2026年7月31日

世界史遠望(23)ウィリアム・マッキンリー大統領暗殺事件

ハンカチに包んだ銃で狙撃されるウィリアム・マッキンリー大統領(米国議会図書館蔵
マッキンリー大統領

ウィリアム・マッキンリーは1843年1月29日、オハイオ州ナイルズで生まれた。アレゲニー大学に短期間在籍した後、南北戦争勃発時には田舎の学校で教師をしていた。北軍に一兵卒として入隊し、終戦時には志願兵少佐の名誉階級で除隊した。その後、法律を学び、オハイオ州カントンに事務所を開設し、地元の銀行家の娘であるアイダ・サクストンと結婚した。マッキンリーは34歳で連邦議会議員に当選した。彼の魅力的な人柄、模範的な人格、そして鋭い知性によって、彼は急速に昇進した。彼は有力な歳入歳出委員会に任命された。彼と共に委員を務めたロバート・M・ラ・フォレット・シニアは、マッキンリーは「重大な新問題については概して公共の利益を支持し、私益に反対していた」と回想している。下院議員として14年間務める間、彼は共和党における関税政策の第一人者となり、1890年に制定された関税法案に彼の名が冠された。翌年、彼はオハイオ州知事に選出され、2期務めた。マッキンリーが大統領に就任した頃には、1893年の不況はほぼ終息しており、銀貨をめぐる激しい動揺も収束していた。彼は通貨問題への対応を先送りし、議会を特別会期に招集して、史上最高額の関税を制定した。マッキンリー政権の友好的な雰囲気の中で、産業連合は前例のない速さで発展した。、マッキンリーは実業家・上院議員のマーク・ハンナに支配されていたわけではなく、トラストを「公共の利益に対する危険な陰謀」として非難した。マッキンリー政権を支配したのは、繁栄ではなく外交政策だった。キューバにおけるスペイン軍と革命軍の膠着状態を報じる新聞は、人口の4分の1が死亡し、残りの人々が深刻な苦境に陥っていると大々的に伝えた。国民の憤りは、大統領に戦争を求める圧力をかけた。議会と国民の圧力を抑えることができなかったマッキンリーは、1898年4月に中立介入のメッセージを発信した。これを受けて議会は、キューバの解放と独立を求める宣戦布告に等しい3つの決議を可決した。100日間の戦争において、アメリカ合衆国はキューバのサンティアゴ港沖でスペイン艦隊を壊滅させ、フィリピンのマニラを占領し、プエルトリコを占領した。

 Inaugural Address
就任演説をするマッキンリー大統領(1897年3月4日)米国議会図書館蔵

後に下院議長となる「ジョーおじさん」のジョセフ・ガーニー・キャノンはかつて、マッキンリーは耳を地面に近づけすぎてバッタでいっぱいだったと語ったことがある。マッキンリーはキューバ以外のスペイン領をどうするか決めかねていた時、国内を視察し、帝国主義的な風潮を感じ取った。こうしてアメリカ合衆国はフィリピン、グアム、プエルトリコを併合したのである。1900年、マッキンリーは再びブライアンに対抗して選挙運動を行った。ブライアンが帝国主義を激しく非難する一方で、マッキンリーは静かに「満腹の食事」を擁護した。順調に始まった彼の2期目の任期は、1901年9月に悲劇的な結末を迎えた。1901年9月6日、大統領がニューヨーク州バッファローで開催されたパンアメリカ博覧会で握手を交わしていたところ、28歳のアナキスト、レオン・チョルゴシュが近づき、彼の胸に2発の銃弾を撃ち込んだ。大統領はつま先立ちで少し体を起こした後、前に倒れ込んだ。ポーランド移民のチョルゴシュはデトロイトで育ち、幼い頃は製鉄所で児童労働者として働いていた。青年期には社会主義と無政府主義の思想に傾倒し、マッキンリー大統領を殺害した理由として、彼が腐敗した政府の首長だと考えていたことを挙げた。チョルゴシュは有罪判決を受け、1901年10月29日に電気椅子で処刑された。悔い改めない殺人犯の最期の言葉は「大統領を殺したのは、彼が善良な人々、つまり労働者の敵だったからだ」だった。彼の電気椅子による処刑は、トーマス・エジソンによって撮影されたとされている。悲嘆に暮れたマーク・ハンナ上院議員は「大統領閣下、私の声が聞こえますか?ウィリアム! 私が分かりますか?」と言った。マッキンリー大統領は、感染症と壊疽に侵され、1901年9月14日に息を引き取った。9月16日、ワシントンD.C.で葬儀が執り行われた後、マッキンリーの棺は列車で故郷のオハイオ州カントンに運ばれ、埋葬された。

Charlie Poole & the North Carolina Ramblers
White House Blues

McKinley hollered, McKinley squalled
Doc said to McKinley, "I can't find that ball"
From Buffalo to Washington

Roosevelt in the White House, he's doing his best
McKinley in the graveyard, he's taking his rest
He is gone, long old time

Hush up, little children, now don't you fret
You'll draw a pension at your papa's death
From Buffalo to Washington

Roosevelt in the White House drinking out of a silver cup
McKinley in the graveyard, he'll never wakes up
He is gone, long old time

Ain't but one thing that grieves my mind
That is to die and leave my poor wife behind
I'm gone, long old time

Lookit here, little children, don't waste your breath
You'll draw a pension at your papa's death
From Buffalo to Washington

Standing at the station just looking at the time
See if I could run it by half past nine
From Buffalo to Washington

Came the train, she's just on time
She run a thousand miles from eight o'clock till nine
From Buffalo to Washington

Yonder come the train, she's coming down the line
Throwin' every station, Mr. McKinley's a-dying
It's hard times, it's hard times

Lookit here, you rascal, you see what you've done
You've shot my husband with that Iver Johnston gun
Carry me back to Washington

Doc's on the horse, he th'ow down his rein
Said to that horse, "You've got to outrun this train"
From Buffalo to Washington

Doc came a-running, takes off his specs
Said, "Mr McKinley, it's, better pass in your checks
You bound to die, bound to die"

