2026年5月31日

ホルムズ海峡冬景色:高市政権ナフサ不足の深刻

B&W
図らずもナフサ不足を可視化したポテトチップスの白黒パッケージ

中東情勢の悪化による物価高騰に対処する補正予算の編成を決めたことを受けて、首相官邸で記者団を前に説明した高市早苗首相は「ナフサは足りている」と繰り返し強調した。現場で物資不足が起きていることは認めたが、それは「買いだめや売り惜しみ」などで「目詰まり」が生じているためだとして、政府を挙げてその解消に取り組むとも表明した。詳細なデータをグラフ化したパネルを示し、時折笑みも浮かべて、ナフサは足りていると繰り返す高市首相だったが、その自信の根拠は最後まで読み取れなかった。カルビーが、ナフサからつくる印刷材料の不足に備えてポテトチップスなどの包装をカラー印刷から白黒に変えると発表したさい、首相官邸は露骨に不快感を表明した。ナフサ不足と言われることに神経質になっていたのだ。会見が開かれたのと同じ25日には、カルビーが予告通り「ポテトチップス」や「かっぱえびせん」の包装を白黒に切り替えて売り始めた。テレビや新聞では、連日、ナフサ不足が次第に多くの業種に影響を与え始めている実情を報じ始めた。カルビーだけではない。様々な商品やパッケージのデザインに使われるナフサ由来のインクの量を減らすためにカラーをやめて白黒に変える企業が続出している。ユニットバスやトイレの塗料も不足が懸念され住宅建設にも影響が出始めた。スーパーの商品を包む容器からゴム手袋、住宅建材、電化製品、医療用のチューブ、様々な産業現場で深刻な原材料不足の訴えが伝えられている。首相が強調したように「目詰まり」を解消すれば、本当に影響は回避できるのだろうか。

AI Takaichi
白黒パッケージのポテトチップスにお冠の高市首相(AI画像)

断熱材などの住宅建材業界のある関係者は、中東危機が勃発した当初から強い危機感を語っていた。 政府は中東以外の地域からの原料調達で年をまたいでも必要量は確保できるとしているが、ホルムズ海峡の封鎖が解かれたとしても、従来通りの供給が戻るのには長い時間がかかることを覚悟しなければならない情勢だ。ナフサ不足はすでに「いま、そこにある危機」となっている。楽観的な見通しを繰り返す高市政権が、初動の対応を誤ったのはごまかしようがない。世論は、すでに危機を感じ取っている。ナフサに限らず、中東情勢で物価は高騰し始めている。生活の様々な場面で影響が出始めているのだが、具体的な対応策は示されていない。これほど支持率が高く、衆院では300議席を大きく超える圧倒的な多数を持っているのにもかかわらず、思い切った対策を打ち出さないのは、いったいなぜなのか。野党やマスコミだけでなく、与党の中からまで、そうした疑問の声が出始めている。選挙で圧勝し、国民の支持も高いことで、それでも政治を前に進めることはできている。しかし、それはあくまで高市首相に対する「期待感」が強いからに他ならない。問題は、期待感だけでは対処できない、厳しい現実に直面したときに、果たして孤独な首相がそれを乗り切れるかどうか、ということだ。自分の考えに固執し、他人の忠告や助言に耳を貸さないだけではない。本人が間違ったと思っても、それを真摯に認め、方針を転換することが極めて苦手なように思える。カルビーの白黒インクに目くじらを立て、同社の動向に神経質になったという。価格上昇を抑えた企業努力とは理解できないらしい。どうしようもない。

髙市早苗  「白黒ポテチ」に目くじらを立てる小ささ「孤独な首相」より深刻、幹部官僚が漏らした高市政権の限界

2026年5月30日

宗教考現学(4)小説『邪宗門』と大本教の現在

瑞生大祭
出口王仁三郎教祖の生誕を祝う瑞生大祭(京都府亀岡市)

早世の作家、高橋和巳(1931–1971)の代表作である長編小説『邪宗門』は大本教(おおもときょう)の歴史を強く意識し、それをモデルにして描かれた作品として広く知られている。昭和初期の日本で国家権力から激しい弾圧を受けた新興宗教教団ひのもと救霊会の興亡を描いた作品である。この教団のモデルが、実際に二度にわたる大規模な弾圧を受けた大本教であることは間違いない。大本教が受けた弾圧、教主の投獄、教団の解体・崩壊のプロセスは、史実における大本事件と密接に対応している。作中の開祖や二代目教主などのキャラクター設定や教団の教義の変遷、国家権力との対立構造には、大本教の歴史的事実やエピソードが巧みに取り入れられている。ただし、この小説は単なる大本教のノンフィクションや記録ではない。高橋和巳は自らの思想を投影し、宗教、政治、権力、そして人間の「生」のあり方を問う文学作品として昇華させている。1965年から1966年にかけて『朝日ジャーナル』で連載、時代設定は1931年(昭和6年)から1946年(昭和21年)までとなっている。

金龍海
大本梅松苑「金龍海」の庭園(京都府綾部市)

社会の底辺から始まった教団が多くの信者を集めながら、戦争へと突き進む軍国主義国家によって「不敬罪」や「治安維持法」を盾に徹底的に弾圧され、滅びていく過程を追っている。単なる宗教物語にとどまらず、革命思想、人間存在の孤独、そして知識人が宗教や社会変革に何を求めたのかという深刻な問いが貫かれている。『邪宗門』は「日本文学の金字塔」と称されることもああるが、同時に非常に重く、読者に強い衝撃を与える作品である。現代社会においても「宗教と政治」「宗教二世問題」「カルトと国家」といったテーマが取り沙汰されることがあるが、戦前の弾圧の歴史を通して「何が正統で、何が邪教なのか」「人間はなぜ盲目的に何かを信じようとするのか」という普遍的なテーマが鋭く描かれています。圧倒的な密度: 宗教哲学、歴史、社会学、個人の内面描写が深く絡み合っており、読む人に対して「自分の拠り所は何か」という根源的な問いを突きつけてくる作品である。もし『邪宗門』を読んで宗教や歴史的な背景に興味を持たれたのであれば、実際の大本教の歴史(特に二度の大本事件や、出口なお・出口王仁三郎という二人の教祖の存在)について詳しく調べてみると、小説の描写がより鮮明に、より重層的に感じられるかもしれない。

