Imogen Cunningham |
イモージン・カニンガムは、1883年4月12日にオレゴン州ポートランドで生まれた。父のアイザック・バーンス・カニンガムは、シェイクスピアの戯曲『シンベリン』のヒロインにちなんでイモージンと名付けた。父は学校に入る前に本を読むことを勧め、毎年夏には美術のレッスン料を支払っていた。その後、ワシントン州シアトルで育った彼女は、シアトルのワシントン大学に通い、教授から「写真家になるなら科学的素養を身につけたほうがいい」とアドバイスを受け、化学を専攻した。学費を稼ぐために、彼女は化学の教授の秘書として働き、植物学者のためにスライドを作っていた。カニンガムがワシントン大学で化学を専攻して卒業したときの論文は『写真の近代的プロセス』というタイトルだった。卒業後、シアトルのエドワード・S・カーティス(1868–1952)のスタジオで働きプラチナプリントの技術を学んだ。1909年、大学の同好会である "Pi Beta Phi" から奨学金を得て、写真化学を学ぶためドレスデンに渡った。ドイツでは「茶色い色調のためのプラチナペーパーの自作について」という論文を書いたが、プラチナプリントには市販の印画紙より、便利で扱いやすい手塗りの紙を使うことを勧めている。ドイツから帰国したカニンガムは、シアトルに営業写真館を開設する。シアトルで頻繁に展覧会を開いたが、ソフトフォーカスで撮影することが多かった。1914年、ブルックリン芸術科学研究所で初の個展を開催した。
エッチング職人だったロイ・パートリッジ(1888–1984)と結婚、息子のグリフィドが誕生。スタジオを閉鎖し、カリフォルニアに移り住み、双子の息子ロンダルとパドレイクが生まれる。3人の息子と教員の妻としての生活の中で、彼女の写真は子供たちと庭の植物を撮影することに限られていた。双子の誕生後、ピクトリアリズムから離れてシャープな焦点の写真を受け入れるようになり、アンセル・アダムス(1902–1984)、エドワード・ウェストン(1886–1958)、ウィラード・ヴァン・ダイク(1906–1986)などが結成した「グループf/64」に加わる。1934年、イモージンとロイは離婚する。ニューヨークに招かれ『ヴァニティ・フェア』誌の仕事をするが、すぐにカリフォルニアに戻る。ドロシア・ラング(1895–1965)や社会科学者のポール・テイラー(1895–1984)と一緒に木材協同組合を取材し、生涯にわたるストリート写真のシリーズを開始する。その後、シアトルで活動を再開し、ダラス美術館で個展を開催。1914年、ブルックリン芸術科学研究所で初の個展を開催した。カリフォルニア州サクラメントの E.B.クロッカー・アート・ギャラリーでも個展が開催された。イモージン・カニンガムはカラーの写真を撮り始める。彼女の写真は、サンフランシスコのトレジャー・アイランドで開催されたゴールデン・ゲート国際博覧会の「フォトグラファーズ展」に出品された。
戦時中、オークランドの家を売り、サンフランシスコのグリーン街にあった自宅にスタジオを構えた。その後13年間、彼女の作品は全米で展示され、ポートレートを撮っていないときはストリートフォトの仕事を続けていた。サンフランシスコのカリフォルニア美術学校で断続的に教鞭をとっていた。ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウスにある国際写真美術館が、彼女の作品を購入、そのお金で西欧と東欧を旅行しました。またポラロイドフィルムを使った実験も行っている。米国議会図書館が彼女の作品集を購入し、写真出版社の "Aperture" が彼女の作品のモノグラフを出版した。また全米芸術科学アカデミーのフェローに選出され、カリフォルニア芸術工芸大学(オークランド)より、名誉芸術学博士号を授与される。グッゲンハイムフェローシップを得て、初期のネガからのプリントを開始。ワシントン大学出版局が初の写真集『イモージン・カニンガム:写真』を出版、ニューヨークのウィトキンギャラリーで大規模な展覧会が開催された。スミソニアン博物館が彼女の作品の大規模なコレクションを購入。1976年6月23日、93歳でこの世を去った。
Imogen Cunningham's Photographs and her Short Biography | Weston Gallery
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