2021年9月21日

自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ

Violette Cornelius, Keizersgracht, Amsterdam
Violette Cornelius, Keizersgracht, Amsterdam, 1938.

ハンガリー系オランダ人の写真家であるエヴァ・ペニョ (1910–2003) は、才能ある女性がいかにして自由を手に入れ、慣習にとらわれず自立した生活を送ることができるかを示すモデルとなっている。ブダペストのカッシャーク美術館で開催中オンライン展覧会では、ペニョのものの見方が紹介されている。また、ハンガリーでの初期の自画像や社会的な写真から、ベルリンでの審美的な形成期、そしてオランダでの成功と権威ある依頼まで、彼女の人生の転機や意識的な決定が強調されている。ブダペストの裕福な家庭に生まれたベニョは、リベラルなユダヤ系ハンガリー人の家庭で啓蒙的な教育を受けたにもかかわらず、ふたりの姉妹のように高等教育を受けるようにという父親の願いに反対した。フェミニズムや女性運動の弁護士であった父親のベラ・ブルメングランド(1877-1944)は、ハンガリーで蔓延していた反ユダヤ主義を避けるために、姓をベニョと変えた。父親から贈られた新しいローライフレックスを、その後40年間にわたって使い続けることになる。エヴァは、保守的な政治体制と対立しながら、先進的な写真家ヨゼフ・ペーチュ(1889–1956)のスタジオに入る。

Berlin, 1930
Starnberger Straße, Berlin, 1930.

ペーチュのスタジオは、美術や写真を学ぶ学生たちや、ジョージ・ケペッシュ(1906–2001)やロバート・キャパ(1913–1954)など、1920年代から1930年代にかけての未来のビジュアル・アーティストたちが集う重要な場所となっていた。ブダペストの美術工芸博物館で開催された「本と広告」展にペーチュ他の弟子たちと一緒に参加、息苦しいファシズムに支配されたハンガリーを脱出し、1930年9月、ベルリンにたどり着く。同郷のジョージ・ケペッシュ(1906–2001)やラースロー・モホリ=ナギ(1895–1946)に出会い、モダニズム芸術や実験的な写真に触れた。ルネ・アーレ(1893-1976)の広告スタジオに職を得て、撮影アシスタントを務めた。ベルリンでの最初の数ヶ月間、ベニョはケペッシュや他の若者たちと彼のアパートで積極的に行動を共にし、政治的に重要なアートや時事問題について活発な議論を展開した。この関係やサークルから、ロシア構成主義やモホリ=ナギの「新構想」の思想を学び、自分の写真に取り入れていったのである。

Self-Portrait
Selbstporträt, Berlin, 1932.

初めてのベルリンでの夏を過ごした後、1931年にはナチョードシュトラーセに暗室付きのスタジオを借りて独立した。ナチズムと反ユダヤ主義の台頭によって中断され、彼女はドイツを離れることになった。映画監督のジョン・フェルノ(1913–1987)とともにオランダに移住し、デ・ステイル運動のメンバーを含む芸術家とその仲間たちを写真で記録する大規模な仕事を始めた。1933年にアムステルダムのローキンにある有名なクンスタンデル・ヴァン・リエで初の個展を開催した。彼女の現代的な視点により、人気の高い写真家となる。家族や友人を撮影した個人的な作品だけでなく、社会的なテーマを撮影した象徴的な写真も多く残している。1930年代の終わりには、仕事が少なくなり、収入が減る一方で、彼女の作品はますます政治的なものになっていった。しかし建築家から写真の依頼を受け、機能主義の考えを伝えるために再びニュー・ビジョンを取り入れたのである。1941年5月の「ジャーナリズム令」により、ユダヤ人であることを理由に自分の名前で出版することができなくなったエヴァは、ウィム・ブリュッセの名前で定期刊行物に写真を掲載するようになった。

Dolle-Mina
Dolle Mina op de weg, Amsterdam, 1972.

戦後、ヒューマニズムの世界観に惹かれ、ネオリアリズムのスタイルを確立する。この時期の彼女作品はフェミニズムが強調されていた。ニューヨーク近代美術館のディレクターだったエドワード・スタイケン(1879–1973)が彼が企画した展覧会「ファミリー・オブ・マン」(1955年)に参加した。1970年代には、オランダのマルクス主義フェミニズム運動「ドール・ミーナ」に参加、活動家として、お祭りのような雰囲気の中でユーモアと挑発を織り交ぜた、ストリートパフォーマンスをしている。彼女は自由と自立を実現する手段としての写真の可能性を早くから見出していた。1920年から1940年の間に写真を始めた世代の女性のひとりとして、プロの写真家としての地位を確立することで、経済的な自立を果たし、自分の生き方を選択し、当時写真が切り開いていたさまざまな領域を探求することができたのである。ハンガリーでフォトジャーナリズム運動に関与、失業者や恵まれない子供たちなどの社会問題を探求した。第二の故郷であるオランダでは、建築写真や、1970年代の抗議行動や街頭デモの写真記録である「ドール・ミーナ」で名を馳せたのだった。

museum   The Photographs of Éva Besnyő Virtual Exhibition | Budapest's Kassák Museum

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