邪宗門
高橋和巳『邪宗門 』(河出文庫)2014/8/6

現在の大本教(宗教法人大本)は、五代教主である出口紅(くれない)のもと、京都府綾部市と亀岡市を二大聖地として活動を続けている。出口紅(1956年生)は三代教主・出口直日(なおひ)の孫にあたる。1892年の開教以来、出口直(なお)、二代教主・出口すみこを経て、教祖・出口王仁三郎(おにさぶろう)の系譜を継承して現在は「みろくの世」の建設を掲げて活動している。二つの聖地はそれぞれ役割が分かれている。梅松苑(綾部市)は祭祀(まつり)の中心地。天恩郷(亀岡市)は宣教(教え)の中心地。旧丹波亀山城跡でもあり、現在も教団の手によって石垣の修復や維持管理が行われており、一般の参観も可能である。教団として、個々の信徒による正しい日常生活の実践を基本としつつ、多岐にわたる社会活動を行っている。保育園や老人ホームの運営。 国際共通語であるエスペラントの普及支援。平和・環境: 宗教を超えた対話(宗際活動)、国際医療援助、災害復旧援助。 「ギャラリーおほもと」の運営や芸術文化活動の推奨。外郭団体を通じた農業活動など、食と環境に関わる取り組み。信者数は国内で約17万人とされている。

宗教  宗教法人「大本(綾部市・亀岡市)」公式ウェブサイト・Oomoto Official website | 日本語・英語

2026年5月29日

世界史遠望(7)連合軍によるノルマンディー上陸作戦

D-Day
US troops’ first assault on Omaha Beach during the D-Day landings on June 6, 1944 ©Robert Capa

連合軍がナチス占領下の西ヨーロッパ解放の始まりとしてノルマンディーで開始した攻撃作戦は、オーバーロード作戦と名付けられた。作戦の立案、兵力と兵站の増強には2年を要し、米国と英国はイギリス諸島で大規模な訓練を行った。オーバーロード作戦は戦争中最も厳重に守られた秘密の一つであり、ナチス指導者を欺いて連合軍の真の目的を隠蔽するための高度な欺瞞作戦によって成功を収めた。作戦開始に先立ち、英米合同航空作戦とフランス抵抗運動との連携により作戦の条件が整えられ、連合軍はノルマンディー戦線上空の制空権を確保し、ドイツ軍の反撃を遅らせることができた。準備が整い、連合軍は1944年6月初旬の攻撃開始に向けて態勢を整えていたが、悪天候のため延期となった。そしてついに1944年6月5日朝、連合国遠征軍最高司令官であるドワイト・アイゼンハワー米陸軍大将は、アメリカとイギリスの部下との会合で「よし、行くぞ」と宣言した。作戦の「出発日」、すなわちDデイは6月6日に設定された。

Princess Elizabeth
18-year-old Princess Elizabeth inspects an honor guard on May 17, 1944

アイゼンハワー将軍の決定により、4,000隻の上陸用舟艇と1,200隻の軍艦を含む7,000隻以上の艦艇からなる大艦隊が、イギリス海峡を渡ってナチス占領下のフランス、ノルマンディーへと向かうことになった。その夜、パラシュート降下兵を乗せ、グライダーを牽引する822機の航空機が、ノルマンディーの着陸地点にイギリス軍1個師団とアメリカ軍2個師団の空挺部隊を展開した。作戦の先鋒となることを意図した23,400人の空挺部隊は、6月6日(Dデイ)の早朝、真夜中過ぎに着陸し、上陸部隊の側面を守り、前進を継続させることに成功し、大成功を収めた。海上からは、事前の艦砲射撃と連合軍機の爆撃の後、午前6時30分に水陸両用強襲部隊がノルマンディーの海岸に上陸を開始した。

Robert Capa
US troops are ferried to larger ships in Weymouth of England on June 4, 1944

アメリカ軍師団はユタとオマハのコードネームの海岸に、イギリス軍師団はソードとゴールドの海岸に、カナダ軍はジュノーの海岸に上陸した。ドイツ軍は不意を突かれたものの激しく抵抗したが、5つの海岸のうち4つでは、攻撃部隊の死傷者は一部の連合軍指導者が恐れていたよりも少なかった。オマハ海岸ではアメリカ軍が最も多くの死傷者を出し、断崖のドイツ軍の防御線を突破して内陸部へ進むのに苦戦したが、厳しい戦いにもかかわらず、6月6日だけで3万4,000人以上のアメリカ兵がオマハに上陸した。パラシュート、グライダー、水陸両用強襲艇など、様々な手段を用いて、Dデイには合計約16万人の連合軍兵士がノルマンディーに上陸した。Dデイの日没までに、ノルマンディー全域の連合軍上陸部隊は、戦死者、負傷者、行方不明者を合わせて1万300人以上の死傷者を出した。

Thousands of Allied troops
Thousands of Allied troops at landing sites across Normandy on June 6, 1944

そのうち約2,400人はオマハビーチでの死傷者だった。大規模な海軍艦隊に加え、約1万2,000機の連合軍航空機が作戦を支援した。アメリカ、イギリス、カナダの主力部隊に加え、他の12の連合国または部隊が、史上最大かつ最も複雑な水陸両用作戦に参加した。連合軍の攻撃部隊はDデイにヨーロッパ大陸に足がかりを築き、徐々に橋頭堡を拡大するために戦った。6月末までに、連合軍は85万人以上の兵士、57万トンの物資、そして約15万台の車両をノルマンディーの海岸に上陸させた。ナチスが1945年5月に最終的に降伏するまで、ヨーロッパでは数ヶ月にわたる激しい戦闘が続いたが、Dデイの侵攻は、占領下のヨーロッパ解放につながる作戦を開始するために必要な成功を連合軍にもたらした。下記リンク先はルイジアナ州ニューオーリンズの国立第二次世界大戦博物館による解説と写真アーカイブ「連合軍のノルマンディー上陸作戦」です。

museum  The Allied Invasion of Normandy | The National WWII Museum in New Orleans, Louisiana

2026年5月28日

ソーシャルメディアの弊害(29)闇バイトの重要な注意点

闇バイト

闇バイトとはソーシャルメディアや掲示板などで高額報酬をうたって募集される、違法行為に加担させられる犯罪実行の指示役やその実行犯のアルバイトを指す俗称。最大の特徴は「最初初は合法的な仕事に見えても、気づいた時には犯罪組織の逃げられない駒にされる」という点である。「ホワイト案件」「運び」「受け子」といった隠語が使われることもある。「1日3万円」「即日現金手渡し」など、通常のアルバイトではありえない好条件を提示して人を集める。応募の段階で、免許証の画像や顔写真、住所、家族構成、緊急連絡先などを送るよう要求される。一度送ってしまうと「辞めたい」と言っても「家に行く」「家族に危害を加える」と脅迫されてしまう。闇バイトに応募した人が指示役から命じられるのは、主に以下のような重大犯罪である。特殊詐欺:受け子(現金を受け取る)出し子(ATMから現金を引き出す)といった役回り。強盗は住宅に押し入り、金品を強奪する行為。最近の強盗事件の多くで、闇バイトで集められた若者が実行犯として逮捕されている。そして応募者は、最初に送った個人情報を盾に脅迫される。「警察に駆け込んだら家族を殺す」「自宅を知っている」と指示役から心理的に支配され、恐怖心から犯罪行為を断れなくなってしまう。逮捕されるまでその連鎖から抜け出せず、逮捕された際に「指示役は誰か知らない(匿名性の高いアプリでの連絡のみ)」という状況に追い込まれる。 非常に重要な注意点は「割の良い仕事」は存在しないことである。

