2023年4月10日

ハワイアン・スティール・ギターを考案したジョセフ・ケクク

Joseph Kekuku
Joseph Kekuku playing Hawaiian steel guitar

ジョセフ・ケクク(1874-1932)はハワイ州オアフ島の村、ラーイエで生まれた。15歳のとき従弟のサム・ナイノアとともにホノルルの寄宿学校へ入った。1889年、カメハメハスクールズに通っていたケククは、偶然スチールギターの音色を発見する。音楽誌 "Hawaiian Music In Los Angeles"(ロサンゼルスのハワイアン・ミュージック)の発行人であり、ハワイアン・スティール・ギターのために初めてオリジナル曲『ハワイアン・ラブソング』を作曲した C・S・デラノは1932年の記事で次のように述べている。

42年前、ケククは古いスパニッシュギターを抱えてホノルルの道を歩いていたとき、地面に錆びたボルトが落ちているのを見つけたという。それを拾ったところ、偶然にも弦の1本を振動させ、心地よい音色が生まれた。ボルトでしばらく練習した後、ジョーはポケットナイフの裏、スチール製の櫛の裏、さらにその後、今日使われているような非常によく磨かれたスライドバーで実験した。

1904年、30歳の時、ケククはハワイを離れ、二度と戻ることはなかった。彼はアメリカの西海岸から東海岸までのボードビル劇場に出演することから始めた。グループ名は "Kekuku's Hawaiian Quintet"(ケククのハワイアン・クインテット)で "The Affiliated"(アフィリエイテド)というマネージメント・グループがスポンサーになっていた。1919年、ケククはアメリカを離れ "The Bird of Paradise"(極楽鳥)ショーで8年間ヨーロッパを旅した。このショーはブロードウェイで始まり、ヨーロッパで好評を博した。1926年10月、ケククはユナイテッド・ステーツ・ラインズのオーシャンライナー、SSリパブリック号でアメリカに帰国した。

Kekuku's Hawaiian Quintet
A picture of the Kekuku's Hawaiian Quintet in a 1916 newspaper

10月3日の夜、大西洋横断の慣例である船員の慈善事業と米国俳優基金のための乗客主導の慈善コンサートに参加した。その時のプログラムには「ジョセフ・ケクク(ハワイアン・ギター・メソッドの創始者)」と記されていた。"The Bird of Paradise" は 1932年に映画化され、1951年にも映画化されているが、ケククはどちらの映画にも出ていない。1932年、ジョセフ・ケククは妻とともにニュージャージー州ドーバーに移住、ハワイアンギターのレッスンを行った。1932年1月16日、58歳で脳出血のためニュージャージー州モリスタウンで死去、オーチャード・ストリート墓地に葬られた。1993年、ジョセフ・ケククはハワイアン・スティール・ギターの発明者として、スティール・ギターの殿堂入りを果たし、その名誉を全うした。 2015年、ハワイのポリネシア文化センターに彼の像が建立された。ハワイアン・スティール・ギターから派生したカントリー音楽のペダル・スティール・ギター、ブルーグラス音楽のドブロなど、アメリカの大衆音楽に欠くことができない楽器になっている。下記リンク先はスミソニアン・マガジンの「ハワイアン・スティール・ギターはアメリカの音楽をどう変えたか」という興味深い記事(英文)である。ご一読を。

Smithsonian  How the Hawaiian Steel Guitar Changed American Music | Smithsonian Magazine

2023年4月8日

ハワイ王国の先駆的な写真家ジェームズ・J・ウィリアムズ

Hawaiian hula dancers
Hawaiian hula dancers with guitar and ukulele, sirca 1882

James J. Williams

ジェームズ・J・ウィリアムズ(1853-1926)は、イングランド生まれのハワイ王国の写真家だった。南北戦争後、一家はアメリアに移住、写真を学ぶ。1879年、サンフランシスコからハワイ諸島に渡り、写真家 I・W・テーバー(1830–1912)とジェイコブ・シェウ(1826-1879)のもとで働くようになる。船上でヴァイオリンを演奏し、乗客をもてなすなどして喝采を浴びた。1880年にホノルルに戻り、メンジース・ディクソン(1840年-1891)の写真スタジオで働くことになる。1882年2月、ディクソンの写真事業を買収し、J・ウィリアムズ&カンパニーと改名した。1882年に小冊子『ハワイ諸島の観光ガイド』を出版し、他の初期のガイドブックにも写真を提供した。スタジオとギャラリーはホノルルのフォート通りにあった。ウィリアムズは「ホノルルで唯一のギャラリーで、島の景色を完全にコレクションしている...」と宣伝していた。また、ハワイや南洋島の珍品、シダ類、貝類などの供給もあると宣伝していたが、広告に使われている年が1883年であることから、彼はこのビジネスを再スタートさせたと思われる。

