2024年12月21日

ソーシャルメディアの弊害(3)集団ヒステリーの危険

Echo chamber

兵庫県知事選で落選した前尼崎市長の稲村和美氏の後援会が運営していたX(旧ツイッター)のアカウントが選挙期間中に二度凍結された問題で、不特定多数の人物がうその通報を一斉に行った疑いがあるとして提出した告訴状を兵庫県警察本部が受理した。稲村和美氏の後援会によると、選挙期間中の先月6日、後援会のXの公式アカウントが突然凍結され、投稿や閲覧ができなくなったという。その6日後には別のアカウントを開設したが、このアカウントも開設した当日に凍結されたということです。後援会はルールに違反する投稿はなく、選挙運動が不当に妨害されたと主張していて、不特定多数の人物がXの管理者に対してうその通報を一斉に行った疑いがあるとして、先月、偽計業務妨害の疑いで兵庫県警察本部に告訴状を提出した。これについて県警は取り扱いを検討してきたが、20日付けで受理した。そのうえで後援会の世話人を務める津久井進弁護士は「捜査を通じて、今回の選挙における SNS のあり方が問われるものと期待している。選挙の結果に対する異議や特定の個人への処罰感情から告訴や告発をしたのではない。今後の選挙のあり方に一石を投じ、人権などが損なわれない選挙制度を目指す活動に資することが目的だ」と話していたという。具体的にはX「外国人参政権を進めている」など事実と異なる投稿が、複数の人によって拡散されのがアカウント凍結の理由だったらしい。事実なら有権者を愚民化した、まさしくエコーチェンバー現象による「集団ヒステリー」以外のなにものでもない。エコーチェンバーとは「人が自分自身の考えを反映し、強化する情報や意見だけに遭遇する環境」である。

echo-chambers
Beware of Cultural Echo Chambers

エコーチェンバー現象は、調和のとれたグループの人々が融合し、トンネルビジョンを形成するときにオンラインで発生する。オンラインディスカッションの参加者は、自分の意見が絶えず反響していることに気付く場合がある。これにより他の人の意見に触れる機会が減るため、個人の信念体系が強化される。個人の信念体系は、さまざまな主題に関する確証バイアスにつながるのである。個人が何かを真実にしたい場合、既存の信念を裏付ける情報のみを集め、矛盾する発言や自分の信念を否定する発言は無視することがよくある。エコーチェンバーに加担する人は、自分の意見がエコーチェンバー内の他の人に受け入れられやすいと確信しているために誤った情報を拡散することが多い。これはインターネットによって、すぐに入手できるさまざまな情報へのアクセスが可能になったために発生する。人々は、フェイスブック、X(旧ツイッター)などの従来とは異なる情報源を通じて、オンラインでより迅速にニュースを受け取っている。これらや他の多くのソーシャルプラットフォームやオンラインメディアは、個人のオンラインフィードに特定の情報を提供することを目的としたパーソナライズされたアルゴリズムを確立している。このコンテンツのキュレーション方法は、従来のニュース編集者の役割に取って代わった。オンラインネットワークを介した情報の拡散は、アルゴリズムによるフィルターバブルのリスクを引き起こし、インターネット上のエコーチェンバーの影響がオンラインインタラクションの分裂を促進するのではないかという懸念につながっているのである。下記リンク先はインディアナ大学ソーシャルメディア研究所の解析プログラム「ソーシャルメディアからエコーチェンバーが生まれる仕組み」である。

university  How echo chambers emerge from social media | The Indiana University OSoMe Report

2024年12月20日

ベトナム戦争中にナパーム弾攻撃から逃げる子供たちを撮影したニック・ウット

Napalm Girl
Naked 9-year-old girl, Phan Thị Kim Phúc, Trảng Bàng, Vietnam, 1972
Nick Ut (born 1951)

ニック・ウットは、ロサンゼルスのAP通信に勤務していたベトナム系アメリカ人の写真家。ベトナム戦争中にナパーム弾攻撃から逃げる子供たちを撮影した1972年の「戦争の恐怖」で、1973年のピューリッツァー賞スポットニュース写真部門と1973年世界報道写真賞を受賞した。2017年に引退。作品はワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーのコレクションで見ることができる。ウットは1951年3月29日、ベトナム(当時はフランス領インドシナの一部)のロンアンで生まれた。 AP通信のカメラマンだった兄のフイン・タン・ミーがベトナムで殺害された直後 、15歳のときにAP通信で写真を撮り始めた。サイゴン支局で彼の最も親しかった友人であるアンリ・ユエも、疲れ切ったウットの代わりに任務を引き受けた後、1971年に亡くなった。1975年のサイゴン陥落後、ウット自身も戦争で膝、腕、腹部に3回負傷した。彼は東京に移り、2年後にロサンゼルスに移住した。通称「ナパーム弾の少女」とも呼ばれる「戦争の恐怖」は、ウットの最も有名な写真で、1972年6月8日、北ベトナム軍ではなく誤ってトランバン村を襲った南ベトナム軍のナパーム弾から逃れ、カメラに向かって走ってくる9歳の裸の少女ファン・ティ・キム・フックを捉えている。この写真のフィルムを届ける前に、ウットはカメラを脇に置いてキム・フックを病院に急行させ、医師が彼女の命を救った。彼は「彼女が走っているのを見て泣きました...もし私が彼女を助けなかったら、何かが起こって彼女が死んだら、その後自殺すると思います」と語った。

Cambodian Civil War
Soldiers in Cambodian Civil War, 1970

怯えた子供たちが道路を逃げている。背後には兵士がいて、空は煙で覆われている。中央には裸の少女が叫びながら腕を上げて走って来る。この写真の公開は、AP通信が裸の少女の写真を有線で送信することについて議論したため遅れた。ウットは「AP 通信の編集者は、キム・フックが裸で道を走っている写真を拒否した。正面からのヌードが写っているからだ。1972年当時、AP通信ではあらゆる年齢や性別のヌード、特に正面からの写真は絶対に禁止されていた。...ホルストはニューヨーク本社にテレックスで、キム・フックという少女のクローズアップだけは放送しないという妥協案で、例外を設けなければならないと主張した。ニューヨークの写真編集者ハル・ビューエルは、写真のニュース価値がヌードに関する懸念を上回ることに同意した」と述懐している。

Napalm bombs
Napalm bombs and white phosphorous explode, Trang Bang, 1972

当時の大統領リチャード・ニクソンと首席補佐官のH・R・ハルデマンと会話している音声テープには、ニクソンが写真の信憑性を疑い、それが「加工」されているのではないかと考えていたことが示されている。2016年9月、ノルウェーの新聞社のフェイスブックページに掲載されたこの写真に検閲が課された後、同紙はマーク・ザッカーバーグに宛てた公開書簡を掲載した。ノルウェー政府の大臣の半数がフェイスブックのページでこの写真を共有し、その中には保守党のエルナ・ソルベルグ首相もいた。首相の投稿を含むいくつかのフェイスブックの投稿はフェイスブックによって削除されたが、その日のうちにフェイスブックは写真を復活させ「共有を許可する価値は削除によってコミュニティを保護する価値を上回る」と述べた。ウットの国籍はアメリカで、ロサンゼルスで結婚してふたりの子供がいる。

