カレン・ブリクセンと農園の使用人たち(1920年ごろ)
アーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)パリ時代の回想録『移動祝祭日』(高見浩訳・新潮文庫)に、デンマークのイサク・ディネセン(1885-1962)の『アフリカの日々』(Out of Africa) に関する興味深いくだりがある。曰く「彼(ブロア・ブリクセン)の最初の細君は、とても素晴らしい文章を書く人だった」「彼女がアフリカについて書いた本は、私が読んだなかでも最上のものだったな」云々。横山貞子訳が晶文社から出版されたのは1981年で、リアルタイムで読んで感動した記憶がある。今年の8月、河出書房新社が文庫本化したが、再び今、ディネセンが脚光を浴びつつあるのだろうか。ディネセンのファーストネームはイサクと男の名前 [*] だが、実は女性である。本名はカレン・ブリクセンで、1885年にデンマークのコペンハーゲンの裕福な商人の家に生まれた。27歳のとき、父の恋人アグネスの息子、スウェーデンの貴族プロア・プリクセン男爵と婚約する。プロアはいわば没落貴族で、ディネセン家の資力でケニアのナイロビ郊外、ンゴング丘陵の麓の土地を買い入れた。ここでケニアでも指折りの大農園の生活を始めたわけだが、男爵夫人になった代償として、女遊びに耽溺していた夫から梅毒をうつされる。結局離婚が成立して夫は去ったが、この地にとどまる。コーヒー農園主としての18年間を綴った『アフリカの日々』は病気のことも、離婚のことも一切触れていない。アフリカの人々、アフリカの大地への愛情が、通奏低音として一貫して流れている。農園を去るとき「私たち白人はここの人びとから土地を奪った。奪ったのは彼らの父祖の土地にとどまらない。さらに多くのもの、すなわちここの人びとの過去、伝統の源、心の寄りどころを奪ったのだ」と述懐している。
今、私はハードカバーの晶文社版を横に置きながら、カレンの写真をこのブログエントリーに添えるか迷っている。というのは著者はこの本に写真を入れることを拒み続けたからである。訳者あとがきにあるように、文化人類学の本でもなければ、ルポルタージュでもない。人生は変容してゆく。カレンのアフリカの日々もまた時間の流れが脈打ち、時間を固定する写真はそれらを捉え得ることは不可能である。著者にとって大事なのは、ある瞬間にしか見えなかったことであり、皮相的な写真を否定したのだろう。しかし原著については手に取ったことがないが、無論、写真はないだろうと思う。しかしこの邦訳版の口絵には著者の意思に反して、5葉の写真が使われている。執筆当時の著者のポートレート、農園のたたずまい、キクユ族の娘の油絵、農園を根城にしたサファリ案内人でカレンの恋人だったデニス・フィンチ=ハットン(1887-1931)の墓などである。このうち、少なくとも彼女自身のポートレ-トは、長い間公表されなかったのではと想像する。謎の作家としてセンセーションを巻き起こした作家だったからである。しかし結局ここに写真を掲載することにした。1954年にノーベル文学賞を受賞したヘミングウェイは、インタビューの際に「この賞があの美しい作家イサク・ディネセンに与えられていたら、私はもっと幸せだっただろう」と語ったそうである。私も美しいと思う。その美しさの片鱗を見せたいという誘惑に負けてしまったのである。ロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ共演の、アカデミー受賞作品映画『愛と哀しみの果て』の原作であるが、さまざまな意味でやはり、映画を観てこの自伝的エッセーを理解したと錯覚するのは、いささか乱暴であると思う。
[*] 男の名前の使用は覆面作家的意味合いがあったと思われるが、例えば「マダムそれは無茶です!」といった記述を読めば、女性であることが分かる。にも関わらず何故このペンネームを使ったのか不思議である。
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