Robert Doisneau |
ロベール・ドアノーは1912年4月14日、パリの南部、正確にはバルドマルヌのジャンティイで生まれた。わずか8歳で母を亡くした幼いロバートは、心を閉ざしてしまう。祖父のルイ・ドアノーに助けられ、イヴリーヌのレイズー村に何度も訪れた。彼は家族と一緒に住んでいたこともあり、この地には特別な思い入れがあったようだ。1929年までエスティエンヌ校で彫刻家石版画家としての訓練を受けた。その後パリの書体デザイナー工房で働いていた。そこで写真家のルシアン・ショファール(1906-1982) と出会い、写真に興味を持つ。1931年以降は、アンドレ・ヴィニョー(1892-1968)のアシスタントを務め、その教えに従うようになった。ドワノーの最初の写真は、作為のない現実の表現を提唱した「新客観主義」に触発されたものだった。1934年頃、幼なじみのピエレット・ショーメゾン(1915-1993)と結婚し、彼女が亡くなるまで人生を共にする。自動車メーカーのルノーにも採用されたが、1939年に出社率の低さを理由に解雇されてしまう。1936年に友人のピエール・ブレッツが創刊した雑誌『ル・ポワン』とのコラボレーションを始める。
第二次世界大戦中、ドワノーはフリーランスの写真家として活動を続け、書体デザインの才能を生かして、ドイツ占領下のフランスのレジスタンスのために偽の書類を作った。戦争が終わると、パリの生活、郊外、子供、学校など、さまざまなテーマの写真レポートを増やしていった。1946年に設立された写真芸術の振興を目的とした団体「グループ XV」には、テレーズ・ル・プラ(1895-1966)ウィリー・ロニ(1910–2009)ジャン・フィリップ・シャルボニエ(1921–2004)などの著名な写真家が参加していた。彼は生涯で約450,000 枚の写真を撮影し、そのうちのいくつかは『ル・ポワン』や『ヴォーグ』などの有名雑誌に掲載された。 主な代表作には「溶けた車」(1944年)「市役所前のキス」(1950年)「学校案内」(1956年)などがある。彼は世界的に有名になり、アメリカの巨大雑誌『ライフ』などの海外の雑誌が作品を購入した。
その『ライフ』の依頼で「パリの恋人たち」というテーマに取り組み、制作したのが「市役所前のキス」だった。自分たちがキスのカップルだと勘違いしたふたりに「プライバシーを侵害された」と訴訟を起こされる。ドアノーは「彼らの夢を壊したくない」と思い、何も言わなかったそうである。実際にキスをしていたのは、フランソワーズ・デルバールとジャック・カルトーだった。最初は写真を撮らなかったが、彼らに近づいて「もう一度キスをしてくれないか」と頼んだという。自分たちがキスのカップルだと勘違いしたふたりに「プライバシーを侵害された」と訴訟を起こされる。ドアノーは「彼らの夢を壊したくない」と思い、何も言わなかったそうである。娘のアネットは「裁判で勝ったけど、父はとてもショックを受けていた。父は嘘の世界を知ってしまい、傷ついてしまったのです」と述懐している。キャンディッド写真を得意にしていたが、演出写真であったことに、生涯わだかまりを持ち続けていたようだ。
ロベール・ドアノーは自分の国に愛着を持っていたが、海外にも多く出かけている。彼は、ハンガリー生まれのアンドレ・ケルテス(1894–1985)など当時の偉大な写真家たちと出会い、フランス以外の国、主にアメリカやイギリスの風景を撮影した。1960年にはシカゴの現代アート美術館で展覧会を開催した。1947年にはコダック賞、1956年にはニエプス賞、1983年にはフランス国立写真グランプリと、数々の賞を受賞している。1994年4月1日、ドワノーはおそらく老衰で亡くなった。数ヶ月前に亡くなった、アルツハイマー病とパーキンソン病を患っていた妻のピエレットと合流。アネットとフランシーヌのふたりの娘は、父のすべての写真ネガ 450,000 点を整理してデジタルアーカイブし、作品の継続性を確保するための「アトリエ・ロバート・ドアノー」の創設をした。アネットによると、幼少期に最も影響を受け「世界で最も美しい地方」と考えていた北フランスのイヴリーヌ県レズー村に妻と一緒に埋葬されているという。
Une archive de l'œuvre du père réalisée par ses deux filles | Atelier Robert Doisneau
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