Queen Liliuokalani
Queen Liliuokalani sitting on chair draped with feather ca. 1891

1888年、頻繁に被写体となったカラカウア王の時代に、ウィリアムズは王の勅許を得て月刊観光雑誌『太平洋の楽園』を創刊した。1893年まで編集者のフランク・ゴッドフリーとともに同誌のビジネスマネージャーを務めたのである。また人気のポートレートの被写体はカイ・ウラニ王女(1875–1899)やロバート・ルイス・スティーブンソン(1850–1894)などのビジターだった。また、風景写真も多く撮った。噴火する火山キラウエアやマウナロア、ボルケーノ・ハウス・ホテルまで重たい機材ががよく運ばれた。ウィリアムズは1926年4月19日、ホテル通りを横断中に路面電車に轢かれて亡くなった。遺体はオアフ島墓地に埋葬された。息子のジェイムズ・アンソニー・ウィリアムズは1883年に生まれ、1899年にホノルル・アドバタイザー新聞社に入社した。1904年3月23日にミニー・ランカスターと結婚し、後に同紙のチーフカメラマンとなる。そして孫のアレックス・ウィリアムズ(1988年5月没)は事業を継続し、ホノルル市の産業発展の写真を多く撮影した。

museum  James J. Williams (1853–1926) Photographs of collection | Hawaiian Historical Society

2023年4月5日

柴犬に追い払われた青い小鳥

doge
Elon Musk is now using the design of Twitter itself to make hilarious ? jokes.

ソーシャルメディア米ツイッターのウェブサイトで表示されるロゴが今月4日、同社のシンボル「青い小鳥」から暗号資産(仮想通貨)「ドージコイン」のロゴの「柴犬」に突然変わった。ロイター通信によるとドージコインが急騰し、時価総額が約40億ドル押し上げられたという。イーロン・マスクはの筆頭株主であり CEO(最高経営責任者)である。ツイッターは単に商売ではなく、公共性を持った言論プラットフォームであるので、ジョークにしてはいささか逸脱した行為である。英語の tweet(ツイート)は小鳥の囀りを意味するが、オーディオ装置の高音専用スピーカーも tweeter(ツイーター)と呼び。語源はおなじである。これと同様に、低音専用スピーカーは woofer(ウーファー)と呼ばれているが、これは犬の唸り声に由来する。

Musk & Twitter

青い小鳥よりも柴犬のほうが良いならいっそウーファーと改称したらいかがだろう。小鳥の囀りはいわば他愛無いお喋りで、創業当時のコンセプトだった。今や喧々諤々の議論が沸騰することがしばしばあるので、ウーファーこそ相応しい名称だと思えるからだ。ところで今年4月1日に従来の認証済みチェックマーク(いわゆる青バッジ)の削除を開始すると発表したが、昨日4日現在、まだ新旧の青いチェックマークが混在している。認証サービスへのサブスクをしないと宣言した New York Times の認証マークは削除されたようだが、同じ様に宣言した他のメディアにはまだついているのあるという。同様に Twitter Blue に加入しないと宣言したプロバスケットボール選手のレブロン・ジェームズのアカウントにもまだ青いチェックマークがついている。認証マークの削除のほとんどは手動プロセスで、自動で剥がせないようだ。下記リンク先は、マスクが有料の サブスクリプションの購入を拒否した New YorkTimes の青いチェックマークを削除したようだというフォーブス誌の記事である。

Forbes Musk Revoke N.Y. Times' Blue Checkmark For Refusing To Buy Paid Twitter Subscription

2023年4月1日

アマチュアの域を超えたリー・ムーアハウスのアメリカ先住民の写真

Lee Moorhouse collection
Lee Moorhouse collection of Indian costumes and artifacts, 1897-1920
Lee Moorhouse