この歌はチャーリー・プール(1892–1931)とノースカロライナ・ランブラーズが1926年に録音した『ホワイトハウスこ・ブルース』である。おそらく事件から余り日が経ってうちに作曲したにも関わらず、政治的配慮からすぐに発表できなかったのではなかろうか。ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ、ビル・モンロー、アール・テーラー、サム・ブッシュなど、主としてブルーグラス音楽系のミュージシャンに歌い継がれ、現在でも頻繁に演奏されている。米国のカントリーソングには『オールド 97 の大破』『タイタニック』など、事件事故をテーマにしたトピカルソングが少なからずある。人々は歌によって歴史の記憶が蘇るのである。私がマッキンリー暗殺事件を知ったのはこの『ホワイトハウス・ブルース』を聴いたからだった。下記リンク先の音楽共有ウェブサイト SounndCloud でオリジナルレコーディングを聴くことができる。

SoundCloud White House Blues: Charlie Poole & North Carolina Ramblers, 1926 (Columbia 15099-D)

2026年7月29日

東洋のミューズ秋篠寺伎芸天像の妖艶

伎芸天像
木造伝伎芸天立像(頭部乾漆造)重要文化財
国宝本堂(奈良市秋篠町)

創建時は講堂であった本堂に入る。須弥壇の正面にあるベンチに座り、電灯光に浮かび上がった諸像を見上げる。暑い、暑い、風が通らない。中央に薬師如来像、そしてその左右に日光月光の両菩薩像が控えている。薬師如来といえば薬師寺の三尊を思い出すが、作造によってずいぶん印象が違うものだな、と感心する。この如来はよく言えば柔和ということになるが、やや気迫に欠けるような気がする。この寺で一番有名なのが、左端にある伎芸天だろう。どのガイドブックもこの像に触れている。天は天上界に住む神々、バラモン、ヒンドゥーの神々の化身だ。拝観の栞によれば「大自在天の髪際から化生せられた天女」なのだそうだ。大自在天というのはヒンドゥー教のシヴァ神のことだ。仏教の宇宙観によれば、衆生は欲界、色界、無色界の三つに分けられた世界に住むという。欲界というのは淫欲と貪欲がある世界、色界はそのふたつがない世界だそうだ。色というのは物質のことだから、無色界には物質すらない清浄な世界なのだろう。天上世界は普通は天部と呼ばれている。その天部には、梵天、帝釈天、四天王、毘沙門天、兜跋毘沙門天、韋駄天など、数知れぬ神々がいる。その性別ははっきりしていて、例えば吉祥天は毘沙門天の后である。伎芸天も天女で、その名の通り芸能の守護神であろう。これらはバラモン、ヒンドゥーといった異教の神々だが、仏教はこれらを取り込んで守護神としている。この包含力が仏教の凄さだと私は思うのだが、これ故、キリスト教のように一元的でないと言われるようだ。如来と言っても、釈尊の法身である釈迦如来ひとつではない。では、仏教は多神教なのだろうか。

多神論と想い誤ってはならぬ。すべての仏法は一や多の如き相対の念に止まることを許さぬ。本体をいつも「不二」に見るが故に、一にも多にも非ざるものを見ているのである。「不二」とは数からの解放を意味する。(柳宋悦『南無阿弥陀仏』)岩波文庫(1986年)
頭部のみが奈良時代の乾漆造り

唯一絶対という言葉があるが、はたしてそれは相対を越えたものなのだろうか。仏教の宇宙観は無碍である。すべてのものを許す包容力がある。それが仏教の素晴らしさであり、一神多神論を乗り越え、さらに無神有神論も乗り越えているものだと私は思っている。ベンチから立ち上がり、左端の伎芸天立像に近づき、凝視した。さらに左に回り込んで側面から見上げる。歴史という時系列に漂流を続けた像は、かなり傷みが激しいように思われる。頭部は奈良末期あるいは平安初期ごろの脱活乾漆造で、身体部は鎌倉時代に補作された木造だそうだ。しかし、不思議なことに時間断層の違和感はない。伎芸天像の色彩をどう表現したらいいのだろうか。墨にわずかな紫。頭髪はオレンジ、いや違う、南瓜色である。唇の上、瞼、眉毛の一部の塗料がはげ落ちている。柔らかな微笑み、それはまさに天女の姿である。具象が抽象に勝ったその写実は、かつていただろう実在の女性のモデルを彷彿とさせる。法華寺の十一面観音に伺える昇華がここでは希薄だ。天部像というのは、言い換えれば菩薩像よりさらに世俗的と言ってよいのだろう。

現在の像は頭部のみが奈良時代の乾漆造りで、頚部以下の身体は鎌倉時代の寄木造りだが、違和感はない。視線がその身体部に移ると、側面からだったためだろうか、ある発見にギクっとした。ゆったりとした宝衣をまとった天女はわずかに腰をひねっている。そしてその腰の下の腹部が盛り上がっているのである。肉付きのよい豊満な肉体とはこのことなのだろう。古寺巡礼を続けたためだろうか、私も和辻哲郎にある部分で近づいてきたのだろうか。まさか? そのまさか、である。私は強烈なエロティシズムをこの像に感じてしまったのである。いつの間にか天女の裸体を、生身の裸体を想像していた私に、私自身が驚愕する。それは動かない堂内の熱気が作った幻影なのだろうか。この像は極彩色だったという。着衣の彩色が落ち、往時の姿は想像にまかせるしかない。その風化が惜しまれる。そういえばかつて訪れた浄瑠璃寺の吉祥天女立像は厨子に守られて、その色彩を失っていない。再び境内を抜け、南門を出た私は、近くの自動販売機で冷たいお茶を求めて石段に腰掛けた。田圃の稲はじっとして動く気配もない。

temple  秋篠寺(あきしのでら)伎芸天立像とは? | 日本唯一の天女像の魅力を解説|奈良県奈良市秋篠町

2026年7月28日

世界史遠望(22)ツタンカーメンのデスマスクの発見

Mask-of-King-Tutankhamun
ツタンカーメン王墓の最深部の棺から出土した黄金のデスマスク(国立エジプト考古学博物館蔵)

