2019年8月14日

マッカーサー元帥の椅子に座った

マッカーサー記念室(東京都千代田区有楽町)1986年8月8日

昭和天皇と会見(米国大使館)
連合国最高司令官総司令部(GHQ)は1945月15日、東京・日比谷の第一生命館を接収した。第一生命社長室として使われていた6階の部屋に最高司令官 (SCAP) に就任したダグラス・マッカーサー(1880-1964)の机と椅子が置かれた。1952年に返還され、そのまま「マッカーサー記念室」として保存されて今日に至っている。1986年8月8日、私はこの部屋を撮影した。元帥の椅子に座っているのは私である。この部屋は、広さ約54㎡(約16坪)で、内装や調度品は、マッカーサーが使用していた当時のままだ。インテリアは英国のチューダー王朝風で、壁に飾られた2枚の絵は、英国人画家F・J・オルドリッジによってか描かれた「アドリヤ海の漁船」と「干潮」である。マッカーサーはヨット好きだったので、接収時もこの絵をそのまま飾っていたという。1946年1月25日、この部屋からか、それとも米国大使館からだったのだろうか、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀総長宛に天皇の犯罪行為の証拠なしという秘密電報を送った。天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、米国の負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。これが戦後日本政治の出発点になったことを肝に命ずるべきだろう。なお、第一生命館は1989年から1995年にかけ、DNタワー21として再開発されたが、マッカーサー記念室は内装などを変更せず、そのまま保存された。

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2019年8月12日

学童疎開の記憶

開善寺(長野県飯田市上川路)1944~45年

写真は長野県飯田市の開善寺に集団疎開した、東京都世田谷区国民学校守山小学校 [*] の児童たちである。同寺のウェブサイトに掲載されているが、大判のガラス乾板で撮影されたと思われ、非常に鮮明である。第二次世界大戦末期、米軍による日本本土爆撃に備え、政府は大都市の国民学校初等科の児童を集団的、個人的に農村部の寺院などへ、半強制的に分散移動させた、いわゆる「学童疎開」だった。東京都は1944(昭和19)年から縁故のない児童のための疎開学園設置が進めていたが、同年6月15日、米軍がサイパン島に上陸すると、政府はこの「学童疎開」を「強度ニ促進スル」必要に迫られたのである。1945(昭和20)年、東京大空襲直前の3月9日、政府は「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、「学童疎開ノ徹底強化ヲ図ル」ため、初等科3年以上の児童についてはその全員を疎開させた。1、2年の児童については、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象に加えることにした。また、同年4月には、疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定した。こうして、集団疎開する児童は約45万人となった。国の政策で行われたにも関わらず、疎開に必要な物資は疎開先の寺院などが食料などを確保したようだ。農村といっても食料が潤沢にあるはずもなく、その中で地元の人たちが差し入れや食糧の確保に立ち向かったのである。開善寺に疎開した守山小学校の児童は5年生以上で、国民学校を卒業すると、学童疎開の対象ではなくなるので、東京へ帰り、空襲に遭って亡くなった児童が少なからずいたという。戦争の悲惨を痛感する。終戦時12歳だった児童も今や86歳と高齢だが、その記憶を風化させてはならない。戦争の恐ろしさを軽視する安倍晋三が、壊憲を虎視眈々と窺っているからだ。

[*] 戦後、世田谷区立守山小学校となったが、2016(平成28)年4月、新設の下北沢小学校に統合された。

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2019年8月10日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その4)

Slightly Out of Focus by Robert Capa, New Ed edition, June 12, 2001
ロバート・キャパ
怪我をしたり、殺されたりしている場面ぬきで、ただのんびりと飛行場のまわりで坐っているだけの写真では、人々に、真実とへだたった印象を与えるだろう。死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の事実を人々訴えるものである。
ボブ・ディラン
バリー・フェインステインの写真はとても好きだった。ロバート・フランクの写真を思い起こさせるね。両者に共通する荒涼とした雰囲気がね。言うまでもなく題材のせいだったけどね。バリーが写真を撮るときのアングルが好きだったな…光と影、そういったことがね。
片岡義男
女性たち、特に若くて美しい女性たちは、そのようなデザイン行為にとって、おそらくもっとも使いやすい素材なのではないだろうか。若く美しい女性がにっこり微笑している顔の写真は、ほとんどあらゆる商品の広告に使えるからだ。
ウィリアム・アルバート・アラート
大切なのは時間をかけて撮影の対象となる人々と親しくなること。言葉や身振り、声の調子を通じて、自分が信頼に値する人間であることを人々に訴える必要がある。それができなければ、目撃者になることも、その場に居合わせることもできない。
林容子
実在する被写体をできるだけ明瞭に、美しく撮るための適正なピントの調整、露出時間やアングルのなどではない。写真家ならぬ写真アーティストが写真を使って表現しようとしているのはコンセプトという目に見えない被写体だからだ。
ジュリアーノ・サルガド
父(セバスチャン)との最初の思い出は、酢酸のにおいのする暗室で現像し、写真が像を結んでいくのを見ていたことを覚えています。家族みんなで彼の仕事を分かち合いましたし、彼も家族をとても愛していましたが、いつも不在がちでしたね。
高橋周平
おそらくX線写真ほど実用的なものはないだろう。しかしあまりに実用的すぎるためか、誰も写真と思っていない節がある。
パティ・スミス
もしこれが映画なら、振り返ればそこにいる。露出計を合わせ、長い腕を震わせ、シャッターを切ろうとしている彼(ロバート・メイプルソープ)が。その直前「いいねぇ」というような眼差しを、私に向ける彼が。そしてすべては、写真の厳粛な静粛の中に溶けてゆく。
上野千鶴子
カメラのアングルを全部入れ替えて女性視点にして、男性の顔をアップに写したりというふうな形で撮りなおしたとして、それで女性が同じように興奮するだろうかと考えてみます。興奮するかもしれないけれど、でも、少しちがうのではないのかな、という気がするのです。
梅宮典子
人類は長い時間をかけて欲望を現実化してきた。周囲に集められた事物にはずっしりと重く欲望が付加されている。もう画面に人は必要ない。ファインダーをどこに向けても、どの断面を切り取っても、そこには人間が投影されているのだから。
エド・ファン・デア・エルスケン
我々の時代の非人間性を表現し提示し、来るべき世界のビジョンをカメラの目の中に、そしてプリントのマチエールの中に保持しておくことは、大型か小型かの愛すべきお喋りや、デーライトフラッシュや他の黄金律などより遥かに重要である。
辻惟雄
もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、 道釈人物を対象とするこの「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、 日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。
ウィリアム・J・ミッチェル
画像も、食刻法で画像を作ってから刷るエッチング、ネガを露光させ、現像してからプリントする写真、そしてまず画像をコード化し、それから表示するデジタル画などのように、2つの段階を経て作られるものが多い。
林宏樹
基本的に自分が人間であるから、裸の写真というより、裸体の持つ「肉体の美しさ」や「形」に、花の写真、風景写真などと同様に美の対象としての興味がある。それゆえ女性だけではなく、男性の持つ逞しい肉体の美しさも撮っている。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
望遠レンズ附きの写真機が、ここ(偵察機)では顕微鏡の役に立つ。人間ではなくて、人間の存在を示す道路や、運河や、列車や、艀船を捕捉するにさえ顕微鏡が必要なのだ。
奈良原一高
ドキュメントから出発してドキュメントに帰ってゆくのが写真の世界でもあるのだと私は思ってます。だが対象への攻めの姿勢いかんによってアクチュアル・ドキュメントを生むことが出来るのではないかと思っているのです。
フォックス・タルボット
写真家は、その撮影時に、少しも気がつかなかった多くのものを表現しているということを、おそらくずっと後になって、写真を調べてみて、発見することがしばしばある。そしてこれは写真の魅力の一つである。
スーザン・バック=モース
原理主義は、バイブルであれコーランであれ、テクストに頼り、世界を意図をもった運命として解釈する。このような解釈は、写真の物質的な痕跡を排除する。写真の意味は、大いなることばによるあらかじめの決定を乗り越えてしまう。
寺山修司
皆で写真を撮りあって遊んだ。全員で七人。皆が撮り皆が撮られることにすると、六人が並んでいる写真が七枚できることになる。写っていないひとりがつまりその写真の撮影者というわけになるわけだ。
カリン・セケッシー
生と死のあいだ、としての写真。写真は常に死を意識させる、という言い回しではなく。まだ、ともかく、ここにある、ということに対しての<生>の証拠。<あいだ>を遅延させること。
鈴木志郎康
写真を撮るというとき、一方では自分の内的な動機にこだわり、また一方では光学的な空間の把握ということにこだわっている自分がいるのがわかる。これを統一的に解釈するということが、問題としては考えられるが、私はそんな面倒なことはしたくない。
福原信三
写真の光律は、音楽のようにつぎつぎに時間的に奏でられる訳にはいかない。すなわち空間的に動くものである。それをわけもなく捕え得るということが写真術最大の長所で、時々刻々変わる光律の種々相を時々刻々撮影することができる訳だ。
エドワード・ウェストン
微妙な諧調の豊かな写真でありながら、写真としては少しも面白くないものをたくさん見ているし、また反対に、諧調は全体の画面の比較的小部分に限られていながら、本当の写真美を持っているものを見ている。
南正人
駅の人ごみを見た時、みなさんは「人がたくさん居る」と思うだろう。いっぽう、自分の卒業アルバムを見た時、みなさんの頭の中にはたくさんの友人の名前とともに、ひとりひとりの性格やいろいろな思い出が湧き出てくるだろう。この違いはどこにあるのだろう。
日高敏隆
カタクリの花にとまってみつを吸っているギフチョウの姿はとてもかわいらしく、その写真はすばらしく美しい。けれど、飛んでいるギフチョウは、ただせわしく飛ぶ蝶とみえるだけで、写真から想像する「春の女神」の優美さはない。
アイリーン・美緒子・スミス
ユージンは"integrity"(清廉潔白であること)とそれを守るための頑固さをもっとも大切にしていました。ユージンが主張するこの信念を尊重するために、私は著作権者として(入浴する智子と母)の写真を今後発表しないと決断したのです。
植田正治
モノクロームの世界こそが、自分の住むところと信じ切って、それ以外に写真は考えられないといっても過言でないぐらいに、今だに、それを主力に、ひたすら自分を賭けている毎日なのです。
オリバー・ウェンデル・ホームズ
美術家が描き落としたり、不完全に描いたりしたものを、写真は限りなく細心に注意し、そしてその映像は完全にする。たたかれて皮の黒くなった痕のない絵などは、なんてつまらないのだろう。
田中長徳
普通のクローム仕上げのM3を使っていれば、50歳過ぎのオヤジのそこそこの趣味に見られるのに、すぐにブラックペイントのM3なんかを持ち出して、ライカで「武装」しようとする悪い癖がある。
アンセル・アダムズ
ゾーンシステムは科学的なコミュティでは広く認められていません。理由は、科学者たちが、正確な物理量の実験室規格と異なるとして、イマジネーションによる形なき品質に関わるこの種の写真に関心を持たないからです。
モホリ・ナジ
写真的処理の本質的な道具はカメラではなくて、感光膜層である。そして特に写真的な法則と方法は、あらゆる材料によって、影響されて--材料の性質の明暗祖密に従って--起こる光線の効果に対する感光膜層の反応から生まれ出るのである。
ジュディス・ゴールデン
私の作品には理想化されたシンボルや仮面や幻想や現実が現れます。自我と社会と、社会が期待する役割を探っていくうち、この個人的作品が現代アメリカ文化によって形成された女性に共通する側面を写しているのではないかと思うようになりました。
レニ・リーフェンシュタール
私は女たちから身を振りほどくとラコバの反対側へ走って行ったが、そこで私に気づかず、ある少女がちょうど彼女が選んだ男性の前で踊っているところであった。興奮に震える手で露出と距離を合わせると、カシャカシャ撮り続けた。
C・A・マッキノン
ポルノグラフィはポルノグラフィ援護者の言うように、ただの人間の作る出した物、ただのシンボルではないのだ。ポルノグラフィを止めることは不可能に近いが、同時に、自由と平等を現実のものとするにはポルノグラフィを阻止することは必要不可欠のことなのである。
インカ・G・インゲルマン
1990年代、写真は最終的に芸術表現として確立していたが、同時にこの写真メディアは、デジタル化とコンピュータによる画像処理能力によって、発明以来最大の変化を遂げてきた。その変化とともに、根本的なパラダイム変換が起こっている。
安井仲治
ああ小生もいいオッサンになりにける哉です。しかし写真そのものは、だんだん若くなって来ます。旗こそ立てぬシュールのエスプリも吸収してゐる積り。ややホルモンの効きすぎかも知りませんが、凡百の未完成のハン濫を冷眼して「俺が」と思っていゐる点正に雅気満点に候はずや。