A family flees toward Saigon
A family flees toward Saigon along Route 13, 1972

2007年6月8日にロサンゼルス郡保安官の巡回車の後部座席で泣いているパリス・ヒルトンを撮影した彼の写真は世界中で公開されたが、ウットは写真家のカール・ラーセンと一緒にヒルトンを撮影していた。2枚の写真が出たが、ヒルトンのより有名な写真はラーセンの写真であるにもかかわらず、ウットによるものとされた。AP通信に51年間勤務した後、2017年に退職した。2012年9月、ピューリッツァー賞を受賞した写真の40周年を記念して、ウットはフォトジャーナリズムへの貢献によりライカの殿堂入りを果たした3人目の人物となった。2021年、ニック・ウットはベトナム戦争中の功績によりアメリカ国家芸術賞を受賞した。受賞前夜、ニューズウィーク誌にエッセイを発表し、 1月6日の米国議会議事堂襲撃をめぐる政治的懸念にもかかわらず、ドナルド・トランプ大統領から勲章を受け取ることにした理由を説明した。

 Mekong Delta stream
Soldier crosses a muddy Mekong Delta stream in Vietnam, 1972

翌日、友人と夕食に出かけた際、ニック・ウットはワシントンD.C.のダウンタウンで見知らぬ人に襲われた。彼は地面に倒れ、木を囲む金属フェンスにぶつかり、肋骨、背中、足を負傷した。この襲撃が政治的な理由によるものなのか、単なる偶然なのかは不明である。事件後、ウットはキム・フックを含む多くの電話から健康状態を尋ねられた。代表作『戦争の恐怖』は、海外記者クラブから最優秀写真賞、日刊新聞・通信社賞など、あらゆる主要な写真賞を獲得した。報道写真のジョージ・ポーク賞、世界報道写真賞の年間最優秀写真賞、スポットニュース写真のピューリッツァー賞も受賞。2014年には報道写真の功績が認められルーシー賞を受賞。インドのケララ・メディア・アカデミーは2019年に世界報道写真家賞を授与した。2021年には、アメリカ連邦政府が芸術家や芸術パトロンに与える最高の賞であるアメリカ国家芸術賞をジャーナリストとして初めて授与した。下記リンク先はライカカメラのインタビューによる「ニック・ウット:ベトナム戦争終結に貢献した驚くべき武勇伝とイメージ」と題したブログ記事(英文)である。

Leica
Nick Ut: The Amazing Saga and the Image that helped end the Vietnam War | Leica Camera Blog

写真術における偉大なる達人たち

Mount Aso
Henri Cartier-Bresson (1908-2004) Mount Aso-san, Kumamoto, Japan, 1965

2021年の夏以来、思いつくまま世界の写真界20~21世紀の達人たちの紹介記事を拙ブログに綴ってきましたが、2024年12月20日現在のリストです。右端の()内はそれぞれ写真家の生年・没年です。左端の年月日をクリックするとそれぞれの掲載ページが開きます。

