2019年2月13日

樺太にまで足跡を残した江戸時代の探検家たち

長久保赤水「蝦夷松前図」(北海道大学蔵)クリックで拡大

間宮海峡(ウィキペディア
長久保赤水自画像(長久保甫氏蔵)
遥かなる昔の思い出。確か小学校の教科書で間宮林蔵(1780-1844)について読んだような記憶がある。北海道から樺太(サハリン)千島列島(クリル列島)で20年以上も生活し、間宮海峡を発見した探検家だった。間宮海峡は樺太とユーラシア大陸にある海峡で、諸外国ではタタール海峡と呼んでいる。間宮林蔵は1809(文化6)年に間宮海峡を踏査したが、その19年前の1790(寛政2)年に、長久保赤水(1717-1801)が、この海峡を「蝦夷松前図」に描いていた。1785(天明5)年、探検家の最上徳内(1754-836)が江戸幕府の蝦夷地調査隊として、択捉島から得撫島を踏査し、さらに奥地の事情を探査調査した。そしてロシア人から聞いた情報により、1790(寛政2)年に「蝦夷風俗人情之沙汰付図」を作成した。

千島列島の島々に、ロシア語の名称がカタカナで記され、主要な島にはアイヌ語の地名を併記している。この地図をもとに長久保赤水が「蝦夷松前図」を描き、刊行したのである。左上の[山丹]は中国の甘粛省にある県で、位置としてはおかしい。そして北海道と樺太が描かれているが、いずれも形が扁平で不正確である。1779(安永8)年に赤水が刊行した「改正日本輿地路程全図」には北海道以北が省かれているが、この地域の情報が不足だったと思われる。それはともかく、いずれにせよ、江戸時代に日本人がこの地に足跡を残しているのは興味深い。千島諸島がカムチャッカ半島まで一列の列島として描かれいるが、1875(明治8)年、樺太・千島交換条約でロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することになった。ところが1951年にサンフランシスコ平和条約を受諾、放棄してしまった。北方領土問題が話題になっているが、安倍首相はどうやら1956年の日ソ共同宣言を根拠に、歯舞群島と色丹島のみの返還で手を打とうとしているようだ。ただその二島も、ロシアの各種世論調査では、北方領土の引き渡し反対が7割を超えているという国内事情もあり、プーチン大統領が手放すかは、相変わらず不透明のままなのである。

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