2021年10月19日

報道写真を芸術の域に高めたユージン・スミス

Welsh miners
Three Generations of Miners. A Welsh Coal-Mining Town, Wales, Great Britain, 1950

私は事実の記録者であるジャーナリストの態度と、しばしば事実と対立せざるを得ないアーティストの態度との間でいつも悩んでいる。私の主な関心事は正直であること、そして何よりも自分自身に対して正直であることです。(ユージン・スミス)

Eugene Smith (1918–1978)

ユージン・スミスは1918年12月30日、カンザス州ウィチタ生まれた。父親は小麦商を営んでいたが、13歳のとき、熱心な写真愛好家だった母親にカメラを与えられる。スミスが高校3年生のときに父親が自殺した。カメラに夢中になったが、それはおそらくスミスが悲劇的な喪失感に対処するためだったのだろう。若いながらも写真の才能はすぐに開花し、地元の新聞社に雇われて、スポーツ、航空、ダストボウルの惨状などを撮影した。その才能を買われて、スミスはノートルダム大学で写真を学ぶための特別な奨学金を得たが、最初の学期で退学してしまった。落ち着きのない彼はニューヨークに行き『ニューズウィーク』誌に採用された。その後『ライフ』誌と契約したが、フリーランスとして『コリアーズ』『アメリカン』『ニューヨークタイムズ』『ハーパーズバザー』などの定期刊行物にも参加した。その間に結婚し、二人の子供をもうけた。

Country Doctor
Dr. Ceriani visits his patients in their remote villages, Colorado, 1948

スミスは『ライフ』誌の戦争特派員として配属され、感情を込めた真実の写真が伝説となった。スミスにとって重要だったのは、心を込めて正確に戦争を撮影することだった。彼は太平洋とヨーロッパで26回の空母の戦闘任務と13回の侵攻作戦を陸、海、空から撮影した。写真は日本の雑誌にも掲載された。1945年5月22日、米軍の沖縄侵攻の際、撮影は中断された。手榴弾によって顔と手に重傷を負ったのである。幾度もの手術と回復のための苦しい2年間を経て、スミスはカメラを持つのがやっとの状態だった。しかしそれは希望と幸福のしるしであり、社会性のあるイメージを作りたいという必要性と欲求の高まりを感じていた。「初めて写真を撮ろうとした日は、フィルムをカメラに入れるのがやっとでした。しかし最初の写真は、戦争の写真とは対照的に、生きることへの肯定を語るものにしようと決意しました…」。負傷した後の最初の写真は、暗い森の中から出てくる幼い二人の子供を撮った『楽園への歩み』だった。この写真は、エドワード・スタイケン(1879–1973)が1955年にニューヨーク近代美術館で開催した「ファミリー・オブ・マン」展の最後の写真として選んだ、彼の最も有名で、最も愛されている作品のひとつである。

Village of Deleitosa
The Wake, Village of Deleitosa in Western Spain, 1951

仕事に戻ったスミスは、有名な「カントリー・ドクター(1948年)」「スペインの村(1950-51年)」「慈悲の人シュヴァイツァー(1954年)」「ピッツバーグ(1955–56年)」など、挑発的なフォトエッセイのシリーズを制作した。スミスは何週間もかけて被写体の生活に密着したが、これは当時としてはほとんど前代未聞のアプローチだった。スミスのフォトジャーナリズムの手法は最先端で素晴らしいものであったが『ライフ』誌の編集者との関係には苦労したようである。写真とそのレイアウトが、自分の個人的なビジョン以外のものであることを許さなかったのである。 同誌を辞めてフォトジャーナリズムの権利を支持し闘うマグナムに参加した。スミスは『ライフ』を退社した後も、3度のグッゲンハイム財団の奨学金を得て、フォトエッセイの制作を続けた。その中でも特に大きなフォトエッセイは、ピッツバーグの街を撮影したものだった。ピッツバーグに移り住み、このプロジェクトに夢中になった。

Pittsburgh
Dance of the flaming coke, Pittsburgh, Pennsylvania, 1955

11,000 枚以上の写真を撮影したが、このプロジェクトの後、肉体的にも精神的にも、そして経済的にも破綻してしまったのだった。写真は出版されず、マグナムとスミスの家族に混乱をもたらした。マグナムと家族のもとを去り、ニューヨークに移り住んで、窓からのイメージを次々と制作していった。より成功したフォトエッセイが「MINAMATA(1971-75年)」だった。アイリーン・美緒子・スプレイグと結婚、水俣をテーマにした熱のこもったプロジェクトを開始した。水俣湾の水は工業化によって水銀で汚染されていた。世代を超えて、恐ろしい欠陥を持った人々が生まれていたのである。このシリーズで最も有名なのが、胎児性患者の上村智子さん母娘の入浴シーンの写真である。アシスタントのアイリーンに直接聞いた話だが、自然光が差し込む時刻に、彼女が手にしたストロボで天井バウンスをしたそうである。喩えがいささか飛躍するが、事実を再現したロベール・ドアノー(1912–1994)の「市役所前のキス」に似た演出だった。しかしこの入浴シーンの写真で水俣病の悲惨を知ったことも事実である。 英国のハンウェイフィルムズが、ジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA」を制作、2021年8月、日本でも公開された。史実と違う描写があり議論になったようだ。映画は娯楽と言ってしまえばそれまでだが、映画もまた現代史の記録媒体だけに残念である。

Tomoko and Mother
Tomoko and Mother in the Bath, Minamata, Kumamoto, 1972

その後、スミスは数多くの賞を受賞し、教育や講演ために各地を訪れた。1977年にはアリゾナ大学で教えるためにアリゾナ州ツーソンに移り同大学の「創造的写真センター」でアーカイブを整理していた。1978年10月15日、スミスは致命的な脳卒中に見舞われた。彼は火葬され、その遺灰はニューヨーク州ハイドパークのクラムエルボー農村墓地に埋葬された。ユージン・スミスは、1984年に国際写真殿堂博物館に殿堂入りしたが、レンジファインダー誌がその名誉パネルのスポンサーとなっている。その革新的なフォトジャーナリズムと、フォトエッセイのスタンダードを確立したことが評価され、殿堂入りを果たしたのである。写真家兼ギャラリーキュレーターハル・グールド(1920–2015)は「20歳で有名になり、40歳で伝説となった」と述べている。1940年代から50年代にかけて、創造的な写真の最先端がフォトジャーナリズムに見出されていた時代に、スミスの深く人間的なスタイルの写真ルポルタージュは、フォトエッセイの表現の可能性を絶えず再構築し、大きな信用を得るまでに拡大したのである。アリゾナ大学の「創造的写真センター」がユージン・スミスの最大のコレクションを所蔵している。3,000 枚のマスタープリント、数1,000 点に及ぶネガフィルム、コンタクトシート、プルーフプリントやスタディプリント、ブックダミー、雑誌のレイアウト、手紙、カメラ、暗室の機材、記録などが含まれている。ユージン・スミス記念基金が設立され、人道的な写真撮影に貢献した写真家を表彰する助成団体となっている。フォトジャーナリズムを芸術の域に高めた写真家だった。

university Eugene Smith Online Collection | Center for Creative Photography | University of Arizona

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