2019年8月9日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その3)

Diane Arbus by Doon Arbus, Aperture, First Edition edition, 1972
ダイアン・アーバス
奇妙なことにファインダーグラスをのぞいている時は恐いと思ったことは一度もないのです。銃を持った人が近づいてきても、ファインダーをのぞいている限り、自分が弱い存在であることなど考えもしないのです。
濱谷浩
その日の正午私は高田の市川さんの家でラジオを聞き、日本降伏を知った。私は善通寺の裏二階に駆け戻り、カメラを取り出し、本堂の前に飛びだして、真天井の太陽に向かってシャッターを切った。
アンドレ・ケルテス
写真が私の人生に影響を与えたのではなく、私の人生が写真に反映しているのだ。写真は私自身を表現する道具となった。絵画や版画や執筆以上のものがあったのだ。はじめたばかりの頃は、写真は自分自身に対する語りかけだった。
マヌエル・アルバレス・ブラボ
写真を撮っている時には、その写真のタイトルのことは頭にない。撮影の最中は、観念でなくイメージを追求しているのだから、タイトルを考えるというのはおかしなことだ。
ハリー・キャラハン
写真は重要な意味を持っているので、他の気晴らしなど余りやらない。と言っても私は行うことすべての理由を理性的に把握してわけではない。それはつまり自分が明日何をしているだろうかと考えた時の答えが分っているということだ。私は写真を撮っているだろう。
ヘルムート・ニュートン
私が欲しいのは、いかなる点でも安手の雑誌を想起させないようなモデルだ。その人ならではの特性を持った、生身の存在としての女性を望んでいる。そんな女性は完璧に整った体に及ばないかもしれない。
マン・レイ
「どんなカメラを使うのですか」と尋ねられると、「どんな絵の具と絵筆を使うのか画家に尋ねますか。どんなタイプライターを使うのか作家に尋ねますか」と答える。
エルンスト・ヘロ
映像を保持していながらそれをいまだに提示していない板の上に現れている事物が残したこのポートレイトは、魂が受け取った漠たる印象に、他者にも魂自身にもその事物をはっきりとは示さない印象に、驚くほど似てはいないか?
ケネス・ジョセフソン
ある写真を撮る必要に迫られたとしたら、私は何であれ手近なカメラを、すぐさま手にするだろう。ところが、ある種の絵柄については、ある種のカメラのほうがより適切だとはっきり言えるのだ。
浜田優
絵画における主体の表象行為が、経験的直観による継起的な手の作業であるのに対して、写真の場合、主体の役割は構図を決めてピントを絞ったところで終っていると言っていい。シャッターを切ることは、いわば我にかえるための、空虚な行為なのだ。
藤田省三
通常の写真家は完全に透明人間化することを恐れ且つ避けて何とかして自己を表現しようと工夫を凝らす。角度をつけたり、わざと暈かしたり、色をつけたり、褪色させたり、光と陰の対照を極端にしたり、して自分の眼の審美的特徴を誇示しようとする。
デュアン・マイケルズ
写真のメカニズムに関することが、写真制作のしかたに入り込むべきではない。写真を撮るという行為がそんな厄介なことであってはならないのだ。そうでないと作ることから楽しみが奪われてしまう。
ジャン=クロード・ルマニー
彫刻家は光を活用するが、彼にとってそれは第一義的なものではなく、中心的なものではない。写真家にとっては、光こそが肝心なのであり、本源的な素材は光なのである--だが、この光は、さまざまな量感を開示して見せ、量感によって調子を変える。
アラン・セイヤ
写真はどんなイマージュをもその自然の支持体から取り出し、かつ自分自身の支持体の重荷を打ち捨てて他のどんな出現圏にも、スクリーンとなるどんな表面にも備給し、それを占拠するというあの二重の性向を備えているのである。
ジョアオ・シルバ
見てみろよ。おんなじような写真撮ってて、あいつの前にたまたまハゲワシが降りてきて、そんでもってポーンとピュリッツァー賞。俺の前には何も降りてこなくて、はい、普通のボツ写真。ま、そんなもんよ。
ウィリアム・アレン
美しく、悲しみに満ちたこの少女のまなざしは、私たちの魂に訴える。果たして少女は生き延びたのだろうか? この写真を撮った写真家は何度も彼女を探したが、手がかりはなかった。少女の行方は永遠に分からないかもしれない。
E・O・ウィルソン
カメラは(火星の)クリュセ平原を、探査機の脚元から地平線までくまなく走査し、最大解像度1ミリ以下という精度でカラー映像を送ってきた。だが結果は失望すべきものだった。送られてきた風景には、どこにも植物群落らしきものは見えず、動物がレンズの前を横切ることもなかった。
パブロ・ピカソ
今日の絵画は少数者のためのファインスポーツである。しかるに写真は、かつて歌謡と舞踏において示されたのと同様の美的な力を、最も原始的な人々にさえ与えるのである。
アンリ・マティス
現在では機械的方法によって、瞬間的に写真乾板の上に、形象を固定せしめることができる。それは人間が能う限り描いたものよりも精密で正確な形象である。それゆえに、写真の誕生と共に、芸術における正確なる再現の必要が消滅した。
ドゥニ・ローシェ
モード写真が見せるさまざまな奇術の不透明さ、うわべの輝き、不変の部分--その衰弱した軍勢か? その生硬さ、メトロームの如きへつらいの身振りか? ここにあるのは、今でも我々を打ち負かし続ける純化作用、我々を憔悴させる日々のミルフィーユ、数々の命令の陰鬱なのか?
ルシアン・クレイグ
私は売春婦にモデルになってくれるよう頼んでみた。だが、売春婦に写真を撮っていいかどうか訊いてみるといい。彼女はこう答えるだろう。「あんた、私を何だと思ってんの」。これで一悶着起きた。
ヴォルフガング・ティルマンス
人々は僕が、表面的に身近なものを片っ端から写真に撮っているように言うけれど、それは違う。何回も繰り返し現れている主題というのがある。それは、自然や光や、様々な現象、観察、社会の中での「生」を考えることだと思う。
グレゴリー・コルベール
写真を撮っている間は、被写体となる動物が生息している世界に強く惹かれる。元々は人間も大自然の一部だった。だから、被写体をとても身近に感じる。ときには血縁関係があるくらいに見えるんだ。
ラルフ・ギブソン
写真のなかに三次元的な感じをどの程度出せるかで、私の表現したいことが影響を受け、またその写真がどのように知覚されるかかも変わってくることはわかっていた。だから、私は深いパースペクティブを捉えたかったのだ。
田沼武能
当時は写真の被写体に選ばれると皆大喜びでモデルになってくれました。一般の人で肖像権を言う人はいませんでした。写真は高価で自分で撮る機会が少なかったし、また、写真を悪用する人もいなかったからでしょう。
エディー・アダムス
後で分ったことだが、私がシャッターを切ったのは、ちょうど弾が発射されたときだった。そんなこと、あの瞬間には分からなかった。やつは相手の頭部を撃っていた。ベトコン兵が倒れ込み-ああいうのは見たことがない-血が1メートル以上の高さまで飛びはねた。
セルジュ・ティスロン
シャッター・ボタンを押すという動作にとって、瞬間を停止させたいという欲望は本質的なものである。しかしこの動作の意味は、世界の絶えざる運動が私たち一人一人に否応なく惹き起こす並外れたフラストレーションと切り離して考えることはできない。
矢沢栄吉
写真ってカメラのために自分を用意しなきゃいけないじゃん。だけどマイク持ってロックしていれば、用意した自分じゃなくて本音の自分が出るものね。
松重美人
(原爆投下直後)「ひどいことをしやがったな」といいながら一枚、写真を撮った。憤激と悲しみのうちに二枚目のシャッターを切るとき、涙でファインダーが曇っていたのを、今でも脳裏のどこかに、はっきりと記憶している。一息ついて時間を見たら十時半だった。
アンドレ・ケルテス
ニューヨーク近代美術館の学芸員が言うところでは「性器があればポルノだが、性器がなければ芸術だ」。これがアメリカの歓迎の挨拶だった。最終的に私は同意した。あまりにも青二才だったのだ。
和辻哲郎
だから光線を固定させ、あるいは殺し、あるいは誇大する写真には、この像(法華寺十一面観音像)の面影は伝えられないのである。
荒木経惟
要するにね、死ぬときにどんどんあれだね、子供になっていくんだよね。おっぱいとか言ったりしてね、どんどん赤ちゃんになっていくわけだな、どんどん、ね。どういう事かツーと『センチメンタルな旅』で胎児を撮っちゃったんだ、俺はね。
ウィージー
私はピカピカの真新しい1938年型のえび茶色のシェビイ・クーペを買った。それからプレスカードを取り、パトカーと全く同じ警察無線を私の車につける特別許可を署長からもらった。警察無線を持っている報道写真家は私ひとりだけだった。
ジョージ・ロジャー
いいつき合いだった。キャパの前ではずいぶん気後れしたが、それはキャパがスター写真家だったからだ。私はよちよち歩き始めたばかりだった。
安井仲治
ああ小生もいいオッサンになりにける哉です。しかし写真そのものは、だんだん若くなって来ます。旗こそ立てぬシュールのエスプリも吸収してゐる積り。ややホルモンの効きすぎかも知りませんが、凡百の未完成のハン濫を冷眼して「俺が」と思っていゐる点正に雅気満点に候はずや。

2019年8月8日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その2)

