2023年5月28日

アラスカ先住民自給自足のための漁業権を勝ち取ったケイティ・ジョン

Katie John near her family's fishwheel in Batzulnetas, Alaska ©Erik Hill

ケイティ・ジョンは、1915年にアラスカ州スラナ近郊で生まれ、伝統的なフィッシュキャンプがある先住民の村バルツルネタで育ち、伝統的な方法で育てられた。母親と祖母から、土地に根ざした生き方をどのように学んだか、彼女はこう語っている「私たちには、鉛筆も紙もありませんでした。読み方も知らない。私たちは自分の頭を使っていました。母から聞いたこと、祖母から聞いたこと、すべて頭の中に入っているんです」。初めて英語を話せるようになったのは、14歳のとき、ナベスナ鉱山に就職したときだった。16歳のときにメンタスタの伝統的な首長であるフレッド・ジョン・シニアと結婚し、14人の子供と6人の里子を育て、自給自足的な生活を送った。1932年、彼らはメンタスタに移り住み、1950年代後半にはようやく学校が開校し、子どもたちはランゲルのインディアン局寄宿学校から戻り、自宅で教育を受けられるようになった。ジョンは、土地と伝統文化の中で生きる術を知るために、子どもたち一人ひとりを育てました。彼女はアフトナ・アサバスカン語の文化的指導者であり、自分の子供、孫、ひ孫に教えるだけでなく、後年、ジョンはメンタスタ校でこの言語を教えた。

1970年代後半には、この言語初のアルファベット表記を作成し、その後、自分の声で発音ガイドを録音し、この言語の教育と保存に貢献した。アハトナ・アサバスカンの文化的伝統と価値観を教える指導者として広く知られているが、ジョンはアラスカ先住民のために自給自足の権利を要求し、勝ち取ったことで最も有名である。彼女の97年にわたる長い人生は、伝統的な先住民の村での生活から近代的な西洋のライフスタイルへ、徒歩での移動から飛行機での移動へ、犬を使って荷物を運ぶことから自動車への乗車へ、伝統的な方法と伝統的な知識のみで教育を受けたことから、2011年にアラスカ大学フェアバンクス校から名誉博士号を授与されるまでに至る。子供として、夫と20人の子供を育てる親として、権利を取り戻すために訴訟を起こす活動家として、そして子孫に伝えたい文化の教師として、彼女の生涯におけるこれらの驚くべき変化の中で、自給自足は彼女の中心的価値であり続けた。1984年、ジョンとドリス・チャールズは、20年前に自給自足漁を禁止したアラスカ州漁業委員会に対し、今は廃村となった先住民の村バルツルネタの旧住民に再び自給自足漁を許可するよう要請した。

Katie John holding a child
Katie John holding a child at Mentasta Lake, Alaska, 1943

この要求が却下されたことで、1985年から今日に至るまで、アメリカ先住民権利機構が訴訟を行っている、複雑怪奇な「ケイティ・ジョン事件」の舞台となった。ジョンは、自分には前の世代と同じように自給自足の生活を送る権利があり、その権利を子孫に引き継ぐという信念のもとに立ち上がったのである。彼女の「権力への真実」を語る姿勢は、連邦政府に、連邦の土地と水域におけるアラスカ先住民の自給自足の権利を保全し保護するという、アラスカ国益地保全法によって課せられた責任を果たさせることとなった。それは、アラスカ州が連邦の土地に生息するアラスカの野生生物と魚の自給自足利用の管理を連邦政府に譲ることを強いた。この長期にわたる法廷闘争において、重要な出来事のひとつは、トニー・ノウルズ知事が、不利とされる決定を州が不服とするかどうかを判断する前に、バルツルネタの彼女のフィッシュキャンプでジョンに直接会うために旅したことである。知事はその訪問を踏まえて、なぜ州は控訴すべきではないと判断したのかについてコメントした。

曰く「その日、私は、この長期にわたる法廷闘争において、すべての訴訟準備書面の箱に書かれている以上のことを学んだ。ケイティ・ジョンの家族、そして何千もの同じような家族にとって、サブシステンスが与えてくれる強さ、核心、価値観を理解したのです。ケイティ・ジョンがやっていることは間違っていない、彼女にとっても村にとっても正しいことなのだ」と。アハトナ・アサバスカン族の家長、文化の担い手、尊敬される長老として多くの人に愛されてきたジョンは、多くの子孫(亡くなった時点で少なくとも250人)にとって、祖母、曾祖母、曾曾祖母でもあった。その個人的な役割において、ある孫娘は彼女を「しっかりしているが、愛情深く、思いやりがあり、ユーモアのセンスが素晴らしく、常に新しいことを学ぶ準備ができていて、子孫の誰もが特別で愛されていると感じられる人だった」と表現している。2011年、アラスカ大学フェアバンクス校から、アフトナ・アサバスカン語の研究と、先住民の生存権の擁護を理由に名誉博士号(法学)を授与された。また、2013年のアラスカ先住民連盟の会議では、ハンター&ギャザーズ賞がケイティ・ジョン・ハンター=フィッシャー賞に改称され、ジョンはその栄誉を称えられた。2013年5月31日、アラスカ先住民医療センターで逝去した。

Native Alaskan  Alaska Native Rights Katie John Lived What She Believe | National Park & Preserve

2023年5月22日

欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンの感性

I am in training, don't kiss me
Self-Portrait "I am in training, don't kiss me" 1929

写真家、作家、芸術家であるクロード・カアンは、1894年10月25日、フランスのナントで生まれた。彼女の作品は個人的であると同時に政治的であり、セクシュアリティやジェンダーの概念にしばしば関与していた。東洋学者ダヴィッド・レオン・カアンの曾姪であり、前衛作家マルセル・シュウォブの姪である。出生時の名前はルーシー・ルネ・マチルド・シュウォブだったが、ダニエル・ダグラスやクロード・クールリスなどのペンネームを使い続け、最終的にクロード・カアンに落ち着いた。1912年、18歳でカメラを使ったセルフポートレイトの撮影を開始し、1930年代まで撮影を続けた。カワンは、シュールな映像美を含む、精巧に演出されたセルフポートレイトで知られている。禿げ上がった頭で力強くカメラを見つめたり、葉っぱの上に寝転んで男や仏、怖い人形や女性の格好をしたりと、さまざまな役に変装して写真を撮っている。