21/10/04生まれ故郷ブラジルの熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座(born 1944)
21/10/06多くの人々に感動を与えたアフリカ系アメリカ人写真家ゴードン・パークスの足跡(1912–2006)
21/10/08グループ f/64 のメンバーだった写真家イモージン・カニンガムは化学を専攻した(1883–1976)
21/10/10圧倒的な才能を持ち現代アメリカの芸術写真を牽引したポール・ストランド(1890–1976)
21/10/11何気ない虚ろなアメリカを旅したスイス生まれの写真家ロバート・フランク(1924–2019)
21/10/13作為を排した新客観主義に触発されたストリート写真の達人ロベール・ドアノー(1912–1994)
21/10/16大恐慌時に農村や小さな町の生活窮状をドキュメントした写真家ラッセル・リー(1903–1986)
21/10/17日記に最後の晩餐という言葉を残して自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録(1923–1971)
21/10/19フォトジャーナリズムの手法を芸術の域に高めた写真家ユージン・スミスの視線(1918–1978)
21/10/24時代の風潮に左右されず独自の芸術観を持ち続けたプラハの詩人ヨゼフ・スデック(1896-1976)
21/10/27西欧美術を米国に紹介した写真家アルフレッド・スティーグリッツの功績(1864–1946)
21/11/01美しいパリを撮影していたウジェーヌ・アジェを「発見」したベレニス・アボット(1898–1991)
21/11/08近代ストレート写真を先導した 20 世紀の写真界の巨匠エドワード・ウェストン(1886–1958)
21/11/10芸術を通じて社会や政治に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス(1902–1984)
21/11/13大恐慌を記録したウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった(1903–1975)
21/11/16写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグは個展を開いた 69 歳まで無名だった(1894–1986)
21/11/20ハンガリー出身の世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパの短い人生(1913–1954)
21/11/25児童労働の惨状を訴えるため現実を正確に捉えた写真家ルイス・ハインの偉業(1874–1940)
21/12/01マグナム・フォトを設立した写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間(1908–2004)
21/12/06犬を人間のいくつかの性質を持っているとして愛撮したエリオット・アーウィット(1928-2023)
21/12/08リチャード・アヴェドンの洗練され権威ある感覚をもたらしたポートレート写真(1923–2004)
21/12/12デザインと産業の統合に集中したバウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジ(1923–1928)
21/12/17ダダイズムとシュルレアリスムに跨る写真を制作したマン・レイは革新者だった(1890–1976)
21/12/29フォトジャーナリズムに傾倒したアラ・ギュレルの失われたイスタンブル写真素描(1928–2018)
22/01/10ペルーのスタジオをヒントに自然光に拘ったアーヴィング・ペンの鮮明な写真(1917-2009)
22/02/25非現実的なほど歪曲し抽象的な遠近感を生み出した写真家ビル・ブラントのカメラ(1904–1983)
22/03/09男性ヌードや花を白黒で撮影した異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌(1946–1989)
22/03/18ニューヨーク近代美術館で写真展「人間家族」を企画したエドワード・スタイケン(1879–1973)
22/03/24公民権運動の影響を記録したキュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼(born 1933)
22/04/21社会的弱者に寄り添いエモーショナルに撮影した写真家メアリー・エレン・マーク(1940-2015)
22/05/20早逝した写真家リンダ・マッカートニーはザ・ビートルズのポールの伴侶だった(1941–1998)
22/06/01大都市に変貌する香港を活写して重要な作品群を作り上げたファン・ホーの視線(1931–2016)
22/06/12肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたドキュメント写真家アウグスト・ザンダー(1876–1964)
22/08/01スペイン内戦取材で26歳という若さに散った女性戦争写真家ゲルダ・タローの生涯 (1910–1937)
22/09/16カラー写真を芸術として追及したジョエル・マイヤーウィッツの手腕(born 1938)
22/09/25死と衰退を意味する作品を手がけた女性写真家サリー・マンの感性(born 1951)
22/10/17北海道の風景に恋したイギリス人写真家マイケル・ケンナのモノクロ写真(born 1951)
22/11/06アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス(1868–1952)
22/11/16大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット(1910–1990)
22/11/18人間の精神の深さを写真に写しとったアルゼンチン出身のペドロ・ルイス・ラオタ (1934-1986)
22/12/10アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド(1928–1984)
22/12/16没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真(1926–2009)
22/12/23写真家集団マグナムに参画した初めての女性報道写真家イヴ・アーノルド(1912-2012)
23/03/25写真家フランク・ラインハートのアメリカ先住民のドラマチックで美しい肖像写真(1861-1928)
23/04/13複雑なタブローを構築するシュールレアリスム写真家サンディ・スコグランド(born 1946)
23/04/21キャラクターから自らを切り離したシンディー・シャーマンの自画像(born 1954)
23/05/01震災前のサンフランシスコを記録した写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)
23/05/03メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス(1874-1945)
23/05/05文学と芸術に没頭し超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂(1943-2024)
23/05/07家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン(born 1941)
23/05/22欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンのセルフポートレイト(1894–1954)
23/05/2520世紀初頭のアメリカの都市改革に大きく貢献したジェイコブ・リース(1849-1914)
23/06/05都市の社会風景という視覚的言語を発展させた写真家リー・フリードランダー(born 1934)
23/06/13写真芸術の境界を広げた暗室の錬金術師ジェリー・ユルズマンの神技(1934–2022)
23/06/15強制的に収容所に入れられた日系アメリカ人を撮影したドロシア・ラング(1895–1965)
23/06/20劇的な国際的シンボルとなった「プラハの春」を撮影したヨゼフ・コウデルカ(born 1958)
23/06/24警察無線を傍受できる唯一のニューヨークの写真家だったウィージー(1899–1968)
23/07/03フォトジャーナリズムの父アルフレッド・アイゼンシュタットの視線(1898–1995)
23/07/06ハンガリーの芸術家たちとの交流が反映されたアンドレ・ケルテスの作品(1894-1985)
23/07/08家族が所有する島で野鳥の写真を撮り始めたエリオット・ポーター(1901–1990)
23/07/08戦争と苦しみを衝撃的な力でとらえた報道写真家ドン・マッカラン(born 1935)
23/07/17夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ(1899–1984)
23/07/2020世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ(1908–2002)
23/07/22メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能(1896–1942)
23/07/24ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク(born 1941)
23/08/01アフリカ系アメリカ人の芸術的な肖像写真を制作したコンスエロ・カナガ(1894–1978)
23/08/04ヒトラーの地下壕の写真を世界に初めて公開したウィリアム・ヴァンディバート(1912-1990)
23/08/06タイプライターとカメラを同じように扱った写真家カール・マイダンス(1907–2004)
23/08/08ファッションモデルから戦場フォトャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯(1907-1977)
23/08/14ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績(1907-2007)
23/08/18超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド(born 1946)
23/08/20シカゴの街角やアメリカ史における重要な瞬間を再現した写真家アート・シェイ(1922–2018)
23/08/22大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン(1915-1986)
23/08/25カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン(1912-1999)
23/09/08イギリスにおけるフォトジャーナリズムの先駆者クルト・ハットン(1893–1960)
23/10/06ロシアにおけるデザインと構成主義創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ(1891–1956)
23/10/18物事の本質に近づくための絶え間ない努力を続けた写真家ウィン・バロック(1902–1975)
23/10/27先見かつ斬新な作品により写真史に大きな影響を与えたウィリアム・クライン(1926–2022)
23/11/09アパートの窓から四季の移り変わりの美しさなどを撮影したルース・オーキン(1921-1985)
23/11/15死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品(born 1939)
23/12/01近代化により消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ(1857-1927)
23/12/15同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット(1913–2009)
23/12/20哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール(1929-2007)
24/01/08音楽や映画など多岐にわたる分野で能力を発揮した写真家ジャック・デラーノ(1914–1997)
24/02/25シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座(born 1943)
24/03/21パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)
24/04/04報道写真家として自活することに成功した最初の女性の一人エスター・バブリー(1921-1998)
24/04/20長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ(born 1962)
24/04/2820世紀後半のイタリアで最も重要な写真家ジャンニ・ベレンゴ・ガルディン(born 1930)
24/04/30トルコの古い伝統の記憶を守り続ける女性写真家 F・ディレク・ウヤル(born 1976)
24/05/01ファッション写真に大きな影響を与えたデヴィッド・ザイドナーの短い生涯(1957-1999)
24/05/08社会の鼓動を捉えたいという思いで写真家になったリチャード・サンドラー(born 1946)
24/05/10直接的で妥協がないストリート写真の巨匠レオン・レヴィンシュタイン(1910–1988)
24/05/12自らの作品を視覚的な物語と定義している写真家スティーヴ・マッカリー(born 1950)
24/05/14多様な芸術の影響を受け写真家の視点を形作ったアンドレアス・ファイニンガー(1906-1999)
24/05/16芸術的表現により繊細な目を持つ女性写真家となったマルティーヌ・フランク(1938-2012)
24/05/18ドキュメンタリー写真をモノクロからカラーに舵を切ったマーティン・パー(born 1952)
24/05/21先駆的なグラフ誌『ピクチャー・ポスト』を主導した写真家バート・ハーディ(1913-1995)
24/05/24グラフ誌『ライフ』に30年間投稿し続けたロシア生まれの写真家リナ・リーン(1914-1995)
24/05/27旅する写真家として20世紀後半の歴史に残る象徴的な作品を制作したルネ・ブリ(1933-2014)
24/05/29高速ストロボスコープ写真を開発したハロルド・ユージン・エジャートン(1903-1990)
24/06/03一般市民とそのささやかな瞬間を撮影したオランダの写真家ヘンク・ヨンカー(1912-2002)
24/06/10ラージフォーマット写真のデジタル処理で成功したアンドレアス・グルスキー(born 1955)
24/06/26レンズを通して親密な講釈と被写体の声を伝えてきた韓国出身のユンギ・キム(born 1962)
24/07/05演出されたものではなく現実的なファッション写真を開発したトニ・フリッセル(1907-1988)
24/07/07スウィンギング60年代のイメージ形成に貢献した写真家デイヴィッド・ベイリー(born 1938)
24/07/13著名人からから小さな町の人々まで撮影してきた写真家マイケル・オブライエン(born 1950)
24/07/14人々のドラマが宿る都市のカラー写真を制作したコンスタンティン・マノス(born 1934)
24/08/04写真家集団「マグナム・フォト」所属するただ一人の日本人メンバー久保田博二(born 1939)
24/08/08ロバート・F・ケネディの死を悼む人々を葬儀列車から捉えたポール・フスコ(1930–2020)
24/08/13クリスティーナ・ガルシア・ロデロが話したいのは時間も終わりもない出来事だ(born 1949)
24/08/30ドキュメンタリーと芸術の境界を歩んだカラー写真の先駆者エルンスト・ハース(1921–1986)
24/09/01国際的写真家集団マグナム・フォトの女性写真家スーザン・メイゼラスの視線(born 1948)
24/09/09アパルトヘイトの悪と日常的な社会への影響を記録したアーネスト・コール(1940–1990)
24/09/14宗教的または民俗的な儀式に写真撮影の情熱を注ぎ込んだラモン・マサッツ(1931-2024)
24/09/23アメリカで最も有名な無名の写真家と呼ばれたエヴリン・ホーファー(1922–2009)
24/09/25自身を「大義を求める反逆者」と表現した写真家マージョリー・コリンズ(1912-1985)
24/09/27北海道の小さな町にあった営業写真館を継がず写真芸術の道を歩んだ深瀬昌久(1934-2012)
24/10/01現代アメリカの風変わりで平凡なイメージに焦点を当てた写真家アレック・ソス(born 1969)
24/10/04微妙なテクスチャーの言語を備えた異次元の写真を追及したアーサー・トレス(born 1940)
24/10/06オーストリア系イギリス人のエディス・チューダー=ハートはソ連のスパイだった(1908-1973)
24/10/08映画の撮影監督でもあったドキュメンタリー写真家ヴォルフガング・スシツキー(1912–2016)
24/10/15芸術のレズビアン・サブカルチャーに深く関わった写真家ルース・ベルンハルト(1905–2006)
24/10/19ランド・アートを通じて作品を地球と共同制作するアンディ・ゴールドワージー (born 1956)
24/10/29公民権運動の活動に感銘し刑務所制度の悲惨を描写した写真家ダニー・ライアン (born 1942)
24/11/01人間の状態と現在の出来事を記録するストリート写真家ピータ―・ターンリー (born 1955)
24/11/04写真を通じて現代の社会的状況を改善することに専念したアーロン・シスキンド(1903-1991)
24/11/07自然と植物の成長にインスピレーションを受けた写真家カール・ブロスフェルト(1865-1932)
24/11/09ストリート写真で知られているリゼット・モデルは教える才能を持っていた(1901-1983)
24/11/11カラー写真が芸術として認知されるようになった功労者ウィリアム・エグルストン(born 1939)
24/11/13革命後のメキシコ復興の重要人物だった写真家ローラ・アルバレス・ブラボー(1903-1993)
24/11/15チリの歴史上最も重要な写真家であると考えられているセルヒオ・ララインの視座(1931-2012)
24/11/19イギリスのアンリ・カルティエ=ブレッソンと評されたジェーン・ボウン(1925-2014)
24/11/25カラー写真の先駆者ソール・ライターは戦後写真界の傑出した人物のひとりだった(1923–2013)
24/11/25サム・フォークがニューヨーク・タイムズに寄せた写真は鮮烈な感覚をもたらした(1901-1991)
24/11/29ゲイ解放運動の活動家だったトランスジェンダーの写真家ピーター・ヒュージャー(1934–1987)
24/12/01複数の芸術的才能に恵まれていた華麗なるファッション写真家セシル・ビートン(1904–1980)
24/12/05ライフ誌と空軍で活躍した女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
24/12/07愛と美を鮮明に捉えたロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し(1923–1999)
24/12/10保守的な政治体制と対立しながら自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ(1910–2003)
24/12/15自然環境における人間の姿を研究することに関心を寄せた写真家マイケル・ぺト(1908-1970)
24/12/20ベトナム戦争中にナパーム弾攻撃から逃げる子供たちを撮影したニック・ウット(born 1951)