闇バイト

つまり「誰でもできる」「即金性が高い」仕事で高額な報酬が支払われることは、法的にあり得ない。少しでも「怪しい」と思ったり、すでに連絡を取ってしまい個人情報を送ってしまった場合は、すぐに最寄りの警察署や警察の相談専用電話(#9110)へ相談することである。自分で解決しようとするのは非常に危険である。これらは単なるアルバイトではなく、人生を破滅させ、他人の人生を奪う犯罪である。もし身近な方や、ご自身でそのような情報を目にしても、絶対に興味本位でクリックしたり応募しないことである。犯罪組織は匿名性と追跡回避を徹底するため、一般的なソーシャルメディアやメッセージアプリを悪用する。Telegram(テレグラム)は最も頻繁に使われるアプリでメッセージの自動消去機能があり、証拠が残りにくい。Signal(シグナル)はテレグラムと同様、高い秘匿性とメッセージの暗号化を謳っているため悪用される。WhatsApp(ワッツアップ)は海外で主流のアプリだが、日本国内の勧誘でも使用される。ソーシャルメディアのダイレクトメッセージは「高額バイト」「即日即金」といった募集を行い、興味を示した相手を上記の秘匿性の高いアプリへ誘導するのが典型的な手口である。犯罪の指示役は、自分自身の安全を確保し、実行役を「使い捨ての駒」としか考えていない。少しでも怪しいと感じる高額報酬の募集には、絶対に応募しないことである。

犯罪  闇バイト強盗に狙われる家の特徴|被害を回避するための防犯対策や注意点 | ナジャムのリフォーム

2026年5月27日

キューバを愛した文豪アーネスト・ヘミングウェイ

Ernest Hemingway in Havana
Ernest Hemingway in Havana, Cuba (AI)

キューバではアーネスト・ヘミングウェイへの崇拝が根強く残っている。ハバナの石畳の通りを散策すれば、彼の小説を売り歩く書店や、地元で「パパ」と呼ばれたヘミングウェイに捧げられた博物館を目にするだろう。バーではヘミングウェイを称える特製カクテルやブロンズ像が飾られ、彼が住み、働き、釣りをした場所を巡るツアーもある。ヘミングウェイの大ファンであろうと、彼の作品がいくつか好きなだけであろうと、ヘミングウェイとキューバの関係を探ることは、この上なく魅力的だ。ヘミングウェイは30年以上にわたり、断続的にキューバに住んでいた。当然のことながら、キューバの全体像《人々、場所、気候、文化、歴史の集合体》は、ヘミングウェイの作品に色濃く反映されている。そこは、作家が釣り、執筆、飲酒、放浪、そして愛を育んだ場所だった。ヘミングウェイは米国「人だが、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラ、ホセ・マルティと並び、キューバ史において最も有名な人物の一人として今もなお知られている。これは間違いなく、ヘミングウェイのキューバでの経験を観光客誘致に利用する政府のプロパガンダのおかげだろう。それでもなお、この人物と伝説についてさらに深く知り、彼が30年以上もキューバに通い続けた理由を探ることは、非常に興味深い。ヘミングウェイが初めてキューバを訪れたのは1928年、スペインへの乗り継ぎの際に立ち寄った時だった。彼は ハバナに3日間滞在し、ホテル・アンボス・ムンドスに宿泊した。

Hemingway at home
Hemingway at home in Havana of Cuba on August in 1952

その後10年間、ヘミングウェイはキューバを訪れるたびにこのホテルに泊まることになる。1932年、再びキューバを訪れた。この時は2人の友人を連れて行き、3人でメキシコ湾岸でカジキ釣りを楽しんだ。1939年、キューバを訪れたヘミングウェイはホテル・アンボス・ムンドスに滞在した。この時期に彼は妻のポーリンと別居した。その後、彼は3番目の妻となるマーサ・ゲルホーンと出会った。夫妻はハバナ郊外の美しい土地に建つ瀟洒な家、 フィンカ・ビヒア(見晴らしの良い農場) を購入した。1886年にスペインのカタルーニャの建築家ミゲル・パスクアル・イ・バグエルによって建てられた家で、ヘミングウェイはこの家で20年近くを過ごした。彼は冬の間、アイダホの雪から逃れるためにキューバを訪れ、執筆活動を続けた。ここでヘミングウェイは『海流の中の島々』『移動祝祭日』『老人と海』を執筆した。現在、彼の家は博物館となっており、ヘミングウェイが執筆し、読書し、眠った部屋を見学することができる。1942年、ヘミングウェイはハバナの米国大使館に提案を持ちかけた。彼は自身の漁船「ピラール号」をナチス・ドイツの潜水艦ハンターに改造したいというのだ。機関銃と訓練された乗組員を船に搭載すると申し出た。表向きは米国の自然史博物館のために標本を収集する船だったが、実際にはナチスの潜水艦を捜索する船となるはずだった。この計画は承認され、ピラール号はその後まもなくキューバ北部沿岸で進水した。

Hemingway met Castro
Ernest Hemingway met Fidel Castro in Havana on May 15 in 1960

1938年からヘミングウェイの死まで船の操縦を手伝ったグレゴリオ・フエンテスもこの冒険に参加した。2人は2年間キューバ 北部の小島 をパトロールし、何度かナチスの潜水艦を発見して報告した。この冒険全体が、ヘミングウェイの小説『海流の中の島々』の題材となった。冷戦の勃発により、ヘミングウェイは米国とキューバのどちらかを選ばざるを得なくなり、米国を選んだ。彼はバティスタ政権が崩壊した翌年の1960年にキューバを離れ、アイダホ州に戻った後、1961年7月に自殺した。作家の死後、カストロ政権はフィンカ・ビヒアを接収した。しかしヘミングウェイは邸宅を4番目の妻メアリー・ウェルシュに遺贈していた。政府はメアリーに原稿や手紙の大部分を持ち出すことを許可したが、邸宅の残りの部分は現状のままにしておくよう要求した。邸宅は20年後に博物館として再開された。 ヘミングウェイが革命についてどう感じていたかについては、多くの憶測がなされてきた。キューバでは、ヘミングウェイはカストロのゲリラ運動を支持していたとされている。この考えを裏付けるような引用もいくつかある。 彼の未亡人メアリー・ウェルシュは「ヘミングウェイは常に革命を支持していた」と述べている。また、彼の小説の中には、革命の大義に共感しているように見えるものもある。バティスタ政権時代に書かれた『海流の中の島々』の中で、ヘミングウェイは「この国の小さな村々すべてに、まさに殺人的な専制政治が及んでいる」と書いている。