Edward Weston Nudes by Charis Wilson, Aperture, January 1, 1977
カリス・ウィルソン
エドワードも私も共通の友人、ギリシャ人のジェーン・ヴァルダの見方に対し、もっともだと思った。この世には三つの完全な形がある。それは舟の舳先であり、バイオリンであり、そして女性の体だと好んでいうのである。
ドゥニ・ローシュ
鯨たちの大きな灰色の背がいつまでも沖合で行き交っている--エイハブ船長の類は皆ずっと前に溺れ死んでしまったのだ。それはつまり、時として一枚の写真が、たった一枚の写真が「理性」を生じさせるということである。
椹木野衣
フルオートカメラを操る女子高校生の写真に素晴らしいスナップが偶然紛れ込んでいたり、単なる記録のつもりで手当たり次第撮影したもののなかに予想外の奇抜なショットが含まれていたり、ましてや事故でシャッターがおりてしまったところが意外に奇妙な効果をかもしていたりする。
池澤夏樹
ぼくは自分の写真の下手さ加減を糊塗するためにこういう大袈裟なことを言っているわけではない。下手は下手と認めた上で、なぜ人があれほど素直に写真は真を写すと信じているか、そこに関心があるのだ。
エリック・レナー
円形の穴は始まりです 出生のための原初的モチーフ、転換の場であり、象徴的に女性です。多くの古代文化の出現伝説は、先祖が最初に現れた神聖な原産地として、地球の穴か空の穴を指しています。
栗原広太
明治天皇は、どういうわけか、御写真を撮影することを御嫌いになった。随ってこれまで、正面から写真をおうつさせになったことがないと承っている。従来明治天皇の御真影として、官衙学校等に汎く下賜された御写真は、実は真実の御写真ではない。
エリオット・ポーター
アンセル・アダムズが何かを撮影するとき、彼はその対象をただちに白黒の画像として見る。だから白黒で撮影する。私はただちに色を持った画像として見る。
イモジェン・カニンガム
父は写真家を「やくざ」だと思っていたの、本当よ。「やくざな写真家になろうとしているのがわかっているのに、なぜ学校に行きたいんだ」と言ってました。ちゃんとした仕事だと思っていなかったのよ。
ローラ・ギルピン
確かにカルティエ=ブレッソンは並はずれています。けれど、もともと画家だったのですから。私は35ミリというのはアクセサリーだと思っています。大型カメラが復活の兆を見せているのは、面白いことですね。
マヌエル・アルパレス・ブラボ
視覚的芸術家のほうが、作家や哲学者よりも自由に哲学的な考えを伸ばせるように思う。鍛錬されたものではないが。写真というものは、目と心、両方を使って制作するのだ。
ウィン・バロック
写真家より画家、哲学者、科学者からより多くのものを学んだにもかかわらず、私は写真家以上のものになりたいと思ったことはない。なぜなら、写真というのはそういうもの--光のメディアだからだ。
若杉慧
写真のための旅ではなく、旅のついでに撮るのである。
リシュアン・ボジェル
重要な事件が起こったところからはどこからでも、写真、特電、記事が「ヴェ」に届き、我々の読者と全世界を結び付け、人の生活の広がりを「眼」に見せるであろう。
ロナール・E・ギャレラ
私は彼らを悩ませたいと思ってるわけではありません。私は有名人のありのままの姿をとらえてたいと思っているのです。自然でポーズをとってない姿を。これが私の言うパーパラッチ流のやり方というわけです。
パトリシア・ボズワーズ
ダイアンはアヴェドンの手法にひっかかるものを感じていた。彼のやり方はかならずしもフェアでないと思った。印画に修整を加えてぼかしたり誇張したりしているため、フィルムに写った有名人の顔が歪曲されることもあったのだ。
グイド・クノップ
海兵隊は上陸後四日間で、摺鉢山守備隊の日本軍をけちらし、山頂を占領した。ハロルド・G・シャイアー少尉率いる兵士40人は、山頂に大隊旗を立てた。硫黄島の真のヒーローたちが、星条旗に鉄の棒にくくりつけて地面に押し込んだのだ。
ローレンス・キーフ、デニス・インチ
写真がゆっくり侵食され朽ちていくのは、もしかしたら「無駄を間引きせよ」という天の声なのかもしれない。この厳しく必然的な剪定はたしかに枯れ枝を削除していく。ところが、この自然の剪定は気まぐれで、我々の価値観などにはお構いなしなのだ。
サーシャ・ストーン
我々は、写真によって、我々の時代の文化を描写する手段を持っている。ゆえに、写真に帰れ! 唯一の世界語、視覚による言葉に帰れ!
内野博子
バザンの写真論的な意義は、基本的には「写真画像の存在論」に集約されていると言えるだろう。この短い論考は、写真のメディウム的な特性と写真の受容経験との密接な関係を論じるものであり、その意味で写真の根本的な問題を扱うものである。
深川雅文
写真は、とうとうここまできた。そして、われわれもとうとうここまできた。生々しい現実からの乖離 -- ハイパーリアルへの離陸がそろそろ始まろうとしていたのである。
マイナー・ホワイト
私は写真家になれるでしょうか、そうきくと、スティーグリッツは「君は恋をしたことがあるかね」そう言った。「はい」と答えると、「なら写真家になれるだろうと」という言葉が返ってきた。
バーモント・ニューホール
近代美術館その他私が関わったあらゆる機関のおかげで様々な素晴らしい機会を与えられ、それによって写真を認めることに微力を割くことができる地位を与えられたことを、私は非常に誇りに思う。しかし、まだ始まったばかりなのだ。
ジョイス・テニソン・コーエン
言葉であれ絵画であれコラージュであれ彫刻であれ、そして写真であれ、自分史的な見解を示すことは現代女性作家のメイン・テーマになっている。それは自己を追求せざるをえない流れというものだろう。
金森敦子
その人は時計をちらりと見ると、時間がせまっているのかと聞いてきた。この辺りの石仏の写真を撮って歩いてるだけなので乗る列車は別に決めてないと答えると、少しは乾くだろうとヒーターのスイッチに手を伸ばした。
キャロル・ダンカン
ヌードは、他のテーマよりも、芸術が男性のエロティックなエネルギーに起源を持ち、そこに支えられている、ということを証明しえた。時代の「種子=精子」となる作品の多くが、ヌードであることの理由である。
鈴木和成
写真のクールさは感覚的にも確かめられる。試みに何冊も写真集を長い時間をかけて眺めてみれば、このクールさを存分に味わうことができる。これは画集では決して体験することができない特殊なクールさである。
開高健
どうして巨大魚かだって? そりゃ写真のためだよ。大きな魚ほど写真の見栄えが良い。だからだんだん大物釣りになってしまったんだよ。
福原信三
それにしても現在使っているカメラでは、自分がその時に感じた印象とは、似ても似つかないものがいつもできる。考えているうちにレンズの角度が、自分の眼の角度と合わないことに気づいた。
木村伊兵衛
カルティエ=ブレッソンのマチスその他の報道写真を突きつけられたときは、ぞっとしてすっかりまいってしまった。俺はこれを忘れていたのだ、どうしても写真の行くべき道はここにあるのだ。
フランシス・ウェイ
アカデミー派の画家や批評家たちの眼には、誰が最も罪ある者として映っているのであろう。誰が現代美術の革命家で、情け無用の水平主義者なのであろうか。写真である。
清水穣
私を空にしていけば、あるがままの世界が立ち現れるというのではない。写真の「リアル」とは、私と、私が想定している「あるがままの世界」の両方を消去してしまうのであり、この消去そのものなのだ。
ジョン・モリス
日本人もまた真珠湾攻撃によって不具にされた人の写真を見せられることはなかった。彼らが見せられたのは、上空から撮影された壮大な勝利の光景だったのである。ちょうど我々の側が国民にヒロシマ上空の美しいキノコ雲の写真しか見せなかったと同じように。
湯川豊
僕たちは南相木川の上流にいた。渓流を歩く植村(直己)の写真をとるためだった。撮影が終ったあと、僕はフライ・ロッドを手にして上流に向って歩きだした。彼が20メートルほど離れて後についてきた。
大島洋
カメラを手にして写真を撮っているときにはほとんど何も考えない。私がそう言うと、たいがい「ウソをつくな」というような返事が返ってくる。グジャグジャといろいろ考えめぐらせて撮っているに決まっている、というのである。
上野俊哉
写真が浮上しつつある。いや正確に言うとそうではない。浮上しつうあるのは写真についての言説であって写真そのものではない。
森村泰昌
世の中にステキな写真というものは確実に存在するのではないだろうか。ではなぜそれがステキに感じられたのか。「なんとなくステキだと思ってしまった」というのがほんとうのところだと思う。

2019年8月5日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その1)