What Do You Want From Me
Self-Portrait "What Do You Want From Me?" 1928

セルフポートレイトの中で、彼女は欲望やジェンダーの境界を無視している。1920年代初頭、彼女は公私ともにパートナーであったスザンヌ・マレルブとともにパリに滞在した。二人は共同で、さまざまな文章、コラージュ、フォトモンタージュ、彫刻を制作した。二人とも熱心な政治運動家であった。二人はナチスに対するプロパガンダを印刷し、流通させた。クロード・カアンが出版した作品には "Heroines"(ヒロインたち)"Aveux non avenu"(入場券は無効です)がある。このほかにもいくつかのエッセイを執筆し、雑誌やジャーナルに掲載された。1934年には短いエッセイ "Les Paris sont Ouverts"(ベットは空いている)を書いている。

Photomontage
Photomontage for the book Aveux non Avenus, 1930

1932年、革命家芸術家協会の会員となったカアンは、ルネ・クレヴェルやアンドレ・ブルトンと出会い、シュルレアリストのグループと交流するようになる。パリのシュルレアリスム・オブジェ展、ロンドン国際シュルレアリスム展など、多くのシュルレアリスム展に参加する。1935年、ジョルジュ・バタイユ、アンドレ・ブルトンらとともに左翼グループ "Contre"(カウンター攻撃)を結成した。シュールレアリズムの作家の多くが男で、女性をエロティックで性的な対象として描いていた時代に、クロード・カアンは女性のアイデンティティの多様性とカメレオンの可能性を例証している。彼女の著作と写真作品は、デル・ラ・グレース・ボルケーノ、ナン・ゴールディン、シンディ・シャーマンをはじめとする多くのアーティストに影響を与えた。写真は、視覚的にも歴史的にも革命が起き続けている分野であることは間違いない。

Untitled
Untitled (Still Life), Paris, 1936

現実を描写する写真家もいれば、物事を演じ、そのパフォーマンスを撮影するのが好きな写真家もいる。カアンの作品は、演劇的なショーに劣るものではなかった。 自分を撮るということは、あらゆる判断や解釈に対して自分を無防備にすることと同じである。自分を画像で表現し、世に問うということは、とても大胆なことなのである。彼女は写真作品を通して、身振り手振り、姿勢、目線、服装、画像の背景などを通して、多様な感情を表現した。1944年にカアンはナチスに対する運動で逮捕され、死刑判決を受けた。刑が執行されることはなかったが牢獄の中で受けた酷い扱いにより悪化した健康が戻ることはなく、1954年12月8日にチャネル諸島セント・ヘリアで他界。カアンは聖ブレラド教会に埋葬された。隣には生涯の伴侶スザンヌ・マレルブも眠っている。

MoMA   Claude Cahun (1894–1954) | Biography | Works | Exhibitions | Publications | MoMA

2023年5月19日

アメリカ先住民の膨大な音楽を録音したフランシス・デンスモアの偉業

Frances Densmore 1916
Francis Densmore

フランシス・デンスモア(1867–1957)は、ミネソタ州レッドウィング生まれのアメリカの人類学者、民俗学者である。アメリカ先住民の音楽と文化の研究で知られており、現代の言葉で言えば、民族音楽学者と表現できるかもしれない。幼少の頃、近くにいたダコタ族の音楽を聴いて、アメリカ先住民の音楽への理解を深めた。20世紀初頭には、全米の先住民の音楽教師として働きながら、彼らの音楽を学び、録音し、書き写し、彼らの文化で使われていることを記録した。 政府の方針でアメリカ先住民に西洋の習慣を取り入れることが奨励されていた時代に、彼らの文化の保存に貢献した。デンスモアは、1907年にスミソニアン協会のアメリカ民族学局(BAE)のために正式に音楽の録音を開始した。50年以上にわたってアメリカ先住民の音楽を研究し、保存してきた彼女は、何千もの録音を収集した。 現在、彼女が BAE を代表して行った録音の多くは、米連邦議会図書館に所蔵されている。彼女のオリジナルの録音はワックスシリンダー(蝋管)によるものであるが多いが、その多くは他のメディアを使って再生され、他のアーカイブに含まれている。これらの録音は、研究者だけでなく、アメリカ先住民の部族代表団も利用することができる。彼女が関わった部族には、オジブエ族、マンダン族、ヒダツァ族、スー族、現在のオクラホマ州の北部ポーニー族、現在のアリゾナ州のトホノ・オダム族、ワシントン州とカナダのブリティッシュコロンビア州の先住民、ウィスコンシン州のホーチンクやメノミニー、アコマ、イスレタ、コチティ、ズニなど南西部のプエブロ先住民、現在のフロリダ州のセミノール、そしてパナマ州のクーナなどがある。

Ethnic Folkways Library – FE 4251
Smithsonian-Densmore Collection of the Archive of Folksong, Library of Congress
Ethnic Folkways Library – FE 4251 (1966)

フランシス・デンスモアは雑誌 "American Anthropologist"(アメリカの人類学者)に頻繁に掲載され、そのキャリアを通じて一貫して貢献してきた。彼女の原稿 "A Study of Some Michigan Indians"(ミシガン州のインディアンに関する研究)は、ミシガン大学出版局の「アメリカの人類学者」モノグラフシリーズの最初の出版物である。1926年に "The Indians and Their Music"(The Indians and Their Music)を執筆した。1910年から1957年にかけて、スミソニアン協会のために14冊の長編の紀要を出版、それぞれ異なるアメリカ先住民のグループの音楽習慣とレパートリーを説明した。これらは1972年にボストンのダ・カーポプレス社によってシリーズとして再版された。1924年、オバーリン・カレッジから名誉修士号を授与された。そして950年にはマカレスター大学から名誉文学博士の学位を授与された。1954年にはミネソタ歴史協会から「ミネソタ史の分野における特別な貢献に対する表彰」を受けている。蛇足ながら私も知らなかったのだが1966年にリリースされたフォークウェイズ社のレコードのカバー写真を、南ピーガン族のマウウンテン・チーフが歌っている場面と誤解されてしまったことである。彼自身は歌い手でなかったし、写真は彼がデンスモアの録音を瘻管蓄音機で聴きながら、手話で通訳してるシーンなのである。デンスモアは、80歳代後半まで働き、90歳で亡くなった。20世紀に入りアメリカ先住民に対する尊敬の念が高まり、彼女の先駆的な活動の重要性がますます明らかになった。

