Gordon Parks (1912–2006) |
工学部写真工学科の学生だった私は、写真関係のメーカーに就職できればと漠然と思っていた。ある日、担任の講師がグラフ誌『ライフ』を教材にした。ぱらぱらページをめくって目に止まったのが、リオデジャネイロの貧民街ファヴェーラのルポルタージュだった。撮影はゴードン・パークスだった。感激した私はこの時、撮る側に回ろうと決心した。そして私は報道写真の道を進んだ。パークスは私にとって生涯の師であり続けている。ゴードン・パークスは独学で芸術を学びグラフ誌『ライフ』やファッション誌『ヴォーグ』でアフリカ系アメリカ人初の写真家として活躍した。また映画監督や脚本家としても活躍し、自身が執筆した小説をもとにした映画 "The Learning Tree" や "Shaft" の監督を務めた。1912年11月30日、カンザス州フォート・スコットで生まれた。父親のジャクソン・パークスは野菜を栽培する農家で、一家は質素な暮らしをしていた。子どもの頃から激しい差別を受けていた。白人と隔離された小学校に通い、高校では人種を理由に課外活動に参加させてもらえなかった。教師たちは、アフリカ系アメリカ人の学生が高等教育を受けようとするのを積極的に阻止したのである。14歳のときに母親のサラが亡くなり、パークスは家を出た。
しばらくは親戚の家に身を寄せていたが、独り立ちしてからは、何でもいいから仕事を探していた。25歳のとき、雑誌に掲載されていた移民労働者の写真を見て、初めてカメラを購入した。ボクシングチャンピオンのジョー・ルイスの妻のファッション写真が目にとまり、ルイスはパークスに大都市への移住を勧める。1940年、パークスは妻のサリーとともにシカゴに移住したそしてシカゴのサウスサイドにある低所得の黒人居住区に興味を持ち始める。1941年、都心部の写真を評価され、農業安定局(FSA)の写真フェローシップを獲得する。その中にはアメリカ国旗の前に立つ FSA の清掃員を撮影した "American Gothic, Washington, D.C" など、パークスの作品の中でも最も印象深いものがある。FSA が解散した後も戦争情報局などのために写真を撮り続けた。ハーレムに移り住んだパークスは、ファッション業界で働きながら、街のイメージや人物を撮り続けた。
1948年にハーレムのギャングのリーダーを撮影したエッセイを発表したことで、全米で最も発行部数の多かったグラフ誌『ライフ』のスタッフフォトグラファーの座を獲得した。パークスは20年間この職にとどまり、ファッション、スポーツ、エンターテインメント、そして貧困や人種隔離などをテーマにした写真を制作した。多才なパークスは1969年、映画 "The Learning Tree" を監督、脚本、音楽も担当した。2006年3月7日、がんのためニューヨークで死去、故郷であるカンザス州フォートスコットに埋葬された。多くの人々にインスピレーションを与えた写真家として記憶されています。かつて「何千年も先の人々は、1930年代の私たちがどのようなものであったか、そしてその時代に私たちの歴史を形成した重要な主要事項を知ることになるでしょう。これは歴史的な理由で他のものと同様に重要なことです」という言葉を残している。
Gordon Parks (1912–2006) | Photography | Uncovering America | National Gallery of Art
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