2012年11月19日

日本のリベラル勢力は何処に消えてしまったのだろうか


たちあがれ日本を石原慎太郎元東京都知事が太陽の党と改名して代表に納まったが、わずか四日で解党、橋下徹大阪市長が率いる日本維新の会を乗っ取ってしまった。石原慎太郎は自らを弁慶にたとえ、橋下徹を牛若丸とおだてたそうだ。確かに源義経は日本人好みの武将だが、頼朝の追及を受け最後は自刃して果てている。いささか不吉な予感がすると私なら思うが、どうやらそこまでは考えが及んでないようだ。選挙をにらみ「小異を捨てて大同に就く」とぶち上げたところ、橋下徹は脱原発をあっさり取り下げてしまった。原発が小異とは呆れるが、元々維新の会が脱原発を掲げたのは単に一時的な人気取りのためであって、真の指標としていたとは考え難い。要するに地金が露出したということだろう。維新の会に加えてみんなの党、あるいは減税日本との連携をマスメディアはなぜ「第三極」と呼ぶのか不思議である。この三党、自公民に立ちふさがるそうだが、極右が右を牽制とは笑うに笑えない。それにしても日本のリベラル勢力は何処に消えてしまったのだろうか。ブログ「世に倦む日日」は「リベラルと中間層」と題してこの点を指摘、次のように分析している。

Meaning of Being Conservative

いわく「一つの着想として考えが及ぶのは、中間層の破壊と消滅という問題だ。特に若い世代で、中間層的な人間類型の可能性が失われていて、そのことがリベラルの政治的主体性の薄弱さと表裏一体の関係ではないかと思われてならない。中間層としての経済的な基盤がなく、意識を持ち得ていないこと、権利と政治が問題として一つに繋がっていないこと、諦めてしまっていること、中間層的な人間の生き方とそれを保障するリベラルの政治という健全な社会のイメージを描けないこと、その問題を提起したい」云々。さて上図はサイト「リベラルであること」の記事「リベラルvs保守」に添付されているものである。双方の言葉から連想あるいは思いつく単語を集めてクラウド化したものだが、読者が付け加えることによりチェンジできるという。リベラルに対しては「自由」「平等」「権利」「人々」といった文字が浮かんでいるが、同じ試みを日本のサイトしたらどうなるだろうか。今の日本人がどのような連想をし、そして意識しているかよく分かると思うが如何だろうか。

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