子供の頃「明治は遠くなりにけり」という言葉を耳にした記憶がありますが、今まさに「20世紀は遠くなりにけり」の感があります。掲載した作品の大半がモノクロ写真で、カラー写真がわずかのなのは偶然ではないような気がします。20世紀のアートの世界ではモノクロ写真が主流だったからです。しかしデジタルカメラが主流になった21世紀、カラー写真の台頭に目覚ましいものがあります。ジョエル・マイヤーウィッツとサンディ・スコグランド、ジャン・ボードリヤール、 F・ディレク・ウヤル、マーティン・パー、コンスタンティン・マノス、久保田博二、ポール・フスコ、エルンスト・ハース、エヴリン・ホーファー、アレック・ソス、アンディ・ゴールドワージー、ウィリアム・エグルストン、ソール・ライタ、などのカラー作品を取り上げました。

Large-Format-Camera  Famous Photographers: Great photographs can elicit thoughts, feelings, and emotions.

2024年12月18日

脳裡に蘇った安倍昭恵元首相夫人と森友学園籠池夫妻のスリーショット写真

安倍昭恵首相夫人と籠池夫妻のスリーショット
安倍昭恵首相夫人と籠池夫妻のスリーショット(大阪府豊中市野田町)

ドナルド・トランプ米次期大統領とメラニア夫人との安倍昭恵元首相夫人のスリーショット写真を眺めていたら、学校法人森友学園の籠池泰典前理事長と妻の諄子氏とのスリーショット写真がオーバーラップし始めた。同学園の「瑞穂の國記念小學院」の建設予定地だった大阪府豊中市野田町の国有地だった。当時、安倍昭恵首相夫人は同小学校の名誉校長に就任することが予定されていた。鑑定評価額9億5600万円の国有地を、新設小学校用地として実質200万円で購入したと公表された。なぜそんなことが可能になったのか? 近畿財務局から有利な取り計らいを受けたことについて籠池氏は「安倍昭恵さんとの写真を近畿財務局の担当者に見せた」という。つまり森友事件の発端はこの写真だったのである。2014年(平成26年)4月25日、昭恵夫人は初めて森友学園で講演を行った。その後、学園が取得を目指していた問題の国有地を籠池夫妻の案内で訪れ、3人で一緒に写真におさまったのである。実はすでに公式サイト「瑞穂の國記念小學院」は存在しないのだが、事件が発覚してから名誉校長として紹介されていた安倍昭恵首相夫人の顔写真と挨拶文が削除された。よほどやましいことがあるのだろう。国会で追及された元首相は「引き受けていることで子どもたちや保護者に迷惑をかける。妻と話し、退くことになった」と説明すし。逆ギレ気味に森友学園側との「無関係」を強調したが、関係ないなんて誰も信じなかったのは言うまでもない。削除された昭恵夫人の挨拶文は以下の通りだった。