On Photography by Susan Sontag, New Ed edition, September 27, 1979
スーザン・ソンタグ
最近では写真はセックスやダンスと同じくらいありふれた娯楽となった。そのことは、大衆芸術というものはどれもそうだが、写真が大部分の人にとって芸術でなくなったことを意味している。それは主として社交的な儀礼であり、不安に対する防御であり、また権力の道具なのである。
ロバート・キャパ
怪我をしたり、殺されたりしている場面抜きで、ただのんびりと飛行場の周りに座ってるだけの写真では、人々に真実と隔たった印象を与えるだろう。死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の真実を人々に訴えるものである。
アンリ・カルティエ=ブレッソン
かつては自分でプリントしていた。だからネガから何を引き出せるか完全にわかっていたわけだ。けれど、もう何年も自分でプリントしていない。観察にもっと時間を割きたいからだ。
ヴォルフガング・ウルリヒ
直接性という魅力を取り戻すために、できるだけ単純なカメラが必要とされるようになった。写真の技術武装とデジタル化に対する反動として、ロモグラフィーが1990年代に発展した。
ジャック=アンリ・ラルティーグ
幸いなことに、私はいまだに子供だ。普通、人間というのは年をとるほど衰退していくような気がする。いつまでも無邪気で楽しい子供のままでいるように努めるべきだろう。
ジョゼフ・アディスン
私がかつて見たもっとも美しい景色は、暗い部屋の壁に描かれたものであった。
酒井修一
生産停止の知らせを聞いて、日本のメーカーの技術者、とくに役職に就いていたベテラン技術者の気持ちは複雑だった。自分たちの力で日本のカメラを大きく育てたとする自負心はあったが、ライカM3を打ち負かしたという気持ちになれなかったのである。
ロラン・バルト
今日では誰もが経験することだが、私はいたるところで写真を見る。写真はこちらから求めなくとも、世界のほうから私のもとにやって来る。そうした写真は単なる《映像》にすぎず、その現れ方は来たい放題(または行きあたりばったり)である。
富岡多恵子
金もうけへのエネルギーを写真にこめて、写真をその手段にするならいざ知らず、そうでない場合の写真とはいったいなんなのだろうか。写真を撮るとはいったいなにごとなのであろうか。
セシル・ビートン
写真が写真としての価値で展示されることはなかった。わざわざ写真の展覧会をしようなどという人はほとんどいなかった。20年代と30年代、写真が受け入れられていたのはアメリカだけだった。
ブレッド・ウェストン
父(エドワード・ウェストン)はいつも身近にいて、何年もの間、一緒に旅し、一緒に撮影した。何度か同じ女の子を追いかけたことさえあった。父は私のことを兄弟と呼んだ。父と私はすばらしい仲間だったのだ。
シルヴィア・ボーベンシェン
女らしさの原理を具体化するような芸術だけが、伝統的な表現のパターンを塗り替えることができ、陳腐な表現を避け、そこに本来の姿も見えてきた。その結果、女性がアイデンティティを求めるためには非常に厄介な手順を踏まなければならなくなった。
小林美香
私にとって写真を見せながら「語る」という行為には、対象となる写真に写されているものや状態を描出したり分析したりするための言葉を選ぶことだけではなく、語る主体である私自身のことを内省するプロセスも含まれている。
谷崎潤一郎
ソノ写真機ハ写シタモノガ即座ニ現像サレテ出テ来ル。テレビデ相撲ノ実写ノ後デ、アナウンサーガ取口ノ解説ヲスル時ニ、キメ手ノ状況ガ早クモスチル写真ニ撮ラレテ出テ来ルノハポーラロイドヲ使ッテ写スノデアル
ベニータ・アイスラー
最も才能に恵まれていると認めた二人の「若者」を291で引き合わせたとき、スティーグリッツはその結果を予想だにしなかった。ジョージア・オキーフとポール・ストランドの間で初めてかわされた視線はたちまち情熱的な恋愛となって燃えあがった。
ロベール・ドアノー
暗室作業はすいぶんやるが、それは経済的な独立を失わないためだ。もちろん、あまり暗室作業ばかりやるのは馬鹿げている。暗室にいる間は町に出られないのだから。
赤瀬川原平
デジカメはたしかに、見た感じ、よく写る。でもやはり、何かしら騙されてるような気分なのは何故だろうか。暗いところでもまずは写るし、手ブレも少ないし、ピントもよく合う。でもそれは、子供騙しが大人騙しになったもの、という感じが拭えない。
J・H・ファーブル
私は息子のポル・ファーブルと協力して前版で非難された欠陥を埋めることにつとめた。この版は本書の研究の対象をなす大部分の登場者と場景を示す二百枚以上の写真で飾られることになる。その大半は自然の中で生きているものをそのまま写した。
ピーター・ウェッブ
ポルノグラフィックな写真をエロティックと感ずる人々もいるかもしれないが、ほとんどの人々は、エロティシズムをセックスにだけではなく、むしろ愛と結びつけるのであり、そして愛は、ポルノグラフィにおいては、ほとんど、あるいは全く役割を演じていない。
アラ・ギュレル
私自身と同じあるいはその前の世代の人々は、二度とあの紫色のセイヨウハナズオウの花びらに覆われた庭園の門前を通り過ぎることはないだろう。彼らは雨上がりのつるつる滑る玉石のボスポラス通りを下ることもないのだ。
ヘルベルト・バイヤー
画家、写真家、映画制作者の間に、技術とアイデアの交流があった。写真が芸術家に受け入れられ、芸術の一部と考えられるようになっていたのだ。しかし私は、親しい数人を除いて、バウハウス時代孤立していた。
土門拳
貧窮のどん底にありながらなぜ、かれらが暴動を起こさないのか不思議なくらいだった。それがマケ犬の忍従なのか、いわゆる日本人のネバリ強さななのか、ぼくにはわからない。長い圧迫の歴史が、かれらのエネルギーをどこかに閉じ込めてしまったかに見える。
東松照明
礼をいって写真を渡すと、老婆は、生娘のごとくからだをくねらせて恥ずかしがる。老婆は、食い入るようにして写真を眺める。何分も、ずーっと姿勢を崩さずに見つづける。変だな、と思って覗き込むと、老婆は、写真を上下逆にして見ているのだ。
佐貫亦男
幼児の視覚とは、低い位置から仰ぐのではなく、むしろそこから見下ろすものである。幼児のころ遊んだ街角へ何十年ぶりかに立って先のほうを眺めると、驚くほど近い。ところが幼児の記憶だと、それははるか地平線にとどくほど遠かった。
イポリット・テーヌ
我々は模写が芸術の目指すところであると結論しなくてはならないのだろうか。写真とは、線と明暗とでもって、模写すべき対象の形を、背景の前にくっきりと、この上もなく完璧に再現する技術である。
ウジェーヌ・ドラクロワ
ダゲレオタイプによる肖像をよく見てみれば、百枚に一枚も我慢できるものはあるまい。人の顔を見て、我々が驚かされたり、魅了されたりするのは、その顔形以外の何物かなのだ。機械には、我々が一目で見てとれるものを決して知覚できないのだ。
ジゼル・フロイント
ボードレールにとって写真は「物事をその外見的な形によってしか判断しない、この無教養でぼんくらな階級」を激しく非難する口実となった。写真は、芸術を何も理解しておらず実物そっくりの絵を好む大衆の虚栄を満足させる手段に過ぎなかった。
小沢健志
"写された薩摩の人々"をみると、幕末・維新の覇気と風貌とを感じさせるものが多い。やがて明治を生きる若き志士たち、西南戦争に散った旧藩士たちも多く含まれている。
名取洋之助
写真家は、写真雑誌が本舞台のように思ったりしています。写真のアマチュアや、写真を知らない人たちに、写真を撮るには芸術家の天分がなければならないような幻想を抱かせています。
ヘンリー・ホームズ・スミス
ヴァン・デレン・コークが高等教育と写真について簡単な歴史を書いているが、オハイオ大学がおそらく最初にこの過程を始めたのだと思う。ただしスティーグリッツが第一次大戦前のある時期に講座を持っていたらしいコロンビア大学は例外だ。
マン・レイ
アッジェについて、神話をつくるつもりはない。単純な男で、1900年に写真を始めたころに普通だった素材を終生使っていた。おんぼろのカメラに安物のレンズを付け、シャッターの代わりにキャップを取って撮影していた。
リチャード・ウィーラン
ゲルダは、自分自身のためにもほとんど同じようにコスモポリタン的な別名を採用した。彼女はゲルダ・ポポリレスではなく、ゲルダ・タローと名乗ることになる。その名前はパリに住む日本人の若い画家、岡本太郎から借りたものだった。
アンセル・アダムズ
ゾーンシステムは科学的なコミュティでは広く認められていません。理由は、科学者たちが、正確な物理量の実験室規格と異なるとして、イマジネーションによる形なき品質に関わるこの種の写真に関心を持たないからです。
石内都
現実を写し撮ることも写真の機能の一つであるけれど、それ以上に眼の前にあるモノを写し変える作意が、写真には満ちている。モノクロームはその作意やもしくは意図が、黒と白の間に、しとやかな一条の光を呼び起こし、漆黒の影を紡ぎ出し、見えない世界をおびきだす。
多木浩二
ヌード写真の脱性化をみてみると、近代芸術は一面では性にまつわる政治学、すなわち男と女の社会的な関係を回避することであった。もちろん写真家がこうした関係を意識していたために起こったのではない。
ジェフリー・ギルバート
戦前の日本の前衛写真と近代写真の動向は、1930年代前半までその実験的な活力を維持していた。しかし、やがてその活力と才能は、広告や出版という商業写真へと吸収されていく。第二次大戦後、出版界は大きく繁栄したが、野島の作品はこの恩恵に浴さなかった。
光田由里
野島康三のアルバムに、自分の屋敷やその庭先で、梅原龍三郎、岸田劉生、宮本健吉、萬鐵五郎らの様々な作家たちと並んで写った写真が何枚も残されている。痩せて背が高く、遠慮がちで穏やかな野島の表情は、どの写真でも変わることがない。
ヘンリー・ルース
人類が成し遂げた業績--絵画や塔や発見を見る。何千マイルも離れたものを見る、壁の後ろや部屋の中に隠されたもの、近づくと危険なものを見る。男たちの愛する女性、そして数多くの子供たち。見る、そして見ることに喜びを見いだす。見て驚く。見て教えられる。

2019年8月3日

北方領土問題の種を撒いたルーズベルト大統領


ルーズベルト大統領(1933年)
ふたりの男が掲げたプラカードには「ルーズベルトに投票するな」と書いてある。日本の東條英機(1884–1948)とドイツのアドルフ・ヒトラー(1889–1945)で、枢軸国首脳の象徴的存在だった。米国の風刺画家、アーサー・シック(1894–1951)が1944年に描いたイラストで、この時、フランクリン・ルーズベルト(1882–1945)は4期目、最後の大統領選キャンペーン中だった。その落選をふたりが願ってるだろうという皮肉が籠っている。第二次世界大戦はドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、英国、ソビエト連邦、フランス、米国、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争だった。東條、ヒトラー、そしてイタリアのベニート・ムッソリーニ(1883–1945)はファシストであり、三国同盟の中心人物だった。ルーズベルトは「戦争はしない」という公約を掲げていたが、1941年2月8日に真珠湾攻撃受け、日本への宣戦布告を議会に求め承認された。これに対し、米国の参戦を望んでいた英国首相のウィンストン・チャーチル(1874–1965)は欣喜雀躍したという。翌年の1942年2月19日、大統領令 9066 号に署名、最終的には12万人に達した日系米国人の強制収容を開始した。前エントリー「日系米国人の強制収容を記録したドロシア・ラング」で触れたが、その背景に日本人に対する人種差別的感情があった。日本に対する宣戦布告は、直接的には真珠湾攻撃だったかも知れないが、通奏低音としてレイシズムが流れていたのである。ところで社会主義国家のソ連が連合国であったことを不思議に思ったことがある。調べてみると、1939年に大戦が始まった時点では米国は参戦しておらず、またソ連もドイツと不可侵条約を結んでいたので、連合国として共同歩調はとられていなかった。

ヤルタ会談に臨んだチャーチル、ルーズベルト、スターリン
1941年6月に独ソ戦開始が開始され、8月にルーズベルトとチャーチルが首脳会談を行って大西洋憲章を発表しファシズムとの戦争という大義を明らかにし、提携が強まったのだった。ルーズベルトが容共主義者であったという点も見逃せない。戦争がが中盤に入った1945年2月、ヨシフ・スターリン(1878-1953)はクリミア半島のヤルタに、ルーズベルトとチャーチルを招き、所謂ヤルタ会談が開かれた。8日間に渡る会談だったが、ここで極東密約が結ばれた。ルーズベルトは太平洋戦争の日本の降伏にソ連の協力が欠かせないため、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を求め、千島列島をソ連領とすると提言した。ドイツと日本の降伏という勝利を見ずに、1945年4月12日に他界、従って原爆投下という歴史的汚点は刻まれなかった。1951年、サンフランシスコ平和条約を批准、日本は千島列島の放棄を約束してしまった。米国代表は「千島列島には歯舞群島は含まないというのが合衆国の見解」と発言したが、ソ連代表のアンドレイ・グロムイコ(1909–1989)第一外務次官は「千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地がない」と主張した。吉田茂(1878–1967)首相は条約受諾演説で「千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日、一方的にソ連領に収容されたのであります」「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も、終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」と述べている。これが「終戦間際のどさくさに紛れて不法占拠された」という対ロシア北方領土交渉のスタンスになった。ただ元はと言えば、ルーズベルトのソ連への対日参戦要求が発端であったことを忘れてはならない。しかも反ファシズムの旗の下での提議であったことも。

PDF
花田智之「ソ連の対日参戦における国家防衛委員会の役割」の表示とダウンロード(PDFファイル 605KB)

2019年8月2日

2019年「フォトジェニック 」京都・加西展

Kansai Professional Photographer's Exhibition 2019

大阪展(終了)
日 時:2019年7月23日(火)~29日(月)平日9:00~20:00 土日9:00~17:00(最終日16:00まで)
京都展
日 時:2019年8月14日(水)~20日(火)11:00~16:00(最終日16:00まで)
会 場:ぎゃらりー西利京都市東山区祇園町南側 京漬物西利祇園店3F・4F)075-541-8181
加西展
日 時:2019年8月26日(月)~30日(金)9月2日(月)~6日(金)8:30~17:00
会 場:加西市役所市民ホール(兵庫県加西市北条町横尾1000番地)0790-2-1110

