2012年12月9日

久しぶりに横尾忠則さんとお会いした

糸井重里氏とトークセッション  横尾忠則現代美術館(神戸市灘区原田通) Fujifilm Finepix X100

COCHIN MOON (コチンの月)
兵庫県立「横尾忠則現代美術館」が今月初めにオープン、公開制作イベントがあったので昨8日、神戸に出かけた。場所は王子動物園正面入り口の向かい側、三階建ての素晴らしい近代建築である。公開制作終了後、来館されていた糸井重里氏とトークセッション。「70歳になって老人の気持ちになれた」というくだりが興味深かった。横尾さんは現在76歳、60歳代までは若ぶっていて壮年の気持ちだった。要するに精神と肉体が乖離していたが、70歳になってそれがピタッと合ってしまったというのだ。いろんなものに興味を持って手を出すので、結局未だにスタイルが決まらない、という意味の発言も印象に残った。私もその傾向があるので「そうなんだ、それでいいんだ」と自分を納得させられる言葉として感謝したい。

それにしても制作現場を拝見させていただき、そのエネルギーにはほとほと感心した。イベント終了後あいさつしたら「この前、細野(晴臣)君がきて演奏してくれたよ。会えれば彼も喜んだのに」と私のことを憶えていてくれた。1978年4月、私は横尾忠則、細野晴臣さんらのインド旅行団に同行した。帰国後制作されたLP『コチンの月』はYMO結成直前のレコードとして一時「幻の名盤」と言われたようだ。現在はCD化されているが、ジャケットは私が撮影した写真を横尾さんがコラージュしたものだ。ブログに掲載するためジャケットを撮影したのだが、太田克彦氏のライナーノーツにインド旅行の思い出が彷彿と浮かんできた。曰く「ピンク・ペリカン・ラベルのビールを飲みつづけていた写真家の大塚さんを除いて全員身体に変調このインド旅行の団員たちは…」云々。生水を飲まないというのが当時のインド旅行の鉄則だったのだが、ウィスキーの水割り用の氷に手を出してしまったようだ。

マドラス領事宅に招待され天麩羅をご馳走になったのだが、私が領事とハイジャックの話をしている間、横尾さんは領事夫人とUFO体験を語っていたようだ。この会話のせいか南インドのコチンのマラバルホテルに投宿したころには一行は全員が元気を回復した、というエピソードが蘇ってきた。帰国後LPが制作されたことは前述の通りだが、雑誌『アサヒグラフ』のために私が撮影したインド映画の看板の写真ストーリーに付ける原稿と、レイアウトを依頼した。当時私は朝日新聞出版局の写真部員だったが、旅行に同行したということで編集者の役割もしたのである。何度もお宅に伺ったが、言葉では言い尽くせない。様々なことを教えていただいた。また細野さんとも仕事をする縁が生まれ、女性ミュージッシャンとの対談シリーズ『音楽少年漂流記』(新潮文庫)の写真を担当させていただいた。1989年、昭和が終わった年に東京の生活が終わり、京都に戻った。距離は残酷なもので、人々の縁を割く。しかし再会の愉しみもまた距離が作るものなのだろう。

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