名誉校長安倍昭恵先生:籠池先生の教育に対する熱き想いに感銘を受け、このたび瑞穂の國記念小學院の名誉校長に就任させていただきました。瑞穂の國記念小學院は、優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます。そこで備わった「やる気」や「達成感」「プライド」や「勇気」が、子ども達の未来で大きく花開き、其々が日本のリーダーとして国際社会で活躍してくれることを期待しております。
瑞穂の國記念小學院
放置された瑞穂の國記念小學院工事現場

籠池泰典氏は2017年3月23日の参院予算委員会の証人喚問で、2015年9月に安倍昭恵首相夫人から「安倍晋三からです」と封筒に入った100万円の寄付を受け取ったと証言した。大阪府豊中市の国有地を評価額より大幅に安く購入した経緯については「政治的な関与はあったのだろうと認識している」と語った。この100万円について籠池氏の長男、佳茂氏は、籠池氏の側にいた著述家の菅野完氏による「捏造であり、報道テロです」とツイッターに書いている。籠池氏は以下のように話した。曰く「安倍昭恵さんから100万円を受け取ったのは事実。そのことは当時、森友学園の寄付簿にも記載している。しかしその寄付簿は検察の捜索で押収された。補助金詐欺とは何の関係もないはずだが、いまだに戻ってこない。菅野さんは、私が100万円を昭恵さんに返そうとした時、真ん中に白い紙を挟んで両端だけお札の偽札束を用意し、私に手渡した。私はそのことを知らずにテレビカメラの前で見せたから、みんなに偽物だと知れ渡った。菅野さんが100万円に関与したというのはそういうことだ」云々。国有地売却問題で、学園の籠池泰典前理事長が2017年6月21日夜、安倍昭恵首相夫人が開いた東京都千代田区の居酒屋「UZU」を訪れた。訪問後、記者団に対し「昭恵氏から寄付を受けた100万円を返却しに来たが、受け取ってもらえなかった」と話したという。以上「オールドメディア」の記事をまとめてみた。

旭日旗  日本人としての誇り・貢献・達成力の確保 国家有為の人材育成 | 瑞穂の國記念小學院 (PDF)

2024年12月17日

木の枝に巣箱をかけて春よ来い鳥よ来い

巣箱
庭の楓にかけた巣箱

釣り文学が好きだけど釣りはしない人を「アームチェア・アングラ―」と呼ぶ。左右両側に腕木(肘掛け)の付いた椅子にかけて釣り文学楽しむ「疑似釣り師」である。野外に出ずに部屋で野鳥図鑑や野鳥博物誌を楽しむ人はさしずめ「アームチェア・バードウオッチャー」と呼ぶべきかもしれない。実は私、この両方に当たるズボラ人間である。書籍を上げたらキリがないが、前者ならアイザック・ウォルトン著『完訳 釣魚大全』 (角川選書 72)エドワード・グレイ著『フライ・フィッシング』 (講談社学術文庫 2156) 井伏鱒二著『川釣り』(岩波文庫 緑 77-2)開高健著『私の釣魚大全 』(文春文庫 か 1-2) など、後者なら高野伸二著『フィ-ルドガイド日本の野鳥』(日本野鳥の会)W・H・ハドスン著『鳥たちをめぐる冒険』(講談社学術文庫 1021)ギルバート・ホワイト著『セルボーンの博物誌』(講談社学術文庫 1018)などがお好みである。

鳥たちをめぐる冒険/セルボーンの博物誌
鳥たちをめぐる冒険/セルボーンの博物誌

野鳥に関しては回数はは少ないけど、日本野鳥の会の「探鳥会」に参加したことがある。ところが昨今、加齢と共に足腰が弱り、山野を歩くのが困難になってしまった。そこで庭に果物などをぶら下げて鳥寄せをするようになった。春先は繍(めじろ)など小鳥がくるようになったが、鵯(ひよどり)に追い払われる始末。そこで思いついたのがガーデン・バードウオッチング用の巣箱の設置である。自作している時間がないので日本野鳥の会の通販ページから四十雀(しじゅうから)用をとり寄せた。野鳥の繁殖期は初夏だが、巣箱の存在と位置を知らせるために、秋や冬に空っぽの巣箱を設置し、春から初夏にかけて営巣してくれるのを待つためである。さてどうなるだろうか、春よ来い、鳥よ来い。下記リンク先は日本野鳥の会のショッピングぺージである。

日本野鳥の会  光学機器、図鑑、野鳥観察用アウトドアグッズ、野鳥をモチーフにした雑貨の販売 | 日本野鳥の会

2024年12月15日

自然環境における人間の姿を研究することに関心を寄せた写真家マイケル・ぺト

Foggy day in Dundee
Foggy day in Dundee, Scotland, 1959
Michael Peto

マイケル・ペトは、20世紀の国際的に認められたハンガリー系イギリス人フォトジャーナリスト。第二次世界大戦前にビジネスの関係でロンドンに移住し、戦後は海外で活動するハンガリー人アーティストの世代のひとりとなった。戦時中は英国労働省に勤務した。亡命ハンガリー人とともにハンガリーで戦後の社会主義政府を樹立するために尽力したが、ソ連に敗れた。戦後初期、彼はパリでハンガリーからの亡命者で既に名声を得ていたアーヴィン・マートンに師事し写真術を学んだ。ロンドンに戻ったペトはフォトジャーナリストとしてのキャリアを確立し、1948年の夏期ロンドンオリンピックを取材し、1949年には『オブザーバー』紙のスタッフとして働き始めた。1950年代から1960年代にかけて、バレエダンサーのマーゴ・フォンテイン女史やルドルフ・ヌレエフからビートルズまで、英国の文化生活を写真に収め、名声を得た。また、世界を旅し、世界中の人々や地域の写真を数多く撮影した。ダンディー大学のアーカイブサービスには、何千もの写真、ネガ、スライド、出版物、論文を含むマイケル・ペト・コレクションが所蔵されている。ペトは1908年にオーストリア=ハンガリー帝国のバタという小さな町でて生まれた。

London Olympics
Medal ceremony, London Olympics, 1948

彼の父親は雑貨店を経営しており、若いペトは中等教育を終えるとそこで働き始めた。ハンガリーの芸術と工芸に興味を持っていた彼は自分のビジネスを展開し、西ヨーロッパ諸国に商品を輸出した。1930年代にブダペストに移り、そこでもハンガリーの工芸品の輸出を営む家族の仕事を続けた。これにより、彼は第二次世界大戦前にイギリスに渡ることができた。戦時中、彼はロンドンに住み、労働省に勤務した。彼は連合国の戦争努力を強く支持した。自由時間には、ペトは他のハンガリー人とともに、自国の戦後の将来について計画を立てた。彼は短命に終わったハンガリー民主共和国の大統領であったミハイ・カーロワイ伯爵の個人秘書として働いた。新民主ハンガリーの指導者として、彼は次期戦後政府を樹立しようとしていた。彼らは戦争終結後のハンガリーの解放後に社会主義ハンガリーを樹立することを希望していたが、戦後のソ連による支配は予想していなかった。戦時中ペトは紛争が終わったら教師と生徒の国際交流学校を設立することも提唱した。

