2019年2月1日

千島列島の範囲に対する解釈の違い

千島列島を巡る紛争の歴史(画像をクリックすると拡大)

前エントリー「北方領土問題の解決は不透明なままだ」で、1951年のサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄したが、北方四島は千島列島に含まれていないというのが日本の一貫した主張であった、と書いた。これが日本が四島返還を求めてきた根拠になっている。対日参戦したソ連は1945年8月18日、千島列島に進攻を開始した。日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏し9月2日、降伏文書に調印、これによって千島列島はソ連の占領下になった。実際にソ連が北方四島を占領したのは、8月28日から9月5日だった。そして1951年、サンフランシスコ平和条約を批准、千島列島の放棄を約束してしまうのである。米国代表は「千島列島には歯舞群島は含まないというのが合衆国の見解」と発言したが、ソ連代表のアンドレイ・グロムイコ第一外務次官は「千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地がない」と主張している。吉田茂主席全権は条約受諾演説で「千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日、一方的にソ連領に収容されたのであります」「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」と述べている。千島列島の範囲について鈴木宗男議員が、2006年2月の衆議院で質問したが、西村熊雄政府委員(外務省条約局長)は「日本国との平和条約(昭和二十七年条約第五号。以下「サンフランシスコ平和条約」という)にいう千島列島とは、我が国がロシアとの間に結んだ千八百五十五年の日魯通好条約及び千八百七十五年の樺太・千島交換条約からも明らかなように、ウルップ島以北の島々を指すものであり、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島は含まれていない」と答弁している。旧ソ連および現ロシアと日本との間に、千島列島とはどこかとの解釈に差がある所以である。おそらくロシアは北方四島(南クリル諸島)は千島列島の一部だから、日本が放棄したと解釈しているだろう。吉田茂元首相の演説文をいま読むと、いわば敗戦国の悲哀が伝わってくる。ソ連軍による一方的な千島列島占領は理不尽だが、サンフランシスコ平和条約を受諾せざるを得なかったというジレンマである。

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日本国との平和条約 - Ministry of Foreign Affairs of Japan の表示とダウンロード(PDFファイル 1.11MB)

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