ツタンカーメンは紀元前1332年、9歳でエジプトのファラオとなった。彼が統治したのは、エジプトと隣国ヌビア王国との間で領土を巡る争いが激化していた時代だった。即位からほぼ10年後、この若き指導者は18歳前後で亡くなった。しかし歴史家たちは1922年までツタンカーメンについてほとんど知らなかった。その年、イギリスの考古学者ハワード・カーター(1874-1939)が、エジプトの王家の谷でツタンカーメンの墓を発見した。ツタンカーメンの墓室には5,000点以上の遺物が収められていた。カーターのチームがそれらすべてをカタログ化するのに約10年かかった。エジプトの砂漠の地下に墓室を発見した後、カーターはその後2年間、墓の探索に多くの時間を費やした。しかし、最大の宝物は墓の別の部屋にあった。そこでカーターは棺を発見した。棺を開けると中には別の棺があった。2つ目の棺の中には、金でできた3つ目の棺が入っていた。その中には、3000年以上もの間、手つかずのまま保存されていたツタンカーメンのミイラがあった。王の遺体は、石棺の中に3つの棺を重ねた状態で安置され、その上には4つの箱型の祠が重なり合って覆われていた。そのデスマスクはエジプト美術の傑作の一つとされている。

最深部の純金の石棺
最深部の純金の棺を調査するハワード・カーターと作業員(1922年)

元々は金の棺の内側のミイラの肩に直接置かれていた。2枚の金板を叩いて接合して作られており、重さは22.5ポンド(10.23キログラム)である。ツタンカーメンは縞模様のネメス(古代エジプトのファラオが着用していた縞模様の頭巾)を身に着けており、女神ネクベトとワジェトが額を守っている姿が再び描かれている。また、内側の棺と同様に、神としてのイメージをさらに強めるために付け髭も着用している。首には幅広の襟を身に着けており、その先端はハヤブサの頭の形をしています。マスクの裏側には、エジプト人が死後の世界への道しるべとして用いた『死者の書』の呪文が刻まれている。この呪文は、ツタンカーメンが冥界へ向かう際に、彼の様々な手足を守るためのものである。ミイラが発掘されて間もなく、考古学者たちは棺の内側を覆っていた粘着性のある聖油から遺体を剥がそうと試みた。しかし、そのような乱暴な扱いによってミイラは損傷し、ツタンカーメンの死因を特定することが困難になった。科学者たちはツタンカーメンのミイラ DNA 鑑定を分析し、死因の特定を試みた。彼が殺害された、あるいは毒殺されたのではないかと疑う者もいたようだ。

壁画
死後の世界への旅を描いた場面が墓の内部の壁面に描かれていた

ツタンカーメンの健康状態に関する研究調査で興味深いのは、マラリアにかかっていたという事実だけではなく、研究者たちが現代科学を用いて3300年前の遺物の生と死の正確な状況を特定できたという点である。死因を究明するための2年間にわたる調査は、古代エジプトのミイラに対して行われた史上初の DNA 鑑定であり、この有名なファラオが口蓋裂と内反足を持っていたこと、そして骨折とマラリアによる合併症で死亡したことを明らかにした。また、ツタンカーメンの両親は兄妹であったことも判明した。ミシガン大学アナーバー校医学史センター所長のハワード・マーケル(1960-)によると、この研究はツタンカーメンの健康状態や祖先を明らかにするだけでなく、古代史への現代科学の応用における新たな章を開くものだという。「これは前例のないことです」「優れた科学技術、素晴らしい国際協力、そして保存状態の良い遺体という、まさに完璧な組み合わせです。これらすべてが揃ったという事実は、実に驚くべきことです」とこの研究には関わっていないマーケル博士は語る。この研究は、エジプト考古学最高評議会の事務総長であるザヒ・ハワスが主導した、国際的かつ学際的な共同研究であり、エジプト、ドイツ、イタリアの考古学者、医学者、人類学者が参加した。研究結果は2010年2月に発表され、米国医師会誌に掲載された。しかし死因が何であれ、ツタンカーメンの墓から出土した財宝は、彼を世界で最も有名なミイラにしている。下記リンク先はエリザベス・カミンズ博士による解説「ツタンカーメンの墓(最奥の棺と死の仮面)」です。

歴史  About Tutankhamun's tomb (innermost coffin and death mask) by Dr. Elizabeth Cummins

2026年7月26日

世界史遠望(21)絞首刑になったトム・デュラの物語

Tom Dura's Grave
Tom Dura's Grave, Ferguson, Wilkes County, North Carolina
Tom Dura

1950年代後半から1960年代にかけてのフォークミュージックシーンの幕開けに貢献したあの曲を覚えている方もいるかもしれない。あるいは、単に民話に興味があるだけなのかもしれない。 いずれにせよ、1868年5月、ウィルクス郡出身のトム・デュラは殺人罪で絞首刑に処された。こうしてトム・ドゥーリー伝説は、殺人、陰謀、複雑な三角関係、不倫、そして19世紀の有名人といった要素を盛り込んだ、ノースカロライナ州の民話として定着した。ドゥーリーは、騙された男、無実の男、女たらし、殺人犯、そして恨みを抱いた女の犠牲者など、様々な人物として描かれてきた。実際、彼はこれらのどれにも当てはまっていたのかもしれない。1958年、キングストン・トリオは、少なくとも40年ほど前に遡るルーツを持つドゥーリーについての歌を録音した。しかし、彼らのバージョンは大きな反響を呼び、シングルは600万枚以上を売り上げ、フォークやルーツミュージックへの国際的な注目を集めた。ダーリンズ(別名ディリアーズ)は、アンディ・グリフィス・ショーに出演した際に別のバージョンを演奏し、その後もストーリーや登場人物を変えた録音が数多く存在する。トム・デュラ(1844-1868)は実在の人物であり、彼の物語は現代のテレビドラマや人気映画のような、実話に基づいていた。1866年5月25日、ローラ・フォスターは馬に乗って家を出て、婚約者のデュラに会いに行くと友人に告げた。デュラはその日のうちに同じ方向へ向かう姿が目撃されたが、フォスターはその後二度と生きた姿を見せることはなかった。デュラはすぐに容疑者として浮上し、フォスターの捜索が複数回行われた。デュラは郡からテネシー州へ逃亡し、農場で仕事を見つけた。逮捕状が発行され、ウィルクス 郡の保安官代理はデュラの雇い主の協力を得て州境を越え、彼を逮捕した。同年8月、アン・メルトンという女性が友人のポーリン・フォスターに、ローラ・フォスターが埋葬された場所の近くにいると話した。9月、浅い墓から遺体が発見され、メルトンとデュラは殺人罪で起訴された。

