Edward Weston |
エドワード・ウェストンは、20世紀の写真界の巨匠の一人として広く知られている。自然の風景やアーティチョーク、貝、岩などの造形物を、8x10インチの大判カメラを使い順光で撮影した。ウェストンの感覚的に精密な写真は、まるで詩のようである。繊細な色調と彫刻的なフォルムは、後世の写真家たちの評価基準となった。アンセル・アダムス(1902–1984)はこう書いている。「ウェストンは、本当の意味で、数少ない創造的な芸術家の一人である。彼は自然の物質形態と力を再現し、これらの形態に世界の基本的な統一性を雄弁に語っている。彼の作品は、精神の完成を目指す人間の内なる旅を照らし出している」云々。エドワード・ヘンリー・ウェストンは、1886年3月24日、イリノイ州ハイランド・パークに生まれた。父親のエドワード・バーバンク・ウェストン博士(1846–1918)は産科医で、母親のアリス・ジャネット・ブルット(1851-1892)はシェイクスピア女優だった。16歳の誕生日に父親から最初のカメラをプレゼントされたが、それはコダックのブルズアイNo.2というシンプルなボックスカメラだった。1911年から1922年にかけて、カリフォルニア州トロピコで自身のポートレートスタジオを経営する。
ソフトフォーカスのピクトリアリスム作品で成功を収め、多くのサロンやプロの賞を受賞した。1915年、サンフランシスコ万国博覧会で開催されたモダンアートの展覧会を見たウェストンは、自分の作品に不満を抱くようになる。1920年には、スタジオのパートナーであるマーガレット・メイザー(1886–1952)とともに、半抽象画を中心とした硬派な作風を試みていた。1922年、ウェストンはニューヨークに行き、アルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)ポール・ストランド(1890–1976)チャールズ・シーラー(1883–1965)らと知り合った。そしてこの頃、オハイオ州のアームコ製鉄所を撮影したことが、ウェストンのキャリアの転機となった。これらの産業写真は、気取らず、目の前の現実に忠実な「ストレート」な写真であった。ウェストンは後に「カメラは人生の記録のために使われるべきであり、それが磨かれた鉄であろうと動揺した肉であろうと、そのもの自体の本質と真髄を描き出すために使われるべきである」と書いている。1923年、ウェストンはメキシコシティに移り、弟子であり恋人でもあるティナ・モドッティ(1896–1942)とスタジオを開いた。
そして数年にわたってモドッティのポートレートやヌードを撮影した。モドッティを介して、メキシコ・ルネッサンスの芸術家、ディエゴ・リベラ(1886-1957)デヴィッド・アルファロ・シケイロス(1896-1974)ホセ・クレメンテ・オロスコ(1883–1949)などと親交を深めたが、彼らがウェストンの新しい方向性を後押ししたのである。1924年、ウェストンはソフトフォーカスの技術を完全に放棄し、自然の形を精密に研究し始めた。1926年にカリフォルニアに戻ったウェストンは、幼い息子のブレット(1911–1993)と共同で展覧会を開き、自然の形を写したクローズアップやヌード、風景など、代表的な作品を発表していく。 1926年にカリフォルニアに戻ったウェストンは、自然の形、クローズアップ、ヌード、風景など、彼の代表的な作品を造り始めた。1927年から1930年にかけて、ウェストンは貝殻、ピーマン、半分に切ったキャベツなどを記念碑的にクローズアップし、彫刻のようなフォルムの豊かな質感を引き出している。
1929年にはカリフォルニア州カーメルに移り住み、カリフォルニア州のポイント・ロボス自然保護区で岩や木の写真を数多く撮影した。二人のウェストンは、1928年に一緒にサンフランシスコのスタジオを開設する。翌年にはカーメルに移り、ポイント・ロボス周辺での撮影を開始した。エドワード・スタイケン(1879–1973)とともに、1929年、ドイツのシュトゥットガルトで開催された「フィルムとフォト」展のアメリカ部門を組織したのもこの頃である。1932年、アンセル・アダムス(1902–1984)ウィラード・ヴァン・ダイク(1906–1986)イモージェン・カニンガム(1883-1976)ソニア・ノスコゥヤック(1900–1975)らとともに、純粋主義の写真家たちによるグループ「f/64」の創設メンバーとなった。このグループは、前景と遠景の両方の画像のシャープさを最大限に確保するために、習慣的にレンズをその絞りに設定することから、この光学用語を選んだ。1936年、写真家として初めてグッゲンハイムフェローシップを受賞する。
そしてカリフォルニア州サンタモニカで撮影アシスタントであり、後に妻となるカリス・ウィルソン(1914–2009)をモデルに、ヌードと砂丘を撮影したシリーズを開始し、これは彼の最高傑作の一つとされている。同年末、約40点の写真を収録した『エドワード・ウェストンの芸術』がマール・アーミテージ社から出版された。1946年には、ニューヨーク近代美術館で300点のプリントによる大回顧展が開催された。翌年からカラー写真の実験を始めたウェストンは、ウィラード・ヴァン・ダイク監督(1906–1986)の映画『写真家』の題材にもなった。パーキンソン病を患い、1948年にポイント・ロボスで撮影したのが最後の写真となった。徐々に体調を崩していった最後の10年間、ウェストンは自分の生涯の作品を息子のブレットがプリントするのを監督した。1952年には「50周年記念ポートフォリオ」が出版された。その3年後には、1,000枚のウェストンのネガから8セットのプリントが制作された。1958年1月1日、カーメルで死去、71歳だった。
Edward Weston (1886–1958) Biography and Portfolio | Website of the Weston Family
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