Encyclopedia  Frances Densmore (1867–1957) | A pioneer in the study of the Native American music

2023年5月17日

イヌイットのシーソー投げジャンプ台と朝鮮の民族遊び板跳びの関係を探る

Inuit Seesaw Toss
Inuit Adults and Teens Kids Playing A Seesaw Toss Jumpboard, Kotzebue, Alaska, 1950s
Neolttwigi (널느기)
Neolttwigi (널느기) A traditional outdoor game of Korean women and girls, circa 1900

板跳びは丈夫な板の中間に巻いた藁などを敷き、シーソーのようにして両側で飛び跳ねる遊び。片側の人がジャンプして着地した反動で、もう片側にいる人が高く飛ぶ、ということを交互に繰り返す。踏み外したり、板から落ちたほうが負けとなる遊びである。二葉の写真はそっくり同じ遊びだが、違うのはアラスカと朝鮮と言う時空の隔たりである。板跳びの起源は不明だが、アジアから北米大陸にベーリング海峡を超えて伝わったのだろうか。板跳びの歴史についてグーグルの会話型生成人工知能チャットボット Bard 君に訊いてみたところ、3つの回答案が返ってきた。以下はそのひとつ、もっとも詳しい回答案である。

板跳び(ノルティギ、널뛰기)は、主に女性や女の子が行う朝鮮の民俗遊びの一つです。新年や伝統的な休日に行われることが多いです。板跳びの由来については正確な資料はありませんが、高麗時代には女性が馬乗りや撃毬(馬に乗って走りながら棒でボールを打つゲーム)などの活発な運動をしていたとされています。したがって、高麗時代から板跳びが始まったものと考えられます。高い垣根の向こうに閉じ込められている獄中の夫を見ようとする妻が、同じく罪人の妻を誘って板の上で交互に飛びながら夫の顔を見ようとしたことが始まりと言われています。また、昔は家の外に出ることがめったに許されていなかった女性たちが、この遊びを発明して塀の外の世界や男性をうかがったことが始まり、とも言われています。板跳びにまつわる俗説には、娘時代に板を走らなければ嫁に行く赤ちゃんを産まないというものや、年始に板跳びをすると一年の中で可視に付かずに過ごすことができるというものがあります。板跳びの遊び方はとても簡単です。丈夫な板の中間に藁などを敷き、シーソーのようにして両側で飛び跳ねます。片側の人がジャンプして着地した反動で、もう片側にいる人が高く飛ぶ、ということを交互に繰り返すだけです。踏み外したり、板から落ちたほうが負けとなります。板跳びは、女性や女の子の運動や遊びとしてだけでなく、夫婦の愛情や家族の絆を深める遊びとしても親しまれています。また、板跳びをすると幸せになれるという言い伝えもあり、新年や伝統的な休日によく行われていました。

やはり想像していた通り、ウィキペディアに記述がある朝鮮の板跳びの説明のみで、アラスカのイヌイットのジャンプ台の記述はない。由来について正確な資料はないことの証しかもしれない。朝鮮の板跳びは Bard 君の解説通り、高麗時代には女性が馬乗り・撃毬(馬に乗って走りながら棒でボールを打つゲーム)など、活発な運動をしたとされている。高い垣根の向こうに閉じ込められている獄中の夫を見ようとする妻が、同じく罪人の妻を誘って板の上で交互に飛びながら夫の顔を見ようとしたことが始まりと言われている。アラスカのイヌイットのジャンプ台の起源は全く不明だが、アジアからベーリング海峡に渡り北米大陸の先住民となったその子孫たちに伝わったのだろうか。仮にそうであっても文献歴史学上の空白があるのかもしれないので、グーグルの Bart 君もお手上げだろう。それゆえに研究する価値はに大いにありそうである。

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2023年5月15日

グーグルの会話型生成人工知能チャットボット Bard を試用してみた

Google's Bard
Conversational generative artificial intelligence chatbot developed by Google

グーグルの会話型生成人工知能チャットボット Bard が日本語に対応したので早速試用してみた。質問は「アメリカ先住民」についてだったが、3つの回答案が返ってきた。いずれも滑らかな日本語で感心したが、以下がその回答案である。さすがグーグル、情報取集能力が高く ChatGPT を凌駕する予感がする。

回答案1 アメリカ先住民は、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、中央アメリカ、南アメリカに住む先住民のグループです。彼らは、今から1万5000年以上前にアジアから北米に渡ってきたと考えられています。アメリカ先住民には、500以上の異なる部族があり、それぞれ独自の言語、文化、伝統を持っています。アメリカ先住民は、自然と調和して生きてきた人々です。彼らは、狩猟、採集、農業によって生計を立てていました。また、複雑な宗教や社会構造を持っていました。15世紀に、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到着したとき、アメリカ先住民はすでにそこに住んでいました。ヨーロッパ人はアメリカ先住民を征服し、彼らの土地を奪いました。また、伝染病を持ち込み、多くのアメリカ先住民を死なせました。 アメリカ先住民は、アメリカ合衆国の歴史の中で常に差別され、抑圧されてきました。しかし、アメリカ先住民は常に自分たちの文化と伝統を守ってきました。彼らは、アメリカ社会において、平等と尊厳を求めて戦ってきました。今日、アメリカ先住民はアメリカの人口のわずか1%を占めています。しかし、彼らはアメリカの文化や歴史において重要な役割を果たしてきました。彼らは、勇気、忍耐力、そして持久力の象徴です。