Finca Vigía
Finca Vigía built by Catalan architect Miguel Pascual y Baguer in 1887

だが、同じ作品の中で、ある登場人物は「キューバ人は互いに裏切り合う。自業自得だ。革命などくそくらえだ」と述べている。ヘミングウェイは生前、フィデル・カストロや革命を支持していたかどうかを公に語ったことは一度もなかった。しかし、彼の死後、カストロ政権はヘミングウェイが革命派に同情的だったと描写した。カストロはさらに、「ヘミングウェイの作品はすべて人権擁護である」とまで言い、また『誰がために鐘は鳴る』がバティスタ政権との戦いにおける自身のゲリラ戦のインスピレーションになったと主張した。興味深いことに、ヘミングウェイとカストロが会ったのは一度きりだった。それは1960年に開催された第10回アーネスト・ヘミングウェイ・ビルフィッシュ・トーナメントでのことだ。当時キューバの新指導者だったカストロは、トーナメントの優勝者にトロフィーを授与するはずだった。しかし、彼は最終的に最大のカジキを釣り上げ、自ら賞を獲得した。ヘミングウェイとカストロの会見の様子を捉えた、和やかな雰囲気の写真が何枚か残っているが、二人は形式的な場の合間に世間話をしただけだったと伝えられている。 下記リンク先はrライフ誌の「ヘミングウェイ:アルフレッド・アイゼンシュタット:私がこれまで撮影した中で最も扱いにくい人物」です。

Amazon  ヘミングウェイ・キューバの日々:ノルベルト・フエンテス (著) 宮下嶺夫 (翻訳) 晶文社(1988)

2026年5月26日

宗教考現学(3)米国先住民カイオワ族の信仰

Prayer for the Buffalo

多くの先住民族と同様に、カイオワ族も、動物、旋風や雷などの自然現象、さらには太陽、月、星などの天体の形をとる精霊の世界を信じていた。これらの精霊はすべて dwdw と呼ばれる普遍的な力をさまざまなレベルで持っていた。最も大きな dwdw を持つと信じられていた精霊は、特別な敬意の対象となった。カイオワ族の宗教的慣習は世俗社会と密接に結びついており、両者はしばしば区別がつかないほどだった。宗教は固定された制度ではなく、社会の利益のために高次の力を活用する手段と見なされていた。この力を追求することは、既存のシステムに新しい儀式や信仰を取り入れることを意味するとしても、しばしば奨励された。カイオワ族にとって dwdw を得たいと願う人は、4 日間の祈り、喫煙、断食を伴うビジョンクエストを受けなければならなかった。幸運にもビジョンを受け取ることができれば、戦争の力か癒しの力を得ることができましたが、両方を得ることはありませんでした。戦時医療は、防御力と治癒力を高めるものとして、また治療医療はより優れた治癒能力を持つものとして、医学と呼ばれた。ドゥドゥはエリート層における地位を確固たるものにし、こうした力を持つ者は社会において絶大な影響力を持っていた。バッファローの絶滅、強制的な移動、狩猟の制限などにより、特定の儀式を行うために必要な物品の入手がますます困難になるにつれ、伝統的な信仰は次第に廃れていった。

伝統舞踊を披露するカイオワ族(2004年)

1875年までに、カイオワ族やコマンチ族、アラパホ族、シャイアン族など他のいくつかの部族は、現在オクラホマ州のインディアン準州の居留地にほぼ閉じ込められていた そこでフォート・シル駐屯軍の監視の下、連邦政府は先住民を「文明化」することに注力し、西洋の概念を導入すると同時に、先住民の伝統的な慣習を禁止した。キリスト教の布教者たちは居留地に伝道所を建設し、少数の改宗者を得た。彼らは宣教師たちが「アメリカ化」の過程で支援してくれたことに感銘を受けた。キリスト教のシンクレティズムを取り入れた新しい宗教運動が人気を博すにつれ、先住民の信仰はこれらの宣教師の存在を反映するようになった。ゴーストダンスは1890年に初めてカイオワ族に伝わり、彼らは政府当局がダンスを禁止するのを阻止するために、キリスト教との類似点を強調した。一部の実践者は、このダンスはキリスト教の土着化されたバージョンであり、イエス・キリストの再臨を予言していると主張した。いずれにせよゴーストダンスは失われたものへの嘆きだった。儀式の指導者たちは、この儀式によって死者との交信が可能になり、近年絶滅寸前にまで追い込まれたバッファローが戻ってくると主張した。先住民の指導者たちは、ゴーストダンスをはじめとする宗教運動は憲法で保護されていると政府当局に訴えたが、先住民政策を担当する者たちは、先住民は他の市民に与えられた権利を享受できるほど発展していないと考えていた。ゴーストダンスに参加した者は、強制労働、投獄、罰金などの脅迫を受けたのである。下記リンク先はオクラホマ州カーネギーを拠点とするカイオワ族の公式ウェブサイトです。

Native American  Official website of the Kiowa Tribe, Carnegie, Oklahoma | About | Careers | Contact Us

2026年5月24日

米国司法省がキューバのラウル・カストロ元国家評議会議長を殺人罪などで起訴

Raul Castro
Cuba's former President Raúl Castro in Cienfuegos, Cuba ©2022 Alexandre Meneghin

2026年5月20日、米国司法省はキューバのラウル・カストロ元国家評議会議長(94)を殺人罪などで起訴したと発表した。1996年2月の民間航空機撃墜事件が起訴の背景と理由になっている。キューバの亡命者支援団体「ブラザーズ・トゥー・ザ・レスキュー」が運航していた民間小型機2機がキューバ軍によって撃墜され、米国人3名と永住権保持者1名が死亡した。ラウル・カストロは当時、国防相として軍を統制する立場にあった。米国当局はこの事件に関与したとして、彼および当時の戦闘機パイロットら計6名を殺人、米国人の殺害を共謀した罪、および航空機破壊の罪で起訴した。米トランプ政権は、長年キューバ共産党政権に圧力をかけ、政治的・経済的な譲歩を引き出す方針をとっている。今回の起訴もその戦略の一環と見られている。トランプ大統領は今回の起訴について「非常に重要な瞬間だ」と述べており、キューバの現状を「崩壊しつつある国家」と評するなど、体制転換を強く意識した姿勢を示している。キューバのミゲル・ディアスカネル大統領は、今回の起訴を「法的根拠のない政治的行為」であり、「軍事侵略を正当化するための材料をでっち上げたものだ」と強く批判してる。撃墜についても、当時キューバ側は「自国領空内での正当防衛であった」と主張している。

