2023年11月28日

サラ・カーターの秘められた愛憎物語

12 years old Sara
Sara Elizabeth Dougherty about 12 years old

カーター・ファミリーのサラ・カーター(サラ・エリザベス・ダウアティー)は、19世紀末2年前の1898年7月21日、ケンタッキー州との州境からほど近い、ヴァージニア州の150マイルに及ぶクリンチ・マウンテンの北側にあるコッパー・クリークの近くで生まれた。1901年に母親が亡くなると叔父と叔母の家に身を寄せた。近所の人がオートハープを持っていたので、10代のサラはグリーティングカードを売ったりして、シアーズのカタログで注文、初めてこの楽器を手に入れた。膝の上に乗せてコード伴奏で歌を歌うもので、最低限の音楽知識と技術があればよい。そのためには、曲をシンプルで規則的な形にアレンジする必要があった。サラはギターやバンジョーの伴奏も覚えたが、最も注目されたのは彼女の印象的で力強い、表現力豊かな歌声だった。クリンチ・マウンテンの反対側から、果樹のセールスマンであるA・P・カーターが訪ねてきた。彼はサラの歌声を聴き、彼女に言い寄るようになった。彼女は彼を好きではないと言っていたが、17歳の誕生日の1カ月前に結婚した。そしてグラディス、ジャネット、ジョーの子供たちが加わった夫妻は、メイセス・スプリングに移り住み、自宅や地元の教会で一緒に歌っていた。A・P・は落ち着きのない性格で、家を空けることが多かった。

Carter Family
The Carter Family (L-R) A.P., Maybelle & Sara Carter.

主な収入源は、鍛冶屋、大工、苗木の販売、伐採などであった。借りた車で親戚を訪ねた時に、故障してお金がなくなってしまった。どうしたらいいかと聞かれたサラは、地元の学校で歌を披露することを提案した。それは、彼らがプロの歌手になるための初めての試みだった。A・P・はブランズウィック・レコード社が人材を募集していることを聞きつけ、オーディションを受けた。夫妻は "Log Cabin By the Sea" "Poor Orphan Boy" などのフィドル曲を演奏した。しかしブランズウィック社が求めていたのは、家族での演奏ではなく、歌うフィドラーだったため A・Pはその申し出を断った。コッパー・クリークには、メイベルとマッジ・アディントンという2人の年下の従妹がいて、サラは彼女と一緒に音楽を楽しんでいた。メイベルがA・P・の弟エズラと結婚して山の向こう側に引っ越してきた後、A・P・とサラはギターとヴォーカルのハーモニーで参加してほしいと頼んだ。1927年、RCAの辣腕ディレクター、ラルフ・ピアがテネシー州ブリストルでオーディションを行った。後に「ブリストル・セッション」と呼ばれるようになったヒストリカル・レコーディングで、2週間に渡って行われた。これに応募したのが、A・P・カーター夫妻と、ふたりに説得されて参加した妊娠中のメイベルだった。これをきっかけに一躍有名になった彼らは、ラジオとレコードという新しいメディアを通じて一世風靡することになる。

Sara Carter and Coy Bayes
Sara Carter and Coy Bayes, courtesy of Norman Boling.

サラは1932年にA・P・と別れ、山の反対側にあるカッパー・クリークに戻った。「ハリウッド映画のカップルは別れても一緒に演奏している」というラルフ・ピアの妻アニタの勧めもあり、サラは演奏と録音のアンサンブルのメンバーとして残った。家族や友人によると、距離を置くことでA・P・との関係は改善された。1939年2月、何の前触れもなく、サラはメキシコのボーダーラジオ局 XERA で「カリフォルニアにいる友人のコイ・ベイズに曲を捧げたい」と発表し "I'm Thinking Tonight of My Blue Eyes" を感動的に歌い上げたのである。

Oh, I'm thinking tonight of my blue eyes
Who is sailing far over the sea
Oh, I'm thinking tonight of my blue eyes
And I wonder if he ever thinks of me

長い年月が隔てていた想いが成就、サラはA・P・の従弟であるコイ・ベイズと再婚したが、A・P・とは友好的な関係を保っていたという。戦時中にノースカロライナ州シャーロット都市圏の WBT で演奏した1年を経て、オリジナルのカーター・ファミリーは16年間の活動の後、1943年に解散した。サラとコイはカリフォルニアに移り住んだ。メイベルとその娘たちは自分たちのカントリー・アクトを確立、そしてA・P・はメイセス・スプリングに食料品店を開いた。1970年代初頭、サラとメイベルはジョニー・キャッシュのネットワーク・テレビ番組に出演し、ヴァージニア州ヒルトンズで開催された第1回A・P・カーター・メモリアル・フェスティバルで共演した。サラは循環器系と呼吸器系の病気で入院、1979年1月8日に80歳で他界した。カーター・フォールドでの葬儀の後、近くのマウント・バーノン・メソジスト教会墓地のA・P・カーターの墓の2列目に埋葬された。

YouTube  The Carter Family "I'm Thinking Tonight of My Blue Eyes" Camden Session May 10, 1928

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