Pat Llewelyn Davies
Pat Llewelyn Davies elections campaign, 1950s

これは彼が大人と子どもの教育に強い関心を持っていたことを反映している。ペトは進歩的な教育制度を支持し、A・S・ニールの強力な支持者で、1944年に彼のサマーヒルスクールに関わるようになった。戦後初期、ペトは写真に興味を持ち、パリに行き、そこでハンガリーの芸術界と交流した。有名な写真家のエルヴィン・マートンに技術を学び、マートンはペトに写真を続けるよう励まし、友人となった。芸術界の他の人たちも同様であった。ペトはすぐにロンドンに戻り、フォトジャーナリストとしての仕事を得た。友人の芸術家ヨーゼフ・ヘルマンもペトの新しい冒険を支援した。1948年、オリンピックロンドン大会の選手たちの注目すべき写真を撮影した。1949年までに、ペトは新聞『オブザーバー』紙にカメラマンとして入社した。彼の作品の多くは、その後のヨーロッパ、中東、インドを含むアジア諸国への旅を反映している。

London library
Studying in a London library, ca 1960

イングランドのロンドン、リヴァプール、スコットランドのダンディー(彼のプリントとネガのアーカイブコレクションが保管されている)などの都市で彼の作品の大規模な展覧会が開催された。ペトの主な関心は、自然環境における人間の姿を研究することにあった。彼は写真芸術のこの分野における最高の巨匠のひとりであると考える者もいる。政治、芸術、芸能界の多くの著名人のポートレートやスナップ写真を撮影した。1950年代から1960年代にかけて、ペトはロンドンの芸術界の多くの人物を撮影した。マーゴ・フォンテイン女史と、ロイヤル・バレエ団で彼女と組んだ若いロシア難民ダンサー、ルドルフ・ヌレエフのバレエ・パートナーの写真は、国際的に知られていた。 1962年、彼はグラナダ・テレビ制作の学校向けテレビシリーズ "Art in the Making"(芸術の創造)の第5話に出演した。このエピソードが残っているかどうかは、今のところは不明である。1965年にビートルズの映画『ヘルプ!』の制作中のスチール写真を撮るよう依頼された。

Swan Lake
Swan Lake, Eric Bruhn & Nadia Nerina, 1962

2002年にダンディー大学アーカイブサービスが所蔵するマイケル・ペト・コレクションのデジタル化の際に、映画の制作中に撮影されたビートルズの未公開写真500枚が発見されたと報告されている。彼の写真は率直で表現力豊かな品質で知られるようになった。ペトは、ウィンストン・チャーチル、クレメント・アトリー、ハロルド・ウィルソン、エドワード・ヒースなど、1950年代から1960年代の著名なイギリスの政治家の写真も撮影した。また、イスラエルの首相ゴルダ・メイアやソ連の第一書記ニキータ・フルシチョフなど、世界の指導者の写真も撮影した。また子どもの権利の保護を目標とした非政府組織(NGO)「セーブ・ザ・チルドレン」とともに中東を巡った。マイケル・ペトは1970年のクリスマスの日に死去、62歳だった。マイケル・ペト写真コレクションは現在、下記リンク先のスコットランドのダンディー大学のアーカイブサービスによって保管・管理されており、著作権は同大学が保有している。

university_bk  Michael Peto (1908-1970) | Biography | Photographic collection | University of Dundee

2024年12月14日

ソーシャルメディアの弊害(2)兵庫知事選への疑問符

立花孝志
悪の本丸は立花孝志

いささか旧聞に属するが用語兵庫県議会の全会一致で不信任決議が可決され失職した斎藤元彦が再選される結果となった。これを受けて「オールドメディアの衰退」という言葉が巷に溢れ出したことは記憶に新しい。この選挙に影響を与えたのが候補者として選挙戦に参戦乱入し「NHKから国民を守る党」党首の立花孝志だった。立花孝志が斎藤元彦に与力加勢するべく、自殺した元局長の「告発の真相」なるものを「暴露」し、この問題で斎藤元彦に非がないとする主張を喧伝した。百条委員会を「利権目的のクーデターの陰謀」として攻撃、さらにパワハラやたかりの告発もマスコミの捏造だと吹聴、その演説がソーシャルメディアで拡散され、兵庫県有権者が共鳴して集団ヒステリー状態となり、斎藤元彦勝利の結果に至ったとされている。ネットでは、左派を中心にヒトラーとゲッベルスの手口の再現だと戦慄が走った。雑誌やテレビなどのまだ余裕のある媒体を「オールドメディア」として非難する姿は滑稽でしかない。

Social Media

デーブ・スペクターはラジオ番組でソーシャルメディアを嫌う理由のひとつとして「勘違いしてる。インフルエンサーとか。組織として成り立ってないし、バックに何もない」ことを挙げ「政治下で、石丸さんとか斎藤さんは確かに SNS は大きいんですけど、SNS がメディアが取り上げたことを繰り返してやってるだけで、つまみ食いしてやってることが多い。独自でなにも取材してない」と喝破した。兵庫県の公用 PC のフォルダのタイムスタンプが片山安孝副知事が公用PCを押収したあとの日付になっていることから、押収したあとに UBS からコピーされたものであることに疑う余地はない。県民局長は立花や片山らによって「死人に口なし」にされた。しかし立花孝志はネットで「嘘も百回言えば真実になる」を地で行く猛攻勢をかけており、有権者の比較多数はそれを受け入れて斎藤元彦を知事に再選させてしまったのである。アメリカではソーシャルメディアに選挙誤報が流れたが、共和党がその対策をやめるよう圧力をかけたようだ。以下のリンク先は CNN によるその詳報である。

CNN News  How Republicans pushed social media companies to stop fighting election misinformation

2024年12月12日

ソーシャルメディアの弊害(1)精神的な弊害を考える

Social Media
青少年の心を蝕むソーシャルメディア(画像作者不詳)

