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Folkways Records (FH-5264) 1959 |
ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(NLCR)のレコードを初めて購入したのは、1960年代初頭になる。当時、輸入盤、特に Folkways Records のそれは高価で6,000円もしたと記憶している。なにしろ1ドル400円もした時代だったが、学生にとってはきつい出費だった。しかし分厚い解説書が極めて有益だったし、値段に値していたと思う。その1枚が左の『大恐慌時代の歌』である。文字通り大恐慌時代の歌を集めたものだが、いずれの曲も、商業レコードのソースがある。つまり演奏している NLCR は、78回転 SP レコードを復元演奏した特異なグループであった。メンバーは途中で一度代わったが、このレコードのパーソネルはマイク・シーガー、ジョン・コーエン、トム・ぺイリーで、1959年1月にリリースされたものである。マイク・シーガー(1933–2009)はピート・シーガー(1919–2014)の異母兄弟で、父親のチャールズ(1886–1979)はジョン・ロマックス(1867–1948)アラン・ローマックス(1915-2002)父子らと伝承音楽の共同研究をした議会会図書館民謡資料室の学者だった。マイクはニューヨーク生まれだが、おそらく父親の部屋には膨大な量のレコードがあったに違いなく、それを聴いて育ったのだろう。
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Bristol Sessions (CMF-011-D) 1991 |
トーマス・エジソン(1847-1931)が瘻管蓄音機「フォノグラフ」を発明したのは1877年だったが、その10年後に円盤式の「グラモフォン」が生まれている。商業レコードができたのは 1920年前後である。そのレコードの音楽利用の黎明に関して不案内だが、1923年6月14日、RCA ビクターの傘下にあったオケー・レコードのラルフ・ピア(1892–1960)がジョージア州ファニン群出身のフィドリン・ジョン・カースン(1868-1949)のフィドルと歌を録音している。彼はその前の1920年にブルーズ歌手のマミー・スミス(1891-1946)の "Crazy Blues" などを録音しヒットさせたが、ヒルビリー音楽に食指を伸ばしたのである。カースンが吹き込んだ "Little Old Log Cabin in the Lane" は空前の大ヒットとなる。うまい喩えが浮かばないのだが、津軽三味線の吉田兄弟がレコード黎明期の演奏家と想定する。そしてその演奏を録音しヒットしたとすると、伝承民謡が商業化されたことになる。1927年、ピアは更なる試みとして、テネシー州ブリストルでジミー・ロジャーズ、カーター・ファミリーなどを集めて録音した。後に「ブリストルセッション」と呼ばれるようになったが、伝承音楽が商業化するきっかけとなったものだった。
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Folkways Records (FTS-31027) 1968 |
同時期、議会図書館のロマックス父子を中心にしたプロジェクトも、同じ地帯ののど自慢たちの録音をしている。アパラチア山系には、アイルランドやイングランドの古謡が残存していたわけで、学者と商業レコード会社の双方が注目したのは興味深い。さてこの時代に製作された商業レコードに着目したのが NLCR だった。今日、彼らを単なるコピーバンドと片付けてしまう人もいるようだが、とんでもない話である。彼らは20~40年代に作られたレコードに内包する、遥かなる歴史資産の片鱗に注目、人々、とりわけ都会人にそれを知らしめ、今日のアメリカンルーツ音楽ブームの礎を構築したと言える。ボブ・ディランも自伝『クロニクルス』で、影響を受けたと書いている。前述『大恐慌時代の歌』のジャケットには、画家のベン・シャーン(1898–1969)が撮影した、ストリート・ミュージシャンの写真が使われている。メンバーのひとり、ジョン・コーエンは優れた写真家であった。レコードジャケットに FSA(農業安定局)プロジェクトの写真を用いたのも、彼のアイデアだったと推測される。さらに彼らの LP アルバム 『モダンタイムス』(1968年) のジャケット写真は、かのロバート・フランクが担当していることを特筆したい。
ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズというバンド名は、このチャーリー・プール&ノースカロライナ・ランブラーズに由来する。1925年から30年にかけて録音を残しているが、当時流行のストリングバンドは、フィドル、バンジョー、ギターという編成が典型的なものだった。プールのバンジョーはスリーフィンガー奏法で、後のブルーグラスバンジョーのルーツになっている。また、ロイ・ハーヴィーのギターはベースランニングに特長があり、これまた大きな影響を与えている。グループ初期のフィドラーだったロージー・ローラーはダブルノートを使わない、どちらかといえばクラシックのヴァイオリンに近い奏法だった。プールが作った "White House Blues" はマッキレー大統領暗殺事件を扱ったトピカルソングで、今でもブルーグラス・ミュージシャンがよく取り上げている。禁酒法時代を背景に "Goodbye Booze" や "If the River Was Whiskey" といった歌を作っているのだが、最初に手にしたバンジョーは、密造酒を売って得たお金で購入したと言われている。映画のバックグラウンドミュージックを演奏するため、ハリウッドに招待されていた。切符代を受け取ったのだが、ロサンジェルスへ行かず、お金を6週間にわたる飲酒パーティに費やしてしまった。自ら作った歌のように『酒よさらば』できず、酒に溺れ、それが災いして、アルコール中毒で1931年に心臓発作に見舞われ、39歳の若さで他界してしまったのである。
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