写真は長野県飯田市の開善寺に集団疎開した、東京都世田谷区国民学校守山小学校 [※] の児童たちである。大判のガラス乾板で撮影されたと思われ、非常に鮮明である。第二次世界大戦末期、米軍による日本本土爆撃に備え、政府は大都市の国民学校初等科の児童を集団的、個人的に農村部の寺院などへ、半強制的に分散移動させた、いわゆる「学童疎開」だった。東京都は1944(昭和19)年から縁故のない児童のための疎開学園設置が進めていたが、同年6月15日、米軍がサイパン島に上陸すると、政府はこの「学童疎開」を「強度ニ促進スル」必要に迫られたのである。1945(昭和20)年、東京大空襲直前の3月9日、政府は「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、「学童疎開ノ徹底強化ヲ図ル」ため、初等科3年以上の児童についてはその全員を疎開させた。1、2年の児童については、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象に加えることにした。また、同年4月には、疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定した。こうして、集団疎開する児童は約45万人となった。国の政策で行われたにも関わらず、疎開に必要な物資は疎開先の寺院などが食料などを確保したようだ。農村といっても食料が潤沢にあるはずもなく、その中で地元の人たちが差し入れや食糧の確保に立ち向かったのである。開善寺に疎開した守山小学校の児童は5年生以上で、国民学校を卒業すると、学童疎開の対象ではなくなるので、東京へ帰り、空襲に遭って亡くなった児童が少なからずいたという。戦争の悲惨を痛感する。終戦時12歳だった児童も今や90歳と高齢だが、その記憶を風化させてはならない。戦争の恐ろしさを軽視する岸田文雄政権が軍備拡張、壊憲を虎視眈々と窺っているからだ。
[※] 戦後、世田谷区立守山小学校となったが、2016(平成28)年4月、新設の下北沢小学校に統合された。
資料:学童疎開促進要綱 1945(昭和20)年3月9日 閣議決定 | 国立国会図書館 リサーチ・ナビ
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