Greyhound Bus with Rolleiflex 2.8F Planar 80mm Tri-X 1976
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Rolleiflex 3.5F Planar 75mm and Xenotar 75mm |
東松照明さんは篭から文鳥を取り出すと手のひらに乗せた。亜熱帯をテーマにした『太陽の鉛筆』をカメラ雑誌に連載してるころだった。「二眼レフというのはねぇ、おじぎカメラと言うんだ。ふつうのカメラはファインダーを覗くと直視する形になるだろ。二眼だと下を見るから相手は安心する。おじぎなんだよね。おじぎをして撮らせてもらうのさ」「ふーん」「スタッフカメラマンっていろいろたいへんらしいね。この間、毎日新聞のカメラマンもぼやいていたよ」「そうですか? そんなことありません、楽ですよ」。それにしても太陽の鉛筆ってうまい表現だなと私は思った。東松さんの部屋を辞して家路に着く。歩いてわずか5分だった。以上は1970年代中ごろ、新宿のど真ん中に住んでいたころの私的写真論への覚書である。私はかつてのハンドル twin_lens が示すように、二眼レフが好きである。ピンホールやゾーンプレート写真に浮気したり、たまにもっと大きなフォーマットで撮ったりするけど、やはり落ち着くのは二眼レフである。最初に手にしたのは確か中学生のときで、叔父から借りたミノルタオートコードだった。6x6センチの密着プリントが案外大きく見えた記憶がある。次に手にしたはローライフレックスだったが、ずっと時代は下って東松照明さんに会ってからだった。ジミー・カーターが大統領線に出馬した1976年秋、私はフレームザックを背負い、1台のローライフレックスを抱えてグレイハウンドバスの旅をした。いや、正確にいえば、西海岸のロングビーチの中古楽器屋で買ったフィドルがもうひとつの道連れだった。当時、1台だけ持って海外旅行すなら何をという質問には、ライカかローライと答えたものである。それを実行したわけだが、とにかく二眼レフは構造がシンプルで壊れ難い。
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ISBN: 1874031967 |
難点はボックス型のため、ごろごろして携帯にはやや不向きということだが。いやいや、まだまだある。ファインダーを覗くと画像が左右逆だし、パララックスの不安が付き纏う。それはともかく、約一カ月に渡った旅のお供は故障することもなく、無事日本に戻った。もっとも、その後このカメラは酷使し、今は手元にない。現在所持しているローライは3台で、そのうち2台は 3.5F で、もう1台は復刻機 2.8FX である。1929年に登場したローライフレックスは、1956年までに100万台以上を売ったという。毎年平均3.5万台、休日を除いた毎日120台が世界中の人々の手に渡った計算になる。第二次大戦後も売れたのは、1950年代までプロ写真家が使ったからだという。欧米のプレスカメラマンがローライを構えてる古い写真を見たことがある。スピードグラフィックが新聞社で使われたのは、大判のため、トリミングしても使用に耐えたからである。同じような理由で二眼レフが使われたのだろう。ローライの難点はレンズ交換ができないことだった。戦後、まさに雨後の筍のように生まれた二眼レフだったが、ローライを除いてすべて凋落してしまった。フランケ・ハイデッケ社はさらにプロ写真家の要望に応えて、テレローライ、ワイドローライを世に送った。これで安泰と考えたのだろうか。スウェーデン製中判一眼レフのハッセルブラッド、そして日本の35ミリ一眼レフに脅威を感じなかっただろうか。どう考えても一眼レフのほうが原理的に優れているからだ。1966年、6x6センチの一眼レフ SL66 を出したが、時遅しという感じであったようだ。翌1967年には35ミリのコンパクトカメラ、ローライ35を世に送って話題となった。しかし1981年、旗艦機として栄光を誇った 2.8F の製造がストップ、ドイツ製のローライフレックスは消滅した。それでも私はローライフレックスが好きである。何故だろう。
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