! 6.4 京都大行動

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日 時:2016年6月4日(土)14:00集合15:00デモ出発 ->京都市役所
会 場:円山公園音楽堂(京都市東山区円山町)
詳 細:http://counter-constitutionalamendment.com/

2016年6月1日

アメリカは多くの犯罪について謝罪していない

ベトナム戦争中、アメリカ軍が撒いた枯葉剤で汚染されたダナン空港近郊の畑。警告看板には「ダイオキシン汚染ゾーン - 家畜、家禽及び漁業活動は許可されていません」と書かれている。(AP Photo/Maika Elan)

アメリカの政治については疑問を持つことが多々ある。議会図書館などのアメリカ政府の文化活動は高く評価しているし、私はFacebookに「アメリカンルーツ音楽」というページを作ってるくらいだから、少なくとも大衆音楽は好きである。アフリカ系アメリカ人やプアホワイトといった、いわば底辺の人たちが作り上げたという点で惹かれる。また政府におもねないジャーナリズムも、鋭い側面を見せることがしばしばあり感心する。オバマ大統領が広島を訪問した前日だからやや旧聞めくが、5月26日付けワシントンポスト紙電子版が「広島だけではない:アメリカが謝罪してないその他もろもろ」という記事を掲載した。ここにメモしておきたい。
  • ベトナムで枯葉剤散布
  • 1953年のイランのクーデター
  • 1973年のチリのクーデター
  • 西アフリカとの奴隷貿易
  • コンゴの独裁者への支援
  • 2003年のイラク侵攻
  • イラン航空655便撃墜事件
広島、長崎への原爆投下は紛うことなき史上最悪の戦争犯罪であることは言うまでもない。また、この記事にはないが、戦時中のアメリカにおける日系人の強制収容も許しがたい、非人道的蛮行だった。前エントリー「オバマ米大統領と核のフットボール」で触れたが、大統領の広島訪問は不思議なことに日本のマスメディアの異常な絶賛を浴びた。新聞テレビの「現職の米大統領が被爆地を訪問したこと自体を評価すべき」「謝罪しなかったのは原爆投下を容認する米国内の世論に配慮せざるを得なかったため」といった論調に違和感を感ずる。原爆の使用は過去においても、現代においても、たとえそれが自国内であっても、一番重い戦争犯罪だ。私はどうやら少数派のようだが、ワシントンポスト紙の記事に救われた思いがする。

Washington Post
It’s not just Hiroshima: The many other things America hasn’t apologized for (The Washington Post)