リー・ムーアハウス(1850-1926)は、アメリカ合衆国オレゴン州ペンドルトンの写真家であり、ウマティラ族の居留地のインディアンエージェントであった。1888年から1916年まで、コロンビア盆地、特にオレゴン州ウマティラ郡の都市、農村、アメリカ先住民の生活を記録した9,000枚以上の写真を制作した。 アイオワ州マリオン郡に生まれた彼は、幼少の頃、オレゴン・トレイルを旅し、1861年に家族とともにワシントン州ワラワラへ。大人になってからは、鉱山労働者、測量士、牧場主、ビジネスマン、市民リーダー、不動産業者、保険セールスマンとして働いた。インディアンエージェントとして活動するほか、1879年から1883年までオレゴン州軍第3旅団の副司令官を務めた。ムーアハウスは自分をアマチュア写真家だと思っていたが、1880年代には趣味が生活の中でますます重要な位置を占めるようになった。彼はペンデルトンのプロの写真家であるウォルター・スコット・ボウマン(1865–1938)を知っていた。当時のアマチュア写真家とは異なり、ゼラチン乾板ネガ、大型カメラ、三脚など、プロが使うような面倒で厳密な機材を使いこなし、作品を制作した。

Cayuse and Shahaptian delegates
Cayuse and Shahaptian delegates in Washington D.C., 1824

彼の作品には、アマチュアの域を超えた鋭い眼差し、歴史への深い理解、自分の世界への強い関心が反映されていると批評家は考えている。上掲の写真の後列右端にムーアハウス自身が収まっている。ムーアハウスが撮影したカユース族、ワラワラ族、ウマティラ族の写真は特に重要である。この時代の他のアメリカ西部の写真家たちと同様、ムーアハウスは先住民の外見、衣装、生活様式を記録している。これらの特徴の多くは、西洋文化の圧力によって消えていくことになる。彼は当時の他の写真家と同様に、被写体をロマンチックに描き、個人的な視点を反映させるために撮影を演出し、そうすることで細部を改変して不正確なイメージを作り出した。

Edna Kash-kash
Edna Kash-kash, Cayuse tribe, Umatilla Reservation, 1890s

ムーアハウスの場合、先住民を扱った作品の2つの大きなカテゴリーに大きな違いがある。生前、彼の最高傑作とされた部族の人々のスタジオでの肖像画は、ポーズが硬く、おそらく本物ではないだろう。記録によると、ムーアハウスはアメリカ先住民の美術品の膨大なコレクションから、被写体が着ている服や持っている道具を提供した。一方、ウマティラ居留地での先住民の生活については、当時の先住民の衣服や住居を正確に再現している。また、この文化的対立の時代に先住民が経験した社会的・文化的変容の一端を記録している。その画像はウマティラ族の長老たちから過去の記憶を引き出し、先住民の文化のアーカイブとして活用されることが、最近認識されるようになった。ムーアハウスはまた、オレゴン準州の発展に関する重要な様々な画像を撮影した。牧場生活、特に小麦栽培を撮影した600枚の写真は、牧場主やその家、巡回労働者、畑での仕事を記録している。

Group of Umatilla tribe girls, Oregon, 1900

小さな町やコミュニティの生活、企業、学校、教会、機関車や自動車などのさまざまな交通手段など、多くの画像がある。サーカス、パレード、ワイルド・ウェスト・ショー、特にオレゴン州ペンドルトンのペンドルトン・ラウンドアップの写真には、社会的行事や娯楽が写し出されている。写真集を出版し、自分の作品をモチーフにしたポストカードを作成した。10万枚もの絵葉書が売れたと思われる。1930年代には、彼の写真300点が米国民族学局によって購入された。写真7,000点をムーアハウスi家が1948年にを寄贈、オレゴン大学図書館のスペシャル・コレクション&ユニバーシティ・アーカイブスで管理されている。また1958年頃、ウマティラ郡図書館に1,400枚の画像が寄贈された。以上ウィキペディア英語版の抄訳だが、下記リンク先のオレゴン州立大学の先住民ページに「アンプクア川先住民の歴史」などの学術論文が掲載されている。

Native American  History of Native Americans in the Umpqua Region | Oregon State University Disclaimers