ジョセフ・ケクク(1874-1932)はハワイ州オアフ島の村、ラーイエで生まれた。15歳のとき従弟のサム・ナイノアとともにホノルルの寄宿学校へ入った。1889年、カメハメハスクールズに通っていたケククは、偶然スチールギターの音色を発見する。音楽誌 "Hawaiian Music In Los Angeles"(ロサンゼルスのハワイアン・ミュージック)の発行人であり、ハワイアン・スティール・ギターのために初めてオリジナル曲『ハワイアン・ラブソング』を作曲した C・S・デラノは1932年の記事で次のように述べている。
42年前、ケククは古いスパニッシュギターを抱えてホノルルの道を歩いていたとき、地面に錆びたボルトが落ちているのを見つけたという。それを拾ったところ、偶然にも弦の1本を振動させ、心地よい音色が生まれた。ボルトでしばらく練習した後、ジョーはポケットナイフの裏、スチール製の櫛の裏、さらにその後、今日使われているような非常によく磨かれたスライドバーで実験した。
1904年、30歳の時、ケククはハワイを離れ、二度と戻ることはなかった。彼はアメリカの西海岸から東海岸までのボードビル劇場に出演することから始めた。グループ名は "Kekuku's Hawaiian Quintet"(ケククのハワイアン・クインテット)で "The Affiliated"(アフィリエイテド)というマネージメント・グループがスポンサーになっていた。1919年、ケククはアメリカを離れ "The Bird of Paradise"(極楽鳥)ショーで8年間ヨーロッパを旅した。このショーはブロードウェイで始まり、ヨーロッパで好評を博した。1926年10月、ケククはユナイテッド・ステーツ・ラインズのオーシャンライナー、SSリパブリック号でアメリカに帰国した。
10月3日の夜、大西洋横断の慣例である船員の慈善事業と米国俳優基金のための乗客主導の慈善コンサートに参加した。その時のプログラムには「ジョセフ・ケクク(ハワイアン・ギター・メソッドの創始者)」と記されていた。"The Bird of Paradise" は 1932年に映画化され、1951年にも映画化されているが、ケククはどちらの映画にも出ていない。1932年、ジョセフ・ケククは妻とともにニュージャージー州ドーバーに移住、ハワイアンギターのレッスンを行った。1932年1月16日、58歳で脳出血のためニュージャージー州モリスタウンで死去、オーチャード・ストリート墓地に葬られた。1993年、ジョセフ・ケククはハワイアン・スティール・ギターの発明者として、スティール・ギターの殿堂入りを果たし、その名誉を全うした。 2015年、ハワイのポリネシア文化センターに彼の像が建立された。ハワイアン・スティール・ギターから派生したカントリー音楽のペダル・スティール・ギター、ブルーグラス音楽のドブロなど、アメリカの大衆音楽に欠くことができない楽器になっている。下記リンク先はスミソニアン・マガジンの「ハワイアン・スティール・ギターはアメリカの音楽をどう変えたか」という興味深い記事(英文)である。ご一読を。
How the Hawaiian Steel Guitar Changed American Music | Smithsonian Magazine
0 件のコメント:
コメントを投稿