2021年11月25日

児童労働の惨状を訴えた写真家ルイス・ハインの偉業

Child spinner
Child spinner in Whitnel Cotton Manufacturing Co. North Carolina. December 1908
Lewis Hine (1874–1940)

ルイス・ハインは、1874年9月26日、ウィスコンシン州オシュコッシュで、南北戦争の退役軍人ダグラス・ハル・ハインと、教育者のサラ・ヘイズ・ハインの間に生まれた。ハインはユニークな人生観を持つ運命にあった。1892年に父親が事故で亡くなり、ハインは一家を経済的に支えなければならなくなった。彼の最初の仕事は、家具の椅子張り工場で、1日13時間、週6日働いて、週4ドルの収入を得た。その後、銀行の清掃員などの仕事に就いたが、数年後には清掃員の監督をするまでになったと語っている。若い労働者が搾取されていることを身をもって体験したハインは、このような生活から抜け出したいと考えた。大学のエクステンションコースに通い社会学を学んだが、ウィスコンシン州オシュコッシュの師範学校の校長であった、フランク・マニー(1868-1954)と出会った。そして当時、最も著名なリベラル教育者だったジョン・デューイ(1859-1952)とエラ・フラッグ・ヤング(1845–1918)のふたりに師事した。1901年、ニューヨークの倫理文化学校の校長に就任したマニーは、ハインを自然研究と地理教育の担当者に任命した。またマニーはハインに学校の写真家になることを依頼した。

Seaconnet Mill
Young doffer and spinner boys in Seaconnet Mill, Fall River, Massachusetts. January 1912

写真家としてのハインの主な仕事は、学校の社会的学問的側面を記録することだった。写真には真実と現実を明らかにする力があることに気づき、それは彼に永遠の影響を与えた。写真が教育ツールとしての可能性を秘めていると考えたのである。カメラを購入したハインは、自分の撮った写真を授業に使い、ドキュメンタリー写真と呼ぶジャンルを確立した。またニューヨークで目にした貧しい人たちを撮影した。その中には、アメリカへ入国したエリス島の移民の写真も含まれていた。1908年、ハインは住み込みで働かされている労働者の屋や、低賃金で社会的に容認しがたい違法の搾取工場を撮影した写真集 "Charities and the Commons"(慈善活動と社会進出)を出版した。これらの写真を使って社会の改革に貢献したいと考えていたのである。ある会合で、自分の写真が「過ちを正す力を人々に与える」と信じていると語っている。学校の教師であったハインは、この国の児童労働法に特に批判的であった。いくつかの州では若い労働者を保護するための法律が制定されていたが、この問題を扱う国の法律はなかったのだ。1908年、全米児童労働委員会はハインを調査員兼写真家として採用した。その結果 "Child Labour in the Carolinas"(カロライナの児童労働)と "Day Labors Before Their Time"(日雇い労働者の歴史)という2冊の本が出版された。

Small Newsboy
Some of Newark's Small Newsboys, Afternoon. Newark, New Jersey, December 1909

工場で働く子どもたちの写真を撮るために旅行、1年の間に1万2,000キロ以上を走破した。トーマス・バルナルド(1845–1905)の下で働いていた写真家たちとは異なり、ハインはこれらの若者たちの貧困を誇張しようとはしなかった。彼の写真は「ショッキングさが足りない」と批判された。しかしハインは写真が現実を正確に捉えていると感じられれば、人々は児童労働反対運動に参加する可能性が高くなると主張した。工場の経営者たちは、ハインに写真が撮ることを拒否したり、彼を「密告者」と非難したりした。時にはカメラを隠したり、消防署員のふりをしたりして工場に潜入した。ハインは全国児童労働委員会に8年間勤務する。ある聴衆に「あなた方は児童労働の写真にうんざりしているかもしれません。しかし私たちが提案するのは、あなた方や国中の人々がこのビジネス全体にうんざりして、行動を起こす時が来たときに、児童労働の写真が過去の記録となるようにすることです」と説明した。1916年、米国議会は子どもたちを保護するための法律を制定することに合意した。キーティング・オーウェン児童労働法制定の結果、14歳未満の子どもの工場や商店での雇用が制限されることになった。全国児童労働委員会のオーウェン・ラブジョイ(1866-1961)は「この改革のためにハインが行った仕事は、その必要性を世間に知らしめた他のすべての努力よりも大きい」と書いている。

mechanic working
Power house mechanic working on steam pump, 1920-21

児童労働反対運動を成功させた後、ハインは第一次世界大戦中に赤十字社のために働き始めた。そのためにヨーロッパを訪れ、戦争の影響で苦しむフランスやベルギーの市民の生活状況を撮影した。休戦後、バルカン半島に行き "The Children's Burden in the Balkans"(バルカン半島の子どもたちの苦しみ)を1919年に出版した。 1920年代、ハインは労働者のためのより良い安全法を確立するためのキャンペーンに参加する。 曰く「私は何かポジティブなことをしたかった。そこで私は自分自身に言いました。仕事をしている人を撮らないか? 当時、彼は工場の子供たちと同じように恵まれていませんでした」云々。1930~31年には、ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングの建設を記録し、1932年に書籍 "Men at Work"(働く男たち)として出版された。その後、赤十字社からアーカンソー州とケンタッキー州の干ばつの様子を撮影する仕事を引き受ける。また、テネシー・バレー・オーソリティ(TVA)に雇われ、ダム建設の様子を記録した。しかしハインは、写真で十分な収入を得ることができなかった。1940年1月には、ホーム・オーナーズ・ローン・コーポレーションへの返済が滞り、家を失う。それから11ヵ月後の1940年11月3日、極貧の中で亡くなった。

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