Bard Logo

回答案2 アメリカ先住民は、北米に何千年も住んでいる先住民族です。彼らは、アジアからベーリング陸橋を渡って北米に移住したと考えられています。アメリカ先住民は、文化や言語が異なる多くの異なる部族に分かれています。アメリカ先住民は、豊かな文化と歴史を持つ複雑な社会です。彼らは、芸術、音楽、文学、宗教など、多くの異なる分野で傑出した業績を残しています。アメリカ先住民はまた、熟練した狩猟採集民であり、自然界と調和して生きる方法を熟知していました。ヨーロッパ人の到着は、アメリカ先住民に壊滅的な影響を及ぼしました。ヨーロッパ人は伝染病を持ち込み、アメリカ先住民の人口を大きく減少させました。また、アメリカ先住民の土地を奪い、彼らを絶滅の危機に瀕させました。 今日、アメリカ先住民は少数派です。しかし、彼らは文化と伝統を守り続けています。彼らはまた、アメリカ社会において平等と正義のために戦っています。 アメリカ先住民の歴史は、複雑で悲劇的なものですが、希望に満ちたものでもあります。彼らは、困難にもかかわらず、文化と伝統を守り抜いてきた強くて回復力のある人々です。彼らはまた、アメリカ社会において平等と正義のために戦い続けています。

Bard Logo

回答案3 アメリカ先住民は、数千年前にアジアから北アメリカ大陸に移住した狩猟採集民のグループです。彼らは、複雑な社会構造と文化を持つ多様な民族です。アメリカ先住民の歴史は、ヨーロッパ人の到来によって大きく変化しました。ヨーロッパ人は、病気、戦争、土地の喪失など、アメリカ先住民に大きな被害をもたらしました。しかし、アメリカ先住民は、困難な状況にもかかわらず、その文化と伝統を守り続けています。アメリカ先住民の歴史は、北アメリカ大陸の長く豊かな歴史の一部です。アメリカ先住民は、北アメリカ大陸の最初の住民であり、その文化は数千年にわたって進化してきました。アメリカ先住民は、複雑な社会構造と文化を持つ多様な民族です。彼らは、独自の言語、宗教、芸術を持っています。ヨーロッパ人の到来は、アメリカ先住民の歴史において大きな転換点となりました。ヨーロッパ人は、病気、戦争、土地の喪失など、アメリカ先住民に大きな被害をもたらしました。しかし、アメリカ先住民は、困難な状況にもかかわらず、その文化と伝統を守り続けています。今日、アメリカ先住民は依然として北アメリカ大陸の少数派ですが、彼らはその歴史と文化に誇りを持っています。彼らは、自分たちの権利のために戦い、北アメリカの文化の多様性を守るために活動しています。

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2023年5月13日

ピクトリアリズムからストレート写真そしてデジタル加工時代へ

Yasuzō Nojima "Title Unknown" 1930(The National Museum of Modern Art, Kyōto

写真術が生まれて間もなくソフトフォーカスが流行り始めた。後にピクトリアリズム(絵画主義写真)と呼ばれるようになったのだが、ふたつの理由があった。写真は芸術かという論争を経て、後期印象派の真似をして芸術らしくしようした。それからディテール描写への拒否という感覚から流行したものだ。その旗手は米国ではアルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)そして日本では野島康三(1889-1964)だった。しかし後年ふたりともストレート写真へ回帰した。1910年から1930年代前半までは、米国の東海岸ではピクトリアリズムが主流だった。後期印象派の絵画を模倣することが目的で、紗やガーゼを使って被写体を撮影し、意図的に画像をぼかしてソフトフォーカス効果を出していた。しかし西海岸では1930年代から写真が絵画の模倣ではなく、独立した芸術として発展してゆく。そのひとりアンセル・アダムス(1902–1984)は、自伝の中でストレート写真と純粋写真という言葉を使っている。純粋写真とは「他の芸術形式から派生した技術、構成、アイデアの質を持たないものと定義される」と述べている。

The Hand of Man
Alfred Stieglitz "The Hand of Man" Long Island City, NYC, 1902

戦後といっても1970年代後半だが、ヨーロッパにおいてトイカメラブームが勃発した。後年、日本には商業主義と絡んだカタチで輸入されて販売されたが、ダイアナ、ロモ、ホルガといったB級カメラを使った新たな表現であった。そこには写り過ぎるカメラへのアンチテーゼが潜在、写真はブレていてもよい、不鮮明でもよい、という一種の芸術運動であった。別の潮流にピンホールやゾーンプレート写真があったが、私はこれらを一緒に第2次ピクトリアリズムと呼んでいる。ところが昨今、デジタル画像処理によって、さらに新たな写真表現が生まれつつある。職業写真家向けに処理するアドビ社のフォトショップという画像処理ソフトがある。ところが同社は「フォトショップ・カメラ」というアプリケーションを配布している。自動的に被写体を分析し、適切な写真フィルターやエフェクトを判断してくれる、インテリジェントなスマートフォン向け無料カメラアプリケーションである。これは所謂「インスタ映え」を狙う人が少なからずいるという背景がある。電子フィルターによって作られる映像群は、トイカメラ写真同様、ストレート写真から離れた表現になっている。私はこれをさらに第3次ピクトリアリズムと呼ぼうと思っている。

