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Ernest Hemingway (1918) |
スペイン内戦を背景にした作品で、日本の人々の印象に残っているのは、文学よりもむしろ映画の方が多いかも知れない。ビクトル・エリセ(1940-)の『ミツバチのささやき』や、ホセ・ルイス・クエルダ(1947-)の『蝶の舌』など、名作揃いである。内戦がスペイン人に負わせた心の傷を映像化した秀作だが、文学にも戦争の悲惨を描いた作品が存在する。そのひとつが
前エントリ―で触れたフランシスコ・アヤラ(1906-2009)の短編集『仔羊の頭』である。カタルーニャ文学の金字塔、マルセー・ルドゥレダ(1908–1983)の小説『ダイヤモンド広場』は、一人称で書かれているため、戦場の記述はない。内戦で夫を失った慟哭、ふたりの子どもを抱えながら仕事を失い困窮する生活、運命と言う名の厄介が綴られている。淡々とした記述ゆえ、胸に迫るものがある。アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)の長編小説『誰がために鐘は鳴る』を「アメリカ人の目線で描いた作品であることは否めない」と片付けたのは、言葉足らずでいささか不本意であった。1920年代のパリは、回想録『移動祝祭日』に活写されているが、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882–1971)やパブロ・ピカソ(1881–1973)、ジェイムズ・ジョイス(1882–1941)など、新しい芸術を指向するアーティストが結集していた。1921年にヘミングウェイは、妻のハドリーとともに、パリに移住した。その1カ月後にジョイスは『ユリシーズ』を、オデオン通のシェイクスピア書店から刊行している。
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新潮文庫(2003年) |
ヘミングウェイは1923年7月、23歳のとき、初めてスペインのパンプローナを訪れた。以来、再三にわたってこの国を訪れている。パンプローナへの旅は名作『日はまた昇る』(1926年)の土壌となった。1937年3月、内戦取材のためマドリードに到着したが、フランシスコ・フランコ(1892-1975)率いる反乱軍によって混迷を深めていた。このときヘミングウェイは37歳だったが、スペインの人々ため、共和国側を支援しようという強い思いがあったに違いない。ホテル・フロリダが共和国側に立つジャーナリストの溜まり場だったが、ここに陣取ったヘミングウェイは、ドキュメンタリー映画の撮影に同行して前線を駆け巡る。これ以降、4回に渡り、8カ月の月日をかけて戦況の報道に費やした。フランコは1939年1月、バルセロナを制圧、3月にはマドリードを占領、4月に勝利宣言をした。スペイン戦争といえば、国民戦線側による市民の虐殺に目がそそられるが、共和国側によるファシストやカトリック司祭の虐殺もあった。この点をヘミングウェイは見逃していないが、この史実は『ダイヤモンド広場』も間接的に触れている。戦争にはいかなる大義もない。肩入れした共和国軍の敗戦に苛まれたに違いないが、体験を書くことが使命だと自らを奮い立たせたのだろう。内戦が終結した頃、キューバのハバナで小説を書き始めていた。のちにそれは『誰がために鐘は鳴る』と題された。
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