2019年11月23日

壮絶な秋に細川ガラシャ夫人を想う

大徳寺高桐院に出かけた。細い敷石道を通り抜け、唐門を右に折れて玄関へ。拝観料を払って庭園に面した縁側に出た。はっと息を飲む。壮絶な秋である。広い庭は一面の苔、そして計算され尽くした楓樹の配置は、なぜか樹木と苔をむしろモノトーンの世界に変質させているようにも見える。目をつぶると、ひらひらと赤い楓、黄色い楓が空を舞っている。やがてそれらは苔の上に舞い降り、絨毯を敷き始める。天空からの光束はあくまで細い。緑の領域は次第に衰微し、赤や黄色が拡散してゆく。この仕掛は誰が考えたものだろうか。時の流れが饒舌と静寂を綾織る世界。そのふたつが混在しているのは、武人にして茶人、細川幽斎の長子忠興の霊がここにまつられているからかも知れない。高桐院は細川家の菩提寺でもあるのだ。本堂西側の縁側に庭を散策するためのスリッパが入った箱があった。庭に降りると一角に細川忠興の墓所があった。

大徳寺高桐院(京都市北区紫野大徳寺町)

忠興とガラシャの墓塔
春日灯篭の墓石は忠興とガラシャのものでもある。ガラシャの最期を三浦綾子は『細川ガラシャ夫人』で次のように描写している。「奥方さま、では、お覚悟を。直ちにわれらこれより御供申しあげまする。しかしながら、このお傍に果てるのは余りにも恐れ多きこと故、われらは玄関にて御供させて頂きまする」「自害は許しませぬ。天主のみもとに行くのは、わたくし一人にとどめますように。では、早う、少斎どの。頼みまする」「奥方ごめん!」 真紅の血がさっと飛び散り、玉子の上体がぐらりと前に傾いたかと思うと、そのまま玉子は床に打ち伏した家臣に首を切らせたという異説もある。ガラシャが自らの意志で散ったのは1600(慶長5年)7月だった。遺骨は大阪の崇禅寺の境内に埋葬されたという。10月、夫である忠興はオルガンチノ神父と相談して盛大なキリスト教式葬儀を行った。忠興が高桐院を建立したのがその翌年になる。この塔頭建立とガラシャとの関係はどうなっているのだろうか。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の武将の時代は、キリシタンの時代でもあった。キリシタン大名高山右近追放、ガラシャ受洗、キリスト教禁教令、三木パウロ殉教、秀吉の全国統一、家康江戸入城、そして長崎における二十六聖人の殉教と続く。1596(慶長元)年、千利休は秀吉によって自刃に追いやられている。利休の遺志によって灯篭「天下一」は忠興の手に渡った。5年後に建立したこの寺の庭に置いたのは間違いないだろう。この灯篭をもってすぐにガラシャの墓石にしたかどうかは歴史書は寡黙だ。夫人の死後、忠興は83歳で死ぬまで、45年も生きながらえた。亡き夫人を偲んで、生涯再婚はしなかったという。その間に、自らと、そしてガラシャの墓石にこの石灯篭を転嫁させたのだろうか。

小林清親『古今誠画 浮世画類考之内 慶長五年之頃 細川忠興室』(ガラシャ)1885年

茶室「松向軒」(しょうこうけん)
再び私は南庭の苔の前の縁側に立った。明智光秀の謀反によって玉子は一転「逆賊の娘」になってしまった。楓と混在した竹の階調に目をこらした私は、その玉子がなぜガラシャになったか、得も知れぬ興味が湧いてきたのに思わず身震いした。戦国時代を駆け抜けたキリシタンとはいったい何だったのだろうか。再び私は夢を見始めたようだ。あの灯篭はほんとにガラシャの墓石なのだろうか。この禅林は細川家の菩提寺だ。デウスに帰依したガラシャの痕跡はここにあるだろうか。細川家の紋は残っている。しかしここには十字架はない。ただあるのは利休好み、三斎好みの灯篭があるだけだ。宗教はひとつの方向性を持っている。信心がない人間には理解できない。キリシタンの殉教とはなんだったのだろうか。「教会側から言えばすばらしいこの聖女は、俗界側からみると、あまりにも薄幸な女でもあった」と遠藤周作は『切支丹時代』に書いた。信仰は他者に伝え得ないものなのだろうか。玉子の受洗は神の計画だったのだろうか。その自害ともいうべき死も神の計画だったのだろうか。私はそうは思わない。発端は夫である忠興の友人がキリシタン大名高山右近だったからと私は思う。書院の奥に茶室「松向軒」があった。三斎と号したように忠興は利休七哲に数えられる茶人でもあった。茶室の天井から小さな裸電球がぶら下がっている。その明かりを頼りに天井に目を注ぐ。実に質素なたたずまいだ。竹格子の残影が畳に落ちている。忠興はここでひとり静かに玉子を偲んだのだろうか。

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