大塚努「踊り子」
Tsutomu Otsuka "Dancing" Okazaki Park, Kyōto (pinhole photo) 2015

伊奈信男写真論集『写真に帰れ』(平凡社2005年)が書棚にあることを思い出した。評論家の伊奈信男(1898-1978)が1932年5月、写真同人誌『光画』創刊号に寄せたものの復刻で、日本における近代写真批評の嚆矢(こうし)となった論文である。写真の独自性を主張する内容となっており、芸術写真と絶縁せよと迫った。名取洋之助(1910-1962)が立ち上げた日本工房に参加した木村伊兵衛(1901-1974)も同人であったが、報道写真に傾斜していた。同誌の出版費用を負担した野島康三は、芸術写真にこだわり、従って必ずしも『光画』の論調に同調したわけではなかったようだ。しかし彼もストレート写真に回帰、一世風靡していたピクトリアリズムの衰退を招いたのである。歴史は繰り返すという諺があるが、遥か昔に「ストレート写真に帰る」雪崩現象が起きた。しかしそれはあくまでフィルム時代の話であった。今やデジタル処理技術が写真の世界を席巻している。デジタル加工でソフトフォーカス写真を作ることができるようになって久しい。そればかりではない、画像そのものを歪ますこともできる。鼻を長くしたり、目を細くしたり、唇を小さくしたりとフォトショップで特徴を誇張した、シンディ・シャーマンのインスタグラム写真がその典型ではないだろうか。

museum  Pictorialism | When Photographs looked like Paintings 1880-1915 | Bosham Gallery

2023年5月12日

ダコタ族の戦士38人の処刑を承認したリンカーン大統領

Abraham Lincoln
Abraham Lincoln (1809–1865) 16th president of the United States

エイブラハム・リンカーン(1809–1865)は、アメリカの第16代大統領として、偉大な遺産を残した。リンカーンは「すべての人間は自由と自己決定の機会を得るに値する」というアメリカ民主主義の建国理念を深く信じ、奴隷となっていたアフリカ系アメリカ人の解放を実現させた。しかし自分たちの生命、土地、文化の存続のために集団で闘っていたアメリカ先住民に関しては、彼はその大切なアメリカの理想を適用するには至らなかった。祖父を先住民の襲撃で殺されたリンカーンは、フロンティアで育ったにもかかわらずアメリカ先住民との直接の接触は限られていた。大統領在任中、部族問題は、南北戦争と奴隷制廃止の推進に全力を注いだ彼の後塵を拝することになった。テキサス大学の歴史家トーマス・ブリテンは「人道的には善意を持っていたが、リンカーンはアメリカ先住民の問題についてはほとんど無知で反応的であり、前任者が定めた政策がデフォルトであった」と書いている。それは、条約の締結と破棄、先祖伝来の土地の没収、強制的な移住、文化的同化の推進、そして時には西部開拓時代の軍隊による大量虐殺行為に目をつぶることを意味した。リンカーンは白人の西方拡大を支援するために、何百万エーカーもの部族の土地を手放す法律に署名し、ダコタ族の戦士38人の絞首刑を承認した。リンカーンは1832年のブラックホーク戦争に志願兵として入隊したが、戦闘には加わらなかった。

Abraham Lincoln

ブラックホークは、1804年に締結されたサック族とフォックス族の広大な領土を毎年1,000ドルの現金と物資と引き換えにアメリカ政府に譲渡する、という条約に長年異議を唱えてきた戦士でありリーダーだった。政府が入植者に売却した先祖代々の故郷に戻ろうとする彼の行動は「イリノイ州への侵略」とみなされ、紛争に発展した。多くの白人入植者が耕作可能な土地と鉱物資源を求めて西部に進出していた時代、リンカーンは、部族民がその進出の障害となるという米国政府の一般的な立場を共有していた。1862年に「ホームステッド法」と「太平洋鉄道法」に署名し、それぞれ何百万エーカーもの部族の土地を入植者と鉄道会社に譲渡した。戦争に気を取られていたリンカーンは、アメリカ先住民問題の管理を腐敗した地方政府のエージェントや軍に委ねた。そして開拓時代の衝突が加速するにつれ、残虐な事件が発生した。1864年、米軍は推定1万人のナバホ族を故郷から300マイル以上離れた荒涼とした収容所まで強制的に行進させた。同じ年、コロラド州のサンドクリークで、志願兵のコロラド連隊が、ほとんど非武装のアラパホ族とシャイアン族の男性、女性、子供200人以上を残酷に虐殺した。そして、1863年1月1日に奴隷解放宣言が発効する1週間前の12月26日、リンカーンはダコタ族38人の絞首刑を許可し、米国史上最大の公開処刑となったのである。下記リンク先はアメリカのスノープスによる「リンカーンは38人のダコタ族の戦士の処刑を命じたのか?」題したファクトチェックである。

Fact Check  Fact Check | Did Abraham Lincoln Order the Execution of 38 Dakota Fighters? | Snopes

2023年5月10日

アメリカ先住民代表団のホワイトハウスでの抗議活動

Lakota delegation 1891
Lakota delegation in Washington, D.C., photographed by Charles Bell in 1891

アメリカ先住民と合衆国連邦政府との関係は、これまで紆余曲折を経てきた。アメリカ先住民にとって、ヨーロッパ人の入植の歴史は、警戒心を持って歓迎し、反対、敗北、絶滅寸前、そして現在、ルネッサンスという歴史であった。ヨーロッパ人とアメリカ人にとっては、アメリカ先住民を対等、またはそれに近い存在として扱うことから、同化、追放、ジェノサイドに近いことまで、多くの場合、同時に行ってきたのである。独立戦争では多くのアメリカ先住民の部族がイギリスと同盟を結んだ。しかし、戦争を終結させたパリ条約は、これらのイギリスの同盟者の運命について沈黙していた。そのため、新生アメリカ政府は、条約や武力によってアメリカ先住民の土地を自由に獲得することができた。入植者の侵入を食い止める部族の抵抗は、しばらくの間に過ぎなかった。条約に署名したアメリカ先住民の部族代表が、必ずしも部族法上の権限を有していないこともあった。例えば、マスコギー・クリーク族の首長であったウィリアム・マッキントッシュは、クリーク族の法律に違反、インディアン・スプリングス条約に調印したために暗殺された。1871年、議会が部族を条約を結ぶことができくなったことで、条約締結は終了した。また、1903年に最高裁がアメリカ先住民に関する全権は議会にあり、条約を無効とすることができると判断したことで、条約の価値も疑問視されるようになった。しかしそれ以前に結ばれた多くの条約は、少なくともある程度は有効であり、最高裁判所もその解釈を求められることがあった。