Kingston Trio

裁判が始まると、特に1860年代としては過激な展開となった。デュラは女たらしで、メルトンとは15歳の頃から不倫関係にあった。また、殺人事件当時、ポーリン・フォスター、ローラ・フォスター、そして少なくとももう一人の女性とも不倫関係にあった。 さらにデュラは梅毒に感染しており、メルトンの夫であるアン・メルトンとポーリン・フォスターに感染させていたことが判明した。彼はローラ・フォスターから感染したと主張し、公の場で彼女を脅迫しているところを目撃されていた。デュラはゼブロン・ヴァンス(1830-1894)を弁護士として雇った。ヴァンスはノースカロライナ州知事を務めた経験があり、後にアメリカ合衆国上院議員となる人物で、当時州内でも屈指の弁護士と目されていた。彼はデュラの裁判を移送させ、デュラとメルトンの裁判を分離させることに成功した。デュラは有罪判決を受けたが、ヴァンスはノースカロライナ州最高裁判所まで上訴し、再審を勝ち取った。 1868年1月に再審が始まったが、証拠は覆らず、デュラは有罪となった。絞首台に向かう直前、彼はメルトンが殺人に関与していないと主張するメモを書き残し、そのメモが彼女の無罪判決につながった。

Tom Dura

長年にわたり、語り部や作詞家たちは様々な説を唱え、事実を改変し、メルトンとデュラを被害者としたり、冷酷な殺人犯としたりと、交互に描いてきた。ローラ・フォスターは、どのバージョンでも無垢な若い女性として描かれることが多い。テネシー州でデュラを雇っていた農夫は、あるバージョンでは保安官に、別のバージョンではその保安官が腐敗した人物として描かれている。真実の物語は、ラジオ向けの短い歌に収めるには多くの要素を含んでいるが、どのバージョンも真実を正確に捉えているとは言えない。これもまた、人々が実話に基づいた本や映画を好む理由の一つである。多くの場合、ノンフィクションは最も興味深い読み物となる。なぜなら、物語の展開はフィクションでは到底表現しきれないからである。エンターテインメント業界の人々は、私たちが理解し処理できる範囲を低く見積もっており、しばしば内容を単純化してしまうす。だからこそ「実話に基づいた」テレビや映画から知識を得ようとするのは、非常に危険なことなのである。下記リンク先のフェイスブックで、キングトン・トリオの『トム・ドゥーリー 』(1958年ライブ)を視聴できます。

guitar  The Kingston Trio (Dave Guard, Bob Shane, and Nick Reynolds) Tom Dooley Live in 1958

2026年7月25日

宗教考現学(12)ヴァイキングの神話と信仰

ヴァイキング・ロウ
サッカーの世界選手権大会で話題になったノルウェー応援団のヴァイキング・ロウ

FIFA ワールドカップ 2026 で印象に残ったのはノルウェーの応援団だった。、数千人のサポーターが完璧に息を合わせて腰を下ろし「ロウ!(漕げ)」という轟くような叫びに合わせて、ヴァイキングがオールを漕ぐ動きをまねたのだ。わずか数週間で、この「ヴァイキング・ロウ」は北米のスタジアムを席巻し、ソーシャルメディアを覆い尽くし、そして世界じゅうのサッカーファンの心をとらえたのである。北欧のヴァイキングは非常に信心深い人々だった。彼らは、自分たちの世界は様々な神々や神秘的な生き物たちと共有されていると信じていた。ヴァイキングの神々の中で最もよく知られているのは、オーディン、トール、フレイヤである。英語では曜日の名前が彼らにちなんで付けられているため、私たちは彼らをよく覚えている。

  • ウォーデンの日(Woden's Day)⇒水曜日(Wednesday)
  • トールの日(Thor's Day)⇒木曜日(Thursday)
  • フレイヤの日(Freya's Day)⇒金曜日(Friday)
女神フレイヤ
ヴァイキング神話において最も著名で強力な女神の一人フレイヤ

ヴァイキングにとって、最高の結末は戦場で勇敢に死ぬことだった。彼らは、運が良ければ、ヴァルキリーと呼ばれる翼を持つ女性の精霊が舞い降りてきて、死にゆく戦士たちの魂を集め、オーディンが住むヴァルハラへと連れて行ってくれると信じていた。ヴァルハラは、ヴァイキングにとっての天国だった。そこにたどり着いた戦士たちは、オーディンの大広間に住み、永遠にビールを飲み、ロースト肉を食べ、楽しい時間を過ごすことになっていた。亡くなったヴァイキングが行ける場所は他にもあった。

オーディン
アスガルドの最高統治者であり神々と人間の父であるオーディン

女神フレイヤは死者の一部を引き取った。彼らはフレイヤと共にフォルクヴァングと呼ばれる美しい野原へ行き、ヴァルハラのように、宴や楽しい時間を過ごすことができた。死者が行き着く場所は他にもあった――地獄だ。しかし、それは現代の地獄のように悪魔や炎に満ちた恐ろしい場所ではなかった。実際、それはかなり素敵な地下王国だったのだ。死は人の人生の完全な終わりとは考えられていなかったため、ヴァイキングは死者が来世に行けるよう、あらゆる手段を講じて準備を整えた。

セビリアの攻略
ヴァイキング艦隊はセビリア攻撃したが反撃に破れて残党は逃亡した(844年)

ヴァイキングは、剣や斧、上質な衣服、金や宝石など、ヴァイキングにとって重要なものすべてと共に埋葬された。死後の世界ではこれらが必要になると信じられていたからだ。だからこそ、今日、ヴァイキングの埋葬地は考古学者や歴史家にとって非常に重要なのである。墓にはヴァイキングがどのように暮らしていたかを私たちに教えてくれる宝物や持ち物がぎっしり詰まっている。下記リンク先はスウェーデン国立歴史博物館の「ヴァイキングの神話の世界」です。

歴史  The mythological world of the Vikings | Swedish History Museum Stockholm | Historiska

2026年7月24日

ソーシャルメディアの弊害(34)同情を目論んだ高市首相の睡眠不足自慢

髙市早苗

新聞やテレビなどのマスメディアの報道によると、高市早苗首相が自身の X(旧ツイッター)に「0~3時間睡眠が常態化」などと投稿したことを受け、自民党の小林鷹之政調会長は7月22日の記者会見で、首相に「寝てください」と進言したと明かしたという。

