2021年11月16日

写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグ異聞

Grand Prix de l'ACF
Grand Prix de l'ACF, automobile Delage, Dieppe, 1912

ジャック=アンリ・ラルティーグは1894年6月13日、フランス中央部のクールブヴォワの裕福な家庭に生まれた。1963年に69歳でニューヨーク近代美術館で個展を開催するまでは、写真家としては無名だった。

Jacques Henri Lartigue (1894–1986)

父親のアンリ・ラルティーグ(1859-1953)は、銀行、鉄道、新聞社など、さまざまな分野で経営者として活躍した。祖父のシャルルはモノレール鉄道システムを発明していた。父親は写真が趣味で、幼い頃から息子にカメラを触らせていた。ジャックが初めて写真を撮ったのは、1900年、6歳のときだった。1902年、父親から初めてのカメラをプレゼントされた。ジャック=アンリ・ラルティーグは20世紀を代表する写真家になるという運命を背負っていたようだ。家族や休暇、車での旅行などが、最初の被写体だった。またスポーツカーや飛行機も、ジャックと、ジズーの愛称で親しまれている弟のモーリスを魅了した。兄のジソウがジャックを連れて、最初の飛行機がテストされている飛行場に行った。1907年から1908年にかけて、彼は航空機の黎明を撮影することができたのである。1911年以降、ラルティーグは自分の写真を新聞社に売るようになる。しかし父親からパテの家庭用映画撮影機を与えられていた彼は、スポーツを撮影してこれも売っていた。

ZYX 24
Décollage du ZYX 24, Rouzat, Puy-de-Dôme, 1910

映像は一瞬の儚さを切り取ることができるが、文章は感情を分析することができる。だからこそ、子供の頃から日記の必要性を感じていたラルティーグは、生涯を通じてそれを書き続けたのである。写真の芸術的な側面は20世紀初頭には認識されていなかった。逆に絵画は、芸術として認められていた。そこでラルティーグは、これを自分のプロとして活動することにし、ロドルフェ・ジュリアン(1839–1907)がパサージュ・デ・パノラマに開いた絵画と彫刻の個人学校、アカデミー・ジュリアンに入学した。1919年、ビビの愛称で親しまれまれていた、作曲家アンドレ・メサジェの娘、マドレーヌ(1896-1988)と結婚する。二人は1917年に両家が休暇で訪れたアヌシーでと出会った。1921年に第一子のダニーが生まれ、1924年にはヴェロニクが生まれたが、彼女は幼くして亡くなった。1920年代、ラルティーグは、パリや南フランスで絵画を展示した。ジャック=ビビ夫妻は、毎晩のように外出し、芸術関係のサークルに出入りするなど、社交的な生活を送っていた。映画監督のアベル・ガンス(1889-1981)からはに一緒に仕事しないかと誘われた。女優でオペラ歌手のイヴォンヌ・プランタン(1894-1977)とその夫サシャ・ギトリ(1885-1957)は、娘ヴェロニクの名付け親だった。

Jean Haguet
Jean Haguet, Piscine du Château de Rouzat, 1910

1930年、ルーマニア出身のモデル、ルネ・ペルル(1904-1977)と出会い、彼女の魅力に取り憑かれた。彼女は2年間、彼の伴侶でありモデルとなった。マドレーヌ・メサジェとは1931年に離婚している。家の財産のおかげで、ビビと ラルティーグは1920年代に豪華な生活を送ることができた。しかし1930年以降、この幸運は損なわれてゆく。自由を得るために、仕事をせず、絵を描いて慎ましく暮らしていた。画家として一定の評価を得た彼は、1935年にマルセイユのジュヴェーヌ画廊でヴァン・ドンゲン(1877–1968)サシャ・ギトリ(1885-1957)マレーネ・ディートリヒ(1901-1992)ジョルジュ・カルパンチェ(1894–1975)ジョーン・クロフォード(1907–1977)の肖像画を展示し、大成功を収める。また、ローザンヌやラボール、カンヌのカジノなどの内装も手がけた。ココの愛称で親しまれていたマルセル・パオルッチ(1934-?)と出会ったのは、カンヌのカジノだった。彼女の父親は、この施設の電気主任技師だった。1934年3月12日にココと結婚した。1939年に戦争が始まると、すでにココを離れていた彼は、パリのエリートたちの多くが避難していたコート・ダジュールに移った。さらに彼は1942年にモンテカルロでフロレット・オルメア(1921-2000)と出会い、1945年に結婚した。彼女はその後40年間、彼の妻であり続けた。

Denise Grey et Bibi
Denise Grey et Bibi à bord du Dahu II, Royan, 1926

夫妻はパリから15キロほど離れたヴァルドワーズの小さな町、ピスコップに住んだ。絵画の売り上げだけで生活しなければならないため、生活は厳しいものだった。ラルティーグの写真家としてのキャリアは、1950年代に本格化した。この分野では、雑誌や新聞の需要が重要であるため、モノクロを放棄することなく、カラーも使用している。パブロ・ピカソ(1881–1973)のポートレートを撮ったり、1953年にはアメリカの若き上院議員ジョン・F・ケネディ(1917–1963)や実業家アンドレ・デュボネ(1897-1980)などと会ったりしている。1955年にはパリのオルセー画廊で、ブラッサイ(1899–1984)ロベール・ドアノー(1912–1994)マン・レイ(1890–1976)ラルティーグの写真展が開催された。1960年、フランスの南東部、グラース近郊のオピオに家を買い、そこに居を構えたが、ここが終の棲家となった。世界的に認められたのはその後、1963年のことである。1962年に妻とアメリカを訪れた際、ラルティーグはニューヨーク近代美術館(MoMA)の写真部門のディレクターであるジョン・シャーカフスキー(1925-2007)と出会った。美術館の学芸員としての仕事に加え、写真家としても活躍していたシャーカフスキーは、ラルティーグの写真に熱中した。

Flore Ormea
Flore Ormea, La femme de Lartigue, Vence, 1954

1963年の秋に「ジャック・アンリ・ラルティーグの写真」という展覧会を開催することを決める。そして『ライフ』誌にポートフォリオが掲載されることになった。幸運なことに、このポートフォリオは、1963年11月22日にジョン・F・ケネディが暗殺された際に発行された『ライフ』誌に掲載された。この号の印刷部数は膨大なもので、ラルティーグの写真の名声が世界的に確立した。この時、彼は自分の名前に父親のファーストネームを加えて、ジャック・アンリ・ラルティーグと名乗ることにした。この頃リチャード・アヴェドン(1923-2004)がラルティーグの写真を集めた数冊のアルバムを制作する。ラルティーグは、その後も定期的に雑誌に作品を提供している。写真を撮ることをやめなかった。1979年には、写真、プレート、ネガ、アルバム、ダイアリーなど、すべての作品をフランス政府に寄贈する証書に署名した。これらはは自宅に保管されていたが、偉大な芸術家の国際的な名声がリスクを増大させていた。「空き巣が怖かったし、自分の死後、このコレクションが散逸してしまうのも怖かった」からである。1986年9月12日、ニースで他界、92歳だった。

library  Jacques Henri Lartigue (1894–1986) | Médiathèque de l'architecture et du patrimoine

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