Map of the northern portion of the Black Hills

1868年に締結されたフォート・ララミー条約は、現在もなお影響を与え続けている条約のひとつである。この条約でアメリカは、ブラックヒルズを含むグレート・スー居留地を、ラコタ族の「絶対的かつ妨害されない使用と占領のために確保する」ことを約束した。しかし、この地域で金が発見されると、アメリカはブラックヒルズを買い戻そうとした。ラコタ族はこれを拒否し、リトルビッグホーンの戦い(1876年6月25日~26日)でのカスターの最後の抵抗もあり、ブラックヒルズ戦争(1876~1877年)が勃発した。そして1877年、ついに議会は当初の条約を反故にし、ブラックヒルズを取り戻す法律を成立させた。1923年、ラコタ族は訴えを起こした。60年後、最高裁は、破棄は憲法修正第5条に基づく「収奪」であり、部族には「正当な補償」と1877年からの利息を支払う義務があると判断した。しかし、部族は支払いに応じず、今も土地の返還を求めている。北西準州(テカムセとティピカノーの戦い)や南東部(クリーク戦争とセミノール戦争)でも紛争が起きたが、19世紀前半の北米部族に対する主要政策は、除去と再定住であった。1830年の除去法は、アンドリュー・ジャクソン大統領にアメリカ先住民の部族の除去と再定住を交渉することを許可した。主な対象はジョージア、アラバマ、ミシシッピ、フロリダのチェロキー、クリーク、チョクトー、チカソー、セミノール族であった。

John F. Kennedy
John F. Kennedy speaks to the National Congress of American Indiansat, 1963

撤去と再定住は自発的に行われるはずだったが、最終的には「涙の道」として知られる一連の強制的な撤去に至った。19世紀中頃、アメリカ政府は「アロットメントと同化」と呼ばれる政策をとっていた。部族に強制された条約に基づき、保留地の共有地が個々の家族に割り当てられた。1887年の一般割当て法(ドーズ法)では、これをより一般的にし、その結果、多くの保留地が失われた。1934年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領のもと、ニューディール政策としてインディアン再編法が制定され、アロットメントの廃止、アメリカ先住民の土地売却の禁止、一部の土地の部族への返還が行われた。しかし、第二次世界大戦後、同化、部族の廃止、保留地の廃止を支持する意見が出された。ウィスコンシン州のメノミニー族やオレゴン州のクラマス族など、多くの保留地が保留を解消された。1960年代の公民権運動の影響により、1975年にインディアン自決法が制定され、部族政府に主権が一部回復し、連邦資金の取り扱いや連邦プログラムの運営に一定の独立性が与えられるようになった。アメリカ先住民の部族の地位は複雑である。一般的にアメリカ先住民集団は、部族メンバーに関してはその領域内で主権を持つが、非部族メンバーに対する権限はない。しかし、最高裁は1987年に、アメリカ先住民のゲーム事業を規制できないと判断した。そのため、1988年にインディアン・ゲーミング規制法が制定され、インディアン・カジノを規制する枠組みができた。下記リンク先はホワイトハウスのサイトに掲載されているジェシカ・ブロッド著「ネイティブアメリカンの代表団の外交、そしてホワイトハウスでの抗議活動」である。

whitehouselogoNative American Delegations, Diplomacy, Protests at the White House by Jessica Brodt

2023年5月7日

家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン

Nancy
Nancy, Danville, Virginia, 1965
 Emmett Gowin 

エメット・ゴウィン(1941年生まれ)は、アメリカの写真家で、1970年代にその家族の緊密なポートレイトで注目を集めた。その後、アメリカ西部の風景に目を向け、ハンフォード・サイト、セントヘレンズ山、ネバダ実験場など、人間や自然によって変化した場所を空撮した。35年以上にわたってプリンストン大学で教鞭を執る。ヴァージニア州ダンヴィルで生まれた。父エメット・シニアはメソジスト派の牧師で、クエーカー教徒の母は教会でオルガンを弾いていた。2歳の時、一家はシンコティーグ島に移り、彼は自由時間の多くを家の周りの沼地で動物や植物を描いて過ごした。12歳頃、一家はダンヴィルに戻り、そこでゴウインが生まれた。16歳のとき、焼けた木の切り株から若い芽が伸びているアンセル・アダムスの写真でを見た。その後、幼少期に森や沼地を歩き回って学んだことを写真に生かすようになる。高校卒業後、リッチモンド専門学校(現在のヴァ―ジニア・コモンウェルス大学)に入学。大学1年の時に Family of Man(人間家族展)のカタログを見て、特にロバート・フランクとアンリ・カルティエ=ブレッソンの作品に感銘を受ける。 1964年に結婚、妻エディスはすぐに彼のミューズでありモデルとなった。初期の写真のビジョンのいくつかは、大きくて魅力的なエディスに触発され「自分とは新鮮に異なる家族」と呼ぶものを記録することができた。

Edith
Edith, Danville, Virginia, 1971

ごウィンは「私は愛から合意して姿を現した身体と人格に注目したかった」と語っっている。 1965年にゴウィンはロードアイランドデザインスクールに通い、写真家ハリー・キャラハンとアーロン・シスキンドに師事した。3年後、デイトン・アート・インスティテュートで初の個展を開催することになる。1970年には写真美術館ジョージ・イーストマン・ハウスで、その1年後にはニューヨーク近代美術館で作品が展示された。この頃、写真家のフレデリック・ソマーを紹介され、生涯の師であり友人となる。1973年、ピーター・バンネルに招かれ、プリンストン大学で写真を教えることになった。その後25年間、彼は新しい学生を教え、また彼自身が認めるように、教えた学生から常に学び続けた。

