Berenice Abbott |
ベレニス・アボットは、1898年7月17日、オハイオ州スプリングフィールドに生まれた。後年になって彼女は、強い個性である自立心、決断力、独立心は、幼少期の不幸な経験によるものだと語っている。1917年、ジャーナリズムを学ぶためにオハイオ州立大学に入学した。読書好きで、新しいものに興味を持つ彼女は、すぐにモダニズムの思想や左翼的な政治を持つ先輩たちの輪に入っていったのである。1年目を終えたアボットは、家族と疎遠になり、落ち着きを失っていた。ニューヨークの先輩たちから、グリニッチヴィレッジに来ないかという誘いを受けた。1918年、アボットはニューヨークの猛吹雪の中を到着した。ウエイトレスや糸染めなど、いくつかの仕事をした。休みの日には、プレイハウスでボランティアをしたり、小さな役を演じたりしていた。グリニッジヴィレッジでの生活の中で、彫刻に興味を持つようになった。1921年、ニューヨークに飽きた彼女は、彫刻の仕事がうまくいくことを期待して、パリへの片道切符を買うことにした。マン・レイ(1890–1976)とアボットはニューヨークで出会っていた。そのマン・レイは1年後にパリに移った。彼は生活のためにポートレートスタジオを開いた。フランスは写真発祥の地でありながら、意外にも現役の写真家は少なかったからである。
マン・レイは良い暗室の助手を見つけられないと言っていた。アボットが「私はどうですか?」と問うと、写真の知識がなくても、自分が形にできる人を求めていた彼は同意する。こうして、アボットの写真家としてのキャリアが始まったのである。当初、アボットは写真に興味がなく、優秀な暗室の助手になること以外は考えていなかった。彼女は効率的で勤勉であり、すぐにそのプロセスを非常に楽しんでいることに気づいた。ひとりで、長時間かけて技術を完成させるようになったのである。マン・レイにカメラの仕組みを教えてもらい、昼休みに写真を撮るようになった。最初に撮った写真はうまく撮れていて、自分でも驚いた。写真家になろうとは思っていなかったが、中にはとても良いものもあり、自分の作品にお金をかけられるかもしれないと思ったのである。写真のイメージに対する彼女の芸術的直感は自然なものだった。アボットの顧客は急速に増えていった。彼女はマン・レイに使用した備品の代金を支払うようになり、すぐに自分の稼ぎ以上の金額を彼に支払うようになってしまった。このことが、2人の間で微妙な問題になり始めた。結局、アボットは助手を辞める。
曰く「彼は私の人生を変えてくれました。誰かの下で働いたのは彼だけで、仕事があること、学ぶ機会があることにとても感謝していました」云々。翌年にはパリのリュ・デュ・バック通り44番地に自宅兼ポートレートスタジオを開設した。彼女の評判はすぐに高まり、マン・レイと同じかそれ以上のビジネスを手にするようになった。1926年6月8日、アボットはヤン・スリヴィンスキー・ギャラリーで「フォトグラフィック・ポートレート」と題した初の個展を開き、絶賛された。そんな中、アボットは今までで一番美しい写真と称するパリの写真を「発見」する。その写真家とは、無一文の老人、ウジェーヌ・アジェ(1857–1927)だった。アジェは40年近くもの間、パリの建物やモニュメント、風景などを撮影し、そのプリントを芸術家や出版社に売って貧しい生活を送っていた。アボットはその写真に独創性を見出し、老人と親交を深めていった。1927年にアジェが亡くなると、アボットは彼のすべてのプリント、スライドグラス、ネガを購入することにした。この膨大なコレクションに夢中になり、その後40年間、アジェの作品の普及と保存に努め、展覧会や本の出版、資金集めのためのプリントの販売などを行なった。アンドレ・ジークフリード(1875–1959)の "America Comes of Age" を読んだアボットは、アメリカへの帰国を決意、1929年2月、ニューヨークに戻った。
建築物の急激な変化と近代化の急速な進展に衝撃を受け、フォト・リーグのメンバーとなって、先進的な都市生活の記録を残した。そして最も有名な作品 "Changing New York"を制作したのである。1934年秋、芸術カリキュラムを監督していたカミロ・エガス(1889-1962)の要請を受けてリゼット・モデル(1901-1983)と共に、ニュースクール大学で教鞭をとり始める。写真はまだ新しい表現ジャンルと考えられていたため、この授業は一般の人々に写真という芸術を教える初めての試みだったと思われる。リチャード・アヴェドン(1923–2004)やダイアン・アーバス(1923–1971)もニュースクールの講義を受けていた。1968年にはニューヨーク近代美術館にコレクションを寄贈したが、それまで全く無名だったアジェを世界的に有名にしたのは彼女の功績である。評論家の中には、アボットがアジェの作品に傾倒したことが彼女のキャリアの妨げになったと言う人もいる。しかし、彼女はそれを否定し「それは私の責任であり、私はそれをしなければならなかったのです。彼は偉大であり、彼の作品は保存されるべきだと思いました」と主張した。肺の手術を受けた彼女は大気汚染のためにニューヨークから引っ越すべきだと言われた。メイン州ブランチャードのピスカタキス川のほとりにあった荒廃した家を1,000ドルで購入した。その後、近くのモンソンに移り、1991年に亡くなった。
Berenice Abbott (1898–1991) Biography, Works & Exhibitions | The Museum of Modern Art
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