2013年1月9日

ニライカナイへ旅立った写真家の東松照明さん


太陽の鉛筆  カメラ毎日別冊(毎日新聞社1975年)

写真家の東松照明さんが他界した。朝日新聞1月7日付電子版によると、東松さんは昨年暮れの12月14日、肺炎のため那覇市内の病院で死去、82歳だったという。同記事にあるように1969年に沖縄と出あい、視線は基地から、むくな自然と風俗に向かった。1973年には宮古島に7カ月滞在。その成果は毎日芸術賞や芸術選奨文部大臣賞を受けた「太陽の鉛筆」(1975年)などにまとまった。東松さんとお会いしたのは、まだ新宿に住んでいたころだった。1972年に私は朝日新聞神戸支局から東京本社出版局に異動、中野のマンションを借りた。確か2年後の1974年、写真家の富山治夫さんが住んでいた新宿のマンションを引き払ったが、その部屋に私は移り住んだ。そして東松さんがすぐ近くに住んでることを知ったのだった。旧ブログに私は「ローライフレックスが好きっ!」という一文を投稿したことを思い出した。
ローライフレックスを買う気になったのは東松照明さんの影響かもしれない。東松さんは篭から文鳥を出すと手のひらに乗せた。「二眼レフというのはねぇ、お辞儀カメラと言うんだ」。亜熱帯をテーマにした『太陽の鉛筆』をカメラ雑誌に連載してるころだった。「ふつうのカメラはファインダーを覗くと直視する形になるだろ。二眼だと下を見るから相手は安心するんだ。お辞儀、そうなんだよね。お辞儀をして撮らせてもらうのさ」。ふーん。私は関心する。それにしても太陽の鉛筆ってうまい表現だなと私は思った。
この時ローライフレックス以外にもいろいろお話したことが昨日のように蘇ってくる。私は朝日新聞のスタッフだったが、自分の会社が発行する『アサヒカメラ』に対しては編集方針が馴染めず、いわばライバル誌であった『カメラ毎日』に共感、愛読していた。特に不定期で掲載された「太陽の鉛筆」を観るのが楽しみだった。写真集は「カメラ毎日別冊」でムックとして発刊されたものだった。だから今では希少本になっているらしい。その『カメラ毎日』は1985年に廃刊に追い込まれてしまったが、それは日本の写真界にとって重大な損失だったといえる。写真集が発刊された1975年、沖縄国際海洋博覧会が開催されたが、私は雑誌『アサヒグラフ』の取材で沖縄を撮り歩いた。東松さんの影響を受けたのはいうまでもない。東松さんは90年代末、沖縄に住居を移した。終の棲家としたのだろう、ニライカナイへ旅立った。ご冥福をお祈りします。

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