出展者(五十音順)阿部秀行・有馬清徳・石川裕修・井上博義・岩田賢彦・岩月千佳・上田進一・上仲正寿・植村耕司・宇佐美宏・大亀京助・大久保勝利・太田眞・大塚努・大西としや・沖野豊・奥田基之・奥村宗洋・奥村喜信・落井俊一・越智信喜・小幡豊・垣村早苗・金居光由・河村道浩・川本武司・神崎順一・北井孝博・木村晃造・木村尚達・木村充宏・草木勝・クキモトノリコ・葛原よしひろ・楠本秀一・小林賢司・小林禎弘・小林達也・佐々木宏明・佐藤壽一・柴田明蘭・新極求・角山明・瀬野雅樹・瀬野匡史・高城芳治・高橋南勝・高橋正則・高畠節二・高畠泰志・髙本雅夫・高屋力・田口郁明・田中重樹・田中祥介・田中秀樹・田邊和宜・谷沢重城・富岡敦・内藤貞保・中島雅彰・中島佳彦・中村優・西岡伸太・西岡千春・西村仁見・二村海・野沢敬次・野本暉房・林巧・原田茂輝・平井豪・平田尚加・広田大右・広瀬慎也・福井一成・福島正造・福島雅光・藤井小十郎・BOCO塚本・前川聡・前田欣一・松井良浩・マツシマススム・丸山伸二郎・三浦彩乃・三浦誠・MIKI・水野真澄・溝縁ひろし・南伸一郎・三村博史・宮﨑裕士・宮田昌彦・宮本博文・宮本大希・村川荘兵衛・森澤保賢・森誠・森脇学・山本学・山本道彦・吉川英治・吉村玲一・米川浩二・林致婕

問い合わせ:フォトジェニック展事務局 06-4395-5183

2019年8月1日

日系米国人の強制収容を記録したドロシア・ラング

The Mochida Family Awaiting Evacuation Bus at Hayward, California. May 8, 1942

Dorothea Lange (1936)
日系米国人のモチダさんは、カリフォルニア州エデンで、2エーカーの農地に種苗場と5つの温室を持っていた。そのモチダさん一家が、強制収容所に送られたのは1942年5月だった。ヘイワードで収容所行きのバスを待つ一家を撮影したのはドロシア・ラング(1895-1965)だった。彼女は1930年に農業安定局 のFSAプロジェクトに参加、農民の写真撮影に取り組み、1936年の『出稼ぎ労働の母』は大恐慌時代を象徴する写真となった。そしてグッゲンハイム財団の奨学金受給を辞退して撮影を始めた、日系米国人の強制収容が新たな重要テーマになった。強制収容は1942年2月19日にフランクリン・ルーズベルト(1882–1945)が大統領令 9066 号に署名、発令したことに始まった。第二次世界大戦中に収容されたのは日系人は12万を超えたが、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、強制的に立ち退きを命ぜられたのである。真珠湾攻撃により日本と米国が交戦状態なったためだったが、大統領令 9066 号に対する反対意見はあった。大統領夫人のエレノアがそのひとりだった。40年後の1982年になって大統領令は否定されたが、ルーズベルトの失政としてその汚点が歴史に刻まれたのだ。リベラルな政治家として、今でも米国では人気があるようだ。しかしレイシストで日本人に対する人種差別的感情を背景に、第二次世界大戦に突き進んだという指摘がある。この世に完璧な人間は存在しない。誰もが闇を抱えているのである。なお日系米国人強制収容所を記録したもうひとりの米国人写真家がいる。カリフォルニア州ヨセミテ渓谷の写真で有名な巨匠、アンセル・アダムス(1902-1984)である。その業績に関しては稿を改めて紹介したい。

iris Dorothea Lange's Censored Photographs of FDR’s Japanese Concentration Camps

2019年7月30日

琵琶湖周航竹生島宝巌寺参詣記

竹生島(滋賀県長浜市早崎町)

六地蔵詣りで知られる京都市右京区の源光寺に、舟形光背の風変わりな石仏がある。軟砂岩製で、中央に那智山と記した六臂の如意輪観音像、その上に三体の観音像が配してある。西国三十三観音霊場のうち、和歌山県の青岸渡寺、兵庫県の中山寺、琵琶湖竹生島の宝巌寺、岐阜県の華厳寺の本尊を選んで彫ってある。制作年代は江戸時代中期のものらしいが、当時の札所信仰を伝えている。宝巌寺がその四ヶ寺のひとつになっていることが興味深い。青岸渡寺も京都からかなり遠いが、宝巌寺も決して交通が便利という場所とはいえない。遊覧船を降りて急こう配の石段を登ると、途中、石仏を祀った祠があったが、見るととそれは如意輪観音像だった。宝巌寺の本尊は弁才天像である。同寺ウェブサイトよると、聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよとお告げがあり、724(神亀元)年聖武天皇が建立したという。観音堂は翌年に作られ、千手観音像を安置したそうである。だから西国三十三観音霊場のうちの第三十番札所になったわけで、すると途中の石仏に矛盾を感ずるが、些細なことかもしれない。

宝巌寺本堂内陣のミニダルマ
本堂に入って目にとまったのは、本尊の弁財天ではなく、おびただしい数のミニダルマだった。病気平癒および家内安全などを祈願して奉納したものだが、その数の多さに驚く。観音堂から隣の都久夫須麻神社(竹生島神社)へは屋根つきの渡廊で結ばれているが、これは重要文化財だそうである。琵琶湖に面した拝殿の突き出た所に龍神拝所がある。ここから参詣者たちは願い事を書いた土器(かわらけ)を湖に向かって投げるのである。創建時、神仏習合で寺と神社は一体化していた。1868(明治元)年に発布された神仏分離令により、廃寺とし神社に改めよという命令が下りた。そこで本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなったそうである。その後宝巌寺は本堂のないままに仮安置の大弁才天だったが、1941(昭和17)年に現在の本堂が再建されたという。寺から神社の本殿になった建物は、豊臣秀吉が寄進、伏見桃山城の束力使殿を移転したもので、現在は国宝となっている。竹生島を辞して再び遊覧船に乗り、長浜港に向かうと、水上バイクが追ってきた。航跡の波頭を利用してジャンプを楽しむためだ。

2019年7月26日

スコットランド古謡 Barbara Allen アパラチアへの旅

Cruel Barbara Allen by Eleanor Fortescue-Brickdale , circa 1920.

2017年2月に「南部アパラチアで英国古謡を蒐集した民謡研究家」と題した一文を掲載した。2000年に公開された映画 Songcatcher のモデルは English Folk Songs From The Southern Appalachians(南部アパラチアの英国民謡)を著した、英国の音楽研究家セシル・シャープ(1859-1924)と、民謡蒐集家オリーブ・デイム・キャンベル(1882-1954)だったが、史実と違うという主旨だった。挿入歌にはエミルー・ハリスやヘイゼル・ディッケンズなど、カントリー音楽の歌い手も加わっているのだが、所詮ハリウッド仕立て娯楽映画と割り切ったのだろうか。今もこの点は残念に思っているが、映画全篇に流れた音楽は素晴らしいものだった。特にエミー・ロッサム扮する少女がスコットランド古謡 Barbara Allen を歌うシーンが印象的だった。ただ無伴奏ゆえ冗長に過ぎると判断したのだろうか、2番までしか歌われていなかったのが惜しい。

He sent his servants after her
And for his sake he sent them:
My master's sick and about to die
And for your sake he's dying.

Slowly, slowly, she got up,
And went away unto him,
Saying: Kind Sir,
You are pale looking.

O yes, my love, I'm mighty sick,
A kiss or two
From your sweet lips
Would save me from this dying.

He turned his pale cheeks toward the wall ;
She turned her back upon him,
Saying : Kind sir, you're none the better of me,
If your heart's blood was a-spilling.

Slowly, slowly she gets up
And goes away and leaves him.
She hadn't rode but a mile in town,
She heard his death bells ringing.

They rung so clear unto her ear
That she commence lamenting.
She looked to the East and she looked to the West,
She saw his cold corpse coming.

Go bring him here as cold as clay
And let me look upon him.

Go and tell to my parents most dear,
Who would not let me have him.
Go and tell to the rest of my kin folk,
Who caused me to forsake him.

Sweet Willie was buried on Saturday night,
Barbara was buried on Sunday.
Both of the mothers died for them,
Was buried on Easter Monday

Sweet Willie was buried in the new churchyard,
Barbara was buried close beside him.
A red rose grew from sweet Willie's breast,
A briar grew from her feet.
Loomis House Press (June 1st, 2012)
このバラードには実にさまざまなバリエーションがあるが、映画ではジョージア州ハーバーシャム郡のフローレンス・マッキニーが、1910年に歌った歌詞とメロディーが採用されている。シャープが米国に滞在したのは1916年から1918年だから、蒐集したのはキャンベルだった。というか、収録曲の多くをキャンベルが蒐集したのではと私は想像している。1917年の初版にあったキャンベルの名が、民謡蒐集家モード・カープルズ(1885–1976)が編纂に加わった1932年の改訂版から消えているのがちょっと腑に落ちない。現在は2012年に出版された2分冊の新装版が日本でも入手可能である。それはともかく Barbara Allen は本国で忘れかけていたバラードだった。これを掬い上げ、蘇らせたシャープの功績は大きい。そしてエミー・ロッサムばかりではなく、ジュディ・コリンズ、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、エミルー・ハリス、エディ・アーノルド、マック・ワイズマン、ハイロ・ブラウン、テネシー・アーニーフォード、エバリー・ブラザーズ、ドリス・デー、ドリー・パートンなど、知り得る限りのフォーク&カントリー系ミュージシャンがこの歌を取り上げている。おそらく300を上回る録音が残されているのではないだろうか。下記音楽ファイル共有サイトで、エミー・ロッサムおよびエミルー・ハリスの Barbara Allen を続けて聴くことができる。

SoundCloud
Barbara Allen: Emmy Rossum and Emmylou Harris from the Motion Picture "Songcatcher" 2000

2019年7月24日

音楽管理&プレイヤー MusicBee の魅力

アルバムアートをメインに据えた MusicBee コンパクトプレイヤーの画面

多機能で何かと便利だったアップルの iTunes の使用を、気が付いたらいつの間にかやめていた。最新版をインストールしてあるが、インターフェイスが私には馴染めない。CD のリッピングやローカルディスク音源の再生なら、Windows 10 の Media Player で十分である。インターネットラジオ受信なら、優れたフリーウェアに事欠かない。今月半ばに「Android 音楽プレイヤー jetAudio の実力」と題した一文を投稿したばかりだが、その経験から PC 版についても興味を持った。取りあえず評判が良い foobar2000 を試用してみたが、どうも私とは相性が悪いようだった。次に目に止まったのが CD リッピング機能を備えた、多機能音楽管理&プレイヤー MusicBee だった。主な機能は次の通り
15バンドのイコライザー(画像をクリックすると拡大します)
  1. 音楽 CD からの楽曲のリッピング
  2. CD やローカ HDD などの音源再生
  3. インターネットラジオ受信
  4. 音楽のプレイリストによる整理
である。これはまさに iTunes の機能とオーバーラップする。MusicBee をインストールして起動すると、まず言語選択画面が表示される。対応言語はドイツ語、英語、スペイン語、フランス語、イタリア語、オランダ語、ポーランド語、ポルトガル語、ブラジルポルトガル語、ロシア語、日本語、簡体字中国語、繁体字中国語。言語を選択して Next ボタンを押すだけで foobar2000 のように日本語化パッチを適用する必要はない。日本語は海外製であるにも関わらず完璧で、このソフトを使いやすくしている。次に「ファイルのスキャン」ウィンドウが表示されるので、音楽ファイルを簡単に登録できる。再生できるファイルは MP3、AAC、M4A、MPC、OGG、FLAC、APE、Opus、TAK、WavPack、WMA、WAV、MIDI、MOD、UMX、XM とひじょうに多い。そしてさらに Blue、Dark、Dark-Fine Tuned、Dark-Metro Series、Multi-Color、Neutral、Pastels、MusicBee3、Windows Theme といった豊富なスキン(ユーザインタフェースの外観表示を変更できる機能)が用意されている。美しいスキンが MusicBee の人気に繋がっているようだ。コンパクトプレイヤーに切り替えることができるのも、魅力になっている。アルバムアートの画像を眺めるのも、アナログレコード時代からの音楽鑑賞の愉しみだったからだ。ソフトは下記公式サイトから最新版をダウンロードし、インストールできる。現在のバージョンは 3.3.7115 で、今年の6月26日に更新されたばかりである。

MusicBee  Get Latest Ultimate Music Manager and Player "MusicBee" for Win7/ Win8/ Win10

2019年7月20日

レズビアンを公表した 2019 参院選候補者

Lady Strachan and Lady Warwick making love in a park, ca. 1820.