ソーシャルメディアは長年にわたって拡大し、人々を結びつけるデジタルフォーラムから、若い世代のニュースソースへと進化してきた。ソーシャルメディアの登場によって、私たちが互いに交流する方法、物事を学ぶ方法、そして世界を認識する方法が変化したのである。2000年代半ばに Facebook、YouTube、Twitter が登場し、2010年代半ばに Instagram、Snapchat、 TikTok が登場した。ソーシャルメディアは便利なツールである一方、精神衛生上の問題を引き起こし、集中力を低下させ、誤情報の発信源となっている。最近では兵庫県知事選で愚民を扇動、集団ヒステリーが勃発したことが記憶に新しい。政治の領域でさえもその影響に屈していることがわかる。しかしその暗い側面にもかかわらず、ユーザーに何らかの良い影響を与えてきたことは否定できない。「ソーシャルメディアの最大の利点は、人々と連絡を取り合うことができること」であると同時に「そうでなければ出会うことがなかったかもしれない人々と出会うことができる」と言える。ヒントはその名前にあると言えそうだ。ソーシャルメディアは、何よりもまず、家族、友人、見知らぬ人々の間で社会的交流を構築し、維持するためのものだった。新しいプラットフォームが開発されるにつれ、人々がそれを利用する方法も変化した。この変化は「ほとんど目に見えないが、大きな影響があった」のである。「既存のつながりを控えめに利用することを促進する代わりに、つながりを潜在的な放送チャンネルに変えた」ため一気に「何十億もの人々が自分を有名人、評論家、流行の発信者とみなすようになった」のである。

social media

ソーシャルメディアの使用をめぐる議論では、特に子供や青少年のメンタルヘルスへの影響が長らく議論の中心となってきた。多くの研究で、幼少期のソーシャルメディアの多用と自尊心の低さ、身体醜形障害、精神的ストレスの増大との間に関連性があることがわかっているという。オーストラリア連邦議会は現地時間の2024年11月27日、ソーシャルメディアの利用開始年齢を16歳以上とする法案を可決した。対象となったプラットフォームは TikTok、Facebook、Instagram、X、Snapchat などで YouTube は健康や教育関連のサービスであるとして除外されている。米国では精神衛生へのリスクから、公衆衛生局長官のヴィヴェック・H・ムルシーがニューヨーク・タイムズ紙の論説で「ソーシャルメディアのプラットフォームに公衆衛生局長官の警告ラベルを貼るように」と求めた。ムルシーは、Facebook、Instagram、TikTok、X などのプラットフォームは「青少年に重大な精神衛生上の害」をもたらす可能性があると述べ、だからこそ議会はこれらのプラットフォームに警告を発するよう義務付けて、アルゴリズムによるフィードによって増幅される「オンライン上の嫌がらせ、虐待、搾取」から米国の若者を守るべきだと主張した。TikTok の成功に刺激されて短編コンテンツの人気が高まったことにより、子供や若者の集中力の持続時間に関する懸念も生じている。

social media

中毒性があるいわゆる「TikTok 脳」現象は、ドーパミンを急上昇させる短編動画に絶えずさらされることで発生するもので、YouTube の短編動画を含む他のプラットフォームでも徐々に標準となりつつある。フェイクニュース、別名偽情報は何世紀にもわたって何らかの形で存在してきた。しかしソーシャルメディアの台頭により、フェイクニュースは急速に広まった。ソーシャルメディアの「エコーチェンバー」とオンラインの「トロール」の影響は、世界中の社会の極端な二極化や、私たちが生きる時代を特徴づけるようになったポピュリスト政治家の台頭に見ることができる。これに加えて、プライバシーとセキュリティに対する懸念が高まっている。2018年のケンブリッジ・アナリティカのスキャンダルは Facebook などのプラットフォームのデータが第三者によって政治的利益のために操作されていたことを明らかにした。最近では TikTok と中国政府とのつながりを懸念する声が高まり、英国も米国に続き、大臣や公務員の携帯電話への TikTok のインストールを禁止した。西側諸国の安全保障当局は「これにより膨大な量のデータが世界中に漏洩する恐れがある」と警告している。下記リンク先はカリフォルニア州グレンデールにあるアンダーソン・W・クラーク・マグネット高校のオンライン学生新聞に掲載された「スクリーンの暗黒面:社会におけるインフルエンサーの悪影響」(英文)である。

Social Media The dark side of the screen: negative impact of influencers in society | Clark Chronicle

2024年12月10日

ウィリアム・ヘンリ―・ハドスン『ラ・プラタの博物学者』に見る野生動物名の漢字表記

The Naturalist in La Plata
William Henry Hudson

ウィリアム・ヘンリ―・ハドスン『ラ・プラタの博物学者』(講談社/長沢純夫・大曽根静香訳)はなにしろ500ページの分厚い文庫本。半ば放置状態、途中で何度か挫折しそうになったが、一念発起やっと読み終えた。人間に対して臆病なピューマ、スカンクに太刀打ちできない犬の話など、パンパの興味深いエピソードが満載されている。表向きは文学作品だが中身は博物誌、学術書である。著者のハドソン(1841-1922)はアルゼンチン出身の作家、博物学者、鳥類学者。英国王立鳥類保護協会の創立メンバーのひとりであり、日本では小説『緑の館』(1904年)そして映画化もされた『はるかな国とおい昔』(1918年)で知られる。 私は彼の『鳥と人間』(1901年)『鳥たちをめぐる冒険』(1913年)など、野鳥の本が好きだ。少年時代は地元の動植物を研究し、当時無法地帯であった辺境で自然と人間のドラマを観察し、鳥類学の研究を "Proceedings of the Royal Zoological Society"(英国王立動物学会予稿集)に発表した。1874年に英国に移住し、ベイズウォーターのセント・ルークス・ロードに居を構えた。そしてその後『ハンプシャーの日々』(1903年)『イングランドで進行中』(1909年)『羊飼いの生涯』(1910年)など、英国の田園風景を題材にした著書で名声を得た。ハドソンはラマルク進化論の提唱者でダーウィニズムを批判し、生命論を擁護した。ハドソンの『ラ・プラタの博物学者』は1892年に上梓された。パンパスとよばれる大草原が広がる南米のラ・プラタ地域は、ハドスンが青少年期を過ごした土地である。その地をこよなく愛し、自然や野生生物の観察に明け暮れた彼の熱情は、やがて当地の大自然を美しく歌い上げた本書となって結実し、博物学者としてのハドスンの名声を不動のものとした。原典にちりばめられた博物画家スミットによる味わい深い挿画を完全収録し、待望の新訳で蘇った博物誌の珠玉の名品である。前置きが長くなってしまった。本邦訳書は以下のように野生動物名を漢字表記をしている。

The naturalist in La Plata
原著初版本(1892年)米国生物多様性遺産図書館蔵

蟇蛙(ひきがえる)川獺(かわうそ)箆鷺(へらさぎ)雲雀(ひばり)鷸(しぎ)駝鳥(だちょう)蝗虫(ばった)蟋蟀(こおろぎ)蜥蜴(とかげ)椋鳥(むくどり)蚯蚓(みみず)沢鵟(ちゅうひ)蝙蝠(こうもり)鼬(いたち)蠍(さそり)蜻蛉(とんぼ)鷦鷯(みそさざい)鶸(ひわ)蚋(ぶゆ)鶲(ひたき)田鳧(たげり)水鶏(くいな)鸚哥(いんこ)竈鳥(かまどどり)鬼木走(おにきばしり)翡翠(かわせみ)啄木鳥(きつつき)大杓鷸(だいしゃくしぎ)鶺鴒(せきれい)鶫(つぐみ)螽斯(きりぎりす)戴勝(やつがしら)香雨鳥(こううちょう)真似師鶫(まねしつぐみ)歩行虫(おさむし)吼猿(ほえざる)左官蜂(かべぬりばち)蜚蠊(ごきぶり)大蚊(かがんぼ)雲雀(ひばり)椋鳥(むくどり)