Fidel Castro
Raúl Castro's elder broher Fidel Castro in Havana of Cuba, 1971

ラウル・カストロは現在もキューバ国内にいるため、実際に米国へ連行され裁判が行われる見通しは立っていない。今回の起訴はフィデル・カストロ元議長(2016年死去)の弟であるラウル・カストロに対するものであり、過去の歴史的な事件を再考させる形で現在の米・キューバ間の緊張が高まる要因となっている。米CBSニュース(2026年5月14日付報道)によると、米国がラウルを訴追対象とすることで、引退後もキューバ政権内で強い影響力を維持する同氏を排除し、キューバ国内の抜本的な改革を促す狙いがあるとの見方が示されている。現時点で「身柄の拘束」が直ちに行われるかという具体的な実行時期や方法については公表されていないが、米国がラウル・カストロに対して法的手続きによる圧力を強めている状況でである。今後、米国がどのような法的アプローチをとるか、またキューバ側がこれにどう対応するかが焦点となる。今回の起訴はトランプ大統領が進める政策の一環であり、ベネズエラのニコラス・マドゥロ政権を転覆させた手法をキューバにも適用しようとする「力による介入モデル」の再現と位置付けられている。トランプ大統領は、ベネズエラでの介入成功をモデルケースとして、中南米における米国の影響力を再構築しようとしている。

U.S. aircraft carrier
U.S. aircraft carrier group heads to Caribbean as Cuba tensions rise (AI)

ランプ政権は、ベネズエラのマドゥロを麻薬密輸容疑などで起訴し、最終的に身柄を拘束して政権を転覆させた。この「指導者を法的に追い詰めて軍事・政治的圧力をかけて政権を交代させる」という筋書きを、キューバの指導部に対してもそのまま再現しようとしている。トランプ大統領は「ここはわれわれ(米国)の半球であり、不安定化させ米国を脅かす者は報いを受ける」という趣旨の発言をしており、いわゆる「モンロー主義(米州大陸への欧州諸国の干渉を排し、米国の影響力を保持する)」に近い、極めて自国中心的な勢力圏の維持を強く主張している。キューバをベネズエラの同盟国とみなし、ハバナの現体制を屈服させることが、地域全体における社会主義的影響力を排除する鍵であると捉えている。この動きは、トランプ大統領が掲げる「アメリカ第一主義」の対外政策において、中南米を自国の「裏庭」として厳格に管理しようとする強い意志の表れである。国際法上の是非や外交的混乱を厭わず、法執行機関や軍事力を手段として用いることで、相手国の政権転覆を直接的に試みるという非常に強硬な手法が取られているのである。先リンク先は英国放送協会(BBC)の「米国は1996年の航空機2機撃墜事件に関してキューバのラウル・カストロを殺人罪で起訴した」です。

BBC News  U.S. charges Cuba's Raúl Castro with murder on February 1996 downing of two planes

2026年5月23日

ナフサ不足でお先真っ暗闇の我が日本

AI image of Takaichi
Google Gemini で生成した髙市早苗首相の AI 画像

カルビーが公表したポテトチップのパッケージ変更は、はからずもナフサ不足を可視化したと言える。そして図らずも少なからず髙市早苗内閣にダメージを与えたようだ。カルビーがポテトチップスなどのパッケージを白黒に変更する理由は、中東情勢の緊迫化に伴うナフサ不足により、カラー印刷に必要な原材料の調達が困難になっているためである。 石油由来の製品であるナフサは、プラスチックや印刷インクの樹脂・溶剤の原料として不可欠。中東情勢による物流の停滞や供給不足から、カラー印刷に必要な原材料が入手しにくくなっている。カルビーは、商品の供給を止めることなく安定的に届けることを最優先とし、インクの使用色数を削減する(白黒の2色にする)という暫定的な対応をとることにした。 2026年5月25日以降の出荷分から、順次切り替えられる。

B&W
2026年5月25日から白黒のパーッケージ(右)に移行するポテトチップス

これに対し農林水産省などはナフサの供給量について「国内に必要量は確保されている」と主張、5月12日にカルビーに対して状況の聞き取りを行った。そして朝日新聞などが、政府関係者がカルビーの発表について「売名行為」「過剰反応」といった趣旨の発言をしたと報じた。野党議員や一部の文化人・ソーシャルメディア・ユーザーからは、物資不足を訴える企業に対して政府が「売名」と批判することに対し「企業への圧力ではないか」「現実から目を背けている」といった批判が相次いでいる。そして物価高や資材不足が現場レベルで深刻化している現状の中で、政府の危機認識が「浮世離れしている」という指摘もなされている。ナフサ不足は単一の理由ではなく「産油国の川下産業への移行」と「地政学リスクによる調達網の分断」そして「原油精製そのものの効率変化」が同時に起きようだていることが主な原因である。

ホルムズ海峡
ホルムズ海峡は「冬景色」のまま再開のメド立たず

特に日本のようにナフサの多くを輸入に頼っている国では、これらの外的要因の影響をダイレクトに受けやすい構造になっている。日本は原油のほぼすべてを海外からの輸入に頼っており、長年にわたり中東地域への依存度が非常に高い(約9割前後)という構造が続いている。アラブ首長国連邦(UAE)とサウジアラビアが二大輸入先であり、この2カ国だけで輸入全体の大部分を占めている。その他、クウェートやカタールなどが続く。 2026年4月の貿易統計によると、ホルムズ海峡の事実上の封鎖などの影響により、中東からの輸入が大幅に減少している。これに伴い、米国など中東以外の地域からの代替調達が増加する傾向が見られる。米国による国際法を無視したイラン攻撃が中東情勢の緊迫化を招いた。ドナルド・トランプはこの秋の中間選挙を控え。紛争の早決を熱望しているようだが、ますます泥沼化している。ホルムズ海峡は「冬景色」のまま、お先は真っ暗闇である。下記リンク先は米国公共放送サービス(PBS)の「イラン当局者によると米国が封鎖を解除し戦争が終結すればホルムズ海峡の再開を提案する」です。

PBSIran offers to reopen Strait of Hormuz if US lifts its blockade & the war ends, officials say

2026年5月22日

ヒレルやシャマイからトランプやネタニヤフまで:二極化し分裂したユダヤ人共同体

Neturei Karta
Neturei Karta believes the true Jewish state will be established with the coming of the Messiah