上善寺(京都市上京区南上善寺町)
明日21日は 2019 年参院選の投票日。京都府選挙区で私が注目しているのは、LGBT(Lesbian・Gay・Bisexual・Transgender)すなわちレズビアンであることを公表している候補者である。同性愛の政治家といえば、すぐに頭に浮かぶのが、米大統領選に出馬表明をしているインディアナ州サウスベンドのピート・ブティジェッジ市長である。米民主党の代表候補になれば、LGBT の存在を認めないトランプ大統領と論戦が展開されると思われる。安倍晋三首相は同性婚を認める法案に難色を示しているし、仮に彼女が当選して国会議員になった場合、いかなる処遇を受けるか興味深い。なにしろ英国のガーディアン紙が、日本は先進国からなるG7の中で同性婚を認めない唯一の国であると指摘。自民党の杉田水脈議員が LGBT に対し「生産的がない」と差別発言した事例などを説明している。人生の多様性を認めようとしない、情けない安倍政権のお粗末である。

Ladies of Llangollen
上掲の「公園で愛し合うストラチャン卿夫人とウォリック伯爵夫人」と題した絵は英国のジェームズ・ギルレイ(1757-1815)が19世紀初頭に描いたモノクロの風刺画に、水彩絵の具で彩色した銅版画である。貴婦人のひとりが「彼は自分が女性のライバルを持っていると想像してないわ」と囁いている。遠く離れた茂みから覗いているのはふたりの夫たちである。航海服の紳士が「こんな厄介なことをやめさせるにはどうしたらいいだろう」と嘆くと、シルクハットの紳士が「彼女をウォリックから連れ出すことだ」と答えている。つまり移動してふたりを引き離したらどうかという提案だった。この一枚で英国でも歴史的には偏見があったと断言するのはいささか乱暴かも知れない。左は18世紀後半から19世紀前半にかけて、英国のウェールズ北東部、デンビーシャーの小さな町でで共に暮らしていた女性を描いた絵で Ladies of Llangollen(ランゴレンの貴婦人たち)と題されている。どちらもアングロ・アイリッシュの上級階級に属していた貴婦人たちである。エリナー・バトラー(1739-1825)とサラ・ポンソンビー(1755-1829)で、同時代人による激しい非難を受けた。レスビアンのパートナーだったという主張に因るのかも知れない。いずれにしても東西の歴史を含め、レズビアンを語ることは浅学の私にはやはり荷が重く、断片的な覚え書きを披露するだけに終わってしまったようだ。明日の開票結果を見守りたい。

追伸:京都府選挙区の開票の結果、現職の日本共産党の倉林明子氏が議席を死守。立憲民主党から出馬した、本稿紹介の LGBT 活動家の増原裕子氏は、大接戦になりましたが、惜しくも及びませんでした。(7月21日)

2019年7月15日

Android 音楽プレイヤー jetAudio の実力

エフェクトとイコライザー設定画面(クリックで拡大)

スマートフォンやタブレットをウォークマン化しようとする場合、搭載されている音楽プレイヤーに必ずしも満足するとは限らない。AGC(Automatic Gain Control)と呼ばれる自動利得制御、すなわち信号が強くなると出力が大きくならないようにし、信号が弱くなると出力が小さくならないようにするシステムが欲しい。アルバム単位で聴く場合は最初の曲の音量調節すればよい。しかし複数のアルバムを順番をばらばらにして聴くシャッフル再生の場合は、曲ごとに音量調節が必要なのでイライラするからだ。

ロゴマーク
以前使っていた Xperia Z3 はこの機能が備わっていたが、現在使っているタブレットは対応していない。そこで Android 端末用アプリケーションを探してみた。まず目に止まったのが、フリーウェアの PIM player だった。試用したところ1曲ずつ手動でプレイリストに追加する必要があることが分かった。私は 1,000 曲以上ストレージしているので、結局やむなく導入を諦めてパスした。次にダウンロードしたのが Cowon America が開発した jetAudio だった。無料の Basic は機能制限があるので Plus 版を Google Play ストアでオンライン購入した。AGC 機能は無論のこと、正確な再生速度調節(50%〜200%)など多機能だが、20バンドグラフィックイコライザーが突出している。自分で設定できない人には、音楽ジャンルごとに自動設定してくれるのも嬉しい。同名のパソコン用ソフト同様、実力十分のアプリケーションである。なおハイレゾ音源を再生することができる Onkyo HF Player もかなり評判が良いようだ。しかし目移りしていろいろ手を出してしまうと、無駄な出費をしそうなので、今回は試用を見送ることにした。

Google PlayAndroid 音楽プレイヤー jetAudio の解説とインストールおよびユーザーレビュー(Google Play)

2019年7月13日

祇園祭「蘇民將來子孫也」の謂れ

横山崋山《祗園祭礼図巻》下巻(部分)1835-37(天保6~8)年

祇園祭山鉾巡行を17日に控えた長刀鉾(京都市下京区四条通烏丸東入る)で粽(ちまき)を授与していただいた。粽というと植物の葉で包んだもち米を連想、童謡『背くらべ』の「ちまき食べ食べ兄さんが計ってくれた背のたけ」と口ずさむ人がいるかもしれない。古くは茅(ちがや)の葉で巻いたことから、茅巻き(ちまき)と呼ばれるようになったという。祇園祭の粽は食べ物ではなく、笹の葉で作られた厄病災難除けのお守りである。小さな護符がついていて、見落としがちだが「蘇民將來子孫也(蘇民将来子孫也)」と書いてある。祇園祭は八坂神社の祭礼行事だが、ウェブサイトで次のように説明している。
長刀鉾の粽(ちまき)の護符
八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与いたします。このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
つまり「私は蘇民将来の子孫です。ですからで病気や災いから護って下さい」という願いを込めて書いた護符を身に着けた蘇民の一族は、後に疫病が流行った際も、逃れることができたという。ところで本題の祇園祭だが、869(貞観11)年、疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神、スサノオノミコトらを迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。その後、疫神を鎮め、退散させるために花笠や山車を出して市中を練り歩く夜須礼(やすらい)の祭祀となった。悪霊や疫鬼は祭りの際の踊りによって、追い立てられて八坂神社に集められるが、そこには蘇民将来がいる。そしてスサノオノミコトの霊威によって悪霊や疫鬼の鎮圧、退散が祈願されたのである。各山鉾で授与される「蘇民將來子孫也」と記した護符をつけた粽は、このような故事にちなんだものなのである。

2019年7月10日

タブレットの着衣を許したスティーブ・ジョブス

Shockproof Protective Cover for Huawei MediaPad T3 7.0 Tablet

バスや電車の中で気づくのは、スマートフォンを手にした人のほんどが、ケースに入れていることである。かつての携帯電話、いわゆるガラケー用のケースはなかったように記憶している。折り畳めば液晶画面が隠れるので、バッグに入れても傷まないし、第一、メーカーは落下テストをして強度対策を施していた。ところが iPhone は「ゴリラガラス」を採用した。強化ガラスだが、落とせば所詮割れる。だから保護フィルムが現れたのだろう。しかし、さらなるケースに至っては如何なものと感ずることがある。ご存知、アップル社、とりわけスティーブ・ジョブスは製品のデザインにこだわった。性能よりデザイン優先じゃないかとすら錯覚するくらいだ。透明のケースなら半ば理解できるが、革製のケースに至っては、その美しさを台無しにしている。もっともこれはユーザーの勝手であり、私が揶揄する筋合いのものではないのは無論だが。
講談社(2011年11月)
iPad の発売前から、ジョブスは、iPad2 についてどうすべきかを考えていた。(途中略)ほとんどの人が考えもしなかったアクセサリーに注目していた。ケースだ。多くの人が iPad をケースに入れ、その美しいラインを隠し、せっかくのスクリーンをスポイルしていた。もっと薄くすべきなのに、分厚くしまっていた。あらゆる面で魔法のような装置をありふれたカバーをかけてしまっていたのだ。(ウォルター・アイザクソン著/井口耕二訳『スティーブ・ジョブズII』講談社)
サンフランシスコで2011年3月に開かれたアップルの製品発表会で、スティーブ・ジョブズは iPad 2 のデモンストレーションをしたが、冒頭で「今回はケースも iPad 2 と一緒にデザインしたんだ」と語ったという。どうせ人々がつけるなら、優れたデザインのケースを提供しようという思惑だったのだろう。引用した伝記によると、ジョブスはたまたま見つけた磁石についての論文をアップルのチーフ・デザイン・オフィサー、ジョニー・アイブに渡した。吸引力が円錐形に働く、望む場所にピンポイントで作用する磁石があるということだった。そして開発されたのが着脱式のカバーだった。実は我が家にも10インチの iPad があるが、外出先に携行しないのでケースはつけていない。最近導入したファーウェイ 7 インチタブレットに淡紅色のオリジナル衝撃吸収ケースを装着した。1,000 円弱の出費だったが、美しい色の服を着せたせいか、見映えも良くなったようだ。

2019年7月8日

祇園祭長刀鉾天王人形の謎

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上掲左の絵は竹原春朝斎『都名所図会』1780(安栄9)年、右は二代目歌川広重『諸国名所百景』1859(安政6)年に描かれた祇園祭長刀鉾巡行である。竹原春朝斎の絵は比較のため右半分を省いたが、左上に「鉾に乗る人の競ひも都哉」という榎本其角の句が見える。二代目歌川広重の絵はおよそ80年後に描かれたのだが、大胆な構図になっている。仔細に観察すると、両者には共通点がたくさんある。町家一階の格子、提灯、二階から鉾を見守る人々、いずれも非常によく似ている。記録によれば、巡行は現在と違い四条通から寺町通を南下している。背景に鴨川が描かれているが、寺町通から離れているし、このアングルで本当に見えたか怪しい。漠然と疑いを持つようになったのはこの点からだった。私は浮世絵あるいは錦絵の研究家でないし、この二つの絵を比較検討した文献が存在するのか不明だが、二代目歌川広重は、竹原春朝斎の絵を模倣した可能性がある。つまり都名所図会は、当時、それほどポピュラーだったと言えるのではないだろうか。