曰く「平日は、公邸に戻ってから、風呂掃除、入浴、夕食、夕食後の洗い物、洗濯、簡単な掃除まででプライベートな時間は精一杯で、後の深夜時間帯は明け方まで官邸から持ち帰りの資料読みや国会答弁資料読みに追われます」「今日のお休みは本当に有難く、久々に5時間も睡眠を取れた上(総理就任以来、0時間〜3時間睡眠が常態化)、昼からは、手付かずだった大量の洗濯後のハンカチやインナーのアイロンかけと、お裁縫(スカートの裾のほつれのまつり縫いやジャケットの緩んだボタンの補強)を一気に処理」「私は特にアイロンかけが下手で時間がかかるので、つい先延ばしにしていた結果、スーツに合わせるインナーが殆ど無い状況に。 これで会期末までのハンカチとインナーを確保でき、明日から又、頑張れます!」云々。
SNS
Social Media

誰が読んでも「何かがおかしい」と思える内容だった。単なる寝不足ではなく、精神的に行き詰まっているように思えた。しかし同情、あるいは「頑張ってる」と感動した人も多いかもしれないのである。髙市早苗が持つ信じがたいその支持率は、いわば烏合の衆に迎合しているからだろう。寝る暇がないということは、自分で一切合切を抱え込み、他人に任せてないということに過ぎない。ところで発言権を持たない疎外された人々にとって平等をもたらす力として認識されているソーシャルネットワークは、変革の担い手とての重要性を無視することはできない。しかし一部の社会では、ソーシャルネットワークはフェイクニュースやプロパガンダのプラットフォームへと変貌し、破壊的な声、イデオロギー、メッセージを助長している。ポピュリズムなどのイデオロギー的または政治的運動に対するソーシャルメディアの重要な貢献は、ユーザーの行動に影響を与えることができるという点にあると言える。行動に影響を与えようとする試みは、情報効果だけでなく、メッセージが受信者に及ぼす影響にも焦点を当てる必要がある。さらに、メッセージがソーシャルネットワークを通じて人から人へと伝わるにつれて、メッセージが引き起こす様々な行動の可能性を高める必要もあります。この多様性は、オフラインとオンラインの両方に存在する強い結びつきのネットワークを通じてメッセージが拡散するオンライン動員に基づいているのである。下記リンク先はオックスフォード大学の報告書「政治関係者によるソーシャルメディア操作は非常に大きな問題」です。

university  Social media manipulation by political actors an industrial scale problem - Oxford report

2026年7月23日

世界史遠望(20)緊迫:南ヴェトナムのサイゴン陥落

Vietnamese refugees
Vietnamese refugees evacuated by helicopter arrive on board the USS Midway on April 29, 1975

いわゆる「陥落」という表現はアメリカ側や反共志向の強い越僑により使われるもので、ヴェトナム共産党はこれを「サイゴン解放(ヴェトナム語:Sai Gòn Giải Phóng / 柴棍解放)」と呼び、共産主義陣営による南北ヴェトナム統一が決定的となった出来事としている。1975年になると、北ヴェトナムはホー・チ・ミン作戦を発動し、南ヴェトナムから国民が国外脱出を始めていた。アメリカ合衆国も南ヴェトナムを見捨てて支援を断った為、北ヴェトナムの勝利は決定的となった。1975年4月28日、サイゴンは南ヴェトナム解放民族戦線の指揮下に入っていた。米国のヘリコプターや軍用機、小船などがひっきりなしに脱出者を乗せて、サイゴン市内と沖合いに待機する空母や大型艦艇の間を往復していた。 大人から赤ん坊まで、多くの脱出者が列を成して自分の番を待った。 アメリカ軍の空母は脱出者を次々に受け入れ、30日早朝まで続いた。

avy personnel
Personnel push helicopter into sea in order to make room more evacuation flights on April 29, 1975

緊迫した状況の一方、サイゴンに残った人々は、米軍が残して行った段ボールや物資をかき集め、生活の糧として持ち帰るなどし、日常生活を続けていた。アメリカ軍はアメリカ大使館関係者や在越アメリカ人を脱出させるミッション・フリークエント・ウィンド作戦を発動するに当たり、軍放送が予め告知されていた天気予報のメッセージと共にビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』を陥落前日の29日から頻繁に放送し、在越アメリカ人にサイゴン脱出を呼びかけた。4月30日、北ヴェトナムの軍隊がサイゴンに到着し、11時30分に南ヴェトナム大統領官邸(現在のホーチミン市の「統一会堂」)に到着すると、北は南の大統領チャン・バン・フォンに対して辞任を要求した。フォンは北側の要求に応じて大統領を辞任し、ズオン・バン・ミンに引き継いだ。これによってミンはヴェトナム共和国の最後の大統領となった。

North Vietnamese troops
Victorious North Vietnamese troops on tanks in Saigon on April 30, 1975

これにより、長く続いたヴェトナム戦争が終結した。日本では NHK が午前11時32分に「南ヴェトナム政府全面降伏を声明」と速報表示]。午後7時30分から「サイゴン政権全面降伏」のタイトルで30分間の特別番組、ニュースセンター9時で「サイゴン降伏の日」と題したドキュメントを放送した。陥落時点で150人の韓国人が取り残されていた。脱出やボート・ピープルに混じって脱出するケースもあったが一部は取り残された。その多くは1年以内に送還された。しかし韓国人外交官3人は拘禁、さらに韓国に収監されたスパイとの交換を北朝鮮がヴェトナムに求めた事から拘禁は長期化した。スウェーデンの仲介と WHO を通じた支援の努力により1980年、勾留から5年後に釈放され金浦空港で迎えられた。下記リンク先は AP 通信社の写真アーカイブ「サイゴン陥落、1975年4月30日:ヴェトナム戦争の終結」です。

AP The Fall of Saigon, April 30, 1975: The end of the Vietnam War | AP Corporate Archives