米国のユダヤ人社会ではドナルド・トランプ大統領を支持するか、それとも憎むかのどちらかでもパルヴェ(中立)な人はいない。職場、シナゴーグ、学校、親戚など、自分が関わる人は皆、自分と同じ考えを持っているという誤った思い込みがある。もし相手が自分と同じ考えでなければ、肩をすくめて話題を変えるだけでは済まなくなる。相手が間違っている、緊張が生じ、関係が終わってしまうと。トランプ大統領はイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相と同様、極めて賛否両論を巻き起こす人物である。2期目の1年が経過したばかりだが、彼には世界舞台の中心に君臨し続けるための時間がまだ3年間残されている。ディアスポラの多くの人々は、ネタニヤフ首相に猛烈に反対しており、トランプ大統領がネタニヤフ首相の権力を強化したと考えている。彼らは反イスラエルではない。彼らはネタニヤフ首相が失脚すれば、パレスチナとの紛争全体が解決すると信じている。近代史を通じて、ユダヤ人社会内部では一連の対立が繰り返されてきた。思想的な違い、社会主義者と資本主義者の対立、イスラエルとディアスポラの対立、革命家と体制支持者の対立などがあった。宗教的な違い、改革派と正統派、非シオニストとシオニスト、過越祭に「キトニヨット」(過越祭の供物)を食べるか否かといった問題もあった。こうした対立は、時に暴力的なものに発展した。ユダヤ人の間で激しい内部論争が起こることは珍しくない。その中でも最も有名なのが、ヒレル学派とシャマイ学派の間の対立である。ユダヤ教の指導者ヒレルは紀元10年頃、シャンマイは紀元30年頃に亡くなったが、彼らの弟子や学派はその後数十年にわたって対立を続けた。ヒレルはシャンマイよりも寛容で開かれた解釈をしていたのに対し、シャマイはより閉鎖的で狭量な解釈をしていた。 両者の間には個人的な敵意はなく、意見の相違は「天のためには正当なもの」とみなされていた。

Trump with Netanyahu
Benjamin Netanyahu shakes hands with Donald Trump at Mar-a-Lago ©2025 Joe Raedle

そのため、彼らの教え子同士が結婚することもあった。ただ一つ、明白な例外があった。トセフタのシャバット1:15-16に記されているこの日は「剣の日」あるいは「ベイト・シャマイがベイト・ヒレルに勝利した日」と呼ばれている。これはハナニア・ベン・ヒゼキヤ・ベン・グリオンの家、あるいは屋根裏部屋で行われた法令に関する会合から始まった。シャマイ学派の代表者たちが入り口を塞ぎ、ヒレル学派の立ち入りを阻止した。暴力沙汰が発生し、負傷者が出た。複数の情報源によると、死者も出たという。最終的に、シャマイ学派に有利な18の「ゲゼイロット」(法令)が可決された。後世のラビたちは、この話は比喩的なものであり、二つの学派間の違いを象徴するものでは決してなく、単に彼らの慣習的な議論と結束に対する恐ろしい例外に過ぎないと述べている。ユダヤ教の宗派や学派間の議論や意見の相違は続いた。近代になると、それはあごひげや「ペヨット」(もみあげ)を剃るという行為にまで発展した。1960年代後半から1970年代初頭にかけて、ニューヨーク州ブルックリンのウィリアムズバーグと呼ばれるハシディズム派の居住区で、まさにそのような事態が起こった。サトマール派とハバド派のハシディズム派の間で激しい衝突が起こり、サトマール派のハシディズム派がルバヴィッチ派のハシディズム派の髭やペヨット(頭飾り)を切り落とすほどになった。この紛争は1980年代初頭まで収まらなかった。他人の顔の毛を切ることは、ユダヤ人らしさを奪う暴力的な行為だった。他のユダヤ人のあごひげやもみあげを刈り取ることは、屈辱的な行為だった。それは、被害者(この場合はハバド・ルバヴィッチ派の信者)にトーラーの戒律に違反することを強要する行為だった。ルバヴィッチ派の信者たちは、サトマール派の居住地域を歩いている最中に襲撃された。

 Chabad World Headquarters
Thousands of Shluchim pose for a “class picture”outside Chabad World Headquarters

ルバヴィッチ派の信者たちは、サトマール派の居住地域を歩いている最中に襲撃された。襲撃事件のほぼすべては、フーパー通りとディビジョン通りの間のリー通り、リー通りとディビジョン通りの間のロドニー通り、ペン通り近くのロドニー通り、そしてベッドフォード通りとリー通りの間のディビジョン通りで発生した。報復する理由は確かに数多くあり、機会も豊富にあったが、ルバヴィッチのラビはそれを非常に明確にした。彼は信徒たちに、組織的に行動したり、サトマールを攻撃したりしないようにと告げた。彼らは言われた通りに行動し、紛争は最終的に終息した。ルバヴィッチ派の人々は単に問題のある地域を避けるようになり、他の問題が注目を集めるようになったのだ。ニューヨークの街頭でユダヤ人同士が争ったこの衝突は、あまり公にはされなかった。それはイデオロギー的な対立だった。この二つのハシディズム宗派間の敵意は根深く、サトマール派は内向き、ハバド派は外向きだった。ウィリアムズバーグでは、サトマール派が圧倒的な数で優位に立っていた。ハバド派/ルバヴィッチ派の立場からすれば、もしこれが公になっていたら、彼らのイメージは深刻なダメージを受けていただろう。ルバヴィッチのラビは、事態の沈静化と回避が最善の戦略であると明確に述べていた。攻撃する相手がいなければ、攻撃も起こらないのだ。サトマール派においては、ラビの息子たちの間の権力闘争、つまりどちらの息子が後継者となるかという問題が中心的な争点となった。ウィリアムズバーグ南部は発展を遂げ、サトマール派のコミュニティも急速に拡大していた。彼らは住宅や学校のために市の資金を必要としていた。非ユダヤ人による反ユダヤ主義的な攻撃も増加していた。彼らは市の支援を必要としており、不良集団という評判は決して有利には働かなかった。今日、ユダヤ人たちは反ユダヤ攻撃と過激な反ユダヤ主義の台頭を目の当たりにしている。米国におけるユダヤ人の黄金時代は、もはや過去のものとなったのかもしれない。下記リンク先はニューヨーカー誌の「ガザ問題とシオニズムに関する意見の相違が教会の信徒たちを分裂させている」です。

Newyorker  Disagreements about Gaza and Zionism have divided congregation, New Yorker Magazine

