Robert Frank (1924–2019) |
1924年11月9日、スイスのチューリッヒに生まれたロバート・フランクは、中流階級の快適な環境で育った。高校卒業後、1941年に同じアパートに住んでいた写真家兼レタッチャーのもとで見習いを始めた。翌年には、チューリッヒの商業写真家ミヒャエル・ウォルゲンジンガー(1913-1990)のもとで働き始め、彼にスイスの雑誌、新聞、書籍の出版業界を紹介される。1947年、フランクはスイスを離れ、アメリカに移住した。ニューヨークに到着すると、すぐにファッション雑誌『ハーパース・バザー』の伝説的な敏腕アートディレクターだったアレクセイ・ブロドヴィッチ(1898–1971)に雇われた。1949年から1953年にかけて、フランクはニューヨークとヨーロッパを行き来しながら、気ままに過ごしていた。パリでは椅子と花、ロンドンでは銀行員、ウェールズでは鉱山労働者など、それぞれの土地で、その土地の人々や文化を理解するためのひとつかふたつのテーマに焦点を当てていた。また、より大きなインパクトを与えるために『ライフ』などの雑誌に掲載されることを前提とした連続写真の制作にも取り組んでいた。
しかし「カメラを持った詩人」と称された、ニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクターだったエドワード・スタイケン(1879–1973)の擁護を獲得したものの、彼の写真群が出版されることはほとんどなかったのである。1950年に結婚したアーティストでダンサーのメアリー・ロックスペイザー(1933-)のために制作した72枚の写真と文章からなるアルバム『メアリーの本』(1949年)や、これまでで最も完成度の高いシーケンスである『黒白と物』(1952年)などなどである。1953年にニューヨークに戻ったフランクは、自分の写真がもっと広く公開されていないことに不満を抱いていた。1954年の秋、彼はジョン・サイモン・グッゲンハイム記念財団にフェローシップを申請した。「アメリカ中を自由に撮影し、アメリカのものを広く大量に記録する」というのが彼の申請書に書かれている。写真家のウォーカー・エヴァンス(1903–1975)をはじめ、エドワード・スタイケンやアレクセイ・ブロドヴィッチ(1898–1971)からの推薦状を得た。
1955年春にフェローシップを獲得し『アメリカ人』を構成する写真の制作を開始する。中古のフォードを購入したフランクは、その年の夏に数回の小旅行をした後、その年の秋から9ヶ月間、1万マイルに及ぶアメリカ横断の旅に出発したのである。決まった旅程はなく、時にはひとりで、時には妻のメアリー(1933-)とふたりの子供、パブロとアンドレアと一緒に旅をした。地元のウールワース、コーヒーショップ、墓地、公園、銀行、ホテル、郵便局、そして鉄道やバスの駅など、何気ない場所を訪れることで、人々の生活の様子を感じ取ろうとした。これはビートジェネレーションを代表する作家、ジャック・ケルアック(1922–1969)の序文付きで1958年にフランスで、1959年にアメリカで出版された。第二次世界大戦後の東西冷戦の真っ只中に発表されたこの『アメリカ人』は、当初は反米的とさえ言われた。1960年代に入ると、フランクが取り上げた多くの問題が人々の意識の中に現れ、彼は先見の明があり、革命的であると評価されるようになった。
しかしその評価の高まりは、決してフランクの肩に安住するものではなかった。作品を生み出したのと同じ落ち着きのなさと、危険を顧みない精神は、1950年代後半に写真を捨てて映画制作に乗り出すことになる。画家のアルフレッド・レスリー(1927-)との共同制作で、アレン・ギンズバーグ(1926–1997)グレゴリー・コルソ(1930-2001)ピーター・オルロフスキー(1933–2010)が出演し、ジャック・ケルアックがナレーションを担当した『プル・マイ・デイジー』(1959年)や『ミー・アンド・マイ・ブラザー』(1968年)などの作品で、前衛映画の第一人者としての地位を確立した。1969年、フランクとメアリーは別居。1971年、彫刻家のジューン・リーフと再婚し、カナダのノバスコシア州ケープ・ブレトン島にあるマブーという集落に引っ越す。娘のアンドレアを飛行機事故で、息子のパブロを病気で失う。1995年、娘を追悼してアンドレア・フランク財団を設立した。 フランクは2019年9月9日、自宅で他界、94歳だった。
Robert Frank | Biography and Archived Items | The International Center of Photography
0 件のコメント:
コメントを投稿