COCHIN MOON (コチンの月) |
それにしても制作現場を拝見させていただき、そのエネルギーにはほとほと感心した。イベント終了後あいさつしたら「この前、細野(晴臣)君がきて演奏してくれたよ。会えれば彼も喜んだのに」と私のことを憶えていてくれた。1978年4月、私は横尾忠則、細野晴臣さんらのインド旅行団に同行した。帰国後制作されたLP『コチンの月』はYMO結成直前のレコードとして一時「幻の名盤」と言われたようだ。現在はCD化されているが、ジャケットは私が撮影した写真を横尾さんがコラージュしたものだ。ブログに掲載するためジャケットを撮影したのだが、太田克彦氏のライナーノーツにインド旅行の思い出が彷彿と浮かんできた。曰く「ピンク・ペリカン・ラベルのビールを飲みつづけていた写真家の大塚さんを除いて全員身体に変調このインド旅行の団員たちは…」云々。生水を飲まないというのが当時のインド旅行の鉄則だったのだが、ウィスキーの水割り用の氷に手を出してしまったようだ。
マドラス領事宅に招待され天麩羅をご馳走になったのだが、私が領事とハイジャックの話をしている間、横尾さんは領事夫人とUFO体験を語っていたようだ。この会話のせいか南インドのコチンのマラバルホテルに投宿したころには一行は全員が元気を回復した、というエピソードが蘇ってきた。帰国後LPが制作されたことは前述の通りだが、雑誌『アサヒグラフ』のために私が撮影したインド映画の看板の写真ストーリーに付ける原稿と、レイアウトを依頼した。当時私は朝日新聞出版局の写真部員だったが、旅行に同行したということで編集者の役割もしたのである。何度もお宅に伺ったが、言葉では言い尽くせない。様々なことを教えていただいた。また細野さんとも仕事をする縁が生まれ、女性ミュージッシャンとの対談シリーズ『音楽少年漂流記』(新潮文庫)の写真を担当させていただいた。1989年、昭和が終わった年に東京の生活が終わり、京都に戻った。距離は残酷なもので、人々の縁を割く。しかし再会の愉しみもまた距離が作るものなのだろう。
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