2026年5月21日

世界史遠望(6)ナチス・ドイツのロンドン大空襲は戦略的失策

Blits
St. Paul's Cathedral standing amid the flames during the Blitz ©1940 Herbert Mason

1940年9月7日、300機のドイツ爆撃機がロンドンを空襲した。これは57夜連続の爆撃の始まりだった。この爆撃作戦、いわゆる電撃戦(ブリッツ)は1941年5月まで続いた。フランス占領の成功後、ナチス・ドイツ軍が海峡を越えてイギリスに目を向けるのは時間の問題だった。アドルフ・ヒトラーは、イギリスが従順で中立な状態になることを望んでいた。そうすれば、ソ連への地上侵攻という東方計画に、妨害を受けることなく集中できるからだ。6月以降、ナチス・ドイツは地上侵攻に備えてイギリス空軍を消耗させようと、海峡のイギリス艦船を攻撃し、イギリス上空で空中戦を繰り広げた。

A bus is left in Harrington Square
A bus is left in Harrington Square in the first day of the Blitz, September 9, 1940

しかし、特にバトル・オブ・ブリテンでイギリスの航空戦力を弱体化させることにナチス・ドイツが失敗したため、ヒトラーは戦略を変更した。 地上侵攻はもはや非現実的と判断され、代わりにヒトラーは恐怖を武器として選んだ。イギリスの情報機関は、迫りくる爆撃を予感していた。ドーバー海峡におけるナチス・ドイツの艀の大規模な移動の証拠と、ナチス・ドイツのスパイへの尋問によって、彼らは正しい結論に達したのだが、不運にもそれはロンドンのドックがロンドン大空襲初日の猛攻に見舞われている最中だった。>その日の終わりまでに、ナチス・ドイツ軍機はロンドンに337トンの爆弾を投下した。

0/11 May 194
The most devastating raid on London took place on the night of May 10/11, 1941

その日、民間人が主な標的ではなかったものの、ロンドンで最も貧しいスラム街であるイーストエンドは、誤爆による直撃や、周辺地域に広がった火災によって、文字通りその影響を被った。その日の午後から夜にかけて448人の民間人が死亡した。 午後8時過ぎ、イギリス軍部隊は「クロムウェル」という暗号名で警戒態勢に入った。これはナチス・ドイツ軍の侵攻開始を意味していた。イギリス全土に非常事態宣言が発令され、国土防衛部隊までもが待機態勢に入った。ヒトラーの戦争における重大な戦略的失策の一つは、イギリス国民の意志と勇気を常に過小評価していたことだった。彼らは逃げたり、屈服させられたりすることはなかった。下記リンク先は英国放送協会(BBC)の「第二次世界大戦におけるロンドン大空襲の年表:8ヶ月に及ぶ恐怖の日々」です。

BBC News  Second World War Blitz timeline: Eight months of the London Blitz terror - BBC Teach

2026年5月20日

形式と感情の巨匠:ドイツ人写真家トニ・シュナイダース不朽の遺産

Zaungäste
Zaungäste, Weißenthurm, 1952
Toni Schneiders

トニ・シュナイダーズは1920年5月13日、ドイツのコブレンツ近郊のウルバールで未熟児として生まれ、思春期まで虚弱な状態が続いた。父親はもともとアイフェル地方のダウン出身で、ビジネス マネージャーとして働いていた。最初は1933年に倒産したフォードの販売店、次にコブレンツ医師会で働いていた。第一次世界大戦で重傷を負い、1944年に56歳で亡くなるまで後遺症に苦しんでいた。シュナイダースの母親はウルバール出身で、ライン地方特有の明るい気質と物語を語るのが好きだった。シュナイダースは後に、それが父親のより真面目な影響とのバランスを取っていると述べ、ゲーテの言葉を引用して自分の受け継いだものを特徴づけた。家族が芸術に直接関わっていたという記録はないが、シュナイダースの視覚表現への生来の興味は早くから現れた。14歳頃に学校を辞めた後、彼は画家としての訓練を求めたが、関連分野として写真に方向転換し、経験がなかったにもかかわらず「写真機械」への好奇心を掻き立てた。1935年、シュナイダーズはコブレンツにあるメンツェル・スタジオで写真家の見習いを始めた。メンツェル・スタジオは、徹底した訓練で知られる厳格なスタジオだった。その後数年間で、彼はカメラ操作、露出制御、現像とプリントのための暗室処理、パスポート写真、個人およびグループポートレート、結婚式の写真、地元の駐屯地の兵士の写真などの実用的な応用を含む基礎的な技術スキルを習得した。

Unheimliches Nest
Unheimliches Nest, Bodensee, 1949

スタジオでは伝統的な手順に従い、街の風景などを撮影するこ,も行われた。現代のトレンドに精通していたスタジオマスターの息子の影響を受け、シュナイダーズは高度な商業技術を掘り下げ、写真年鑑 "Das deutsche Lichtbild "(ドイツの写真)のバックナンバー、特にフランツ・グライナー、フーゴ・エルフルートハインリヒ・キューンなどのアーティストによる絵画的な臭化物油彩プリントを掲載した1927年版を研究し、技術的な熟練度と芸術的品質の違いを強調した。彼は、特にデインハルト・スパークリングワインのプロモーションプロジェクトにおいて、最適な輝きを実現するために、高度な照明効果、長時間露光、暗室での加工を駆使し、戦前のプロの写真コンクールで「帝国賞」を受賞するほど急速に成長した。シュナイダーズは1938年4月21日に見習い期間を終え、プロの写真家としての資格となるマスター資格を取得した。この時期、構図や形態に関する初期の実験が表れ始め、戦後の芸術的探求を予感させるものとなった。写真雑誌に触発され、革新的なポートレートスタイルを探求し、工業写真や広告写真にも挑戦し、ルーチンワークよりも品質と繊細な創造性を優先した。1937年の注目すべき個人的作品には、彼自身が最初のイメージだと語る「Wiesenweg im Frühnebel」(朝霧の田舎道、コブレンツ)や、従来の枠内で初期の芸術的感性を示した "Unser Milchmann"(私たちの牛乳配達人)などがある。1939年にドイツ空軍の降下猟兵部隊である降下猟兵隊に志願した。