2026年7月22日

何故アメリカはナチスドイツに原爆投下しなかったのか

Fat Man

実はこれは複雑な問題である。簡単に言えば、原爆が実戦投入可能になる前に、ナチスドイツが先に降伏したということだが、それだけではない。ドイツが敗北するのが明らかになると、原爆開発のためのマンハッタン計画を指揮したことで知られるレズリー・グローヴス将軍は、科学者たちにプロジェクトを完了させるよう働きかけるのに実に苦労した。科学者の多くはヨーロッパ人で、ヨーロッパでそれが使われるのを嫌がり、あるいは率直に言って誰かがその原動力を得ることを懸念する者も少数いた。ウラン爆弾の設計は実際には1944年12月までに完成したが、最終的な処理と組み立てに遅れがあった。現実的に考えれば、おそらく2月には完成していただろう。1945年3月下旬にドイツが崩壊し始めると、必要性がなくなったように見え、ペースはさらに鈍化した。軍は爆弾を1つ以上欲しがり、3つを推し進めていた。リトルボーイは防弾装置と考えられており、広島での使用がその試金石となった。実際には、最初の爆弾は3月に準備が完了し投下されていたかもしれないが、フランクリン・D・ルーズベルト大統領(1882-1945)が病気で、彼の許可がなければ実現できなかった。彼の死後、ハリー・S・トルーマン大統領(1884-1972)はやることが山積みになり、ナチスドイツは1945年5月7日にフランスのランスで連合国に無条件降伏した。陸軍航空隊はリトルボーイをベルリン上空に投下しようとしたが、投下しなかった理由の一つは、ベルリンが既に廃墟と化しており、その威力を示すことができなかったためである。

Enola Gay

ナチスドイツへの原爆爆撃隊の訓練は実際にはベルリンに集中しており、太平洋への移動準備を開始したのは6月になってからだった。ポール・ティベッツ空軍准将は1945年8月6日、広島に原爆リトルボーイを投下した B-29 爆撃機エノラ・ゲイの機長として知られているが、1944年12月以降、ナチスドイツには攻撃に値する都市は存在しないと公然と発言した。そのため、日本の主要な4つの攻撃目標都市は爆撃されずに残された。日本軍はこれに注目し、すべて軍事目標であったため奇妙に思ったのである。また、これらの都市はどれも規模が似ており、核爆弾で都市全体を破壊できるほどだった。ところで最初の原子爆弾の試作品は1945年7月17日、ニューメキシコ州南部のトリニティ・サイトでテストされた。次の爆弾はすぐに準備され、巡洋艦でテニアン島まで輸送するのに10日かかり、7月27日に到着し、8月6日に広島に投下された。続いて8月9日、B-29 爆撃機ボックスマンが原爆ファットマンを長崎に投下した。連合軍は1945年4月25日にベルリンを包囲、ドイツが降伏したのは上述の通り1945年5月7日だった。なぜナチスドイツに原爆を使えなかったのか、その問題が分かるだろうか? ナチスドイツとの戦争は、爆弾が使用可能になる数ヶ月前に終わっていたのである。つまり、爆弾を手に入れる前に戦争が終わってしまったら、爆弾で戦争を終わらせることはできないのである。下記リンク先は科学雑誌サイエンティフィック・アメリカンのジーナ・ブライナー編集長による記事「マンハッタン計画とは何だったのか? 1945年、日本の広島と長崎に投下された原爆は、マンハッタン計画によってもたらされた」です。

核兵器 What is the Manhattan Project? Atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki 1945

2026年7月21日

スノードン卿が「イギリスのカルティエ=ブレッソン」と称えたジェーン・バウン

Oz trial
Oz trial at the Old Bailey, London, 1971
Jane Bown CBE

ジェーン・バウンは1925年3月13日、イングランドのヘレフォードシャー州イーストナーで生まれた。彼女は幼少期を幸せだったと語り、ドーセットで叔母だと思っていた女性たちに育てられた。バウンは12歳の時、そのうちの一人が自分の母親であり、自分は非嫡出子だと気づいて動揺したという。この発見がきっかけで、彼女は思春期に非行に走り、母親に対して冷淡な態度をとるようになった。彼女の父親はチャールズ・ウェントワース・ベルで、母親を看護師として雇っていた。彼女は WRNS(英国王立婦人海軍)で海図修正係として働き、 ノルマンディー上陸作戦の計画にも携わり、この仕事で教育助成金を受け取る資格を得た。その後、ギルフォード美術学校でイフォー・トーマスに写真術を学んだ。バウンは1951年まで結婚式のポートレート写真家としてキャリアをスタートさせたが、その年にトーマスが彼女を『オブザーバー』紙の写真編集者であるメヒティルト・ナウィアスキーに紹介した。ナウィアスキーは彼女のポートフォリオを編集者のデイビッド・アスターに見せ、アスターは感銘を受け、すぐに哲学者バートランド・ラッセルの撮影を彼女に依頼した。バウンは主にモノクロで作品を制作し、自然光の使用を好んだ。

Mick Jagge
Mick Jagger, Singer and Songwriter, 1977

1960年代初頭までは主にローライフレックスを使用していた。その後ペンタックスの一眼レフを使用し、最終的にオリンパス OM-1 に落ち着き 85mmレンズをよく使用した。彼女はオーソン・ウェルズ、サミュエル・ベケット、ジョン・ベチェマン卿、ウディ・アレン、シラ・ブラック、クエンティン・クリスプ、ハーヴェイ、ジョン・レノン、トルーマン・カポーティ、ジョン・ピール、ギャングのチャーリー・リチャードソン、ジェラルド・テンプラー元帥、ジャーヴィス・コッカー、ビョーク、ジェーン・マンスフィールド、ダイアナ・ドース、アンリ・カルティエ=ブレッソン、イヴ・アーノルド、イヴリン・ウォー、ブラッサイ、マーガレット・サッチャーなど、数百人の被写体を撮影した。エリザベス2世女王の80歳の誕生日の肖像写真も撮影した。

 Anthony Burgess
Anthony Burgess, Writer and Composer. 1992

バウンの膨大な作品には、ホップ摘み労働者、グリーンハム・コモン女性平和キャンプの立ち退き、バトリンズ・ホリデーリゾート、イギリスの海岸、そして2002年のグラストンベリー・フェスティバルに関するシリーズが含まれる。 彼女の社会ドキュメンタリーやフォトジャーナリズム作品は、2007年に出版された著書 "Unknown Bown 1947–1967"(知られざるバウン)まで、ほとんど知られていなかった 。ルーク・ドッドとマイケル・ホワイトが監督した、バウンについての2014年のドキュメンタリー "Looking For Light"(光を求めて)では、バウンが自身の人生について語り、エドナ・オブライエン、リン・バーバー、リチャード・アシュクロフトなど、彼女が撮影したり、一緒に仕事をした人々へのインタビューが収録されている。2014年6月、バウンはクリエイティブ・アーツ大学から名誉学位を授与された。