Children
Children, Danville, Virginia, 1969

各学年の終わりには、学生全員に批評してもらうポートフォリオに1枚の写真を提出するよう求め、教師でありながら「自分も謙虚な写真芸術の学生である」ことを思い出させるために、あえて自分の写真を1枚入れた。1980年、シアトル芸術委員会から奨学金を得て、ワシントン州および太平洋岸北西部を旅する。噴火直後のセントヘレンズ山への旅を皮切りに、航空写真の撮影を開始した。その後20年にわたり、鉱山跡、核実験場、大規模農地など、自然景観の傷跡を撮り続けた。初期の家族写真のほとんどは、三脚に乗せた4×5カメラで撮影されており「座る人と撮る人の両方が互いに見つめ合い、彼らが見て感じたものが写真の一部となる」と彼は語っている。これらの写真は、ポーズをとっていると同時に非常に親密で、しばしば妻やその家族から長く直視されているように見え、家族のプライベートな時間に入り込んでいるかのような印象を与える。

Nancy and Dayne
Nancy and Dayne, Danville, Virginia, 1970

ゴウィンはかつて「写真を作るために組み合わされる多くのものの偶然の一致は、特異なものだ。それらは一度しか起こらない。だから、そのわずかな違いで、他の人が使ったモデルや戦略を再利用し、オリジナルの絵を再現することができるのです。自分自身の明確な生命を持つものは、生命そのものからもたらされるものだと私は思う」と語っている。1982年、プリンストン大学でゴウィンに学んだヨルダンのヌール女王から、自国の史跡を撮影するよう招かれた。その後3年間、現地に赴き、ペトラ遺跡の写真を撮り続けた。この写真をプリントしたものが、彼の作品に初めて写真プリントの調色を取り入れたものである。2009年末にプリンストン大学の教職を退き、現在は妻のエディスとともにペンシルベニア州に住んでいる。

MoMA  Emmet Gowin (born 1941) | Works, Exhibitions, Interview | The Museum of Modern Art

2023年5月6日

イーロン・マスクの朝令暮改で迷走するツイッターの認証マーク

blue check mark
お金を払えばつけられる青いバッジ

企業家のイーロン・マスクによる買収以降 Twitter はゴタゴタ続きである。青いチェックマーク(バッジ)はかつて、著名人や企業に限定して無料で付けていたが、マスクの買収後に収益拡大策として有料サービスの会員であれば誰でも付与する方針に変更した。そして予告通り、旧システム時代の青マークは削除された。デジタル大臣の河野太郎が早速「青マークが消えた」とツイートしていたのを憶えている。ところが、最近になって有料会員ではない人の一部に認証マークが復活し、全世界的なニュースになった。朝令暮改とはこのことである。イーロン・マスクは、作家のスティーブン・キングなどの一部の著名人の認証バッジの費用を個人で負担していると述べたが、これには非難轟々の反応があったようだ。そこでフォロワーが100万以上の人を対象に認証マークを復活させたという。しかしこの基準は疑わしい。例えば河野太郎のフォロワーは260万人で問題ないが、前総務大臣の高市早苗は、フォロワーが59万人にも関わらず、青マークが復活している。どうも選定基準が曖昧で、不透明である。青い認証マークはなりすまし防止のために生まれたが、マスクは旧システムの選定基準がオカシイと主張していた。つまりこれと同じ疑惑を自ら蘇生させたことになる。

Peace Mark
アカウント名の横にピースマークをつけてみた

青いマークは著名人であることのステータスシンボルでもあった。ところがオプトイン方式の有料制サブスクリプション Twitter Blue でアカウントに青いチェックマークを追加したり「ツイートを編集」などの機能をいち早く利用したりすることができるようになった。月1,380円負担すればこのシステムを獲得できる。つまりこれは従来の認証基準(著名で信頼に値するアクティブなアカウントであること)に基づく認証と見分けがつかないということになる。つまり今や青マークは課金会員であることの印に過ぎない。岸田文雄のアカウントには政府関係者であることを示す灰色のマークがついている。他人事ながら河野太郎がなぜ同じマークを申請しないか不思議ではある。青いチェックマークのままなら偽アカウントが出現しても区分けがつかないからだ。突然チェックマークが消えて寂しい人は Twitter Blue 購入を検討する前に独自の絵文字をユーザー名の横に置いたらどうだろうか。下記リンク先はワシントンポスト紙の記事「Twitter 売却を強行すべきではなかったとジャック・ドーシー元 CEO が Bluesky で取締役会を批判」であるが、後の祭りという感は拭えない。

WashingtonPost  Twitter founder Jack Dorsey says Musk wasn't an ideal leader after all | Washington Post

2023年5月5日

超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂

台北の陽明山擎天崗
陽明山擎天崗 - 台北(1985年)
張照堂(2018年)

張照堂(Chang Chao-Tang)は1943年生まれの、台湾を代表する最も重要な写真家である。1959年から1961年、成功高等学校在学中、写真クラブに入部し当時の台湾の最も著名な写真家のひとり、鄭桑渓の指導を受けた。若き日の張照堂は、写真のアレンジの仕方や様々なアングルからのイメージの捉え方などをみるみる吸収していった。学校へ続く道、農村、川や海岸、また、子供から動物、通行人あるいは農民、労働者たち。高校時代の作品から、庶民の生活に魅せられ、作品の主題とする事が始まっていた。この時期、張照堂は兄から借りた二眼レフカメラ Aires Automat 120 を使用している。そのため、立って写真を撮る時はファインダーは腰の高さにあり、しゃがんで写真を撮る時はファインダーはより地面に近づいた。結果として、写真の多くは、下から上を見上げるようなアングルになっている。それに加え、彼は特にシャイな若者で、人々に面と向かってカメラを向けることを避けるために、遊んでいる無防備な子供たちや、遠巻きから大人を撮る構図を好んだ。時には率直で純粋、また時には少し孤独なこれらのイメージに、早熟ではあるがまだあどけない青年の世界観を見ることができる。

澎湖馬公屠宰場
馬公屠宰場 - 澎湖県肉品市場(1983年)

作家の阮慶岳曰く「これらの貴重な初期の作品に、すでに張照堂独自の写真の創造性の輪郭があらわれているのである。熱中しつつも鋭い観察力を持ち、静謐で、よそよそしくはないが馴れ馴れしくもない。不確かさと疑わしさの背後に、そこに存在するもの全てへの愛がある、彼が持って生まれた世界観を垣間見ることができる。未熟で臆病、世界に期待しつつも当惑している、若くてしかも感受性の強い、自然が産み落とした魂のような作品である」云々。1961年、国立台湾大学土木工学科で学ぶ。