長刀鉾天王人形(和泉小次郎親衡像)の部分拡大図
さらに注目すべきは、鉾頭の下にある天王台の人形である。これは鉾の守護神、和泉小次郎親衡(ちかひら)像である。小舟を操り、三条小鍛冶宗近作の大長刀を振るい、山河を縦横無尽に駆け巡ったといわれる、強力無双の源氏の武将である。小屋根の下に結いつけられているが、舟も真木に括られている。現在この人形は僅か23センチの木彫り、路上からは双眼鏡あるいは野鳥観察用望遠鏡などを使わないと観察できない。竹原春朝斎は鉾建て前にスケッチしたのだろうか。二代目歌川広重の絵は若干描き込んでいるものの、これまた両者は酷似している。ただ小屋根や台座はそっくりだが、長刀の刃の向きの上下が逆なのが気になる。武道に関しては不案内だが、太刀や長刀は突くか、振り下ろす武器だから、後者の構え方のほうが自然ではないだろうか。とすれば、気になる部分を修正したのではないか、というのが私の推論である。明後日から鉾建てが始まる。何年か前に見物したが、天王人形の写真を撮ることができなかった。最後に取り付けるのだが、作業の邪魔になるので近づけなかったからである。今年は時間を割いてじっくり観察したいと思っている。

松本元『祇園祭細見』より
天王人形は1986(昭和61)年に作り直された。京都新聞2009年7月12日の記事によると、人形を制作した有職御人形司十二世の伊東久重氏は、その祖父が新調した人形を参考に復原制作したという。祖先である桝屋庄五郎が1726(享保11)年に作ったものが元になっているという。侍烏帽子(えぼし)に直垂姿で、右手に大長刀を持ち、左肩に小舟を担いだ勇壮な姿をしてると語っているが、伊東久重氏の長男、建一氏が写真をウェブサイト「伊東建一御所人形の世界」に掲載している。これを見ると1977(昭和52)年に発刊された松本元『祇園祭細見』のさし絵の通りである。確かに肩に小舟を担いでいるが、都名所図会とは大きく異なる。実際に古い人形を手にし、復原した伊東氏の証言が間違いとは言い難い。桝屋庄五郎作の人形が意匠変更されず、そっくり継承されたのなら、竹原春朝斎や二代目歌川広重が描いた絵が間違いとなってしまう。新聞を読んだ当時、この点が気になって、天王人形を制作した伊東久重氏に直接電話でお訊ねしたことがある。「1726(享保11)年に作られた人形の傷みが酷く1954(昭和29)年に祖父が制作し直した。1985(昭和60)年の鉾建ての際に損傷、翌年に作り直すことになった。人形の目や口の筆跡がはっきり残り、装束も崩れてなかったので、これを参考に復原した」そうである。するとやはり竹原春朝斎や二代目歌川広重が描写した天王人形の絵は正確なものではないということになるのだろうか。いや、違う。実際に見た竹原春朝斎がわざと違う像を捏造したとは考え難い。遥かなる時間の波に漂い、歴史が混沌と化してしまったようだ。

2019年7月7日

フォトジェニック 2019「明日への伝言」写真展


大阪展
日 時:2019年7月23日(火)~29日(月)平日9:00~20:00 土日9:00~17:00(最終日16:00まで)
会 場:大阪府立中之島図書館2F多目的スペース1大阪市北区中之島1-2-10)06-6203-0474
京都展
日 時:2019年8月14日(水)~20日(火)11:00~16:00(最終日16:00まで)
会 場:ぎゃらりー西利京都市東山区祇園町南側578 京漬物西利祇園店3F・4F)075-541-8181
加西展
日 時:2019年8月26日(月)~30日(金)9月2日(月)~6日(金)8:30~17:00
会 場:加西市役所市民ホール(兵庫県加西市北条町横尾1000番地)0790-2-1110

出展者(五十音順)阿部秀行・有馬清徳・石川裕修・井上博義・岩田賢彦・岩月千佳・上田進一・上仲正寿・植村耕司・宇佐美宏・大亀京助・大久保勝利・太田眞・大塚努・大西としや・沖野豊・奥田基之・奥村宗洋・奥村喜信・落井俊一・越智信喜・小幡豊・垣村早苗・金居光由・河村道浩・川本武司・神崎順一・北井孝博・木村晃造・木村尚達・木村充宏・草木勝・クキモトノリコ・葛原よしひろ・楠本秀一・小林賢司・小林禎弘・小林達也・佐々木宏明・佐藤壽一・柴田明蘭・新極求・角山明・瀬野雅樹・瀬野匡史・高城芳治・高橋南勝・高橋正則・高畠節二・高畠泰志・髙本雅夫・高屋力・田口郁明・田中重樹・田中祥介・田中秀樹・田邊和宜・谷沢重城・富岡敦・内藤貞保・中島雅彰・中島佳彦・中村優・西岡伸太・西岡千春・西村仁見・二村海・野沢敬次・野本暉房・林巧・原田茂輝・平井豪・平田尚加・広田大右・広瀬慎也・福井一成・福島正造・福島雅光・藤井小十郎・BOCO塚本・前川聡・前田欣一・松井良浩・マツシマススム・丸山伸二郎・三浦彩乃・三浦誠・MIKI・水野真澄・溝縁ひろし・南伸一郎・三村博史・宮﨑裕士・宮田昌彦・宮本博文・宮本大希・村川荘兵衛・森澤保賢・森誠・森脇学・山本学・山本道彦・吉川英治・吉村玲一・米川浩二・林致婕

問い合わせ:フォトジェニック展事務局 06-4395-5183

2019年7月6日

黄斑変性の憂鬱

京大病院(京都市左京区聖護院川原町)

かかりつけの眼科医に「黄斑変性」と診断された。加齢により網膜の中心部である黄斑に障害が生じ、見ようとするところが見えにくくなる病気だそうである。要するにレンズではなく、センサーの不具合である。病気の内容については割愛するが、下手すると失明するという。最近まで治療法がなかったのだが、治療法が新たに開発されたという。紹介を受け、京都大学付属病院で入院加療をした。取りあえずひと月に1回、都合3回の治療をし、その後は様子をみるという。しばらく鬱陶しい日が続きそうだ。

2019年7月2日

ファーウェイ製タブレットの導入

Huawei MediaPad T3 Android Tablet with 7" IPS Display, Quad Core, WiFi Only, Space Gray

ファーウェイのタブレット MediaPad T3 7 を購入した。今年3月、思うところがあり昔ながらの携帯電話、俗にいうガラケーに戻した。そしてそれまで使っていたソニーの Xperia Z3 もウォークマン代わりに携行してきた。ごく稀だけど、外出先でウェブメールをチェックすることがあるので、画面がより大きい7インチのタブレットに食指を伸ばしたのである。新書版とほぼ同じ大きさなので、これを機会に電子書籍を導入しようかなというアイデアが脳裡を掠めるが、やはり紙の感触を大事にしたいのでやめようと思う。ところでなんと1万円を切るという値段に仰天する。実際に手をとってみると、アルミニウム合金の筐体が美しく、高級感すらある。IPS 方式の液晶画面も綺麗で、音質も悪くない。通販サイトのカスタマーレビューを読むと、多くの人たちがそのコストパフォーマンスの高さが、その購入の動機になっていることが分かる。ただ残念なのは、内部ストレージが 16GB しかなく、音楽プレーヤーとして物足りない。そこで microSD に詰め込むにした。Android の良いところは、アップルの iTunes のようなツールを使わなくても、Windows エクスプローラーでファイルの転送ができることだ。ファイルの可視化は有難い。オープンソースがベースの OS はメーカー間の競争を喚起するので、優れたハードウェアを産むと思う。良い買物をした。

米中貿易摩擦で揺れるファーウェイ
ところでファーウェイ製品に関してはゴタゴタ騒ぎが続いている。発端は6月15日に、ドナルド・トランプ米大統領が非米国企業の通信機器使用を禁止する大統領令に署名をしたことだった。対中国貿易に打撃を与えるという大統領の思惑が背景にある。そもそもファーウェイは米国市場でスマートフォンをほとんど売っていない。しかしファーウェイの新端末でグーグルの関連ソフトが使用不可になる恐れがある、とのニュースが世界中を駆け巡った。これによって英国や韓国、そして日本でもファーウェイ離れが加速したのはご存知の通りである。一時グーグルがファーウェイと取引を停止するという報道が流れた。しかしこの分野に関しては全くの素人だが、そうならないと思っている。というのはファーウェイは独自の OS を開発できる能力があり、グーグルの支配的立場が徐々に弱まる可能性があるからだ。万が一オープンソースベースで Android もどきの OS を作られたりすれば、そのバグが大量に発生して、かえってセキュアでないスマートフォンが世界に蔓延しかねない、とグーグルが米商務省の関係者などに抗議したという噂がある。トランプ米大統領は6月29日、中国の習近平国家主席との会談後、ファーウェイに米企業が部品を売ることを認める意向を示した。これで米中貿易摩擦が霧散するとは思えないが、カメレオンの如き朝令暮改である。

