2023年8月10日

アフリカの貴公子デニス・フィンチ=ハットン

Denys Finch-Hatton (1887-1931) Somewhere around 1910 or 1920
Karen Blixen & Denys Finch-Hatton

デンマークの作家カレン・ブリクセン(1885-1962)の名著『アフリカの日々』(河出文庫)を読まなければ、アングロアイルランドの貴族、デニス・フィンチ=ハットン(1887–1931)の名を脳裡に刻むことはなかったと思う。1937年出版の『アフリカの日々』の著者名は、イギリスとデンマークでは本名だが、翌年のアメリカ版ではイサク・ディネセンとなっているという。カレンは1914年から1931年まで18年間、アフリカでコーヒー農園の経営にした。ところが買い入れたナイロビ郊外の土地はコーヒーの栽培に不向きで、経営に失敗する。アフリカを離れることになり、失意の日々が訪れる。そしてデニスの死という不幸が重なる。アフリカを去って6年後、次のような追悼の言葉を綴っている。

土地の人たちにとって、デニスの死は近親を失ったもおなじことだった。デニスはアフリカ高地のありとあらゆる道に精通していた。ここの土の性質、季節の移り変わり、植物、野生動物、また風や匂いのことを、白人のなかではデニスほどに把握していた人はいなかった。彼はこの高地の天候の変化を観察し、そこに住む人々や雲に目をそそぎ、夜には星々を眺めてきた。同じこの丘陵で、なにもかぶらないまま頭を午後の日ざしにさらして低地一帯を見わたし、そこにあるものひとつひとつをはっきり見ようと双眼鏡を使っていたデニスの姿は、つい数日まえここにあった。彼はこの高地を吸収し、この土地はデニスの個性の刻印をうけて、彼自身の心象のなかでかたちを変え、デニスの一部となった。いまアフリカはデニスを受けいれ、彼を変え、アフリカそのものの一部とするであろう。(横山貞子訳)
Gypsy Moth: de Havilland DH.60 Moth

デニス・フィンチ=ハットンは伯爵の息子で、イートン校では人気のある学生だった。身長が高く、ハンサムで優雅、歌や絵画からクリケットやゴルフまで、あらゆるものに才能があった。ただオックスフォード大学では学業の才能を発揮できなかったようで、東アフリカに赴き、遺産で暮らすようになった。デニスは1918年、カレンと彼女の夫、プロア・プリクセン男爵と知り合った。このふたりが離婚した1925年、カレンの家に移住、サファリで裕福なビジターを護衛する狩猟家として新たなキャリアを開始する。クライアントのひとりがウェールズ王子、後のエドワード8世だった。1928年から1930年にかけてのサファリでは、狩猟の代わりに野生動物の写真撮影にシフト、タンザニア北部のセレンゲッティ国立公園の創設に関わったのである。1931年5月14日早朝、デニスが操縦するジプシー・モス(デ・ハビランド DH.60 モス)が、カレンの農園に向かうため、ケニア南部のヴォイ空港を離陸した。しかしエンジンが不調だったのか、200フィートの低空で翼を翻して空港に戻ろうとした。そして突然機体が揺れ、きりもみ状態になり、墜落炎上してしまった。44歳だった。遺体はカレンの手によってンゴング丘陵の麓に葬られたが、しばらくすると墓にライオンが現れるようになったという。なお『アフリカの日々』は映画化され、1985年に公開された。監督はシドニー・ポラック、主演はメリル・ストリープ、ロバート・レッドフォードで、第58回アカデミー賞、第43回ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞を受賞。下記リンク先の YouTube で二人が乗った複葉機ジプシー・モスの美しい飛行シーンを鑑賞できる。

YouTube  Out of Africa | Robert Redford and Meryl Streep Soar Over Kenya | Universal Pictures

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