>Rochdale byelection,
Rochdale byelection, Lancashire, 1958

1954年、バウンはファッション小売業の重役マーティン・モスと結婚した。夫妻にはマシュー、ルイザ、ヒューゴの3人の子供が生まれた。モスは2007年に彼女より先に亡くなった。2014年12月21日、ジェーン・バウンは89歳で亡くなった。スノードン卿は彼女の作品を称え「最高の写真を生み出したイギリスのカルティエ=ブレッソン」「彼女はトリックや仕掛けに頼らず、ただシンプルで正直な記録を、鋭敏で知的な目で捉えている」と称えた。下記リンク先はグロスターシャー大学の「写真家ジェーン・ボウンとグラント・スコットの対談」です。

university_bk  Conversation between Photographer Jane Bown & Grant Scott | Univ Of Gloucestershire

2026年7月20日

世界史遠望(19)日系アメリカ人を強制収容したランクリン・D・ルーズベルト大統領

The Mochida Family Awaiting Evacuation Bus at Hayward, CA. May 8, 1942 ©Dorothea Lange
Franklin D. Roosevel

日本軍による真珠湾奇襲攻撃により、アメリカ合衆国は第二次世界大戦の渦中に突入した。攻撃から約2か月後、フランクリン・D・ルーズベルト大統領(1882-1945)は大統領令9066号を発令した。日本のスパイ活動の可能性を抑制するためという理由で、日系アメリカ人の強制収容所への移送を承認したのである。当初、移送は自主的な参加に基づいて行われた。しかし移送を希望する者はごく少数であったため、大統領令は西海岸に住む日系アメリカ人の強制移送への道を開いた。大統領令9066号の発令後6ヶ月の間に、10万人以上の日系アメリカ人が米国内の強制収容所に収容された。これらの強制収容所は「移住キャンプ」と呼ばれた。当時、アメリカでは、日系アメリカ人は世代によって区別されていた。第一世代の日本人移民は一世と呼ばれ、第二世代のアメリカ生まれの日系アメリカ人は二世と呼ばれた。この大統領令は、両世代合わせて11万7,000人以上の日系アメリカ人に影響を与えた。何千人もの人々が「納税義務不履行」を理由に家や事業を失った。大統領令9066号は広く物議を醸した。この命令は、ハリー・S・トルーマン大統領(1884-1972)が1946年6月25日に大統領令9742号に署名するまで有効であった。

assembly center Stockton
Japanese Americans arriving at an assembly center Stockton, CA., 1942

大統領令9742号は、戦時移住局の解散を命じ、日系アメリカ人が自宅に戻ることを許可した。しかし、新たに解放された日系アメリカ人の多くは、自宅に戻ると持ち物が盗まれていたり、財産が売却されていたりするのを発見した。帰国した日系アメリカ人は、一般市民から差別や偏見に直面した。こうした行為を恥じたハリー・S・トルーマン大統領は、第442連隊戦闘団の日系アメリカ人兵士たちに敬意を表した。1988年、ロナルド・レーガン大統領は市民自由法に署名した。強制収容所の生存者には、米国政府から正式な謝罪状が送られ、2万ドルの賠償金が支払われた。

Students recite the Pledge of Allegianc
Students recite the Pledge of Allegiance in San Francisco, 1942 ©Dorothea Lange

戦時移住局の解散後、歴代大統領が様々な措置を講じたにもかかわらず、多くの日系アメリカ人は心の整理がつかないままだった。アメリカが設置した強制収容所は、歴史の中でほとんど語られることがない。ロイヤルズのベンチコーチ、ドン・ワカマツは「それについて語ることができる時はいつでも、それはより不朽のものとなる」「歴史には常に学びの過程がある。そう願うしかない独立宣言の約束と、我が国の自由の信条に忠実であろうとするならば」と述べた。下記リンク先は日系アメリカ人の歴史ポータル Denshō の「一人の女性(ドロシア・ラング)が日系アメリカ人強制移住の集団的記憶をどのように形作ったか」です。

日系アメリカ人  How One Woman Shaped the Collective Memory of Japanese American Removal | Denshō

2026年7月19日

マーク・ザッカーバーグに対する「女性の乳首に自由を」運動

Youki au Chat
Léonard Tsuguharu Foujita (1886-1968) Youki au Chat, 1923

後述するが乳首も描かれている藤田嗣治(1886-1968)のこの絵はさすがに Facebook も削除しないだろう。さきごろライナ出身のルスラン・ロバノフ(1979-)のヌード写真をソーシャルメディア Facebook にポストしたところ即削除された。芸術作品として名高い作品だったので驚いた。おそらくシステムが自動対処したのだろうけど、利用規約に反しているという警告メッセージも届いた。繰り返せばアカウント剥奪の可能性もある。以下に Facebook の「ヌードや性的行為: パブリッシャー・クリエイター向けガイドライン」の一部を引用しよう。

Facebook では乳首が見える女性の乳房の画像も制限されますが、医療目的や健康上の目的でシェアされる画像は除きます。授乳をしている女性や乳房切除術後の瘢痕を表す写真も許可されます。また、ヌードを描写する絵画や彫刻などの芸術作品の写真も許可されます。
Civilian Defense
Edward Weston (1886–1958) Civilian Defense, Carmel, 1942

上掲の写真はエドワード・ウェストン(1886–1958)の「民間防衛」と題した作品だが、おそらくこれをポストすれば削除されるだろう。医療目的や健康上の目的ではないし、授乳をしている女性の写真ではないからだ。写真術は近代に生まれたが、今や絵画や彫刻と相並ぶ芸術様式である。なぜ Facebook、あえて名指せば CEO(最高経営責任者)のマーク・ザッカーバーグが写真芸術を排斥するのか理解できない。乳首が写ったヌード写真は猥褻だと短絡解釈しているのだろう。さらに同上ガイドラインを引用しよう。