張世倫四十九天
張世倫四十九天 - 台北(1975年)

学業に専念する代わりに文学と芸術に没頭し、アジアと西洋のシュールレアリスムとモダニズムに夢中になった。コンセプチュアルでモダニズムな写真に取り組み始める。台湾の保守的な社会環境の下で、当時学生だった彼は、現代文学と超現実主義絵画に着想を得た滑稽かつ荒涼とした悲劇的な写真を発表した。「ピンボケ」「顔に白粉」「首のないフィギュア」「身体の揺さぶり」といった自身の心の内にある苦しみや抑圧感を吐き出した写真は、従来のサロン写真とは異なる独自のスタイルによって、写真界と台湾社会に衝撃を与えた。

原発事故後
原子力発電所事故後 - 馬鞍山(2001年)

1968年 台北の中国電視台(CTV)報道部にフォトジャーナリストとして勤務。 「ニュース・ダイジェスト」の制作チームに加わり、台湾の風土、民俗、西洋音楽を組み合わせた新しいスタイルのニュース特集を制作した。

継続し、先駆する張照堂は高校の時から写真を撮り続けている。50年に及ぶ芸術家人生の中で、彼は写真、映画、ドキュメンタリーに至るまで多岐に渡る作品を撮り続けてきた。 人間の実存主義と、空間的、時間的な在り方を鑑みれば、彼の写真は普遍的であり崇高、独立しつつ暖かく、不合理にして滑稽で、写真家自信の慧眼、深い理解と同情、そして深遠な憐憫と共感を例示している。

以来、張照堂は台湾国内での写真展だけでなくアメリカ、アジア各国など国際的な活躍をしている。1999年に台湾の「国家文芸賞」、2011年に「行政院文化賞」を受賞し、さらに2013年、台北市立美術館で開催された大規模の回顧展「歳月 照堂 1959-2013 影像展」(上掲引用文はカタログの一部)は、雑誌『藝術家』の2013年展覧会10選のトップに選ばれた。『歲月風景歲月風景 Moments in time』(2010年)『歲月印樣 The Invisible Contact 1959-1961』(2010年)などの写真集を出版している。

aperture_bk Chang Chao-Tang (b.1943) | Biography, Exhibition, Publications, Presas | Chi-Wen Gallery

2023年5月3日

メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス

Parade of Zapatistas
Parade of Zapatistas, National Palace, Mexico City, 1914
Manuel Ramos

マヌエル・ラモスは1874年6月10日、サン・ルイス・ポトシのヴェナド村に生まれた。7歳の時に写真館クルーセス・イ・カンパで撮影されたポートレイトを見ると、メキシコシティに移ったのは1890年代初めったと思われる。彼の写真教育については正確なデータはない。1905年にマリア・デ・ラ・ルスと結婚し、6人の子供をもうけた。一家は、写真家ポトジーノが信仰していたカトリックの価値観と伝統に基づいた教育を受けていた。マヌエル・ラモスは、当時人里離れたポポトラ地区に家を構え、子供たちが遊び、聖なる日を尊び、スイスから輸入した山羊の群れを増やした。聖母マリアのカードが何枚も飾られた暗室のあるその大きな家から、ラモスは肖像写真家としてのさまざまな仕事をこなし、メキシコの20世紀前半を象徴する出来事を目撃するために事件現場に出かけた。フォトジャーナリズムの先駆者であり "El Mundo ilustrado" "Cosmos" "El Hogar" El Fígaro" "Excélsior" などの出版物に寄稿したマヌエル・ラモスは "Archivo Casasola"(カサソラアーカイブ)に収蔵されている数十人の著者の一人である。

Flight of a Blériot aircraft
Flight of a Blériot aircraft at the Moisant International Aviators exhibition. 1911

ポルフィリオ・ディアスの栄光と没落、フランシスコ・I・マデロの勝利と崩壊、10人の悲劇の日、メキシコ革命の最初の恫喝政権まで、ラモスはジャーナリストとして報道した。政治にとどまらず、ファッション、演劇、スポーツ、そしてデューク・ジョブの馬車がストリディストの車に乗り移る流れなど、交通事情にも及んだのである。ラモスの仕事のもう一つの側面は、国立博物館の写真家であり「芸術遺産と自然美の検査官」としての仕事と関連している。彼のアーカイブには、1920年代後半から近代化の波にさらされ、取り壊され始めたコロニアル建築(市民的、宗教的な建築物)に関する素晴らしい映像資料が保存されている。

Still Life
Still Life with Live Children, ca. 1930

メキシコシティが「空気が澄んでいる」地域であった時代の造園家であるラモスの窓からは、火山や高層ビルと共存するドームのある地平線が見えた。ラモスがテペヤックの聖母に捧げた確かな信仰心は、1923年5月18日に聖なる像を元のスタンドで撮影することで報われた。グアダルーペの聖母像への愛は、メキシコの文化的シンクレティズムの象徴であり、この中産階級の良識ある写真家にとって決定的なものだった。カソリックが革命政府と対立し、クリステロ戦争が始まった時、平和的な写真家はカメラで信仰の大義に協力した。

Soldiers
Soldiers guarding Chapultepec Castle, Mexico City, 1913

秘密のミサを記録し、殉教者のイラストを再現し、敬虔なイメージで主の反抗的大軍を強制した。グアダルーペの聖母の年であった1945年の最後の日に、光を神の贈り物として大切にした写真家がこの世を去った。マヌエル・ラモスのアーカイブは、彼の孫の一人であるマヌエル・サンチェス・ラモスの忍耐と寛大さのおかげで存続しており、過去10年間、研究者グループがその象徴的な記憶の重要性を発見することが可能になっている。

PDF_BK  レベッカ・モンロイ・ナスル著「メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者」(スペイン語)