Stellwerk frühmorgens, Lindau, 1949

同年、彼は国家労働奉仕隊に召集され、1939年から1941年までブラウンシュヴァイクの美術学校で訓練を受け、航空写真部隊に配属された。1942年には降下猟兵教導大隊の「映像報道員」に任命され、1944年までフランスとイタリアでの軍事作戦を記録した。彼は以前写真の見習いとして培った技術により、プロパガンダ目的で最前線の出来事を効果的に撮影することができたが、兵士の士気を高め、部隊の功績を強調するために、すべての画像は軍の検閲の対象となった。シュナイダーズの最も注目すべき任務の一つは、1943年9月12日にイタリアのグラン・サッソ・ホテルで行われた、ベニート・ムッソリーニの捕虜からの大胆な救出作戦「オーク作戦」の記録だった。オットー・スコルツェニー率いる降下猟兵部隊の一員として、シュナイダーズはDFS 230 C-1グライダーの着陸、カンポ・インペラトーレ・ホテルへの突入、ムッソリーニの救出、そしてフィゼラーFi 156シュトルヒ機での出発など、作戦の重要な場面を撮影した。]これらの記録は、連邦公文書館の所蔵品として保存されており、作戦の成功の視覚的証拠を提供し、ナチスのプロパガンダで広く使用された。 1944年2月、シュナイダーズはイタリアのネトゥーノ近郊(連合軍上陸作戦中のアンツィオ橋頭堡付近)で、ドイツ空軍支給のライカカメラを手にひざまずき、タバコを吸っている姿が写真に収められた。

Auf der Jagd
Auf der Jagd, 1950

これは、激しい戦闘の中で戦闘員と映像記録者という二つの役割を担っていた彼の姿を象徴するものだった。彼の作品は、イタリアの第2降下猟兵師団の兵士墓地や、フランスのノルマンディーにおける兵士たちの戦闘の合間の休息など、他の場面にも及んだ。シュナイダーの軍務は1944年8月18日、パリで重傷を負い連合軍の捕虜となったことで突然終わりを迎えた。彼は捕虜生活と終戦を生き延び、1945年に民間生活に戻った。オーク作戦や様々な戦線で撮影された彼の戦時中の写真や映像は、ドイツ連邦公文書館)に保管されており、ドイツ空軍降下猟兵の作戦に関する歴史的記録として重要なコレクションとなっている。第二次世界大戦終結後、トニ・シュナイダースは1945年に故郷のコブレンツに戻り、復興が進む街でフリーランスの写真家として活動を再開した。戦時中に特派員として培った報道写真の技術を活かし、シュナイダースは様々な出版物向けにルポルタージュ、広告写真、風景写真を制作し、戦後ドイツの変遷する風景を捉えた。 1946年、ボーデン湖畔のメーアスブルクに移住し、当初は既存の写真スタジオで働いていたが、1948年に地元の顧客向けに自身のスタジオを開設した。 彼のスタジオは、建築写真、工業写真、風景写真といった実用的な仕事に重点を置いていた。

Eiskragen,
Eiskragen, Bodensee, 1954

経済回復期に安定した収入を得るとともに、地域で専門家のネットワークを構築することができた。1949年までに、シュナイダースは再びボーデン湖畔のリンダウに移り住み、そこでフリーランスのフォトジャーナリストとして活動し、『メリアン』などの雑誌向けに旅行や文化に関する写真を制作した。1950年、彼はリンダウ出身のインゲボルグ・トーマンと結婚し、1950年から1951年にかけてハンブルクのヴェルナー・マンスフェルト写真スタジオを短期間経営した後、リンダウに戻った。夫妻はその後、2006年に彼が亡くなるまでリンダウに住み続け、この町は彼の私生活と仕事の基盤となった。1952年以降、シュナイダースはリンダウを恒久的な拠点とした住居、アーカイブ、スタジオを一体化した施設を建設した。この施設は、広範な旅行撮影や書籍出版など、拡大し続ける芸術的・商業的プロジェクトをたえるものとなった。この安定した環境により、彼はフリーランスのフォトジャーナリズムと長期的な創作活動のバランスを取ることが可能となり、戦後ドイツ写真界における持続的な生産性への重要な転換点となった。トニ・シュナイダーズは2006年8月4日、リンダウで亡くなった。86歳だった。下記リンク先は FC グンドラッハ写真財団によるトニ・シュナイダースの作品アーカイブです。

fondation  Archiv Toni Schneiders (Deutsche, 1920-2006) | Die Stiftung F.C. Gundlach, Hamburg

2026年5月19日

アイザック・ウォルトン『釣魚大全』に流れる悠久の時間

The Life of Isaac Walton
The Life of Izaak Walton; including Notices of his Comtemporaries by Thomas Zouch; 1823
Compleat Angler, 1653, 1st Ed.

エドワード・グレイ(1862-1933)著『フライ・フィッシング』(講談社学術文庫)にこんな下りがある。曰く「ギルバート・ホワイトの著書『セルボーンの博物誌』を除いては、この『ザ・コンプリート・アングラー』(釣魚大全)ほど疲れた心に避難場所そして慰安を与えてくれる本を私は知らない」云々。ギルバート・ホワイト(1720-1793)は副牧師、博物学者だったが、セルボーン村を歩いて野鳥などの生態を観察し、ふたりの著名な博物学者、デインズ・バリントン(1727-1800)とトーマス・ペナント(1726-1798)に届けた。いわば書簡集なのだが、自然への憧憬と畏敬、そして愛に満ちている。後者はアイザック・ウォルトン(1593-1683)の著書だが、日本ではやはり『釣魚大全』という訳のタイトルのほうが馴染み深い。

角川選書 72(1974年)

両書はジャン=アンリ・ファーブル(1823-1915)の『昆虫記』や、ウィリアム・H・ハドソン(1841-1922)の『ラ・プラタの博物学者』など、自然観察文学の魁(さきがけ)をなした名著である。ところでリクリエイションというのは、気晴らし、娯楽と意味付けられている。しかしそこから生まれる、再創造という概念がある。ウォルトンは「瞑想する人のリクリエイション」という副題をつけているが、まさにこの点が超ロングセラーを続けている理由なのだろう。いずれも今なお自然探求の書として読み継がれている。ただ英国の古典文学にありがちな、ある種の冗長さがあることは否めない。『セルボーンの博物誌』は時間がかかったが、なんとか読み通したが『釣魚大全』は、放り投げてはまた手に取るということを何度か繰り返してきた。おそらく聖書に疎い浅学菲才が最初の躓きだったのかもしれない。しかしある日気づいたことがある。それは17世紀の英国と21世紀の日本では時間のテンポが違うということである。早く読破しようという気持ちを抑え、ゆったりした気分で接しようと考えた結果、冗長と思われた文章が、不思議なことにすんなり脳裡に刻まれるようになった。生きている限りは締め切りのない読書、悠久の時間に遊ぶ愉しさを味わっている今日この頃である。なお英語版(ペーパーバック 336ページ 税込み ¥2,640)を下記リンク先のオックスフォード大学出版局日本法人のウェブサイトで入手できる。

University  Izaak Walton "The Compleat Angler" (ISBN : 9780198745464) Oxford University Press