性的行為の表示に対する制限は、イラストコンテンツやデジタル処理で作成されたコンテンツにも適用されます。ただし、教育目的、ユーモアや風刺の目的で投稿されたコンテンツの場合は除きます。性行為の露骨な画像は禁止されています。

性行為の画像は禁止という言質は性行為を猥褻であると解釈しているわけだが、性行為すなわちセックスなしには子どもは生まれない。卑近な例、アニマルセックスの写真がおおっぴらに公表されているが、ヒトのセックスの写真はご法度になっている。江戸時代の「枕絵」は親が娘に持たせる嫁入り道具であったが、幕府の取り締まりを受けた。うがった見方をすれば性行為の画像の取締りは昔から為政者の権力の象徴と言えそうである。ポルノ画像が性犯罪の呼び水になっているかは疑問である。

FTN
Protest at Meta's London office following the censorship of a nipple tattoo

女性の乳首に関しては「カイリー・ジェンナーの Free the Nipple に続け! フリー・ザ・ニップルをリードするセレブ12名」という記事を思い出す。Free The Nipple(乳首を自由に。以下 FTN)とは男性のトップレスは許されているのに、女性はそうではないことに対する抗議活動である。もともとは俳優で監督のリナ・エスコが2012年に同名のインディーズ系コメディ映画を作ってこのダブルスタンダードを指摘、ジェンダー差別の撲滅を訴えたことから始まった。彼女の主張を支持したマイリー・サイラスやレナ・ダナムがこのハッシュタグをつけてソーシャルメディアにトップレスをアップしたが、Instagram や Facebook は「女性のトップレスは NG」というルールがあるとして削除。女性セレブたちがこれに抗議し FTN は一気に拡大した。今もダブルスタンダードはなくならず、バストトップを何らかの形で隠さなくては Instagram にトップレス画像をアップできないことから FTN は根強く続いている。下と Facebook と Instagram の親会社メタ社は、まもなく女性の胸の写真を解放する可能性探ったようだ。同社の監視委員会は、女性のヌード写真対するする規則を見直すよう求めたというが、未だに改善されていない。下記リンク先はハーパース・バザー誌の記事「セレブたちが「《乳首に自由を運動》を支持した28の事例」です。

女性誌  28 times celebrities embraced the Free the Nipple movement | The Harper's BAZAAR

2026年7月18日

宗教考現学(11)タイのワット・パ・タム・ウア森林僧院

Wat Pa Tam Wua
ワット・パ・タム・ウア森林僧院(タイ北部のメーホンソーン)

ワット・パ・タム・ウア森林僧院は、静かで自然豊かな僧院環境の中で、真剣に瞑想を実践したいと願う人々に精神的な導きを提供してぃる。エキゾチックなメーホンソーンの美しい山々に囲まれたこの僧院は、緑豊かな自然、穏やかな小川、自然の洞窟、そしてタイ北部の壮大な滝の絶景を堪能できる。野生の花々、蘭、そして雄大な山々の眺めなど、美しい景色が広がるまさに地上の楽園である。この僧院は上座部仏教、特にタイ森林仏教の伝統を受け継いでいる。タイ語と英語を話す僧侶たちが、適切な瞑想指導とともに、自然法則や自然現象に関する正しい見解を伝えている。世界各国から、初心者から上級者まで、多くの修行者が瞑想のためにここを訪れている。ワット・パ・タム・ウア森林僧院は温かく迎え入れてくれる場所だが、ここはリラクゼーションセンターやリゾートではなく、実際に活動している仏教寺院であり、ヴィパッサナー瞑想のリトリート施設であることを忘れてはならない。日々の精神活動はすべて義務付けられており、宿泊者は僧院のスケジュールと規則に従わなければならない。

Wat Pa Tam Wua
自然豊かなワット・パ・タム・ウア

このような規律ある環境は、有意義な精神的成長と自己発見のための理想的な条件を作り出す。ワット・パ・タム・ウア森林僧院は、年間を通していつでも参加できる柔軟な入山制度を採用している。午前または午後の瞑想クラスに1日だけ参加することも、最短3泊2日から最長10日間の宿泊型リトリートに参加することも可能である。この柔軟性により、様々なスケジュールを持つ旅行者にとって理想的な環境となっている。ここでは、ヴィパッサナー瞑想(洞察瞑想)とアーナーパナサティ瞑想(呼吸瞑想)を中心とした瞑想が行われている。様々な瞑想方法が認められているが、呼吸瞑想が主流となっていいる。毎日、タイ語と英語で法話が行われ、仏教哲学の教えと実践的な瞑想指導が提供されている。日々のスケジュールは、初心者にも参加しやすいように配慮しつつ、深い修行をサポートするよう構成されている。朝の瞑想は午前5時にクティ(瞑想小屋)で始まり、その後、僧侶への米の供養と朝食が行われる。午前と午後の法話と瞑想クラスがプログラムの中核を成し、夕方の読経、瞑想、法話で一日が締めくくられる。

MeditationRetreat
人里離れた環境の瞑想リトリート

年齢を問わず誰でもご参加でき、瞑想の経験は一切必要ない。僧侶とスタッフが、それぞれのレベルに合わせた指導を行う。唯一の条件は、僧院の規則を真摯に守り、日々のスケジュールに積極的に参加する意思があることである。この僧院では、個室のクティ(瞑想小屋)やドミトリーなど、宿泊施設を完備している。宿泊者全員に寝具と滞在中の白い衣服が提供される。施設は簡素で機能的で、快適さよりも瞑想の実践を支援するように設計されている。個室のクティは個人的な瞑想のための静寂を提供し、ドミトリーは共同の宿泊施設となっている。バランスの取れたベジタリアン(ビーガン対応)の食事が1日2回提供される。僧院の伝統に従い、正午以降は食事を摂らないため、夕食の代わりに紅茶、コーヒー、ジュース、豆乳などが用意されている。食事はボランティアとスタッフが調理している。僧院の敷地内には、自然に囲まれた美しい散策路や瞑想用の小道、周囲の山々を一望できる瞑想堂、そして近くには穏やかな小川や滝が流れている。自然そのものが瞑想の実践の一部となり、マインドフルネスと心の平安を育むための完璧な背景を提供してくれる。下記リンク先はタイのワット・パ・タム・ウア森林僧院の公式ウェサイトです。

仏陀  Wat Pa Tam Wua: A beautiful and peaceful Buddhist Forest Monastery open to everyone