android  ファーウェイ携帯電話・タブレットの管理アプリ HiSuite(Windows版)の解説とダウンロード

2019年7月1日

祇園祭 2019 詳細日程表


祇園祭 2019 詳細日程表
日時行事内容説明主催場所
7月1日~5日吉符入各町に於いて祭礼奉仕の決定。神事の打ち合わせを行う。各山鉾町各山鉾町
1日
午前10時
長刀鉾町お千度町内役員がその年の稚児・禿を伴い神事の無事を祈り、八坂神社に参拝。長刀鉾町八坂神社
2日
午前10時
鬮取式17・24日の山鉾巡行の順位を決める為、各山鉾町代表者が参集し、市長立会のもと鬮をとる。清々講社市役所
2日
午前11時30分
山鉾連合会社参各山鉾町代表者が、神事の無事を祈り八坂神社に参拝。各山鉾町八坂神社
7日
午後2時30分
綾傘鉾稚児社参綾傘鉾の稚児が町内役員と共に神事の無事を祈り八坂神社に参拝。綾傘鉾町八坂神社
10日~13日鉾建(前祭)各鉾町それぞれに鉾の組立にかかる。各鉾町各鉾町
10日
午前10時
幣切長刀鉾町の神事に必要な各種御幣を八坂神社の神職が奉製する。長刀鉾町長刀鉾町
10日
午前10時
神用水清祓式神輿洗に使用する神事用の水を鴨川から汲み上げお祓いする。宮本組鴨川堤
10日
午前11時
高橋町社参町内役員が神事の無事斎行を祈り八坂神社に参拝。高橋町八坂神社
10日
午後4時30分
~9時
お迎提灯万灯会員有志が提灯行列を整え清々館より所定のコースを経て本社に戻り、神輿洗の神輿を迎える。コース:本社→河原町四条→市役所→寺町通→四条通→東大路→神幸道→本社祇園万灯会氏子区内
10日
午後8時
神輿洗式午後6時奉告祭斎行後、神輿三基の内二基を舞殿に据え内一基(中御座)を舁き、列の前後に松明を点じ四条大橋に至り、四条大橋上で神輿を清める。午後8時30分頃本社に還って後三基の神輿を飾りつける。今夕より境内の吊提灯に火を入れる。八坂神社
宮本組
清々講社
四条大橋
12日~13日鉾曳初(前祭)各鉾町の人々が囃子を奏しつつ夫々の町内のみ鉾を曳く。各鉾町各鉾町
12日~14日山建(前祭)各山町それぞれに山の組立にかかる。各山町各山町
13日~15日舁初(前祭)各山町の人々が夫々の町内のみ山を舁く。各山町各山町
13日
午前11時
長刀鉾稚児社参鉾の町内には祭の稚児の当番が定められていたが、現在では長刀鉾以外では人形が用いられている。長刀鉾稚児は立烏帽子水干姿で従者を伴い騎馬にて八坂神社に詣でる。俗にお位もらいともいう。17日の巡行迄、身を慎み、巡行当日は長刀鉾正面に乗り太平の舞を舞う。長刀鉾町八坂神社
13
午後2時
久世稚児社参17日神幸祭、24日の還幸祭に供奉する久世稚児(駒形稚児)の社参が行われる。久世町八坂神社
14日~16日
夕刻より
宵山(前祭)各山鉾町にて山鉾を飾り、祇園囃子を奏でる。家宝什器、屏風等を美しく飾る家もあり、町内雑踏し祇園祭情緒が祇園囃子の音と共にもり上がる。各山鉾町各山鉾町
15日
午前4時30分
斎竹建山鉾巡行当日には長刀鉾稚児が太刀にて斎竹に張られた注連縄をきる。高橋町四条麩屋町
15日
午前10時
生間流式庖丁日本式庖丁道生間流に依る式庖丁が奉納される。日本式庖丁道生間流八坂神社
15日
午後3時
伝統芸能奉納祇園祭に各種の伝統芸能を奉納する。日本伝統芸能団八坂神社
15日
午後8時
宵宮祭境内の灯を消し浄闇の内に舞殿に奉安の神輿に御神霊を遷し奉る。八坂神社八坂神社
16日
午前9時
献茶祭表千家・裏千家家元が隔年での奉仕。
拝服席及び副席・協賛席が設けられる。
祇園祭献茶会八坂神社
16日
午前9時
豊園泉正寺榊建古来、各町内の榊奉斎行列が全神輿に供奉した記録があり、現存する一つである。平成4年7月から神輿の神幸列を前行する形で、中御座神輿の前を供奉することになった。豊園泉正寺榊奉賛会東洞院仏光寺東入ル
16日
午後6時30分
石見神楽素戔嗚尊が八岐の大蛇を退治し天の村雲の剣を得る舞が奉納される。島根県人会
島根奉賛会
八坂神社
16日
夕刻より
宵宮神賑
奉納行事
石段下四条通に於いて各種芸能奉納行事が行われる。八坂神社八坂神社
石段下
16日
午後11時
日和神楽翌日の山鉾巡行の晴天を祈念し、各山鉾町の囃子方が町家から四条御旅所の間を往復する間、祇園囃子を奏する。長刀鉾は所定のコースを通り八坂神社にて囃子を奉納する。各山鉾町四条御旅所

八坂神社
17日~21日山・鉾建(後祭)各山鉾町それぞれに山・鉾の組立にかかる。各山鉾町各山鉾町
17日
午前9時
山鉾巡行(前祭)長刀鉾を先頭に前祭の鉾九基、山十四基が各町を出発し祇園囃子も賑やかに所定のコースを巡行。祇園祭山鉾連合会氏子区内
鬮改鬮取式に於いて決定した山鉾巡行順位に従い巡行が行われているかを大紋烏帽子着用の奉行(市長)が改める。清々講社四条堺町
17日
午後4時
神幸祭神輿渡御に先立ち本殿にて祭典が行われる。八坂神社八坂神社
17日
午後6時
神輿渡御出発式神輿渡御出発にあたり、石段下にて三基の神輿の差上げが行われる。その後氏子区域を夫々所定のコースに従い渡御する。また古例により久世稚児の供奉、宮本組神宝列の供奉がある。午後9時頃より相次いで四条御旅所に着輿し、後24日迄奉安される。八坂神社八坂神社
石段下

四条御旅所
20日~21日鉾曳初
山舁初
鉾町の人々は囃子を奏しつつ町内のみ鉾を曳き、各山町の人々は、夫々の町内のみ山を舁く。各山鉾町各山鉾町
20日
午後3時
宣状式花傘巡行に奉仕の馬長稚児、児武者の宣状が交付される。祇園祭花傘
連合会
八坂神社
21日~23日
夕刻より
宵山(後祭)14日~16日と同じ。各山鉾町各山鉾町
23日
午前9時
煎茶献茶祭在洛の煎茶道家元の輪番奉仕に依り行われ、祭典後には常磐殿及び常磐新殿に於いて拝服席・副席が設けられる。八坂神社煎茶会八坂神社
23日
午後1時
琵琶奉納琵琶協会の人々により、琵琶の奉納が行われる。京都琵琶協会八坂神社
能舞台
23日
午後2時
オハケ清祓式八坂神社又旅社に於いて還幸祭の神事斎行を控え「オハケ」と称し四隅に斎竹をたてた巾7尺奥行2尺の芝に、3本の御幣がたてられる。八坂神社八坂神社
又旅社
23日
午後10時頃
日和神楽翌日の山鉾巡行の晴天を祈念し、各山鉾町の囃子方が町家から四条御旅所の間を往復する間、祇園囃子を奏する。各山鉾町四条御旅所
24日
午前9時30分
山鉾巡行(後祭)橋弁慶山を先頭に後祭の鉾一基、山九基が各町を出て烏丸御池に集結、祇園囃子も賑やかに所定のコースを巡行。祇園祭山鉾連合会氏子区内
鬮改17日山鉾巡行(前祭)と同じ。清々講社京都市役所
24日
午前10時
花傘巡行傘鉾十余基・馬長稚児・児武者等列を整えて、所定のコースを巡行。本社到着後(正午頃)舞踊などの奉納を行う。祇園祭花傘連合会石段下
市役所前
八坂神社
24日
午後11時頃
還幸祭午後5時頃四条御旅所を三基の神輿が出発。夫々所定のコースを経て八坂神社又旅社にて祭典後、神輿に灯を入れ午後9時~11時の間に本社に還幸。御神霊を本社に還し祭典執行。久世稚児他供奉は神幸祭に同じ。八坂神社四条御旅所

八坂神社
25日
午後1時
狂言奉納茂山忠三郎社中の人々に依り行われる。茂山社中八坂神社
28日
午前10時
神用水清祓式10日に同じ宮本組鴨川堤
28日
午後8時
神輿洗式10日に同じ八坂神社
宮本組
清々講社
四条大橋
29日
午後4時
神事済奉告祭祇園祭の終了を奉告し神恩を感謝する宮本組八坂神社
31日
午前10時
疫神社夏越祭素戔嗚尊が南海に旅をされた時、疫神社の御祭神蘇民将来に手厚くもてなされたことを喜ばれ、疫病流行の際、蘇民将来之子孫は疫病より免れしめると誓約された故事により鳥居に大茅輪を設け、参拝者は之をくぐって厄気を祓い、又「蘇民将来之子孫也」の護符を授かる。八坂神社境内疫神社

PDF  前祭(7月17日)後祭(7月24日)の山鉾巡行マップの表示とダウンロード(PDFファイル)

2019年6月27日

茅の輪くぐりのカヤには災厄が宿っている

平野神社(京都市北区平野宮本町)

茅の輪のくぐり方
大祓は6月30日と12月31日に行われる除災行事である。罪や穢れを除き去るための行事だが、6月の大祓は夏越の祓(なごしのはらえ)と呼ばれ、各神社で茅の輪くぐりが行われる。茅の輪の中を「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶと云うなり」と唱えながら左まわり、「思ふことみな尽きねとて麻の葉を切りに切りても祓ひつるかな」と唱えながら右まわり、そして最後に「蘇民将来蘇民将来」と唱えながら左まわりと、8の字に3回くぐって穢れを祓う習わしになっている。熱帯低気圧接近の影響で、生憎の雨模様だったが、平野神社に出かけた。昨年の台風21号で倒壊した拝殿の復興は未だ手つかずのようだが、神門にはすでに夏越の祓の茅の輪が飾ってあった。明日の28日から30日にかけて茅の輪くぐりができるが、カヤは引き抜かないほうが良い。実は北野天満宮で一昨日この行事があったのだが、手が届く高さのカヤが全部抜き取られ、余りにも無残なので写真は撮らなかった。茅の輸のカヤを抜いて持ち帰り、家の入口に挿すと無病息災につながるという人がいるようだが、これは逆で文字通り風評に過ぎない。6月25日付け京都新聞電子版によると、北野天満宮は1970年代から、カヤを持ち帰る参拝者に悩まされてきたという。1989年6月26日付の同紙には「十数年前から茅の輪のカヤを自宅の門口に飾る風習が広まっており、この日もお参りの人たちはカヤを次々と抜き取った」という記事が載っているそうだ。智の輪とかけて、茅の輪のカヤを抜いて持って帰る人が後を絶たないようだ。しかし本来は罪や穢れ、災厄をカヤに移すことで無病息災を得るという風習だ。茅の輪のカヤを持ち帰ることは、他人の災厄を家に持ち帰ることになってしまう。

2019年6月25日

高額で売買される生け捕りのイルカ


ザ・コーヴ (2009年)
静岡新聞によると伊東市のいとう漁協が水族館などで展示飼育するための「生体捕獲」に限定した上で、本年度漁期(10月1日~来年3月31日)にもイルカの追い込み漁を再開する方針を固めたという。国内で追い込み漁を行うのは同市と和歌山県太地町の2カ所になる。いとう漁協には毎年、同庁からの捕獲枠が付与され、昨年はバンドウイルカ34頭、オキゴンドウ11頭などの捕獲が認められた。だが2004年を最後に、捕獲数ゼロが続いているそうだ。その追い込み漁だが、2015年、世界動物園水族館協会(WAZA)がを残酷だと批判、日本動物園水族館協会(JAZA)に除名勧告を行った。映画『ザ・コーヴ』(The Cove 2009)の影響が背景にある。

ピーター・シンガー(1986年)
これを受け JAZA は追い込み漁で捕獲されたイルカの購入を禁止した。会員資格がなくなった場合、希少動物の繁殖などで海外の情報を得にくくなる恐れがあるからだという。ところがこれに反発した新江の島水族館などが、JAZA を退会するという騒ぎに発展した。水族館ではイルカの人気が高く、イルカショーを目玉にしているところも多いようだ。追い込み漁で捕獲されたイルカは、国内ばかりではなく、中国などの水族館も購入しているという。朝日新聞によると昨年6月オープンした新潟県上越市の市立水族博物館は、シロイルカ2頭とバンドウイルカ4頭入手のため9325万円を投じたようだ。集客力を期待した投資なのだろう。いとう漁協のイルカ漁再開は、生きたイルカは水族館などから一定の需要が見込めるという計算があるようだ。イルカの飼育とそのショーに関しては「人工プ―ル飼育では野生状態より寿命が短い」「狭い水槽に閉じ込めるのは可哀そうだ」「イルカに芸をさせることは動物虐待だ」「そもそもヒトが他の動物を飼育展示するのはその権利を奪っている」などの意見があることを留意しておくべきだろう。動物の権利に関し指導的かつ先鋭的な役割を演じてきた、プリンストン大学のピーター・シンガー教授は、動物が痛みを感じたり、喜びを味わったりすることができるかが鍵だという。そして苦痛を感じる動物の範疇の中に魚を入れている。魚を食べるなと言われたらきっと困惑するだろうけど、看過できない警鐘だ。京都水族館で観たことがあるが、イルカショーは反対である。単なる娯楽に過ぎなく、水族館が持つべき本来の目的に反すると感ずるからだ。