幸いなことに(?)本書ではルビを振ってあるが、大部分が難読漢字と言っても差支えがないだろう。かつて私が勤めていた新聞社では、動植物名をカタカナで書くことになっていた。例えば赤啄木鳥(あかげら)はキツツキ目キツツキ科アカゲラ属アカゲラといった具合である。ツマグロヒョウモンはタテハチョウ科ヒョウモンチョウ族に属するが、その形態が和名の「褄黒豹紋」のほうがイメージしやすい。昆虫の和名が漢字で表記されることが多いのは、歴史的な背景と、漢字が持つ特徴が大きく影響されているようだ。人々が自然と深く関わっていた時代から、その特徴や生態に基づいて名付けられてきた。漢字はその特徴を簡潔に表すことができるため、昆虫の命名に用いられてきた。ハドソンの『ラ・プラタの博物学者』の訳者である長澤純夫博士(1919-?)は元島根大学農学部教授で、応用昆虫学が専門だった。その経歴からから漢字表記に拘ったのかもしれない。下記リンク先はブリタニカ国際大百科事典によるハドソンのバイオグラフィ(英文)である。

britannica  William H. Hudson (1841-1922) | British author, naturalist, and ornithologist | Britannica

保守的な政治体制と対立しながら自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ

Aktion
Von den Dolle Mina durchgeführte Aktion, 1976.
Éva Besnyő

ハンガリー系オランダ人の写真家であるエヴァ・ペニョ (1910–2003) は、才能ある女性がいかにして自由を手に入れ、慣習にとらわれず自立した生活を送ることができるかを示すモデルとなっている。ブダペストのカッシャーク美術館で開催中オンライン展覧会では、ペニョのものの見方が紹介されている。また、ハンガリーでの初期の自画像や社会的な写真から、ベルリンでの審美的な形成期、そしてオランダでの成功と権威ある依頼まで、彼女の人生の転機や意識的な決定が強調されている。ブダペストの裕福な家庭に生まれたベニョは、リベラルなユダヤ系ハンガリー人の家庭で啓蒙的な教育を受けたにもかかわらず、ふたりの姉妹のように高等教育を受けるようにという父親の願いに反対した。フェミニズムや女性運動の弁護士であった父親のベラ・ブルメングランド(1877-1944)は、ハンガリーで蔓延していた反ユダヤ主義を避けるために、姓をベニョと変えた。父親から贈られた新しいローライフレックスを、その後40年間にわたって使い続けることになる。エヴァは、保守的な政治体制と対立しながら、先進的な写真家ヨゼフ・ペーチュ(1889–1956)のスタジオに入る。

Sommerhaus in Groet
Sommerhaus in Groet, Nordholland, 1934.

ペーチュのスタジオは、美術や写真を学ぶ学生たちや、ジョージ・ケペッシュ(1906–2001)やロバート・キャパ(1913–1954)など、1920年代から1930年代にかけての未来のビジュアル・アーティストたちが集う重要な場所となっていた。ブダペストの美術工芸博物館で開催された「本と広告」展にペーチュ他の弟子たちと一緒に参加、息苦しいファシズムに支配されたハンガリーを脱出し、1930年9月、ベルリンにたどり着く。同郷のジョージ・ケペッシュ(1906–2001)やラースロー・モホリ=ナギ(1895–1946)に出会い、モダニズム芸術や実験的な写真に触れた。ルネ・アーレ(1893-1976)の広告スタジオに職を得て、撮影アシスタントを務めた。ベルリンでの最初の数ヶ月間、ベニョはケペッシュや他の若者たちと彼のアパートで積極的に行動を共にし、政治的に重要なアートや時事問題について活発な議論を展開した。この関係やサークルから、ロシア構成主義やモホリ=ナギの「新構想」の思想を学び、自分の写真に取り入れていったのである。

Violette Cornelius, Keizersgracht, Amsterdam
Violette Cornelius, Keizersgracht, Amsterdam, 1938.

初めてのベルリンでの夏を過ごした後、1931年にはナチョードシュトラーセに暗室付きのスタジオを借りて独立した。ナチズムと反ユダヤ主義の台頭によって中断され、彼女はドイツを離れることになった。映画監督のジョン・フェルノ(1913–1987)とともにオランダに移住し、デ・ステイル運動のメンバーを含む芸術家とその仲間たちを写真で記録する大規模な仕事を始めた。1933年にアムステルダムのローキンにある有名なクンスタンデル・ヴァン・リエで初の個展を開催した。彼女の現代的な視点により、人気の高い写真家となる。家族や友人を撮影した個人的な作品だけでなく、社会的なテーマを撮影した象徴的な写真も多く残している。1930年代の終わりには、仕事が少なくなり、収入が減る一方で、彼女の作品はますます政治的なものになっていった。しかし建築家から写真の依頼を受け、機能主義の考えを伝えるために再びニュー・ビジョンを取り入れたのである。1941年5月の「ジャーナリズム令」により、ユダヤ人であることを理由に自分の名前で出版することができなくなったエヴァは、ウィム・ブリュッセの名前で定期刊行物に写真を掲載するようになった。

Dolle Mina
Pillenaktion, Dolle Mina, Amsterdam, 1970.

戦後、ヒューマニズムの世界観に惹かれ、ネオリアリズムのスタイルを確立する。この時期の彼女作品はフェミニズムが強調されていた。ニューヨーク近代美術館のディレクターだったエドワード・スタイケン(1879–1973)が彼が企画した展覧会「ファミリー・オブ・マン」(1955年)に参加した。1970年代には、オランダのマルクス主義フェミニズム運動「ドール・ミーナ」に参加、活動家として、お祭りのような雰囲気の中でユーモアと挑発を織り交ぜた、ストリートパフォーマンスをしている。彼女は自由と自立を実現する手段としての写真の可能性を早くから見出していた。1920年から1940年の間に写真を始めた世代の女性のひとりとして、プロの写真家としての地位を確立することで、経済的な自立を果たし、自分の生き方を選択し、当時写真が切り開いていたさまざまな領域を探求することができたのである。ハンガリーでフォトジャーナリズム運動に関与、失業者や恵まれない子供たちなどの社会問題を探求した。第二の故郷であるオランダでは、建築写真や、1970年代の抗議行動や街頭デモの写真記録である「ドール・ミーナ」で名を馳せたのだった。

museum  Eva Besnyö (1910-2003) | Biography |Artworks | Das Verborgene Museum | Berlin